新橋演舞場十月 『俊寛』

『俊寛』の主人公・俊寛僧都は、鹿ケ谷の自分の山荘で平家打倒を計画したとして鬼界が島に流される。「平家物語」でも最後の死まで何回も出てくる。

「平家物語」では、法勝寺の執行(しゅぎょう)俊寛僧都(しゅんかんそうず)、丹波少将成経(たんばのしょうしょうなりつね)、平判官康頼(へいはんがんやすより)の三人が、薩摩潟の鬼界が島にながされたとある。成経と康頼は赦免となるが、俊寛は許されず一人島に残される。絶望する俊寛。俊寛に幼い頃から可愛がられた童(わらべ)の有王(ありおう)が、主人が京にもどされないのではるばる鬼界が島まで渡り、変わり果てた俊寛と巡り合い、俊寛の最後を看取り、遺骨は高野山の奥ノ院に納め、法師となる。一人残された娘も十二歳で奈良で尼となる。

近松門左衛門さんは、全五段の『平家女護島(へいけにょうごがしま)』を書き、その二段目<鬼界が島の段>が『俊寛』として上演されつづけてきた。近松さん本のほうは、ご赦免船から瀬尾太郎が現れ、成経と康頼の名前だけの書いた赦免状を読む。俊寛の名前がない。嘆き悲しむ俊寛。そこへ、丹左衛門尉基康(たんざえもんのじょうもとやす)が、小松の内府・重盛公の憐憫によって、俊寛も備前まで赦免を許すと伝える。近松さんも伝えられる清盛の長男・重盛の人柄をここで使うのである。喜ぶ三人。ところが、成経は島の海女・千鳥と祝言を挙げたばかりで、千鳥も乗船させようとするが、三人と記してあるからと瀬尾が許さない。千鳥は悲しみ自害しようとする。俊寛は、妻が清盛はの言いなりにならず、首をはねられたことも知り、千鳥のこれから倖せを考え、自分に代わって乗船することを勧め、それを拒む瀬尾を殺してしまう。俊寛は再び罪人である。覚悟の上とは言え、三人の乗った船を追いかける俊寛。離れて行く船を高い崖から見送る俊寛。その先に見つめているのは何であろうか。

近松さんの時代の中で生きた俊寛という一人の人間を照らし出した芝居である。それだけに、どう作り上げていくか力量のいる役である。と同時の、芝居は全てそうであるが、役者さんの組み合わせも大事である。

俊寛(市川右近)、千鳥(笑也)、成経(笑三郎)、康頼(弘太郎)、瀬尾(猿弥)、基康(男女蔵)

このブログでは書いていないが、昨年の2013年6月の歌舞伎座『俊寛』の配役が次の通りである。

俊寛(吉右衛門)、千鳥(芝雀)、成経(梅玉)、康頼(歌六)、瀬尾(左團次)、基康(仁左衛門) この配役はもうないであろう。

比較しないで観ようと思っているのであるが、浮かんでしまう。俊寛の座り方から始まって、成経、康頼の歩き方、手の出し方など。千鳥の浄瑠璃に乘った動き方。瀬尾の清盛の権威をバックにした、ふてぶてしさ。基康の静かに見届ける凛とした姿。この方々は、『俊寛』に関しては、練りに練って演じられてきておられるので、比較されても頷いていただけると思う。

三人は都から、鬼の住むとも言われる鬼界が島に流されてきている。植物など育たない島である。成経と康頼はそんな島でも熊野三社の神としてお詣りする場所を見つける。そこに詣でるため、俊寛ともしばらく逢っていなかったのである。三人でいても寂しさが胸を塞ぐ俊寛。二人に逢い喜ぶ俊寛。成経が海女の千鳥と結ばれ、仲間が四人となる。自分を父と思うと言う千鳥の可愛らしさ。塞いだ心も次第に開いていく。そんな時の赦免船。この日の俊寛は、人が長い時間をかけても整理のつかぬ経験をする。大きな力によっ翻弄されているようである。

俊寛の周囲の人間もまた、俊寛の翻弄される姿に手をかせない自分のもどかしさというものをどこかに抱えていなくてはならない。そのことによって俊寛の姿は照らし出されるのである。そのあたりの息が、今回は合っていないように思えた。自分の役に一生懸命で、ぷつぷつと芝居が切れてしまうのである。いつの日か、新しい世代のこれぞ澤瀉屋の『俊寛』を観せもらいたいと願う。

 

 

新橋演舞場十月 『獨道中五十三驛』

10月の新橋演舞場は四代目市川猿之助連続奮闘公演で、11月は明治座である。 『獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』は京三條大橋から、江戸日本橋まで、東海道をひた走りに走る芝居である。弥次郎兵衛の猿弥さんと喜多八の弘太郎さんが出てきては「腹減った、腹減った。」の台詞で、今回は台詞が簡単で楽だと言われていたが、私たちは開発された風景から、東海道をさがしつつの東海道中なので、このお二人が出てくると、実体験のこの道で間違いないと安心した気持ちと重なる。芝居の筋を模索しつつ、東海道を逆に歩くので、話に気を取られ道すじがおろそかになるので、この息のあったコンビが出現するとなぜかほっとするのである。

