中山道 『奈良井宿』(3)

天井に龍の絵があるという<長泉寺>は、お茶壺道中で毎年茶壺が宿泊したというお寺さんでもありました。「公儀の茶壺が11、西の丸の茶壺が2」で元禄2年の記録には5月27日宿泊とあり、中山道、甲州街道をへて江戸に向かったようですが、東海道の岡崎にもありましたので、両街道をつかったのでしょうか。正確なことはわかりません。途中、勝山城(現 都留市)で茶壺蔵におさめられ富士の冷気で熟成させ夏越をしてから、江戸へ運ばれたとあり、凄いお茶様です。「お~い、お茶!」なんて気軽に言えません。

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説明文によりますと、3代将軍家光からはじまり、8代将軍吉宗のときは1000人の行列のときもあったとか。この道中のときは、田畑の仕事は禁止、子供の戸口の出入りや煮炊きの煙も禁止で家に閉じこもり、童謡「ずいずいずっころばし」がその様子を表しているのだそうです。このお茶壺道中の再現が6月の木曽漆器祭・奈良井宿場祭の最終日にあります。

龍の天井絵は本堂に入ったすぐ頭上に描かれていて、飛騨の匠・山口権之正さんの手によるものでかつては「鳴き龍」でしたが今は建物の老朽化で音が響かなくなりました。

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朝はまだ開館していなかった上問屋であった手塚家が「上問屋史料館」となっていて開館していました。手塚家は270年問屋と庄屋を兼務していて、奥に明治天皇が休憩された部屋があります。昔は釘を使いませんが、今とちがい釘は鍛冶屋さんが一本一本打ちあげていたので貴重でもあったのです。釘を使わないことによって、かえって工夫をこらし組み立てる技術ができあがったのですから何が技となるかわかりません。

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日帰り手形というのもありました。係りのかたが隣の贄川(にえかわ)宿に木曽福島関所の補助の関所があったからですと教えてくださいました。「外国からの旅行者が多いですね。」「昨年から急に増えました。」「問屋が残っているのはめずらしいですね。」「そうですね、本陣や脇本陣が問屋を兼ねていることもありますから。問屋だけというのはめずらしいのかも。」「なるほど。」「下問屋は今も宿屋として活躍しています。」

奈良井宿は飲食店はもちろんですが、民宿や宿として使われている古い建物もあります。保存と生活を考慮して、修理、修復をされています。そういえば民宿で助六ののれんをかけられているところがあり、三月の歌舞伎座を思い出し、目立つので笑ってしまいました。

奈良井義高の墓所がある<大宝寺>。ここには、首のないマリア地蔵と呼ばれる抱かれる嬰児が手にもつ蓮華の先が十字状になっている観音像があります。昭和7年(1932年)に地元のひとが藪の中に埋もれていたのを掘りおこしたのです。

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おやき屋さんで、みそクルミのおやきを食べ、<八幡宮>へ向かいます。その先に杉並木と二百地蔵があります。これが最後の目的地です。最後にして勘違いをしてしまいました。八幡宮は階段の上のほうにありますので、杉並木は進んできた道をまっすぐ行けばよいとおもったのです。ところが、日のあたらないところは雪が残っていて車のタイヤの跡を行きますがどうも違うようなのです。

よくわからないので八幡宮の下にもどり、一つ目の階段を上ると右に道がありその道でした。階段の途中にあったとは。進みますと短い杉並木がありその先に地蔵堂があって、聖観音、千手観音、如意輪観音などの観音像がならんでおられます。

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明治期の国道と鉄道の整備のさい奈良井宿周辺から集められたのだそうで、こいう残し方もあるのだと当時の人々の想いが伝わります。

八幡神社はさらに階段をのぼります。奈良井宿下町の氏神で、奈良井宿の丑寅の方角にあたり鬼門除けの守護神でもあったのです。小ぶりな社殿の対面には、芝居をしたという建物もありました。楽しみの少なかった頃、ここに集まってにぎやかに芝居を見物したのでしょう。

細い階段には雪が残っていましたのでラストですから慎重に下りました。そんなこんなで駅に着いてみると電車の時間まで25分を切っていましたので、ここでの昼食はあきらめました。

宿場町でこんなにゆっくり見学したのは関宿以来でしょうか。あの時は食事時間をとりましたから立ちっぱなしの奈良井宿ということになります。奈良井宿は中山道の宿場町69のどまんなか34番目の宿です。塩尻側の隣駅木曽平沢駅が漆器の町として銘うち、「木曽漆器館」もあるので奈良井駅間を川沿いの道にそって歩くのも良いかもしれません。約2.5キロです。

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奈良井宿の資料として読みやすく参考になったのは、『続 探訪・奈良井宿ー小学生達の自由研究ー』(楢川ブックレット13)です。「伝統的建造物群保存地区制度」などについても小学生と一緒に学べますし、奈良井宿の取り組み方もわかります。

『探訪・奈良井宿ー奈良井氏がいたー』(楢川ブックレット1)はきちんと史実をさぐり解らない部分も多いのですこし迷路ですが、戦国時代は自分たち一族の生きる道を模索するうえで主人に忠実なばかりでは生きられない混沌さが感じとれ、それが戦国時代なのだと考えさせられました。

畑作では生活のなりたたない地域の人々のことに触れることができるのが中山道の木曽路の歴史かもしれません。

友人が大きな手術をしますので、元気になったら誘ってあげたい場所のひとつとなりました。大丈夫です。食事の時間はとります。JR小海線甲斐小泉駅すぐの「平山郁夫シルクロード美術館」も富士山と八ヶ岳が見える場所で美術館もゆったりと鑑賞できたのでここも加えようかな。また一緒に遊べるようにいいところを探しておきます。

中山道 『奈良井宿』(2)

手焼きせんべい店が外国の旅行者に人気でした。高札場が当時の絵図にもとずいて復元されていました。その横に宮の水場があり<高札場><水場>の説明がありました。

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<水場>は、生活用水の確保、火災が発生した場合に連なる家々の延焼を防ぐための沢水や湧き水を利用して設けられ、旅人にとっては飲み水として利用されたわけです。六ケ所それぞれに水場組合を作り維持、管理されています。

奈良井宿は江戸側に<八幡宮>、京側に<鎮神社(しずめじんじゃ)>があります。<鎮神社>のすぐそばに<楢川歴史民俗資料館>があり、このあたりは楢川村でしたが、今は合併して塩尻市になっています。

