坂のある町 「常陸太田」 (1)

水戸黄門でお馴染みの水戸光圀公が隠居後の10年を過ごした<西山荘(せいざんそう)>のある場所が、水戸からの水郡線常陸太田駅から歩けて、そこは城下町で坂の町である。旅行雑誌の常陸太田をコピーしていざ出陣。

水戸からの水郡線は途中の上菅谷(かみすがや)で常陸太田方面と郡山方面とに枝分れしている。そのため水戸から常陸太田行きなのであるが、郡山方面からくる列車との待ち合わせで上菅谷で15分列車は停まっていた。ローカル線の楽しさでもあるが、動きだす時になって、あれまあーホームに出て見れば良かったと後で気が付く。水戸から待ち時間もいれて1時間弱の乗車時間である。震災で被害にあったであろうが、屋根なども綺麗になり、ソーラーを設置している家があちらこちらに見える。畑の水のあるところは薄く氷が光っている。長閑である。

常陸太田駅に着くと隣接している観光案内にこちらの旅の目的を告げアドバイスをしてもらう。今、町の一角でお雛様を飾っていて道路からも見え、飾ってあるお店の中にも入って下さいとのこと。坂に面した町並みである。新たに解り易い地図をもらい歩き始める。大きな坂として七つあり<太田七坂>と呼ばれている。その第一の木崎坂を上がってゆく。広い道だが傾斜があるので道のすき間から見える建物がどんどん下に移動する。先ずは目指すのは下井戸坂で左手にそれと分るが、さらに進み杉本坂を目指す。

細い急な坂が左手に出現。表示がないのでその先に進むと立川醤油店があり、お雛様を飾ってある。お店の裏の母屋にも飾ってあり自由に入ってよい。入らせてもらい立派なお雛様たちを拝見する。帯の上に並べられたお人形もかわいらしい。外に出ると、<天狗党の刀傷あとがある>と書かれている。何処であろうともどると、ちょうど商店の奥さんが来られ「飾ってあるお雛様の後ろです」と案内して見せて下さった。鴨居の柱にもあり、そこは判らないように削られていた。天狗党が軍資金集めに来るという情報があり、住んでいる方達は避難して無事で、その頃は造り酒屋さんをしており、その酒樽が壊されて横の坂を川の様に流れたと。それが、杉本坂である。蔵造りの母屋は大火を免れ230年位たち、お店のほうも築180年はたっている。お店も天井に明り取りがあり、障子などもすてきである。震災前に補強していたので難を逃れたそうである。頂いたこのお店を紹介した新聞記事のコピーによると、先祖は東京の立川市周辺を治めていた豪族であったらしい。今のご主人は17代目とある。

お酒の川の話を聞いた後なので急な杉本坂を下るのもお酒に追いかけられるようで印象深い坂となる。途中に小さな山田神社がありその門柱に<杉本坂>と彫られてあった。<杉本坂>を下り下の道を進むと今度は右手に<十王坂>が現れる。この坂は綺麗に舗装され幅も広い。その坂を上り立川醤油店にもどる道すがら、震災で傷んだ網におおわれた郷土史料館分館があり、その隣にレンガ張りの郷土史料館の梅津会館がある。この町出身の梅津福次郎さんが北海道函館に渡り海産物問屋で成功し寄付し、昭和11年まで役場として、昭和35年まで市役所として活躍していた建物である。残念ながら震災のため史料館も現在は休館である。

この町の方々は、お雛まつりを通して震災よりももっと前から続いている町の歴史を一層大切に語られているように思えた。会う方会う方親切に教えて下さるのである。説明書きも丁寧で、満州から戦前送ったお雛様が行方不明となり、戦後届いたお雛様もあるのである。同時にお店の出来た年代も紹介していて古くからのお店が多いのである。この一帯は<鯨ヶ丘>といい、それは鯨の背のような町というところから命名されたようである。立川醤油店の一本向かえの通りの右手には、<板谷坂>が下がっていく。2本の通りに対し左手は<杉本坂>が右手は<板谷坂>が下っていて2本の通りは<鯨の背>なのである。この板谷坂も上から見ると美しい景観の坂で、前方に阿武隈連山が並び、昔はその下に田園が広がっていて、<眉美千石>と言われたと標識に書かれている。若い娘さんが写真を撮っているので旅行者かと尋ねたら「地元で住まいは少し離れていて、初めてゆっくり町を眺めているんです」と。灯台下暗しと言う事であろうか。

創業明治33年の大和田時計店ではお雛様と同時にに110年以上動き続けている大時計を見ることができる。ゼンマイ仕掛けの前の分銅式の時計である。中のは機械はスイス製で木彫りの外枠は日本で作られ、鳳凰と牡丹の模様である。創業当時から時を刻んできたのである。

さらに進むと<塙坂>があり、その坂を下ると<東坂>を斜めに上って行くことが出来る。右手に阿武隈連山を眺めつつ。

太田七坂 <木崎坂><下井戸坂><杉本坂><十王坂><板谷坂><塙坂><東坂>

 

 

源氏物語 『末摘花』 (2)