最初に、芝居茶屋の女将・春猿さんと鶴屋南北の錦之助さんが、役者猿之助さんを呼び出され、猿之助さんの挨拶がある。「裏方さん泣かせの舞台で」と言われたが、東海道をほんの少し歩いている者としては、舞台装置がとても気になり、そうであろうと頷く。「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)も成功し」で、佐々木蔵之介さんを思い浮かべる。前日、京都国立博物館での「国宝 鳥獣戯画と高山寺」展での 音声ガイドナビゲーターが、佐々木蔵之介さんだったからである。展示場に入り「国宝 鳥獣戯画」を見るまでも並ぶので、その待ち時間に、音声ガイドの聞きたいところを何回も聞き直せて利用価値があった。それだけ、佐々木蔵之介さんのお声も沢山聴いたわけである。

山賊の頭の名前が<ハンチョウ>で、佐々木蔵之介ではないなどと、洒落や駄洒落が豊富である。「とっとといなしゃませ」(一條大蔵卿)「つづらしょったが 可笑しいか」(石川五右衛門)など、他の演目の台詞も飛び出す。

「役者は出し惜しみせず汗を流さねば」の猿之助さんの言葉に、念願の奈良の柳生街道を2日かけて、<剣豪の里コース>と<滝坂の道コース>を完歩し汗を流し満足している身としては、舞台は猿之助さんにまかせ、ひたすら楽しませてもらった。

悪家老役の男女蔵さんことおめちゃんも、大奮闘で、海中にて<鳥獣戯画>ならぬ<海獣戯画>の、ヒトデ、エビ、タコと大格闘を繰り広げて笑わせてくれた。

老女(猿之助)が実は猫の妖怪で、行燈の明かり用の油が魚の油と知り、行燈に首を突っ込みぺろぺろ舐め、その首から先の影が猫で、そこで、三代目猿之助さんで観ていたことを思い出した。その時はどこの宿だったか興味なかったが、岡崎である。ここの場面は印象に強い。泊った村の娘がこの猫の妖怪の術にかかり、自在に操られるのである。その娘役の動きが好演である。由留木(ゆるぎ)家の忠臣・由井民部之助の隼人さんは、お松(猿之助)とお袖の米吉さん姉妹に愛されるが、お袖とこの妖怪の寺に泊り、お袖は子供とともに殺されてしまう。この民部之助はその後、忠臣を返上して由井正雪と改名する。隼人さんの台詞を聞きつつ驚いた。

由留木家の忠臣には、門之助さんの半次郎と亀鶴さんの奴逸平がいて、このお二人は変わることなく忠臣で、悪家老らを与八郎(猿之助)と共に箱根の大滝の本水の舞台で討ち取るのである。まだ公演は続くのに若いとはいえ大丈夫であろうかと気にかかるほど、元気にお客さんに水浴びさせていた。お客さんの黄色い声がこだまする。

この与八郎はよその家のお姫様・重の井姫の笑也さんと恋仲となり、由留木家を追い出される。重の井姫は悪家老と由留木家の側室との間にできた子・馬之助(猿之助)にも思われているが、これがあほうで、跡取りとしてお家乗っ取りを計っている。馬之助は、半次郎に殺され、半次郎は聡明な弟・調之助(猿之助)にお家の宝を探すように命じられる。この調之助、馬之助と顔はそっくりだが、比較にならない男前。

与之助と重の井姫は駆け落ちして、小栗判官と照手姫状態。与八郎は、悪家老の息子・水右衛門の右近さんに命令された江戸兵衛(猿之助)に鉄砲で足を撃たれてしまう。そして眼病も患うが、重の井姫が最後の力をしぼって滝壺に入水、足も眼も自由になり、目出度く悪家老らを討つのである。お宝は小田原の道具屋にあるということである。ここまでで猿之助さんは七役である。途中猫の妖怪となって宙を飛んで行く。

小田原からは、浄瑠璃お半長吉が主人公で『写書東驛路(うつしがきあずまのうまやじ)』となり、今度は猿之助さん、一人で十一役勤められる。印象的なのは、土手の道哲の踊りである。足の運び、手、腕の動かし方、拍子をとりながら浮かれて見せてもらった。お絹 、お六もすっきりとして見栄え充分である。そして、小田原からは場面、場面の名が見知った場所なので楽しさ倍増である。戸塚から保土ヶ谷は歩いて日も浅いので可笑しい。現在ではこの間に東戸塚という駅が出来、物凄い開発で、旧東海道を見失って国道をしばし歩いてしまったのである。5人で歩きながら、一役にもならなかったわけである。

江戸日本橋で、お家の宝も手に入り、猿之助さん、右近さん、門之助さん、亀鶴さんが揃い、「今夜はこれにて」。

笑三郎さん、寿猿さん、竹三郎さんら皆さん好演であった。そして照明も効果抜群。裏方さん達の頑張りも伝わる。

柳生街道の雰囲気を東海道にあてはめ、江戸時代の人がその<ヒナ>を芝居で観る時の楽しさに置き換えて想像した。そしてどこかから、今芝居に、東海道が舞台になっているというでわないか。ほう、どんなもんか一度観てみたいものだ。あそこのだれそれが観てきたという。では、話を聞きに行こう。などという声が聞こえる。

