二代目 吉田玉男襲名披露公演

国立小劇場 人形浄瑠璃文楽五月公演は、『二代目 吉田玉男襲名披露公演』である。パンフレットに、二代目玉男さんが、襲名を決心したのは、平成25年の『伊賀越道中双六』の通し狂言で唐木政右衛門を勤めたときと言われている。残念ながらこれは観ていない。

伊賀越資料館に行った時、玉女(当時)さん、勘十郎さん、和生さんと三人の並ばれた写真を見て、世代交代の時期なのだと感じたが、今回の文楽を観ていてもっと強い思いを感じた。自分たちが引っ張って行かなければならないという思いである。( 伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-2)

口上で並ばれた、玉男さん、勘十郎さん、和生さん。第一部の『一谷嫩軍記』での、熊谷直実の玉男さん、相模の和生さん、藤の方の勘十郎さん。第二部の『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』の帯屋長右衛門の玉男さん、お絹の和生さん、お半の勘十郎さん。そして、長右衛門とお半の道行は、玉男さんと勘十郎さんコンビの息の合わせかたに人形に息を吹き込ませる瞬間を瞬間を観させてもらった感がある。

そして、さすがであると楽しませてくれたのが、丁稚長吉の蓑助さんのコミカルなリズム感のある人形の遣い方である。嶋大夫さんのかたりと錦糸さんの太棹に乘って、顔、胴、手足が面白いようにピタリと止り、その可笑しさが長吉の軽薄さを表す。しかしこの軽さは長右衛門とお半の悲劇性の前に立ちはだかり、長吉には到底解かり得ない、自己中心的な残酷さが含まれたいて、次の道行への展開となる。

まわりに義理を深く感じて生きてきた長右衛門には、過去に一つの事件があった。そのこととお半とが重なり心中へと滑り落ちて行く。このあたりで、ふーっと、太宰治さんと重なってしまった。

偶然が必然になってしまった長右衛門とお半の道行は5挺の太棹で激しく揺すぶられ運命に逆らえない二人をいざなう。

口上で和生さんが初代玉男さんの『一谷嫩軍記』での熊谷直実の工夫について語られた。「文楽藝話」でも初代玉男さんは語られているが、それがすぐに目にすることが出来、成程このことかと判った。芸談も本で読んでいても舞台を観た時には忘れていたりするので、初代玉男さんの芸の継承が二代目玉男さんに繋がったのが実感できた。口上は、ロビーで映像で紹介されている。

今回の『一谷嫩軍記』の<嫩 ふたば>の一文字の重さに深い意味を観た。同時に生まれいでた双つの葉。それは、小次郎と敦盛である。その二人が入れ替えられる。小次郎が死に敦盛が生きる。しかし、表向きは敦盛が死んだことになっている。幼少の義経を助けた弥陀六の宗清が、義経に、あなたを助けなければ平家はこんなことにはならなかったという。そして敦盛を預かると、もし敦盛が大きくなってあなたを仇としたらどうするかと問う。義経は、その時は、受けて立つと答える。

それに対し熊谷は、浮世を捨てた自分には源平どちらにも縁はないと告げる。このとき「十六年も一昔」の場面より、熊谷の虚しさが深くなった。我が子を犠牲にしてまで院のご落胤ということで敦盛の命を助けた。ところが、敦盛はまた誰かに神輿に乗せられ次の戦の火種となるのだろうか。この世に生を受けた<嫩 ふたば>は、なんのために命を授かったのだ。一枚の葉は落ち、自分の守ったもう一枚の葉も、この戦さの世にあっては、落ちる運命なのであろうか。熊谷の虚しさが、胸に一気に押し寄せ、平家物語の世界が熊谷直実の背後に広がった。そしてそこに流れる交差する<嫩 ふたば>のそれぞれの母親の子を思う心。

この物語性は、人形と人間の表現では違ったものとなる。人形に物足りなさを感じたり、かえって人形でのほうが、歴史的背景が舞台上に出現したり、情の深さや無常観などが現出したりする。それは、それぞれを観てのお楽しみである。

人形と浄瑠璃のぶつかり合い。息の合い方。人形同士のぶつかり合い。息の合い方。大夫と三味線のぶつかり合い。息の合い方。この複合体が文楽である。

そして、一体の人形を三人で遣う。初代玉男さんは、「<これなら無口な俺でもやれるかな>と黙っていても商売になる人形遣いの道を選んだ」(山川静夫・文)そうで、その師匠の足を十五年、左遣いを二十五年つかえられた二代目吉田玉男さんの先の長い出発点である。<祝>

(他のお勧め紹介。竹本千歳大夫さんと三味線の野澤錦糸さんの「素浄瑠璃の会 浄瑠璃解体新書~サワリ、クドキ、名文句~」が行わわれる。5月27日19時開演。江東区森下文化センター。下町で浄瑠璃とは粋である。迫力あるベンベンの音と千歳大夫さんの語りのお顔拝見だけで、浄瑠璃に触れたぞと思えるであろう。)

 

国立劇場 『東北の芸能V』(2)

五回目の今開催は、東北六県の芸能を存分に楽しませてもらった。

『寺崎のはねこ踊』は宮城県石巻市桃生(ものう)町寺崎に伝わるもので四年に一度の「寺崎八幡神社大祭礼」の時の踊りらしいが、今は毎年披露されている。この踊りの起源は江戸時代で、凶作が続き苦しんだ人々が、豊作に恵まれ歓喜して踊ったのが始まりだそうで、気持ちそのままの踊りである。ずーっと飛び跳ねている豊年踊りである。現在の衣装は模様入りの長襦袢である。はね易いようにであろう。裾の重ねが開き気味にされている。そのため足がむき出しにならないように、襦袢の下にお相撲さんの化粧まわしと同じような<マス>と呼ばれるものが締められている。白い房と鈴がついている<マス>が跳ねるたびに見える。お囃子が大太鼓、小太鼓、笛、鉦である。二枚扇を使い、お囃子が次第にはやくなるが、その速さに負けてはいない跳ね方である。豊作の喜びがビンビン響いてくる踊りであった。

