本の出会いの力

本との出会いが疑問点を解明してくれた。

小村雪岱さんの「日本橋檜物町」の本に出会い、花柳章太郎さんが舞台「日本橋」の為に現日本橋西河岸地蔵寺教会にお詣りした事を知り、ぶらりぶらり『日本橋』 (1月5日)にその事を書いた。

<深とした静かな雪の夜。小さい御堂に揺らぐ燈明の灯りのかすかな光り、鼻をかすめてゆく線香のにほひ、色あせた紅白の布を振るとガンガンと音を立てる鰐口をならしてお千世の成功を祈った。>と花柳さんは書かれていた。

日本橋西河岸地蔵寺の案内文には<板絵着色 お千世の図額 大正4年(1915)3月本郷座で初演 当時21歳無名であった花柳章太郎はお千世の役を熱望し、劇と縁の深い河岸地蔵堂に祈願した。この劇でお千世役に起用されて好演。これが出世作となる。2度目のお千世役 昭和13年の明治座のさい奉納。>とあり、花柳さんの文章とは少しことなる。役をもらう前か後か。どちらもとしておくことにする。

[どちらもとしておくことにする。]の、案内板の元となる花柳さんの文章を見つけた。見つけたというより出合ったのである。その本は「わたしのたんす」(花柳章太郎著)。

「日本橋お千世の衣裳」の中に次の一文がある。

<私は「日本橋」が上演されると聞き、何とかしてお千世の役が自分につくように、西河岸の延命地蔵へ願をかけました。二月の末の大雪の降る日、ちょうど満願で、夜の十時ごろでしたか、ほのかに燈明の灯る堂の前にぬかずいて、一心に祈っていた二十歳のそのときのことを忘れません。><お千世「花柳」と呼ばれた時は、天にものぼる嬉しさでした。> 花柳さんは役をもらう前も後もお詣りしたのである。案内板はこの文も参考にしたのであろうか。

この本は舞台衣裳の事が書かれている。お千世の衣裳については次のようにある。

<そのころの大部屋の役者に、衣裳の新調など決して許しませんでした。その前例を破って新しく作ってくれましたのも師匠(喜多村緑郎)のおかげでした。しかし半襟、前掛、帯揚までは新しくしてもらえませんので、鹿の子の半襟、帯揚げを買いましたら自分の一芝居の給金を全部はたいてしまいました。>あとはゆっくり楽しんで読むこととする。

古本屋で江戸初期の画家岩佐又兵衛の 名が背表紙にあり、その本を天井下から取ってもらったが思い描いていたものと違い返して、つらつら見ていたら「わたしのたんす」に出合ったのである。もし、岩佐又兵衛の本が意に叶っていたら「わたしのたんす」には出会わなかったであろう。<岩佐又兵衛>の方は錯綜している。【傾城反魂香】の浮世又平のモデルとも云われている人である。

 

 

新橋演舞場 『壽新春大歌舞伎』 (2)

【寿式三番叟】(ことぶきしきさんばそう) 我當さんの翁、風格があった。足が少し弱られたようだが上半身の動きが、体が覚えこんでいる事を示し、袖を巻いて手を頭上に上げる形も優雅にきまった。かなりの年齢になられても、重ねてきた時間を体は知っているのである。

YouTubuで、中村芝翫さんと中村雀右衛門さんの「吉原雀」を見たがどこをとっても善い形である。何回も一時停止してみたがお二人とも長唄と三味線に乗ってゆったりと踊られ形善く停止するのである。点の集まりが線であるが、線が点の集まりであることを教えてくれる。長年の修業の積み重ねの線である。

【車引き】 時平・富十郎さん、松王丸・幸四郎さん、梅王丸・吉右衛門さん、桜丸・芝翫さんの時の舞台の大きさが頭に残っていて、どうしても今回は小さく見えてしまう。その中で桜丸の中村七之助さんの台詞は桜丸の悲哀がよくわかった。何れ彼は責任を取って切腹するその気持ちが、すでにここであるのだと思わせられ胸にきた。梅王丸・坂東三津五郎さん、松王丸・中村橋之助さん。

