旧東海道 平塚から大磯を通り二宮へ(1)

「平塚」~「大磯」~「二宮」までが目標である。ただし、「平塚」と「大磯」での見学場所が多いので、目的地が見つかるがどうかによる。今回は、仲間一人が同道である。

JR平塚駅から、先ず<お菊塚>からにする。友は探しあてられず今回リベンジである。他の仲間は三回目で見つけたり、情報を得て一回で見つけたりという手強いお菊さんである。駅から紅屋町の表示が見える町内に入り、小さな公園と思ったが、あれ!違う。待ってくださいよ。こんなに近くはないか。友が、この辺りは私たちも捜していてもっと先にあったと言っていたよと。地元の人に尋ねる。そんなに駅から離れていたのかなあという位置にあり、無事に到達。経験の生かされない二回目の<お菊塚>である。

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東海道に出る。前回ゲットした平塚市の地図も出す。<馬入一里塚>あたりで道路が分れ、右手国道1号線、左手東海道となっていて、その延長線の道である。<馬入一里塚>近くに「榎木町」とあるが、一里塚に榎木が植えられていてその地区を「榎木町」と言ったのであろうかなどと想像するのも楽しい。右手に<平塚の江戸見附跡>。宿場の入口が判ったところで、お菊さんのお墓に向かう。「見附町」の名前がある。墓地の中を捜したが無い。地図からいうと端なので、道路脇から捜すとあった。真壁家墓所の中に。そして新しく<番町皿屋敷 お菊の眠る墓>の墓石があり、裏に父・真壁源右衛門さんの詠んだ歌が彫られている。「あるほどの花投げ入れよすみれ草」

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現場にもどれで、東海道にもどり、<脇本陣跡>。宿場の中心である。道路反対側に<東組問屋場跡>。戻って、<高札場跡><本陣旧跡><西組問屋場跡>。東西の問屋場があるが、仕事が大変なので、十日目交替で執務していたとある。ここから北へ入り、おたつさんの墓に向かう。<平塚の塚>のそばである。

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<平塚の塚>は、「ひらつか」の地名の由来の場所である。桓武天皇の三大孫高見王の娘・政子が東国の旅の途中逝去しこの地に埋葬され塚が築かれ、その塚が平になったので、里人が『ひらつか』と呼びそれが「平塚」の起こりとある。

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その近くに歌舞伎『鏡山旧錦絵』のモデル松田たつ女のお墓と顕忠碑がある。おたつは平塚宿松田久兵衛の娘で、萩野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中臈(ちゅうろう)岡本みつ女のもとに奉公にあがる。主人みつ女が年寄沢野から侮辱をうけ自害。たつ女は、沢野を討ち主人の仇をとったのである。歌舞伎では「お初」となり、この役で印象に残っているのは芝翫さんのお初である。年齢に関係なく主人を想う健気で一途な娘役が見事であった。御主人の尾上は雀右衛門さんであったと思うが、とすると、岩藤はどなたであったのであろう。後で調べてみることにする。

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これで安心、東海道にもどり、<上方見附跡>。解説板に広重の平塚宿の「縄手道」の浮世絵が紹介されている。平塚も空襲や区画整理で正確な東海道史跡が分らない部分もあるが、前方の高麗山(こまやま)から考えて、広重の絵もこの辺としている。絵は前方にこんもりとお椀のような山があり、山に向かう道の両脇は海である。不思議な絵であると思っていたが、このあたりは埋め立てられたのであろうと想像すると誇張しているとは思うが納得できる。平塚宿も終わりである。国道1号線と合流する。大磯に入る。

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花水川に架かる花水橋を渡り、大磯宿をめざす。右手に高麗山のふもとにある高来(たかく)神社の入口がある。この「高麗」も「高来」も朝鮮半島の高句麗(こうくり)に由来する。唐・新羅軍に敗れ国を追われた高句麗の王族関係の人々が日本各地に渡来し、大磯の高麗山ふもとに住み、開墾に尽力したという。海からこの高麗山が見えたのであろう。大磯は彩色の当時の様子を描いた解説板となる。

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虚空蔵堂

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化粧坂(けわいさか)あたりから国道1号線と分れ旧東海道に入る。松が少し残る道である。左に<虎御前の化粧井戸>がある。鎌倉時代は、大磯の中心はこの化粧坂あたりであったという。曽我兄弟の兄十郎の恋人虎御前は、この近くの山下長者の娘でこの井戸の水を使って化粧したであろうとの名前である。

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右手に<大磯一里塚跡>があるのを見落とし、戻って捜す。<化粧坂の一里塚>の絵入り案内板があった。市によっ史跡の解説・案内板は違い、石碑のところもあれば案内板だけのところもある。大磯の表示に慣れず、石碑的表示を捜していて見逃したらしい。

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JR東海道線の下の道を通る。友は一度ここを歩いていたが、時間が遅くなり暗く化粧井戸の案内板など何も見えず、ひたすら大磯駅を目指したのだそうである。保土ヶ谷の<権太坂>を私たちは旧東海道ではなく、大学駅伝の権太坂を歩いたのであるが、そのリベンジをしてから歩いたのでおそくなったらしい。私もリベンジしなくてはならないのであるが、一応、「保土ヶ谷」「戸塚」間は歩いているのである。

旧東海道つづき → 「平塚~大磯~二宮(2)」 2015年5月13日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

旧東海道 茅ヶ崎から平塚

茅ヶ崎から平塚は4キロくらいと思う。藤沢から平塚までが約13・5キロくらいである。茅ヶ崎駅近くに一里塚があったので、平塚付近にも一里塚があるはずだが、地図には無い。昔あった位置が不明なのであろうか。とにもかくも、今日は楽勝とJR茅ヶ崎駅から出発で国道1号線にでる。先ず最初は右手に<第六天神>がある。

 