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ここで、<鎮神社>のことがわかりました。「すくみ」という難病が流行したため下総の香取神宮から経津主命(ふつぬしのみこと)を勧請し祀ったところ病気がおさまったので<鎮神社>といわれているとのことです。この神社の祭礼の様子が紙人形で再現されていました。裃姿の若い衆のお囃子や屋台、神輿、奴などが勢揃いした行列が続きます。

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子供みこしが展示されていましたが、本神輿は漆塗りの町ですからきっと立派なのだとおもいます。8月11日12日の二日間だけの登場です。漆塗りの挟み箱(衣装箱)には鎮神社と香取神社の紋が左右に金で印されていました。

かつての生活用品も展示され、蚕もかっていたらしく、綿帽子が真綿であるのをしりました。今は結婚式の女性の白無垢のときかぶり、綿帽子とか角隠しと呼ばれていますが、防寒のためのかぶりものだったのです。日本髪を崩さず、軽くて暖かいですから昔の人の知恵です。

初めてみたのが藁(わら)でできた<まぶし>です。蚕が繭を作るときの個室で、蚕は繭を作るとき自分の領分の場所を確保するんですね。その習性にあわせて藁で上手く編んでいるのです。さらに竹などで亀甲模様に編んだ蚕を飼育する平籠の<カメノコ>。カメノコに網をかけ、その上に桑をやると蚕は網をくぐりぬけて上にあがってくるので、網ごと別のカメノコにうつしてフンや食べかすの掃除をするのです。蚕の成長に合わせて網の目の大きさが三種類あるんだそうで、桑の取り換えをどうするのかと思っていましたのでこれまた納得です。

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櫛を作るときの動力として水車を使っていた時期があり、その動力を増大するためにどういうふうに使っていたのかはわかりませんが水車ベルトというのを使ったらしく、それが象の皮でできていたというのにはおどろきました。櫛の木地つくりのため原木を切ったり、玉切りをしていたのです。

櫛をみがくために貝を使っていました。つまみ細工の花の色があせていましたが花櫛も飾ってありました。櫛ができるまでの過程が見たかったです。

資料館のかたにこの先の石畳までの道について尋ねましたら、おそらく雪が残っているだろうとのことで、ここまでとしました。そのかたの子ども時代の奈良井の様子もお聴きしました。水車が4つあったとのこと。そして自分用に蚕が繭を作るとき仕切りのあるものに入れ、繭を破ってガとして飛び立つところを観察したそうです。

伊勢湾台風のときには、<鎮神社>の大木が風で倒れ、社はその大木で倒壊し、その後修復し後ろの木がまだ細いと言われていましたので帰りに見るとその通りでした。

駅のかたも、雪が降ると時にはその雪で枝が折れて道に散らばり歩けないときもあるといわれていました。中山道の木曽路ならではの自然の厳しさです。この先の鳥居峠では、木曽氏と武田氏の戦いのあった場所でもあり、戦国時代には勢力争いがあったわけで、この地の領主奈良井氏についてはよくわかりませんのでパスです。

さてここから折り返して八幡宮まで、お店も開きはじめましたので塗り物やつげ櫛などを眺めさせてもらいつつ進みます。説明も聞きましたので建物の造りが来たときよりもよくわかります。

 

2017年4月2日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

中山道 『奈良井宿』(1)

3月27日、福島県白河市での<安珍念仏踊り>を見るための旅の計画をしていたのですが、雨の予報なので来年に延ばすことにして、中山道で<奈良井宿>が気になっていましたのでそちらに変更しました。

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JR中央線の奈良井駅から一キロほどの宿で、見学に3時間あれば大丈夫であろうと思っていましたら、結果的に5時間近くも滞在することになりました。それも昼食もとらずにです。いやはや本人が一番驚いています。

駅で簡単に観光について教えていただきました。一応中山道の一番の難所である<鳥居峠>についても聞きましたが、2日前の雪でさらに難所のようです。

まだ9時前ですから見える宿場の家並みには静かです。線路をくぐる地下道を進み、ふれあい広場にむかいます。地下道の横を流れている細い水路の音が響き、流れの勢いをかんじます。ふれあい広場から国道19号に向かって奈良井川を渡る新しい<木曽の大橋>が架かっています。階段上になった太鼓橋で、木曽檜でできた橋脚のないもので雪が残っていて左側の雪のないところをあがり川をながめ引き返しました。

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さてほとんど一人占めの奈良井の宿の家並みをゆっくり鑑賞します。重要伝統的建造物群保存地区で奈良井ならではの保存にかける取り組みの感じられる町並みです。二階が一階よりも少し前にせり出ている「出梁(だしばり)造り」で、一階の格子から二階にかけてその風情がよくわかります。

湧き水の<水場>があって、歩いていると幾つかに遭遇しますが、奈良井の表通りには六ヶ所あるんだそうで、後で案内図で数えたらありました。<横水><鍵の手><宮の沢>など名前がついています。

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最初の見学場所は<中村邸>で、くぐり戸を入ると外国の方たちの団体さんがすでに見終わって帰るところでした。電車の本数の少なさからこちらは早いのですが、もっと早いかたが外国のかたとは、どんなコースでまわられているのでしょうか。

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中村邸は塗り櫛の問屋さんだった住居で、建物の説明もあり見どころありです。「出梁造り」で奈良井の場合の特徴は二階と一階の間にもう一つ小さな屋根があるのです。その上に「猿頭」といわれる波形のような木が並べられています。何のためなのかはわからないそうで、今の商店の小さなアーケードを兼ねていたのではといわれていましたが、雪の降るところですからそういう役目もあり、飾りも兼ねていたようです。中の梁が壁を突き抜けて外にまで出ています。

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道路側の蔀(しとみ)が三段階になっていて、真ん中の障子をまず外し、上のしとみを上にあげて金具で止め、下のしとみを上に移動し外すと店開きとなるわけです。さらにしとみを支えている真ん中の柱も外すことができ、全開となります。説明だけですがよくわかります。そして、しとみも障子の予備があって、締めて明かりが欲しい時は障子の数を増やすのです。さらに、雨戸にあたるものは、中で重ねるかたちとなっています。

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その天井に四角のでっぱりがありました。それは、二階に炉を切ってあるのです。京都からの商談で訪れる人も多く、その人たちのために二階でお茶のもてなしをするためです。

