- 最古の『忠臣蔵』鑑賞のあと、7階にある展示室へ。久しぶりである。目的は『生誕100年 映画美術監督 木村威夫』の展示であったが、見慣れた常設展・「日本映画の歴史」からさらっと見て行ったが、『藤原義江のふるさと』の映像で足が止まる。今回は浅草オペラなども少し知ったので以前と興味が違う。なるほどこれが「吾等(われら)のテナー」かと耳をそばだてる。1930年、溝口健二監督作品で日活第一回のトーキー映画と宣伝されている。完全なトーキーではなくサイレント部分もあったようである。
- 藤原義江さんは、澤田正二郎さんが新国劇を立ち上げた時、戸山英二郎の名前で入団している。ところが、関西で田谷力三さんの歌声をきいてオペラの道に進むのである。全く音楽などやったことのない人であった。日本にオペラが誕生したのは、帝国劇場にイタリア人のローシーが招かれてオペラの指導をしたのが始まりである(1912年)。ここで清水金太郎さんなどが育つ。石井漠さんはローシーと喧嘩して山田耕筰さんのところへいくが、ローシーに指導されたバレエが後の舞踏家誕生となるのである。帝劇歌劇は経費がかさみ1916年には解散となる。
- ローシーは自費で東京赤坂「ローヤル館」を設立、オペラをはじめる。ここに入ったのが三越少年音楽隊出身の田谷力三さんである。この「ローシー・オペラ」で田谷力三さんを聴いてオペラに魅了されたのが藤原義江さんなのである。ローシー・オペラ→浅草オペラ→藤原歌劇団へと進むわけである。ちなみに「ローシー・オペラ」は失敗で、1918年にローシーさんは日本を離れる。横浜港から見送ったのは田谷力三さんだけであった。
- 浅草オペラの根岸歌劇団の柳田貞一さんの弟子となって・看板スター・田谷力三さんと同じ部屋にいたのが榎本健一さんである。エノケンさんはその前に、尾上松之助さんに弟子入りしようとして京都に行くが居留守を使われあきらめる。そのあと根岸歌劇団のコーラス部員となるのである。関東大震災で浅草オペラは衰退。エノケンさんは二回目のカジノ・フォーリーでやっとお客をとらえる。お金がないから道具立てはなくバックは画である。
- エノケンさんバックの描かれたベンチで腰かけ弁当を食べ、胸がつかえて描かれた噴水の水を飲む。大爆笑。新しい喜劇の誕生である。エノケンさんが初めてでたトーキー映画が日本初の音楽レヴュー映画『エノケンの青春酔虎伝』である。1934年。『藤原義江のふるさと』から4年後である。監督はエノケンさんの希望で山本嘉次郎さんであった。撮影は同時録音で、二階からシャンデリアに飛びつき手がすべってコンクリートの床にたたきつけられ気を失う。気が付き立ち上がるが再び倒れて病院行きとなったがキャメラマンはしっかりまわしていたという映画である。こちらも止まらなくなるのでここでとめる。
- 展示室には、アニメ『アンデルセン物語』で登場するキャラクター人形があった。これも見た記憶があるが、何のアニメか忘れていた。『アンデルセン物語』のアニメ映画を見てすぐなので親近感が違う。時々は同じ展示とわかっていてものぞいてみる必要がありそうである。
- 映画美術監督・木村威夫さんの仕事も素敵である。最古の『忠臣蔵』のセットはかなり手を抜いていたので、その後の映画人がいかなる努力、工夫によってセットやロケのための設定をしたかの心意気が伝わってくる。『雁』(豊田四郎監督)は好きな映画で坂の場面は特に印象深い。医学生の岡田(芥川比呂志)が散歩で、高利貸しの妾であるお玉(高峰秀子)の家の前の坂道を通る無縁坂。あれはセットであった。緻密につくられた設計図に基づいて作られていたのである。
- 木村威夫さんの父・小松喜代子(きよし)さんは、岡田三郎助さんに東京美術学校で教えを受けている。岡田三郎助さんは二代目左團次さんと小山内薫さんが始めた「自由劇場」の背景の仕事をしており、喜代子さんはその手伝いをしている。わが国で最初にイプセン劇を演じたのが二代目左團次さんで、森鴎外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』である。小山内薫さんはその後「築地小劇場」を創設。その頃舞台美術家として活躍していたのが伊藤熹朔さんである。木村威夫さんは、伊藤熹朔さんに師事するのである。
- 『雁』以降の映画美術で資料として展示されていたのは、『或る女』『春琴物語』『黒い潮』『雑居住宅』『陽のあたる坂道』『昭和のいのち』『花と怒涛』『肉体の門』『刺青一代』『東京流れ者』『ッィゴイネルワイゼン』『ピストルオペラ』『カポネ大いに泣く』『忍ぶ川』『サンダカン八番館 望郷』『本覺坊遺文 千利休』『ZIPANG』『父と暮らせば』『夢のまにまに』『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』などである。『陽の当たる坂道』では、やっとこれという洋館を鶴見に見つけ、中はセットで坂道は別の場所と4、5か所をモンタージュでつないだということである。『ZIPANG』は、宇都宮の大谷石地下採掘場を使っていた。木村威夫さんの仕事のほんの一部である。『夢のまにまに』『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』は映画監督作品でもある。
- 映画『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』(2009年)をDVDで観た。筋は有るような無いような。舞台は老人ホームで元気だが色々な事情で入居している人々と職員の様子が描かれている。主人公は学歴のない植物学者ということらしい。学歴があってもなくてもよいのだが一応話題として出てくるのである。その植物学者が黄金花をみつけてその花に惹きつけられて水死するということで映画は終わる。とらえどころがなく、美術映画監督の木村威夫さんの様々な映画の仕事を映画をみつつ思い浮かべて楽しむ方向に切り替えた。自然尊重のもの、文学的なもの、斬新なものなどその映画美術に関しては広域におよんでいる。その一つ一つを散りばめているようにおもえた。黄金花の花粉が光となって拡散しているようである。