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さらに進むと鳥井戸橋があり、<南湖左富士之碑>の石碑がある。京に向かう時、常に右に富士山が見えるがここでは左に見える<左富士>の地点である。

 

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静岡県の吉原にも<左富士>の地点があるが仲間の話しだと、今は建物があって見えないとのことである。JR吉原駅で降りると、正面に富士山があり、ひたすら富士に魅せられて突進して行ったため、東海道からどんどん遠ざかり、地元の方に<左富士>の位置を尋ねたところ、すぐ教えてくれたそうである。同じような尋ね人が多いのかもしれない。とにかくそれくらい素晴らしい富士山だったようである。道に迷ってもいいからそんな富士山にめぐり会いたいものである。

神奈川のほうの<左富士>は霞んで見えなかった。右手には大きな鳥居が見え、<鶴嶺神社>の入口である。参道が1キロあるという。それも両側がずーっと松並木である。往復2キロであるが、今日は歩く距離も短いので、本殿まで歩く。 <鶴嶺神社>にも大イチョウがあった。前九年の役の戦勝祈願に源義家が植えたものといわれている。このあたりの歴史はよくわからない。鶴の首のように長くて美しい松並木の参道であった。鳥居までもどり西を目指す。

 

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小出川を渡ろうとする手前の左に公園のようなものが見え案内板のようなものも見える。近づいてみると、水が張ってあり杭のようなものが出ている。これは、関東大震災のとき、源頼朝が渡ったといわれる橋の橋脚が出現したのだそうで、それを保護して守り、後に埋めてその上に、再現模型を作ったのが現在の形である。写真などが掲示されていて、木をどのように保護して埋めているかの図もあった。八王子城での礎石を思い出した。それにしても、地震の被害の大変な時によく遺したものである。歴史的知識のしっかりした人がいたのであろう。<旧相模川橋脚>とあり、相模川の流れの位置が変わったことを表している。頼朝は、この橋を渡った帰り道に落馬しており、その後この落馬が原因であろうか亡くなっている。

 

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史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」|茅ヶ崎市 (city.chigasaki.kanagawa.jp)

 

もう少し進むと現在の相模川があり、昔は馬入川とも呼ばれたのであろうか、橋は馬入橋とある。この橋はかなり長い橋である。時間があったので、平塚に着いてから平塚市博物館に寄った。そこでジオラマミニチュア模型の相模川のランプを押したら、赤い電気のランプが凄い範囲に広がり、幾つもの川が河口に集まっている様を目にして驚いた。相模湖からも流れてきているのである。 馬入橋の南側の海寄りに鉄橋が見え、橋の上では撮り鉄さんであろう、東海道線の電車を撮っているようである。撮ることに夢中のあまり、ヒンシュク者の撮り鉄さんもいるようである。

馬入橋を渡って少し行くと<東海道馬入一里塚跡>の石碑が建っていた。新しいので近年建てたのであろう。これで納得である。ここまで来ればJR平塚駅はもう一息である。

 

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平塚駅を背中に北へ向かい立派な<平塚八幡神社>と<平塚市博物館>に寄る。すぐそばの平塚市美術館には一度来たことがある。バスを使ったが歩ける範囲であった。 <番町皿屋敷>のお菊さんの塚があるので、それだけは見つけて帰ろうと思うが、仲間が苦労したというので、市民センターに寄り平塚の地図をもらい、<お菊の塚>を聞いたが詳しい位置を知る人はいなかった。市民センターの手前に<平塚見附跡>があり、ここからが<平塚宿>となる。

 

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お菊の塚>は商店街の間に挟まるような小さな公園にあり、それも、背の低い草木に囲まれ見落とすところであった。解説板があった。

お菊は平塚宿の役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため、江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主膳の意のままにならなかったため、家来が憎み、お菊が皿を紛失させたと主膳に告げ口し、手打ちにかけられる。死骸は長持ちに積められ馬入の渡し場で父親に引き取られる。源右衛門は、死刑人の例にならい墓を作らずセンダンの木を植えて墓標にしたと。

 

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今は、真壁家の墓所にお菊さんのお墓がある。このお墓は、次の「戸塚」から「二宮」での東海道歩きで探し行くことが出来た。さらに、歌舞伎『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』のお初のモデルとなった松田たつさんの<義女松田たつ女顕忠碑>もありちょっと驚いた。

お菊さんの塚が見つかり、目的達成の「茅ヶ崎」から「平塚」である。

 

旧東海道つづき → 「平塚~大磯~二宮(1)」 2015年5月12日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

旧東海道 藤沢から茅ヶ崎

旧東海道歩きも、気ままさゆえに自分でもどこまで歩いたか混乱している。飛んでいるから間を埋めなくてはならない。というわけで一人、藤沢から平塚までの予定であったが、茅ケ崎までとなった。

藤沢での旧東海道を見つけるのが大変であった。戸塚から藤沢までの時、遊行寺の後、浅間神社に寄って一応おしまいとしてJR藤沢駅に向かったため、遊行寺の出口を参道の階段ではない方の黒門から出ていたので遊行寺橋を渡っていなかった。地図に<遊行寺橋>とあるのに、実際にある<藤沢橋>を名前が変わったのだと勘違いしたのである。地図には<藤沢橋>の名前がなかったのである。北側にもう一本道があり迷ったが<藤沢橋>を背にして進んでしまった。そろそろ右手に<藤沢公民館>が出てきてもいいはずだが出て来ない。人に訪ねると道が違うと思うとのこと。仕方がない。迷ったところまで戻るしかない。<藤沢橋>を右手に北に向かうと旧東海道の案内板がある。完全に間違っていた。さらに進むと右手奥に赤い<遊行寺橋>があった。

 

