『谷崎潤一郎展』

谷崎潤一郎没後50年。『谷崎潤一郎展 絢爛たる物語世界』県立神奈川近代文学館 4月4日~5月24日。約2ケ月間あったのに最終日に行くことができた。谷崎さんの文学作品の流れと、作家としての実生活が資料をもとに、多数展示されているが、大変分りやすかった。分りやすいからと言って谷崎さんの文学作品というものが、分ったわけではない。

谷崎さんは、自分の鋭い感性は人と違い、それを表現する天才的能力も兼ね備えていて、自分はその仕事を成し遂げられるとの想いがあった。

己は禅僧のやうな枯淡な禁欲生活を送るにはあまり意地が弱すぎる。あんまり感性が鋭(するど)過ぎる。(中略)

 

己はいまだに自分を凡人だと思ふ事は出来ぬ。己はどうしても天才を持って居るやうな気がする。己が自分の本当の使命を自覚して、人間界の美を讃へ、宴楽を歌へば、己の天才は真実の光を発揮するのだ。

谷崎さんは自分の美意識に対しては周りの人をも取り込んでいく。それは、松子夫人との事でもわかるが、自分の美意識から外れるとして出産をも許さない。ただ、相手に自分の気持ちを納得させるためには、大変な努力をされた方でもあると今回思った。反対にその努力が平行して作品に反映しているとも言える。

佐藤春夫さんとは、谷崎さんと谷崎前夫人千代さんの不仲から、佐藤さんが千代さんを譲り受けたいとして、一旦は谷崎さんも承諾するが、その後断る。そして、千代さんは違う男性とのこともあったがそれが壊れる。谷崎さんは、佐藤さんに千代さんの身の振り方を相談し、千代さんは谷崎さんと離婚して佐藤さんと再婚するのである。

この事は世間的にも文学界にもセンセーションを起こすが、物書きという生業から、この辺りのことは文学作品にも吐露される、佐藤春夫さんの詩『秋刀魚の歌』は千代さんを想っての詩である。

今回面白いチラシを手にする。

夢と冒険、そして恋・・・ 時は大正。“片思いの神様 ” 佐藤春夫は「さんま」だけでは語れない!

こちらは、没後50年記念出版 『佐藤春夫読本(仮)』の宣伝チラシである。初の本格的文学案内とある。<「さんま」だけでは語れない!>というのがいい。

熊野の新宮、『佐藤春夫記念館』でお手上げだったが、この本が手助けしてくれそうである。大林宣彦映画監督の講演録も載っているようである。刊行されたら購入することとする。全体の流れのどういう部分であるかが解かると、一部分だけ取り上げられて強調される狭さの解釈もちがってくる。 美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮)

主軸を谷崎さんにもどすが、谷崎さんは、自分の目指す物語世界を、世間の思惑など眼中になく突き進む。大阪国立文楽劇場のそばに『蓼食う虫』の一文を記した文学碑がある。『蓼食う虫』には、文楽を観ての谷崎さんの感想が書かれている。そこには、『心中天の網島』の人形・小春に対し、「永遠の女性」を想い描いている。さらに主人公の美意識を書いている。

自分がその前に跪(ひざまつ)いて礼拝するやうな心持になるか、高く空の上へ引き上げられるやうな興奮を覚えるものでなければ飽き足らなかった。これは芸術ばかりでなく、異性に対してもさうであって、その点に於いて彼は一種の女性崇拝者であると云える。

まだこの時点では、この想いを実感したことがなく

ただぼんやりした夢を抱いてゐるだけだけれども、それだけひとしほ眼に見えぬものに憧れの心を寄せていた。

すでに、千代夫人はこの対象外であった。そして、人妻であった松子さんと出逢っている。谷崎さんの場合、女性観の基準がはっきりしている。

今回もう一つゲットしたのが、谷崎さんの作品の大阪弁のことである。入場したところで映像が飛び込んできた。田辺聖子さんである。座って見る。田辺さんが『卍』と『細雪』の朗読をしたときの映像の一部で、<『卍』は同性愛の話しであるが、谷崎さんが初めて大阪弁を使った小説で、大阪弁を使うことによって流れるように繋がっていき、『細雪』も同じで、このことが源氏の世界に繋がる要因である>とされる。

『卍』は、岸田今日子さんと若尾文子さんの同性愛の演技に興味がありDVDをレンタルして見ていた。このお二人の声のやりとりを耳にしたかったというのが一番強い。その時大阪弁の役割には気がつかなかった。想像していたよりも嫌味なくサラサラ見て居られ、田辺さんの話しを聞いて、なる程そういうことかと気がつかされた。

映画で驚いたのは、園子(岸田)と光子(若尾)が奈良に出かけるのであるが、柳生街道の道が映ったことである。増村保造監督の意図的なロケ場所と思えた。原作では、若草山になっている。園子が女子技芸学校で観音様を描くが、光子の説明のつかない奔放ぶりを観音様と重ね、柳生街道の磨崖仏の前に二人を立たせたのも意図してのことであろう。成り行きから、園子と光子と園子の夫は睡眠薬を飲み、園子一人が生き返るのである。誰かが亡くなり誰かが生き残るとすれば、誰がという事によって作者の意図も、考察の対象となる。光子は園子の夫を連れ去り、夫を園子から離して、観音様の絵を残した。光子の行動が描いた物語は出発点にもどり、丸い円を描き完成させたともいえる。このあたりは自由解釈である。

この作品の前に、谷崎さんは松子さんと出逢っていて、この大阪弁も松子さんと出逢うことによって作品に取り入れるきっかけをつかんだのかもしれない。大阪弁がなければ、谷崎さんの耽美主義も完成度を低下させていたということである。大阪弁によって新たな開拓をしたのである。『細雪』は大阪弁でも船場言葉ということで、一般の大阪弁とはちがうらしい。大阪弁も何となくの段階であるから、大阪弁と船場言葉とどう違うのかも判らない。谷崎さんが耳に受けたイントネーションで朗読を聞いてみたいものである。