【戻橋】  渡辺綱(幸四郎)が一条戻橋で美しい女(中村福助)に会い、その女が水鏡をし、その水に映った影から怪しいと感じる。実はその女は鬼女で、綱が鬼女の片腕を切り落とし、鬼女は宙を飛ぶという話で期待したのであるが、筋通りで面白みに欠けた。

【ひらかな盛衰記 逆櫓(さかろ)】 「ひらかな盛衰記」は木曽義仲の滅亡とその遺児を巡る話と、梶原家(梶原景時)の家族劇とからできている。<逆櫓>は、義仲の遺児・駒若丸が大津で漁師の子・槌松(つちまつ)と取り違え、駒若丸は漁師権四郎(松本錦吾)の孫として育っている。そこへ義仲夫人・山吹御前の腰元・お筆(福助)が駒若丸を引き取りにきて、山吹御前ともに槌松も駒若丸の身代わりとなって死んだことを伝える。権四郎とお筆のやり取りは漁師と武家のやり取りで、この福助さんが光る。こういう腹のある女性役が似合ってきた。

嘆き腹ををたてる権四郎。ここで婿の松右衛門(幸四郎)が駒若丸を抱いて現れる。松右衛門は実は義仲の家臣・樋口次郎兼光であると明かす。松右衛門は梶原から義経の船の船頭に取り立てられている。権四郎からなっらた逆櫓という技術の御蔭である。松右衛門は義仲の仇・義経を討とうとしている。ところが梶原は樋口と解かっていて捕らえようとする。権四郎はそれより早く畠山重房に訴人し、駒若丸を槌松として助けるのである。槌松の父は死んでおり、その後で松右衛門は婿に入っており、槌松の実の父ではないのである。この物語は漁師の権四郎と武士の松右衛門の話でもある。漁師の生き様、武士の情け、その辺りをもう少し交差して欲しかった。その綾の彩りが薄かったのが残念だ。

【釣女】 重厚な舞台が続くので最後は肩の凝らないものをという配慮であろう。軽くさせてもらった。橋之助さんの大名がおっとりとして世間知らずでよい。殊更笑わせようとしないのが却って品があってよい。三津五郎さん、又五郎さん世代は、かなり重い伝達役の年代で、これからの一層の飛躍を期待される立場にある。

 

 

 

新橋演舞場 『壽新春大歌舞伎』 (1)

今回印象に残ったのは、<四世中村雀右衛門一周忌追善狂言>の【傾城反魂香】と【仮名手本忠臣蔵 七段目 祇園一力茶屋の場】での中村吉右衛門さんと中村芝雀さんのベストコンビである。

【傾城反魂香】では、お二人は浮世又平(吉右衛門)と女房お徳(芝雀)の夫婦愛を情愛深く演じられた。絵の師・土佐将監光信(中村歌六)に物見をせよと命じられ、又平は花道の七三に正座し見張りをする。この時の又平は、キッと目を見開き瞬きもしない。この辺からも又平の物事に対する真面目さ真摯さがわかるのだが、お徳はその又平をじぃっと背後から見守り又平がミスなどしないようにと見詰めている。その間、雅楽之助(うたのすけ・大谷友右衛門)が土佐家に関係する姫が悪人にさらわれたとその様子を説明をする。お徳はそちらには目もくれない。その夫婦一心同体の様はその後の場面で発揮される。又平が師から拒絶され絶望するとき、自分も一緒に死にますから最後に自画像を描いてくださいとお徳は言う。お徳の言葉を素直に受け入れる又平の気持ちが、それまでのお徳の行動から無理なく伝わるのである。さらに呆然自失の又平をしっかり世話し、手水鉢の絵が抜けた事を知らせるのもお徳である。女房お徳が居なければ又平の出世は在り得なかったのである。

この話はお家騒動も絡んでいるらしいがその辺りは詳しく調べていないので、又平の吃音の苦しさと、その苦しみを理解する女房のお徳との夫婦愛として観た。この又平の吃音の嘆きは映画『英国王のスピーチ』を遅ればせながら観ていたのでその内面性なども思いやりながら、吉右衛門さんの演じる又平の心の内を推し量る。。時代を越えてその表出は共通していると思えた。