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昨年はこの参道の階段から見事な桜を眺め見降ろしたのである。遊行寺の境内まで上がる。あの美しかった八重桜も、今年は終わりを告げていた。その分、銀杏の木が青々と元気な姿を誇っている。一度この銀杏の秋の色も堪能してみたいものである。

 

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心機一転、階段を下り、旧東海道に向かう。出てきました。右手奥に<藤沢公民館>が。この辺りが藤沢宿である。<蒔田(まいた)本陣跡>の標識、左手の消防署の前に<坂戸町問屋場跡>の標識。<問屋場(といやば)>というのは、幕府の公用の役人の旅のお世話をする事務所である。人足や馬を手配したり宿を世話したりと役人相手の仕事なので気を使い大変だったようである。

 

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消防署の裏手の常光寺のさらに裏手に<弁慶塚>があるというのである。結構探すのにてまどった。裏とあったので、お寺の脇からまわり裏から入ったが、本堂側に降りてきたところにあった。文章と文庫本の地図で探すので距離感が予想になる。この本の編纂にかかわった方の一人が、保土ヶ谷駅近くのお蕎麦屋さんのご主人で、偶然そのお蕎麦屋さんに寄り、その事実を知る。「この本だけで歩いてるの。」と驚かれ、それからは手に入ればパンフレットなども使うが、私たち仲間はこの文庫本が好きである。「迷って地元の人に聞くのも旅を感じるよね。」「言葉と会話の理解の幅も感じるし。」古いことは年配者がよく知っているが、道のみに関しては若い人のほうが、簡潔に説明してくれる事もある。

旧東海道にもどり、先の右手奥に、源義経を祀った<白旗神社>がある。白旗神社に向かう前に<義経首洗い井戸>があり、奥州で亡くなった義経の首が首実検のため鎌倉に送られ、そのあと片瀬の浜に捨てられたと「吾妻鑑」にある。その首が境川をのぼりこの地に着き、里人によってこの井戸で首を洗ったと伝えられている。

 

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<白旗神社>には、その石に触ると健康で病気にならないというに<弁慶の力石>があり、芭蕉句碑もある。「くたびれて宿かる比(ころ)や藤の花」。藤はまだであったが、藤が風にゆれているのを想像したら、くたびれたというため息が似合っている。ただし句碑の上の藤棚には「弁慶藤」とあった。元気がよさそうな藤である。白旗神社のお祭りには、義経と弁慶の二基の神輿が出るとのこと。

 

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<白旗神社>から旧東海道にもどり、道路の反対側の奥に<永勝寺>があり、このお寺には、<飯盛女>と呼ばれていた旅籠で給仕と同時に遊女の側面をもっていた女性たちのお墓もあった。彼女たちを抱えていた旅籠小松屋が、39人の墓を建て供養したのである。悲しいかなこのように供養されたのは珍しいことである。東京には、投げ込み寺というのもある。

 

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小田急線の「藤沢本町駅」を右手に進むと、道路左手に<見附跡>がある。道路左右に史跡があるので、横断歩道を右に左に渡り歩きつつ進まなければならない。<見附>があれば、藤沢宿のはずれである。引地川に架かる引地橋を渡りひたすら西に歩く。このあたりは国道一号線と旧東海道が一緒なのであるが、のちに気が付くが、この引地橋手前で国道一号線を外れて旧東海道を歩く部分があった。それを見逃していた。このうかつさは、大磯から二宮での歩きで経験する。

西へひたすら進むと、東海道と大山詣でへの道とに分かれる分岐点にぶつかる。小さな<四谷不動>の堂があり、右手には大山道に向かう道で石の大鳥居が立っている。この鳥居を潜って、大山詣でに向かうのである。関宿の伊勢路への鳥居を思い出す。

 

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大山も行ってみたいとおもうが、こちらは東海道を進む。そして<一里塚跡>がある。JR辻堂駅と並ぶ位置である。松並木が少し残っている。<茅ヶ崎一里塚>に至る。一里約4キロ。街道の両側に盛り土をして、その上にエノキなどが植えられた。この木の木陰で行程の検討をつけホッと一息ついたのである。近頃では私たちも、この一里塚の跡などで行程を考える。藤沢から茅ヶ崎で約8キロである。

 

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今回は平塚まで行く予定であったが、道を間違え時間的ロスもあったので茅ケ崎までとしてJR茅ヶ崎駅に向かう。折角であるから、志ん朝さんの『大山詣り』のDVDを楽しむことにする。

 

旧東海道つづき「旧東海道・茅ケ崎から平塚 → 2015年5月11日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

大山詣り → 大山詣り | 悠草庵の手習 (suocean.com)

八王子城跡

小説『RDG レッドデータガール』に<八王子城>が出てきて初めて八王子市にお城があったのを知る。ただし山城である。天守閣のある城ではない。

『RDG レッドデータガール』では、( 熊野古道の話題増殖 ) 主人公の泉水子(いずみこ)が東京の高校に入学するが その高校が八王子にあるらしいことがわかる。そして、泉水子たちは肝試しに夜、<八王子城跡>に登るのである。ここで初めて<八王子城>とその歴史を知る。<八王子城>に行かなくてはと仲間うちで話しつつ、行こうとすると雪が降ったりして延び延びになってしまった。

仲間の一人が、高尾山で春限定の精進料理があり、それも行きたい のだがということなので、高尾山と八王子城の二つを組み合わせることにする。雨の時は中止なので予約しなくてよい精進料理とし、11時からなので10時半に高尾山薬王院での待ち合わせとする。元気な人は先に、高尾山入口から山頂まで登り、降りてきて藥王院で待ち合わせである。

<八王子城>が本命であるから、体力温存組はケーブルカーで上がり、薬王院に向かう。ご本尊の随身は大天狗と子天狗(烏天狗)である。今回で高尾山は三回目であるが、全てケーブルを使っていて次の機会には、下から登ることにしよう。一度はダイヤモンド富士を見るために一人で来たが、期待していたよりもダイヤモンド富士は地味であった。