小津安二郎監督の『彼岸花』も、山本冨士子さんが大阪弁で、小津監督の映画のなかで、いつもとは違う明るさとテンポを作り出しているのが印象的で大阪弁の不思議な効果を感じた。

谷崎さんは映画にも関係していて、横浜にあった映画会社・大正活動写真株式会社の脚本顧問として参加し映画4本に関係したがフイルムは現存していない。この時女優として千代夫人の妹さんも参加していて、義妹は『痴人の愛』のインスピレーションを与えた女性でもある。岡田茉莉子さんの父上の岡田時彦さんも、高橋英一という名前で出ていた。谷崎さんはこの時期北原白秋に勧められ3年ほど小田原に住んで居る。

お墓は、京都の哲学の道に並ぶお寺の一つ法然院にある。慌ただしく満杯の計画の旅の時期(今よりも)に訪ねた。境内の奥のほうにあったと記憶する。桜の下に自然石のお墓が二つあった。<寂>と<空>の一字で潤一郎書とかれていて、谷崎さんと松子夫人と思ったらそうではなく、<寂>は谷崎御夫婦で<空>は松子夫人の妹重子さん御夫婦の墓である。訪れたというより、「なるほど。」と通過に近い。あの時は、南禅寺の境内にある琵琶湖疎水の水路閣から、疎水沿いに歩いて、地下鉄蹴上駅までをも予定に入れていたのである。

ついでに、京都市動物園の琵琶湖疎水側の仁王門通りに山県有朋さんの別荘<無鄰菴>があり、庭が小川治兵衛さん作である。東山を借景にしている。山県さんは小田原に<古稀庵>、東京には<椿山荘>がある。政治的手腕は置いておき、庭に対する造詣は深かったようである。<古稀庵>へはまだ行っていない。

自分の理想とする女性を探しもとめ、その感性と天才は<絢爛たる物語世界>を創造し闘い続けた。

 

谷崎潤一郎生誕の地碑  東京の人形町で誕生しています。鳥料理店玉ひでのすぐそばで建物の間の一隅にあります。碑は谷崎松子夫人筆。

 

『炎の人 式場隆三郎 -医学と芸術のはざまで-』

市川市文学ミュージアムで企画展を開催している。三月からやっていたようだが、五月に入って知った。チラシの<炎の人>に惹きつけられた。やはりゴッホである。ゴッホ関連の訳者として名前があったのかもしれないが記憶には留めていない。

新潟に生まれ、文学に目覚め、新潟医学専門学校に入る。この時、雑誌『白樺』でゴッホを知り、精神科医となりゴッホの研究を続けた人である。ゴッホ関係の書物は50冊を超え、本の装丁にもこだわり、芹澤銈介さんの装丁が30冊を超える。

ゴッホと弟テオ双方のそれぞれに宛てた書簡を翻訳し、さらに、ゴッホを描いた文学作品や伝記小説にも関心をよせ、翻訳している。その中のステファン・ボラチェック著『炎の色 小説ヴァン・ゴッホの一生』を翻訳。その本の愛読者だった劇団民芸の岡倉士朗(演出家)さんと滝澤修さんが式場さんを訪れたことがきっかけで、三好十郎さんに脚本を依頼することになるのである。民芸公演で式場さんは、制作委員長になっている。

<この芝居を最も喜んでいるのは、私かも知れない。>とし、新橋演舞場での千秋楽で<最後の幕がおりたとき、私は涙のこみあげてくるのを抑えることができなかった。>と昭和26年の『民芸の仲間 第3号』に寄稿されている。新橋演舞場は超満員で、各地も公演で10万人以上の観客を集めている。

柳宗悦が提唱した民芸運動にも参加。『中央公論』や『改造』などの総合雑誌や新聞にも寄稿し、病院勤務が困難となり、市川に国府台病院を開院する。スイスのレマン湖畔の精神病院の庭園に感銘を受け、病院内にバラ園を造成する。

八幡学園の顧問医となった式場さんは、そこで山下清さんを知り、彼の後援を行い、作品の発表に尽力するのである。

その他、日比谷出版社を設立し、長崎の永井隆博士の『長崎の鐘』なども出版している。

ゴッホゆかりのひとからの手紙。芹澤銈介さん装丁本。棟方志功さん装丁の『炎と色』の限定本。ゴッホ生誕百年祭に行われた展覧会の様子。深川にあった精神を病んだ人が建て不思議な家の資料。ロートレックの研究。山下清さんの直筆文。数多く展示品があり、式場さんの仕事の範囲と深さに驚く。このかたの睡眠時間はどの位だったのであろうかと思ってしまう。

式場隆三郎さんこそゴッホと同じ<炎の人>として、捉えたのがわかる。この方によって、知らされ広がった芸術、演劇、映画の恩恵を今も受けている。

よくわからないが、<洗濯療法>という本もあり、洗濯は精神活動に何か良い影響があるのか興味があったが内容はわからない。

講演会もあったようであるが、知るのが遅すぎた。しかし、こういう方がおられたことを知っただけでも、幸いである。この方によって、ゴッホの絵と精神は深く静かに人々の目と耳と心を働かせる力となったのである。

会期は5月31日(日)までである。

『炎の人 式場隆三郎』展の図録の年賦を見ていたら、ロートレックの伝記小説で、ピエール・ラ・ミュール原作『ムーラン・ルージュ』も翻訳して刊行していた。この原作が映画『赤い風車』で、ホセ・ファーラーがロートレックを演じている。

さらに、歌舞伎役者・守田勘弥さんの後援会長にもなっている。

『炎の人』から『赤い風車』 無名塾 『炎の人』(1) 無名塾 『炎の人』(2)

伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-2)

<伊賀越資料館>に向かうが、途中に、木と瓦屋根の忍者の町ならではの西小学校がある。そして、明治時代の白いモダンな校舎の残る上野高校校門前には、作家の横光利一さんの「 横光利一 若き日の五年をこの校に学ぶ 」の碑があった。

 