歌舞伎の『末摘花』は北條秀司さんが、十七代目中村勘三郎さんのために書かれた戯曲である。北條さんは『末摘花』『浮舟』『藤壺』を書かれていて<北條源氏>と言われている。『源氏物語』を訳されたり芝居などにする場合、それに携わったかたの考えかた、想いが色濃く反映され<〇〇源氏>と言われるゆえんであり、それだけ様々の解釈を受け入れるだけの大きさのある作品ということであろう。どう解釈されようとビクともしない作品であると同時に柳のように風に逆らうことなくユラユラと揺れ、余りに酷いときは、亡霊をそっと柳の後ろから出現させるかもしれない。

私の録画は平成13年(2001年)12月歌舞伎座であるが、40年ぶりの再演だそうで、40年前となると、昭和36年(1961年)頃である。<末摘花>は勘三郎(十七代目)さんで、<光の君>は歌右衛門(六代目)さんである。『隅田川』のベストコンビである。

勘三郎(十八代目)さんと玉三郎さんもベストコンビであった。歌舞伎の<末摘花>は、最終的には自分の生き方を自分で決める、賢い姫である。

光の君が須磨から京に戻られたのに末摘花のところへは音沙汰がない。そんな時、東国の受領である雅国(團十郎)が宮家の姫であるのに自分のような者にも隔てなく琴など聞かせてくれ、その心根に惚れ求婚するのである。雅国は眼が不自由でその治療のため都へ来たのだが治らないと宣告され、明日東国に帰るため一緒に来て共に余生を送りたいと願うのである。この雅国の團十郎さんがこれまた素敵なのである。末摘花の本当の人柄を見抜いていることが、よく伝わる誠実さである。末摘花は光の君を待つ覚悟でありその話を断るのである。

雅国が帰った後、光の君から文が届く。今日姫を訪ねて、さらに二条院へ引き取るというのである。末摘花も姫に仕える人々も驚き喜び大慌てである。ところがこの手紙は花散里へ渡すべきものを、光の君の従者(弥十郎)が間違えて末摘花に届けてしまったのである。それを知った侍従(福助)は姫君に本当のことを伝えることが出来ず下がってしまう。いくら待っても来ない光の君。一人で待つところへ、手紙を間違えた従者が現れ本当のことを話してしまう。末摘花は黙って間違えた文を従者に渡すのである。

傷心の末摘花に侍従は光の君がお出でになったと告げる。いよいよ光の君が惟光(勘九郎)を伴って花道より現れる。優雅に周りの景色を眺めつつ、こんなに末摘花の住まいは朽ちてしまったのかと感慨深げでもある。

光の君を前にすると末摘花は何も話せない。侍従が一生懸命姫と光の君との間を取り持つ。光の君は姫は変らないねぇと姫の子供っぽさを笑いつつそのままでいいのだよと安心させる。姫は侍従に勧められ琴を披露する。光の君は逢った時の心持に返るのだが、笛の音に誘われ月までもが都では艶めかしいと言って庭に出る。光の君は全ての美しいものにすーっと心惹かれるのである。その場その場で。庭の祠の前に石が積んでありこれは何かと尋ねる。侍従がそれは姫様が、光の君様が須磨に行かれてからその祠に光の君の無事を祈り、その度に石を積み上げていたと伝える。光の君はないがしろにしたことを謝りその夜は末摘花のもとで過ごすのである。

次の朝、光の君と惟光が帰リがけ、侍従が花散里のもとへ行き少しの時間でいいからと光の君に願い出て、足を運んでもらったことが解る。惟光は、その場の状況で人の心に触れると合わせてしまう光の君をなじる。紫の上様は何ですか。あれは私の夢だ。花散里様は。あれは別だ。明石の君様がこちらに来たら。その時はその時で考えよう。その時その時が真実であるという光の君の人間性をよく理解したのが末摘花で、雅国のもとへ行こうと決心するのである。

友人の言う 「光源氏の玉三郎さんも、はまり役だね。末摘花の女性としての可愛らしさと切なさが、なんとも言えないものがあるねぇ(笑)」 がここなのである。好きになった人が、美しいものに魅かれるとあちらに行き、こちらに行く。それを停めるとその人でなくなるのである。しかし自分はそれには耐えられないであろう。自分は東国で、光の君様のこれからの繁栄を石を積んでお祈りしようと自分に言い聞かせるのである。

この芝居を観たとき、観た人達で盛り上がったものである。末摘花は賢い。雅国と結ばれるほうが幸せになれる。團十郎さんの雅国は素敵だもの。それにしても、憎めないのが玉三郎さんの光の君。あれは演じ方によっては、単なる浮気者よ。そうならないところが、さすが。勘三郎さんの末摘花はきちんと最後は泣かせて決めたわね。同情ならいらないわ。

友人は自分の体験から次のように附け加えている。

「 実は、私は、末摘花で? 10年位、皮膚科に通院しているんです(笑)。鼻の頭が赤くなり、吹き出物もできやすく大変でした。現在は、ほとんど完治状態ですが、まだ薬は、飲んで通院しています。鼻の頭の血管が開いてしまい、そこにアレルギーが加わり赤くなってしまったのです。薬で治らない場合は、血管を焼く事もあるようですよ(笑) 私は薬でなんとか済みそうです。末摘花も現代なら~紅花なんて言われなかったでしょうに・・・・。可愛そうに!他人事ではないわ(笑) 」

