『秀山祭』の「寺子屋」

「菅原伝授手習鏡ー寺子屋」は、忠義の為に関係のない子を殺し、忠義の為に自分の子を殺させると言う話である。現代の解釈では理解出来ない事である。故に、芸が必要となるのである。訓練された肉体の全てを使い、理解できない世界へ導き入れ観た人の何処かの琴線に触れて納得させたり感動させたりしなくてはいけないのである。

<いけないのである>と言う言い方も可笑しいが、木戸銭を頂いてやっている訳ですからやはりそうなると思います。人気があって顔さえ見ていれば良いのであればそれでも良いが、恐らく演じている役者さんの方が嫌になるであろう。

松王丸(中村吉右衛門)・千代(中村福助)・武部源蔵(中村梅玉)・戸浪(中村芝雀)・春藤玄蕃(中村又五郎)・園生の前(片岡孝太郎)

千代が小太郎を連れて源蔵の寺子屋へ入門させる。千代は用事があるからと戸口を出る時小太郎が母の袖を引く。この時すでに松王丸・千代・小太郎の三人は約束事をしている。ここで<三角形>の図式が見えた。事或るごとにこの<三角形>の関係が違う<三角形>を作っていくのである。先ずこの三人の約束事とは、主君の子・菅秀才の身代わりとなって小太郎が命を捧げると云う事である。だから小太郎は母の袖を引いたのであるが、<まだ幼くて>と千代は戸浪に言い訳する。戸浪に悟られないように親子の別れである。福助さんは凛として溢れる悲しさをそっと現す。

源蔵はかくまっている菅秀才の首を差し出すよう言明され花道から思案しつつ帰ってくる。誰かを身代わりにと考えているが皆田舎育ちの子で身代わりと解かってしまう。そこへ今日きた小太郎を見てこの子だと決心する。ここでは源蔵・戸浪・菅秀才の三角が源蔵・戸浪。小太郎の三角になる。

玄蕃が首を受け取りに来る。そこへ菅秀才の顔を知っている病み上がりの松王丸が登場しする。ここから松王丸の腹芸が始まる。今まで菅秀才の父、菅丞相に敵対していたが味方となることを決め親子三人の約束事もそこに一点があるのである。しかし玄蕃にも源蔵にも解からせず小太郎の首を菅秀才の首として受け取らなくてはならない。ここで源蔵夫婦・松王丸・玄蕃の三角形となる。この三角を崩さないようにして目的を遂げるための松王丸の芸が必要なのである。吉右衛門さんの松王丸は松王丸の言動一つ一つが首実験まで上手く運ばせる為のものであると云う事が納得できた。偽首の可能性もあるから用心するように玄蕃に強く指示して反対に玄蕃をけし立てつつ味方である事を印象付け、反対に源蔵夫婦には緊張感を増幅させ失敗の無いように引き締めさせているのが解かる。

そうしつつ、我が子の命落とす瞬間を知り、首実検では我が子の首と知りつつ菅秀才の首であると明言する。このあたりは、役者さんと観客の交信である。お互いが上手く交信出来たか出来ないかで物語は膨らんだり萎んだりするのであり、面白いか詰まらないかになるのである。

源蔵夫婦の梅玉さん・芝雀さんそして玄蕃の又五郎さんはしっかり、松王丸のドラマツルギィーの中に入ってくれ構築してくれた。これが芸である。

守備よく玄蕃が首を持ち帰り、菅秀才の首は小太郎であった事が解かってくると観客は今度は役者と一緒に涙するのである。舞台上は園生の前・菅秀才親子と源蔵・戸浪夫婦と松王丸・千代夫婦の三角形である。しかしそれぞれの台詞から松王丸・千代・観客の三角、松王丸・小太郎・観客、千代・小太郎・観客ら様々の三角形が交信し合って様々な感情が沸き立ちどこかでそれが一つになり拍手となるのである。

今回はこんな事が頭の中で整理されていった。やはりそれは、力のある役者さんのなせる技と思う。

もう一つ重要な三角形がある。松王丸が小太郎の死を褒めてやったあと「それにつけても不憫なんのは桜丸」と、松王丸が三つ子の兄弟である桜丸を思いやる言葉を吐く。寺子屋だけを見た人は解かりづらいであろう。