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さらに、かつての藩の子弟の学校であろうか、<旧崇廣堂>なるものもあったが、<伊賀超資料館>へ急ぐ。この資料館の前の道に 「みぎいせみち/ひだりならへ」の道しるべがあり、伊勢と奈良を結ぶ道で、かつては人通りの多い道であり、この<鍵屋の辻>で敵討ちがあったということは、多くのひとの口の端にのぼり、三大敵討ちの一つに数えられたのがわかる。しかし、私も歌舞伎で観ていなければ、観光としては行かなかったかもしれない。

 

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資料館には、当時の街道の模型や、敵討ちの錦絵などもある。また、敵の河合又五郎の首を洗ったと言われる小さな池には、今は<河合又五郎首洗供養地蔵池>とあり、小さなお地蔵さんが祀られている。

 

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現藤十郎さんが鴈治郎さんの時の『伊賀越道中双六』上演の際ここを訪れられ、首洗い地蔵池で成功祈願をされていて、我當さん、秀太郎さんとの写真とサイン色紙が残されていた。文楽のほうも、二代目吉田玉男さん桐竹勘十郎さん、吉田和生さんも人形共々祈願に来られている写真があった。

 

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歌舞伎の舞台写真などで、敵討ちの背景に異常に高い石垣の上野城が描かれているが、実際の上野城を強調していたわけである。(当時は実際にここに石垣があったようです。)

数馬の茶屋で一服したかったが、先を急ぎ、上野駅方面へもどり、そこから東に向かい<芭蕉翁生家>へ。<芭蕉翁記念館>に、芭蕉が自ら作ったという献立表があったが、生家の方には、こうであったであろうというレプリカがあった。きちんとした献立なので驚いたのであるが、係りのかたの話によると、芭蕉は、若いころ侍屋敷で料理人として修業したことがあるのだそうで、生家裏に今は跡碑のみであるが、<無名庵>を弟子たちが作ってくれたお礼に自らの手で料理しご馳走したとのこと。これもまた、知らなかった芭蕉さんの一面である。

 

<芭蕉翁生家>内の裏にある釣月軒と無名庵跡

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記念館と生家の係りのかたに、「芭蕉さんは、忍者だったと思いますか」と尋ねたら、お二人とも、忍者ではなかったと答えられた。

私も忍者ではなかったと思う。ただし、忍者のいた地域で生まれ育っているなら、忍者という仕事がどういうものであるかということは解っていたであろう。代表的な「古池や蛙飛びこむ水の音」のように、音を俳句に入れてしまうという感性は、忍者の伊賀出身の人ならではのような気がする。そして、旅に明け暮れたのも、俳諧という技をもった人が、どこかで同郷への人々に寄り添っていたような気がするのである。井上ひさしさんはどんな芭蕉さんを書かれたのか、『芭蕉通夜舟』が読みたくなった。三津五郎さんが再演される予定であり、それを聞いたとき、思い入れが強いのであろうと楽しみにしていたが、今となっては叶わない。生家の係りの方が、上野駅から南側のお城とは反対側の街並みも是非歩いて欲しいのですと言われて地図に赤線を引いてくれたが、残念ながら全部は回れず、<上野天神宮>と寺町だけを通過して駅にもどった。

<上野天神宮>は、菅原道真公が主神である。松尾芭蕉が処女句集「貝おほひ」を奉納したといわれている。大きなお社であった。

 

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五つ庵があったうち一つだけ残っている<蓑虫庵>などは行けなかった。生家裏の<無名庵>が、義仲寺にある<無名庵>と同じ名というのも面白い。係りのかたが、名なぞなくて無いでよいということか、巴御前と関係があるのか、そこは解りませんとのことで、うなずける。旅の日程にも嘘があるし、俳聖芭蕉よりどこ吹く風というところがある芭蕉さんなのが良い。忍者が忍ぶ人であるだけに、芭蕉さんは、縛られない生き方、作風を模索されたような気がする伊賀の旅であった。

伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-1)

道成寺・紀三井寺~阪和線~関西本線~伊賀上野 で、加茂からの岩船寺~浄瑠璃寺への道程を見つけて、まずいと書いたが、その二日後には歩いていた。そうなるであろうと、まずいと思ったのであるが、旅は良好であった。その旅は置いておいて伊賀である。

そもそも<忍者>に引きずられたのは、 熊野古道の話題増殖 『RDG レッドデータガール』からである。次に来たのが、作者は植物について書きたかったと思われる忍者の小説があるという誘いで、借りてしまった『忍びの森』(武内涼著)。自分では選ばない本である。妖術はきらいなのであるが、妖怪、妖術が出てくる。確かに、植物が出てくる。忍者の存在する時代は、全て自然を利用しての生活である。手裏剣も、原料は自分たちで見つけ出し、忍者の集合体によってその使い勝手で制作して工夫したであろう。薬も保存食料も、その保存方法も考えだしていったのである。そういう点を踏まえると、植物にこだわるというのは納得できるが、こちらがその知識がないから読むのに苦労した。

先ずは、そもそも忍者とか、その歴史が解っていない。伊賀は、信長の伊賀攻めによって大打撃を被ったという事も知らなかった。小説の展開も、仲間なのか敵なのか、どんな妖術を使うのか、どいう戦いとなるのか、誰がやられてしまうのか、頭の中はフル回転である。仏教や仏像の解釈も出てくる。人としての情も出てくる。そいう意味では、頭の中の使わない部分を動かされた感じで面白くはあった。

そんなこんなから、今回の旅の最終は伊賀上野の上野市を訪れることとなったわけである。観光を調べたら、何んと<伊賀越資料館>というのが出て来た。昨年12月に観た国立劇場『伊賀越道中双六』のラストの現場である。「伊賀上野の仇討ち」であるから当然であるが、鍵屋ノ辻にある茶屋萬屋で待ち受け仇を討ったのである。<鍵屋の辻>にこの<伊賀越資料館>がある。茶屋萬屋の代わりに今は<数馬の茶屋>となっている。全然頭になかった。上野市駅から歩いて20分である。

さてどう回るか。開館時間を考慮して、上野城は中に入らず外からその姿を楽しみ、日本一とも言われる石垣の高さを上から下へと見下ろし、横からも眺める。確かに凄い。お城も美しい。