源氏物語 『末摘花』 (1)

ブログを読んでくれている友人が、どこで紹介したのか忘れたが、円地文子さんと白洲正子さんの対談集 『古典夜話 ーけり子とかも子の対談集ー 』が面白かったと言ってきた。ちなみに勝海舟の『氷川清話』は半分で閉じたそうである。

『古典夜話』を読むとやはり<源氏>を読まなくてはと思わされ、どこから入ろうかと思案し、『末摘花』から入る事とする。なぜか。歌舞伎の『末摘花』がパッと浮かんだからである。勘三郎(十八代目)さんの末摘花と玉三郎さんの光源氏である。友人は歌舞伎を観た事がなく、かなり鄙びたところに住まいしているため簡単には観劇できないので、『末摘花』は録画してあり、それをダビングして送ることとした。

そんなこんなで、本のほうは、読みやすい村山リウさんの 『源氏物語 ときがたり 』とする。村山源氏 と古本屋で出会って1年と3ヶ月がたち、やっとひも解くこととなる。<末摘花>というのは<紅花>のことである。<紅花>といえば高畑勲監督のアニメ『おもひでぽろぽろ』である。紅花は棘があり茎の先についている花を上手く摘まなくてはならないので<末摘花>とも呼ばれるのだそうで、『おもひでぽろぽろ』の主人公はその紅花を摘みたくて自分探しの旅にでるのである。

『源氏物語』の末摘花は旅にでることはない。彼女の鼻は紅花のように赤いのである。彼女はじっーと光源氏を待つのである。

夕顔を忘れられないでいるのに珍しい話を聞くと心動かす源氏である。亡き常陸宮(ひたちのみや)の姫君が荒れた大きな屋敷に一人寂しく暮らしていると聞き、その屋敷に出入りしている女官の命婦に手引きさせ姫のお琴を聞く。上手とはいえないが、手筋は良いと源氏は思い想像をたくましくさせ、次に歌を送る。ところが返事が来ず、頭少将も求愛者と知り、源氏は積極的な行動に出て、次に訪ねたときは、ふすまをあけてなかに入ってしまわれた。その後、返歌も面白味がなく、再度の訪れまで時間がたち、気になって朝の雪見をしましょうと姫を誘いだされた。その時、姫の姿と赤い鼻を見てしまう。源氏はこの時、自分しかこの姫の面倒をみる者はないと自分に言い聞かせるのである。それでいながら源氏は自分の鼻を赤くぬり、若紫に色が取れなくなると心配させ、たわむれるのである。紅梅の色に常陸宮の姫君を思い出し、< なつかしき色ともなしに何にこのすえつむ花をそでに触れけむ >としてこの姫を<末摘花>と呼ぶのである。

末摘花はこの後、『蓬生(よもぎう)』で再登場する。『紅葉賀』『花宴』『葵』『賢木』『花散里』『須磨』『明石』『澪標』の後である。源氏は住みづらくなった自分の周辺の様子を察し自ら須磨へ身を引く決心をする。青春真っ只中の源氏はここで身を引くことにより、青春と別れ大人になって行く時期でもあった。人の結びつきのはかなさも分かり、再び京にもどった源氏は末摘花の事を思い出し、もう居ないであろうと訪ねてみると、朽ちた屋敷で末摘花はじーっと待っていたのである。源氏はそれから2年後二条東の院へ末摘花の君を引き取るのである。この<末摘花>は出てはこないが『末摘花』から『蓬生』までを<末摘花>の完結として考えた方が良いとの意見がある。私も読んでいて、源氏の人としての成長が<末摘花>を扱う考え方に変化を与えたと思うし、紫式部も<須磨>の前に意識的に<末摘花>を持ってきたように感じる。

さてさて、歌舞伎の『末摘花』は原作とは違う、これまた素敵な<末摘花>なのである。

友人からのメールを本人の了解を得て紹介しておきます。

「昨夜、『末摘花』見終わりました。旧勘九郎さんの末摘花は、私が勝手に想像していた姫の姿とぴったりで、楽しく見ました。光源氏の玉三郎さんも、はまり役だね。末摘花の女性としての可愛らしさと切なさが、なんとも言えないものがあるねぇ(笑)。」

 

 

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (2)

私がDVDで観た歌舞伎『隅田川』(清元)は、斑女の前(はんにょのまえ)が六代目中村歌右衛門さんで、舟人が十七代目中村勘三郎さんである。そして清元が清元志寿太夫さんである。驚いた。歌右衛門さんの動きと志寿太夫さんの清元が見事に合っている。歌右衛門さんが描く世界と志寿太夫さんが語る詞がぴったり重なっている。さらに舟人の勘三郎さんが、全く無駄のない動きで歌右衛門さんに寄り添っている。歌右衛門さんが我が子を探し、その死を知った時の悲嘆と狂気を演じられているそばで、どうする事も出来ずに支えたり、落涙する姿の勘三郎さんは演じているのではなく、演じられている歌右衛門さんの芸の流れに乗っているだけにみえる。それほど演じているとは思えない芸なのである。