『青森ねぶた囃子』は、あの<ねぶた>と跳人(はたと)とともに練り歩く。ねぶた囃子は、ねぶた祭りの始まりから終わりまである。「集合太鼓」、「小屋出し」、「出発準備」、ねぶた本番の「進行囃子」、「もどり囃子」、「小屋入れ」。その他、8月7日のみの「七日囃子」、賑やかな「ころばし」。跳人が「ラセラ、ラセラ」と掛け声をかけ跳ねる。お囃子に手振り鉦が加わりその手さばきがリズミカルで軽快で面白い。ねぶた祭りでは、大きな夜を照らすねぶたに負けないお囃子で盛り上げているのであろう。人を集め、ねぶたを小屋から出し、出発準備にまで、種類の違うお囃子が活躍していたとは。現地で本番だけ観ている人はきっと知らないであろう。まだ現地に行ってない者のひがみ誉かな。

『鹿踊大群舞』。これはずーっと見たいと思っていた。ししおどりは、岩手県と宮城県に伝えれていて、岩手県でもさらに「太鼓踊系鹿踊」と「幕踊系鹿踊」に分れ、さらに「太鼓踊系鹿踊」も流派がある。「金津流」「行山流」「春日流」。今回は「金津流」である。この装束が、興味深い。おそらく長い間に色々な影響を受け完成していったのであろう。背負っている白い長いササラ(腰竹)が地面を叩く(煽ると表現している)のが何んとも言えない形である。その起源も、狩猟の犠牲になった鹿の供養、鹿に遊ぶさま、中国の唐獅子の影響など様々である。それが庶民の信仰や神事と結びつき、足さばきも独特である。獅子頭から鹿の角が出、顔は隠されている。前には太鼓をつけ打ちながら舞う。そして唄もあり、歌詞が判らないのが残念である。動きは太鼓があるので拘束されるが、それでいながら勇壮でササラのしなやかさが加わり劇場でありながら風を感じさせる。

10月1日に、国立劇場で『伝統芸能の交流ー日本・モンゴルの歌と踊り』があり、その時、岩手県花巻市の春日流落合鹿踊がある。そして、一度聴きたいと思っているモンゴルのホーメィ(喉歌)もある。予定があり行けないのが残念である。

なかなか現地まで行って観たり聞いたり出来ない各地に伝わる芸能を、特に今回は東北六県に長く伝わる芸能に接する事ができ楽しい時間を過ごす事が出来た。震災の復興は遅遅としているが、こうした芸能を支える力が立ち上がりまた土台となって支えて行かれるのであろう。

 

 

国立劇場 『東北の芸能V』(1)

東日本大震災復興支援として平成24年度より始まって五回目ということである。目にしつつ予定が合わなかったのであろう。今回は、早めに予定として入れることが出来た。

福島県「相馬野馬追太鼓(そうまのまおいだいこ)」、秋田県「なまはげ太鼓」、山形県「花笠踊り」、宮城県「寺崎のはねこ踊」、青森県「青森ねぶた囃子(ばやし)」、岩手県「鹿踊大群舞(ししおどりだいぐんぶ)」

全て興味があった。耳慣れているのは、「花笠踊り」はおそらく<花笠音頭>であろうから、<ヤッショー、マカショ>であろう。それぞれの芸能の起こりの説明のパンフを渡されたので、大変参考になった。

<相馬野馬追>は一千有余年の歴史があり、中村藩主相馬氏は、平将門(相馬小次郎)を祖としている。そして<相馬野馬追>も平将門に始まると伝えられている。凄いです。そこから時代を超えてつながっているのですから。「相馬野馬追太鼓」は新しく、この伝統行事を見てくださるお客様に太鼓演奏でもっと盛り上がって欲しいということで14年前から始まった。たとえば今回のように、劇場で<相馬野馬追>の勇壮さを楽しんでもらおうという場合に有効ということになる。ほら貝の音も加わり旗の閃きを感じるリズミカルな太鼓演奏である。

東日本大震災の時、無名塾主催の仲代達矢さんの『炎の人』を観劇する予定であったが、公演は中止となった。そのため、切符を購入した人には返金のお知らせがあったが、返金を辞退し何かに役立てて下さいと連絡した。後日連絡があった。相馬の馬を仕事でお借りしたこともあり、被害が大きいので、そちらへの支援として回させてもらいますと。その事もあり、若い人が一生懸命に太鼓を打つ姿は頼もしかった。

「なまはげ太鼓」は、男鹿の<なまはげ>を主題とした創作和太鼓である。<なまはげ>は、大晦日にテレビ映像などでよく子供を泣かせている鬼のような怖い顔の面をして、蓑を身につけているがケラミノというそうだ。起源は諸説あるが、<なまはげ>の役割は、怠け心を戒め、家に住む厄(わざわい)を振り払うことである。この<なまはげ>が太鼓演奏をしてくれた。演奏しないときも動きまわり、<なまはげ>としての動きを色々工夫されていた。突然家に来られると、やはりドキッとするであろう。見慣れると愛嬌もある。

