2021年8月15日(2)

映画『この子を残して』(1983年・木下恵介監督)は、被爆して亡くなられた永井隆さんの著書などから山田太一さんと木下恵介監督が脚色されたものです。永井隆さんが長崎医大で放射線の研究者で多くの肺結核の患者のレントゲン写真を撮り、それにより白血病になっていたのは知りませんでした。永井隆さんは放射線の利用価値とその恐ろしさを体験していたわけです。

奥さんに二人の子供たちを託していたのに奥さんは8月9日に原爆のため先に亡くなってしまうのです。永井さんは自分が死んだ後のことを考えて息子さんには特に自立を心がけて育てられ、映画では義母との意見の相違も生じていたりしました。

著書『この子を残して』と映画では多少違ったところも見受けられ、木下恵介監督は自分なりの反戦映画とされています。永井隆さんの著書は戦争孤児、原爆孤児に対する考え方に自分の子であったならという見方を人々に思い起こさせたと思います。ただ著書『この子を残して』での永井隆さんの原子力に対する考え方には少し疑問を感じた部分もありました。もし永井隆さんが福島の原子力発電所事故を知ったならどう考えられたであろうかとも思いました。

最後までカトリック信者として現実に真摯に向きあわれ、我が子のゆくすえや孤児にとって大切な事は何かを自問自答しつづけられていました。

映画『爆心 長崎の空』(2013年・日向寺太郎監督)。 我が子が具合が悪くなりあっという間に亡くなってしまった母親と、母からの携帯の電話に出なかった娘が帰ったら母が亡くなっていたという喪失感から自分を責める二人が出会います。子を失くした母親は被爆三世でそのことと関係があるのではないかと新たに宿した命をこの世に誕生させることに迷うのです。

出会った二人には、他の人には見えない者が見えていて、自分と同じに感じている人がいることがわかり、救いの一つとなり、周囲の人の考えも受け入れることができるようになるのでした。

映画『夕凪の街 桜の国』(2007年・佐々部清監督)。原作が『この世界の片隅に』のこうの史代さんで、淡々としていながら言いたいことはしっかり台詞で語っています。原爆は「落ちたのではなく落とされたのよ。」被爆した家族と生き残った家族の物語がこれで終わったわけではないと続きます。

自分の祖母と母が被爆していたことを知らされていなかった娘が黙って家を出る父の後をつけます。父は夜行バスで広島に向かいました。娘は友人と偶然再会し一緒にバスに乗り込みます。父は娘の知らない人々と会い、お墓参りをします。その追跡の旅で自分の記憶と照り合わせ、娘は自分の家族や血縁の人々に何が起こっていたかを知るのでした。

ドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』(2007年・スティーヴン・オカザキ監督)。60年前に被爆した子供たち14人がその時の事とその後を語ってくれます。残された映像記録の中に火傷を治療されている映像があり、治療の時にはあまりの痛さに「殺して!」の声が響いたそうですが、そうであろうと本当に思います。

原爆投下に係った4人の元米軍関係者の告白もあり、原爆の威力は誰も知らなかったことなのです。

スティーヴン・オカザキ監督の自身へのインタビューによりますと、この映画を撮るまでに25年の歳月が必要でした。被爆との出会いは、1980年代初めのサンフランシスコでの平和運動の中で友人達が中沢啓治さんの『はだしのゲン』の英訳に取り組んでいて、その作品に感銘を受けたのが最初だったそうです。中沢啓治さんも被爆者の一人として映像の中で当時の惨状を語られています。

その後、スティーヴン・オカザキ監督は「米国原爆被爆者協会」の会合を見学できるか問い合わせたところ、見知らぬ人がいると会員は落ち着かないので、あなたの映画を上映してはと言われ、子供用の短編映画を上映します。その時一人の女性会員から、自分たちの体験を世界に伝えるためにあなたは被爆者の映画を作るべきですとの発言があり、全員が賛成し、そこからやらなければならないと思われたそうです。

スティーヴン・オカザキ監督の短編映画を観た方たちは、この監督なら自分たちの想いを伝えてくれる映像を作ってくれると信頼したのでしょう。

それから10年経ち、スティーヴン・オカザキ監督の作品がアカデミー賞の短編映画賞を受け注目をされ、次は何を摂りたいかと聞かれ「原爆に関するドキュメンタリー」と答えます。

原爆投下から50周年にあたる1995年公開に向けて準備されますが、アメリカのスミソ二ア航空宇宙博物館での広島・長崎の被爆遺品や資料の展示が企画の段階で反発され、それが影響してスティーヴン・オカザキ監督の映画の制作側が手をひいてしまいます。

スティーヴン・オカザキ監督は自主製作で短編『マッシュルーム・クラブ』を撮ります。たとえ見る人がいなくても被爆者たちへのお返しになると思っての事でした。

アメリカの大手ケーブルテレビHBOから広島と長崎を撮らないかという話がきて監督の想い通りに撮って良いということで原爆投下60周年に向けて始動します。映画は完成し本作品は全米ではテレビで放送され、日本では劇場公開となりました。

政治的思惑の無い、体験した人がその事を伝え記憶に残してほしいとの想いが伝わるドキュメンタリーです。映画の始めに日本の若者たちに1945年8月6日と9日は何の日か知っていますかと聞きますが知っている人はいませんでした。

そういう私も2017年にこの映画が劇場で公開された時には観ていないのですから、若い人にとやかくいうことはできません。よくスティーヴン・オカザキ監督はこのドキュメンタリーを撮って残してくれたと思います。

アメリカでは真珠湾攻撃をして戦争を始めたのは日本人なのだから当たり前と思っている人が多いと想像できるなかで、この映像を観て違う目線で考えてくれる人もあるでしょう。忘れ去られてはいけないという信念の力であろうかと思います。

人は楽しい事の方が良いに決まっています。しかしきちんとした記録があればいつかそれを眼にし、立ち止まって振り返る時間を持つことが出来ます。

永井隆さんは『この子を残して』の最期に書かれています。

「この兄妹が大きくなってから、私の考えをどう批判するだろうか? 五十年もたてば、今の私よりずっと年上になるのだから、二人寄ってこの書をひらき、お父さんの考えも若かったのう、などと義歯を鳴らして語り合うかもしれないな。」

自分を批判するほどまでしっかりと生きてほしいということでしょう。映画ではしっかり生きて自分の道を歩まれる二人の兄妹が映されます。

テレビの特集や映画などを観ているとそれが重なってやっとそういうことであったのかと思うことがあります。時代も変わりますし、制作意図の思惑があったりしますので、目にすること聞くことがあれば、それを受け入れ自分の中で新たに知ったり考えるのが必要かと思います。たとえそれが1年に1回でも3年に1回でも。忘れてはいけないことでしょう。どんなときも弱い人たちがさらに苦しい立場に向かわなければならないということは悲しいことに変わらないのでしょうか。

戦争、災害、事故、病気、そして今回のような感染症なども。