斑女の前が花道から、白い小さな花の枝を手にし、打掛の片外しで塗り笠を背負い、尋常では無い姿で登場する。静々と何かに導かれるような出である。京の都の白河から人商人(ひとあきびと)にさらわれた我が子を探し訪ねて隅田川にたどり着いたのである。花道で塗り笠を鏡に見立てて髪を直すあたりなども、如何に苦労してたどり着いたかがわかる。来合わせた舟人との問答になり、飛び交う鳥に対し、業平の <名にし負はば いざこと問わん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしや> の歌にかけて母親は問う。舟人は、去年旅の疲れから倒れた子供を人買いが置き去ったと話す。その子の国は都の白河、父の名は吉田、年は十二歳、その名前は梅若丸とわかる。お二人の聴く親と語る舟人の動きが美しい。悲しい話がもっと切々と伝わる。

舟人はその子の埋められた対岸まで斑女の前を舟に乗せ連れて行く。梅若丸の墓は < 今はこの世になき跡に 一本(ひともと)柳枝たれて 千草百草しげるのみ > 母は、ここを掘って亡骸でいいから一目会いたいと嘆く。 舟人はそれを止め、念仏を唱えてやりなさいという。舟人は道端の花を摘み母親に渡す。その土墓に母は自分の打掛を掛けてやり母は自分の髪の乱れを手で撫でつけ気持ちも新たに念仏を唱えるがその念仏の声の中に梅若丸の声があったとして気がふれて梅若を探しまわる。花道で我が子を何度となく抱こうとする母。どうする事も出来ず涙する舟人。勘三郎さんの情が歌右衛門さんの芸を際立たせる。

< 幻の 見えつ隠れつするほどに 空ほのぼのと明けにけり > 土墓に掛けた打掛を撫ぜ、悲しみゆえに身をよじり握りしめる斑女の前に上る朝日の光が紫炎となって射すのである。

隅田川七福神の多聞寺と白髭神社の間の木母寺は梅若伝説のお寺で、境内には梅若塚とガラス張りの梅若堂がある。また、そばの梅若公園には晩年を向島で過ごした榎本武揚像がある。

そして隅田川の対岸には、梅若の母が梅若の死を知り尼となり妙亀尼と称し庵を結んだとされ、その伝説の塚として妙亀塚がある。二つの塚を結ぶ橋としては白髭橋が近いであろう。

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (1)

葛飾北斎の「深川万年橋下」は、深川の小名木川から流れ込む隅田川を前方に描いている。その隅田川は人気者で様々のところで活躍している。

小旅行とかちょっとの電車の行き来ように文庫本を持つ。本の厚さ、字の大きさ、適度に文と文の間に空間、読み返さなくて良いほどの流れのものと、パラパラと開いて検討して持参するのである。そうして選ばれた本がまたしても、内田康夫さんの本『隅田川殺人事件』となってしまった。ああ、隅田川ねの軽い反応を反省させる広がりであった。

先ず、浅見光彦の住んでいる位置と母親の雪江夫人の浅草近辺を戦前、戦中、戦後の見てきた風景が判るのである。浅見光彦の住まいと言うより母と兄のもとに同居させてもらっている住まいは、東京北区西ヶ原で、飛鳥山に隣接している。飛鳥山は八代将軍吉宗がサクラなどを植え、江戸庶民の遊行地としたところである。音無川(石神井川)に掛かる音無橋の下は公園になっていて、飛鳥山からこの橋したあたりが光彦少年の遊びの縄張りだったようである。さらに先へ行くと、王子の地名の由来の王子神社があり、さらに進むと落語の「王子の狐」でお馴染み王子稲荷神社がある。源頼朝が太刀を寄進したともいわれ、関東稲荷総社の格式がある。

雪江夫人は「花」の歌から青春時代に行った隅田川を連想する。 ~春のうららの隅田川 上り下りの舟人が かいの雫も花と散る~  「花」は武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲である。明治33年で内田さんは明治33、34年の学校唱歌として、「荒城の月」「鉄道唱歌」「箱根八里」「おつきさま」「お正月」「うさぎとかめ」「はなさかじじい」などをあげている。参考までに附け加えるなら、滝廉太郎も演奏した上野にある旧東京音楽学校奏楽堂は残念ながら建物が古いため現在は公開されていない。その建物前にある滝廉太郎像は朝倉文夫作である。建物が修復され公開されると良いのだが。

雪江夫人は戦中は空襲のため火を逃れて隅田川に飛び込んだ人々が亡くなった様子を聞き、その無惨さに隅田川に近づくことを頑なに拒否しつづけている。ところが、隅田川での殺人事件に雪江夫人の知人が関係し、光彦と隅田川や浅草を訪れることとなるのである。この殺人事件、吾妻橋から出ている水上バスで行く浜離宮とも関係があり、読みつつ行った所を思い出していた。浜離宮は『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』の御浜御殿である。浜離宮の横を流れている築地川は昭和20年代には新橋演舞場の後ろを流れていたのである。この一冊だけで、再び新旧の東京見物の一部が出来てしまうのである。

~見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う桜木を~  隅田川で手を合わせてから、桜の時期の水上バスもいいであろう。飛鳥山公園の桜もいい。もう一つ出てくるのが、能の『隅田川』である。<愛するわが子・梅若丸を人買いに連れ去られて、物狂いになった母親が、都からはるばる東国にやってきて、隅田川のほとりで梅若丸の幽霊に出会う> そう来れば、こちらとしては、中村歌右衛門さんの『隅田川』のDVDを見ないわけにはいかなくなるのである。