【祇園一力茶屋の場】では、お軽(芝雀)と寺岡平右衛門(吉右衛門)との兄妹愛である。平右衛門は由良之助(松本幸四郎)の東下りに同行を願い出るため由良之助が遊ぶ一力茶屋をたずね、妹のお軽と会う。お軽の父は勘平の為にお金を作ろうと娘を祇園に売ったのである。その父は殺され、勘平は自分が鉄砲で間違って舅を殺したと勘違いし切腹している。父の死も勘平の死もお軽は知らない。親と夫を想うけなげなお軽。それを思いやる兄。情が滲み出る。さらにこの兄妹に試練が。お軽は由良之助に身請けされるという。由良之助が読んでいる手紙をお軽が二階から鏡で読んでしまったからである。平右衛門は理解する。由良之助は読まれては成らない手紙を読まれたので、身請けしてから殺すのだと。平右衛門は、由良之助に殺されるなら自分が手にかけ手柄にし、お供をさせてもらおうと考える。全てをお軽に話、命をこの兄にくれと頼む。

お軽は夫の勘平が居ない今、永らえようとは思わない。勘平に武士を捨てさせたのは自分なのだから。主人・塩冶判官(えんやはんがん)が大事の時、勘平を誘い逢引をしていたため自分の里に逼塞させる事になったのである。

お軽に勘平との越し方を思い起こさせるきっかけを作るのが平右衛門であり、そのあたりを吉右衛門さんはふっくらと演じ、お軽の嘆きを芝雀さんは余すところなく兄に訴え兄妹の心の通い合いをきっちり観客に伝えてくれた。

この手柄を立てなくては認めてもらえないというのは、又平も平右衛門も身分の低いゆえである。又平は吃音ゆえに手柄を立てられなかった事が幸いし、絵筆でそれを成し遂げ、平右衛門とお軽は兄妹のの深い絆を由良之助に認められ敵を討ち手柄を立てるのである。

大星由良之助の幸四郎さんは、一力茶屋での遊びを周りに悟られることなく、酔い姿もゆったりしたリズミカルな動きで自然に演じられた。この動きは今まで見た由良之助役の中で一番だと思う。

花道で力弥(大友廣松)の手紙を受け取る為に酔いながら辺りを伺い、虚と実の見せ方も上手い。手紙を受け取り、<祇園を通り過ぎてから急げよ>と最後まで気を配る。廣松さんも見事に大役を果たしホッとした。

 

 

推理小説映画の中の橋

評論家川本三郎さんの文章に次のようなのがある。[ 東野圭吾原作、西谷弘監督の「容疑者Xの献身」では天才的数学者を演じた堤真一が萬年橋の袂のアパートに住んでいるという設定。朝、勤め先の高校に行くために彼は部屋を出て萬年橋を渡り、さらに清洲橋を渡って浜町方面へと出る。東京の美しい橋を二つ渡っていくのだから幸せだ。]

映画は見たのであるが、堤真一さんが萬年橋と清洲橋を渡っている記憶がない。隅田川らしき川縁を歩いていたのと勤めの途中のお弁当屋でお弁当を買い、お弁当屋の女性に好意をもっていたのは覚えている。その女性は彼の隣に住み、その女性に献身的に尽くすかたちとなるのである。原作を読んでいないのでこの二つの橋を渡るのが原作にもあるのか、映画だけの設定なのかは不確かである。

しかし、8月23日の<本所深川の灯り(3)>で<万年橋>を渡り見た<清洲橋>の美しさを、12月23日の<日本橋から品川宿(1)>では船から反対方向からの<清洲橋>もみているので、映像になっているのは嬉しい。やはり一度は渡らねば。