そもそも三兄弟の悲劇は使える主人が別々であった事である。梅王は道真、松王は道真に敵対する時平、桜丸は天皇の弟に使えている。その桜丸の行動が原因で道真は九州に左遷させられる事になるのである。その事に責任を感じ桜丸は自害する。その事を松王は嘆くのである。小太郎のような頑是無い子が成し遂げた事に比べて、桜丸の死が犬死だったのではないかと。

この松王の台詞で、観客は改めて、梅王丸、松王丸、桜丸、三兄弟の繋がりを思い出すのである。

(新橋演舞場 「秀山祭九月大歌舞伎」昼の部)

 

 

特撮の展示会

東京都現代美術館で「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」が開催されている。庵野秀明さんを全く存知あげない。「新世紀エヴァンゲリオン」などを監督されたかたらしいが、この分野は異分野である。何に惹かれたかと言うと「特撮」である。

豊田四郎監督の「白婦人の妖恋」を見た。1956年東宝。原作・中国民話「白蛇伝」林房雄作「白夫人の妖術」より。脚本・八柱利雄。撮影・三浦利雄。特技監督・円谷英二。

この映画は白蛇の精(山口淑子)と貧しい青年(池部良)との恋物語である。円谷英二の東宝特撮カラー映画作品第一号だそうで、見ていて違和感はなかった。出だしから綺麗な河であろうか、湖水であろうか違う世界の映画ということを印象付けた。その事もあって<特撮>は気に懸かった。

その前に、三浦利雄キャメラマンの事を。テレビの映画解説で山本晋也監督が三浦利雄さんの名前の<三浦賞>のある事を話されていて、この方かと注目したのである。少し調べたら、この映画のあと「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)を撮影され亡くなられている。この二作品で幾つかの賞と芸術選奨を受けられている。豊田四郎監督とは、1953年「雁」・1955年「夫婦善哉」、そして、1956年「白夫人の妖恋」・「猫と庄造と二人のをんな」である。

<特撮>のほうにもどるが、チラシの写真の得体の知れない異星人?は何?「風の谷のナウシカ」に出て来て終盤動き出すがすぐ倒れて活躍しなかった<巨神兵>のキャラクターを使用しての復活。ここで初公開される、最新特撮短編映画「巨神兵東京に現わる」の<巨神兵>。この短編特撮の現場映像もあり、CGを使わない手作り特撮の技も公開され感嘆と驚嘆である。特撮職人一本道の楽しくも泣かせる世界が垣間見える。この時使われたミニチュアの街もあり、その中を歩いてデジカメに納めるも好し。

特撮の原点みたいな「ゴジラ」「モスラ」のような古い映画関係の資料やミニチュアもある。説明付きのイヤホンガイドもある。関連音楽も聞こえるとのことで袖を引かれたが時間がかかりそうなのでパス。ただ、「ゴジラ」の映画音楽は聞きたかった。DVDの雑誌の映画音楽のベストテン(洋画も含めて)に入っていた。「モスラ」はザ・ピーナッツの歌が印象的なので特撮は音楽的効果もかなり力を入れていたのであろう。

特撮の需要が減って、保存していたミニチュアの老朽化、忘れ去られる技・道具・資料をきちんと残して行きたいという気持ちから博物館として残せないかとの想いで企画された展示会である。その心情と真摯さが伝わる企画である。

円谷英二さんは、衣笠貞之助監督との関係からか林長二郎(長谷川一夫)さんのデビュ-作「稚児の剣法」(監督・犬塚稔)の撮影を担当しており( 円谷英一の本名で) 少し調べただけでも、林長二郎の映画18本も撮っている。長谷川一夫さんも円谷さんの撮影技量は賞賛していたそうである。

特撮としては、「ゴジラの逆襲」から特技監督の肩書きが固定されたとある。

チラシの裏に、スタジオジプリ・プロデューサー・鈴木敏夫さんが<こういう時代だからこそ、そうした職人たちの、“されど、われらが日々”を振り返るのも、悪くない。>とある。

9月18日 BS日本テレビ 「ぶらぶら美術館・博物館」で、「特撮博物館」を紹介してくれた。木場公園から木場公園大橋を渡ってくれスカイツリーも写してくれた。案内人の一人山田五郎さんは歌川広重の名所江戸百景<深川木場>の版画絵も紹介してくれさすが必殺案内人である。館内では、展示に係わられた原口智生さんが助っ人として登場。この方のお祖父さんが東宝の録音技師さんだったそうで、検索で「白婦人の妖恋」にも参加されてる事が解かった。