 

太田記念美術館 『葛飾応為』

<父は北斎 知られざる異才の女絵師>

葛飾応為(かつしかおおい)は北斎の三女でお栄(阿栄)とされている。太田記念美術館で2月1日から26日まで、応為の「吉原格子先之図」が公開されていてぎりぎり間に合った。吉原和泉屋の張見世の夜の場面、張見世の格子中の様子とそれを眺める外のお客の様子が灯りの<光と影の美>として捉えられている。

格子中も明るいところと影になる部分があり、外は外で、提灯の灯りと照らす部分と影となる部分の立体感が絶妙である。この浮世絵(肉筆)が応為の作品と判明するのは、三つの提灯に<応><為><英>と書かれているので応為の作品であると分るのだそうで、これまた味なことをされる方である。

北斎は数えるのが大変なくらい引っ越しをしていて暮らしも大変だったらしい。北斎と応為の姿が描かれている「北斎仮宅図」を見ても、北斎は布団をかぶり、どう見てもお二人とも絵師としての才と生活の才が均等ではないように見受けられる。

応為の「夜桜美人図」は江戸博物館の『浮世絵展』に展示されていたようであうが、あの広さの作品の多さに対峙する元気がなかったので行かなかった。それと、この作品はメナード美術館が所持しているので、そちらでお会いしたい。ただ、ボストン美術館所蔵の「三曲合奏図」は『ボストン美術館浮世絵名品展 北斎』で9月に巡回で東京にくるらしいのでそれは見ようと思う。市川猿之助さんが音声ガイドナビゲーターであるからして、楽しみが増えた。

今回の太田記念美術館での浮世絵は夜の作品に主眼があって、こういう限定された展示はそこに視点が集中して、浮世絵師の夜の作品への取り込み方の違いや、こういうふうに夜を表現するのかと大変楽しく見ることが出来た。そして、引き返して応為の<異才>を改めて味わった。

北斎の「深川万年橋下」のカーブした万年橋の間から見える富士もよかった。ちょっとここで歌舞伎につながるが、二月歌舞伎座の『心謎解色糸』の米吉さんと廣松さんの芸者の雰囲気の違いが面白かった。米吉さんの小せんは菊之助さんの芸者小糸の動きや台詞によく反応するが、廣松さんのお琴はでんと構えている。そしてお琴の台詞の時思ったのである。廣松さんは辰巳芸者を意識しているのかと。筋書で米吉さんは小糸の妹分として世話を焼く立場と考え、廣松さんは(粋と侠気で知られる)辰巳芸者を工夫する考えを述べられている。なるほどである。

辰巳芸者と言えば、『梅ごよみ』の芸者仇吉の玉三郎さんと芸者米八の勘三郎さんである。あの意地の張り合いがもう観られないのかと思うと、目が潤んでくる。でも若い人たちが一つ一つ学んでいってくれれば花開く日は来るであろう。

応為にも辰巳芸者のような、女絵師としての張る意地を感じてしまう絵師である。

 

水木洋子展もラストへ

平成25年10月26日から始まった市川市ミュージアム企画展の『水木洋子展』も3月2日で終了である。期間が長いのでと思っていたが、なんとか2回行くことが出来た。水木さんが脚本を書くにあたって現地へ行かれ念入りな取材と資料の中から積み上げていった事はよく分った。たとえば、『ひめゆりの塔』に関して、現地の校長先生の話の取材で<沖縄では、いわゆる適格者(18歳以上60歳までの男女)は軍の命令によって疎開できなかった>とあり、映画の会話の中にも、自分の母親が60歳なので疎開できないで残っているとでてくる。水木さんの取材メモが無かったら見過ごしたであろう。そんな事実があったのだ。

東日本大震災のとき、未亡人の知人が息子さんさんにとにかく後で笑い話になってもいいから関東から脱出して関西に行ってくれと言われ京都に行ったそうである。ホテルはどこも満室に近かったようだ。お母さんが行っててくれれば何かがあれば、僕たちはバイクでもなんでもそちらに行けるからと言ったそうで、笑い話ではなく、凄い親孝行な息子さんと話を聞いた皆は感心した。この沖縄の話からそんなことも思い出した。

今回は、展示されていた水木さんの映画作品のポスターやチラシの中の宣伝や紹介文を一部載せておく。

ひめゆりの塔』  一人の英雄もなく一人の残虐な将校もいない焦土と化した沖縄に「ひめゆり部隊」二百余名の乙女がその若き生命を捧げて永遠の平和を願う 一大叙事詩!世界映画史上に不滅の一頁を!

キクとイサム』  村中をひっくり返すデブちんと腕白小僧!

おとうと』  生きることに徹し愛することに徹した二つの魂!市川崑が人間の美しさ挑む文芸大作!

喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん』  ズラリ揃った奇想天外の配役陣!愉快で陽気なオバアチャンの浅草道中!

あれが港の灯だ』  波荒き玄海灘に体当たりする日本映画界空前の野心作!!

裸の大将』  頭がよわいが絵を描きゃ大将!日本中の毒気を抜いてぶらぶら歩けば犬まで笑う!

