本の出会いの力

本との出会いが疑問点を解明してくれた。

小村雪岱さんの「日本橋檜物町」の本に出会い、花柳章太郎さんが舞台「日本橋」の為に現日本橋西河岸地蔵寺教会にお詣りした事を知り、ぶらりぶらり『日本橋』 (1月5日)にその事を書いた。

<深とした静かな雪の夜。小さい御堂に揺らぐ燈明の灯りのかすかな光り、鼻をかすめてゆく線香のにほひ、色あせた紅白の布を振るとガンガンと音を立てる鰐口をならしてお千世の成功を祈った。>と花柳さんは書かれていた。

日本橋西河岸地蔵寺の案内文には<板絵着色 お千世の図額 大正4年(1915)3月本郷座で初演 当時21歳無名であった花柳章太郎はお千世の役を熱望し、劇と縁の深い河岸地蔵堂に祈願した。この劇でお千世役に起用されて好演。これが出世作となる。2度目のお千世役 昭和13年の明治座のさい奉納。>とあり、花柳さんの文章とは少しことなる。役をもらう前か後か。どちらもとしておくことにする。

[どちらもとしておくことにする。]の、案内板の元となる花柳さんの文章を見つけた。見つけたというより出合ったのである。その本は「わたしのたんす」(花柳章太郎著)。

「日本橋お千世の衣裳」の中に次の一文がある。

<私は「日本橋」が上演されると聞き、何とかしてお千世の役が自分につくように、西河岸の延命地蔵へ願をかけました。二月の末の大雪の降る日、ちょうど満願で、夜の十時ごろでしたか、ほのかに燈明の灯る堂の前にぬかずいて、一心に祈っていた二十歳のそのときのことを忘れません。><お千世「花柳」と呼ばれた時は、天にものぼる嬉しさでした。> 花柳さんは役をもらう前も後もお詣りしたのである。案内板はこの文も参考にしたのであろうか。

この本は舞台衣裳の事が書かれている。お千世の衣裳については次のようにある。

<そのころの大部屋の役者に、衣裳の新調など決して許しませんでした。その前例を破って新しく作ってくれましたのも師匠(喜多村緑郎)のおかげでした。しかし半襟、前掛、帯揚までは新しくしてもらえませんので、鹿の子の半襟、帯揚げを買いましたら自分の一芝居の給金を全部はたいてしまいました。>あとはゆっくり楽しんで読むこととする。

古本屋で江戸初期の画家岩佐又兵衛の 名が背表紙にあり、その本を天井下から取ってもらったが思い描いていたものと違い返して、つらつら見ていたら「わたしのたんす」に出合ったのである。もし、岩佐又兵衛の本が意に叶っていたら「わたしのたんす」には出会わなかったであろう。<岩佐又兵衛>の方は錯綜している。【傾城反魂香】の浮世又平のモデルとも云われている人である。