映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

2012年締めの観劇 『日本橋』で、観劇の感想を書いたが、映画『日本橋』(舞台公演を映画としてのこしたもの)を観る。時間がたってみると、かつて自分はこのように観ていたのかと意外とかつての自分に対し冷たいものである。今回は、<瓦斯灯>が気になって仕方が無い。一石橋で、お孝がガス灯の陰に隠れて佇み、葛木と巡査のやり取りを聞いていてガス灯の光を受けて姿をあらわす。照明の具合がいい。ガス灯はこんな具合に柔らかく照らすのであろうかと感じ入ってしまった。実際はどうあろうと私の中でこれがガス灯の灯りとインプットしてしまった。映画の場合、アップになる。舞台の場合は自分が好きなようにアップにしたり、全体を見たりと自在にやっているので、舞台の録画中継のとき、納得できなくて、ただ粗筋を理解しただけという場合もある。

さすが映画も作られている玉三郎さんである。重要な台詞のとき、聞かせどころ、観させどころを心得ておられる。アップが効果的で台詞がリアルに伝わってくる。そして涙しつつ、現実にこのような美しさはあり得ないが創造することは出来るのだと考えさせられる。汚れているはずのお孝がよごれをきちんと引き受ける潔さが伝わる。自分で播いた種を綺麗に刈り取って、次の種を播くためのさらな地を残していく。葛木はその時気がついたのではなかろうか。自分が作った美しさを人に求める時それは消えていくことを。彼が求める理想の人はこの世にはいないのである。しかし、鏡花さんは自然主義の自分をさらけ出して許しを請うことは文学の世界として相容れないものであった。消えても違う世界に美しくとっておきたいのである。触れることができなくなっても。

音がよかった。下駄の音。雪を踏む音。流れてくる長唄など(と思うが)。そこが舞台と違ってはっきり聞こえ映画の平板さを補ってくれた。

日本橋のコレド宝町は凄い人である。『日本橋』の映画を上映していたので行ったので何があるのかよく分らないが、こういうのは苦手なので早々に本郷菊坂散策の取りこぼし拾い作戦に移る。

上野広小路から仲町通りを歩く。現在は様々の歓楽のある通りである。通りの横道の空間から桜と不忍池の弁財天の屋根が見える。お蔦のころはもっと姿を現していたのであろう。その方向に手を合わせる人の姿も美しいものがある。そこから湯島天満宮の下を通り、切通坂を上る。瓦斯灯がきになったが時間がないので寄らない。しばらくは舞台映画のガス灯で十分である。啄木さんの案内板、壺の最中の壺屋さんもどんどん通り越し、本郷三丁目交差点へ。

申し訳ないが、再び交番で、「文京ふるさと歴史館」を尋ねる。春日通りをそのまま、信号3つ過ぎた右手の横道の左である。途中通り向かいに啄木さんの下宿していた床屋さん、理容院アライが見えた。一つ拾う。「文京ふるさと歴史館」についたのが4時40分過ぎ。5時閉館なので資料を買い、周辺地図をもらい、地図で<坪内逍遥私塾跡><宮沢賢治旧居跡>を教えてもらう。ゆっくり再訪することを告げ館の前の道を進むと炭団坂で急な階段である。その横に<坪内逍遥旧居跡>の案内板。メモする時間はない。炭団坂を下りて右手にいくと何人かの女性グループが<宮沢賢治旧居跡>の案内板をよんでいる。まずは三つ拾ったので安心。

地図を観て菊坂に上がり、菊坂を言問通りまで進む。今回は近道をしようとはせず、確実性を重視する。そこから新坂を上り、啄木ゆかりの旅館「大栄館」があり地図どおりに行くと、<徳田秋声旧宅>が見つかった。現在も人が住まわれているので案内板を静かにながめ元来た道をもどり、白山通りに出て<樋口一葉終焉の地>を目指す。そこは3回ほど行きつもどりつしてしまった。反省として旧東海道を歩いているわけではないのであるからして距離感覚を短くである。無事拾い集められたようである。歩いている途中で、明日の町歩きの問い合わせがくる。皇居の乾通り抜けは混雑しているようでやめることにする。

まずは何とか本郷菊坂散策は拾い集めることが出来た。詳しいことは後日何かの折に。

 

 

水木洋子展もラストへ

平成25年10月26日から始まった市川市ミュージアム企画展の『水木洋子展』も3月2日で終了である。期間が長いのでと思っていたが、なんとか2回行くことが出来た。水木さんが脚本を書くにあたって現地へ行かれ念入りな取材と資料の中から積み上げていった事はよく分った。たとえば、『ひめゆりの塔』に関して、現地の校長先生の話の取材で<沖縄では、いわゆる適格者(18歳以上60歳までの男女)は軍の命令によって疎開できなかった>とあり、映画の会話の中にも、自分の母親が60歳なので疎開できないで残っているとでてくる。水木さんの取材メモが無かったら見過ごしたであろう。そんな事実があったのだ。