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天保8年(1837年)の大火のあとに建てられたもので、間口が狭く奥行が長い建物です。住居の真ん中が炊事場になっていて吹き抜けです。寒いので両方に少しでも暖がいくようにとのことのようです。そのため二階が表二階と裏二階に別れています。

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表二階には炉がありました。道路に面した障子戸が開いていて、小屋根と「猿頭」を見ることが出来ます。

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裏二階には、塗り櫛の展示もされています。櫛の原木は「みねばり」の木で非常に硬く「斧折れ(オノオレ)」とも呼ばれていた木で、そのほか「ずみ」「さくら」も使われていました。土産物として江戸、京都、大阪と全国的に人気があり大繁盛したようです。

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旅のお土産としては、軽くて小さいですし、女性が喜ぶでしょうから、愛妻へ、あの娘へと相好をくずして男性たちも買っていたことでしょう。漆ぬりですので美しい光沢の櫛が並んでいました。それから、土蔵に保管されていたという花櫛の写真もありまして、薄い絹でつくった造花が櫛に飾られていて、つまみ細工の技術がなかったので東京に送って製造したのだそうです。

説明には、島崎藤村さんの詩「初恋」の<前にさしたる花櫛の>の解説も書かれていましたが、この花櫛をさしていたなら、高価なものと思われますので相手がどういう人か詮索できますが、詩人は結構事実を自分の情感にあわせて言葉を選び脚色しますので、その件は想像にまかせますが、この中村家はなかなか商才のあったかたとお見受けします。

蔵の中にも木櫛が展示されていましたが、「月型」「鎌倉型」「利休型」「京型」「おはつ型」「お婆さん型」など様々な形があったのです。

ところで大繁盛だったこの中村邸ですが、空き家となり、神奈川県川崎市の「日本民家園」に移築の話しが持ち上がったことがあるのです。その時、住民の保存意識が高まり、復元修理して資料館として残ったそうで、ここに残ってよかったです。やはりこの奈良井宿で見れるからこそ、見る者もいろいろ当時の様子が膨らみ想像が高まります。

東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」へは行ったことがありますが、川崎の「日本民家園」はまだでしたので今度訪れることにします。思わぬところで新たな刺激を伝授してもらいました。

2017年4月1日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

旧東海道 藤川宿~岡崎宿(~宮の渡し)

二川宿から吉田宿までは途中JR飯田線の小坂井駅までとし、そこから宮宿を通り<七里の渡し>までは名鉄名古屋本線、桑名側の<七里の渡し>から四日市宿までは、近鉄名古屋線の駅とぶつかるところで宿泊場所を探します。無い時はもどったり進んだりして宿泊場所を決め、それからどこまで歩けるかを検討し、何泊にするかを決め、さらに友人の仕事のシフトと合わせ、予定日1週間前に天候を確認して最後の検討。

今思い出しますと、進め進めの前進あるのみで、予定通り進むと達成感で脳は高満足度で、身体の高疲労度は飛んでおりました。この疲労度が結構たまりあとに残りましたが。

さてその中で、歌舞伎『伊賀越道中双六』に登場しました<藤川>と<岡崎>について書いておくことにしました。『伊賀越道中双六』に出てくるのが<三州藤川 新関の場><三州藤川 新関裏手竹藪の場><三州岡崎 山田幸兵衛住家の場>として出てくるのです。重ね合わせるのは無理な風景となってしまっています。

名鉄名古屋線の本宿駅を赤坂宿側に少しもどったところに、<法蔵寺>があります。家康さんの先祖の松平一族の墓のあるお寺で、家康さんも手習いに通いその手習いした紙をかけたといわれる松があります。驚いたことに近藤勇さんの首塚がありました。江戸板橋で処刑され京都にさらされた首を、同志が盗み、めぐりめぐってここに葬られたが、その後また盗まれ今は墓碑と胸像がありました。

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御朱印をもらう時お寺のかたが、かつては新撰組ファンが催しをしていたが、今は年齢的にそれもなくなったと言われていました。

本宿は<赤坂宿>と<藤川宿>の中間にあり、茶店など休憩としてにぎわったところです。一里塚の標柱があり名鉄名古屋線の線路にそって旧東海道は続きます。左手に急な石段があり上には<山中八幡>があります。三河一揆のとき家康さんが洞窟に隠れ見つかりそうになった時、ハトが飛び立ち助かったと伝わっています。

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東棒鼻(ひがしぼうばな)>の標識があり、<棒鼻>は宿場の出入り口のことで、解説案内には、1601年(慶長6年)に整備された<藤川宿>は小さく幕府の要求にこたえるために困窮したようです。補強するため他の村を移住させ加宿させたのですが、それでも小さな宿の部類に入ります。小さいながらも本陣、脇本陣、問屋場、高札場、鼻棒などの施設をつくりに頑張りました。

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脇本陣跡にたつのが無人の<藤川宿資料館>です。その近くに<むらさき麦>栽培地とあって、本当に美しい紫色の麦でした。芭蕉さんがこれを詠んでいます。「ここも三河むらさき麦のかきつばた」1994年(平成6年)に県の農業試験場が栽培に成功させ、その年は芭蕉さんの300年忌の年だったのです。「むらさき麦のかきつばた」。優しい美しさでした。はからずも5月の旅ゆえにまぼろしの<むらさき麦>を見ることができました。

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この資料館には、かつては<からむし細工>も藤川のおみやげ品で、今は福島県の昭和村しか生産されていませんが、からむし製品も展示されていてここでお目にかかるとはおもいませんでした。

西鼻棒><一里塚><吉良道標>を右に進みますと、<藤川の松並木>が続きます。1キロメートルに90本のクロマツが並び、夜には足下を照らす灯りが設置され、夜になるとほのぼのとした明るさが出現するようです。松並木の灯りとは風情があります。<藤川宿>から、<岡崎宿>は6.6キロと近いです。

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進むと<岡崎源氏蛍発生地碑>がありました。ここは、大岡越前守の領地でもあり、<西大平藩陣屋>の解説板があり、大岡忠相は旗本でしたが、吉宗の口添えもあり1万石の譜代大名になり西大平に陣屋がおかれます。

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しかし藩主だったのは3年だけで亡くなってしまいます。大岡家は江戸に常駐する定府大名で参勤交代がありませんでした。そのため、ここの詰めている家臣は多い時で12、3人です。