鶴屋南北さんも、何んとか京から江戸までを知らしめたいと思ったのであろう。ながーくなってしまったのは。今回は練りに練って4時間ほどの旅である。

 

 

歌舞伎座十月 『新版歌祭文』『鰯賣戀曳網』

『新版歌祭文』<野崎村>は、筋的にはわかりやすいが、時代性のなかでの若者たちのありかたを思うと、その個々の生き方の進み方を問う視点では、深いところに触れることとなり、難しい作品である。今はそこまで触れる時間がないので、いつかこの作品は考察することがあるかもしれない。

歌祭文とは、中世のころ、神に奉げる祝詞を山伏修験者が流布したものが、芸能化され、近世になって、その時に世の中でおこる大きな事件や心中などに節をつけ、門付けなどで歌われたものらしい。<野崎村>でも久作が、「お夏清十郎」のたとえを話すところがあり、「お夏清十郎」も歌祭文になったようである。「お染久松」も歌祭文などで評判となり、新版とはそれらの<新版>であるという意味と思われる。どうやら歌祭文と浄瑠璃、歌舞伎などの芸能は切っても切れない関係があるようである。

<野崎村>は、今でも大東市にある野崎観音(慈岩治眼寺)の地であり、観音まいりには、陸路と水路があり、この芝居のラストも、久松は籠で、お染は舟で大阪にもどるのである。江戸時代に歌舞伎を観たお客さんたちは、こうしたこともリアルタイムに感じていたわけで、現代人はそこに想像力と役者の技量と音楽、舞台装置などなどで味わうわけで、歌舞伎ははまると出口のない世界であるから、逃げ道は作っておかなければならない。私の場合は作らなくても入口と出口が隣りあっていて探す必要もないが。

というわけで言い訳をしておいて安心して。<野崎村>はお光という、村娘が主人公である。お光は久松の許嫁である。今日祝言を挙げようという時に、許嫁の久作の恋人お染が現れる。そんな、びびびびのびーである。お光には残酷なことに、久作とお染の愛の語らいを聞いてしまう。それも、お染は叶わなければ死ぬと剃刀を出す。お光は、そこまでの二人ならと、尼になるのである。

今日祝言だからと、自分で祝言のお祝いの料理の下ごしらえをしている。嬉しくて嬉しくて心には羽根がついている。七之助さんのお光はそんな感じである。いつもは、さらりの七之助さんもそうはいかない。大根を切りつつ手鏡を見たり、手鏡を包丁と間違えたり、そんな自分が可笑しくて一人微笑む。きちんと約束ごとは守りつつ、浮き浮きしている様を身体ごと表現する。

この可愛らしい田舎娘は、大阪のお店の娘と対決しなくてはならなくなる。先ず、お染を一目見てその雰囲気に気おくれする。その後、久松とともに父の久作の灸をすえたりするが、何とか自分の気持ちを立て直そうと一生懸命である。お光には、常に胸騒ぎが湧き出しているのであろう。

祝言の支度のため久作とお光が消えると、お染が入ってくる。お染は諦めないでのである。お染に対してなすすべのない久松。お染には許嫁があり、奉公人の久松にはお染をどうすることもできない。そこで、お染は死を決意するわけである。久作が加わりそれをさとすが、お染と久松は心中の覚悟である。それを知って出てきた白い綿帽子のお光、綿帽子を取ってみると髪を下していた。ここからが、お光の純真さの見せどころである。七之助さんの透明感が生きる。二人結ばれしっかり生きてほしい。

お染の母が迎えにきて、世間の目もあるからと、お染は母と舟で、久松は籠で去るのである。この部分が長い。いつも思う、お光はずーっと悲しみをこらえているのである。残酷。それは、お光が最後に、父にすがりつき泣き、久作が「もっともじゃ、もっともじゃ。」というが、その言葉を聞きつつ、違う意味で「ここまで悲しい時間を延ばさないで。もっともじゃ。もっともじゃ。」と思っている。それだけ、お光の気持ちに入っているわけで、七之助さんのお光に入れ込んでいたということである。

彌十郎さん(久作)、扇雀さん(久松)、歌女之丞久さん(久作の妻・おさよ)、秀太郎さん(お染の母)、児太郎さん(お染)らが好演である。お光が主人公であるゆえ、このお染は難しい役だと認識でき、児太郎さんも、もう少し時間がかかるであろう。

『鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)』は、三島由紀夫作で、お姫様がお城で鰯売りの売り声に恋焦がれ、お城から抜け出し、人買いにだまされ、京の遊女・蛍火となる。この鰯売り・猿源氏は蛍火に一目惚れして、大名になりすまし蛍火のもとへ。近辺の大名ではばれてしまうので、宇都宮弾正となりすますのも手がこんでいる。猿源氏は、蛍火の膝上で寝てしまい、寝言に「いわしこうえ~い」と鰯売りの売り声を発してしまい、猿源氏が蛍火の恋焦がれていた鰯売りとわかりハッピーエンドである。あきれてしまうほどの成り行きである。お光は、お染は、久松はどうなるのと云いたくなる展開である。そこが、三島さんの手なのだそうで、そういうしがらみ、時代性らを取り除いて、自分の思い通りに進んで上手くいってしまったよという明るさと喜劇性ということらしい。初演は六世歌右衛門さんと十七世勘三郎さんであるが、どう演じたか資料が少ない中で、十八世勘三郎さんと玉三郎さんが引き継がれた。十八世勘三郎さんの演出で、勘九郎さんは動かれているといった感じであった。父そのままを受け継いでいた。玉三郎さんは勘三郎さんの動きには呼応せず、高貴な身分を崩さない。そのままを七之助さんは受け継いだ。