「花笠踊り」は、やはり<花笠音頭>である。<花笠音頭>は、尾花沢近郊の徳良湖の土木工事で、土を固める作業の際の囃し唄「土突き(どんつき)唄」が起源とも言われているとか。これは想像外である。踊りも、作業している人に風を送ったり、励ましたりと笠を持ち唄い踊るようになっていったのだそうである。華やかなので、紅花と結びつけていたが起源は違う労働歌であった。しかし、その後歌詞を一般公募したり、踊りも紅花や山形の風物を取り入れ、現在の「花笠踊り」となり、花笠まつりの主役となったわけである。綺麗にそろっていて、多くの観光客の目を楽しませる様子が想像できる。

 

『文楽の人より 吉田文五郎』(織田作之助)

織田作さんの芸道ものである。実在された文楽の吉田文五郎さんが自分で語るかたちで書かれている。文楽の人形遣いの師匠の厳しい指導と、76歳になって振り返っての感謝の気持ちとを語りつくしている。

大阪では良家の坊ン坊ンでない限り、子供のころから奉公に出るのが当たり前で文五郎さんも11か12の時奉公に出る。しかし辛さもあって奉公先を23軒も変えている。父親も商売がうまくいかず、文楽座の表方の手代のような仕事についていたので、最終的には、文楽座の吉田玉助さんに弟子入りする。三年下働きをして、次が黒衣(くろこ)を着て足遣いである。

「足遣いは主遣いの腰に身体をすり寄せて、右腕をその腰に当てるようにして置いて、主遣いの腰のひねり方ひとつで、ああ、右足を出すのんやな、左足を出すんのやな、座るのんやな、うしろ向くんのやなと、その時その時に悟るんです。」

玉助さんの父親・玉造さんが戻り駕籠の浪花次郎作を遣ったとき足遣いをして、四日間舞台下駄で蹴られ、血が流れ肉がはみ出し、文五郎さんは決心する。

「・・・ポンポン蹴られてたまるかい、こんど蹴りやがったら、もう師匠とも親玉とも思わんぞ、こっちも蹴り返して、逃げてこましたろ」こない決心して、次の日は、親の仇討に出る気持ちで、うんと力こめて、血相かえるくらいにして遣いました。すると玉造はんは、「よっしゃ。でけた」と、こない小声で言うて眼で笑うてくれはりました。びっくりしました。その時の気持ちは、なんともかともいえん嬉しゅうおました。・・・きっと極まる場所が、毎日一分一厘も狂いまへん。・・・それをわてがええ加減なところで足を極めようとしたんでっさかい、怒りはったんです。」

そして師匠の修行時代の話も語ってもらい文五郎さんは、60年間一筋に人形遣いの道を歩くのである。

「贅沢な暮らしみたいなもんしよ思ても一日も出来まへなんだ。考えてみたら暗い道だした。けど、その暗い道を阿呆の一つ覚えに提灯とぼして、とぼとぼ六十年歩いて来ましたんだす。」

織田作さんは、文五郎さんに作品の中で淡々と驕ることのない語り口で語らせ、提灯の灯りをつける思いがあったからこそ灯りもついてくれ、足元を照らしてくれた事を伝えてくれる。

『芸十夜』(八代目三津五郎・武智鉄二対談)の芸七夜には、文五郎さんのことも話されるが、文五郎さんよりも栄三さんのほうがお二人は上手いと思われている。栄三さんは眉間に傷があったそうで、修業の傷であろう。「喜内住家」(太平記忠臣蔵講釈)で忠義のために夫・重太郎が子供を殺してしまうが、この重太郎のような役の時は泣かないでは人形を遣えないが、「それが顔出してると泣けませんので、泣かんと遣うてますから、あきまへん」とある。武智さんは、写真家・土門拳さんの写真に栄三さんの「重太郎」が子供を殺す瞬間に涙を流しているものがあるという。栄三さんのは見ていないが、文五郎さんの「寺子屋」の千代を遣われている写真などの千代はとても美しい形になっている。

信州の佐久穂町にある「奥村土牛記念美術館」に文楽人形があって、係りの方に尋ねると、文五郎さんが使われていたものですと教えてくれた。土牛さんは、「文楽人形(お染)」(昭和29年)を描かれていて美術書には「お染のカシラとしてごく古いものという。頭の格好、顔の彫の深さなど、今出来のものと別の感じがする。文五郎が使ったものと聞いた。」とある。おそらく記念美術館にあった文楽人形が描かれた人形と思う。土牛さんは大変気に入っていたようである。絵は、お染の横向きの上半身で、顔の白さと赤を基調にした鹿の子の着物と帯で、後ろから遣われるため身体はふくよかで厚みがあり、人に支えられないときの人形の意思が感じられる。人形で動けないのに、動かすならきちんと遣ってくださいなとでも言いそうである。やはり飾ってながめる人形や抱く人形より遣う人形のほうが手強そうである

 

 

文楽 『夏祭浪花鑑』

『夏祭浪花鑑』の録画はないかと探したところ、文楽のが出てきた。何時のかは調べればわかるであろうが、無精をして調べていない。嬉しいことに、竹本住大夫さん、吉田玉男(故)さん、吉田蓑助さんが出られている。ビデオテープからDVDにダビングし直したらしく、終わりのほうが画像が乱れている。見返すのに影響はない。

住大夫さんは、<釣船三婦内>の切りである。三味線は、野澤錦糸さん。お辰が蓑助さんである。太棹のべんべんという音から入って大夫さんの語りがあり、人形が出てくると、人形の遣い手は誰々さんだなと気に留め、人形遣いの方も視野から消え、物語に入っていく。映像のためか、住大夫さんの状況説明の語りと、それぞれの登場人物の使い分けがわかる。登場人数分の人になって語っているのである。4人出てくるとすれば、その4人を一人で語られる。