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さらに<大岡稲荷神社>がありました。大岡越前さん、豊川稲荷の本尊「吒枳尼眞天(だきにしんてん)」を信仰していて、江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、西大平陣屋内のも大岡稲荷を建立していたのだそうで、2002年(平成14年)に再築されたものです。検索しましたら赤坂稲荷は豊川稲荷東京別院でその由来を引き継いでおられるようです。

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大きなエノキの<大平一里塚>があります。岡崎は、家康さん生誕の地で、浜松城に移るまえに本拠地としていていました。ここには外敵からの防衛のために東海道を<二十七曲り>させたのですが、これは家康さんではなく、岡崎城主の田中吉政さんが造りあげたのです。

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冠木門と<二十七曲りの碑>がありまして、金のわらじの案内柱があります。しかし、地図がほしいです。複合公共施設が目にとまりそこで地図を手に入れました。「岡崎開運の旅シリーズ まち歩きマップ」これが(二十)までありまして<二十七曲り>マップは(四)でした。金のわらじは㋑㋺㋩で続き㋹で愛知環状鉄道の中岡崎駅と名鉄名古屋本線の岡崎公園駅のそばとなります。一応そこで岡崎宿の終わりとします。二十七曲りはまだ続くのですが、なくなっていたりもしますので、そのあとは数えませんでした。

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ここまでで十七の曲りを曲がったことになります。慌ただしかったです。曲りを確認しつつ、三つの本陣跡を確認、<お茶壺道中>の茶壺の石碑があり、宇治茶を将軍家に献上するために始まった道中で、将軍の権威を示すため、100人の人足をだす定めがあり、お茶壺奉行をはじめ100人以上の行列をもてなすときもありこれまた負担が大きかったとのこと。

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大正時代の建物の<岡崎信用金庫史料館>、<田中吉政像>、籠田公園を通って連尺通り、どんどん曲って岡崎城を遠く半周する感じで㋹に到着です。

旧東海道を歩いていると、時間的にお城には行けないのです。お城巡りをするためには、別の計画を立てねばなりません。

岡崎はその他、家康さんの正室、築山御前の首塚がある<八柱神社>、信長の命により自刃した家康さんの嫡男信康さんが祀られている<若宮八幡宮>などもあり、幾つもの厳しい曲り角を歩まれた家康さんの人生が詰まった地でもあったのです。

岡崎城から八丁離れていた八帖町。

江戸時代、東海道で一番長かった木橋。ここを渡って知立(ちりゅう)へ。

追記: 知立宿鳴海宮宿までの写真を載せておきます。「有松鳴海絞会館」見学に時間をかけました。

尾崎一里塚跡の石碑

永安寺の雲流の松

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来迎寺一里塚(左右一対)

池鯉鮒宿の石碑

伊勢物語のマンホール (からころも きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ)

知立古城址

弘法大師御自作知立不動尊

阿野一里塚 (国の史蹟指定)

市雪歌碑 (春風や 坂をのぼりに 馬の鈴)

有松一里塚石碑

笠寺一里塚

熊野三社

熱田神宮と旧東海道

裁断橋址

都都逸発祥の地記念碑

姥堂と裁断橋の解説案内

加藤図書助館跡 (家康が竹千代時代に預かる)

伝馬町(かつての熱田神宮の門前町)

宮の宿赤本陣跡

熱田魚市場跡

熱田荘解説案内

宮の渡し公園七里の渡し場跡

旧東海道の鈴鹿峠越え 番外編の旅(2)

翌日は伊賀上野へ。伊賀鉄道の上野市駅前には、もちろん生誕地である芭蕉さんの銅像もありますが、『銀河鉄道999』のメーテルと鉄郎の像もあります。漫画家の松本零士さんが、「忍者列車」のデザインをしたからだそうで、電車には、メーテルの眼の部分が描かれています。今回友人にいわれて列車の全面の<メーテルの目>に気がつきました。乗り換えに気をとられていて、前回訪れた時は見ていませんでした。

友人は、メーテルのモデルは、松本零士さんの奥さんの漫画家の牧美也子さんであると言っていましたが、どうもシーボルトさんの孫娘の高子さんという説のほうが強いようです。どちらにせよ、切れ長の目の女性がお好きなのでしょう。

旧東海道を離れても、シーボルトさんの名前がでてきたり、そもそも芭蕉さんが関係していますからついてまわります。旧東海道では、芭蕉さんのお弟子のかたも旅の途中で亡くなりその土地のお寺に埋葬されたり、病気になったお弟子が先に進めないからと一人残り、養生してその土地に住み着いて俳句を広めたという方などの案内板もありました。旅の空の出来事です。

家康さんなどは、逃げたとか、かくまわれて助かったという箇所が何か所かあり、運がよいのか、助けたくなるような人物だったのか、その後の大御所である徳川家康さんからは、推し量れないようなところもあります。

今回は伊賀上野城の中を見学できる時間がありました。足が冷え切りましたが。藤堂高虎公の兜には驚きです。秀吉さんから賜った兜で、大きな扇風機の羽根のようなものが左右に伸びていて真っ黒で<唐冠形兜(とうかんなりかぶと)>とありました。安定感が悪そうで、戦いのための兜とは思えません。高虎さんの絵にもこの兜は脇に置かれて描かれていました。その後、この兜は高虎さんが自分の家臣にあたえてしまいます。ところが、この家臣が真面目な忠臣でかぶって戦さに出て、この兜のために命をおとすのです。罪つくりな兜です。それよりも秀吉さんが罪つくりなのか。いや高虎さんか。

<伊賀流忍者博物館>は説明を一度聞いていながら忘れていました。そして説明者が変わると、とらえどころも違ってくるものだとおもいました。忍者は情報を集めるのが仕事ですから、人を殺めるのではなく、見つかれば敵から身を隠し逃げて情報を守るわけです。家のカラクリもそのためにあります。普通カラクリは二箇所程度ですが、博物館の忍者屋敷は、それを一箇所に集めたものです。

回転する壁も、襲ってくるのが武士ですから、左手で回転するようになっています。武士は左手で刀を押さえていますから、右手で壁を押そうとする。その一瞬の時間差を使うわけです。人の習慣などの習性をよくとらえて、逃げる時間をつくり敏速に行動するわけです。上野天神宮で御朱印も頂けて無事伊賀上野の旅もおわりました。