精進料理は、これから行動するものにとっては胃に優しかったが、これからが本番という気持ちも薄めてくれて、さあこれからと気合を入れる。

JR高尾駅北口からバスが出ていて、平日は八王子城跡まではバスは出ていない。霊園前でバスを降り歩きとなる。途中に北条氏照と家臣の墓がある。氏照はここでは死んでいない。

八王子城は、三代目の北条氏康の三男氏照が築いた山城である。豊臣秀吉は小田原城を取り囲み、他の北条氏の城は配下の大名たちに攻めさせる。氏照は小田城で徹底抗戦の構えでこもっていた。八王子城は、前田利家と上杉景勝らの連合軍に猛攻撃で攻められ、城主なきまま一日で落とされて、多くの犠牲がはらわれる。この八王子城の落城が小田原城開城のかなめとも言われ、氏照は小田原城で切腹している。小田原にも墓があり、ここは、氏照の百回忌に建てられたものである。樹木の間にひっそり建っている墓は無念そうである。

脇道のお墓からもとの道にもどり進むと、ガイダンス施設があり、映像「八王子城物語」が見れる。ここでパンフレットなどを手にし、管理棟まで行きガイドボランティアをお願いする。お願いして正解であった。山城の知識などないので、見学しただけでは想像力が働かない。

普段住居としている御主殿部分と闘うための本丸とは離れていて、管理棟を軸に道が違うのである。まずは御主殿跡を案内してもらう。石垣ではなく<土塁>で周囲をかこんでいる。これが石垣よりもすべって登りづらいのである。それも関東ローム層の粘土質である。ただ雨などで崩れやすいので、間に石を挟む形にしている。関東が石垣の城が出来たのが遅く城作りが遅れていたと言われるがそんなことはない。自然の力を生かしたのであると強調される。上の方に古道があり、そこから橋が架かって御主殿へ入るかたちとなるが、今その橋は架かっていない。新しくするため古い橋は外されてしまっていた。

<御主殿の滝>。多くの人々が滝の上流で自刃して身を投じたため、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられる滝である。「今、小説やアニメの影響で心霊スポットとして知られています。」「私たちも小説組です。」「見ての通り、飛び込むような滝ではありません。城は焼かれますから、ここに逃げ延びて自刃したとは考えられます。」確かに想像していたより小さな滝であった。

御主殿跡には礎石の後に石が並べられているが、一度掘り返してまた埋めたそうで本物ではない。その礎石には、柱の焼け跡が残っているそうで、仲間が、「ガラス張りか何かにして見えるようにするといいですよね。勿体ない。」という。「そうなんですよね。一つでも本物をね。」なるほど。跡が残るほど火の勢いが激しかったということか。御主殿は、役所や争い事の仲介のような仕事の場でもあった。客殿が北向きなのは、その前の庭が南向きで、植物や花などが南を向くから良い姿を眺められるということで、北向きなのだそうだ。なるほどそういうふうにも考えられる。「庭の奥の小屋は茶室ではなかったかと想像するんですがね。」ここから、ヴェネチア産のレースガラスや中国産の皿も見つかっている。

解説を聞くと、次第に御主殿が想像の世界に表れてくる。というわけで、時間がオーバーしてしまい、本丸まで4、50分はかかるため往復する時間が無くなってしまった。ここは自然に恵まれ、12月には鬼女蘭という白い鬼女の髪の毛のような花が咲くと言う。それを食するアサギマダラという海をも渡ってしまう蝶が飛ぶのだそうである。本丸は再度12月に訪れよとのことと判断し、帰路につくことにした。

連休前の暑い日で、これから本丸まで登る気力が失せてもいたのである。新緑のこの自然の中で凄まじい戦さがあったのである。年に数人道に迷うかたや、違う方向に下りてしまうかたがいるという。「精進料理食べてる場合ではなかったね。」と提案者がいうが。「いいわよ。魔女蘭に会いに来よう。」「違う。鬼女蘭!」

 

 

 

『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と『龍三と七人の子分たち』

バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と『龍三と七人の子分たち』の二本の映画の関連性はない。たまたま、久方ぶりに新作映画を続けて観たのである。関連するといえば、かつて名を鳴らした人が埋もれていて、再起をかけて発奮するということであろうか。

バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』は、かつて「バードマン」という映画で名声を得たスターが、今は映画の仕事もなく、舞台演劇の役者として再起をかけている。その主人公役が、マイケル・キートンで、彼は映画『バットマン』で主役のバットマンを演じたため、そのこととも重なって評判をとり、演技力も改めて認められた。「バードマン」は、<鳥男>という意味らしく、主人公のリーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ち目となっても常にその<鳥男>に付きまとわれている。「バードマン」としての華やかなりしころの想いを<鳥男>は運んできて今の彼を苦しめる。

映画の中では、彼が望むと物が動いたりするが、それは、彼の心の妄想を表す。何とかブロードウェイでの舞台を成功させたいと必死なのであるが、その舞台裏は、お金のこと、共演する役者のこと、劇評家のことなど難問山積みである。さらに、離婚後引き取っている薬物依存症の娘(エマ・ストーン)をそばに置き、付き人として手伝わせている。役者の一人が装置の落下で怪我をして、新しい役者・マイク(エドワード・ノートン)を雇う。これが上手いのであるが、アルコール依存症である。怪我をした役者には保障金を請求され、マイクは舞台上で勝手な演技をする。 追い込まれたリーガンは「バードマン」となって自由に空を飛ぶ。そして彼はある決心をする。舞台のリーガンは迫真の演技を見せる。しかし、それは現実には失敗に終わる。現実には失敗するが、彼はそこで、<鳥男>と決別して飛べたのだと思う。娘が、ラスト「パパったら!」とにっこり笑うのがその証と思う。それが、長いタイトルの『(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と解釈した。

