中山道 『奈良井宿』(2)

手焼きせんべい店が外国の旅行者に人気でした。高札場が当時の絵図にもとずいて復元されていました。その横に宮の水場があり<高札場><水場>の説明がありました。

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<水場>は、生活用水の確保、火災が発生した場合に連なる家々の延焼を防ぐための沢水や湧き水を利用して設けられ、旅人にとっては飲み水として利用されたわけです。六ケ所それぞれに水場組合を作り維持、管理されています。

奈良井宿は江戸側に<八幡宮>、京側に<鎮神社(しずめじんじゃ)>があります。<鎮神社>のすぐそばに<楢川歴史民俗資料館>があり、このあたりは楢川村でしたが、今は合併して塩尻市になっています。

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ここで、<鎮神社>のことがわかりました。「すくみ」という難病が流行したため下総の香取神宮から経津主命(ふつぬしのみこと)を勧請し祀ったところ病気がおさまったので<鎮神社>といわれているとのことです。この神社の祭礼の様子が紙人形で再現されていました。裃姿の若い衆のお囃子や屋台、神輿、奴などが勢揃いした行列が続きます。

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子供みこしが展示されていましたが、本神輿は漆塗りの町ですからきっと立派なのだとおもいます。8月11日12日の二日間だけの登場です。漆塗りの挟み箱(衣装箱)には鎮神社と香取神社の紋が左右に金で印されていました。

かつての生活用品も展示され、蚕もかっていたらしく、綿帽子が真綿であるのをしりました。今は結婚式の女性の白無垢のときかぶり、綿帽子とか角隠しと呼ばれていますが、防寒のためのかぶりものだったのです。日本髪を崩さず、軽くて暖かいですから昔の人の知恵です。

初めてみたのが藁(わら)でできた<まぶし>です。蚕が繭を作るときの個室で、蚕は繭を作るとき自分の領分の場所を確保するんですね。その習性にあわせて藁で上手く編んでいるのです。さらに竹などで亀甲模様に編んだ蚕を飼育する平籠の<カメノコ>。カメノコに網をかけ、その上に桑をやると蚕は網をくぐりぬけて上にあがってくるので、網ごと別のカメノコにうつしてフンや食べかすの掃除をするのです。蚕の成長に合わせて網の目の大きさが三種類あるんだそうで、桑の取り換えをどうするのかと思っていましたのでこれまた納得です。

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櫛を作るときの動力として水車を使っていた時期があり、その動力を増大するためにどういうふうに使っていたのかはわかりませんが水車ベルトというのを使ったらしく、それが象の皮でできていたというのにはおどろきました。櫛の木地つくりのため原木を切ったり、玉切りをしていたのです。

櫛をみがくために貝を使っていました。つまみ細工の花の色があせていましたが花櫛も飾ってありました。櫛ができるまでの過程が見たかったです。

資料館のかたにこの先の石畳までの道について尋ねましたら、おそらく雪が残っているだろうとのことで、ここまでとしました。そのかたの子ども時代の奈良井の様子もお聴きしました。水車が4つあったとのこと。そして自分用に蚕が繭を作るとき仕切りのあるものに入れ、繭を破ってガとして飛び立つところを観察したそうです。

伊勢湾台風のときには、<鎮神社>の大木が風で倒れ、社はその大木で倒壊し、その後修復し後ろの木がまだ細いと言われていましたので帰りに見るとその通りでした。

駅のかたも、雪が降ると時にはその雪で枝が折れて道に散らばり歩けないときもあるといわれていました。中山道の木曽路ならではの自然の厳しさです。この先の鳥居峠では、木曽氏と武田氏の戦いのあった場所でもあり、戦国時代には勢力争いがあったわけで、この地の領主奈良井氏についてはよくわかりませんのでパスです。

さてここから折り返して八幡宮まで、お店も開きはじめましたので塗り物やつげ櫛などを眺めさせてもらいつつ進みます。説明も聞きましたので建物の造りが来たときよりもよくわかります。

 

2017年4月2日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)