もう一つは、同じく東野圭吾さんの原作の「麒麟の翼」である。<日本橋>である。これは刺された男性が<日本橋>の麒麟の像の前で息絶え、そのことに重要なメッセージがあったという推理小説である。先ごろテレビでその映画を放映したので見たが小説を面白く読んでいながらかなり内容を忘れていた。映画は原作を損なわず良く出来ていた。日本橋三越劇場「お嬢さん乾杯」の舞台を観る前に、<日本橋>から男性が刺された現場、<江戸橋>の地下道へ行って見た。地下道といっても橋から降りてまた上にあがるという短いものである。橋の欄干も犯人が走りでて人とぶつかっているので、この橋でここで刺されたのだと妙に感心する。感心したのはそれだけでは無い。よくこの場所を見つけたということである。映画には出てこないが刺された男性は<日本橋>まで歩く。その道は右手は某証券会社の厳つい建物で左手もビルで人通りがすくないのである。夜ともなれば誰とも会わない事も可能である。

そして<日本橋>を渡る手前に交番がありその前を通る。その日は交番前に2人の警察官が何か話しをしていたが、映画では一人の警察官が交番を離れて警護していて刺された男性を酔っ払いかなと不審に思う。でこの交番で救いを求めなかったのはなぜなのか。それが刑事(阿部寛)の鋭い疑問の一つである。そして翼がありながら<飛べない麒麟>。社会問題や教育問題をも含ませつつの展開。 <日本橋>から<江戸橋>をぐるりとめぐり、ほとほと翼のある麒麟に目を向けた東野さんに感心した。

その前にこの二つの橋の下を船めぐっているので、東野圭吾さんは、それはされていないであろうとつまらぬことに胸を張るが、麒麟の像のあの胸の張り方には太刀打ち出来ない。

映画「容疑者Xの献身」のの二つの橋が気になり、福山雅治さんのファンである友人にDVDを再び借りる。橋が出てくる。ドラマを追うのに忙しくて沢山の<萬年橋>と<清洲橋>を見逃していた。でも、実際に見た<清洲橋>が一番美しかった。「犯人が日本橋の交番に自首してきたそうです」の台詞があり可笑しかった。東野さんあの場所お気に入りなのかも。<四色の隣り合う色が同じ色に成っては美しくない>。泣かせる言葉である。友人の報告によると、福山さんは東野さんの原作「真夏の方程式」の映画に出演し夏頃公開。そして秋には是枝監督の映画にも出演らしい。DVDで友人にまたお世話になるかもしれない。

季節外れの日本橋の七福神も廻りたいものである。

 

 

 

優れものの豆知識

駅や地下鉄通路にある小冊子をひょいひょいと頂いてきて電車の中で楽しませてもらう。

先日手にした小冊子には<「銀ブラ」のホントの語源は?> 答え<銀座でブラジルコーヒーを飲むこと>だそうである。銀座をぶらぶらそぞろ歩きと思っていた。

補足の文が気に入ったので載せる。 [大正時代、銀座に集まる若者の楽しみの一つだった “銀座の『カフェーパウリスタ』にブラジルコーヒーを飲みに行くこと” が「銀ブラ」の本来の語源だとのこと。とはいえ一般的な “銀座をブラブラ散策する” という使われ方も決して間違いでありません。どちらの意味も銀座という街の文化や歴史、楽しみ方をよく表していると思いませんか。]  思います。

神田明神に行ったときに手にした冊子には、神田川に架かる<聖橋>について [関東大震災の復興橋梁の一つである。聖橋という名は公募による命名で、神田川左岸の湯島聖堂と右岸のニコライ堂という、東洋と西洋の二つの聖堂を結ぶ架け橋であるところから名づけられたという]  なるほど。

違う冊子には、神田の緑と聖橋の関係を解説。 [自然の緑を楽しむなら、御茶ノ水橋から聖橋をみると良い。それは聖橋の色彩が、新緑の緑よりもずっと色味を抑えた色彩であるため、より鮮やかな新緑の緑が印象的に見えるからである。]  緑と聖橋の相性を新緑の頃確かめたいものである。