 

上野城

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そこから、芭蕉を讃える<俳聖殿>へ進み、外から眺める。檜皮葺の茸のような屋根は笠を表し、建物自体を芭蕉の姿に見立てて作られている。

その後、一番開館時間の早い<芭蕉翁記念館>へと移動。旅行地のどこへいっても芭蕉の歌碑があり、食傷気味であったが、「企画展 俳諧と絵画ー見て愉しむ俳句の世界ー」を見、係りのかたとお話ししたら、違う面の芭蕉が見えてくる。芭蕉は弟子の許六に絵を習ったとある。弟子に絵を習ったというところが気に入る。俳聖と言われているのに、身体を風が通っていく感じいい。死んだら自分の亡骸は義仲寺にと遺言を残し義仲の隣に眠っている。義仲寺に行ったときから疑問であった。木曽義仲のことが好きだったのであろうか。係りのかたは、木曽義仲なのか、義仲寺の周囲の自然だったのか、両方だったのか、解かりませんと。そう、芭蕉さんには二面性というか、こうであるという規制できないところがある。今回はそこが気に入った。

<忍者博物館>。忍者がどうやって城内に忍び込むかとか、道具などをどう使うかなどがわかる。基本的に情報を収集するのが仕事である。忍者は普段は、農民として働いていて仕事の依頼があれば忍者として働くのである。『忍者の教科書』というのがあったので購入してきた。伊賀・甲賀に伝わる忍術書『萬川集海(まんせんしゅうかい)』なるものを、解かりやすく伝えてくれている。一回読んだだけでは、無理だが、疑問に思ったとき読み返せば手助けしてくれそうである。司馬遼太郎さんの短編小説『芦雪を殺す』は、短編集『最後の伊賀忍者』の中に入っていて、司馬さんの忍者物に触れるきっかけともなった。

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上忍と下忍があるのは知っていたが、司馬さんは、上忍は下忍を仕事先に派遣する派遣業とし、下忍が、過酷な修業によって身につけた技であるにも関わらず、報われない仕事と客観視されている。現代に通ずる組織論と、忍者の技の見せ所の二律背反が面白い。

こういう剣術であったというのとは違い、その技は、風の如く伝えられている。表には出ない忍者らしいところであり、想像過多で創作できるのも忍者物ならではである。こうなると、山田風太郎さんも読まねばならないか。友人に、「風太郎さんまだ読んで無いの?」と軽く聞かれた。読んでません。忍者なんてと思っていたのであるから。忍者を<草の者>という言い方があるが、この呼び方のほうが、儚さを感じさせる。しかし、過酷な仕事である。

 

2015年4月6日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮)

那智から無事<新宮>行きのバスに乘れる。バスは、新宮ー那智ー紀伊勝浦は、9時から18時台は、30分おきにある。新宮市街に入り<権現前>とアナウンスがある。新宮駅まで行くつもりでいたが「すいません。<権現前>は速玉大社に近いですか。」「近いです。」ボタンを押す。降りる時「後ろですから。」と一言伝えてくれるのが有難い。「有難うございます。」時間的ロスが減った。ただこの手前に<神倉神社>に近い停留所もあったのである。予定では、荷物を預けてから新宮散策と思っていたので駅に行くことのみ考えていた。友人達には、バスを使う場合の参考コース<神倉神社><速玉大社>として教えることとする。

<新宮>の名は、神倉山に祀られたていた神々を新たな社殿である速玉大社にうつしたことから、地名が<新宮>と呼ばれるようになったともいわれている。<熊野速玉大社>も、朱色の美しい社殿である。

 

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御神木ナギ

 

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熊野御幸の回数

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ここの神宝館に多くの関連宝物があるようだが、時間がないので境内の中にある<佐藤春夫記念館>へ。佐藤春夫さんと高校の同級生である宮司さんが、東京の春夫宅をここに移したのである。二階に上がる階段が二つあって、細い吹き出しの階段は、窓に雨が直接あたるためそれを避けるためにサンルームをあとで付け足したのだそうでそれがかえってモダンな内部構成となっている。二階の角には、狭い六角形の空間があり、そこを書斎としても使っていたらしい。狭いが過ごしやすい空間で、横に成ったり、起きて書いたりしていた姿が想像できる。文机の前に座るが、前の3か所に窓があり、狭いのに圧迫感がない。

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没後50年の企画展は「佐藤春夫と憧憬の地 中国・台湾」である。これはお手上げであった。中国の文学作品の名前はもう記憶から薄れている。魯迅は数作品読んだくらいで、佐藤春夫さんの中国系の作品も読んでいないので、展示物を見ててもよく解らないのである。ただ、関係者のかたが、資料をきちんと検証されておられるのはわかる。そして、佐藤春夫さんが、行動の作家でもあたのだということは、認識できた。記念館だよりに、映画監督大林宣彦監督の講演会が行われたことが載っていて、佐藤春夫さんの『わんぱく時代』を大林信彦監督が映画『野ゆき山ゆき海べゆき』の映画にしたことを知る。これは興味がある。

中学時代には、与謝野寛さんらの文学講演会の前座で「偽らざる告白」と題して談話し、それが問題となり、無期停学となっている。

新宮には、大逆事件の犠牲となった人々もいて、その一人大石誠之助さんは、佐藤春夫さんの父と同じ医者で父の友人でもあり、それに関連する詩も書いている。駅の近くには、大逆事件犠牲者顕彰碑もある。その他、文学者では中上健次さんの生まれた土地でもある。<佐藤春夫記念館>で、中上健次さんの連続講座の冊子を購入してきたが、超難解でこちらもお手上げ。熊野出身ならではの作家とされている。駅前には、滝廉太郎とコンビを組んで童謡を作詞した東くめさんの「はとぽっぽ」の歌碑がある。

 

