義民・佐倉宗吾の『宗吾霊堂』

友人と月に一回は会いましょうということになり2回実行したところで新型コロナのため中断。そろそろということになり、人出が多くなったので場所は下りにということになり、友人は宗吾霊堂は行っていないので行きたいということになりました。

友人は歌舞伎を時々観ているので吉右衛門さんの舞台が浮かぶとも言います。私も吉右衛門さんの宗五郎が一番印象に強いです。吉右衛門さんの情の出し方は特別ですから。(歌舞伎『佐倉義民伝』)

宗吾霊堂は正式には「鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂」といい、今は佐倉宗吾(本名木内惣五郎)さんをまつっています。東勝寺は桓武天皇の時代に、征夷大将軍坂上田村麻呂が房総を平定したとき戦没者供養のために建立したとあります。ここも桓武天皇の時代につながっていて驚きです。3回目ですが、最澄さんに注目しなかったら今回も、そうなのですか、古いのですね、で終わったでしょう。

仁王門を入る手前の右手に宗吾親子のお墓があります。このお墓の場所が宗吾さんと子供4人が処刑された場所で、東勝寺の住職澄祐(ちょうゆう)和尚が遺骸を刑場跡に埋葬されたということです。

どうして処刑されたかと言いますと、悪政のために領民が苦しめられ、それを佐倉宗吾さんは、寛永寺で四代将軍家綱公に直訴します。直訴はご法度で死罪と決まっていたのです。命をかけても領民の窮状を訴えなければならなかったのです。

色々史実があるようですが、今日伝えられているのは、当時の人々が求める宗吾さんの理想像ということでしょうが、悪政に立ち向かう義民の代表として心の支えとなってきたのです。浪花節、講談、歌舞伎などでも評判となり伝承され広く伝えられてきています。

仁王門。仁王像は鋳造、金箔仕上げで、我が国唯一の金色仁王像だそうです。首に飾り物のある仁王様でした。

本堂。

「宗吾御一代記年館」がありまして等身大の人形で13場面が紹介されています。スイッチを押すと場面の様子が流れます。友人が歌舞伎で一番記憶に残っている甚平渡しの場が故障で音声が流れず残念がっていました。

宗吾さんほか名主たちが江戸の佐倉藩主・堀田正信公の上屋敷に嘆願に行くのですが却下されてしまいます。直訴しかないと宗吾さんは決心するのです。そのため家に戻り妻に離縁状を渡し子供たちと最後の別れをしようとしますが、印旛沼の渡し舟は鎖でつながれてしまい渡れなくされていました。渡し守の甚兵衛さんは、これまた自分の命をかけ鎖を切って渡してくれるのです。いい場面です。

歌舞伎の名場面と重なるので、友人は、歌舞伎を観ているので心にしみるといっていました。たしかにそうです。

「宗吾霊宝殿」には各界の著名人の色紙に書かれた「義」が展示されています。

締めは霊堂すぐ前の『甚兵衛そば』で、甚兵衛そばを食しました。のどごし好いおそばに甘めのつけ汁で、ちょっとくせになるような御蕎麦でした。庶民的お値段に人情味を感じさせてくれ、青空の広がる心地よい散策となりました。

友人は、宗吾さんが立派に祀られているのに感動し満足したようですが、しきりに死んでから謝ってもダメよといっていました。ごもっともです。

京成線宗吾参道駅から歩いて10分位です。特急は停まりますが、快速特急は停まりませんのでご注意を。焦ってしまいました。