浅草歌舞伎を観ての帰り吾妻橋に寄り、そこから見た駒形橋のブルーがあまりにも綺麗なので渡りたくなり駒形橋を目指す。本当は墨田川沿いの散策路を歩きたかったが薄暗いのであきらめる。駒形橋の歩道は川の方に小さな半円の出っ張りがありそこに立つと川の流れがよく見える。こちらから見る吾妻橋の鈍い赤い光もなかなか風情がある。ブルーの駒形橋をぐるっと一回りして、厩橋から駒形橋はどう見えるか知りたくなり厩橋を目指す。夜でもあるので目指す途中は全然面白みがない。厩橋に到着。この橋は地味である。上の方に小さなステンドグラスがはめられている。それも控えめに。さて駒形橋はどうか。後ろからの光が反射してか綺麗なブルーが見えない。くすんだ濃いグレーである。何回か経験済みだが橋の良さは見る方角で決まる。時間、季節も関係するであろう。またの機会に違う姿を見せてもらうことにする。

 

 

三越劇場 新派『お嬢さん乾杯』

新派は今年、125年を迎えるのだそうでその新春の演目が木下恵介監督の映画「お嬢さん乾杯」の舞台化である。木下監督は今年、生誕100年。映画「お嬢さん乾杯」は昭和24年(松竹)の作品で脚本が新藤兼人さん。新藤さんは昭和22年に映画「安城家の舞踏会」の脚本も書いていて、原節子さんがどちらも没落貴族の娘役であるが、「お嬢さん乾杯」はラブコメディである。「お嬢さん乾杯」で木下監督は原節子さんのあらゆる表情を映してくれた。その原さんに身分違いの朴訥で不器用な佐野周二さんが一目惚れをして楽しませてくれる喜劇である。

新派舞台は自動車修理工場で儲け人生はお金と思っている・圭三(市川月乃助)が、没落しかけている家のお嬢さん・泰子(瀬戸摩純)とお見合いをする。圭三は身分違いと思っているから断るつもりが一目惚れしてしまう。そこから圭三の喜びと悩みが始まる。この二人の生活環境は泰子は自分の家(池田邸)と家族。圭三は働く以外は入り浸るバー「スパロ」とそこに集う人々と弟。舞台はその二つの<池田家>と<スパロ>の場面を行き来することによって二人の置かれている環境の違いとそれぞれの場で大切にされ好かれている事がわかる。ところが繁栄していた池田家の人々は成金を受け入れる事には素直になれない部分がある。そのあたりの心理描写は新派の芸歴が物を言う。泰子の母(波乃久里子)を軸に元華族の人々を無理なく形づくり静かに主張し、圭三はその空気にドギマギする。しかし、お嬢さんの美しさと触れた事のないお嬢さんの持つ世界に驚きと喜びを感じる。そのゆれを月乃助さんは、ちょっと美男子すぎるが上手く表現した。

それに対する泰子は、圭三の世界に戸惑う。しかし馴染もうと努力する。素直な性格であるから次第に圭三の善良さが解かってくる。瀬戸摩純さんは頑な美人と思わせたお嬢さんの感情の変化を、自分を主張しつつじわじわと見せてゆく。そして飛び越すところが良い。手袋の上からのキス。さらに飛び越す術を「スパロ」のママ(水谷八重子)が教える。ママは圭三の暖かい仲間の中心でもある。

圭三は、人生はお金と思っているが女性を縛るためには使わない。その事が彼の戦争孤児を弟(井上恭太)として育て、弟の幸せを勝手に作っている自分に気づき結婚を許す。

圭三の<お嬢さん乾杯>は、お嬢さんの存在とその内面の世界なのである。

舞台美術も待たせる時間を短くし、<池田家>と<スパロ>を上手く移動させ、<場>ごとに二人の感情の起伏と変化を乗せていった。それぞれの<場>で、水谷八重子さんは明朗に圭三の聞き役として、波乃久里子さんは泰子の気持ちを確かめつつ複雑な感情の池田家のまとめ役として役どころを発揮した。新派のその時代の生活音や自然音を大事にする劇団の特色を今回は戦後間もない頃の歌謡曲の音響で時代を現す。<ピアノ>も重要な意味があり、実際に舞台にピアノが登場し、さらに泰子の瀬戸さんが実演したのは、この作品に大きな力と成った。映画では圭三がバレーの舞台を観て涙を流す良い場面があるが、それを出来ない舞台としての違う強さとなった。それが<スパロ>ではレコードとなる。繋がりもすっきりした。泰子がかつての婚約者の話をする時のギターの使い方も効果的である。舞台『お嬢さん乾杯』としてしっかり確立していた。