- DVDの特別映像で、京都造形芸術大学北白川派との共同作業で出来上がった作品らしいということがわかった。木村威夫監督は筋はいらないといわれている。一応基本がなければということで周囲の人が筋を考えているようだ。木村威夫監督は若者のようなアバウトさで新しい映像を求めているらしい。周囲はかなり困惑している。変更に変更を重ねていく。91歳。60歳のとき0歳になったのだから今は31歳だという。老人が登場するが31歳の感覚の映画を作るといことであろうか。老人たちが思う出すのも30代の場所ということか。筋書きがあるようで無い生のたゆたい。
- 大学の学生さんが、ヒマラヤの山奥の200年生きる人の背景を発泡スチロールで一生懸命作っていて、その出来栄えに木村威夫監督が感動していた。映像に映るか映らないかわからない美術。まさしく秘するが花の仕事である。国立映画アーカイブでの映画美術監督・木村威夫さんの展示は来年の1月27日までやっている。
- もう一つ映画ポスター展のフライヤーがあった。場所は「アーツ千代田3331」で営団地下鉄銀座線の末広町駅4番出口徒歩1分とある。末広町駅は初めて降りた。建物の前が練成公園で、案内板がある。『松浦武四郎住居跡』「1818年伊勢国で生まれ、日本全国を旅し見聞を広めた。その後、蝦夷に渡り、蝦夷地の豊かな原始の自然に魅せられた、アイヌの人たちとともに全6回、13年にわたり、山川草木の全てを調査した。明治になると、政府が設けた開拓使の役人となり、蝦夷地に代わる名称「北海道」を提案採用される。1888年、この地で亡くなる。」
- 「アーツ千代田3331」は元練成中学校の建物である。『映画ポスター モダン都市風景の誕生』で、『浅草の灯』のポスターもあった。ポスターの数は少ないが、大きなポスターもありよく保存していたと思う。興味ひかれたのは関東大震災以後にできた映画館の写真映像である。モダンで「葵館」などは建物の表がレリーフになっている。当時の新しい感覚を取り入れ、映画館内もデザインに凝っており、ロビーの椅子や灰皿などもアートを主張している。ポスター、映画館の建物、内部と人々を誘い、スクリーンでさらに魅了させたわけである。それにしても廃校の面白い使い方である。
- いわさきちひろさんも師事した岡田三郎助さんの展覧会が、箱根の「ポーラ美術館」で開催されている。(2019年3月17日まで)『岡田三郎助生誕150年記念 モダン美人誕生』。「ポーラ美術館」は一度行ってみたいと思っていたので良い機会である。計画にいれよう。
- 国立映画アーカイブ(元・東京国立近代美術館フィルムセンター)で現存する一番古い全通しの『忠臣蔵』(1910年、横田商会)の映画特別上映会があった。牧野省三監督で主演は尾上松之助である。三本あったものを、一番映像の綺麗な映像を基本に、無い部分を他の映像で補い、デジタル復元した最長版である。討ち入りの日に特別上映会で昼夜二回で、夜は音楽と弁士つきとなっているが、昼の部の鑑賞である。昼夜どちらも音楽と弁士付きと勘違いしていてややこしいことになったが、とにかく昼の部だけでも鑑賞できてよかった。
- 音が一切無いのでその分、絵に集中できた。歌舞伎の動きである。舞台が映画になっていると思っていい。ただロケもあり、セットも幕に絵を描いただけであったりして、それも屋外で撮っているらしく風で後ろの背景絵が風にゆれているという珍現象もおこるが、最古の『忠臣蔵』としては上出来である。
- 日本初の映画スター尾上松之助さんは、目玉の松ちゃんと言われただけあって眼力がすごい。歌舞伎の見得の眼なのでそうなって当然であるが、小柄な方なので意識的に演じられ印象づけられたのかもしれない。女性役も女方で美しいとはいえない。「南部坂の別れ」で、間者の腰元が連判状を盗み逃げようと応戦するのであるが、それが結構長く、男なみの争い方で笑ってしまったが、やはりチャンバラの場面はお客の要求ということなのであろう。
- 松之助さんは、浅野内匠頭、大石内蔵助、清水一角の三役をやっていて、やはり松之助さんのチャンバラ場面は必要不可欠というところなのであろう清水一角ではたっぷりと立ち廻りをみせる。討ち入りが終わり引き上げる時両国橋を渡るが、役人から江戸市中は通らないでほしいとの要請であろうか引き返す場面がある。その辺は両国橋を見せ色を添えつつ史実に合わせたのであろう。
- 泉岳寺の内匠頭の墓の前に、瑤泉院つきの局が現れ吉良上野介の首実検をするという場面もあり、確かに吉良内上野介に間違いない、でかした!の強調であろうか。映画は匠頭の墓前で終わりということになった。所々にコミカルさをいれつつ約90分の上映で、終了後、担当者のどのように編集しデジタル復元したかの解説があった。こうして最長版が出来上がり観やすくなったのでこれからもこの映画の公開はあるであろう。生の弁士、伴奏つきはなかなか大変と思うので、録音していただいて、録音音声つきで鑑賞させてもらえればありがたいのであるが。
- 「日本映画の父・牧野省三監督 Χ 日本最初の映画スター・尾上松之助」の最古の『忠臣蔵』が映像も新たに討ち入りの日に復元上映であった。
- 横田商会の横田永之助さん、牧野省三監督、尾上松之助さんの関係について『映画誕生物語』(内藤研著)から少しまとめて紹介する。著者・内藤研さんの母方のひいおじいさんは、活動弁士・駒田好洋さんの巡業隊に加わり好洋さんと交代で弁士をつとめた芹川政一さんで芸名を芹川望洋といわれた。後に東京シネマ商会というニュース・文化映画の制作会社を創立している。
- 横田永之介さんは、23歳のときコロンブス世界大博覧会に京都府出品委員として渡米し、展示されていたX線装置(レントゲン)を持ち帰り見世物の電気ショーをはじめる。自分の骸骨がみたいと評判になる。その後、日本に初めて映画を運んできた稲畑勝太郎さんからシネマトグラフの興行をまかされ、東京で映写技師も活弁士もかね興行をし横田商会を設立して巡業にでる。その後、日露戦争関連のフィルムを購入し大当たりとなる。次に考えたのが映画製作である。お金を出して任せらる人はいないか。紹介されたのが牧野省三さんであった。
- 牧野省三さんの母親は離婚して、大野屋という演芸場を経営し、義太夫の師匠もして三人の子を育て、省三さんは芸能好きの末っ子であった。母親と省三さんは、大野屋を改造し千本座を開き、芝居の上演・興行のすべてにかかわっていた。そこに横田永之助さんがやってきて、映画監督・牧野省三の誕生となった。