ここに泉あり』  いばらの道をふみこえて夢は大きく花ひらく今井映画最高の壮麗ロマン!

あらくれ』  幾度も男に傷つき躓きながら女の生甲斐を求めるお島

あにいもうと』  洋画ファンも文化人もきっとこの怒りと愛情に泣く!最高文芸巨編!

夫婦』  市井の片隅に揺れていて侘しい夫婦のささやかな愛の灯妻の倖せとは・・・全女性いに献げる愛の珠玉

丘は花ざかり』  恋する現代女性の生態、限りない親愛感を以てせまる石坂洋次郎文学決定版

おかあさん』  往年の名作「綴方教室」を凌ぐ感動の芸術作品!

浮雲』  風に吹かれ雨にたゝかれ儚くながれゆく浮草の流転する姿にも似た女が・・・・

今回展示されているポスターの一部で、ポスターは幾種類かあるので、そこにはまた違う宣伝文があるであろう。

展示と関係の無い他の資料の中には、たとえば、『浮雲』などは、<漂泊の涯てなき恋の旅路の歌かあわれ女の情炎図>と書かれたものもある。こうして見ていくと、いかにして映画にお客を引き付けるか宣伝部が工夫をこらしていたのであろうと 想像できる。今の時代のポスターはどんなであろうか。気にかけていなかったので、これを機会に気をつけてみよう。

水木洋子のドラマと映画 (3)

水木さんの作品に石坂洋次郎原作の『丘は花ざかり』(1952年)がある。これは共作で、相手は『青い山脈』(1949年)で脚本家デビューをした、井手俊郎さんである。映画脚本では、水木さんも八住利雄さんと共作で『女の一生』で1949年の同年にデビューしている。井手さんとは『丘は花ざかり』『夫婦』『愛情について』『にごりえ』の4本共作している。<男女の問題を扱うとき男の作家が加わる方が中庸を得る>とし、井手さんに関しては「珍しいほど女性について新しい鋭敏な理解者」と言われている。井手さんのほうは、原作を約7分の1のシナリオにした大変さと「ほとんど全部水木さんにおんぶして、どうやら出来上がった」といわれている。『青い山脈』は戦後の初の古い考え方を打破する青春映画と言えるもので、池部良さんと、杉葉子さんの学生としては少し大人過ぎるが、爽やかなフレッシュコンビである。

そのコンビともう少し大人のちょっと危ない関係を描いたのが『丘は花ざかり』である。この映画は市川市文学ミュージアムの貸出でその場で視聴できた。『青い山脈』で大人の色気で魅了した芸者役の小暮実千代さんが既婚の姉で杉さんが出版社勤務の妹役である。この二人の恋愛を軸に話は進む。

小暮さんは、息子のPTAの役員となりそこで上原謙さんに引き付けられる。この上原謙さんが好演である。キザでありそうで、キザまで足を踏み入れていないぎりぎりの線を保ち、女を魅惑的に誘う役どころである。本物の恋に発展しそうな雰囲気でありながら、小暮さんは家庭にもどるのである。『青い山脈』の<変しい、変しい>の手紙のアクセントと同じで、他の役員に、小暮さんと上原さんは見られたくない場所で会っているところを見られてしまう。、その役員から小暮さんの夫に手紙が届く。てっきり逢引の告げ口と思ったらそれは夫への碁のさそいであった。

杉葉子さんは奥さんを亡くした上司の山村聡さんを好きになってしまい、子供の世話などもし結婚を考えるが、山村さんはそういう気持ちはないとはっきり伝える。杉さんは落胆するが、杉さんに好意を持っている池部さんとのことを恋愛の範ちゅうに入れることとする。

小暮さんの家族と、杉さん池部さんが加わり、上原さんとの関係を清算し農場に住み込む高杉早苗さんのところへ遊びに行き、全て丸く治まり皆で笑顔でサイクリングとなるのである。バックには藤山一郎さんの歌う「丘は花ざかり」が軽やかに流れて目出度し目出度しである。大人のほんのり冒険的心ときめかす青春映画といったところである。主題歌としては「青い山脈」のほうが、やはりインパクトは強い。小暮さんと上原さんの不倫ものとなれば、当然「丘は花ざかり」の歌は挿入されないであろう。そこにもう一つの恋を組立て上手く収めている。<中庸>なのかもしれない。  監督・千葉泰樹 (「青い山脈」「丘は花ざかり」はともに 作詞・西條八十/作曲・服部良一)

上原謙さんは、木下恵介監督のデビュー作 『花咲く港』 (1943年・菊田一夫原作)で小沢栄太郎さんと兄弟を装ったペテン師役をやっている。おおごとになると思わなかったのに、小さな島全体の善良な住民を騙す事となり結果的には改心し島のために尽くす形となる。この役などは、『丘は花ざかり』後に演じたとしたらもっと面白味のある演じ方をされたと思う。1953年『』『夫婦』で毎日映画コンクールで主演男優賞を受賞されている。『夫婦』は水木洋子さんと井手俊郎さんの共作で成瀬己喜男監督、共演・杉葉子さんである。

 

 

水木洋子のドラマと映画 (2)

