東海道 茅ヶ崎から平塚

茅ヶ崎から平塚は4キロくらいと思う。藤沢から平塚までが約13・5キロくらいである。茅ヶ崎駅近くに一里塚があったので、平塚付近にも一里塚があるはずだが、地図には無い。昔あった位置が不明なのであろうか。とにもかくも、今日は楽勝とJR茅ヶ崎駅から出発で国道1号線にでる。先ず最初は右手に<第六天神>がある。さらに進むと鳥井戸橋があり、<南湖左富士之碑>の石碑がある。京に向かう時、常に右に富士山が見えるがここでは左に見える<左富士>の地点である。

静岡県の吉原にも<左富士>の地点があるが仲間の話しだと、今は建物があって見えないとのことである。JR吉原駅で降りると、正面に富士山があり、ひたすら富士に魅せられて突進して行ったため、東海道からどんどん遠ざかり、地元の方に<左富士>の位置を尋ねたところ、すぐ教えてくれたそうである。同じような尋ね人が多いのかもしれない。とにかくそれくらい素晴らしい富士山だったようである。道に迷ってもいいからそんな富士山にめぐり会いたいものである。

神奈川のほうの<左富士>は霞んで見えなかった。右手には大きな鳥居が見え、<鶴嶺神社>の入口である。参道が1キロあるという。それも両側がずーっと松並木である。往復2キロであるが、今日は歩く距離も短いので、本殿まで歩く。 <鶴嶺神社>にも大イチョウがあった。前九年の役の戦勝祈願に源義家が植えたものといわれている。このあたりの歴史はよくわからない。鶴の首のように長くて美しい松並木の参道であった。鳥居までもどり西を目指す。

小出川を渡ろうとする手前の左に公園のようなものが見え案内板のようなものも見える。近づいてみると、水が張ってあり杭のようなものが出ている。これは、関東大震災のとき、源頼朝が渡ったといわれる橋の橋脚が出現したのだそうで、それを保護して守り、後に埋めてその上に、再現模型を作ったのが現在の形である。写真などが掲示されていて、木をどのように保護して埋めているかの図もあった。八王子城での礎石を思い出した。それにしても、地震の被害の大変な時によく遺したものである。歴史的知識のしっかりした人がいたのであろう。<旧相模川橋脚>とあり、相模川の流れの位置が変わったことを表している。頼朝は、この橋を渡った帰り道に落馬しており、その後この落馬が原因であろうか亡くなっている。

もう少し進むと現在の相模川があり、昔は馬入川とも呼ばれたのであろうか、橋は馬入橋とある。この橋はかなり長い橋である。時間があったので、平塚に着いてから平塚市博物館に寄った。そこでジオラマミニチュア模型の相模川のランプを押したら、赤い電気のランプが凄い範囲に広がり、幾つもの川が河口に集まっている様を目にして驚いた。相模湖からも流れてきているのである。 馬入橋の南側の海寄りに鉄橋が見え、橋の上では撮り鉄さんであろう、東海道線の電車を撮っているようである。撮ることに夢中のあまり、ヒンシュク者の撮り鉄さんもいるようである。

馬入橋を渡って少し行くと<東海道馬入一里塚跡>の石碑が建っていた。新しいので近年建てたのであろう。これで納得である。ここまで来ればJR平塚駅はもう一息である。

平塚駅を背中に北へ向かい立派な<平塚八幡神社>と<平塚市博物館>に寄る。すぐそばの平塚市美術館には一度来たことがある。バスを使ったが歩ける範囲であった。 <番町皿屋敷>のお菊さんの塚があるので、それだけは見つけて帰ろうと思うが、仲間が苦労したというので、市民センターに寄り平塚の地図をもらい、<お菊の塚>を聞いたが詳しい人はいなかった。市民センターの手前に<平塚見附跡>があり、ここからが<平塚宿>となる。

<お菊の塚>は商店街の間に挟まるような小さな公園にあり、それも、背の低い草木に囲まれ見落とすところであった。解説板があった。

お菊は平塚宿の役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため、江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主膳の意のままにならなかったため、家来が憎み、お菊が皿を紛失させたと主膳に告げ口し、手打ちにかけられる。死骸は長持ちに積められ馬入の渡し場で父親に引き取られる。源右衛門は、死刑人の例にならい墓を作らずセンダンの木を植えて墓標にしたと。

そのような事が書かれてあった。今は、真壁家の墓所にお菊さんのお墓がある。このお墓は、次の「戸塚」から「二宮」での東海道歩きで探し行くことが出来た。さらに、歌舞伎『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』のお初のモデルとなった松田たつさんの<義女松田たつ女顕忠碑>もありちょっと驚いた。

お菊さんの塚が見つかり、目的達成の「茅ヶ崎」から「平塚」である。