- 牧野省三監督は1907年(明治40年)劇映画をつくりはじめる。初めてつくったのが、『本能寺合戦(ほんのうじがっせん)』で、千本座に出演していた一座をつかい、東山の真如堂の境内を本能寺にみたて撮影した。その多くは、歌舞伎の名場面、歴史上の有名場面の映画化であった。牧野省三さんは、熱心な金光教(こんこうきょう)の信者で、岡山の金光教本部に生まれたばかりの長男の名前をもらいにいった。この長男が正唯(まさただ)で芸名がマキノ正博である。このとき、生神さまが、この近所に好い役者さんがいるから探してみなさいとのお告げがあった。近くの芝居小屋にでていたのが尾上松之助一座である。
- 尾上松之助さんは、武士の子として生まれるが踊りや芝居が大好きで役者になりたかった。反対の末、父は守り刀を手渡して許してくれた。旅回りの一座で修業し19才で座長となる。牧野省三監督と会うのはそれから19年目である。しかし、土の上でやる芝居は本当ではないと断る。牧野省三監督は京都西陣の自分の千本座で興行させ、一座全ての生活面の面倒を見た。尾上松之助さんは、西陣周辺の人気者になり、牧野省三監督に恩義を感じ、活動写真への出演を承諾。
- 監督が松之助さんを見込んだのは、身の軽さであった。活動写真なのだからはつらつとして動く役者を求めていたのである。牧野省三監督、尾上松之助主演の最初の映画は『碁盤忠信(ごばんただのぶ)』(1909年)であった。義経の家来佐藤忠信が重い碁盤を振り回して活躍するのである。松之助さんは自分の映画をみて納得し、活動写真に力を入れることにした。牧野省三監督と尾上松之助コンビの映画は13年間で約700本つくられた。一週間に一本の割り合いである。
- 「目玉の松ちゃん!」は、映画『石山軍記』(1910年)で楠七郎を演じた松之助さんが、敵の足利尊氏軍を大きな目玉でギョロリとにらみつける場面に観客が反応して思わず掛け声をかけたのである。『忠臣蔵』は『石山軍記』より同じ年でも後の作品と思われるが、映画を観てその背景設定などから如何に短時間で撮影されていたかが納得できた。人力車に何通りもの衣裳や小道具を積み込み、同じ場所で違う作品もつくっていたのである。
- サイレント(無声)なので子役だったマキノ正博さんが台詞を覚えられないときは、松之助さん相手に「いろはにほへと」とやり松之助さんも「ちりぬるをわか」と答えた。シナリオが間に合わない時は口伝えであった。牧野省三監督と松之助さんコンビがのりにのっている時、東京ではあの「ジゴマ事件」がおこるのである。その同じ年・1912年、横田商会、吉沢商店、M・パテ商会、福宝堂が合併し「日活」となる。横田永之助さんは後に五代目社長となる。東京の撮影所は現代物、京都は時代劇がつくられ、牧野省三監督と尾上松之助さんコンビは看板となり、されに忍術もの『猿飛佐助』『豪傑児雷也』へと進むのである。 『ジゴマ』の大旋風
- 牧野省三監督のお孫さんが、長門裕之さんと津川雅彦さん(合掌)で、お二人から譲り受けた資料なども国立映画アーカイブで保管しているとのことである。この復元『忠臣蔵』を通じて新しい事実がでてくるのかもしれない。周防正行監督最新作『カツベン!』のフライヤーがあった。活動弁士を夢見る青年が主人公だそうである。「フライヤー」。今まで映画や芝居の案内をチラシと記していた。フライヤーという言葉があるのは知っていたが広告案内のためのチラシの感覚でチラシにしていたのであるが、劇団民藝『グレイクリスマス』のパンフレットで、片岡義男さんが「フライヤーにならんでいる言葉を引用して」と書かれていて「フライヤー」のほうがいいなあと思ったのである。そこでこれからは「フライヤー」と記すことにする。
- 『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』(東映)は、1996年に宮澤賢治生誕百年記念作品として制作された。松竹と東映の競作で、こまつ座の『イーハトーボの劇列車』観劇の際に『宮澤賢治 その愛』(松竹)は観ていた。その時立て続けに観るのも食傷気味で東映のほうはおいておいた。観るべきときに観れたという事である。アニメ映画『アンデルセン物語』の脚本は井上ひさしさんと山本護久さんの共作なのである。生き方は違うが童話作家としての世界観としては『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』と『アンデルセン物語』は相通じるところがある。
- 『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』は、賢治が童話を書く場面では、童話に登場する鳥、虫、動物さらには電信柱などをアニメで登場させている。故郷の岩手の自然にはⅭGも使っている。違和感がなく、賢治の農業に対する現実の生き方と童話の世界に浸る時間とを区別して、理想と夢を追った賢治の心象風景が淡く優しく映像にあらわれた。出だしが賢治が土を握り「この大地は、あまりにも偉大で、あまりにも正直だ。」と発する。
- 妹のトシが病気で倒れて東京に駆けつける。東京の神田の古本屋の前での賢治の想いが語られる。「旧ニコライ堂のさびた屋根。青白い電車の火花。都会のランブラー。浅草の木馬館。丸善の喫煙室。フランス大使館の低いレンガ。帝国図書館。歌麿の三枚続き。帝国博物館。東京は飛んで行きたいようです。」。「いきたいようです。」には、東京の様子を知っていて来たかったのだという気持ちが伝わる。この挿入が賢治の新しいものに対する好奇心がありありえがかれている。この言葉の羅列どこかにないかなと手持ちの本を探したがみつからなかった。脚本家の表現か。木馬館があったからなおさらであるが、生き生きとした並べ方である。賢治の心象も伝わる。
- 妹のトシが死んだときに、『銀河鉄道の夜』の世界に変わる。トシは賢治の童話が大好きであり賢治の応援者であった。童話の中で黄泉の国へ送り届けたのである。父親が賢治は何をしたいのか解らないというが確かにそうである。しっかりとした形とはならないまま賢治自信も悩み苦しんでいたのである。それでいながら資金は宮沢家に頼っている。そこも賢治にとっては自立できない自分に対しての責めもあった。おれはきちんとした農民になるのだと自分を追い込んでいるようである。
- 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ」の詩は、体を壊し療養の最後のほうで書いたものである。今まで、「雨にも負けないぞ 風にも負けないぞ」と切って理解していたが、今回は「丈夫な体を持ち」につながっているのだと思えた。その途端、ちょっと待って宮沢賢治さん。農作物に適した栄養がいるように、丈夫な体を作るためには栄養が必要なのよ。そこは人の意見を聞いてほしかったですね。死を前にしては無意味ですが。