お嬢さんの家族/祖父(安井昌二)・祖母(青柳喜伊子)・姉(石原舞子)・姉の夫(児玉真二)  圭三の「スパロ」の仲間/川上彌生・鴫原桂・等  縁談を勧めた取引先の佐藤/田口守   [ 脚本・演出/成瀬芳一 ]

パンフレットに評論家の川本三郎さんが木下恵介映画について寄稿されていて、木下監督の実験的映画作りの一例として「カルメン純情す」では、カメラを斜めにし、「野菊の如き君なりき」では回想シーンを楕円型にトリミングしたとある。昨日、レンタル店で「野菊の如き君なりき」を手にしつつもどしたのが悔やまれる。川村さんの「銀幕の銀座」(中公新書)には『お嬢さん乾杯』も載っている。舞台では銀座とは限定していないが、新橋演舞場で花柳章太郎と初代水谷八重子の「鶴八鶴次郎」をやっている話題が出てくるので銀座なのかもしれない。

新派125年「初春新派公演」でもあり、艶やかに舞を取り入れた口上もある。

 

『新春浅草歌舞伎』

『勧進帳』から入る。エネルギッシュな『勧進帳』である。弁慶、富樫、義経の三人の心理の探りあいでもあるが、長唄の音楽性の高度さは、一時期は、また『勧進帳』なのかと思ったこともあるが、あの長唄が始まると気持ちが乗ってしまう。富樫(片岡愛之助)の出も良い。義経(片岡孝太郎)の花道での形もきまった。四天王(尾上松也・中村壱太郎・中村種之助・片岡市蔵)の行儀も台詞の声も良い。弁慶(海老蔵)の一声もよく、義経と弁慶のやり取りも主従の関係が伝わる。弁慶の顔の作りが上手い。鼻の両筋の茶の入れ方、眉・目の作り、顎の青、文句なしである。

勧進帳をはじめゆっくり、富樫に覗かれて朗々と声高に始まる。このあたりはどう切り抜けるか考えていた弁慶が一気に気合で行こうと決めたように一直線に進む。(弁慶と富樫が近づき過ぎとも思えるが)問答も力強く、富樫も気迫では負けていないが本物の山伏と納得。弁慶が義経を打つ場面も弁慶はこの気迫を持ち続けて打ち据える流れである。今回の弁慶はそういう空気を作った。その空気に主従の強い結束を感じた富樫は見逃すことを決意する。

ただ、義経に手を差し出された場面での弁慶はリアルに泣きすぎと思う。まだホッとしてはいけない訳だし、義経たちを先に立たせたあと花道でホッとするその時の弁慶の顔が非常に良い表情をしてたので、あの流れなら泣きは押さえてほしかった。それと延年の舞もその部分だけなら勇壮でよいが、酔ったと見せつつ腹に収めているものを観客と富樫に感じ取らせるのがここの面白さと思うので舞い過ぎずが難しいのかも。舞いつつ<早くゆけ>と四天王への合図はどうするのかと楽しみであったが一回できりっと合図した。綺麗であった。

手練手管の無い一直線の弁慶である。まずそこから始めようという事なのかもしれない。

『幡随院長兵衛』。これは出の柔らかさと男伊達が必要な役。海老蔵さんやはり出の柔らかさは出せなかった。これは時間がかかると思う。懐の大きさから来る柔らかさ。それを消しての水野のとの対決。ここはすっきりとしていた。水野十郎左衛門の憎たらしさ愛之助さん好演。幡随院の弟分唐犬権兵衛は中村亀鶴さんが長兵衛の男伊達の助けをしてくれた。