本当に様々な方々の積み重ねと錯綜で形成されていった事が解かる。この番組を見たら特撮映画に興味の無かった人も多少引き付けられたと思う。

私なぞは、黒澤映画のリアリティーは東宝の映画技術職人さんたちの力があってこそかなと想像してしまう。実写は特撮でない実写を、特撮は実写でない特撮を追い求めそれが東宝の気風を作っていたように思われる。

日活映画100年・日本映画100年

東京国立近代美術館フィルムセンター展示室で「日活映画の100年・日本映画の100年」の展示会が開催されている。

珍しい映像が見れる。「紅葉狩」。九代目市川団十郎の更科姫と五代目尾上菊五郎の平維茂。「紅葉狩」は1887年九代目市川団十郎によって初演され、映画の撮影は1899年11月歌舞伎座の裏の芝居茶屋の屋外で撮影されている。風の神は子役時代の六代目菊五郎が演じていてやはりリズミカルにピシツピシツと決まっている。2009年この「紅葉狩」は映画フィルムとして初めて国の重要文化財に指定され、えいがフィルムが文化財として保護される道をひらいた。

白瀬南極探検隊の「日本南極探検」の映画の一部も見れる。後に日活になるM・パテー商会の代表梅屋庄吉(孫文の辛亥革命の金銭的支援をする)が相談を受けキャメラマンを派遣する。白瀬中尉は探検にかかった莫大な借財のためこのフィルムを持って全国を回った。

衣笠貞之助の「狂った一頁」の映像もあり、これは懐かしかった。古いフィルムセンターであったと思うが、衣笠監督の話を聴きつつ「狂った一頁」と「十字路」の映画を見たのである。かつてこんな前衛的な映画があったのかと驚いた。衣笠監督は女形俳優であったのも初耳で非常に気さくなかたで、サイレント映画のため映像を追いつつ説明されていた。こちらとしては映像からイメージを受けたいので少々困ったが、監督もそれに気がつかれ止められた。話したいことが山ほどあったのであろう。その後、林長二郎(長谷川一夫)の<情緒的な時代劇>を作り上げ、「地獄門」ではカンヌ映画祭グランプリを受賞する。

そして、「狂った一頁」(1926年)の撮影に杉山公平、撮影補助に特撮で名を成す円谷英一(本名でその後英二にする)が名を連ねている。(円谷に関しては違うところでまた出てくると思う。)   原作・川端康成で、衣笠映画連盟と新感覚派映画連盟(川端康成・横光利一等新感覚派の文学者が映画にも参画したのであろう)の共同制作である。

その他、初代水谷八重子の娘時代、オペラ歌手藤原義江の歌う様子など、一部分ではあるが数多い。

日活は1912年吉沢商会・横田商会・M・パテー商会・福宝堂の四会社が合併し「日本活動写真株式会社」となった。

時代劇だけで言うと目玉の松ちゃんこと尾上松之助は吉沢商会から日活へと移り大スターとなる。その後、伊藤大輔監督が大河内傳次郎でリアルな「忠次旅日記」を撮り、サイレント時代劇の古典最高傑作といわれた。その映像も一部見れる。忠次が病に倒れ体が不自由となり寝たまま、忠次を守ろうとする子分たちが次々捕らえられていく。胸の上に刀を抱きどうすることも出来ない忠次。<英雄像を一新し落ちぶれた無頼漢の最後を悲壮美にまで高めた>とある。熱演である。

当時の六大時代劇スターは、 大河内傳次郎・阪東妻三郎・嵐寛寿郎・市川右太衛門・片岡千恵蔵・林長二郎(長谷川一夫)である。それぞれが自分のキャラクターを色濃く持っていて観客を楽しませてくれた大スターたちである。ポスターを見ているだけで楽しい。

追記: 後に日活になるM・パテー商会の代表梅屋庄吉(孫文の辛亥革命の金銭的支援をする)>がテレビドラマになった。2月26日 テレビ東京 夜9時~10時48分 『たった一度の約束~時代に封印された日本人~』

亀治郎から猿之助へ

テレビでの「新猿之助誕生」を見た。 亀治郎から四代目猿之助襲名までのドキュメントである。澤瀉屋を背負って行くのは亀治郎さんだと思っていたので、猿之助さんの下を離れて舞台に立つように成った時は修行に出たのだなと当たり前に感じていた。