可笑しいのは、蛍火は<伊勢の国の阿漕(あこ)ケ浦の猿源氏が鰯買うえ~い>の売り声に恋焦がれたのである。お姫様だから、恋焦がれたというより、あれは何なのであろうかという自分の世界にない音に曳きつけられたのかもしれない。歌舞伎の中のお姫様は、時々、とんでもない大胆な飛び方をするので、その面白さをも加えているのであろう。猿源氏が、遊女たちに乞われて、魚になぞらえた「軍物語」は必見である。

十八世勘三郎さんの動きそのものを継承した勘九郎さんの芝居で追善も華やかに結ばれる。

歌舞伎座10月 『近江のお兼』『三社祭』『吉野山』

舞踏を三つまとめるが、並べてみると十八世勘三郎さんの踊りが浮かぶ。しかし、実際にはそれぞれ演者の踊りである。

『近江のお兼』は、馬も出てきて楽しい踊りである。舞台の背景画に近江琵琶湖の堅田の浮見堂が描かれている。近江八景の堅田の落雁にも関係しているらしいが、お兼は力持ちとの設定である。それを現すのに、花道で暴れ馬の手綱を高足下駄で踏み止めたりする。だからといって、いかつい女性ではない。可愛らしい田舎娘である。高足下駄であるから、リズミカルに下駄の踏み音を聞かせるところもある。また、この娘、片手に抱えた桶に晒布を所持し、新体操のごとき、布さらしも披露する。

琵琶湖周辺の地名も歌いこまれており、馬の参加もあり、扇雀さんが、愛らしく丁寧に踊られた。そのため長閑な昔の琵琶湖風景に働き者の娘が時には恋心を語り溜息をつく様子などがふんわりと浮かび上がらせる。動きがあるのに、長閑さも感じさせるとは踊りかたによる力なのであろう。

『三社祭』は、橋之助さんと獅童さんである。隅田川で漁師が二人網打ちをしていて、それから踊り出す。すると黒雲が降りてきて獅童さんが善玉、橋之助さんが悪玉と書かれた丸い面をかぶり踊り出す。善玉が三味を弾き、悪玉が善玉に迫ったりと様子の判る箇所もあるが、意味不明の身体の動きの部分もあり、深くわからないが、二人の意気が上手く軽やかに伝われば良いような踊りでもある。獅童さんは踊りが苦手と思っていたが、近頃身体が軽やかになり、橋之助さんと良い雰囲気を出していた。勘三郎さんは何んと言われたであろうか。その言葉が聞けないのも悔しいことである。

『吉野山』。ゆったりと桜の吉野山の藤十郎さんの静と梅玉さんの狐忠信である。藤十郎さんの静が、辺りを気にしている。そして、初音の鼓に眼が行き、そのそれとない微かな動きに心がある。これは長い間に、静、狐忠信、鼓の関係が当たり前のこととして気持ちの内に入っていて、それでいながら、全く新しい事として発する芸の力のように感じた。品のある静と狐忠信で、梅玉さんの狐のしぐさの動きも自然で、そっと狐の正体をあらわす様子は、初音の鼓に対する深い想いと重なった。橋之助さんの早見藤太も今回の『吉野山』の雰囲気に合っていて台詞もしっかりされており、今月は道化役で芝居を締めてくれた。

今月は踊りも充分楽しませてもらった。芝居との流れの相性も良かった。

歌舞伎座十月 『伊勢音頭恋寝刃』

『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』<油屋店先><同奥庭>

伊勢神宮の参拝客で賑わう古市の遊郭で多くの人が殺された実際の事件を芝居にしたものである。お伊勢まいりには、御師(おし)という神職でお伊勢まいりの斡旋をしていた職業の人がいて、主人公の福岡貢(ふくおかみつぎ)はその御師でもとは武士で、旧主の刀折紙(鑑定書)を探している。その折紙を油屋にいる旅行者が持っているとの情報がはいる。油屋には恋仲の遊女お紺がいる。このお紺は折紙を手に入れるため、貢に愛想尽かしをして、折紙を手に入れる。もう一つ事態を複雑にするのが、旧主の今田万次郎が探している名刀青江下坂(あおえしもさか)を貢が手に入れ、それを油屋で鞘と中身を取り替えらてしまう。それを知った貢の元家来で今は油屋の料理人となっている喜助が、貢が帰る時、名刀のほうを渡すが、鞘が違うため油屋に引き返した貢は、逆上しているため、些細なことから大量殺人となってしまう。

その最初の犠牲者が仲居の万野である。まあこの万野が憎たらしいのである。万野にしてみれば、貢はお金にならない客である。もろに仲居の仕事上の意地悪さが出る。もともと万野は貢をよく思っていないらしく、貢に恋するお鹿に貢がお鹿のことを思っているように細工していたのである。本当に憎らしい仲居の万野。仲居の万野は誰?玉三郎さんである。貢を苛めるのが楽しみで、玉三郎さんが出てくると待ってましたである。こういうのは芝居であるだけに楽しい。しぐさ、声、台詞の調子、憎たらしさがそろっている。貢の勘九郎さん煽られるだけ煽られる。お紺の橋之助さんはしこめなのだが、顔のつくりも大袈裟にせず、おふざけも押さえて、お紺そのものという感じがいい。

