新しいことに挑戦・平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵(3)

間宮林蔵は、茨城県筑波の貧しい農家の子として誕生しました。読み、書き、計算は得意で、道の幅や川の深さなどを竹ざおで測ったりして調べるのが好きでした。彼もまた出世を夢見る子供でした。

ラクスマンが漂流民・大黒屋光太夫たちを連れて根室に来航したのは、1792年10月です。漂流民を帰す事と通商を求めることが目的でした。松前藩は通商ついては長崎に行ってくれといいます。ラクスマンは黒太夫たちを降ろしロシアへ帰っていきます。

日本にもどった漂流民は光太夫の後にもいましたが有名にならなかったのは体験を表現する力が弱かったからとされています。

こうした状況もありよくわかっていない蝦夷地を幕府も知りたいと思っていました。そのため忠敬の蝦夷地測量の願いも許されたわけです。

そのころ世界の探検家が行っていないのは北極と南極と樺太(からふと)を中心とした一帯でした。

林蔵は測量術にたけた幕府の役人・村上島之丞の従者になります。林蔵は島之丞に従って蝦夷に行き函館で忠敬に会うのです。忠敬は身分は農民で役所はそれに浪人と加えました。農民では許すわけにいかないからです。林蔵は蝦夷地御用雇(えぞちごようやとい)という低い地位でした。二人は意気投合し、林蔵は忠敬を師とし、忠敬は林蔵を「親せきのごとき者」とし測量をおしえました。

そして林蔵は樺太が島であるか陸続きの半島であるかを自分で確かめたいと思うようになります。

択捉(えとろふ)と国後(くなしり)は忠敬の測量でわかりましたが樺太がわかっていないのです。一回目の探検は、先輩の松田伝十郎と二人でした。一応島としましたが実際に船で通ってはいないのです。林蔵は一人で二回目の樺太探検に出かけます。そして間宮海峡発見者となるのです。さらにシベリアまで渡り江戸へもどり『東韃地方紀行(とうたつちほうきこう)』を表します。

伊能忠敬も同じですが、林蔵の探検は簡単には言い表せられない苦労にみちていました。それだけに有名になった林蔵は体験談をことあるごとに話、絶頂期でした。しかしねたみもありました。そんな中、忠敬はもっと難しい測量術をおしえます。林蔵は忠敬が途中までしかできなかった蝦夷の測量をし終え無事忠敬に届けます。

しかし、「大日本沿海與地全図」の完成を待たずに忠敬は亡くなり、完成させたのは至時の息子の天文方・景保で忠敬の作成した地図として1821年に幕府に提出したのです。

長崎の出島では、オランダ、中国、朝鮮の船の入港を許していました。西洋でどうしてオランダだけかといいますと、オランダはキリシタンの宣教師を連れてこず、貿易だけをしたからです。

シーボルトがドイツ人でありながらオランダ陸軍軍医少佐として出島のオランダ商館医師として入港したのが1823年です。シーボルト家はドイツでも知られた名門でシーボルトは日本のことを知りたくてオランダ国王に願い出て許可をもらってオランダ人としてやってきたのです。

シーボルトは医学だけではなく万有学者でもありました。歴史学、地理学、動物学、植物学、物理学、化学と分けられていなくてそれら全てを万有学者は勉強し研究していたのです。

シーボルトは、自分の医術や学問を新しい知識を求める日本の若者に教えました。その中心が出島の外にある鳴門塾でした。貧しいものや各地の大名のおかかえ医師たちも派遣されて学びに来ていました。

オランダ商館の人々は5年に一度江戸にいる将軍お目見えのための江戸参府がありました。もちろんシーボルトも参加します。自由に行動できないシーボルトは長崎から出て日本を見れるのです。

医学の勉強をしつつ弟子たちは万有学の助手としても協力していました。江戸までの道すがら弟子たちが珍しい植物や動物や鉱物などをもってきてくれました。その中にオオサンショウウオがありました。場所は鈴鹿峠を越えた坂下宿でした。

私がこの情報を得たのは東海道を歩いていた時の鈴鹿馬子唄会館だったとおもいます。

シーボルトはサンショウウオを初めて見ます。それもオオサンショウウオです。偶然出会わしたのかと疑問に思っていましたが、やっとナゾが解けました。オランダの博物館でオオサンショウウオは名物になりました。30センチくらいのものが十年ほどで80センチ以上になったそうなんです。

シーボルトは沢山の物をオランダに送っています。帰ってから色々調べ本にしようとおもっていたのです。外国から日本に入ってくるときは厳しかったのですが出ていくときは調べがなく、船で送る荷物も調べなかったようです。

シーボルトの医術の素晴らしさや博識なことは有名になっていますから、江戸滞在中訪問する人が多数いました。訪問者の望む資料や器具などを与えつつ、シーボルトの欲しい物も要求しました。

高橋景保もシーボルトと会いました。そして世界情勢から「世界一周記」(クルーゼンシュテルン著)の書物や地図を譲ってもらいたと伝えました。シーボルトは、伊能忠敬の日本地図のことは知っていましたから、条件として日本地図を要求しました。

日本の地図を持ち出すことは禁止されていました。「伊能地図」も幕府が管理し公表してはいないのです。景保は、日本にとって世界の新しい情報は必要だと考えシ-ボルトの条件を受け入れ日本の地図を渡しました。

追記: 映画監督の恩地日出夫さんが亡くなられました。恩地監督の講演を聞いたことがありますのでその時の様子が目に浮かびます。講演のあと『「砧」撮影所とぼくの青春』も読ませてもらい、映画『四万十川』も観ました。四万十川の暴力的な氾濫の描写と人のいとなみのけなげさが見事でした。(合掌)

水木洋子展講演会(恩地日出夫・星埜恵子) (1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)