水木さんのドラマ、映画の作品で音楽性という事も興味を誘う部分である。その中でも『キクとイサム』のなかでの、キクが歌う歌である。『キクとイサム』は日本映画の黄金時代と水木さんの最も輝かしい時代の作品でもある。1960年公開で、1959年には、日本映画は映画観客が年間11臆2700人と史上最高記録となっている。

キクとイサム』は、母が日本人で父がアメリカ人の姉弟である。キク12歳、イサム9歳で父はアメリカに帰り、母は亡くなり、東北の貧しい農村で祖母に育てられている。町に出かけたりするうち、自分を見る人々の視線に疑問を持つようになる。祖母も回りの人々もこれからの二人の行く末を心配し始め、弟のイサムはアメリカに養子となって行き、キクは自分がどうなるか不安でもある。祖母はキクに対してもイサムに対しても可愛いい気持ちは十分ある。しかし老齢でもあり、どうするか頭を抱え彼女なりの考えで孫の幸せを一生懸命に考えたのである。そしてキクに対しても結論をだす。辛い仕事なのでやらせたくはないが、借りている狭い農地で畑仕事を自分について覚えろとキクに伝えるのである。キクは嬉々揚々として農具の鍬を肩にかけ祖母の後をついていくのである。

監督・今井正/脚本・水木洋子/出演・高橋恵美子(キク) 奥の山ジョージ(イサム) 北林谷栄(祖母) 滝沢修、宮口清二、東野英治郎、朝比奈愛子、清村耕次、荒木道子、三国連太郎

キネマ旬報ベスト・ワンに選ばれている水木さんの作品は五作品ある。『また逢う日まで』『にごりえ』『浮雲』『キクとイサム』『おとうと』である。

水木さんはキネマ旬報に要約すると次のような一文を書かれている。<背後に民族問題ということもあるが、大上段に社会劇としたり、問題劇として叫ぶことは避け作品のスタイルも写実からシンボライズへ半歩前進したいのがこの仕事のねらいである。東北に世界をおきながらも、山ざとのカラリとした夏から秋に設定した。主人公のタイプもわざとフトッチョの美人型でない可憐でない、憎たげなフテブテしい子供を描き、主役タイプの定石を破りたかった。殆どが反対意見で、監督が最後の決断をくだしてくれなかったら、私はこの脚本と心中をしてしまったことであろう。>

今井監督のほうは、子役を探し東北で70人くらいの子に会っていたが、水木さんが東京で探して「あの子に決めた。あの子でないと書かないわよ」と言ったという。それがキク役の高橋恵美子さんである。今井監督は「おばあさん役の北林谷栄さんともども大きな功績ですね。」ともいわれているから、北林さんを選ばれたのも水木さんだったのであろう。水木さんは、柳永二郎、伊志井寛の旗上げ公演に『風光る』の芝居を書かれていてその時、北林さんと会っている。その時「風雪に立ち向かう激しい姿勢が、だれかと話すひと言の中にも、ナマで私は感じられ、遂に恐れをなして一語も言葉をかわさなかった。」そして『キクとイサム』で初めて口をきく。「その一番初の言葉が「ずいぶん水木さんも成長したものだ」と感にたえた声で言った。「これだけ描かれた役柄を自分がはたしてやれるか」とは言わなかったが、脚本をほめておいて、見ごとにやってのけた。」水木さんの役者さんの選び方の修養さの一端である。

深刻なテーマでありながらユーモアにみちているのは、子供の遊びや夢中になるその姿でもある。祖母が神経痛が痛み、野菜を背負い町へ売りに行き、そのお金で医者にかかる。その時、キクは膚の黒さから好奇の目にさらされる。それを感じた祖母はキクを先に帰す。その帰り、キクはアイスキャンディーを買うお金で櫛を買う。女の子の自然の感情として、周囲に関係なく楽しそうに描く。祖母は医療費の値段を聞き注射をやめて逃げ帰る。そのお金でイサムには帽子をキクには下駄を買って帰る。キクはイサムに大事にするように言い、イサムも喜んで約束する。次の場面では、その帽子は採った魚を入れる容器となってアップとなる。かくありなんである。子どもは面白いことがあれば、それに集中する。子ども達の遊びも言葉の暴力も遠慮なく描く。

イサムが養子に行ってしまい寂しいであろうと、祖母は村に芝居が来るとキクを見に行かせる。キクは歌をすぐ覚えるらしく、<ケイセラセラ~><りんごの花びらが~>とか所々で口ずさむ。それが花開くのが、旅役者の人々に披露する歌である。「お富さん」のタップつき。褒められてやるのが、しぐさつきの「江戸の闇太郎」である。このあたりも水木さんの手の内のように思われる。今井監督は『青い山脈』で歌謡曲挿入に反対している。歌舞伎のおかるの台詞導入といい水木さんの発想と思う。山奥で見聞きするもの。それは、集会所にくる、映画か旅芝居であろう。それを入れて当時の庶民の娯楽をもり込んでキクを慰める楽しみごととしている。そのことが、登場人物を生き生きとさせる。ここで問題が起こる。夢中になったキクは、いじめっ子を追いかけ子守りをしていた赤ん坊を停まっていた車の荷台に乗せ、その車が発車して赤ん坊が行方不明となるのである。この事件があり、キクは自殺を試みるが、身体の重みで古い縄が目的を果たせず切れてしまう。祖母は決心する。