東日本大震災のとき、未亡人の知人が息子さんさんにとにかく、後で笑い話になってもいいから関東から脱出して関西に行ってくれと言われ京都に行ったそうである。ホテルはどこも満室に近かったそうである。お母さんが行っててくれれば何かがあれば、僕たちはバイクでもなんでもそちらに行けるからと言ったそうで、笑い話ではなく、凄い親孝行な息子さんと皆感心したものである。この沖縄の話からそんなことも思い出した。

今回は、展示されていた水木さんの映画作品のポスターやチラシの中の宣伝や紹介文を一部載せておく。

『ひめゆりの塔』  一人の英雄もなく一人の残虐な将校もいない焦土と化した沖縄に「ひめゆり部隊」二百余名の乙女がその若き生命を捧げて永遠の平和を願う 一大叙事詩!世界映画史上に不滅の一頁を!

『キクとイサム』  村中をひっくり返すデブちんと腕白小僧!

『おとうと』  生きることに徹し愛することに徹した二つの魂!市川崑が人間の美しさ挑む文芸大作!

『喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん』  ズラリ揃った奇想天外の配役陣!愉快で陽気なオバアチャンの浅草道中!

『あれが港の灯だ』  波荒き玄海灘に体当たりする日本映画界空前の野心作!!

『裸の大将』  頭がよわいが絵を描きゃ大将!日本中の毒気を抜いてぶらぶら歩けば犬まで笑う!

『ここに泉あり』  いばらの道をふみこえて夢は大きく花ひらく今井映画最高の壮麗ロマン!

『あらくれ』  幾度も男に傷つき躓きながら女の生甲斐を求めるお島

『あにいもうと』  洋画ファンも文化人もきっとこの怒りと愛情に泣く!最高文芸巨編!

『夫婦』  市井の片隅に揺れていて侘しい夫婦のささやかな愛の灯妻の倖せとは・・・全女性いに献げる愛の珠玉

『丘は花ざかり』  恋する現代女性の生態、限りない親愛感を以てせまる石坂洋次郎文学決定版

『おかあさん』  往年の名作「綴方教室」を凌ぐ感動の芸術作品!

『浮雲』  風に吹かれ雨にたゝかれ儚くながれゆく浮草の流転する姿にも似た女が・・・・

今回展示されているポスターの一部で、ポスターは幾種類かあるので、そこにはまた違う宣伝文があるであろう。

展示と関係の無い他の資料の中には、たとえば、『浮雲』などは、<漂泊の涯てなき恋の旅路の歌かあわれ女の情炎図>と書かれたものもある。こうして見ていくと、いかにして映画にお客を引き付けるか宣伝部が工夫をこらしていたのであろうと 想像できる。今の時代のポスターはどんなであろうか。気にかけていなかったので、これを機会に気をつけてみよう。

水木洋子のドラマと映画 (1)

市川市文学ミュージアムで水木洋子展をやっていることはすでに書いたと思うが、水木洋子展の内容に関しては書いていない。と言いつつ今回も書くつもりはない。映画のポスターや、シナリオの原稿は説明しても想像するのは難しいであろう。と言う事で水木さん脚本のドラマについて。

横浜放送ライブラリーで、水木さん脚本作品の聞けるもの見れるものは全て見たのであるが、水木洋子展の関連でテレビドラマ上映会と映画上映会をやっている。その中で、1970年の「東芝日曜劇場 五月の肌着」だけ再度見ることが出来た。面白い手法を使って姉と弟の言葉に表すと壊れてしまうような情愛を描いている。

先ず画面の大きさでバックに流れる音楽の見る者への影響が大きいことを知る。チェンバレンのような楽器の音楽が流れその音楽と列車の踏切の信号の点滅とが重なる。いい流れである。放送ライブラリーでは気にかけなかったがはっきりと印象づけられる。電車の乗り降りの乗客があり、ホームの若い青年が電車のドアガラスを乗車内に向かって割るのを乗車内から写す。その青年のこぶしの先に一人の着物姿の女性が写し出される。彼女の仕種、表情から回りの乗客三人がそれぞれこの男女の関係を想像するのである。その想像が週刊誌の見出しと同じというように、電車の中の週刊誌の釣り広告が映し出される。

この美しい女性は池内淳子さんで、想像に任せて、想像の役をするのである。青年が高橋長英さんである。人の想像とは面白いものである。どれが本当の彼女なのか。若い男を騙し袖にしてその仕返しなのであろうか。水木さんは、よく役者さんを見ていて上手い配置をする。特に女優さんの選び方は素晴らしい。(一応水木さんが選んだと仮定していての話である)池内さんは五役演じている。48分のドラマに五役であるから何が何だかわからないという事になりそうであるが、そこは、脚本の良さと役者さんの力である。この二人の男女の関係は本当はどういう事なのかと頭のどこかで思わせられつつ、本題に引っ張られていく。