- ホーホーと岩手の自然の中を走り回って銀河に飛び立った賢治さんの理想は現実にはどうつながったか。最後に映画で紹介されている。盛岡中学で一年下の保坂嘉内は農村の改良運動にささげ、賢治の死の三年半後に胃がんでなくなっている。賢治に音楽の影響を与えた花巻高等女学校の音楽教師・藤原嘉藤治が賢治の弟・清六とともに賢治の全集の刊行に力を注ぎ、そして農村に飛び込み、晩年、岩手県農政功労者として表彰されている。そうした事実もきちんと紹介しつつ、賢治さんの心象風景もたっぷり味わえるようになっている。
- 藤原嘉藤治さんが農業にたずさわっていたのは意外であった。賢治さんに詩を読んでくれと渡され、「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。」と『春と修羅』の序を読んで首を傾ける藤原嘉藤治さん。次の日には圧倒されたと感嘆する。こちらは首を傾けたままなかなかもとにもどらない。映画はそのほうは上手く童話のほうへ乗せてくれる。
- 監督・大森一樹/脚本・那須真知子/音楽・千住明/撮影・木村大作/出演・緒形直人、水野真紀、袴田吉彦、椎名桔平、原田龍二、大沢さやか、森本レオ、斉藤由貴、星由里子、山本龍二、本田博太郎、角田英介、上田耕一、渡哲也
- こまつ座公演 『イーハトーボの劇列車』
- 『アンデルセン物語』(1968年)は、アニメのミュージカル映画である。もしかして『ひょっこりひょうたん島』に近い頃かなと思ったら、前年の1967年に『ひょっこりひょうたん島』は映画となって公開していた。『ひょっこりひょうたん島』でのコンビ井上ひさしさんと山本護久さんの積み重ねがあってのアニメ『アンデルセン物語』のように思える。
- 少年ハンスは靴職人の息子で、動物たちも仲間として登場している。オーラおじさん(『眠りの精のオーラ』)が傘に乗って現れ、歌を歌いながら物語の案内役的役割と、ハンスの心の中にある物語の発露の架け橋ともなってくれる。王女さまのための赤い靴コンテストがあるがハンスのお父さんは皮が無いため作品を提出できない。その赤い靴を作る皮を靴の修繕費代わりに提供してくれたのがオーラおじさんである。ところが、ハンスのお父さんの造った赤い靴は、町長の娘が自分の物にしてしまう。オーラおじさんはこの靴の皮は履く人によると言っていたのである。それは『赤い靴』につながる。
- ハンスは向かいの家のお友達のエリサに見た夢の話しなどを聞かせる。(「小さなイーダの花』『親指姫』)ところがエリサとおばあさんは町長から家を追い出されていなくなる。ハンスがさがしているとエリサはマッチ売りとなっていて遅くなるからとまたいなくなってしまう。ハンスはおとうさんが赤い靴コンクールに優勝するとそのお金でオペラを観たいと思っていた。劇場のまえには少年がオペラを観たいと泣いていた。ハンスはオペラの代わりにお話を聞かせる。それは『マッチ売りの少女』であった。それを聞いていた町の人は絶賛し、ハンスはもっと勉強するための援助を受けることになりエリサや両親や動物の仲間たちに見送られてコペンハーゲンへ旅立つのである。ハンスからアンデルセンへ。
- 挿入歌の作詞も井上ひさしさんで分かりやすい簡潔な詞となっている。音楽は宇野誠一郎さんで、これまた明るく楽しく子供が乗りやすい軽快さで高島忠夫さんの歌などがすーっと耳に入り、ここは歌だぞ、という押し付けがないのがいい。アンデルセンの童話の挿入のされかたが『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』と同じように童話の流れに自然に誘っていってくれる。童話作家という点での構成として一つの形を示している。アニメだけに人間と動物、動物同士の可笑しな動きも楽しめるようにテンポよく展開されている。オーラおじさんが、星の掃除もしていて番号をつけて間違わないようにもとにもどすのだが時々上手くもとにもどせなくて、それが流れ星となるのさも楽しい銀河系のお話である。
- 演出・矢吹公郎/声・高島忠夫、藤田淑子、藤村有弘、玉川良一、久里千里、三波伸介、鈴木やすし、杉山佳寿子
- 岸富美子さんと内田吐夢監督は中国の人々に映画の編集理論と技術を教えることになる。富美子さんにとっては内田吐夢監督と一緒に教壇にたてることは夢のようなことであった。富美子さんは、編集におけるモンタージュを教えるために映画『無法松の一生』(1943年・昭和18年)を選んだ。阪妻さんの無法松である。あの映画の終盤の盛り上げかたを編集によってどう工夫しているか。モンタージュとは何かを語りたいとしている。この映画の撮影は宮川一夫さんで、彼の出世作となった。富美子さんもそれを喜んでいる。宮川一夫さんは、アメリカで亡くなった兄・聡さん(次男)の一年後輩にあたり兄と大変親しかった。家庭の事情もしっていたので日活時代は富美子さんを慰めてもくれた。
- 「映画のクライマックスは、カッティングに次ぐカッティングで、すばらしい臨場感をだしている。坂東妻三郎の演じる車引きの無法松が櫓太鼓を叩くカット、海で波しぶきが上がるカット、祭りに集まる群衆のカットが、打ち鳴らされる太鼓のリズムに合わせて、目まぐるしくモンタージュ(編集)されているのだ。」編集は西田重雄さんでもの静かなかたであったので富美子さんは、そのギャップに驚いたようである。内田監督も賛成され、リズムと音の必要性とそれと画をどうやって組み合わせるかを講義されたらしい。聞く方の真剣さも想像できる。
- かつてテレビで映画と音についての番組があって、ヒッチコック監督の映画『サイコ』で女性が車で逃げる場面を音ありとなしでやっていて、音楽が加わることによる緊迫感とスリリングさが増すことについて解説していた。無しと有りでは全然臨場感が違っていた。反対に音がなくて不気味なのが映画『鳥』である。何事もないように電線だった思うがそこにとまったカラスが映される。ベンチに座っている女性が映され、再びカラスを映す。それが映されるたびにカラスの数がふえているという怖さ。『鳥』についてはちょっと記憶があいまいなのであるが見つかれば観直したい。