「お前を何処にもやンねエ。婆ちゃんと一緒に居てエつウなら、4反借りている畑サ一人で立派にやってのけるようになれ。」

大人のしるしのあったキクは赤飯の弁当を持ち祖母と畑に向かうのである。途中で会ういじめっ子にキクは笑顔で言う。「年頃だから、オラ。かまってやらねえで。もう。」 チンプンカンプンのいじめっ子を後にキクは堂々と胸を張って祖母の後についていくのである。このラストも語り草となる可笑しさで、見るものをほっとさせる場面である。

お蚕を飼っていて、そのために摘んだ桑の葉が雨に濡れてしまう。キクもイサムも祖母のところに駆けつけ、桑の葉の入っている駕籠の上から自分の着ている洋服を脱いでかける。こういうところは、お蚕さんを飼っている農家にとって、お蚕さんがどれだけ大事かわからない人も多い事であろう。町の祭りの帰りに寄ってくれた人を接待する食べ物が畑から抜いてきた大根の輪切りである。その貧しさの中でもキクは憎まれ口をきき負けてはいない。そのふてぶてしさはキクの命そのものである。見ている者がいつの間にか笑いつつ応援してしまう。

バック音楽はピアノで始まる。何かが起こると管弦楽器なども加わるが、基調はピアノである。その流れにキクの歌謡曲がはいるのである。

風に稲穂はあたまをさげる~ 人は小判にあたまをさげる~ えばる大名をおどかして~~~ヘンおいらは黒頭巾 花のお江戸の闇太郎~

見終わると、このメロディーが出てくる。百円ショップで美空ひばりさんの「江戸の闇太郎」の入っているCDを買ってしまった。 ~花のお江戸の闇太郎~

参考  北林谷栄さんとミヤコ蝶々さん

水木洋子のドラマと映画 (1)

市川市文学ミュージアムで水木洋子展をやっていることはすでに書いたと思うが、水木洋子展の内容に関しては書いていない。と言いつつ今回も書くつもりはない。映画のポスターや、シナリオの原稿は説明しても想像するのは難しいであろう。と言う事で水木さん脚本のドラマについて。

横浜放送ライブラリーで、水木さん脚本作品の聞けるもの見れるものは全て見たのであるが、水木洋子展の関連でテレビドラマ上映会と映画上映会をやっている。その中で、1970年の「東芝日曜劇場 五月の肌着」だけ再度見ることが出来た。面白い手法を使って姉と弟の言葉に表すと壊れてしまうような情愛を描いている。

先ず画面の大きさでバックに流れる音楽の見る者への影響が大きいことを知る。チェンバレンのような楽器の音楽が流れその音楽と列車の踏切の信号の点滅とが重なる。いい流れである。放送ライブラリーでは気にかけなかったがはっきりと印象づけられる。電車の乗り降りの乗客があり、ホームの若い青年が電車のドアガラスを乗車内に向かって割るのを乗車内から写す。その青年のこぶしの先に一人の着物姿の女性が写し出される。彼女の仕種、表情から回りの乗客三人がそれぞれこの男女の関係を想像するのである。その想像が週刊誌の見出しと同じというように、電車の中の週刊誌の釣り広告が映し出される。

この美しい女性は池内淳子さんで、想像に任せて、想像の役をするのである。青年が高橋長英さんである。人の想像とは面白いものである。どれが本当の彼女なのか。若い男を騙し袖にしてその仕返しなのであろうか。水木さんは、よく役者さんを見ていて上手い配置をする。特に女優さんの選び方は素晴らしい。(一応水木さんが選んだと仮定していての話である)池内さんは五役演じている。48分のドラマに五役であるから何が何だかわからないという事になりそうであるが、そこは、脚本の良さと役者さんの力である。この二人の男女の関係は本当はどういう事なのかと頭のどこかで思わせられつつ、本題に引っ張られていく。

問題を起こし家を出てしまった弟。家族のために婚期を逃してしまった姉が今度こそは結婚しようとして、弟に会いに行くのである。弟には年上の恋人がいて、弟は姉を慕っていることがわかる。今度は自分は結婚すると決めそれを告げ電車に乗ったところで弟が姉に向かって電車のドアのガラスを割るのである。それが弟のどんな気持ちなのかは、見る者に託されている。

私は、弟が俺はもう大丈夫だよとの気持ちでこぶしを奮ったと感じたが、見る人によっては、結婚するなの意思表示ととるかもしれない。池内さんはその弟の行動にびっくりするが、時間が経つと微笑むのでる。単なる微笑みではないので事情の知らない人は、ふてぶてしい笑いととり自分の想像通りと満足するのである。

父親が畳職人で中村翫右衛門さんである。(このかたの芝居を見れなかったのは残念であった。映画『いのちぼうにふろう』の安楽亭の主人などは大好きである。この人以外考えられない。あの仲代さんのような個性的な役者さんの親分となれるのは。)母親代わりとなって婚期を逃した池内さんとの親子関係も息が合っている。長男が林隆三さんで飄々としている。次男の高橋さんのほうが、畳職人としての腕は良かったらしい。そういう細かい人物設定も水木さんならではである。

もう一度見たいなと思わせる作品である。電車の音なども入り丁寧に作られている。

参考  水木洋子 『北限の海女』