問題を起こし家を出てしまった弟。家族のために婚期を逃してしまった姉が今度こそは結婚しようとして、弟に会いに行くのである。弟には年上の恋人がいて、弟は姉を慕っていることがわかる。今度は自分は結婚すると決めそれを告げ電車に乗ったところで弟が姉に向かって電車のドアのガラスを割るのである。それが弟のどんな気持ちなのかは、見る者に託されている。

私は、弟が俺はもう大丈夫だよとの気持ちでこぶしを奮ったと感じたが、見る人によっては、結婚するなの意思表示ととるかもしれない。池内さんはその弟の行動にびっくりするが、時間が経つと微笑むのでる。単なる微笑みではないので事情の知らない人は、ふてぶてしい笑いととり自分の想像通りと満足するのである。

父親が畳職人で中村翫右衛門さんである。(このかたの芝居を見れなかったのは残念であった。映画『いのちぼうにふろう』の安楽亭の主人などは大好きである。この人以外考えられない。あの仲代さんのような個性的な役者さんの親分となれるのは。)母親代わりとなって婚期を逃した池内さんとの親子関係も息が合っている。長男が林隆三さんで飄々としている。次男の高橋さんのほうが、畳職人としての腕は良かったらしい。そういう細かい人物設定も水木さんならではである。

もう一度見たいなと思わせる作品である。電車の音なども入り丁寧に作られている。

参考  水木洋子 『北限の海女』

 

水木洋子展講演会(恩地日出夫・星埜恵子) (2)

星埜(ほしの)恵子さんは美術監督であり、恩地日出夫監督とはご夫婦である。という事を今回の講演で知ったのであるが、一番驚いたのは、千葉県佐倉にある国立歴史民族博物館に展示されている『浮雲』の映画セットを展示するために尽力されたかたである。歴博の現代の展示室に『浮雲』のセットを見たとき、映画の『浮雲』は傑作だが、どうして『浮雲』なのであろうかと不思議に思ったのである。星埜さんはその経過について、物凄い数の現場写真を紹介しつつ報告された。

2005年に世田谷文学館で『浮雲』の再現セットが特別展示された。その時、若い方がよく古い物を探して揃えられましたねと言われ、古い物もあるが、「汚し」という新しいものを古くしていく技術があることを伝えなければと思われたのだそうである。私も国立歴博のセットを見たときは若い方と同じ感想であった。その後、展示できる場所で展示を続け最終的に国立歴博に永久保存となったのである。書いてしまえば数行であるが、その努力と労力と人脈のつながりは膨大である。この仕事に係った沢山の方々の名前と写真が登場した。星埜さんの話を聞いて、国立歴博の『浮雲』のセットの歩みを理解したのである。

「温故知新」、古きをたずね新しきを知るという言葉があるが、星埜さんの師・吉田謙吉さんの座右の言葉をそのまま使わせてもらっていて、知るだけではなく創る行動まで進むということを実行されている。国立歴博の展示は、人類の登場から順番に見ていくと<現代>の第六展示室は当然一番最後となり、『浮雲』のセットがと思いつつサラサラと見てきたのである。<大衆文化からみた戦後日本のイメージ>とのテーマのところに展示されていてテレビCM映像コーナーなどもあった。今度行くことがあれば、星埜さんの写真や説明を思い出しつつ、よく眺めてくることにする。

略歴を見ると東陽一監督の『サード』『もう頬づえはつかない』の美術助手をされ、『尾崎翠をさがして』『平塚らいちょうの生涯』の美術監督をされている。尾崎翠さんの作品は『第七官界彷徨』だけしか読んでいないが、摩訶不思議な作品である。作品の配置図を作っているのかなと思ったら、作品のあとに<「第七官界彷徨」の構図その他>と付記している。小説でありながら映像的配置図で、屋根の無い模型の中に登場人物を入れて上から操作してそれを側面から移動させて、そこに片恋の交差を言葉で表し、靜物と植物をも小道具として使っている。しっとり水分を含んでいるように見え、触ると乾いている感触で、サラサラしているのかと思ったら、冷たい水分を手に受けてしまうようで、ジトッとした感触でないのが良い。1930年代にこいう作品を書いた女性がいたことが驚きである。<第七官界>を<彷徨>していたのである。映画があることを知ったのが遅かった。『平塚らいちょうの生涯』も羽田澄子監督の演出なので見たかったがこれも遅かりしであった。いつ出会えるであろうか。講演会がなければ、星埜恵子さんの仕事を知ることはなかったであろう。

『水木洋子展』では、関連イベントとして、水木さんの脚本の映画やテレビドラマの上映会を開催してくれている。ドラマは横浜にある放送ライブラリーから借りてこられたようだ。資料だけではなく、脚本の映像が見れるのは設計図から実際の建築物を見れるのと同じことである。