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与謝野寛・晶子夫妻らとともに、東京神田に「文京学院」を創立した、西村伊作さん設計の自宅が<西村記念館>となっている。この場所を、観光案内所で尋ねたら、近いのであるが、係りのかたが地図をもって、外まで出て説明して下さった。熊野のかたがたは、はっきりしていることは、きちんと説明されるように思う。観光案内で外まで出て説明されたのはまれなことである。<西村記念館>は、もう少しで修理のため閉館するそうである。年配の係りのかたがそのために、絵などがほとんで片づけられて無いことを申し訳ないと言われる。しかし、建物、家具のモダンなシンプルさは解かるのである。西村伊作さんの弟が、佐藤春夫宅の設計者である。

その他、<浮島の森><徐福公園><阿須賀神社><歴史民俗資料館>などもあるが、位置は判ったが行けなかった。上田秋成の『雨月物語』の<蛇性の淫>の舞台は新宮である。

最後に、<神倉神社>に向かう。ところが、時間が食い込み暮れ始めている。古い石段を80段位登ったところで、男性が降りてくる。「まだかなりありますか」と尋ねるとまだまだと言われる。「止めたほうがいいでしょうか」「止めた方がいい」とのこと。帰りが暗くなっては、この石段では足元が悪い。諦めることにする。あまり重要視していなかったが、調べたら538段あって、この神社を寄進したのが頼朝である。この神倉山は熊野速玉大社の神降臨の神域とされている。修験者の行場としても栄えたところである。頂上にある、ゴトビキ(方言で蛙)岩が御神体で古代から霊域とされいる。那智の火祭りが有名であるが、ここでも、2月に火祭りがある。

 

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東京の明治大学で来年1月11日に『第8回 熊野学フォーラム」というのがあって、テーマが<「がま蛙神」はなぜ熊野に出現したか!>である。熊野のどこかでチラシをゲットしたのであるが、神倉神社に注目しなければ気にもかけなかったかもしれない。それにしても、ゴトビキ岩を見れなかったのが残念である。

歌舞伎などでも蛙が出てくる。確か『児雷也』などは、ガマ蛙の上に立って巻物咥えて例の忍術のスタイルだったような。『天竺徳兵衛』にも出てくる。蛙には神がかった怪しい力があるのもこういうことと繋がるのかもしれない。

 つづき→     美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮から発心門王子まで) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

雑誌『苦楽』の大佛次郎と鏑木清方

10月に鎌倉に行った時、大佛次郎さんが戦後に創刊した『苦楽』という雑誌のことを知った。 鎌倉『大佛次郎茶亭(野尻亭)』

鎌倉の<鏑木清方記念館美術館>と横浜の<大佛次郎記念館>を訪れた。

<鏑木清方記念美術館>は、「清方描く 季節の情趣 -大佛次郎とのかかわりー」であった。雑誌『苦楽』の表紙絵に大佛さんは鏑木さんの絵をお願いした。鏑木さんは目の不自由さもあり、当時の紙の質の悪さからも断られたが、最終的には引き受けられた。その原画と、雑誌『苦楽』の表紙絵が並べられていた。季節に合った12ヶ月の美人画で、基本的に新作を描かれていて、体調を崩されたときのみ既成作品とし、その力の入れようが伺えた。

原画の寸法と雑誌の寸法が違うので、原画よりも雑誌の人物の顔などが、細面になってしまう。そういう事も承知されて、受けられたのであろう。

2月は、泉鏡花の『註文帳』に登場する吉原の二上屋の寮のお若(紅梅屋敷)。6月は、歌舞伎『生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)』の深雪と宮城野曽次郎が逢う場面(宇治の蛍)。新年号には『道成寺』、その他、『堀川波の鼓』のお種、『たけくらべ』の美登利などもあった。清方さんの『苦楽』のために描かれた最後の絵は『高野聖』で、清流で身体を洗ったあとの婦人図で、バックに馬の絵が影のように描かれていて、薬売りが馬にされたことを暗示している。

横浜の<大佛次郎記念館>では、「大佛次郎、雑誌『苦楽』を発刊す」のテーマ展示である。

この雑誌『苦楽』は、大正時代大阪のプラント社で出していた雑誌『苦楽』を受け継いでいて、大正時代の雑誌『苦楽』の編集に携わっていたのが、川口松太郎さん、小山内薫さん、直木三一五さん等である。『空よりの声ー私の川口松太郎ー』(岩城希伊子著)に、川口さんが、大阪の小山内薫さんの家に住みそこからプラント社に通ったことが書かれている。展示品の中には、大阪から川口松太郎さんが、大佛さんに出した手紙があった。川口さんは自分の作品を、大佛さんが執筆している博文館発行の『ポケット』に掲載して欲しいとの依頼をしている。川口さんは、まだまだ、物書きとして認められていない頃である。大佛さんの出した『苦楽』には、川口さんは、直木賞も受けられた作家で、小説『さのさ節』を載せられている。

清方さんは、表紙絵のほかにも、『日本橋』や『金色夜叉』の名作物語の一文に絵を描かれている。

今回は、大佛次郎さんと鏑木清方さんの関連するところが、雑誌『苦楽』という共通のテーマで展示されていたため、『苦楽』という雑誌が、如何に絵画的な分野にも力を入れ、そこから視覚的にも楽しめるように考慮していたかが解った。清方さんの原画に多数見れたのも嬉しかった。さらに、第十三回大佛次郎論壇賞として『ブラック企業ー日本を食いつぶす妖怪』(今野晴貴著)が<大佛次郎記念館>の閲覧室に紹介されていて、これは読まなくてはと思った。若者たちを犠牲にするブラック企業と思っていたが、日本をもくいつぶすのか。良い物を見たあとは、少しは社会的思考も加えなくては。

 

 

鎌倉『大佛次郎茶亭(野尻亭)』

大佛次郎さんの本名は、<野尻清彦>で<大佛次郎>は、鎌倉の長谷の大仏の裏に住んで居たことから、<大佛(おさらぎ)>とし、鎌倉の大仏が太郎なら自分は<次郎>であるとしてつけた、ペンネームと言われている。