鈴鹿峠越えの前の番外編の旅は、名古屋のひつまぶしです。その後をどうしようかと検討したのですが、欲を出さないように、御朱印も頂けるので<大須観音>にしました。旧東海道を歩きのうちは、御朱印のために時間調整はしませんので、そこからはずれたときは、組み込めれば調整しました。

大須観音の商店街が若返っていました。若い子向きのお店ができていて、若い人たちだらけです。二年前には閉館の話も出ていた「大須演芸場」も健在でした。コロッケさんも来られるようでポスターが貼ってありました。

そういえば、名古屋のさびれた地下街に若い人が飲食店を開き、活気が出始めたという様子をテレビでやっていました。

旧東海道で、シャッター街や、住んでいないため傷んだ家だけが残っていたりする風景も見てきましたので、若い感覚で人が集まってくるのを見れるのは明るい気分にされます。大須は寺町でもあるので、散策のあとのカフェも愉しめます。

浅草演芸ホールも随分ご無沙汰しています。友人が三遊亭白鳥さんの『任侠流山動物園』がもう一度ききたいといい内容を話してくれましたが、落語家さんの特定の噺をきく機会をつかまえるのはなかなか難しいのです。

 

旧東海道の鈴鹿峠越え 番外編の旅(1)

順調にいき関宿に早く到着したらと考えていた行きたい場所。もうこれで基本線にそれて勝手に行動できるとばかり、私のお気に入りの<油日神社>に行くことを友人に提案しました。

JR草津線の油日駅から歩いて30分弱のところにある神社で、ツアーで2度行き、いつか駅から歩いて行きたいと思っていたのです。神社に電話でお聴きすると、5時までなら御朱印も頂けるということで、油日駅に着いたら電話くださいとのことでした。関駅に着くと電車の出発時間まで30分あります。隣の道の駅に飛び込み遅い昼食をとり油日に向かいました。JR関西本線の柘植(つげ)から草津線に乗り換えです。

油日駅で駅のかたに神社までの道を教えてもらいました。踏切を渡ると立派な大きな赤い鳥居があります。長閑な田舎道をてくてくとあるきます。道なりにと言われたのですが途中で再度地元の方に尋ね、道に大きめの灯籠が並んでいるのがみえました。その先に油日神社があります。平地にあるシンプルな神社で、これぞという自己主張があるわけでなく、いつ行っても変わらぬ安心感で包んでくれる神社なのです。

楼門から回廊で囲まれていて、拝殿があって、その先に本殿があって、調和があり、重厚でありながら圧迫感がなく、それぞれの檜皮葺の屋根の反り具合にほど良いリズミカルさがあり、木造の建物の時間経過がじーんと伝わってきます。甲賀の総社で油の祖神だそうですが、土地になじんでいるその建物の作り出す空気に恋しているのです。

友人も気持ちよく御朱印を頂けて気に入ったようです。御朱印を頂くとき嫌な気分にさせられることもあるらしいのです。神社の前には神様用の水田がありました。

「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる」 そんな気分の風景です。でも、今の子どもたちは何が起こるかわからないので、早く帰っていらっしゃいといわれ、子供たちだけでこんな風景は見れないのかもしれません。

駅について電車の時間を見たら30分以上あります。すると駅の方が<柘植>行きの時刻表はこっちですよと教えてくれて見ると5分後です。お礼を言って疑問に思ったことをお聞きしました。ここの駅のかたは私服なのです。油日駅は無人駅で「油日駅を守る会」の方々が駅の業務をされているのです。新しいレンタルの自転車が並んでいました。

ホームに出て掲示を見つけました。

レンタルサイクル(有料)「モデル観光スポットコース」(走行距離:11.1km 移動時間:約1時間」

①油日神社➡②櫟野寺➡③滝川城跡➡④大鳥神社➡⑤鹿深夢の森➡⑥くすり学習館➡①油日神社

出ました。<櫟野寺>。これで甲賀三大佛の道筋ができ、またまた油日神社も加わります。この企画は「油日駅を守る会」の方々で、地元ならではです。有難うございます。

柘植駅から油日駅までの間におせっかいもしてきました。車内放送の声小さく途切れて聴きずらいので、車中を通った車掌さんにつげました。マイクが違い調整していたようで、次の放送は聞きやすくなりました。油日駅で降りた時、大きなマルの合図をしました。

 

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(坂下宿~関宿)

家康や家光も休息したという<金蔵院(こんぞういん)跡>は石垣だけが残り、<法安寺の庫裏(くり)玄関>は、坂下宿本陣の一つであった松屋の遺構を門の一部に再利用したものと書かれていましたが見ていません。

宿のおもかげはほとんどなく、<小竹屋脇本陣跡><梅屋本陣跡><大竹屋本陣跡><松屋本陣跡>と軒並み石碑のみで、本陣が三つもあり大きな宿場であったのがわかりますが、そのおもかげはほとんどなくてつーっと通過してしまいました。

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鈴鹿馬子唄会館>で坂下宿の概略を知ったのです。<坂下宿>は江戸から48番目の宿場で、鈴鹿峠の下にあることからこの名前がつき、旅籠の数は48あり、亀山が21、関が42ですから、それよりも多く、旅籠の割合は箱根に次ぐ高いものだったのです。大竹屋本陣の平面図面がありましたが一目で大きいとわかります。しかし今はかつての旅籠宿は夢の跡という静けさです。

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ここを歩いた人々の数は数えきれないほどだったでしょう。様々な人々の中にオランダ商館医師のシーボルトさんもいました。彼は江戸へ向かう途中でこの坂下で「オオサンショウウオ」を捕獲してオランダへ持ち帰り、今もオランダのライデン博物館に標本として残されているのだそうです。ここに「オオサンショウウオ」が生息していると知っていたのか、たまたま見つけたのでしょうかね。「オオサンショウウオ」も、見慣れない人だなあと姿を現したのか。

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井伏鱒二さんの『山椒魚』を思い出してしまいました。「君は何やってんだい。おいらなんかオランダまできてしまったよ!」「さらし魚になったのか~~」「・・・・」

シーボルトさんに関しては朝井まかてさんの小説『先生のお庭番』がシーボルト事件まで触れていて参考になりました。

東海道で芭蕉さんの次に歌を紹介されているのが西行さんですが、ここでの西行さんの歌です。「鈴鹿山 憂世をよそにふりすてて いかになり行く わが身なるらん」

では芭蕉さんも。「ほっしんの 初の越ゆる 鈴鹿山」。この時の自分の気持ちは芭蕉さんに近いです。反対方向からくると、西行さんの気持ちに近いかもしれません。憂世をすてるまではいきませんが、さあこれから上手く峠を越えられるであろうかと。