アニメの声優さんが4人の登場人物があれば4人担当者がいるが、これを一人でやるわけである。4人担当のときは、それぞれを語りわける。声色を変えるだけではなく、その人の心情も持続していなければならない。こちらの人の気持ちを伝え、次にこちらの人の気持ち、次にこちらの人と飛びつつ、一人の一人の人間性と人物像は住大夫さんの中で繋がっているのである。物語は佳境に向かうわけであるから、それを想像すると、気が遠くなるような芸である。であるからして、この演目を録画したころは、勿体ない事にも全然聞き分けてもいない。ただ、筋を追っているだけである。

住大夫さんが語りわけたのは、釣舟三婦、おつぎ、お辰、若い者二人である。若い者二人もきちんと分けている。笑い声一つとっても、どういう心情であるかが伝わる。お辰は薄墨のような着物に博多帯。帯揚げ襟、髪飾りが薄い水色で傘も同系色である。歌舞伎では、傘は薄墨の透ける地であった。文楽の場合、人形を使うかたが、人形の衣裳を着せるのである。その役によって、着物の着せ方を工夫するわけである。蓑助さんのお辰もきっちり女を立てる。歌舞伎では、お辰が花道を去るので、鉄棒は左頬に押しつけたが、文楽では、上手に去るので、右頬で、頬よりも顔の右側の髪の生え際に近い部分であった。歌舞伎では、三婦が若い者を雇った佐賀右衛門に会いに行くとき、雲龍の柄の着物に着かえるが、文楽ではそれがない。

歌舞伎のほうが、演じる役者により、その役を印象つけるための工夫を多くする。役者に意思があるからである。人形は意思はない。全てやってもらい、やってもらう事により成り立つ役者である。人形を役者にするための切磋琢磨が日々行われているわけである。浄瑠璃は人形がなくても語りとしての芸を楽しむことは出来る。ただ人形が、人間よりも心根を伝えてくれることもある。人形に対する思い入れではなく、人形遣い、大夫、三味線の三位一体の融和が、観客の思い入れとなる。

<長町裏長屋>は、浄瑠璃は義平次が竹本伊達大夫(故)さん、団七が豊竹英大夫さん、三味線が鶴澤寛治さんである。人形遣いは義平次が吉田玉夫さん、団七が吉田玉女さんである。来春、玉女さんが二代目玉男さんを継がれる。豪快な人形遣いが得意なので楽しみである。玉男さんは義平次について、好きな役の一つといわれている。

<私は三十三歳の時からこの役を持っています。まだ若いのに、おじいさんで、しかも悪人の役だから嫌じゃなかったか?その反対です。こういう特殊な役柄ならではの面白さがある。・・・敵役としても、老人としても、他にはない異色の人物像に興味が湧きました。><平成十三年 夏の国立文楽劇場公演では、蓑太郎(現勘十郎)君と弟子の玉女がダブルキャストで勤めたのにも、義平次でつき合いました。>(「吉田玉男 文楽藝話」)ということは、録画は平成12年のものであろう。

<私が団七を持ったのは六十を過ぎてからである。><殺し場になってからは、三人遣いの利点を生かして、さまざまなかたちを見せる。ここは足遣いにも大きな責任があります。人形全体の形が崩れないよう、よほど踏ん張ってもらわんと。初演は吉田文三郎で、三人遣いを考案した人だけに、思い切った演出を施している。>舅を殺して最後に団七が去る演技を韋駄天といい、左手を腰に当てたまま、右腕を胸の前で左右に振る動きである。

録画では、花道を作り、神輿を上手に送り出し、団七は一人、花道を韋駄天で「八丁目さして」引っ込むのである。文楽の花道は初めてである。

歌舞伎では、神輿に紛れて、舅を殺した複雑な気持ちで花道を引っ込むのである。

『夏祭浪花鑑』は実際にあった魚屋の殺しの事件を人形浄瑠璃がやって当たり、歌舞伎でも上演したものである。

帷子を初めて人形浄瑠璃につかったのが『夏祭り浪花鑑』で、大きな格子模様は団七格子というのだそうである。そして団七を語る大夫さんと三味線の方も、上の衣装がこの茶の団七格子で<夏>を思わせる。

重要無形文化財保持者の竹本源大夫さんも引退を表明されたようで、次の世代の奮闘に期待することとなるが、一朝一夕でできる仕事ではない。観劇する側も、どういうことなのかと常に首を傾げるのであるから。

大坂三昧の次の世界は、路地裏から浄瑠璃が聴こえていたであろう、オダサクの町である。

 

歌舞伎『三十三間堂棟由来』・映画『三十三間堂通し矢物語』

三十三間堂は、『平家物語』によると、清盛の父の忠盛が、鳥羽院が願っていたので三十三間堂を建て一千一体の仏像を安置したとある。鳥羽院は大変喜ばれ、但馬の国を与えさらに内裏への昇殿を許したのである。文楽等では鳥羽院ではなく、白河法皇となっている。実際には、後白河上皇の時、平清盛の財力で建立が妥当なのであろう。

歌舞伎の『三十三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)』を初めて観た時、解りやすく感動した記憶がある。お柳になった魁春さんが儚い雰囲気で、心の決め方もきっぱりと見せてくれ、柳の模様の衣裳も効果的で印象的であった。調べたら、国立劇場で(2003年)での公演で、歌舞伎鑑賞教室であった。歌舞伎鑑賞教室は歌舞伎に接したことの無い人にも気軽に鑑賞してもらおうとの企画で、学生さんなども、教師に引率されて観にきている。お柳の夫・平太郎が信二郎(現錦之助)さんで好演であった。(中村魁春、中村錦之助、中村歌江、市川男女蔵)