お紺の七之助さんは自分は、折紙を手に入れるのが私の仕事とその事に集中しているらしく、貢の腹立ちなど何のそので愛想尽かしをある。この時観客はお紺の気持ちを知らないから、そのさっぱり感が今回は効を奏す。ますます貢は怒り心頭にたっするのである。

料理人喜助の仁左衛門さんは、予定通り中身が本物の刀をしっかり貢に渡す。お客が自分の刀ではないと騒ぎ、取り替えてくるよう万野に言われるが、貢に本物を渡してあるので落ち着いて追いかける。ところが、行き違いとなる。

そもそも、はじめに、貢は旧主の万治郎と行き違ってしまうのである。ここで会って刀を渡していれば、事は起こらなかったのである。その万治郎の梅玉さんの品を表す柔らかい出はいつもながらのさすがさである。

<奥庭>のしどころの多い場面も、押さえていた怒りが名刀と共に狂い舞い、勘九郎さん見せ場を一つ一つ決めていく。白かすりがよく映える。

歌舞伎座十月 立派に追善公演を果たした中村屋兄弟 『寺子屋』

歌舞伎座10月は、<十七世中村勘三郎 二十七回忌、十八世中村勘三郎 三回忌 追善>公演である。先輩達の胸を借り、立派に上質の舞台を作りあげた。十八世勘三郎さん亡きあと、勘九郎さんと七之助さんは、肩すり合わせて頑張るといった感じであったが、今回は、それぞれが一人の役者であるといった気概が見受けられた。それぞれの持ち場が違えば、兄弟でもライバルである。芸のうえでは、親子でも師弟であるのは、未熟なうちでも舞台に立たせてもらえるという特権があるからである。他の演劇関係ではありえない。未熟なものは、自分で勝ち取らねばならない。だからこその修行なのである。

その修行の成果を見せればこそ、観客も、今回は見逃し、次回に譲り、いつの日かを待った時間を納得するのである。『伊勢音頭恋寝刃』『寺子屋』は、芝居を壊すことなく勤めあげたのは立派である。仁左衛門さんと玉三郎さんに押しつぶされることなくつとめあげられた。

『菅原伝授手習鑑』<寺子屋>。玉三郎さんが、これまでにない情を出されたのには驚いた。夫の松王丸(仁左衛門)が首実験で、自分の子が管秀才の身代わりとなったのを確かめたあと、再び源蔵の家に現れる。妻の千代も我が子はどうなったかと源蔵宅へきている。松王丸は妻に、倅はお役に立ったと告げる。その時から覚悟していたはずの千代は取り乱す。夫の松王丸にたしなめられ松王丸の横にかしこまる。松王丸は、兄弟三人の中で、自分だけが菅丞相と敵対する藤原時平に仕え、病気を理由に時平との縁を切ろうと願いでると、管秀才の首を検分したら暇をやるとの最後の勤め。その勤めが自分に一子がいたために秀才の身代わりとし、我が子によってずっと松王はつれないと言われなくてもすむ身となった。この時から、源蔵夫婦(勘九郎、七之助)は、松王丸夫婦の悲嘆を受ける形となる。

そして、千代は自分に言い聞かせるように、夫の言葉を受ける。持つべきは子であるとは小太郎も喜ぶであろう。しかし千代は、最後に小太郎にわかれた我が子の姿が忘れられずその様子を語るのである。千代よりも、こちらのほうが涙である。ここで涙したのは初めてである。いつもなら、そのあとで松王丸が小太郎の最後の様子を源蔵から聞き、逃げ隠れもせずにっこり笑ってで、小太郎の姿が浮かび涙なのである。

千代を叱りつつ松王丸も子を思う気持ちと、小太郎に比べ桜丸が無駄死にをしたことを嘆く。親として、弟を思う兄としての辛さを男泣きする松王丸。

松王丸が源蔵宅に再び現れたときからの芝居の膨らみは素晴らしかった。そこまで運びとおした、源蔵の勘九郎さんと、戸浪の七之助さん。管秀才の身代わりがみつかり、決心する二人。検分役の松王丸と春藤玄蕃(亀蔵)を受けて立ち、千代に対しても受けて立ち、そして、松王丸夫婦に対し、引いて受ける。大きな『寺子屋』になった。

 

映画 『破戒』『乾いた花』『鋪道の囁き』(2)

『乾いた花』は二度目なので、最初に観たときのドキドキ感はない。自分の観た時の印象で映画を再構築しているから、役者さんの登場や場面など、自分の中での登場と違っている。それと、映像が途中で数か所切れているように感じた。ただ、表情などはじっくり観察できた。冴子が、村木が人を殺し終わったあと微笑むのだが、その微笑みの意味が解らなかったので、それも虚無感の一つとしておいたが、加賀まりこさんがトークで、篠田監督からマリアのような微笑みをしてくれと言われたと話された。あの時の冴子は、村木が殺しのあと冴子を見つめる眼に対して、村木に自分が殺された時の恍惚感の微笑みではないかと思ったのだが、今はその解釈としておく。