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町家が残っている沓掛の少ない家並みを通ります。<筆捨山>は絵師があまりの素晴らし山の景観に筆を捨てたといわれる山ですが、どれがその山なのか見える木々の山がそうであろうとしておきました。亀山市民文化部で出している案内図には、筆を捨てた絵師として狩野元信さんの名前がありました。鈴鹿峠を越え、坂下宿も過ぎ、思っていたよりも早く<関宿>の西追分の公園に到着です。

江戸側からこの公園に着いた時、ご夫婦が丁度鈴鹿方面から到着しまして、どうでしたかとご婦人に尋ねたんです。「そんなに大変じゃありません。」水口から土山までタクシーを使い、そこから歩かれたらしいのです。

ご主人のほうは、休憩所の東屋で座っていたのが、お疲れか横になってしまいました。ご主人のほうは、旧東海道歩きの途中から参加され、奥さんのほうは、中山道も歩いたということですから、歩きに関しては、奥さんのほうが上のようです。これから亀山宿まで行くとのことでした。

私たちの足は、ご主人と奥さんの間くらいの力と解釈しました。健脚の友人は、関宿から水口まで歩いています。私たちには無理。ここは途中の交通機関がないので自分たちの体力から、多少調子が悪くても一日かけてこれくらいとゆとりをもたせました。ただここはタクシーは呼べるでしょう。箱根は交通の便はいいですが、一部は車の入れない場所を歩きますから、鈴鹿峠との違いはその辺でしょうか。

私たちは、旧東海道の道を歩くというのが基本でしたが、ほかの友人は、開発されて面白くなさそうな道は電車にして、美味しい飲食店に出くわすと、次の出発には、そのお店を再度訪るという計画にしたりして変化させており、それぞれの楽しみ方をしています。

テレビでも「鉄道でたどる 東海道五十三次」という番組ををやっていまして、そこで、ひつまぶしを食べていて、それを見て友人は食べたくなったわけです。わたしは、<どまんなか袋井>の「たまごふわふわ」が食べたかったです。土鍋にだし汁を入れ、餅を入れて、メレンゲにした卵をふんわりとかけ火にかけるのです。作れますが、旅の途中で出くわすというのが楽しいです。特に寒いときには。江戸時代にこの「たまごふわふわ」があったというのですからおどろきです。

テレビ番組では、宿泊と食事が豪華で、次の日の私たちならゴマノハイにあった状態でしょう。番組とは反対に、三条大橋から八坂神社に向かったのですが、かき氷が食べたくて表示をみると高いのです。庶民の食べ物がなんでこんなに高いの。1000円以上のかき氷なんて食べないよ。八坂神社のそばにありました。抹茶かき氷。白玉とあずきも添えられて。みうらじゅんさんといとうせいこうさんの東京と京都のかき氷談義がふっと頭をかすめましたが、口と喉の触覚優先でした。夏になあ~ると思い出す~

悟りの薄い者は、憂世に即もどります。基本形から解放され番外編の旅のつづきとなりました。

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(田村神社~坂下宿)

旧東海道歩きの<鈴鹿峠越え>ができて、一応旧東海道を歩いたことになります。

関宿から土山宿までの間に鈴鹿峠があります。すでに土山宿手前の田村神社前から土山宿、水口宿へと歩いているので、関宿から坂下宿、そこから鈴鹿峠を越え田村神社までとなるのですが、色々検討し、田村神社から関宿に向かう逆コースにしました。これが良かったのかどうかは反省点も残ります。旧東海道は日本橋(東京)から三条大橋(京都)に向かう方向性で表示してあり、その通りに歩くと何の問題もない道が反対方向からくると表示がなくて混乱するのです。戸塚の権太坂もそうでした。

鈴鹿まで行くなら友人を伊賀上野まで連れて行きたいのと、名古屋でひつまぶしが食べれなかったのが残念とのことでしたので、先に名古屋に寄りました。

鈴鹿峠越えは草津線の貴生川駅からバスで田村神社で下車そこから一日かけて三重の関宿に向かう計画としたのです。全てクリアできましたので、結果的には良しということになりました。

田村神社>前の国道一号線に近い鳥居を潜ると旧東海道があります。そこから出発です。歩き終わった友人からも判りやすい道で、ただ長いと言われていたのでそのつもりで歩きはじめます。

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広重さんの絵「土山 春の雨」の田村川に掛る橋を渡り大きな工場の間を通ります。このあたりは、<蟹坂古戦場跡>で伊勢の北畠具教が甲賀に侵入しようとしますが、山中城主・山中丹後守秀国がこれを阻止したとのことです。私のわかる歴史範ちゅうにはないことがらです。

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蟹が坂>があり、かつてここに罪を犯す大きな蟹が住んでいて祈り伏せられたという話しがあります。その蟹の甲羅を模した飴が田村神社前の<土山の道の駅>でも売っていました。

猪鼻村>の標識があり「土山宿」と「坂下宿」の間の立場(休憩所)があった場所で、赤穂浪士の大高源吾が旅の途中で詠んだ「いの花や早稲のもまるゝやまおろし」の句碑もありました。東海道はやはり赤穂浪士が時々痕跡を残し登場します。

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そしてここにと思ったのが<檪野観音道(大原道)>の表示板です。旧東海道から檪野寺への参詣道があったのです。さらに関宿に着いた後に、もう一度檪野寺への道を知ることになるのです。<鈴鹿馬子唄之碑><山中一里塚

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十楽寺>は今回の楽しむのひとつでした。このお寺の阿弥陀如来坐像が、甲賀三大佛の一つなのです。大池寺の釈迦如来坐像、檪野寺の薬師如来坐像、十楽寺の阿弥陀如来坐像。檪野寺の薬師如来坐像は、昨年の11月に東京国立博物館で拝観しています。三大佛の一つが現地で拝観でき、友人も簡単には行けないお寺で御朱印が頂けるとよろこんでいたのですが、その日は宗教上の集まりがあり留守との張り紙でした。残念。