<紀州熊野山中鷹狩の場>では、お柳と平太郎の出会いの場であり、鷹が柳の枝に鷹狩ようの紐を絡ませてしまい動きがとれない。そのため鷹の持ち主が柳の木を切ってしまおうとする。それを、平太郎が弓矢で糸を切り、柳の木を助けるのである。柳の精は、命を助けられる。さっきの鷹主が面子をつぶされたと仕返しに来た時、柳の精は柳の葉で平太郎を隠し助けるのである。この場面は趣向もこらされ、初心者には目にも楽しいものとなる。

三十三間堂は、映画『三十三間堂 通し矢物語』の映像の中でもたっぷり出会うこととなる。成瀬己喜男監督の初の時代劇である。敗戦の年の1月から5月まで撮影が行なわれ6月に公開された。京都ロケの撮影中空襲警報で中断され、東京はこの間に空襲で焼け野原となったのである。検閲も時代劇という事で免れた面がある。

通し矢は、朝六時から翌日の六時までの間に、120メートル先の的を射る矢の数を競うものである。星野勘左衛門が記録を作り、十八年後、18歳の和佐大八郎がその記録を破った事実をもとにしている。この映画を見たあとで三十三間堂を訪れたら、和佐大八郎の額があった。それ以前に訪れた時は、記憶に残るほどの関心を示さなかったのである。

映画では大八郎(市川扇升)の父が、星野(長谷川一夫)に敗れ自害し、そのため大八郎が星野の記録に挑戦し、見事破るのである。大八郎を助け指導した人物が実は、星野であったという筋である。

旅籠小松屋の女将お絹(田中絹代)は未婚であるが、父の亡き後しっかりその宿を守っていた。大八郎の屋敷に2年間行儀見習いに居たことが縁で、大八郎を預かり星野の記録を破るべき五年間導き仕えていた。大八郎は17歳になっているから、10歳から成長を見ているわけである。ついに大八郎の通し矢の日程が決まる。ところが大八郎は弓の腕前に伸び悩んでいた。そこに、星野とは知らず、弓の指導を受けることとなる。一人で練習していた大八郎にとってそれは、力強い応援であった。しかし、大八郎は紀州藩、星野は尾州藩。藩の思惑、星野家の弟の家名のこだわりから、大八郎の邪魔をし、名をかくしていた星野の存在が大八郎に知られてしまう。この辺りのそれぞれの心理と、若者ゆえの迷い、それを見守る星野、見極めがつかぬお絹の揺れが成瀬監督らしい丁寧さで進む。旅籠の室内、武家の茶室の撮る方向など現代物と変らぬ成瀬監督好みである。

通し矢の庶民の盛りあげかたも、三十三間堂の見物人にお寺の者が説明し、辻講釈師に語らせ、噂話でテンションを上げてゆく。そんな中で、星野は自分の意思を通し、自分の誉れよりもそれを乗り越えていく若者の背中を押す。お絹が「立派なお方です」と云わせる恰好良さで終わらせる娯楽時代劇の痛快さをもきちんと盛り込み、秀作となっている。

監督・成瀬己喜男/脚本・小国英雄/撮影・鈴木博/出演・市川扇升、長谷川一夫、田中絹代、田中春夫、葛城文子

このほか成瀬監督の芸道ものは、『桃中軒雲右衛門』(月形龍之介、細川ちか子)、『鶴八鶴次郎』(長谷川一夫、山田五十鈴)、『歌行燈』(花柳章太郎、山田五十鈴)、『芝居道』(長谷川一夫、山田五十鈴)などがあり、長谷川一夫さんは、成瀬監督が、素知らぬふりをして、芸人の世界に通じていたことを、「これは親切な人でね。いけずの親切ですからね(笑)」といわれている。

桃中軒雲右衛門のお墓が旧東海道品川宿の天妙国寺にあるらしい。後から後から見つかって、手に負えない。困窮。

さらに、『三十三間堂棟由来』<平太郎住家の段>のCDを購入していたのである。浄瑠璃が竹本越路大夫さん、三味線が野澤喜左衛門さんである。越路大夫さん引退後も、住大夫さんは指導を受けに訪れられていた。いい声である。それだけに住大夫さんの鍛錬のほどがわかる。進めば進むほど困窮。箱根の峠越えどころの話ではない。天下の嶮がどこまでも続いている。

 

五月文楽 『増補忠臣蔵』『卅三間堂棟由来』

『増補忠臣蔵』  原作にはなく、のちに増補したものである。『仮名手本忠臣蔵』の<山科閑居の段>歌舞伎座(平成26年)新春大歌舞伎 夜の部(1)で加古川本蔵が、虚無僧姿で現れるがどうしてその姿なのかが判るのである。

本蔵は、師直(もろのう)に賄賂を送りへつらい、武士の風上にも置けないとして、浅草の本蔵の下屋敷に蟄居の身となっている。それは主人と同時に家を守るためであったが、武士として許されない行為である。その下屋敷に、主人の桃井若狭之助がお忍びでやってくる。

この屋敷には、若狭之助の妹で、塩冶判官の弟と許嫁である三千歳姫が預けられている。若狭之助のお供できた、井浪伴左衛門(いなみばんざえもん)が三千歳姫を横恋慕し、若狭之助を暗殺すべく、茶釜に毒を盛る。それを咎める本蔵であったが、若狭之助に呼ばれ成敗の身となる。成敗役は伴左衛門である。本蔵と伴左衛門のやりとりから本蔵の本心を知った若狭之助は伴左衛門を切り捨て、本蔵の縄目を切る。本蔵は茶釜の毒薬を示し、若狭之助は本蔵の忠儀に深く感じ入る。さらに本蔵が由良之助に討たれる覚悟を察し、袈裟と尺八を与え、「一人の娘を思う親の身は焼野(やけの)の雉子(きぎす)夜の鶴、巣籠(すごもり)の一曲。」と付け加え、由良之助への土産として師直屋敷の図面をもたせる。