そして長兵衛の女房お時(孝太郎)がしっかりしていた。腰から下のすっきりした線。死に装束の真新しい着物を着せるときの衣服の扱い方。それが新しさゆえに死に臨む時に着せる悲しさと辛さがあるのだが、その扱い方が美しく、それがお時の覚悟のようで、幡随院長兵衛の女房として心に残る動きだった。女形さんは立ち役にやり易いように気を使い小道具など衣服の世話をするが、それを芸の一つとして溶け込ませて見せてくれた。

そのことを踏まえると壱太郎さんの『毛谷村』のお園は荷が重かったように思う。武家の娘。それも力持ちときている。どうしても柔らかな女形が多く出てしまう。これは武家の娘が主で六助(愛之助)の事になると女が顔を出すくらいのほうが愛嬌がある。それに釣られて六助も愛嬌が出るのである。その微笑ましさもこの芝居の楽しさでもあるがこの巾が狭かった。この芝居では海老蔵さんの観客へのサプライズもある。

<曽我兄弟の仇討ち>は伊豆半島の伊藤一族の相続問題から端を発した話が元のようであるが、舞台『寿曽我対面』は、曽我兄弟(尾上松也・中村壱太郎)が始めて敵の工藤祐経(海老蔵)と対面する場面で、海老蔵さんが華やかな舞台を締めていた。曽我兄弟は若いからといって務められるわけではなく、形にこだわる役であることを強く感じた。

若い役者さんがここ一番頑張り、裾野を広げて欲しいと願う新春歌舞伎であった。

 

『新春浅草歌舞伎』の口上

今年の歌舞伎観劇は浅草で始まった。第一部と第二部を続けて観る。浅草歌舞伎の楽しみである第一部の口上(年始の挨拶)は片岡孝太郎さん。第一部の口上は日によって役者さんが変わる。孝太郎さんは素顔の羽織袴である。何かとチャーミングな現・市川左團次さんの楽しい話題から入られた。そして、左團次さんから是非舞台でやって欲しいことがあると頼まれたのでこれからそれをやります。やった後で拍手を頂かないと引っ込みがつきませんのでと前置きをされ披露した。ネタばれになるとこれから観る予定のかたは楽しさが半減するのでここまでとする。その後、歌舞伎役者になりたい場合の道筋なども説明。お話好きの方なのかもしれない。

第二部の口上は全て市川海老蔵さんである。初春、市川家の<にらみ>を受け取ることが出来るのである。したがって鬘をつけて裃での出で立ちである。今回は演目にもある『勧進帳』の話である。初代團十郎の時すでに『勧進帳』のもととなる演目があり、四代目のとき『御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』が大当たりし、七代目の時、能の『安宅』から現在の『勧進帳』が出来たと。

ここからは少し補足も加えるが、その後七代目松本幸四郎にも引き継がれる。七代目松本幸四郎は子供たちを他所の家で修行させる方針を取り、長男を市川家に養子とし後の十一代目市川團十郎(現・海老蔵さんの祖父)、次男は初代中村吉右衛門に預け後の八代目松本幸四郎(現・染五郎さんの祖父)、三男は六代目尾上菊五郎に預け後の二代目尾上松緑(現・松緑さんの祖父)となり『勧進帳』を演じる役者の裾野が広がる。幸四郎さん、吉衛門さん、に繋がり、猿翁さん、仁左衛門さん、三津五郎さんら先輩たちも演じられている。

何と言っても初代から現・團十郎さん、海老蔵さんへと繋がっている時間の経過は永い。そうした中で海老蔵さんは十五年前初めて演じ(正確には十四年前かもしれなが気持ちを語るときそれは些細なことである)、今回初心に返り務めますと、『勧進帳』との今までの葛藤を言葉にならない思いを含ませ、今後の意気込みを伝え、集中されて<にらみ>に入った。

今回の口上は、孝太郎さんの<もし歌舞伎役者になりたかったら仲間にならないかい>と呼びかけ、海老蔵さんの<歌舞伎役者って何やってんだろうと思うかもしれないが、背負う時間の重みに何とか立ち向かおうと現在の時間と闘ってもいるんだよ>と発し、若さから一歩進んだ位置に到達した一つの地点を感じた。演目の感想は次になってしまう。