これまた、解釈の分れる終わり方なのである。<バットマン>や<バードマン>(こちらは予想であるが)の奇跡的はハッピーエンドに重ねた。 マイケル・キートンとエドワード・ノートンのプライドの対決も面白い。思わぬ災難からリーガンのブリーフ一枚で街中を歩く姿がネットで公開となり、アクセス数が膨大な数となるのが現代のネット世界を象徴している。舞台裏をみせつつ、心理を超常現象にしているところが技巧的である。

映画『バットマン』も思い出す。どれが『バットマン』映画の中で一番かは、これまた好みがありケンケンガクガクである。

龍三と七人の子分たち』は、ただ笑って楽しむ、任侠おじいちゃんのファンタジーであり、任侠映画へのオマージュである。

兄貴分の龍三(藤竜也)とマサ(近藤正臣)は時々逢っている。昔の仲間のはばかりのモキチ(中尾彬)が詐欺行為の現場で、若い者に暴力を受けているのを助け、龍三がオレオレ詐欺に騙されたこともあり、組を復活させることにする。昔の仲間にハガキを出し、上野の西郷さんの像の前で一人、また一人と現れるのも見どころの一つである。 早打ちのマック(品川徹)、ステッキのイチゾウ(樋浦勉)、五寸釘のヒデ(伊藤幸純)、カミソリのタカ(吉澤健)、出来すぎの場面で登場する神風のヤス(小野寺昭)で、<龍三+七人>となるのであるが、この元ヤクザおじいちゃんたちの親分の決め方が面白い。それを記録する飲食店の店主の職業意識も笑わせる。これは、北野武監督が楽しんでアイデアをドンドンはめ込んでいったオモチャ箱である。

『バードマン』のリーガンがブリーフ一枚なら、龍三親分はもっとド派手である。案外繋がるものである。 どういうわけかことが起きると、京浜連合の若い者たちと繋がってしまう。因縁の対決である。騒動のきっかけは、はばかりのモキチである。この方、落語の『らくだ』のかんかんのうを踊るラクダの役目もし、何回も死んでしまう任侠映画の役者さんをも連想させる。はばかりながら、<はばかり>という言葉も死語に近いかも。バスで商店街を走る場面は、終戦直後の闇市を走り回るところを、老人だから、バスに乗せてしまおうと考えられたかどうかは謎である。

所どころに挟まっているセリフが、ㇷ゚ッ!と吹き出してしまう。 北野監督は遊びながらも、任侠おじいちゃんを格好よく収めてくれる。マルボウ担当の刑事役者として、仕方がないな格好悪くはできないしと、登場するのである。最後まで<龍三と七人>は恰好よく任侠を貫けるのである。

どうしてこの映画を観たかというと、世田谷美術館で『東宝スタジオ展 映画=創造の現場』を見たのであるが、範囲も広く展示方法に心踊らなかったのである。最後に、砧の東宝スタジオを使用したということであろうか、新作の映画のポスターがあり、そこに、『龍三と七人の子分たち』のポスターが目に止った。『オーシャンズ12』? 北野武監督? 情報つかんでなかったな。これは見ようと思ったのである。近日公開の同じようなポスター映画の予告をやっていたが、ポスターに関しては若手のほうが一歩遅れを取った感がある。 これは、えっ!と思ったときが勝負である。

昔を忘れられないおじさんたちの困った<八人>であるが、人にやらせるのではなく、自分たちが鉄砲玉になるのであるから、威勢がよくても笑って済ませられる。

 

『ART アート』(サンシャイン劇場)

1999年初演であるから、16年ぶりの再演ということになる。笑いもあるが、コメディでありながら、かなりシリアスな人間関係のなかの<笑い>であり、人が他人の本性をのぞき見してしまった時の<笑い>でもある。

市村正親さん、平田満さん、益岡徹さんの三人の共演ということで、初演を観ているが、最終的には難解であった。お客さんの拍手が静なのは、考えられているのであろう。頭の中に、整理のつかない余韻が残っているのだと思う。こちらがそうなので、皆さんもそうであろうと勝手に解釈しているのであるが、ただ今回は、再演ということもありなんとか蓋を閉めて再度開けられた。

初演の時はマークの市村さんが、お得意のキザな演技で笑わせてくれ、セルジュの益岡さんがマークの優位に立てぬ焦りを強調し、イワンの平田さんは二人に利用されつつ自分を埋もれさせていた印象であった。

今回は、マークは冷静と不安を表し、セルジュは仕掛けた側のゆとりもあり、イワンは、しっかり自己主張している。三人の中に潜む感情の渦が、時間をかけて育てられた演技力と経験から、より深いところから湧き上がってその激しさを静かに現してゆく。

舞台は真っ白な一室である。下手側のサイドテーブルの透明のガラス瓶の中には、赤、青、黄色の液体が入っている。交替で登場するマーク、セルジュ、イワンの衣装は黒である。始まりから印象強い舞台設定である。そこへ問題を引き起こす、白に白の線が描かれている絵が登場する。セルジュが500万で買った絵である。この絵にその値打ちがあるのか。絵の金額の高さが絵の価値とする基準から、マークとセルジュの物事の価値観に対する感性の対決が始まる。

次第に、今まではマークの価値観にセルジュが賛同し賛美し支配されていたことが判ってくる。イワンにとって、そんなことは、どうでもいいことで、二人の和の中に挟まって、現実から逃避できる空間が大好きだったのである。

このバランスが次第にくずれてくる。この過程を役者さんの台詞と動きと表情で読み取っていくわけである。その駆け引きの狭間で笑いを起こす。

この三人だけの長い関係にも、後ろには、パートナーが加わり、新たな家族が加わる。その背景も、三人の関係を微妙なものにしていく。すでに、現実の厄介さをしっかり体現している イワンは、現実とは違う三人の関係を壊す方向に行く二人に混乱し、狼狽えてしまう。二人が笑うであろう自分の現状をぶつける。