加賀さんのトークは、演じた時の状況など、簡潔に話され、観た者としては、映画の場面に即反応でき、裏話も手短に話される。『泥の河』では、小栗庸平監督から、お化粧なしの素顔で、演じて欲しいと言われたが、加賀さんは少年から見た母親は美しいはずだと、周囲のスタッフの意見で決めて欲しいと提案したところ、ほとんどのスタッフが加賀さんの意見のほうに賛成したのだそうである。皆さんが母親の場面は白黒なのにカラーと思ってくれて嬉しいですと言われていた。私は少年がカニに火をつけて友達に美しいだろうというところと母親が呼応して観ていて切なくなり今もその炎には色がついているのである。『麻雀放浪記』では、真田広之さんを叩くシーンで、パイの並べ方が上手く出来ず20数回叩いたそうで、この映画は、良い機会なので観なおすことにする。

加賀さんは高校生の時、住まわれていた神楽坂を歩いているとき、篠田監督と寺山修司さんにスカウトされ初映画が『涙を、獅子のたて髪に』である。

その神楽坂で、父の制作映画を上映できて親孝行ができましたと言われた映画が『鋪道の囁き』である。この映画は当時正式には公開できず、その後行方がわからなかったが、アメリカの大学に保存されていたのである。保存状態がよく、映像も音も綺麗である。ジャズが主人公のような映画であるから、音の良さには驚いた。

1936年の作品で、日本のアステア&ロジャースを目指した映画で、タップダンサーの中川三郎さんのタップが素晴らしい。甘いマスクの美男子で演技は下手、これが若き日の中川さんなのであろうかと観ていたら突然、ジャズシンガーのベティ稲田さんの歌でタップダンスを始めたのには驚いた。この場面と、バンドコンクールで、中川さんとべティ稲田さん二人で歌いタップダンスを踊る場面を観れただけでも、よくフィイルムが残っていてくらたと思う。映画のあらすじはたわいない。アメリカ帰りのジャズシンガーが、興行者に騙されそれを守る男がいて、ジャズシンガーはバンドマンでタップダンサーの男と出会い、結ばれるという和製ミュージカルの卵といった感じである。監督が鈴木傳明さんで、この方も演技は下手である。演技性に中心をもってきていないのであろうが、道化役の俳優さんは上手いし、その動作も計算されているので、軽いタッチで描くということであったのかもしれない。それに比べ、音楽、歌、タップはしっかりしているので、その落差が可笑しい。

和製オペレッタは、その流れを調べていないが、傑作は1939年の『鴛鴦歌合戦』(マキノ正博監督)である。出演は片岡千恵蔵さん、志村喬さん、ディク・ミネさん、市川春代さんなどである。

トークショーの司会者である横堀加寿夫さんが、実は、ディク・ミネの息子でしてと言われたときは、驚いてしまった。加賀四郎さんの映画が成功していたら、ディク・ミネさんは当然参加されていたであろう。映像と音が良いだけに、新しさ古さとが交差する摩訶不思議な映画である。この映画が流布していたら、ジャズも特定の世界だけで楽しむ音楽でなくもっと広く浸透していたかもしれない。

 

映画 『破戒』『乾いた花』『鋪道の囁き』(1)

今、映画館が呼応して面白い企画で映画を上映している。インドの映画からインド料理に眼がいったが、<第5回 東京ごはん映画祭>には、小津安二郎監督の『お茶漬』が入っているし、トニー・レオンとマギー・チャンの『花様年華』も入っている。美しく悩ましいマギー・チャンがペンキ入れのような入れ物に食事を調達していたのが妙に印象づけられたので、やったり!とほくそ笑んだ。『エル・ブリの秘密 世界一予約の取れないレストラン』は、やはり舞台裏が面白かった。その他、こういう映画があったのかと映画名をみているだけで楽しい。

神保町シアターが<生誕100年記念 宇野重吉と民芸の名優たち>で、宇野重吉さんが出演、監督した映画や民芸の名優といわれる方々の映画の特集である。その中に、池部良さんの青年教師丑松の『破戒』があった。名画座ギンレイホールは<名画座主義で行こう>として、『乾いた花』~加賀まりこさんのトークショー~『鋪道の囁き』の二本立てである。『鋪道の囁き』は、映画プロデューサーであった加賀まりこさんのお父上である加賀四郎さんが制作された映画である。神保町に行く前に神楽坂のギンレイホールで当日券を購入する。

映画 『乾いた花』 で、篠田監督が、池部さんが名監督たちに起用されてることをいわれていたが、その時から、木下恵介監督の『破戒』は観たいと思っていた。池部さんが、戦争から戻り両親の疎開先に居た時、高峰秀子さんと助監督だった市川崑監督が、阿部豊監督で『破戒』を撮るからと迎えに来た。再び映画に出ることに躊躇していた池部さんは、二人の熱心さから戦後映画復帰第一作のはずが、東宝争議のため撮影途中で中止となる。