叔父の猿之助さんに反発してとは思わなかった。澤瀉屋を背負っていくなら古典をもっと勉強すべきだし必要不可欠と受け取っていた。

その後の亀治郎さんは猿之助一門では出来ないような演目や役をどんどんこなし楽しませてくれた。電車の中で、歌舞伎の役者さんの話をしている若い女性達がいて、誰のことかなあと聞き耳を立てていたら亀治郎さんの事であった。亀治郎さんのファンが増えてきた風を感じた。期待に答えるだけの頑張りを見せていたので嬉しい事であった。

猿之助さんが病で倒れた時、その前からあれでは猿之助さん倒れるのでは、と見ている側では心配していた。その時亀治郎さんは猿之助さんの下へ戻らなかったそうであるが、それは的確な判断だったようにも思う。その後、玉三郎さんが猿之助一門を率いて公演をされたりして猿之助一門も新しい経験と勉強をしていた。

良い時期に亀治郎から猿之助に襲名されたと思う。二代目猿翁さんも身体は不自由でも内に秘める闘志は鬼気迫るものがある。

まだ舞台で二代目市川猿翁さん、四代目市川猿之助さん、九代目市川中車さん、五代目市川團子さんを拝見していないので、これからの出会いが楽しみである。また、どんな澤瀉屋一門になって行くのか期待の大きいところである。

追記: 2011年3月には「スピン(回転)」をテーマにブルーマンの音楽とコラボで「獅子」を舞っている。勢力的に前進し続けている。

本所深川の灯り (3)

深川の街歩きの友として、宮部みゆきさんの「平成お徒歩日記」も優れものと言う事が判明した。この本は読むだけでも楽しいが、ご本人も携帯して歩いてくれる事を望まれているのでそのほうがお互いの為かも。

こちらはこの本の事はつい先ごろ知ったもので、深川は宮部さん抜きである。

経路は地下鉄東西線門前仲町駅から富岡八幡宮→深川不動堂→清澄通り→(採茶庵跡・滝沢馬琴生誕の地・紀伊国屋文左衛門墓)→深川江戸資料館→霊巌寺→清澄庭園→万年橋→(史跡展望庭園・芭蕉稲荷・赤穂浪士引き上げの道)→芭蕉記念館→都営大江戸線森下駅となる。

大江戸線・半蔵門線清澄白河駅から深川江戸資料館にまず行き、そこで街歩きの資料を調達するのも一つの方法である。

富岡八幡宮は江戸三大祭りのひとつ「深川八幡祭り」で有名である。昨年震災で延期した本祭りが今年開催されたようである。また勧進相撲でも知られ境内には「横綱力士碑」など力士の碑が多い。深川と言えば木場の角乗りで、「木場の角乗碑」があり<両国の七つ谷の倉の間部河岸という所で三代将軍家光に筏の小流、角乗り、木遣りをご覧にいれ以後年中行事となる>木場の木遣りの由来が書かれている。角乗り、木遣りは深川資料館に映像がある。

深川不動堂では成田山新勝寺東京出張所であるが、ここで護摩焚きを自由に拝観させてもらえた。声明というのでしょうか、その声と太鼓、ほら貝の音の混合の音楽性に驚いてしまった。洗練された音楽であった。芸能が神仏の祈りから流れてきているのが解かる。思いがけない出会いであった。

採茶庵は芭蕉の弟子の杉山杉風(さんぷう)の庵室で松尾芭蕉はここから『奥の細道』へ旅立った。その跡で芭蕉の像がある。

深川江戸資料館は江戸時代の深川の庶民生活や路地などが再現されていて時代小説、落語、歌舞伎の世話物を楽しむ切り札となるような構成である。映像もありゆっくり見学したい場所である。

霊巌寺は江戸六地蔵の一つで、寛政の改革を行った松平定信の墓がある。

清澄庭園は江戸時代下総関宿藩久世大和守下屋敷で明治に三菱財閥岩崎弥太郎が開園した。もともとは豪商、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡ではと伝えられてもいる。

万年橋を渡り川岸へ降りるとスカイブルーの清洲橋が見える。とても美しい橋で後ろの高層ビル群の前に<われここにあり>と横たえている。ドイツ・ケルン市にあったライン川にかかる大橋をモデルに造られたそうだ。

ぷらぷらと川面を眺めつつ芭蕉ゆかりの場所に寄りつつ芭蕉記念館へ。関係資料は展示が変わるようである。

その他にも地域を移動すると沢山の興味深い関係地があって、地域限定で歩く必要がありそうだ。 森下文化センターには田河水のらくろ館・伊東深水、関根正二紹介展示コーナー。越中島の古石場文化センターには小津安二郎紹介展示コーナーがある。