- 映画『無法松の一生』は稲垣浩監督で、吉岡大尉未亡人に対し車夫の松五郎が未亡人に対する気持ちを打ち明けた部分が内務省の検閲で削除されてしまう。戦意高揚にふさわしくないということである。そして戦後は、戦勝の提灯行列の場面がGHQに削除される。稲垣浩監督は、完全版として1958年(昭和33年)三船敏郎さんでリメイクしている。小倉祇園太鼓を叩く松五郎は、無学の自分がボン(敏雄)の高等学校の先生の役にたち、さらにボンの役にたったと自信に満ち高揚した場面である。リメイク版から想像するにその高揚感と吉岡未亡人がお化粧したのをみて、高等学校の教師の出現にも少なからず動揺し、秘めていた気持ちをおさえられなくなった。そのあとは、お酒の力のみで生き、死をむかえるのである。
- 1943年のほうは、言ってみればズタズタに削除されているが、白黒で風景が明治に近い感じがする。阪妻さんの松五郎に対し吉岡未亡人を演じているのは広島の原爆で亡くなられた園井恵子さんで、松五郎だけではなく支えてあげたくなるタイプである。リメイク版は高峰秀子さんで、もしかすると一人でも頑張っていけそうかなと思わせるが、カラーでもあるし三船敏郎さんの強烈さに対するには好い組み合わせである。脚本は伊丹万作さんで、リメイク版には伊丹万作さんの脚本を守るぞというように稲垣浩監督の名前も脚本に加えてある。この時すでに伊丹万作監督は亡くなられている。
- 1943年版は、松五郎が、かえり打ち、流れ打ち、勇み駒、暴れ打ちと打っていき、そこからモンタージュが使われ、そのまま思い出の場面へとつながり、回っていた人力車の車輪が止まる。そして雪景色が映る。そのあとに松五郎の遺品を整理する場面となるので、松五郎が吉岡未亡人に自分の気持ちを伝える場面は完全に削除されているわけである。松五郎が自分は汚れていると苦悩する場面がなく、竹を割ったようなさっぱりとした人間として締めくくられているのである。吉岡未亡人からもらったお金には手を付けず、さらに少しずつ未亡人とボンの名義で貯金していたのである。無学ながらも自分の生き方を貫いたヒーローとして当時の観客は涙したことであろう。本来の映画は、人間松五郎にも踏み込んでいたわけである。
- GHQに削除された部分は宮川一夫キャメラマンが所有していて、DVDでは、その部分を挿入した映像も観ることができる。ただ音は無しである。なぜ宮川一夫さんが持っていたのか。それは映像の確認用として所有していたのである。提灯行列と花火を重ねて写っているが、それは編集機器が発達していなかったため、キャメラで合成しつつ撮影していたのである。その他、フイルムの感度やキャメラの性能が低いため、夜の撮影は夕景撮影で、そのあとで処理して夜景としたようである。そのため、宮川さんはその撮影具合を自分の目で確認したかったのであろう。当時のスタッフの力量と苦労のあとがかえってわかることとなった。だからこそ満映の映画人は映画機器を守るべく奔走したのである。映画人の想いは、日本にいても、満州にいても変わらなかったのである。
- 『大アンケートによる 日本映画ベスト150』という本がある。初版が1989年であるから昭和から平成に変わった年にだされている。この本を参考に映画を選んだ時期もあったがずーっとご無沙汰であった。久しぶりで観ていない映画を数えてみたら120本は観ていることになる。この本から離れて違う繋がりで観ていた映画もその後たくさんある。『無法松の一生』は8位で観た人の観た時の感想が載っている。
- 「小学生の頃お使いに行く時、阪妻の車夫のかけ足にホレて、あのガニ股的歩きをマネてよく転んだ。」「戦中の中学生に、庶民の男の美しさを教えてくれた。」とあり、広く子供たちにも松五郎は印象に残ったようである。さらに、「学徒出陣でもう映画をみることもあるまいと思いながら見た忘れがたい作品。」「産業戦士慰問映画として感激しながら見たのを覚えている。」当時の人々は、削除されたことなどには関係なく自分の想いを映画の中にぶつけていたのであろう。
- 伊丹万作監督が岩下俊作さんの小説『冨島松五郎伝』を映画化しようとしたが病臥中のため稲垣浩監督が撮ることになったとある。そうであったのか。稲垣浩監督はリメイクして完全版を残し伊丹万作監督に代わって作品を守り通したわけである。松五郎が継母に辛くあたられ4里離れた父の仕事場へ一人行く田んぼの風景は、こんな美しい風景があったのかと見惚れてしまう。そのあと、木々の中をお化けに追いかけられているような怖さを味わう場面などは映像的工夫を凝らしている。リメイク版は削除もないだけに、人力車の車輪の回転場面の映像が松五郎の気持ちを代弁するように何回も登場する。一度止まった車輪がよっしゃ!もう一回走るぞと生き込んでいるようであった。
- 山中貞雄監督の映画『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)には、富美子さんの兄・福島威さん(五男)が山中監督に指名されるようになり大喜びで参加、福島宏さん(四男)もチーフキャメラマンとして参加している。この映画のユーモアさが好きである。まだ映像にお二人の名前はないが参加したことを知ってさらに裏で頑張る映画人の息を感じる。音楽にも気をつけながら観る。「とうりゃんせ」が色々なバージョンでながれていた。丹下左膳の一作目が大河内傅次郎さんだそうで、それまでの丹下左膳像を見事に変えてコミカルにしている。殺陣も少ない。(古いので完全版なのかどうかはわからない。GHQなどによってもカットされたりしてもいるので。)
- 丹下左膳の大河内傅次郎さんは矢場の用心棒でその経営者の女主人が歌手の喜代三さんで、ふたりのやり取りがいい。大河内さんのコミカルさと歌手の喜代三さんのさらりとした伝法さを上手く引き出しぶっつけている。喜代三さんも三味線を弾きながら『櫛巻きお藤の唄』を歌われていてさりげない粋さをだしている。ただ丹下左膳はお藤の歌を嫌い、熱が出るといって置物の猫を後ろ向きにして抵抗し座をはずす。「お酒がまずくなるなら量が減って結構な事よ」と即、お藤にやり込められる左膳。
- 矢場の客がゴロツキに殺されてしまい、その子を引き取ることになる。お藤は孤児になった子を「こんな汚い子はいやだよ」といいつつ、ぱっと画面が変わるとご飯を食べさせている。「なんでわたしが」といいつつ、パッと画面が変わると一緒に暮らしている。その軽快な転換が上手い。山中監督流で、編集するひとは驚かれながらなるほどとおもったであろう。このテンポがからっとした空気とクスッの可笑しさをさそう。