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しかし、この時間差で助けてもらえたのです。大きな灯籠の<万人講大石灯籠>に着き屋根のある休憩場でほっとしたとたん雨となり、驚いたことにそれが雹(ひょう)になったのです。やはり<鈴鹿峠>、何が起こるかわからないと思いました。少し様子をみて時間がとられるようなら雨具で歩くしかないかなと覚悟しました。風で雹が吹き込み休憩の椅子もどんどん濡れていきます。

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準備していますと、次第に小ぶりになっていくようです。大事にならず大丈夫でした。十楽寺で時間をとっていたら途中で濡れることになったでしょう。十楽寺の阿弥陀如来様がお会いできなかったかわりに濡らせませんでしたよと言われたようでした。

さらにこの先で、雪がちらつき、前方の山のほうは吹雪いているように白くかすんでいましたが、それはこちらまではきませんでした。鈴鹿馬子唄の「坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」の鈴鹿峠の急な天候の変化を身をもって体験しました。

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さてこれから鈴鹿峠越えとなるのですがこちらからは下りとなるので気分てきには楽です。ところが、降りたところで前の一号線を渡ったところに旧東海道があるはずなのですが覗いても道がないのです。おかしい。もしかして途中で違う道があったのかともどることにしました。<鏡岩>を天候不順なのでそこへの道は通り過ぎたのですが、ここまでもどったのならとそこへも寄ることにしました。<田村神社旧跡>とあり田村神社はかつてはこの峠にあったのです。

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<鏡岩>というのは、断層が生じる際に強力な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のようになるのだそうで、山賊がこの岩を磨いてそこに映った旅人をおそったという伝説の岩です。そういう伝説がのこるほど山賊がいたということでしょう。

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脇道もないのでまた<馬の水飲み場><芭蕉の句碑>を通り降りました。すると柵のようなものが眼につきました。下る階段があります。ここでもぐって国道1号線を渡るのです。

浅はかなおばちゃんもいるのですから、ちょっと表示しておいてくださいな。不思議なくらいそれが眼に入らず国道をふらふらしてしまいました。その下り階段を通り抜けた入口には東海道と表示があり、反対側から来れば難なく道なりに進めるようになっていました。

そしてもう一回やってしまったのが、無事<片山神社>に着き喜んで上まで上がりお詣りしてここでまた道を間違えまして国道へでてしまいもどることとなりました。そこも反対側からくればわかるように表示されていました。表示に頼って来ていた甘さでしょうか。

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そこからは、順調でした。<岩屋観音>と葛飾北斎さんの「諸国滝めぐり」にも描かれたという清滝は工事中なのかロープが張られていて行けそうもありません。そして坂下宿へと入ったのです。

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参考とした案内図

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(坂下宿~関宿) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

奈良十一面観音巡り(3)

法輪寺』 ここの三重塔は昭和19年(1944年)に落雷で焼失してしまい再興にさいしては、作家の幸田文さんも尽力された塔で、昭和50年(1975年)に完成したのです。幸田文さんは69歳のとき、一年ほど斑鳩に転居されてもいました。<斑鳩・いかるが>響きがいいです。

『法隆寺』『法輪寺』『法起寺』の塔は、斑鳩三塔といわれてきたのですが、30年近く二塔でした。今は不在であったのが忘れられたように再び斑鳩三塔としてとけこんでいます。

風のある日には、塔に下げられた風鐸(ふうたく)の音ををきくことができるそうで、風もなく穏やかな日でよかったと思っていましたが、それをしると風のないのが残念と勝手なものです。

十一面観音菩薩立像は、講堂に他の仏像とともにおられて、切れ長な目ははっきり開かれていて、上唇の二つの山がしっかりとわかる厚さでエキゾチックなお顔をされています。観音さまに意志などはないでしょうが、意志疎通ができそうな感じです。飛鳥時代の虚空蔵菩薩と薬師如来は、細身の飛鳥とふくよかな平安の仏像が並ばれると国の違う異国人みたいなところがあります。

大安寺』 東大寺、西大寺と並んで南大寺といわれたこともあったお寺で、南都七大寺の一つとあります。

南都七大寺 『東大寺』『大安寺』『西大寺』『興福寺』『法隆寺』『薬師寺』『元興寺』

今回『大安寺』『西大寺』を訪れて、この南都七大寺グループも制覇です。『大安寺』の特別拝観がなければ先伸ばしにしていたわけで、記憶に残るお寺さんとなります。

本堂にある十一面観音菩薩立像は、受付の人にずーっとおそば近くまで行って拝観するようにといわれ、御簾が開いているそば近くにいって座って下から見上げるようにして拝観するかたちです。お顔は穏やかですべすべとされていますが、首から下は時代の風をうけられたような木肌がみられます。そしてそれがまた体を張って守りますから安心なさいと言われているような優しさがあります。癌封じの仏様としても、信仰されていて、1月23日の癌封じのご祈祷のあと青竹の御猪口に笹酒がふるまわれるそうです。讃仰殿(さんぎょうでん・宝物殿)に七体の奈良時代の仏像が安置されていて、ボタンを押すと案内が流れ静かにゆっくりと拝観できます。

このお寺さんで、竹と銀杏と紅葉の小さな空間の秋を楽しむことが出来ました。

門を出ると、150メートル先に遺跡ありとの案内板があったので進んでいきますと、そこには七重塔が東と西にあったとされるところに盛り土してあり、『大安寺』がいかに広かったかが想像できました。

西大寺』 こちらは近鉄が通り、まわりは住宅街ですから、『大安寺』のように掘り返して位置を確認することができませんが、奈良の都の平城京には大きな敷地をもった大寺院があり、そこで学僧が勉学に励み、今でいう大学のような学問所が沢山あったのだということがわかりました。

今の感覚ですとお寺、宗教、信仰、仏像といった感覚ですが、遣唐使などが色々な仏典と同時に医術、薬学、建築学などの知識をも運んで来ていたわけで、さらにそれを教え研究していたと思われます。

「四王堂」「本堂」「愛染堂」「聚宝館」に寺宝がありますが、「聚宝館」は期間限定で期間外で観れませんでした。十一面観音菩薩立像は「四天堂」の中にあり、長谷寺式で大きな立ち姿です。もともとは京都の法勝寺にあったのですが破損してしまい、西大寺の名僧叡尊(えいそん)によって修復され「四天堂」におさめられました。西大寺は最初に作られたのが四天王というのが特徴で、今は十一面観音さまが「四天堂」のご本尊です。