 

 

本所深川の灯り (2)

吉良邸跡(本所松坂町公園)のそばにお休み処があり、そこには墨田区観光協会で出している小冊子が置いてある。よく調べていて興味深い資料である。

その他 芥川龍之介生育の地・葛飾北斎生誕の地・河竹黙阿弥終焉の地・三遊亭円朝旧居跡(この地で塩原太助一代記を書く)・山岡鉄舟旧居跡などなど歴史の足跡が沢山ある。

今度は都営大江戸線の両国駅から北斎通りをJR錦糸町駅に向かうのも良いかもしれない。途中 すみだ郷土文化資料館に寄るとまたなにか面白い発見があるかもしれない。

JR錦糸町駅南口には「野菊の墓」の作者・伊藤左千夫が酪農を営んでいた旧居跡に歌碑が立っている。また 近くに人形焼きの「山田家」があり、ここの包み紙には本所七不思議の絵が画かれている。

池波正太郎の鬼平が育った屋敷は竪川と大横川が交差するあたりの現・緑4丁目あたりらしい。実在した長谷川平蔵の屋敷は都営新宿線菊川駅の入り口そばで、小説の長谷川平蔵と住まいが違うそうで、その辺を探索するのも面白い。

本所深川の灯り (1)

本所は、江戸時代は南北は隅田川の永代橋から吾妻橋あたりまで、東西は錦糸町から墨田川あたりまで含まれるようでかなり広範囲に及ぶようです。

街歩きをするなら司馬遼太郎さんの「街道をゆく36 本所深川散歩・神田界隈」が良いかも知れません。物語性としては宮部みゆきさんの「本所深川ふしぎ草紙」でしょうか。

「本所深川ふしぎ草紙」は本所七不思議に絡めた市井の人々の生活を情感を込めて書かれていて、昔からの言い伝えには胡散くさい気分にさせられる事が多いが、この本の世界はその胡散くささを払拭してくれる新風がある。その風が黴臭さも払いよけてくれ改めて七不思議の存在を眺め直している。これは宮部さんのお手柄で、回向院の茂七を登場させる事によってその中心から別々に暮らしている本所の人々を七つの話で繋ぎさらに七不思議で重ならせるという解きはなれていながら繋がっている本所深川の世界をも立体化させている。

「片葉の葦」「送り提灯」「置いてけ堀」「落葉なしの椎」「馬鹿囃子」「足洗い屋敷」「消えずの行灯」

この一つ一つの話が立体的に本所の江戸地図の上に灯りをともしています。

JR総武線の両国駅の南側に両国観光案内所があり、そこで両国周辺マップをもらい回向院・吉良邸跡・勝海舟生誕の地そこから清澄通りへ出て江戸東京博物館を左手に旧安田庭園へ。庭園を出て国技館に向かう信号を渡ったところに見逃しがちだが舟橋聖一生誕の地で「花の生涯」の碑がある。国技館の前を通りJR両国駅へもどる。

 

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納涼住吉踊り

納涼住吉踊りが、浅草演芸ホール中席昼の部で行われている。(8月10日~20日)

八代目雷門助六さんの踊りを志ん朝さんが習い、それを公開披露し、時を経て浅草演芸ホールで開催されるようになる。、志ん朝さん亡き後は、四代目三遊亭金馬さんが、今は金原亭駒三さんが座長として頑張られている。

志ん朝さんはこの寄席の住吉踊りが最後の舞台で、その前から痩せられたなと気がかりではあったが、周囲の方々にも知らせることなく病身を隠して舞台を務めあげられた。

亡くなられた翌年の住吉踊りは盛況であったが、出演された芸人さん達はあまりに大きな存在だった志ん朝さんを失い頼りきっていただけに、如何したら良いのかわからない、とにかく務めあげようと金馬さんのとぼけた明るさを頼りに頑張られた。

金馬さんが降板されてからであろうか派手さは無くなったが一人一人が頼らずに先ず踊りを覚えようと基本を目指し始めたように見えた。自分の芸も励みつつの練習は大変であったろうが、適当でも志ん朝さんが居るから大丈夫という雰囲気はなくなった。基本が固まってきたので、あとは楽しく踊っていることがお客に伝われば、もっとこちらも盛り上がって応援にも一層力が入るであろう。