新宿歴史博物館では、『生誕110年 林芙美子展』が ~1月26日まで開催されている。こちらも行かねば。

 

追記 :映画『元始、女性は太陽であった』 2017年7月8日 11時30分からと7月16日 3時から東京国立近代フィルムセンター小ホール(京橋)にてアンコール特集で上映されます。

映画『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』

 

水木洋子展講演会(恩地日出夫・星埜恵子) (1)

市川市文学ミュージアムで『水木洋子展』を開催しているが(~3月2日)、その関連イベントで講演会があった。「「砧」撮影所とぼくの青春」(恩地日出夫・映画監督)、「温故創新ーつながる『浮雲』のセット」(星埜恵子・美術監督)。失礼ながら、恩地日出夫監督の名前は知っているが、配られた略歴を見ても恩地監督の映画もドラマも見ていないのである。ただ、『四万十川』に関してはビデオに録画し途中まで見てその後、他のビデオとともに処分してしまっている。四国に旅し(四万十川 四国旅(3))残念と思ったが、ここで再び残念と言うしかない。

今回、東宝の映画関係者だけのために作制した映像も見せてもらうことができ、監督の言葉ではないが、お得であった。関係者のみの映像という事で、使われた映像も音源も無料で使わせてもらったそうである。立川志の輔さんが、忠臣蔵の説明の時(立川志の輔 『中村仲蔵』)浮世絵を使われたが、勝手に使っているんではありません。きちんとお金を払っています。と言われていたのを思い出す。右下に<国立国会図書館所蔵>とあった。

「「砧」撮影所と僕の青春」は恩地監督の出された本の題名でもあり、本を読んだ方は本と同じ内容ですと話される。「砧」は地名で、大船、蒲田、向島、多摩、太秦(14日テレビで映画『太秦ライムライト』が放映された。現在の東映太秦映画村を使い、時代劇の切られ役を主人公にした視点が面白い)などその他にも地名が入る撮影所が多い。

監督は東宝に助監督として入社してからの見習いから助監督までの可笑しくも楽しい話をされた。成瀬己喜男監督、谷口千吉監督等とのエピソード、堀川弘通監督が師匠だが、岡本喜八監督が助監督チーフできびしかったが、岡本さんに育てられたところが大きい。カチンコは恰好よくやれ。ラブシーンも切り合いも、カチンコによって乗りが違うのだ。谷口監督からは黒澤監督との『馬』で黒澤監督が宿に帰ればいつもシナリオを書いていたといつも同じ話をきかされ、岡本さんもシナリオを書けといい、書いて映画関係の本に載ると、いつも批評を書いて渡してくれた。その岡本監督の批評のメモを持参されていて、読んでくれた。そのお陰で監督になるのも速かったと話しつつ、恩地監督の皮肉なユーモアが入るので監督たちのことが生き生きと浮かびあがる。岡本監督の『肉弾』の原稿を印刷所に持って行き発表したのは恩地監督である。

水木洋子さんの関連では、『裸の大将』の監督が堀川弘通監督であり、恩地さんもついていて、山下清さん担当だったので、山下清さん独特の感性についてのエピソードを三点紹介された。どうしてライトが点くのかと聞かれたので、ライトにつながる太いケーブルの中を電気が通っているのだと言うと、ケーブルの上に乗り、自分が電気を止めたつもりになり、どうして電気が点くのかとまた聞いた。撮影のため臨時に特別に走らせた汽車を見て、あの汽車は人が乗っていないと誰も疑問に思わない事を指摘した。山下清役の小林桂樹さんを指さし、あれは小林さんだろ、これはオレだろ、アレはオレだろ、どうなっているのだ。難しくて説明できないというと、そうか難しいかと言われたそうである。短いエピソードになっているが、山下清さんは何回も恩地監督に聞いたのではなかろうか。水木洋子さんによると、山下清さんは、<彼はあきもせず考え続ける。>と書かれている。恩地監督は山下清さんの感性を浮かび上がらせるため不必要の部分は削るシナリオの手法を使われたように思う。

恩地監督が見習いのころ、撮影所で邦画と洋画を好きなだけ見れる場所がありそこで見た映画で一番感動したのが、山中貞雄監督の『人情紙風船』だそうである。最近、「鞍馬天狗のおじさんは – 聞き書きアラカン一代」(竹中労著)を読み、山中貞夫監督を見つけたのは嵐寛寿郎さんと知り驚いたところだったのであるが、私は山中監督の『丹下左膳餘話 百萬両の壺』の娯楽性が好きである。プロは『人情紙風船』のほうが学ぶことが多いのであろう。

一時間では短すぎる話の内容であった。詳しくは、「「砧」撮影所とぼくの青春」の本でということになろうか。

三浦半島と浦賀 (3)