『大佛次郎茶亭』は鎌倉八幡宮に近い雪ノ下にあり、住まいは小路を挟んだところで、この茶亭は、大佛さんの書斎と訪問者の接待の応接間として使われていたようである。係りの人の説明に拠ると、廃材を使って建てた<風>の平屋木造建物で、柱も細く、軒の天井裏の押さえの木もそこらに落ちていたような木を使っている。しかし、規格外なので実際には大工さん泣かせの建物でもある。屋根は茅葺で、茅も囲炉裏の煙が茅の隅々に行きわたり虫食いを防ぐのだそうで、全ての部屋にお茶用の炉が切られているが、それだけでは長持ちはさせられないそうである。囲炉裏の煙にはそういう働きがあるのかと初めて知る。大佛さんのねこ好きがわかる猫の蚊取り線香置きが三匹並んでいた。

この茶亭は鎌倉風致保存会が助成、保存している。大佛さんは、鶴岡八幡宮裏山の御谷(おやつ)山林の開発に反対し、ナショナル・トラスト(英国の環境保全団体)を日本に紹介したかたでもある。その運動から鎌倉風致保存会が生まれたのである。無料公開は年2回だが、土・日・祭日には<大佛茶廊>として開いているようである。その日はお庭で茶亭を眺めつつ抹茶をいただく。

そして、横浜の大佛次郎記念館が発行している、「おさらぎ選書 第22集」を購入。大佛さんが主宰していた雑誌「苦楽」と「天馬」のことが書かれていて、<安鶴さんと「苦楽」 大佛次郎 >と見出しにある。安藤鶴夫さんの『落語鑑賞』はこの雑誌「苦楽」からの出発であった。「苦楽」という雑誌自体を知らなかった。大佛さんは、戦後文学史に「苦楽」の名が出たのを見たことがないと書かれている。雑誌「苦楽」の調子が少し硬くなったので、柔らかくしようと云うので落語をのせることとする。江戸からの口語文、特に下町の言葉をきちんと残したいと思ったようである。大佛さん自身が小説を書くとき、武士や町人の話し方を三遊亭円朝の噺の速記をお手本にしていたのである。

雑誌「苦楽」は、表紙が鏑木清方さんで、執筆者も画家も様々な方が参加している。例えば<オ>で始まる方を並べるなら、小穴隆一、大池唯雄、太田照彦、大坪砂男、岡鹿之助、岡本一平、荻須高徳、荻原井泉水、奥野信太郎、尾崎一雄、尾崎士郎、大佛次郎、織田一麿、折口信夫

「苦楽」は昭和21年11月に創刊し昭和24年7月に廃刊となっている。

川喜多映画記念館に近い「鏑木清方記念美術館」で < 清方描く 季節の情趣 -大佛次郎とのかかわりー>(10月31日~12月4日)がある。ここも絵の数は少ないが喧騒から逃れほっとできる場所である。

横浜の「大佛次郎記念館」では <大佛次郎、雑誌「苦楽」を発刊す>(11月20日~来年3月8日)のテーマ展示がある。

英国のナショナル・トラストの力添えした人として、『ピーターラビット』の作者、ビアトリクス・ポターがあげられる。ポターの半生を描いた映画『ミス・ポター』がなかなか良かった。自立した女性の職業など考えられなかった時代に、それを成し遂げ、さらに資本家から自然環境を守るのである。ポター役のレニー・ゼルウィガーが多少クセのある演技ともおもえるが、絵本の主人公たちも飛び出して動き、婚約者の妹役がエミリー・ワトソンでもあるから許せる。相当考えた役づくりであったろうと想像できる。婚約者のユアン・マクレガーもはまり役となっていた。『ピーターラビット』やその仲間たちは子供たちの良き友となり、さらに自分たちの住む環境をも、自分たちの力で守ったことになる。

鎌倉『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』公開

鎌倉市の秋の施設公開で、『旧華頂宮邸』『大佛次郎茶亭(野尻亭)』『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』が、10月4、5日に公開された。『大佛次郎茶亭(野尻亭)』『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』は鎌倉駅から近いので、いつでもと思いつつやっと実現である。今回はこの二つを中心に据えての訪れとした。『大佛次郎茶亭(野尻亭)』のほうが時間的に先に訪ねたが、映画のこともあるので、『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』からにする。

ヨーロッパ映画の輸入に貢献された川喜多長政、かしこさんご夫妻の邸宅跡に鎌倉市川喜多映画記念館 が建て変えられ、その同じ敷地に別邸として『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』が残されている。旧和辻邸とあるように、東京の練馬にあった哲学者・和辻哲郎さんの住まわれていた江戸時代後期の民家を鎌倉に移築したものである。この別邸には、多くの海外の映画監督やきらびやかな映画スターが訪れている。

アラン・ドロン、フランソワ・トリュフォー監督、サタジット・レイ監督など、記念館にその写真パネルなども多く展示されている。映画『聖者たちの食卓』でのトークイベントで神谷武夫さんが、司会者にインド映画について尋ねられたとき「岩波ホールで上映されたサタジット・レイ監督の三部作(『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』)もよいが『チャルラータ』がよかった。」と言われていた。残念ながら『チャルラータ』はDVDにはなっていない。私が驚いたその後のインド映画は『ボンベイ』である。美しい別天地のような歌あり踊りあり。テーマは宗教の違う男女の愛を、実際にあったヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いを背景に描いていたのには呆気にとられた。そして、宗教の違いの難しさも知らされた。

『旧川喜多別邸』は、入れるのは土間の部分であるが、開け放たれた縁側からも、テーブルと椅子の置かれた居間と和辻さんが書斎として使っていた部屋を見ることができる。

 

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縁側には、先日亡くなられた、山口淑子さんと川喜多長政さん、川喜多夫妻、フランソワ・トリュフォー監督とマリー・ラフォレさんと田中絹代さんが一緒の写真パネルが置かれている。この家で写されたものである。『東京画』でインタビューを受けられた笠智衆さんと、ヴイム・べエンダース監督 の写真もある。様々な映画人を包み込んだ家屋である。