三千歳姫の琴に合わせ、尺八を吹き、主従最後の別れとなる。

なかなか良く出来ている。塩冶判官と若狭之助は、背中合わせである。しかし、家が助かっても、その助かる道は世間から見れば美しいかたちではない。その責めと責任を果たす本蔵を、芝居の中でもう少し時間を与えたかったのであろう。なるほどと思いつつ楽しませてもらった。

『卅三間堂棟由来』 <平太朗住家より木遣り音頭の段> 三十三間堂建立の際の話として作られている。三十三間堂(蓮華王院)は、白河法皇が院御所造営に際し、その中心に1001体の観音像を安置する仏堂として考えられ、柱間数が33あることから三十三間堂と呼ばれ、長さは120メートルある。

粗筋のほうは、紀州三熊野の里に静かに平安に暮らしていた家族のところに、平忠盛の家臣進ノ蔵人(しんのくらんど)が訪れる。嫁お柳が 後白河法皇が熊野参詣の折、危難を助けたので褒美を持参したのである。進ノ蔵人にはもう一つ仕事があった。法皇には頭痛の病があり、熊野権現の霊夢によると、法皇の前生の髑髏が柳の木の梢に留まっていて、その髑髏を三十三間を建て納めると平癒すると告げる。その柳の木が、次の宿にありその柳を切って堂の棟にすべしとの院宣である。

実は、お柳は柳の精で、平太郎と結ばれ一子・みどり丸を授かり5歳になっている。お柳は、髑髏を手に、これを持参し手柄としてくれと差出し、みどり丸の事を頼む。風に乗って柳の木に斧が入るこだまが響きもうこれまでと姿を消す。平太郎はみどり丸を連れ、お柳の面影を今一度と柳の木のもとへ駆けつける。すでに柳は切り倒され車に乗せられ、木遣り音頭が歌われている。 <和歌の浦には名所がござる、一に権現、二に玉津島(たまつしま)、三に下がり松、四に塩竈(しおがま)よ、ヨイヨイヨイトナ> ところが、押せども引けども動かない。

ところがみどり丸が綱を引き、平太郎が木遣り音頭を歌うと動いたのである。 <無惨なるかな稚き者は、母の柳を、都へ送る、元は熊野の柳の露に、育て上げたるみどり子が、ヨイヨイヨイトナ> 稚き者が母の慈愛を引きつつ育って欲しいと願う思いで引かれて行く柳の木である。

この演目の間に『恋女房染分手綱』が置かれ、<情>に根差した好い構成であった。

友人と行った四国内子座での住大夫さんの演目がはっきりせず友人に問い合わせた。その頃私は文楽を見始めて日も浅く住大夫さんが何を語られたか思い出せない。『壺坂観音霊験記』の<沢市内より山の段>の切りということである。

『壺坂』や『恋女房』の座頭について住大夫さんは、次のように言われている。 <座頭の声というのは、普通の声やなしに、音(おん)でちょっとイキを浮かして、半音か一本高い声を出すんです。お目の悪い座頭は話を聴くとき耳をそばだてるようにして「エー、エー」と聴きます。そんな感じを、半音高こう声にして演出してるんです。> そのあとも貴重な話をされている。「文楽のこころを語る」(竹本住大夫著)を読むと、いかに細かい所に神経を使われているかがわかる。

 

旧東海道・箱根から文楽『恋女房染分手綱』

<箱根宿>から<畑宿>に下る途中で、小学生が教師に引率されて登ってきた。足袋とわらじを履いている。それも自分で作ったわらじである。湯本から歩いてきたという。予備のわらじを持っている子もいれば、すでに片足ひもが切れている子もある。作るとき先生から、実際に使うのだからしっかり作るようにと指導されていたであろうが、器用な子もいれば、苦手な子もいたであろうし、これを使ったらどうなるかという想像が甘く、手を抜いた子もいたかもしれない。わらじで旧東海道を実際に歩く体験と同時に、物作りの大切さ、使うためにはどうしたら良いかも学んだことであろう。今、学校でこれだけの体験学習をさせるところもあるのだ。

私たちより歩く距離が長いのである。頼もしい。「頑張ってね」と声を掛けつつ通り過ぎたが、私たちのために、道をよけてくれた班もあった。先頭の子がよけてと言うとさっーとそれに習ってくれた。ところが、その後ろ班の一人が、「今のうちに追い抜こう」と言った子がいたらしい。仲間が「私は聞いてしまった。」という。面白い。仲間と、「さてどちらが上手く人生生き抜いていくのかな。」と話す。子供のころから、こうした切磋琢磨があるのである。切れたわらじの紐を見ると、藁と日本手ぬぐいをよって作ってあった。昔は藁だけを綱にして編んだのである。履き良い、悪いがあり、履いた時に旅人は、あっ!これは良いとか早く切れるなとか感じたのであろう。私も友人から布で作ったわらじを貰ったが、スリッパ代わり使ってみたが、親指と人差し指を支える部分がきつすぎたり、太すぎたりで、美しくても履き心地が今ひとつであった。

わらじの話が長くなったが 『文楽』 七世竹本住大夫引退公演 で住大夫が語られた『恋女房染分手綱』はこの後、与之助は三吉と名乗り、馬方となり、母・重の井に合うのである。それが、<道中双六の段>と<重の井子別れの段>である。<沓掛村の段>や<坂の下の段>よりもよく知られている。三吉は乳母が死に、一平(八蔵)は、主人を探しに旅立ち、三吉は在所の人々に助けられ馬方の手伝いをしている。