或る面では、三人を一人と考えるなら、マークとセルジュがアートの表現に携わる部分とすると、イワンは生活を意味するともとれる。

三人は、相手に対するお互いの本心を少しづつ出し始める。そのことによって、当然傷つくし、傷つけあう形となる。こうした関係はどこにでも存在する人間関係である。

ではこの三人の関係の修復はあるのか。マークとセルジュは、自分の心にもう一度蓋をして、二人のお試し期間を設けるのである。だが、最後の二人の台詞から、寸法の合わない蓋をしたことがわかる。マークは、セルジュの買った白い絵に青色のペンで絵を描く。その絵に三人のその後が暗示されているように思う。イワンもきちんと自分の居場所を探す。

そして、アートという物は、この三者のせめぎ合いの中で生まれるのかもしれないと思ったりもした。初演の時のほうが、三人はもう少し単純な部分があったが、今回はその空白部分に一筋縄ではいかない人格が作られた。それを味わいつつ、自分の中では、この芝居に一つの結論が出すことができた。結論が出るかでないか。出たとしてもそれぞれの違いはあるであろう。そして、静かに拍手である。

作:ヤスミナ・レザ/演出:パトリス・ケルブラ/美術:エドゥアール・ローグ/出演:市村正親、平田満、益岡徹

一つ要望したいのは、16年前は、料金が、A席、B席、C席であったが、今回は、A席とB席の二つである。こういうセリフ劇の場合は、16年前の踏襲でお願いしたい。

加藤健一事務所『バカのカベ~フランス風~』

再演である。今回はラストでピエール(風間杜夫)が、フランソワ(加藤健一)に「バカ、バカ、バカバカ、バカ」と連発するのであるが、その<バカ>に含まれている幅が、初演の時よりも大きく揺れ動いた。

<バカのカベ>を一度突き破ったところの、<バカ、バカ、バカバカ、バカ>なのである。

ピエールは、フランソワを自分の趣味の世界しか見ない変わり者としての笑いの対象とした。ところが、フランソワはそれだけではなかった。人が困っていると、その人のために何かしてあげたいという性格で、<バカ>の<カベ>の向こうにもう一人の親切なフランソワがいる。しかし、その行動がことごとく裏目に出てしまうというフランソワがいたのである。そしてフランソワにかかると、全ての事実が表にでてくるという、厄介な親切でもある。

それは、他人のことだけではない。自分の置かれた事実も表に出し、きちんと把握し自分で受け止める。自分が笑われるためだけに呼ばれるたパーティーのこと。それを仕掛けたのがピエールであること。それでいながら、フランソワはピエールの危機を救おうと親切心を起こし行動する。頼もしきフランソワ。感動的な幕切れと思いきや、フランソワのパターンは変わらなかった。次の行動が裏目を出してしまうのである。

だが、ピエールの最期にフランソワにぶつける<バカ>は、フランソワをパーティーに呼んだときとは明らかに違う。

波乱に満ちた一定時間を一緒に過ごした後の、あらゆる感情が含まれている<バカ>という言葉なのである。

「ばかだな泣いたりして。」という、女性に対する男性の常套句のような言葉があるが、この時の<バカ>には、可愛さも含まれている。一つの言葉でも含まれているニュアンスが違う。ピエールの言葉もそれで、「何て事してくれたんだ。ああやはり油断すべきでなかった。どうしてくれるんだい。あんなに喜ばしておいて。」

初演の時は、笑いだけだったが、この二人の人間関係が、良いにしろ悪いにしろ、濃密になったことが判った。その濃密さが、人間の可笑しさの幅を広げて伝わってきたのである。芝居ではあるが、芝居をしている時間空間に登場人物の生臭さが注入されていった感じである。

初演の時は、<バカ>の前に<カベ>が立ちはだかっていて、その壁にぶつかったピエールの自身のばかさ加減がフランソワによって跳ね返されたと感じたが、今回は<カベ>の向こうにいつの間にか連れ去られ、再び戻った時には、今までとは違う人間関係になっていたのでる。ただの笑いだけの芝居ではなかった。人間のあらゆる感情をも網羅していたのである。

登場人物たちの関係も、近かったり離れたり。客観的だったり、感情的だったり。冷静であったり困惑したりという面白さが見えた。再演による、より役に成りきっているため、こちらも、その人物を自然に受け入れ易くなって楽しめるゆとりをもてたからであろう。笑いとは、その人物が真面目であればあるほど笑いになるものらしい。

初演の時の感想である。 『バカのカベ~フランス風~』(加藤健一事務所)

作・フランシス・ヴェベール/訳・演出・鵜山仁/出演・風間杜夫、加藤健一、新井康弘、西川浩幸、日下由美、加藤忍/声の出演・平田満

下北沢・本多劇場 4月24日~5月3日

 

時代劇映画の流れ

忍者映画を何本か観て、『時代劇は死なず! ー京都太秦の「職人」たちー』(春日太一著)を手にした。「よくぞ、来てくれました!」である。時代劇映画の流れがよく解るし、時代劇映画に携わっていたそれこそ<影>の「職人」さん達のことが沢山のドラマとなって浮かび上がる。これは、春日太一さんのデビュー作であるが、よくぞ書いてくれたと思う。

今まで観た映画と重なり、さらに観たくなる。<時代劇映画ドンドン>である。黒澤監督映画の出現で、時代劇映画は変って行く。大映は、『座頭市物語』『忍びの者』。東宝は『切腹』。テレビ界では、『三匹の侍』。東映も『十七人の忍者』『十三人の刺客』など今まで脇役であった立場が主役となる。