そして、1947年木下監督のもと『破戒』が撮られる。お志保は、桂木洋子さん。丑松が敬愛する部落解放運動家・猪子に滝沢修さん。丑松の友人の土屋に宇野重吉さんである。宇野重吉さんのほうが、丑松に合いそうであるが宇野さんには、宇野さんの役目があった。木下監督は、部落問題をきちんと捉えつつも自然描写などは、千曲川の流れや、リンゴの樹などを写し、信州の美しさを抒情的に描いている。部落民ということがなければ、丑松もこの美しい風景のなかで子供たちと楽しい長い時間を過ごせたのである。撮影は楠田浩之、音楽が木下忠司である。映画の始まりから、琴の音が流れる。志保は家の事情で、丑松の下宿するお寺の養女となっていて、お寺のお嬢様として琴などたしなみ、その琴の音を効果音としても使っている。そして、お志保の心の動きもこの琴の音であらわされる。

お志保はが部落民の丑松について行く決心は、丑松に対する愛情も当然であるが、猪子の奥さんの生き方に共鳴し、その先達の姿に力を得てのことである。この映画では、友人の土屋と丑松の男のつながりのほうに重点が置かれている。この宇野重吉さんの土屋が、お仕着せがなく、悩む丑松を自分で立ち上がるまで待っていて、いざというときにここぞといい笑顔を見せる。池部さんは、役柄上俯き加減である。猪子先生を失ったあと、丑松は泣くだけ泣く。それに対し、宇野重吉さんは、心配したり、行動する丑松の脇にしっかりついていて、丑松が俺を認めてくれたと感じた時の土屋の笑顔は宇野さんならではの演技であり観ているこちらも勇気づけられる。丑松はきちんと部落民であることを認める、生徒たちにも伝える。池部さんの丑松に苦しみはあるが卑屈さはない。

千曲川を舟で猪子先生の奥さんとお志保と丑松は、東京に向かう。そこへ教え子たちが見送りに土手を駆けてくる。木下監督にとって千曲川は外せなかったようである。

市川崑監督の『破戒』も観直した。市川監督のほうがリアルである。風景も丑松の見る心の晴れない風景描写である。市川雷蔵さんの丑松の生徒たちに語るところはしみじみと語りかけ、部落民だということを隠していたことを土下座して謝る。どちらがどうというよりも、それぞれの映画であるとして観たほうがよいであろう。

 

鎌倉『大佛次郎茶亭(野尻亭)』

大佛次郎さんの本名は、<野尻清彦>で<大佛次郎>は、鎌倉の長谷の大仏の裏に住んで居たことから、<大佛(おさらぎ)>とし、鎌倉の大仏が太郎なら自分は<次郎>であるとしてつけた、ペンネームと言われている。

『大佛次郎茶亭』は鎌倉八幡宮に近い雪ノ下にあり、住まいは小路を挟んだところで、この茶亭は、大佛さんの書斎と訪問者の接待の応接間として使われていたようである。係りの人の説明に拠ると、廃材を使って建てた<風>の平屋木造建物で、柱も細く、軒の天井裏の押さえの木もそこらに落ちていたような木を使っている。しかし、規格外なので実際には大工さん泣かせの建物でもある。屋根は茅葺で、茅も囲炉裏の煙が茅の隅々に行きわたり虫食いを防ぐのだそうで、全ての部屋にお茶用の炉が切られているが、それだけでは長持ちはさせられないそうである。囲炉裏の煙にはそういう働きがあるのかと初めて知る。大佛さんのねこ好きがわかる猫の蚊取り線香置きが三匹並んでいた。

 

 

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この茶亭は鎌倉風致保存会が助成、保存している。大佛さんは、鶴岡八幡宮裏山の御谷(おやつ)山林の開発に反対し、ナショナル・トラスト(英国の環境保全団体)を日本に紹介したかたでもある。その運動から鎌倉風致保存会が生まれたのである。無料公開は年2回だが、土・日・祭日には<大佛茶廊>として開いているようである。その日はお庭で茶亭を眺めつつ抹茶をいただく。

そして、横浜の大佛次郎記念館が発行している、「おさらぎ選書 第22集」を購入。大佛さんが主宰していた雑誌「苦楽」と「天馬」のことが書かれていて、<安鶴さんと「苦楽」 大佛次郎 >と見出しにある。安藤鶴夫さんの『落語鑑賞』はこの雑誌「苦楽」からの出発であった。「苦楽」という雑誌自体を知らなかった。大佛さんは、戦後文学史に「苦楽」の名が出たのを見たことがないと書かれている。雑誌「苦楽」の調子が少し硬くなったので、柔らかくしようと云うので落語をのせることとする。江戸からの口語文、特に下町の言葉をきちんと残したいと思ったようである。大佛さん自身が小説を書くとき、武士や町人の話し方を三遊亭円朝の噺の速記をお手本にしていたのである。

雑誌「苦楽」は、表紙が鏑木清方さんで、執筆者も画家も様々な方が参加している。例えば<オ>で始まる方を並べるなら、小穴隆一、大池唯雄、太田照彦、大坪砂男、岡鹿之助、岡本一平、荻須高徳、荻原井泉水、奥野信太郎、尾崎一雄、尾崎士郎、大佛次郎、織田一麿、折口信夫