燈明堂というのは和式の灯台である。1648年(慶安元年)、幕府の命で作り1872年(明治5年)まで役目を果たしていた。現在のものは平成元年に復元されたもので、土台の石垣は当時のものである。燈明堂の中には、灯台守が寝泊りできるスペースもあるようで、中の仕組みを見れないのが残念である。この燈明堂の運営にも干鰯問屋がお金を出している。この燈明崎の背後が平根山台場で外国船に備えていた。天保8年(1837年)日本人漂流民を送り届け来航した米商船モスリン号を最初に砲撃している。この燈明崎は浦賀奉行所の処刑場でもあり首切塚もあった。海はあくまでも美しく凧揚げをしたり、磯遊びする家族、魚つりの人などのんびりと時間を過ごしている。

為朝神社を見つけるため気を付けて歩く。為朝は『保元物語』で語られ、『椿説弓張月』(滝沢馬琴著)の主人公であり、歌舞伎では三島由紀夫の『椿説弓張月』がある。歌舞伎は観ているがほとんど覚えていないのである。歴史物のデフォルメした歌舞伎には中々慣れる事ができなかったからでもあろう。為朝神社は源為朝を祀っている。この為朝神社に関しては、旧浦賀文化センター(新しい名前より古い名前が好きなのであえて旧として使わせてもらっている)に置いてあった<浦賀文化34号>に載っている郷土史家・山本詔一さんの「為朝神社」を参考にさせてもらうと、木像が1800年に浦賀に上がり、その木像に病気、怪我の人が祈ると効き目があった。その木像が為朝像であることがわかり、人々は為朝について調べ始め、『伝由記』としてまとめ、社殿を建築することとなる。三浦群の人々は裕福な人も、貧しい人も賛同し出来上がったのが為朝神社である。

この為朝神社で面白い事を知る。神社に奉納される「虎踊」である。近松門左衛門作の歌舞伎や文楽の『国姓爺合戦』(こくせんやかっせん)をも取り入れている。和藤内(わとうない)の登場に始まり太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞い。最後に和藤内が虎を神符で成敗しみえをきるとある。虎は親子二体。親虎には青年、子虎には少年二人づつ入る。和藤内は男の子。唐子は女の子。太唐人は成人男子。「浦賀と野比の虎踊」とあり、野比にもあるようである。どういう経緯でこの民芸が出来上がったのであろうか。興味深いところである。神社を出るとやはり町歩きの男性であろう。為朝神社はここですかと聞かれる。調べてきていないと分からないかもしれない。

次の愛宕山公園は登りである。中島三郎助招魂碑、咸臨丸出港の碑、与謝野夫妻文学碑などがある。晶子のほうは、「春寒し造船所こそかなしけれ 浦賀の町に黒き鞘懸く」で、寛のほうは読めなかった。寛はこのあと亡くなりこの地での歌が最後とあった。ここから浦賀周辺の眺めと別れ、渡し場にもどる。城ケ島で教えてもらったように、対岸の船を呼ぶボタンがある。今回は家族が一組同船である。乗船時間は5分弱である。この船は1725年(享保10年)から市民の足として続いている。三崎港と城ケ島の渡船は城ケ島大橋が出来て一度途絶え復活している。

最後の目的地、東叶神社である。由緒は西叶神社(三浦半島の浦賀 (2))と同じである。同じ神社が東西にあるのが面白い。それを渡船で繋いでいる。こちらは、勝海舟が咸臨丸で出港する前に水ごりをしたという井戸が残っている。奥の院では座禅をし断食をして航海の無事を祈ったようであるが、途中まで登ったがきついので引き返した。予定を終了し近くのバス停からバスに乗る予定であったが、10分くらい待ち時間があり駅まで2停留場なので歩いた。長川の河口をせき止めた形(地下を流れているらしい)で、来た時と反対側の浦賀ドックを左手に駅に向かう形となる。駅前に逆三角形で浦賀ドックはある形となる。

想像していたよりも、江戸をさかのぼって鎌倉、平安末期までタイムスリップさせてくれるものが残っている町であった。そして宿題も沢山おみやげに頂いたような気がする。

 

三浦半島の浦賀 (2)

プチ旅といえども何が飛び出すかわからない。浦賀は鎌倉時代からの港で、江戸時代は干鰯(ほしか)問屋でにぎわったところらしい。先ずは造船所が見えてくる。浦賀ドッグは戦時中は駆逐艦の建造をしている。平成15年に閉鎖となった。浦賀に造船所ができたのは、明治24年中島三郎助の23回忌に愛宕山に中島三郎助の招魂碑が建てられた、除幕式の日にそこに立ち会った人々が決定している。その中に榎本武揚もいる。