<重の井子別れの段>で、三吉が母・重の井に 「ほかに望みはなんにもない。父様を尋ね出し、一日なりとも三人、一所にいて下され。見事沓も打ちまする。この草履もわしがつくった。」というところがある。箱根路を歩いて、小学生の会いその部分を思い出した。

そして<道中双六の段>では、三吉は重の井の仕える姫君のために、道中双六をするのである。「道中早めて戸塚はと、急ぐ保土ヶ谷神奈川越え、川崎を越え品川越え、まつ先駆けのお姫様。一番がちに勝色の花のお江戸に着き給う。」お姫様は、江戸へのお輿入れを嫌がっていたのであるが、この双六で江戸へ立つのである。旧東海道を特に箱根峠越えをしてみると、いかに東国が鄙びたところとして想像されていたかがわかる。

重の井は、三吉の父・与作とは、ご法度の中での結びつきであり、死罪のところを、主人に助けられたのであるから、三吉を息子と認めるわけにはいかないのである。ここで、別れたらもう会う事もないであろう子別れとなるのである。

<沓掛村の段>は、住大夫さんの父・先代住大夫さんも引退公演の時語られている。住大夫さんは、この段は、『恋女房染分手綱』を通しでやると伏線の場面であるが、伏線の場を面白く、丁寧に描かなければ、クライマックスが盛り上がらなといわれている。その通りである。<沓掛村の段>でしっかり人間関係の機微を心に留めたので、いつか<道中双六>と<重の井子別>の段に出会った時、住大夫さんの<沓掛村>を思い起こすことであろう。

 

『文楽』 七世竹本住大夫引退公演

住大夫さんの引退公演の最終日を見届けることができた。引退されることは残念であるが、引退公演ときまった以上は、無事勤められて欲しいと願っていた。24日に国立劇場で面白い企画があった。舞踊公演で<動物のいる風景>と題し、動物に係る舞踊なのである。時間が空き、その公演の前に小劇場で筋書だけ買うため、売り場に入らせて貰った。丁度、住大夫さんの語られている時間でロビーまで聞こえてきた。この調子なら、最終日も大丈夫であると安心したのである。

引退公演の演目は、『恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)』の<沓掛村の段>の切りである。

沓掛村に住む八蔵親子は、八蔵が仕えていた主人の息子・与之助(5歳)を預かり育てている。八蔵は母が病のため、母を置いて馬方の仕事にも行けず、生活は困窮している。八蔵親子はそんな貧しさの中でも、与之助を大切に育てている。与之助は、侍の子として育てようとする八蔵親子の気持ちよりも、竹馬遊びをしつつ、自分は侍はいやだ、三吉と名乗って馬方になりたいという。八蔵の母は、与之助に、かれの生い立ちを話して聞かせる。

八蔵は馬方の親方の口添えもあり、仕事に出て、一人の座頭を連れて帰って来る。座頭は胡麻の蠅に付きまとわれ、それを八蔵が助け一晩の宿も提供したのである。寝静まってから八蔵は刀を砥ぐ。それを、母は座頭からお金を奪うと勘違いする。そうではなく、主君の与作を落とし入れた者が近くにいるのが判ったから、それを討つつもりであった。しかし、母は八蔵にもしもの事があったら、与之助は誰が育てるのか。自分の命は短いのにと引き留める。座頭は、何を思ったか一人で出立してしまう。火鉢の灰の中に金包みが入っていて、それが、座頭の物と知った八蔵は座頭の後を追うのである。

預かっている与之助を中にして、八蔵の母を思う心、母の八蔵を思う心を、住大夫さんは情感を込めて語られた。2月文楽 『近頃河原の達引』(ちかごろかわらのたてひき)でも、心情の起伏の緩急は見事だったので、こんなに早く引退されるとは思わなかったが、引退挨拶を聞くと、ご自分では納得していなかったようである。病気をされてから、自分の思い通りに語れぬもどかしさに、芸に厳しい住大夫さんは引退を決心されたのであろう。

住大夫さんの語りに合わせて、蓑助さんの遣う与之助があどけない可愛らしい様子で出てきたときは、この組み合わせも今日で最後と思うと与之助が一層愛らしく見えた。文字久大夫さんが<沓掛村の段>の前と<坂の下の段>を勤められ、三味線の錦糸さんが、時にピンと張った音で住大夫さんの女房役を務められ、深く記憶に刻まれる引退公演であった。

何よりも練習をモットーとされていて、<苦の文楽>のイメージがあるが、是非、<楽の文楽>のほうで、観客へ文楽の楽しさを教えて頂きたい。そういう企画を、考えて欲しいものである。文楽について語られたい事は尽きないであろう。

 

光る刀剣 『小鍛冶』『名刀美女丸』

歌舞伎によく家宝の名刀が悪人に盗まれ、それを探すのが一つの話の筋として重要になってくるが、それ位で刀には関心が無かった。ところが、しまなみ海道  四国旅(7)での義経の奉納の刀が歌舞伎座5月の『勧進帳』と重なったり、長唄舞踊『小鍛冶』 と 能『小鍛冶』での小鍛冶宗近から、そのあとで栗田神社、鍛冶神社、相槌稲荷神社を訪ねることも出来た。