- 百萬両の壺とは、柳生家の「こけざるの壺」が百萬両のありかを隠している壺と判明する。ところが、この壺は兄が江戸に養子に行った弟に祝いとしてやってしまっていて、それを取り戻そうと家来が江戸におもむく。しかし、あまりにも汚い壺なので弟は屑屋に売ってしまい、屑屋は長屋の子供の金魚入れにやってしまったのである。この子が孤児となり矢場で暮らすことになった安である。この矢場に養子の侍が遊びに来てすったもんだのすえ、壺は安が持ってきた金魚の壺とわかり、養子の手もとに百萬両の壺はもどるのである。しかし呑気なもので養子は壺を探すと言って盛り場で遊んでいられるため、手に入れたことは隠して左膳にしばらく壺を預かってくれといってエンドである。
- 途中、左膳がどうしてもお金が入用になって道場破りにいった先の道場主がこの養子でお互い驚く。左膳は養子に頼まれて負けてやりお金を受け取りお金を作ることができるのである。これも安のためであった。そして道場の弟子たちとの試合が唯一立ち廻りといえる。一歩を大きく飛んで勝負がついているという殺陣である。痛快時代劇としては立ち廻りが少い。左膳とお藤と安の偶然に出来上がったホームコメディーともいえる。教育方針でも二人は対立し、相手の様子をうかがいつつ安のことを心配するのである。左膳は暴漢に襲われるとき安に目をつぶって10数えろといって一刀のもと斬ってしまい二人が通りすぎてから暴漢は倒れる。左膳は自分の腕を見せるのではなく、安に人を殺すところをみせないのである。
- 大河内傅次郎さんの丹下左膳の映画に出演した高峰秀子さんの『わたしの渡世日記』によると、大河内傳次郎さんは強度の近眼で、それでいながら本身の刀を使うので切られ役の俳優さんは大変だったようである。ご本人がチャンバラの最中に縁側を踏み外して庭へ転落したり、石燈籠にぶつかったりするのでまわりの人間はハラハラしながら左膳を目で追っていたという。高峰秀子さんはさらに、大河内さんはセリフおぼえも悪く、運動神経もあまり優れているとは思えない。しかし、「近眼だからこそ、思慮深く見え、セリフを思い出し、思い出ししながらする芝居の「間」が、なんともいわれぬ「味」になっていた。」と書かれている。
- 高峰秀子さんは女人禁制の嵯峨小倉山の「大河内山荘」に招待され、そこで並んでの写真撮影の許可がおりている。それまで「大河内山荘」の内部の撮影は禁止されていた。秀子さん16歳の乙女の時である。気に入られたのであろう。大河内さんの左膳に秀子さんが出演した映画は、『新篇 丹下左膳 隻眼の巻』(1939年・川口松太郎作・中川信夫監督)である。高峰秀子さんは、この前篇は、千葉周作に片腕を斬り落とされた左膳が土手を突っ走って逃げる長いカットは息をのむ名演であったという。前篇とありここがよくわからないのであるが観たいものである。一作目の左膳も観たいがフイルム残っているかどうか。こういう仕事のお金は「大河内山荘」を作り上げるためにつぎ込まれたらしい。
- 高峰秀子さんがいう「間」は、『丹下左膳余話 百萬両の壺』では喜代三さんに「どうしてよ」とさらさらっと言われると口ごもってしまうあたりがなんともいいのである。左膳がすぐセリフがでないほうが二人のやり取りを面白くさせるのである。大河内さんの不器用さを山中監督は計算に入れて撮っていたであろう。そこがおもしろいのだと。福島威さんは富美子さんにも山中貞雄監督のことは、はすばらしい才能であると話していて喜び勇んで仕事をしていたようである。しかし、その他の仕事も引き受け本人の想いとは反対に身体の方がついていけず肺を患い命とりとなるのである。家族のためと同時に仕事にのめり込んでいった若き映画人の名前が残されたことにより映画や、山中貞雄監督への献花ともなっている。
- 構成・監督・山中貞雄・(小文字)萩原遼/撮影・安本淳/録音・中村敏夫/音楽・西梧郎/編輯・福田理三郎/出演・大河内傅次郎、喜代三、宗春太郎、沢村国太郎、花井蘭子、深水藤子
- 丹下左膳が映画に登場するのは『新版 大岡政談』(1929年)である。DVD『阪妻 坂東妻三郎』の中にほん少し『新派 大岡政談』の大河内さんの左膳の立ち廻りが映っていた。講談などで大岡越前守の名お裁きが題材とされた話しが多数できあがり、林不忘さんが小説として『新版 大岡政談 鈴木源十郎の巻』のなかに丹下左膳を登場させた。映画『新版 大岡政談』の映画も幾つかつくられ丹下左膳がヒーロー化していって「丹下左膳」が独立したようである。『新版 大岡政談』のなかでも伊藤大輔監督と大河内傅次郎さんの丹下左膳が人気を博した。本来の丹下左膳は斬りまくる。手もとにある『続・丹下左膳』(マキノ雅弘監督)では、大河内さんは大岡越前守と左膳の二役である。
- 『続・丹下左膳』(1953年・マキノ雅弘監督)は、続であるので前の続きの映像がスタッフや出演者の字幕のバックに映っている。二人の侍が橋の上で切り合いをしていて回りを捕り方が囲んで御用と叫んでいる。「妖刀乾雲、坤龍の二刀を求めて死を賭して闘う者」と字幕が入る。その一人が川におちる。橋の上の侍は「坤龍」と叫ぶ。これが丹下左膳である。丹下左膳は饗庭藩の武士で藩主に妖刀乾雲、坤龍の二刀を手に入れるよう命じられた。ところが、世を騒がせていると大岡越前守に正された藩主は左膳など知らないと言い切られ左膳は復讐にもえる。最後は大岡越前守に守られながら藩主を倒し妖刀乾雲、坤龍の二刀を投げ出し高笑いする。
- 前篇がないので細かいところはわからないが、この妖刀は別々になると呼び合いその刀を持っている者はその呼び合う力によって人を斬りたくなるようである。その刀に左膳も翻弄される。マキノ雅弘監督は、戦前の丹下左膳の姿を踏襲したらしい。脚本は伊藤大輔・柳川眞一とあり、録音が『丹下左膳余話 百萬両の壺』と同じ中村敏夫とあった。『続 丹下左膳』では、録音助手、撮影助手などの名前もクレジットに記載されている。本来の左膳は悲壮感に満ちた立ち廻りのようである。その中でまったく原作の左膳とは違うパロディ化した左膳なのに、やはり『丹下左膳余話 百萬両の壺』の左膳が魅力的である。どちらの左膳も創り出した大河内傅次郎さんと山中貞雄監督の引き出しかたの上手さに乾杯。
- 『満映とわたし』には岸富美子さんやその家族が係った映画のことが出てくる。新たな見る視点をもらった。映画『会議は踊る』は、音楽が好きで録音関係の担当になった兄・福島威(五男)が自分も歌い、富美子さんにも教えてくれた主題歌である。威(たけし)さんがドイツ語をカタカナで覚えて教えてくれたのである。このことが後に会うドイツ人の女性編集者・アリスさんと富美子さんとの交流に役立つこととなる。