そもそも、中島三郎助とは何者なのか。浦賀ドックを左手に眺めつつ、浦賀文化センターを目指す。浦賀のことが解るであろう。浦駕通りから少し奥まった高台にあった。名前が浦賀コミュニティーセンター分館にかわっていた。人の気配はしないが、二階が展示室のようである。映像がながれている。横須賀市と会津若松市は友好都市であるらしい。<会津若松と横須賀の古くて深い関係>と題された映像である。鎌倉時代、三浦の佐原義連が頼朝から会津若松をもらいうけている。江戸に入って江戸湾と三浦半島の警備にあたっていた会津藩は1820年任をとかれ浦賀奉行所がもうけられる。それまで一家をあげて警備のため浦賀にきていた会津藩士はここで骨をうずめた人々もあり、そのお墓も残っている。そして明治維新で敗れたときも新天地をもとめて横須賀にきた人々は多いのである。

中島三郎助は浦賀奉行所の与力で、ぺリーが来航したとき、その艦隊に乗り込み米国使者と対応したのがこの人である。展示室はこの人のことが三分の一占めていて、町には「1月26日 中島三郎助まつり」のポスターもあった。日本最初の様式軍艦「鳳凰丸」の製造の中心人物で、勝海舟が渡米するときに乗った「咸臨丸」の修理もしている。最後は榎本武揚と函館に行き、息子二人とともに戦死している。旧浦賀文化センターでは会津若松との関係、中島三郎助のことを知ることができた。

次に西叶神社である。この神社の創建は文覚上人である。平家物語にも出たきたあの人である。出家する前の名前が遠藤盛遠(えんどうもりとう)である。(映画『地獄門』 と 原作『袈裟の良人』) 頼朝に挙兵を促した人であるから関東の何処かでお会いするとは思っていた。平家の横暴ぶりを憤った文覚上人は上総国鹿野山にこもりはるか京都の岩清水八幡宮に源氏再興を願い叶ったのでこの地に石清水の応神天皇を祀ったのだそうである。文覚上人についてはまた書く機会もあるであろう。この本殿は総檜造りで、安房の彫刻師、後藤利兵衛の作である。干鰯問屋群の力を感じる。町名の案内版などにもそのなごりがある。

そのまま港に近い道に出ると渡し船がある。この船は対岸の東叶神社に行けるのである。その前に燈明崎の燈明堂を目指す。途中、陸軍桟橋がある。浦賀は終戦後の引き揚げ指定港でもあり、約56万人の引き揚げ者がこの地を日本の第一歩として踏んでいる。感染症のため日本を目の前にして踏むことが出来なかった人も沢山いるのである。鎌倉の浄智寺にも、ある戦友会の碑があり次の様に記していた。「世界平和待ち侘びし 平和の光さし出でて 千代に守らん四方のひとびと」 寒さは厳しいがそのまま海を眺めつつめ歩き、愛宕山公園と為朝神社を通り過ごしてしまった。道が一本山側のようだ。帰りに寄ることとする。

 

東慶寺から城ケ島へ (2)

京急の三浦海岸駅からバスで三崎港へ。調べた限りでは三崎口駅よりもバスの本数が多いからであるが、それでも1時間に1本程度である。よく解らぬが予定にないバスが、あまり待つことなく来てくれた。テレビで路線バスの旅をする番組があるが、あそこまでは行かなくともこの辺りも路線バスは少ない。地形的には高い位置をバスは走る。30分ほどで三崎港に着く。

旅行ガイドブックの紹介によると、三崎港から城ケ島渡船「白秋」で城ケ島に渡るルートでそれも気に入ったのである。12人乗りの船で他に乗船者が見当たらない。船を運転する方が乗っていいと言う。お金を払って、乗船し何人か来るまで待つのだろうかと思っていると動き出した。貸し切りである。300円で船を貸し切ってしまった。10分に満たない時間ではあるが。城ケ島に着くと、もし船がいなければそこにあるボタンを押すと10分で迎えに来るからと教えてくれる。成る程そういう仕組みになっているのか。お店のある方向と山には水仙が咲いている事も教えてくれた。

年末暴飲暴食でひどい目に合い、お粥とスープが続いていたので軽くミニマグロ丼を半分食べる。周りは豪華に海の幸を食べているが、我慢である。灘ケ崎の岩棚まで降りもどって丘の上の楫(かじ)ノ神社で平和祈願。航海安全と大漁祈願の漁師さんの神社のようだが今年はどこの社寺仏閣でも願いは全て平和祈願に決めた。

お土産屋さんを通って途中から階段を登り真っ白な城ケ島灯台へ。灯台の後ろには伊豆半島と雪の富士山がうっすらと見える。長津呂(ながとろ)の磯も見える。この千畳敷の長津呂の磯から浸食されて穴のあいた馬の背洞門までが大変であった。岩礁は見ていると美しいが波に削られ起伏があり、平になると砂場で足を取られ歩きずらい大した距離ではないが時間を要した。削られた岩穴から地平線を見るのも海の自然の金魚鉢のようである。馬の背洞門から上の道に上がると両脇に水仙が植えられているがまだ花の数は少ない。水仙まつりは12日からだそうで山の上の散策コースを歩くともっと咲いていたのかもしれない。

