東海道 平塚から大磯を通り二宮へ(1)

「平塚」~「大磯」~「二宮」までが目標である。ただし、「平塚」と「大磯」での見学場所が多いので、目的地が見つかるがどうかによる。今回は、仲間一人が同道である。

JR平塚駅から、先ず<お菊塚>からにする。友は探しあてられず今回リベンジである。他の仲間は三回目で見つけたり、情報を得て一回で見つけたりという手強いお菊さんである。駅から紅屋町の表示が見える町内に入り、小さな公園と思ったが、あれ!違う。待ってくださいよ。こんなに近くはないか。友が、この辺りは私たちも捜していてもっと先にあったと言っていたよと。地元の人に尋ねる。そんなに駅から離れていたのかなあという位置にあり、無事に到達。経験の生かされない二回目の<お菊塚>である。

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東海道に出る。前回ゲットした平塚市の地図も出す。<馬入一里塚>あたりで道路が分れ、右手国道1号線、左手東海道となっていて、その延長線の道である。<馬入一里塚>近くに「榎木町」とあるが、一里塚に榎木が植えられていてその地区を「榎木町」と言ったのであろうかなどと想像するのも楽しい。右手に<平塚の江戸見附跡>。宿場の入口が判ったところで、お菊さんのお墓に向かう。「見附町」の名前がある。墓地の中を捜したが無い。地図からいうと端なので、道路脇から捜すとあった。真壁家墓所の中に。そして新しく<番町皿屋敷 お菊の眠る墓>の墓石があり、裏に父・真壁源右衛門さんの詠んだ歌が彫られている。「あるほどの花投げ入れよすみれ草」

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現場にもどれで、東海道にもどり、<脇本陣跡>。宿場の中心である。道路反対側に<東組問屋場跡>。戻って、<高札場跡><本陣旧跡><西組問屋場跡>。東西の問屋場があるが、仕事が大変なので、十日目交替で執務していたとある。ここから北へ入り、おたつさんの墓に向かう。<平塚の塚>のそばである。

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<平塚の塚>は、「ひらつか」の地名の由来の場所である。桓武天皇の三大孫高見王の娘・政子が東国の旅の途中逝去しこの地に埋葬され塚が築かれ、その塚が平になったので、里人が『ひらつか』と呼びそれが「平塚」の起こりとある。

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その近くに歌舞伎『鏡山旧錦絵』のモデル松田たつ女のお墓と顕忠碑がある。おたつは平塚宿松田久兵衛の娘で、萩野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中臈(ちゅうろう)岡本みつ女のもとに奉公にあがる。主人みつ女が年寄沢野から侮辱をうけ自害。たつ女は、沢野を討ち主人の仇をとったのである。歌舞伎では「お初」となり、この役で印象に残っているのは芝翫さんのお初である。年齢に関係なく主人を想う健気で一途な娘役が見事であった。御主人の尾上は雀右衛門さんであったと思うが、とすると、岩藤はどなたであったのであろう。後で調べてみることにする。

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これで安心、東海道にもどり、<上方見附跡>。解説板に広重の平塚宿の「縄手道」の浮世絵が紹介されている。平塚も空襲や区画整理で正確な東海道史跡が分らない部分もあるが、前方の高麗山(こまやま)から考えて、広重の絵もこの辺としている。絵は前方にこんもりとお椀のような山があり、山に向かう道の両脇は海である。不思議な絵であると思っていたが、このあたりは埋め立てられたのであろうと想像すると誇張しているとは思うが納得できる。平塚宿も終わりである。国道1号線と合流する。大磯に入る。

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花水川に架かる花水橋を渡り、大磯宿をめざす。右手に高麗山のふもとにある高来(たかく)神社の入口がある。この「高麗」も「高来」も朝鮮半島の高句麗(こうくり)に由来する。唐・新羅軍に敗れ国を追われた高句麗の王族関係の人々が日本各地に渡来し、大磯の高麗山ふもとに住み、開墾に尽力したという。海からこの高麗山が見えたのであろう。大磯は彩色の当時の様子を描いた解説板となる。

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虚空蔵堂

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化粧坂(けわいさか)あたりから国道1号線と分れ旧東海道に入る。松が少し残る道である。左に<虎御前の化粧井戸>がある。鎌倉時代は、大磯の中心はこの化粧坂あたりであったという。曽我兄弟の兄十郎の恋人虎御前は、この近くの山下長者の娘でこの井戸の水を使って化粧したであろうとの名前である。

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右手に<大磯一里塚跡>があるのを見落とし、戻って捜す。<化粧坂の一里塚>の絵入り案内板があった。市によっ史跡の解説・案内板は違い、石碑のところもあれば案内板だけのところもある。大磯の表示に慣れず、石碑的表示を捜していて見逃したらしい。

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JR東海道線の下の道を通る。友は一度ここを歩いていたが、時間が遅くなり暗く化粧井戸の案内板など何も見えず、ひたすら大磯駅を目指したのだそうである。保土ヶ谷の<権太坂>を私たちは旧東海道ではなく、大学駅伝の権太坂を歩いたのであるが、そのリベンジをしてから歩いたのでおそくなったらしい。私もリベンジしなくてはならないのであるが、一応、「保土ヶ谷」「戸塚」間は歩いているのである。