 

 

永い空白の旅(小海線)

30年以上も友人として付き合っていながら近頃始めて知った事がある。高校時代、彼女はJR小海線で通学していたという事実である。長野の生まれとは知っていた。ここ数年親の見舞いと介護で帰っていたことも知っている。佐久平まで新幹線で、車で迎えに来てもらうと聞いていたのでその周辺の小さな円で想像していた。何かの話から小海線の「奥村土牛記念美術館」がよかったと話した。小海線の何処にあるのか聞かれ、駅名が出てこなくて確か<無人駅>と答えたら駅名を言い始めた。高校時代、小海線で通学していたと。

4、5年前に小諸から小淵沢までの小海線にあこがれ、それも奥村土牛の美術館もあると知りやっと実現したのである。彼女は海外旅行の方が好きだから自分の故郷の小海線など話題にもしなかったのかもしれない。高校時代ローカルの小海線でのどかに通学していた彼女をちょっと想像できない。甲斐小泉に「平山郁夫シルクロード美術館」があることを教える。そちらの方が彼女好みである。

「奥村土牛記念美術館」は八千穂駅のすぐそばにある。八千穂はあの辺では大きい駅だから<無人駅>ではないそうだ。勝手に思い込んでいたみたいである。そのほうがイメージにあっているのだ。小諸も小淵沢も歩いてみると歴史的にも面白い町である。小海線の駅から降り立つ町にもよい所があるのであろうが、列車の本数が少ないので列車の旅を楽しむにはあちらこちらと降りられないのである。

そんな話から他の仲間が若い頃、飯山線の桑名川駅から千曲川を渡し舟に乗ってスキー場に行った事があるという。それはまた素敵ではないか。どんな舟なのか聞くとおしんの世界だそうだ。写真があるとのことで後日見せてくれた。桑名川駅前での写真と舟に乗り込む写真である。幸せなことに舟は同じであるが雰囲気はおしんとはかけ離れていた。若人が上野から夜行列車を乗り継ぎいよいよ目的地に向かうぞという明るさに溢れている。話す彼女も忘れていた空白の時間を取りもどしたようである。

そのローカル線と駅が残っていてくれるので、いつの日か違う色合いの旅も可能である。

 

小さな旅

「東京の中の江戸名所図会」(杉本苑子著)の日本橋の図会は日本橋を渡る人の混雑と日本橋川を行き来する船の多さに驚く。<この橋からは海上を昇る日も富士山も、江戸城の甍や森までよく見えた。>面白いのは幕府の買出し係り御納屋(おなや)役人が朝市、夕市の戦場をすばやく動き回り、一番よい魚貝に目をつけ<「御用ッ」とさけび、手に持つ手拘(てかぎ)を品物に引っかける。これをやられると、もはやおしまいだ。>5両、10両のものも3文か5文で買いとられる。しかし、明治以降、築地に移ってからの税負担より楽だったという話もある。

映画「麒麟の翼」はどのように日本橋を映すのかと興味があったので最初の部分だけ少し見たが、夜の高速道路と日本橋を上手く撮っていた。

佃島と家康との関係もどこかで読んでいるなと思ったが杉本さんのこの本で読んでいたのである。

「戦国時代の天正年間、まだ徳川家康が浜松の城主だったころ、上洛のついでに摂津の住吉神社に詣でたさい、神崎川の渡船をうけ持ったのが、近くに住む佃村の漁民たちであった。その縁から、伏見に在城する家康に魚貝を献上したり、大阪夏冬の陣にも軍事の密使役などつとめて功を立てたため、江戸開府後、三十四人の漁夫が召されて江戸へ下向し、鉄砲州の東の干拓地百間四方を下賜されて住みつくことになった。これが、佃島のはじまりだという。佃の名は、つまり故郷の村名からつけたのである。」

土地の名前は大事にして欲しいものである。変える役目に当たった人は一度歴史を紐解き、かつて此処にはこういうものがあったとだけでも残せないか考えて欲しい。そこからでも小さな旅は続き始まるのであるから。

 

<日本橋> →  2013年1月24日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)