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「記念館」の特別展は<映画女優 吉永小百合>で吉永さんが出演した映画ポスターが展示されている。吉永さんのデビューは1960年の『電光石化の男』であるが、同年に『不敵に笑う男』『霧笛が俺を呼んでいる』『疾風小僧』にも出演され、全てに(新人)とされていて、日活が力を入れていたことがわかる。展示されたポスターのところどころに吉永さんのコメントがある。吉永さんも印象的なこととし『キューポラのある町』の永六輔さんのメッセージが紹介されていた。<この映画でもう映画に出ないで欲しい>というものであった。それほど、主人公のジュンが生き生きとしていて、ジュンが吉永さんか、吉永さんがジュンか区別できないほどの演技力だったからであろう。吉永さんのコメントを読んでいると、吉永さんが放送関係から子役としてこの世界に参加し、映画の撮影現場とその作品からご自分の感性と生活感覚、社会感覚を育てられていったことがわかる。

『幕末』で、中村錦之助さんと仲代達矢さんの個性に挟まれてのお良、『華の乱』の与謝野晶子、『北の零年』の志乃など、自分の意思を前面に出す役のほうが、輝いて見えるのだが、受け身のほうの小百合さんを好きなサユリストが多いかもしれない。

モントリオール世界映画祭で二冠を受賞した『ふしぎな岬の物語』の受賞現場の映像も放映されている。これから12月25日まで吉永さんの映画や共演者の浜田光夫さんのトークイベントなどが目白押しである。

観ることはできないが、書棚には、見たいと思うVHSがずらーっと並んでいる。そして映画関係の本も。本のほうは時間さえあれば見放題である。ここは、小町通りから少し入っただけなのに静かで、4回ほど立ち寄っている。そして、いつも指を加え、棚を見上げ映画のタイトル名を眺めるのである。

東北の旅・青森五所川原の町(5)

五所川原に泊ったのは、次の日の青森までの到達時間が適当であったことと、ホテルに温泉があったからである。温泉でなくとも、大浴場があると、やはり疲れがとれる。今回の旅は、骨折を予期していたようなゆっくりタイプである。いつもは、ホテルで、次の日の予定を決めるのに時間を取られるのであるが、今回はその必要もない。そんな気力もないほど疲れてしまい早々と寝入ってしまった。身体は不思議なものでどこかが悪いと、かばうのであろう。旅のあと、それが腰にきてしまった。

さて、太宰治に関してもう少し付け加える。金木と五所川原を、太宰さんは小説『津軽』で次のように表現している。<大袈裟なたとえでわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京を例にとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といったようなところであろうか。ここには、私の叔母がいる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。>

太宰は、母が病弱だったため生まれるとすぐ、乳母に育てられる。三歳のころ、子守りのたけが太宰に付き添う。叔母とたけについては、小説『思い出』でも語られている。五所川原へは、たけも一緒にいっている。そして、小学校に入るとたけは突然いなくなる。お嫁にいったのだが、太宰が後を追うのではないかとの懸念からか黙っていってしまう。お盆には訪ねてくるが、よそよそしかったと書いている。そして小説『津軽』は、最初から『津軽』を書くために郷里を旅し、たけを探す旅となっている。

太宰の実家の<斜陽館>は、五所川原から津軽鉄道に乗り換え、6つ目の駅である。以前金木は訪ねているので今回は予定に入れていない。それなのに太宰さんと会えるとは、旅の面白さである。こちらのNPOの団体が太宰の訪れた叔母さんの蔵を、現在復元再興を前提に解体し保存していて、記念館にしたいとしている。<立佞武多>を復活させた町なので、成し遂げるような気がする。

青森と弘前のねぶたは知っていたが、五所川原は知らなかった。正式には、青森は<ねぶた>で、弘前は<ねぷた>らしい。五所川原は<立佞武多(たちいねぷた)>である。<立佞武多の館>に行くと、高さ23mのねぷたを見ることが出来る。4階の高さで、ねぷたの顔が目の前にある。こんにちわである。このねぷたは、明治時代に隆盛を極め、電気の普及により、電線が邪魔をし、低いねぷたになったのであるが、1996年に市民有志が22mの大ねぷたを復活させる。そのねぷたは燃やしてしまうが、その炎は市民の心に灯され、1998年に<五所川原立佞武多>として、90年ぶりに復活させる。実物を見て、写真を見ていくと、1996年の市民の気持ちが伝わってくる。

時期によっては、制作作業を見学できるらしい。巨大スクリーンと係りの人の解説付きで映像が見れるので立佞武多がより身近なものとなる。三体のうち毎年一体は新しくされ、今年は<国姓爺合戦>の和藤内の虎退治のようである。歴史的な題材で、義経、陰陽師など歌舞伎にも通じるものが多い。ねぷたの背面絵も興味深い。葛の葉があったりする。お祭りの時は、この館のガラス面が開き、立佞武多が出陣する様は圧巻間違いなしである。形は逆三角形で、一番下の台座に<雲漢>の文字がある。これは<天の川>の意味で、青森ねぶた、弘前ねぷたにもあるらしい。「ねぷた祭り」は、七夕の日の「眠り流し」(燈籠流し)が起源という説があるのだそうだ。今夜の天の川は、遥かかなたのようである。

 

ねぷた

 

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友人に<立佞武多>の絵葉書を送る。<感動したのに納得>とひと言付け加える。友人も去年同じところを骨折したらしい。そちらの同じ道は通りたくないのであるが、仲間意識が強すぎる。

五所川原には、青森県一の富豪がいて、その人の住まいは<布嘉>と呼ばれ、<斜陽館>と同じ弘前の棟梁が建てている。そのレンガの塀が少し残っていた。その屋敷のミニチュアが、<布嘉屋>という資料館にあるそうだが開館時間が過ぎていた。兎にも角にも、五所川原宿泊も上手く行ったことになる。

内田康夫さんの『津軽殺人事件』には、<斜陽館>や<五所川原>の事も出てくる。<斜陽館>は、旅館だった時代で、印象があまりよくなかったらしい。浅見光彦さんには、『旅と歴史』だけの仕事で、もう一度訪ねてもらいたい。今回の旅に『砂迷宮』(内田康夫)を持参したが、開かずに持ち帰った。この本に手がいったのは、泉鏡花の『草迷宮』と、寺山修司さんが泉鏡花のこの作品をもとに映画化しているということを知ったからである。今、読み始めている。