『新撰組血風録』の原作者、司馬遼太郎さんは、東映の『新撰組血風録 近藤勇』には、「新撰組を動かしたのは近藤ではなく土方」だと激怒して、東映でのドラマ化を認めない。その時、池波正太郎さん原作の『維新の篝火』をみせ、原作を曲げないことを約束する。司馬さんは、この『維新の篝火』を気に入っていたという。

このDVDを借りる時、躊躇した。片岡千恵蔵さんの土方歳三である。近藤勇なら解かるがと期待せずに観たら、これが良かったのである。千恵蔵さんの悲恋も、作りかたで嵌らせることができるのだと、不思議な気分にさせられたのである。それを、司馬さんも気に入っておられたと読んだときは、やはりと思って、この本が益々面白くなってきた。

本を読む前に、映画『赤い影法師』『忍びの者』『続 忍びの者』をみた。『赤い影法師』は大川橋蔵さんで、橋蔵さんの忍者物は観たくないなと思っていた。この際だからと観たのであるが、市川雷蔵さんの『忍びの者』と違い、美しく、スター主義である。ただ、これはこれで、面白いのである。原作は柴田錬三郎さんである。柴田さんというと、和歌山県新宮市にある<佐藤春夫記念館>を思い出す。佐藤春夫さんの東京での住いを移築しており、一階にある暖炉のある洋室の応接間に畳が何畳か置かれ、そこに柴田錬三郎さんが訪れた時に座る定位置があったのである。佐藤春夫さんと柴田錬三郎さんとは異質の感じがするが、師弟関係も幅が広いものである。

映画『赤い影法師』は、関ヶ原で敗れた石田三成の娘が、木曽の女忍者となり、服部半蔵の子を宿し、その子が若影となって母影と共に行動する。若影が大川橋蔵さん、母影が小暮美千代さん、服部半蔵が近衛十四郎さんである。時代は徳川家光のとなる。その他の配役を紹介する。これが豪華。

柳生宗矩(大河内傅次郎)、柳生十兵衛(大友柳太朗)、徳川家光(沢村訥升・九代目澤村宗十郎)、柳生新太郎(里見浩太朗)、水野十郎左衛門(平幹二郎)、春日局(花柳小菊)。その他、黒川弥太郎、大川恵子、東野英治郎、山城新吾、沢村宗之助など。

作品公開が1961年。監督が小沢茂弘さんで、これがまた、司馬さんが激怒した『新撰組血風録 近藤勇』の監督でもある。『新撰組血風録 近藤勇』が見たくなる。スター主義に則った忍者映画である。大川橋蔵さんが忍者役でもきちんとファンの期待には応えている。母影の小暮さんと若影の橋蔵さんの組み合わせもいい。そして、若影と父・服部半蔵との対決も近衛さんが好演である。近衛十四郎さんは、他のスター役者さんとは一味違うリアルさを含んだ演技である。ここから、『柳生武芸帖』に行くのがわかる。大友柳太朗さんの柳生十兵衛は納得できなかったが、『十兵衛暗殺剣』(1964年)の近衛十四郎さんの柳生十兵衛と対決する、幕屋大休の大友柳太朗さんで満足。この対決は見応えがある。湖面の照り返しを顔に当てる撮り方なども工夫がたっぷりである。

『忍びの者』が1962年であるから、時代劇の風の流れがわかってくる。それを教えてくれるのが、春日太一さんの『時代劇は死なず! ー京都太秦の「職人」たちー』である。好きに時代劇映画を選んでも、時代的流れの中に位置付けできるので、楽しさが倍増される。

時代劇がテレビの時代となり、近衛十四郎さんの『素浪人月影兵衛』大川橋蔵さんの『銭形平次』、『新撰組血風録』『木枯らし紋次郎』『必殺シリーズ』『鬼平犯科帳』等々が生まれる流れも解き明かされる。

さらにそこに映画の<影>の職人さんたちがどう係ってきたかを、綿密に取材し書かれているのであるからたまらない。スター主義の映画も役者さんの見どころを組み合わせる手法も好きであるし、その衣装、美術、撮る角度、セットの豪華さも見る楽しみ一つである。リアル系にいけば、いったで、その影の力の勢いは映像に現れるものである。

時代劇映画を懐かしさで見ていない者にとって、『時代劇は死なず!』は必読の一冊である。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(7)

地図を見て確認していたのであるが、奈良県庁と東大寺の間の道を真っ直ぐ北へ進むと佐保川にぶつかり、そこで二俣に別れ、直進が般若寺方面、右が柳生方面で、その柳生方面の道も途中で、柳生方面と浄瑠璃寺方面へと別れるのである。ただし、<旧柳生街道>は別に位置する。

私が、<般若寺>の帰りバスに乗ったのは、東之阪町バス停であろう。もしそのまま歩いてもどるなら、左に<転害門>をみて、右手の西方向に進むと<聖武天皇・光明皇后陵>があり、佐保路の一部である。御領を背に近鉄奈良駅方面の南に向かうと、<奈良女子大>がある。ここは、奈良奉行所の跡地で、本館と校門は明治時代の建築物である。そこから近鉄奈良駅へもどれば、行きとは違う道を戻れることとなる。

このことを、<般若寺>に行った友人に、こういう道もあったと教えると、「帰りはその道で帰ってきたよ。」とのこと。さすが調べていったようだ。完璧である。

友人は二月堂の<お水取り>を、上の回廊の方で見たそうで、今度は下から見たいとのこと。反対に私は機会があれば上で、見たいものである。あの下駄の音が聞きたい。

他の仲間が、「失踪したお兄さんを捜すため、妹が奈良を探し求め、奈良のほとんどが出てくる小説がある。」と言う。彼女の本の紹介には、なぜか乗りやすい。行ったところばかりなので、風景にのせた登場人物の動きなり、心理を追って行けばよい。ところが、一つ行っていない所があった。名前は出て来ないがある庭が出てくる。