さらに思いがけず、京都の大本山本能寺の宝物館大寶殿で、この宗近さんの作った太刀にあえたのである。織田信長さんは目利きのかたであったように思える。<三足の蛙>名の銅の香炉も面白い。麒麟(きりん)の角が一本であったり、中国では奇数が吉とされた時期のものである。千利休に愛された釜師・辻与次郎の作品も美しかった。ゆっくり眺めていたら突然、<『小鍛冶』のモデルである宗近作>の一文が目に飛び込んできた。<『小鍛冶』のモデル>と書かれていなければ、<宗近>と一致しなかったであろう。どこかで想像上の人物と思っていたのである。信長公が所持していたとあり、長さ62.7㎝、反り7分6里で、細くて反り具合が美しい。眺めてその美しさを楽しむような刀である。

鍛冶にも幾つか派があったのであろうか。粟田口派鍛冶が北条時頼に召されて鎌倉に下り鎌倉鍛冶の開拓者になったとある。こういう技術も京から東国に流れてきたのである。

東京代々木に「刀剣博物館」があり、企画展 <祈りのかたち~刀身彫刻と刀装具~> とあり<祈りのかたち>にひかれたが知ったのが遅く行けなかった。

そしてふっと思い出したのが、溝口健二監督の映画『名刀美女丸』である。題名の<美女丸>が娯楽映画のように思え期待していなかったが予想外に面白かったのである。しかし、時間もたち、何が好かったのか忘れてしまったのでレンタルして見た。名刀の名を<美女丸>とした溝口監督の裏の意図も判り、刀鍛冶三条宗近の事も出てきて撮影当時の時代背景も判り、初めて見た時と違う想いが重なった。最初に見た時は、刀打ちの場面が興味深く、その場面が長いのでこういう風に打たれていくのかと興味深く、<美女丸>の意味は単純に、笹枝の力と理解していたのを思い出した。

粗筋は、孤児の清音が侍の小野田小左衛門に助けられ刀鍛冶となっていて、やっと御恩返しの刀を打つことが出来、小左衛門も喜んでその刀を差し殿の護衛にたつ。ところがその刀が肝心な役目の時に折れてしまい、小左衛門は蟄居の身となる。そして、娘・笹枝に執心の侍に殺されてしまう。笹枝は敵のための刀を清音に頼み、精魂込めた刀も出来上がり無事敵を討つのである。その刀が<美女丸>ということである。映画の中で、その刀の名は出てこない。その刀を打つとき、笹枝の生霊が現れ、清音の弟弟子清治と三人でその刀は打たれるのである。その時の笹枝は、透明人間のような手法で現れ、効果的である。そして刀も出来上がり、見事敵討ちが果たされるのである。

最初に見た時、清音の師匠が尊王派に傾倒し、このように複雑にしなくても十分面白いのにと思ったが、そこに当時の時代背景があったのである。この映画が出来上がったのが、昭和20年1月、公開が終戦の8月である。まだ国策の空気があったのである。

物資不足ででフィイルムもなく、タイトルも、映画名、配役、演出だけである。スタッフのタイトルもない。

配役/新生新派 清音(花柳章太郎)、清次(石井寛)、清秀(柳永二郎)、小野田小左衛門(大矢市次郎)、東宝 娘笹枝(山田五十鈴)  これだけの名前である。

師匠の清秀は、刀を打つための志を求め勤王と接触している。そして、三条宗近作の刀を借り受け、清音、清次に見せつつ独白する。自分は宗近に劣らない技がありなが何のための技か、誰のための。心が無い。目当てがない。目当てをくれ俺の心に灯をともしてくれ。自刀するとき、えんじゅ鍛冶(科白からの聞き取り)は、足利のためには刀を打たず、足利を倒すために打った。ここに刀鍛冶の魂があるとして帝のために打てと遺言する。その時、清音は、小野田先生の仇討のためでは駄目ですかと尋ねるとそれでは駄目だと言われる。

清音と清次は刀作りに励むが上手くいかない。弟弟子の清次が云う。「何でもいい、俺はただ立派な刀を作りたい。」 そして、精根も尽き清治は相打ちを使ってくれと頼み倒れてしまう。清音はそのまま仕事を続ける。そこに笹枝の生霊が現れ刀を打つのである。清次も起き上がり打ち始める。これは、映画をみている者にのみ判ることとしている。そこに溝口監督の抵抗がある。大義名分は付け足しである。三人は仇討のための刀を打ったのである。その名が<美女丸>である。

特典映像で新藤兼人監督が、語られている。<映画はロングショットとクローズアップで作られるが、溝口はほとんどがロングショットである。役者と役者のぶつかり合いの中で見える、個々の人格、内容をぶつけ合って見えてくるもの、不思議な情念を描いた監督である。>

刀を打つ場面はドキュメントのようである。この場面だけでも見たかいがある。娯楽性もきちんと踏んでいる。制約を受けているが、きちんと刀鍛冶のことも調べている。 脚本/川口松太郎、撮影/三木滋人。

溝口監督と花柳章太郎さんのエピソードを一つ。衣裳に凝る花柳さんが、舞台『細雪』に出るため、<寄せ水>という能の水干に着る衣裳で、寒中でないと麻糸が揃わないといわれる布を三反作らせた。二反は自分が購入し、残りの一反を溝口監督が購入。ところが、舞台上演前に、映画『雪夫人絵図』で小暮実千代さんに着せたため、花柳さんは溝口監督に抗議したそうである。映像では大きく写り舞台より目をひくであろうし、それを先に着られては抗議するのは当然と思う。それを知ったので『雪夫人絵図』のDVDが安く購入できたので見たが、DVDのパッケージの写真が一番その材質を捉えていた。(早稲田演劇博物館 日活向島と新派映画の時代展資料集より)

えっ! 今話題の本屋大賞受賞の『村上海賊の娘』(和田竜著)に鶴姫さんのことが出てくるんだ。今、押して来ないでくださいな!