ウミウ展望台から眺めるとウミウであろうか鳥が飛び回っている。海に突き出た切り立った崖とその上の緑が広い海に一言物申しているかのようである。道なりに歩いていくと県立城ケ島公園である。展望台からは千葉房総半島、伊豆大島、伊豆半島がパノラマ式に見える。公園の東側に安房崎灯台がある。下までおりて上がってくるのが大変そうなのでそのまま公園の入り口に向かう。風に任せて曲がっている松の下に水仙という取り合わせがなかなか良い。そこから「北原白秋記念館」に向かう。

白秋の三崎時代は短いが凄い時間であったことを知る。「城ケ島の雨」の雨に色をつけ、それも<利休鼠>としたことに感動してしまうが、白秋さんにとってはもっと深い色であったのであろう。記念館で「北原白秋 その三崎時代(抄) 『雲母集』を歩く」(野上飛雲著)を購入。これがとても参考になる。「彼の官能的唯美時代で、この年(明治43年)の二月の強烈な官能美をたたえた作品「おかる勘平」を掲載した『屋上庭園』は、その内容が検閲当局の忌諱に触れて、発禁処分を受けた年であった。」の部分にはどんな「おかる勘平」なのか知りたい。こんな所までおかると勘平が追いかけてくる。頼朝が設けた三つの御所・桜・桃・椿と白秋の関係など場所も訪ねられ歌も調べられて書かれているので、またまた三崎の関連場所を歩きたくなる。帰りはバスで城ケ島大橋を渡ったのであるが、渡ってすぐに「椿の御所」の名前のバス停があった。大椿寺(だいちんじ)が「椿の御所」の跡だそうで、白秋さんが朝な夕な散策したところである。見桃寺は「桃の御所」でここに白秋の歌碑がある。「寂しさに秋成が書讀みさして庭に出でたり白菊の花」上田秋成の「雨月物語」を読んだときの気持ちである。

「ただ一人帽子かぶらず足袋穿かず櫻の御所をさまよひて泣く」 「桜の御所」は本瑞寺で、この歌はノートに記されていながら棒線を引いて消されていて『雲母集』のなかにも収められていづ、世の中に出ていないのだそうである。あまりにも実写過ぎて歌としての空間がないということであろうか。筆者も「白秋が三崎に流離した当時の風姿を知る上で貴重な歌である。」としているが、その当時の白秋さんの姿そのものと思う。そして三崎から城ケ島の木々の緑が雨のベールを通して見た時<利休鼠>だったのである。

 

世田谷文学館と蘆花恒春園

世田谷文学館の『幸田文展』から、蘆花恒春園に行き大宅壮一文庫、賀川豊彦記念松沢資料館そして、京王線の上北沢駅に向かうつもりが、文学館で思いがけない催し物があった。

多摩美術大学・世田谷文学館共同研究『清水邦夫の劇世界を探る』第三弾で、リーディングシアター『楽屋』の公演が自由参加で見れるというのである。朗読劇のようなものである。3年間つづけられ今回で終了らしい。それが始まる前の短時間に蘆花恒春園に行き開演時間に合わせて急いでもどる。

清水邦夫さんの名前は知っているが、その戯曲と公演は初めてである。『楽屋』は、そのまま楽屋が舞台なのであるが、そこに主演女優となれなかった女優の亡霊が住んでいることである。その亡霊は二人いて、現在の主演女優が舞台に出て行った後に話始める。主演女優の悪口もいいつつ、自分たちがプロンプターだったことや、やっと採れた端役のこと、あこがれの役の台詞など話は尽きない。恨みつらみもたっぷりである。そこに枕を抱えた若い女優が現れる。その女優は病も治り舞台復帰しようとするが果たせず、二人の亡霊と同じ世界にいることなる。三人の女優は三人そろったところで「三人姉妹」の台詞の世界の中に入って行く。

作者がこれを書こうと思いついたのは、女性達の楽屋の壁にアイロンの焼け焦げた跡を見たからだそうで、それを、亡霊を出すことによって演じる者たちの舞台、台詞、役に対する嫉妬、挑み、喜び、挫折などあらゆる感情や思いを傷口も見せつつ表にしたのである。