- 映画『会議は踊る』は、オペレッタ映画の最高峰と言われ、当時の映画人やその後の映画人たちも注目している。大ヒットしたのが主題歌の『ただ一度だけ』で、ウイーンの手袋屋の売り子がひょんなことからロシア皇帝に見染められ酒場で逢瀬を愉しむ。皇帝からの迎えの馬車が来てお城に向かうまでのシーンがワンカットの移動撮影で、その間歓喜の娘がこの歌を歌い続ける。やはり観直さなくてはならない。
- ナポレオンが敗れ囚われ戦争が終わる。ドイツの宰相はヨーロッパの首脳をウィーンによんでウィーン会議を開こうとしている。ドイツの宰相が、寝室の寝床から様々な部屋の盗聴ができるというところで笑ったことを思い出したが、そのあとおふざけすぎた映画だとおもったように思う。今回、時代の技術的なことを考えて見返していると、オペレッタであるが虚々実々の皮肉も効いていて面白い。
- ドイツの宰相はロシア皇帝に色仕掛けで会議を欠席させようと一生懸命である。ところが、ロシア皇帝の部下は、皇帝の身の危険を守るため影武者を用意する。その入れ替わりがさらに娯楽性を増幅させる。さらにロシア皇帝をダンスパーティーに釘付けにするため貴族の婦人が、ロシア皇帝がウィーンの貧しい人々救済のため、チャリティーキスをすると勝手に宣言する。ところがこのことによってロシア皇帝は忘れていた娘と再会できるのである。
- 会議のほうは各首脳はダンスの音楽に誘われて退席してしまう。座っていた椅子だけがゆれている。まさしく <会議は踊る> である。宰相一人で思い通りに決議することができるのであるが、すでに遅し、ナポレオンは脱出しフランスに上陸したとの知らせが入る。各国首脳はあたふたと帰国の途に就くため人々は去り一人取り残されるドイツの宰相。
- 娘とロシア皇帝は酒場でたのしんでいた。ナポレオン脱出の知らせにまた会える日までと娘に告げ帰っていく。娘はもう会えないことを知っている。娘を元気づけるように酒場の人々は『ただ一度だけ』を合唱する。音楽に乗ってロマンスも描かれ、政治を漫画チックに風刺して明るく終わっている。やはり移動撮影は長かった。ロシア皇帝が現れ驚くドイツ宰相。コップに注ぐ水があふれ、それをもう一つのコップが水を受ける。その手はロシア皇帝であったというようなアップの挿入などは、人の感情を代弁していて面白い。ロシアバレェなどもでてきて音楽性もゆたかである。
- 淀川長治さんが、「それまで音楽映画はアメリカのタップが主であった。ドイツのデーットリヒの『嘆きの天使』は音楽はいかにもドイツ的である。ところがこの『会議は踊る』の音楽はヨーロッパ的で驚いてしまった。素晴らしい。」と解説している。映画音楽の流れとしてはそういうことらしいのである。そして日本でも主題歌が大流行するわけである。制作は1931年で、日本公開は1934年(昭和9年である。撮影や編集の面での音楽の豊富さに日本の映画人が感嘆したのがよくわかった。
- アリス・ルートヴィッヒさんは、ドイツ映画『制服の処女』シリーズの一篇『黒衣の処女』の編集をされた方だそうだが残念ながら『黒衣の処女』は観ていない。『制服の処女』は手もとにあった。この映画は、職場の先輩がお姉さんのデートの時監視役でついて行き、お姉さんと彼氏の間に座ってみたという映画で、この話を聞いた時は皆笑ってしまった。先輩は兄弟が多く一番下で、一番上のお姉さんは母親がわりであった。観たのが小学校へあがる前で、字幕の字はよめなかった。それで内容はわかったんですかと聞くと、「観ていればだいたいわかるわよ。」という。そのことがあり有名な作品でもあるので店頭で安いのを見つけた時に購入していたのであろう。まだ観ていなかった。まさかこんな機会があるとは。
- 『制服の処女』は、母を亡くし感情の起伏の激しい少女が、叔母に連れられて寄宿舎つきの学校に入学する。その学校での少女の体験が描かれている。規律と清貧がモットーの学校で学生たちはお腹を空かせている。少女はお世話係の生徒に学校を案内される。案内されるバックには生徒たちの合唱の歌が聞こえる。そしてぱっとアップの歌う生徒が映される。その口と歌詞が合っている。なるほどこれが編集かとおもった。できあがったものを勝手に編集されたらそれは困る。もしかすると、この口の動きと歌が合わなくなる。そうするとまた編集し直すわけであるが、事前に言われていれば意見交換ができ仕事もスムーズにいくであろう。
- アップされる歌う生徒は、その歌詞をお腹が空いたと替え歌にして歌っているのである。主人公は皆があこがれる女教師に特別の感情を抱き、そのことが校長に知られ厳しい指導を受け自殺を試み未遂となる。校長は皆の批判の目にうなだれて歩いていく。たしかに字幕がわからなくても内容は何んとなくわかりそうである。場所は学校と寄宿舎で、登場人物の厳格そうな校長、感情の激しい主人公、優しくも凛とした女教師などである。あの少女は今喜んでいる、泣いている、あの校長はやっつけられたのだと。なるほど。
- 『黒衣の処女』は『制服の処女』で助監督だったかたが監督され、女生徒と教師役の役者さんが二人そのまま主演されている。アリスさんの編集の能力は、富美子さんが生涯の編集の恩師と思うほど編集能力が高かったと想像できる。編集の目で観ていると細かいところまで目がいく。『黒衣の処女』は、1933年に公開されている。富美子さんがルイスさんと一緒に仕事をした『新しき土』は1937年公開である。『制服の処女』は1931年公開である。
- 『満映とわたし』(岸富美子・石井妙子共著)は、劇団民藝『時を接ぐ』の原作である。岸富美子さんが15歳で映画の編集助手として働き始め、そこで出会った映画関係の人々との交流で今まで知り得なかったこともかかれてある。富美子さんは、原節子さんと李香蘭さんと同じ年で、二人の作品の仕事もしている。岸さんの姿勢はおそらく色々な噂も耳にしていたのであろうが、自分で眼にしたことのみ書いている。そして仕事柄、自分と大スターとは違うというところをきちんと踏まえられている。
- 活動写真『ジゴマ』を見た少年に後の伊丹万作監督が紹介されていた。(『怪盗ジゴマと活動写真の時代』永嶺重敏著) 伊丹万作少年は、『ジゴマ』の内容よりも弁士駒田好洋の説明ぶりやポーラン探偵のしぐさのほうが印象に残る映画だったといわれている。その伊丹万作監督が『満映とわたし』にも登場した。