五所川原の<立佞武多>を太宰治さんに見せたかった。もし見ていたら、彼の中で何かが変わっていたような気がする。

 

東北の旅・五所川原~青森~盛岡 (青森県立美術館)(6) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

『源氏物語』から『愛宕信仰』そして『源氏物語』

栄西禅師から明恵上人そして清滝とつながったが、その後の旅で『愛宕信仰』に出会った。予想外にである。京都でそれまでの旅のルートから外れて、行っていないところを訪ねることにした時、『源氏物語』執筆地といわれ、紫式部宅址と言われている<蘆山寺>をまずと思った。

地下鉄今出川駅を降りたら同志社大学である。素敵なキャンパスである。ここは歩かなければなるまい。眼にも楽しい古い建物を見つつ進んでいくと、同志社の歩みを紹介しているらしい案内の建物があり、そこで一通りの同志社の沿革や新島襄さんの思想などを学ばさせてもらう。さらに、襄さんと八重さんの住んで居た旧宅が公開されているのを知る。是非寄らねば。

京都御所に向かうとき、この同志社と相国寺が近いのに気がつく。特別公開の時期をめざし、お寺のみを駆け足で巡っていたころであろう。大学など眼中になかった。清滝を歩いたのもそのころである。京都御所も『源氏物語』の舞台であるが、予約していないので建物の中には入れない。御苑の中を通り清和院御門を出ると<梨木神社>がある。この説明板に、このあたりは中川と呼ばれ、『源氏物語』で貴族の別荘が多くあった地で、「花散里」や「空蝉」と逢ったのもこのあたりとしている。『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱の母も、中川の近くに住んでいたとある。工事中のところもあったが、ここは京都三名水(醒ヶ井、県井、染井)のうち唯一現存しているところで<染井の水>は、現在も名水を求めて人々が並んでいた。

<梨木神社>の向かいが<蘆山寺>である。このお寺はもとは、京都の北にあったが、応仁の乱、信長の比叡山焼き討ちに遭遇し、現在地・紫式部邸宅址に移転したのである。ここは、紫式部の曽祖父・中納言藤原兼輔の邸宅で、鴨川の西側の堤防に接していたので「堤邸」と呼ばれ、兼輔は「堤中納言」の名で知られていた。その後、息子の為頼、為時(紫式部の父)へと伝えられ、紫式部は、ここで結婚生活を送り、娘・賢子(かたこ)を育て『源氏物語』を執筆したとされる。あれ!では<石山寺>は。あそこは、構想を練ったところでしたかな。

<蘆山寺>の源氏庭と命名された苔と白砂の庭をゆったりと一人占めして眺めた。桔梗の庭としても有名であるが、桔梗は想像の中で咲かせる。そういえば、東福寺の塔頭の一つで桔梗を愛でたなと思って調べたら天得院であった。<天得院>は内輪という感じで、<蘆山寺>は少し余所行きに気取らせて貰いましたという感じである。

寺町通りを<新島襄旧邸>目指して丸太町通りに向かうと、<京都市歴史資料館>がある。覗かせてもらうと、何か難しそうである。「愛宕信仰と山麓の村」。ではさらさらと分かる範囲で。火を防ぐ、火伏せ信仰で、映画で見たような気がするが、京都の家の台所に張ってあるお札の事のようである。あのお札「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれているのだ。この火伏せ信仰として名高いのが愛宕信仰で、その総本社が愛宕山の愛宕神社なのである。

あの鳥居はずっと下であったのか。道理で神社などありそうもなかったのだ。愛宕山は神仏習合の霊山で祭神は天狗である愛宕権現太郎坊と称する火神で、江戸時代には庶民から武士まで信仰したらしい。そのお参りの人々の宿泊所として愛宕山を支えたのが、水尾、樒原、越畑の3村で、愛宕山へのそれぞれの登山口であった。航空写真もあり、愛宕山の下の3村が写っている。博打はしてはいけない、身元の判らない者は泊めてはいけない、病で倒れたら介抱し、亡くなったら村の墓地に葬るなど色々なきまりもあったらしい。それから、日本地図を作った伊能忠敬さんも、愛宕山付近を測量して、越畑から樒原を通過し水尾・清滝へと向かっていた。それらのことを実証する当時のこちらには全然読めない文書が展示されていて、いいとこ取りをさせてもらいまいした。こういう地道な仕事をされているかたがおられるから歴史が残るのである。

東京の愛宕山の方は、町歩きであの急な階段を馬で降りたか登ったかしたという説明を聞いた覚えがある。あそこも火の神様なのであろう。

新島襄旧邸は機能的にハイカラに作られていた。台所も土間ではなく床で、井戸も室内にある。襄さんの両親の隠居所は江戸藩邸にあった住居に準じている。配られた小冊子が写真入りで丁寧なつくりであった。最初に、見学は無料であるが、東日本大震災の支援金300円を帰りにいただきますと言われ、帰り出口にきちんと係りの人が立っておられ、お願いしますと言われ、襄さんが、同志社の為に寄付をお願いして回った精神と似ているように思われた。

最後の『源氏物語』は、東京の<五島美術館>で展示されている源氏物語絵巻である。今回は、「鈴虫一・鈴虫二・夕霧・御法」で、絵の復元もある。この源氏物語絵巻は『源氏物語』が出来てから百数十年後の12世紀に誕生していて、その中でも現存する日本の絵巻の中で最も古い作品とされている物である。気が遠くなるような年数である。詞書と絵は別にしている。絵の方を楽しむ。現存しているのが不思議なくらいである。色は薄くなっているが、構図ははっきりしている。それをさらに原本に近い色使いで復元したものも展示されているので、美しい色使いの絵をながめつつ、心踊らせて読んだ平安の人々の様子が想像できる。

この旅はこの辺で閉じる事とする。