近くに幼稚園があり、ちょうど園児の帰る時間で、外から観音さまに手をあわせて帰る園児がいるかとおもえば、棒切れを振り回し注意される園児もいたりして、かすかにお目を開かれた観音さまは平等にじーっと見守られているのです。

「本堂」のご本尊は釈迦如来立像で、京都の清凉寺の釈迦如来像を仏師善慶を中心にして模刻したものです。そして、いとうせいこうさんが一瞬にして恋してしまった文殊菩薩さまがあり、その侍者の善財童子は灰谷健次郎さんの『兎の目』にでてきます。

「愛染堂」には秘仏愛染明王座像があり、特別公開時ではないのでお前立てで我慢です。(公開日 1/15~2/4、10/25~11/15)仏師善円作で、名僧叡尊の座像は善春によって作られ、この像は今年国宝になったようです。善派の仏師は西大寺専属のような感じもあります。

秘仏愛染明王座像は歌舞伎とも関係がありました。

宝暦4年に愛染明王座像が江戸の回向院に出開帳されたとき、二代目團十郎さんがこの愛染明王の顔から隈取を考え『矢の根』の五郎を中村座で演じ大当たりしました。中村座では大当たりしたのでお礼に、鳥居清信に矢の根の五郎を描かせた絵馬を奉納し、その絵馬がお寺の現存しています。公開はされていません。そうしたご縁からでしょう、2013年10月31日と11月1日に海老蔵さんが奉納特別舞踊で『保名』と『お祭り』を踊られている雑誌の記事がありました。

愛染明王像は34センチと小さいですが、憤怒は激しいです。今回坐している蓮台の下にペルシアの壺のようなものがあり、お寺の方が、アラジンの魔法のランプのようなものですといわれた。いいですね。魔法のランプの上におられる愛染明王さま。

お顔が一番よく写されているのが、JR東海の<うましうるわし奈良>のポスターの愛染明王だそうで、ポスターも張ってありました。キャッチコピーがこれまた可笑しい。 「怒ったような顔して 愛だなんて」

歌舞伎座に隈取の絵葉書を売っていてその中に「矢の根」もあります。どう工夫したかの参考になります。「矢の根」と「暫」の隈取も似ていました。

そしてなんと、京都駅の八条口で、フードをかぶりサングラスにマスクの御仁とすれ違いました。何者と一瞬思いました。人はすぐには止れないモードです。そしてはたと気がつきまして振り返ったところ、そのかたフードをとられて車の中へ。海老蔵さんでした。時間とは不思議なものです。人それぞれの時間のなかで、人と人はすれ違っているのですね。

あおによし 奈良の都は咲く花の におうがごとく 今 さかりなり

 

奈良十一面観音巡り(2)

奈良十一面観音巡り(1)のほうで、興福寺・南円堂の中の無著・世親菩薩立像のことを書きましたが、そう言えば東京国立博物館に<運慶>と書かれたチラシがあったなと思って取り出してみました。出ました!なんと無著菩薩立像のお顔の写真。『2017年秋、天才仏師の傑作が東京に集結 運慶 』 来年の9月26日から11月26日ですのでずーっと先ですが、弟の世親菩薩立像も来られるでしょう。どんな並べかたをされるのかも興味があります。

『八十八面観音巡礼』は八体の十一面観音像を訪ねる旅です。

西大寺』『法華寺』『海龍王寺』『大安寺』『法輪寺』『聖林寺』『長谷寺』『室生寺』の十一面観音菩薩像です。

訪れていないのが『西大寺』『大安寺』『法輪寺』です。『大安寺』の十一面観音像が10月1日から11月30日のみ御簾が上がるということですので、この機会を逃したら来年までは御簾ごしにしか拝観できないので行くことにしたのです。

ツアー参加者のかたで、『聖林寺』『長谷寺』『室生寺』のツアーで十一面観音が気に入ってしまったと言われていましたが、その気持ちわかります。『聖林寺』は、桜井駅からバスの便が少なく観光案内のひとが丁寧に地図をかいてくれて歩きました。お会いしたかったから歩くのもなんのそのでした。その帰りに『安倍文殊院』にまわり、善財童子像に出会い、それから何年かして東京国立博物館の『国宝展』で再会できたのです。

西大寺』『大安寺』『法輪寺』をどう回るか。『西大寺』は近鉄大和西大寺駅から近く、『大安寺』は奈良駅からのバスの本数も多く問題はありません。『法輪寺』は法隆寺駅から歩いて30分。雨なら王寺駅からバスで中宮寺バス停へ、そこから歩いて15分。法隆寺駅からレンタルサイクルもあるようです。

晴れ。決まりです。

京都から奈良の法隆寺駅 (レンタルサイクル) ⇒ 法輪寺 ⇒ 法起寺 ⇒ 法隆寺駅(電車)⇒ 奈良駅(バス)⇒ 大安寺(バス)⇒ 近鉄奈良駅(電車)⇒ 近鉄大和西大寺駅(徒歩)⇒ 西大寺 (近鉄で京都へ)

昼食も入れてのほどよい計画の一日コースでした。『法起寺』にも十一面観音像があり、どういう基準で『八十八面観音巡礼』が決められているのかはわかりません。尋ねるのも忘れていました。飛鳥以来の奈良の自転車で、そうだ自転車もあるのだと再認識したのです。ただ、乗り捨て可と不可とがありますので、調べてからのほうがいいようです。法隆寺駅前のレンタル屋さんはもどってくることが条件です。

法起寺』は聖徳太子が建立された七つのお寺の一つでした。(『橘寺』『法隆寺』『中宮寺』『広隆寺』『四天王寺』『法起寺』『葛木寺』)

『葛木寺』は廃寺でありませんので、『法起寺』にきて現存する六寺を訪ねられたこととなり、別の一つのグループを完結という感じです。

ここの三重塔は日本最古で国宝であり、世界遺産に登録されています。十一面観音菩薩立像は本尊ですが、収蔵庫に安置され扉からガラス越しの拝観でしたがお顔も全体的にもふくよかな観音菩薩さまでした。

小さな池ごしから眺める三重塔は国宝であろうとなかろうとここにただ存在しているのですと奈良の斑鳩(いかるが)の静けさを際立たせていました。

一つ失敗あり。こういう田園風景の時は、三重塔を観る位置を考慮すべきでした。少し離れてあぜ道あたりから眺めることをしなかったことです。せっかくさえぎるものがないのですから。自転車で時間短縮をしながら、歩いた時の感覚を失していました。