幕末の先人たち(1)

深川の地図から伊能忠敬さんの日本地図の話になって児童書がどんどん幕末の全国版へと運んでくれます。先ずはかつての築地外国人居留地へ。

外国人居留地というのは明治元年にできた外国人が住むための治外法権の特別区域という場所です。現在の明石町がその跡地で今は様々な記念碑などがあります。

朱丸の「浅野内匠頭屋敷跡」「芥川龍之介誕生の地」「蘭学事始めの地」「シーボルト記念碑」。緑丸は「慶應義塾発祥の地」。紫丸は中央保健所集合施設6階に「タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)」があります。

「蘭学事始の地」と「慶應義塾発祥の地」というのはここに豊前中津藩奥平家の中屋敷があり、中津藩医の前野良沢が杉田玄白らとここで「解体新書」を完成させた地とし、さらに中津藩の福沢諭吉がここで家塾を開いたのに由来しているようです。

「シーボルト記念碑」は江戸に来たことで追放されるということになりましたが江戸蘭学への功績は大きかったということなのでのしょう。聖路加病院のそばというのも医者としてのシーボルトにとっても好い場所なのかもしれません。

この近くにはミッション系の学校が多くあったようでその学校の発祥の地としての碑があるようです。かつて私が行ったときは「タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)」が見たかったのでその他はなるほどなるどと軽く立ちどまる程度でした。

タイムドーム明石」の常設展の記憶が薄らいでいますが、楽しめました。たしか外国人居留地に建てられた日本で最初の洋風ホテル「築地ホテル館」の模型があったような気がするのですがどうでしょうか。一番の興味をひかれたのは長谷川時雨さんです。彼女が日本初の女性歌舞伎脚本家であると知りました。

この辺りは江戸時代に築地鉄砲州と言われていた場所です。

浮世絵と現在を写真で比較する素敵なサイトを見つけました。地形が残っているとこういう楽しみ方ができるのですね。『鉄砲洲築地門跡』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第72回 | nippon.com

新しい知識を学びたいとしても武士の場合所属していた藩によって様々な経緯をたどります。そして時の老中によっても方針が違ってしまいます。幕府の財政は立て直しが必要で、もちろん各藩もひどい状態でした。次々と改革方針が出されますが、それにより藩はさらに圧迫されそれがお米で税金を納めている農民に押し付けられます。

藩は豊かになった商人から御用金を要求し、商人は献上することによってさらに商売のための権利を得ていきます。さらに外国との密貿易へと進んでいきます。藩は都合が悪くなると落ち度をみつけおとがめとし財産没収となります。藩は違う商人に権利を与えさらに上納金を納めさせるという構造になっていきます。

そんな構造がみえたのが加賀の商人の銭屋五兵衛に関する本を読んだからです。夢をもって商売に成功したかにみえた銭屋五兵衛もその構図にからめとられます。

各藩が恐れたことが起こりました。それに間宮林蔵がかかわっていました。1836年(天保7年)竹島を舞台にした浜田藩(島根県)の密貿易がおもてざたとなりました。藩の御用をつとめていた廻船問屋・会津屋清助と藩の勘定方・橋本三兵衛が死罪。さらに藩主は奥羽の棚倉藩(福島県)に国がえとなったのです。間宮林蔵の密告によるものでした。藩にまで類が及ぶとなれば由々しき事と商人は使い捨てとされるわけです。

加賀藩が銭屋から没収した額は10万両で500億円といわれます。幕府も貿易を考えなければ成り立たない財政状況になっていたのです。

大飢きんもあり農民は自分の食べるものもありません。飢えないためにジャガイモの栽培をすすめたのが高野長英です。サツマイモは甘さがあるのですがジャガイモは味がなく人気がなかったようです。

高野長英は岩手県奥州市水沢で生まれ勉学に燃え、シーボルトの鳴門塾で学び塾の中でも優秀でした。シーボルトが追放されたあとオランダ嫌いの水野忠邦が老中となり蘭学者たちはにらまれます。そして幕府を批判したとしてとらえられます。これが「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」です。長英ははじめは逃げますが、捕らえられた仲間のこともあり無実を訴えるため自首します。

しかし捕らえる側に許すなどという考えはありません。終身牢の中という永牢と決められてしまします。牢が火事になったとき長英はそのまま逃亡してしまいます。逃亡しつつ多くの蘭学の書物を訳します。蘭学に理解のある薩摩藩主島津斉彬や伊予宇和島藩主伊達宗城にも認められ庇護をうけますが、脱獄していることもあり江戸で見つけられ捕り手に囲まれこれまでと自刃してしまいます。

高野長英と共に蘭学者の集まり「尚歯会(しょうしかい)」に参加していたのが渡辺崋山です。渡辺崋山は画家として目にするのでどうして「蛮社の獄」と関係するのかわからなかったのですが、崋山は三河国田原藩(愛知県田原市)の藩士で家老にまでなるのです。ジャガイモの栽培で農民の餓死をふせぎ藩主からも認められました。

田原藩上屋敷内で生まれますが貧しく、絵で収入を得ようと祭りの灯篭絵のアルバイトをしたりして絵の勉強もします。その絵も洋画の手法で日本画を描くということを探求し、人物画もその人の本質を見据えて描くという新しい考えでした。蘭学も学び、藩の役職が上がるにしたがって日本の先行きを心配するようになるのです。

もう少し前の時代なら藩から抜けて画家として立つこともできたでしょうがそういうこともままならぬ時代でした。「尚歯会」参加者は皆にらまれていて渡辺崋山は田原藩でのちっ居と決まり田原に送られます。ずっと江戸暮らしで田原藩では崋山は大罪人としてしか受け入れられませんでした。彼はついに命を絶ってしまいます。

テレビドラマ『河井継之助 ー 駆け抜けた蒼龍』を観てみようという気になりDVDをレンタルしました。勘三郎さんの間の良いリズミカルなセリフと演技に、これでしたねと堪能しました。この勘三郎さん好きです。

ひょんなことで知り合った女性の吉田日出子さんが、継之助に言うんです。あんたは両目だと見えすぎちゃうから片目で見るくらいが丁度いいよと。なんか勘三郎さんの歌舞伎の先が見えて急ぐのとぴったり当てはまるような気がしました。

継之助は戦さを何とかして避けたいと思っていたんです。理想論と言われますが、理想がなくてあの時代を生き抜けるでしょうか。藩の上に立つ者が。そして領民を戦さから守るためには。

三津五郎さん、彌十郎さん、七之助さん、勘九郎さん、獅童さんや現代劇の勘三郎さんの役者仲間の方々も出演していて一つの時代だったなあと感慨深かったです。そして新しい時代が続くんですね。

河井継之助の映画が作られたのですね。楽しみです。

映画『峠 最後のサムライ』公式サイト 2022年公開 (touge-movie.com)

追記: 福沢諭吉さんて有名度の高さでの部分で知っていますが、本当はよく知らないのです。勘三郎さんが勘九郎時代にテレビドラマ『幕末青春グラフィティ 福沢諭吉』で福沢諭吉を演じているので観てみました。大阪の緒方洪庵の「適塾」での青春群像の一団から選ばれて中津藩の江戸での蘭学の家塾を任され、さらにアメリカへ幕府から派遣されて使節団として渡米し身分にとらわれない「自由」を握りしめるのです。

ドラマとしても面白かったのですが、勘三郎さんの演技は受けも良いのだと気づかされました。受けがいいのでそこからの踏み出しもいいのです。踏み出しの自由自在さが観ている者に負担を掛けず引き込んでくれます。そして理屈抜きのエネルギッシュさです。