そのあと、「清水戯曲の魅力」と題して井上理恵(桐朋学園芸術短期大学教授)さんの講演があったが、新劇の全盛時代にそれとちがうものを目指し向かって突進してきた、若き演劇人の中の一人の清水邦夫さんについて語られた。時間が短かったのであるが、その時代のエネルギーが伝わってきた。面白かったのが、井上先生、クラシックなワンピースと上着のスーツを着られていて、大学の先生だからかなと思ったら、<今日は私も演出してきました。十年前のクラシックな服を引っ張り出し、つけているクチナシの花はかつては白かったのですが、こんな薄汚れた色になってしまいました。でも一点ものですのでつけてきました。>演劇を愛する方のようにお見受けし遊び心が楽しい。アイロンの焼け焦げも、美しい茶の模様に見えてくる。

時間の無い蘆花恒春公園。徳富蘆花が愛子夫人とともに恒春園と名付け晴耕雨読の生活を送られた地で、母屋が公開されている。大逆事件で処刑された幸徳秋水を思い書院に秋水書院と命名している。

蘆花記念館もありざーっと見ていたら、新島八重さんの兄・山本覚馬の娘・久栄さんと恋愛し別れるとある。ちょっと驚いたら、その日の大河ドラマ「八重の桜」がその事をやったので2度びっくりである。年譜によると、明治19年に恋愛感情を抱き、明治20年、兄の猪一郎が上京し、民友社を設立。久栄さんに訣別の手紙を送っている。明治25年久栄さんとのことは「春夢の記」としてこの頃書いたらしい。明治26年に久栄さんは亡くなっている。明治27年愛子さんと結婚。愛子夫人談話の聞き書き「蘆花と共に」によると、久栄さんのことは、蘆花の中でも上手く収拾がつかず、夫人も久栄さんの影に相当心を悩ませたようである。しかし、愛子夫人の日記から、大逆事件に関しても、蘆花には保身がなく、人道主義者であることが解るようである。

特定秘密保護法案が国民の間で充分に考える時間もなく国会で決められそうである。どうしてそんなに急ぐのか非常に疑問である。皆がもっと考える時間が必要と思う。

 

世田谷文学館 『幸田文展』

幸田文さんは幸田露伴さんの娘さんである。幸田露伴さんが亡くなられたとき、近くに住んでいた永井荷風さんは喪服が無いとして、家には入らず外から露伴さんを弔われている。(『永井荷風展』 (2))その家の中では、喪主の文さんとその娘さんである玉さんが並んで座られていたのである。その時、文さんは43歳である。その年令から父・露伴さんのことを書き始め好評を博し認められるが、自分の力ではない様に感じられ、筆を絶つ事を宣言され、台所仕事なら自信があるとして職を探し、47歳の時柳橋の芸者置屋に賄婦として住み込む。この仕事の経験から生まれたのが「流れる」であり映画にもなっている。映画会社から、「流れる」ではどうも縁起が悪いのでと改題を申し込まれたが、文さんは頑として断ったらしい。他の所でこのことを、室生犀星さんが書かれている。

絶筆宣言は、幸田露伴の娘からの文筆家としての決別ともとれるが、既に文さんの文さんとしての文章表現力は確立されていた。露伴さんとの共に生活した題材からの決別で、新たな主題を見つけていかれる。

それでいて、露伴さんから習った植物のこと、木のこと、日常生活のことなどに自分の目を加えられて作品化していく。

60歳を過ぎてから、奈良斑鳩の法輪寺の三重塔再建への協力され一時は奈良に住まわれる。しかし、この経過については法輪寺の住職のかたが本にまとめられたので、文さんはその経過については書かれていない。そこに位置する人を尊重されてのことであろう。

72歳の時、大谷崩れを取材し、各地の崩壊する自然を訪ね、これが最後のライフワークとなる。このことは死後(没86歳の1年後)「崩れ」として発表される。

文さん好みの着物も展示され、文さんが選んだという自分の花嫁衣裳は黒地に白、濃さの違う赤、ねずみ色の松が描かれ、裏地は赤鹿の子で袖のふりからその赤が極細く表に見せているのが花嫁さんの愛らしさが覗いていて素敵であった。文さんの好きな縞柄は本の装丁にも使われている。露伴さんもおしゃれであったようで、石摺り(しのぶ摺り)の羽織があった。裏は雲に龍を配置してあった。(しのぶ摺りについたは司馬遼太郎 『白河・会津のみち』)

幸田文さんの文学領域について見やすく分類されていて、文さんの娘さん・青木玉さんの遺品の管理の良さのお陰でもある。映画「おとうと」の映画ポスターや脚本は、市川市文学ミュージアムからの提供であった。市川市文学ミュージアムでは「水木洋子展」(2013年10/26~2014年3/2)を開催している。同じ時期にお二人の仕事の展示が開催されていてとても嬉しいのである。「幸田文展」は、2013年10/5~12/8までである。着物が好きでよく着る友人が、幼い頃から田舎で木や草花に親しんでおり、近々屋久島に行くというので、「幸田文展」を見てから行ったほうが良いと伝えたら早速行ったようで、感謝とメールがきた。木とどんな対話をしてくるのであろうか。それを聞くのが楽しみである。