そこは思いかけず雄大な風景が広がっていた。庭自体はそんなに広くないのだが、若草山や東大寺がすっぽり借景となって庭に深い奥行きを与えているのでだ。

この庭は、<旧大乗院庭園>と思われるのである。この小説に出てくる奈良で、ここだけは行っていない場所なのである。小説でも「五、答ふるの歌」の章で、かなり解明が深まるところである。小説に関係がなくても、訪れたい庭園である。次に訪れる時は、心して置こう。

小説名は『まひるの月を追いかけて』(恩田陸著)である。小説のほうは、兄を中心に二人の女性が、兄を通過しての心模様が映し出される。妹は旅を通して二人の女性のことを知り、そのことを通して幼い頃の記憶を紡ぎ出す。兄の中に存在する、遥か彼方にいるもう一人の女性との思いがけない巡り合わせとなる。奈良の風景が映像のように流れていく。

どちらも、近鉄奈良駅から歩いて行けるところなので、<奈良女子大>から<聖武天皇・光明皇后陵>までの道と<旧大乗院庭園>の空白部分を、埋められるであろう。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(6)

二月堂のお水取りを友人に勧め、あと何処がお薦めかと聞かれる。<般若寺>をあげる。友人の時間的配分から考えると、近鉄奈良から歩いて30分なので、その後お水取りまで、食事の時間もとれる。薦めていながら私はまだ行っていないが訪れたいお寺なのである。

花のお寺でコスモスが有名のようであるが、友人が行った時は水仙が咲いていていたそうである。そのお寺の先に、<奈良豆比古(ならずひこ)神社>があり、この神社では、神事としての『翁舞』が秋には毎年舞われているとの情報を持ち帰ってくれた。説明を読んでも上手く捉えられないが、三人の翁が登場するのが、この『翁舞』の特色であるらしい。猿楽の初期の形が残っているということであろうか。

今回の旅の締めはには是非ともこの二箇所をと思い、訪ねることができた。<般若寺>はバスでも行けるが、30分ならバスを待つなら歩きとする。<般若寺>に向かいつつ、<お水取り>のツアーで来た時、夕食をとったお店の前を通る。夕食の後、ガイドさんが、二月堂まで連れて行ってくれたのである。<お水取り>が終わると、自力でこのお店前のバスまで戻ったのである。この食事処は、かつて旅館で正岡子規さんが泊られ、この旅館で柿を食べられたということで、<子規の庭>と句碑が整備されていた。なるほどここであったかと地理的確認ができ<般若寺>に向かう。

 

 

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道が二俣になり、<般若寺>の道標がある。もう一つの道は、柳生の方に向かう道らしいが詳しくわからない。バス停もここまでもどればいいのだと検討をつける。途中で、夕日地蔵がある。<般若寺>の前を通り過ぎ、神社に向かう。道路からすぐの神社である。

 

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中の敷地も広くなく、本殿のすぐ前に舞台があり、神様もすぐ前で奉納舞をご高覧になるわけである。

 

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翁舞を舞うかたは決まっていてその方々が順番で舞うようだ。今では広く知られるようになり10月8日は境内狭しと見学者があるらしい。かつてあった高札場も新たに設置され、今は人通りは少ないが、ここが、いかに人々の集まるところであったかが伺える。裏が森でここからは入れなくてぐるっと周るといわれ周ってみたが入口が無い。どうも違う周り方をしたようである。反省。きちんと確認すること。鵜呑みにしないこと。

先日友人と交番で道をたずねた時のことを思い出す。「駅の反対側に交番がありますから、そこでもう一度聞いて下さい。」二人とも「駅の反対側のすぐの交番ですね。」と理解。「いえ、すぐではありません。その交番の位置をこれから教えます。」ここは、そんなそばに交番が二つもあるのだとちょっと疑問に思ったのだが、勝手に、交番を作ってしまった。

諦めて、<般若寺>に戻る。来た時よりも、この坂道が時代を超えて見つめていた空気を感じる。

 

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<般若寺>の受付で、疑問に思っていたことを質問する。「『宮本武蔵』の般若坂の闘いとこの道と何か関係がありますか。」「この坂が般若坂です。昔はこの道が京へ行く道だったんです。」そうなのか。映画で若草山と思える場所で僧兵と闘うので、般若坂はその近くなのだろうと思ったがそうか、ここなのか。握りこぶしである。

これから庭の手入れをされるようで、沢山の土などの袋が置かれている。桜と椿が少し色をそえる。お寺の大きさに似合わないほど大きな十三重石宝塔が見える。この宝塔の東側に薬師如来、西側に阿弥陀如来、北側に弥勒如来、南側に釈迦如来がほられてある。

ここの楼門が凄いのである。鎌倉時代の日本最古の貴構で、屋根の先端が鳥の翼のように反っているのである。これは道路から眺めたほうが良い。この楼門の内側に、<平重衡公供養塔>があった。平清盛さんの五男で、奈良を治めようとして闘いとなり南都を焼け野原にしてしまうのである。東大寺に避難していた人々もその猛火のため多くの人が亡くなり、重衡さんは斬首され、、南都の人々によって<般若寺>の門にさらされたとも言われている。

お寺の方の話しだと、ここは平城京の北の鬼門にあたり、そのために建てられたとされ、高台にあり、いつも戦場の場所となり、折から北風に煽られ下まで火が走ったのであろうとのこと。色々な戦を見て来た場所なのである。今は、コスモスなどのお花の寺として、北に位置している。

本尊は、逞しい獅子に坐している凛々しい小ぶりな文殊菩薩様である。秘仏が白鳳時代の阿弥陀如来様で4月29日から5月10日まで公開される。

来た時の二俣の道の合流するところのバス停に人が待っているので、そこからバスに乘り駅に向かう。かつては京から、京へと人々が賑やかに行き来した古の道もわかり充実した旅であった。