「苦楽」は昭和21年11月に創刊し昭和24年7月に廃刊となっている。

川喜多映画記念館に近い「鏑木清方記念美術館」で < 清方描く 季節の情趣 -大佛次郎とのかかわりー>(10月31日~12月4日)がある。ここも絵の数は少ないが喧騒から逃れほっとできる場所である。

横浜の「大佛次郎記念館」では <大佛次郎、雑誌「苦楽」を発刊す>(11月20日~来年3月8日)のテーマ展示がある。

英国のナショナル・トラストの力添えした人として、『ピーターラビット』の作者、ビアトリクス・ポターがあげられる。ポターの半生を描いた映画『ミス・ポター』がなかなか良かった。自立した女性の職業など考えられなかった時代に、それを成し遂げ、さらに資本家から自然環境を守るのである。ポター役のレニー・ゼルウィガーが多少クセのある演技ともおもえるが、絵本の主人公たちも飛び出して動き、婚約者の妹役がエミリー・ワトソンでもあるから許せる。相当考えた役づくりであったろうと想像できる。婚約者のユアン・マクレガーもはまり役となっていた。『ピーターラビット』やその仲間たちは子供たちの良き友となり、さらに自分たちの住む環境をも、自分たちの力で守ったことになる。

 

鎌倉『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』公開

鎌倉市の秋の施設公開で、『旧華頂宮邸』『大佛次郎茶亭(野尻亭)』『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』が、10月4、5日に公開された。『大佛次郎茶亭(野尻亭)』『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』は鎌倉駅から近いので、いつでもと思いつつやっと実現である。今回はこの二つを中心に据えての訪れとした。『大佛次郎茶亭(野尻亭)』のほうが時間的に先に訪ねたが、映画のこともあるので、『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』からにする。

ヨーロッパ映画の輸入に貢献された川喜多長政、かしこさんご夫妻の邸宅跡に鎌倉市川喜多映画記念館 が建て変えられ、その同じ敷地に別邸として『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』が残されている。旧和辻邸とあるように、東京の練馬にあった哲学者・和辻哲郎さんの住まわれていた江戸時代後期の民家を鎌倉に移築したものである。この別邸には、多くの海外の映画監督やきらびやかな映画スターが訪れている。

アラン・ドロン、フランソワ・トリュフォー監督、サタジット・レイ監督など、記念館にその写真パネルなども多く展示されている。映画『聖者たちの食卓』でのトークイベントで神谷武夫さんが、司会者にインド映画について尋ねられたとき「岩波ホールで上映されたサタジット・レイ監督の三部作(『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』)もよいが『チャルラータ』がよかった。」と言われていた。残念ながら『チャルラータ』はDVDにはなっていない。私が驚いたその後のインド映画は『ボンベイ』である。美しい別天地のような歌あり踊りあり。テーマは宗教の違う男女の愛を、実際にあったヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いを背景に描いていたのには呆気にとられた。そして、宗教の違いの難しさも知らされた。

『旧川喜多別邸』は、入れるのは土間の部分であるが、開け放たれた縁側からも、テーブルと椅子の置かれた居間と和辻さんが書斎として使っていた部屋を見ることができる。

 

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縁側には、先日亡くなられた、山口淑子さんと川喜多長政さん、川喜多夫妻、フランソワ・トリュフォー監督とマリー・ラフォレさんと田中絹代さんが一緒の写真パネルが置かれている。この家で写されたものである。『東京画』でインタビューを受けられた笠智衆さんと、ヴイム・べエンダース監督 の写真もある。様々な映画人を包み込んだ家屋である。

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「記念館」の特別展は<映画女優 吉永小百合>で吉永さんが出演した映画ポスターが展示されている。吉永さんのデビューは1960年の『電光石化の男』であるが、同年に『不敵に笑う男』『霧笛が俺を呼んでいる』『疾風小僧』にも出演され、全てに(新人)とされていて、日活が力を入れていたことがわかる。展示されたポスターのところどころに吉永さんのコメントがある。吉永さんも印象的なこととし『キューポラのある町』の永六輔さんのメッセージが紹介されていた。<この映画でもう映画に出ないで欲しい>というものであった。それほど、主人公のジュンが生き生きとしていて、ジュンが吉永さんか、吉永さんがジュンか区別できないほどの演技力だったからであろう。吉永さんのコメントを読んでいると、吉永さんが放送関係から子役としてこの世界に参加し、映画の撮影現場とその作品からご自分の感性と生活感覚、社会感覚を育てられていったことがわかる。

『幕末』で、中村錦之助さんと仲代達矢さんの個性に挟まれてのお良、『華の乱』の与謝野晶子、『北の零年』の志乃など、自分の意思を前面に出す役のほうが、輝いて見えるのだが、受け身のほうの小百合さんを好きなサユリストが多いかもしれない。

モントリオール世界映画祭で二冠を受賞した『ふしぎな岬の物語』の受賞現場の映像も放映されている。これから12月25日まで吉永さんの映画や共演者の浜田光夫さんのトークイベントなどが目白押しである。

観ることはできないが、書棚には、見たいと思うVHSがずらーっと並んでいる。そして映画関係の本も。本のほうは時間さえあれば見放題である。ここは、小町通りから少し入っただけなのに静かで、4回ほど立ち寄っている。そして、いつも指を加え、棚を見上げ映画のタイトル名を眺めるのである。