にゃん子・金魚さんは相変わらず元気で楽しい。和助さんは新しい芸域を広げた。花島皆子さんはゆったりしたマジック時間。のいる・こいるさん出てくるだけで空気がざわざわ。川柳さんの笑和音曲噺は、真珠湾攻撃から4ヶ月はメジャーな軍歌でそれ以降2年半はマイナーな軍歌であったと実演。軍歌を聴いて戦争の悲惨さが身に染みた。順子さんはひろしさんを待ちつつ若手噺家を相手に順子・ひろしの漫才の間を披露。ひろしさんの代役は無理ですね。まねき猫さんはゆとりがでてきました。小円歌さんは三味も踊りも益々磨きがかかる。あれ古典落語の話題がない。そして女性が多い。すいません。暑いのと住吉踊りの時は後の楽しみで動きのある方に引っ張られます。

馬風さんから志ん朝さんの最後の弟子朝太さんが9月には真打ちに昇進の話。名前も志ん陽になるようです。雰囲気も陽です。馬風さんの<ここだけの話ですが>によると芸に厳しい落語協会小三治会長がきめたので芸のほうは大丈夫です。私のときは付け届けできめましたからと。

月日の立つのは早いものである。志ん朝さんが病気治療の頃談志さんは「癌でないというから心配なんだよ」。高座を降りて引っ込みの時「志ん朝、早く出て来い!ばかやろう!」

噺家さんの言葉は色々ひねっているのでそれなりの解釈をするのに時間の掛かる事が多い。

そんな談志さんも自分を見せきって亡くなられた。いや見せきったのかどうか、騙されているのかもしれない。お二人どんな話をされているのか。あちらでは多くの立ち見が出てるでしょう。あちらでは皆さん立っておられるのか。

数奇な茶室「如庵」

浅田次郎さんの話によると、文学教室の開催された有楽町・よみうりホールの場所から有楽町駅にかけて阿波藩蜂須賀家の上屋敷があり、東京国際フォーラムのあたりには土佐藩山内家の上屋敷があったそうだ。

有楽町の名前は、織田有楽斎が住んでいたのでその名が町名として残ったようである。

有楽斎は織田信長の実弟で、織田長益と言ったが、剃髪してからは有楽斎如庵と号している。

「如庵」(じょあん)といえば国宝の茶室「如庵」である。

「如庵」は、有楽斎が京都建仁寺の正伝院を再興したときに建てた茶室で、その後各地を転々とし、今は有楽斎の故郷尾張に落ち着いている。

明治に入ってから京都祇園町の有志に払い下げられたが、その後東京の三井家本邸に移築され、昭和11年国宝に認定される。

さらに神奈川県大磯の三井の別荘城山荘に移築され、最後は名古屋鉄道の所有となり、現在の犬山市にある有楽苑内に落ち着き公開されているのである。

東京では日本橋にある三井記念美術館の中に、「如庵」の室内を再現しているので様子を知ることができる。また大磯の県立大磯城山公園に「如庵」を模した「山城庵」があり中に入れてくれるので、「如庵」の雰囲気を味あうことができる。

有楽苑で国宝ということで見てきてはいるが、じっくりと出会うのは模造の方で本物と偽者も解かるまでには時間のかかることである。いや解かったわけではなく「如庵」という国宝の茶室があるという事実を知ったにすぎないが。

「如庵」の前に見た犬山城のほうが感動し、犬山城からみた木曽川も勇壮で、どうもそのほうに心を奪われていたようにも思う。

 

日本近代文学館

第49回 日本近代文学館 夏の文学教室

この教室に参加するのは数十年ぶりかも。7月30日~8月4日までだが、参加できたのは7月30日と8月1日の2日間。当文学館は全くの民間団体なので、文学の資料保存の意味からも大事にしていきたいものである。それぞれの専門家が、長年の研究と実践からの話を1時間。中身が濃く、こちらが調べたら膨大な時間の要する事を解かりやすく簡潔に話されるので楽しくて、色々メモしたが自分との繋がりが多義に渡りまとめ切れない。あまりにも沢山の好奇心を植えつけられ、嬉しい悲鳴である。

7月30日

日高昭二(大学教授) 「北をめざす人」

伊藤比呂美(詩人) 「土着のチカラ」

坂東玉三郎(歌舞伎役者) 「泉鏡花の世界」 聞き手 真山仁(作家)

 

8月1日

木内昇(作家) 「文士日記にみる東京」

川本三郎(評論家) 「鉄道が作り出した風景ー夏目漱石から松本清張まで」

浅田次郎(作家) 「江戸の基礎知識」

 

少しづつ、何処かで使わせてもらうことでしょう。