- 伊藤大輔監督は伊丹万作監督と松山中学で同窓で親友だったらしい。三十代後半の伊藤大輔監督は兄たちが次々病気で倒れ、15歳の少女が一家を支えなければならない事情もわかっていたのであろう。富美子さんに優しく接してくれた。家が近いため夜遅く帰宅する時は歩いて送ってくれたりもした。その時の様子が映画の名シーンのようである。
- 伊藤監督は蝙蝠傘をいつも持っていてその蝙蝠傘で蛍をつかまえ、チリ紙に包んで持たせてくれた。富美子さんはその蛍を仏壇の花のところにはなすと父や兄の位牌をほの白く照らしてくれた。富美子さんには5人のお兄さんがいて長男はアメリカで一歳半で亡くなり、三男は満州にいる時伯母の養子となっている。富美子さんは満州で生まれている。同じくして父を失う。母と四人の子は日本にもどってくる。次男は映画の仕事でアメリカに行き家族の星であったが肺結核で亡くなってしまう。五男も映画の音楽担当であったが結核で療養中で母が付き添い、四男は徴兵検査に合格して入隊してしまうのである。(『時を接ぐ』では次男、四男、五男の三人の兄が出てくる)
- 伊藤大輔監督はある日近道があるからと細い路地を入って行った。田んぼの中のある家の前で立ち止まり、伊丹万作監督の家で、今彼は病気なんだと教えてくれる。伊藤大輔監督は声はかけずじっと見つめて帰るだけであった。富美子さんは、その後、その道を通って家の様子をそっとのぞきながら仕事に通った。大好きな伊藤監督が心配している伊丹監督の様子を知っておきたかったとある。元気なようすであればお元気そうでしたよと伊藤監督に伝えたかったのでしょう。
- 富美子さんは、勤めていた第一映画社が倒産し、日独合作映画『新しき土』の編集助手となる。この映画の日本側の共同監督が伊丹万作監督であった。共同監督とは名ばかりでアーノルド・ファンク監督の助監督のような立場で伊丹監督は降りるというのを周囲が伊丹監督にも編集権を与え伊丹版も作るということになった。これは知りませんでした。私が観たのはどちらだったのでしょうか。感じとしてはファンク監督版のような気がするのですが。比べて観てみたいものです。
- 最初、富美子さんはファンク監督の映画の編集助手であったが、伊丹監督の編集助手にまわされる。伊丹監督の編集現場は仕事が過酷で次々と編集助手が倒れてしまうのである。一緒に仕事をして親切に教えてくれたドイツ人のアリスさんも困ると反対してくれたがどうにもならなかった。伊丹監督は病気が治ったのであろうかと顔をみるとやはり病人にしかみえなかった。編集助手と口をきく様なかたではなかった。そしてついに富美子さんも倒れてしまうのである。伊丹版で倒れた編集助手の5人目だった。伊藤監督のところではウルウルしたのに、映画監督の絶対的権力に唖然としてしまった。
- それが当たり前だったのであろう。この過酷さを乗り越えなければ良いものは作れないとの想いが映画人にはあって、あの監督の映画のためならと思う映画人も沢山いたであろう。しかし末端の仕事をする者には過酷であった。幸いお兄さんが除隊となり富美子さんはほっとする。しかし、富美子さんも映画人気質が身についていて、元気になると、兄にどこの会社が良いであろうかと相談している。富美子さんはお兄さんと同じ日活の京都撮影所に入社する。
- 『満映とわたし』であるからこれからが本題でもあるのだが、富美子さんが一人の映画人となっていく過程も魅力的である。人との出会いによってどんどん仕事にのめりこんで行くのである。若さの輝きとでもいうのであろうか。ここでは嵯峨野時代を少し紹介するにとどめる。
- 満映のあった南新京についた町の様子が書かれていて、新京神社があり、西本願寺があったと書かれてあり、そうか神職に仕えるひとやお坊さんも行っていたのだと愛知県一宮の妙興寺の歌碑を思い出した。歌碑には「親のなき 子等をともない荒海於 渡里帰らん この荒海を」 妙興寺の十八世老師は旧満州の新京の妙心寺別院に布教のためにいかれ終戦をむかえられた。多くの孤児がさ迷っているので禅堂を改造して孤児を収容するため慈眼堂を開園。この歌は孤児三百名と共に帰国乗船の折り詠まれたとあった。岸富美子さんの家族もよく生きて帰られたと思われるような状況がこのあとやってくるのである。映画人の貴重な資料ともなっている。
- 劇団民藝『時を接ぐ』
- 少しつけ加えると、満映から日本にもっどた映画人の受け皿が東映であったとくくられるのはこの本を読んで違うなと思った。最後まで中国に残った内田吐夢監督が復員後東映に入り活躍するが、それは特例で岸富美子さん等は門戸を閉ざされ独立プロなどに入る。そのあたりは、この本を読んでもらうほうがよい。内田吐夢監督の苦悩とその後の映画作品にどう反映したかなども考察できるかもしれない。民藝『時を接ぐ』でも最後は岸富美子(日色ともゑ)の長いエピローグで締めくくるという形でなんとかおさめた。
- 大阪の松竹座(二代目市川齊入・三代目右團次襲名披露)から帰ると申し込んでおいた『昭和浅草映画地図』(中村実男著)が届いていた。もう夢中で読んでしまった。きっちり調べておられるので信頼でき、たくさんのことを教えてもらった。浅草が映されている映画が170本以上ある。ため息がでそうであるが、俄然元気になってしまう。行くぞ!
- 映画の中で浅草のどこが映されているかも一本、一本について記してくださり、もう嬉しくなります。自分でもメモしたりしたのだが、次第に雰囲気がわかればいいやと正確に調べることをやめてしまったのである。浅草の変遷も詳しく書かれていて、たとえば昭和34年(1959年)に完成した「新世界ビル」の中にあった「劇場キャバレー」のホステスさんの人数は500名とある。そんな時代もあったのである。
- 何本かの映画は内容も詳しく紹介されているが、映画『喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん』は読んでいても北林谷栄さんとミヤコ蝶々さんの様子を思い出して吹き出してしまう。今井正監督は先を見込んで撮られたようであるが、それを越える程、おふたりはしたたかである。老人はしたたかに生きるべしである。
- 脚本を書かれた水木洋子さんは、「死を目前にみた老人が一日をたのしく遊べるところ、といえば浅草意外にない」といわれたそうで、右同じと同意させてもらう。浅草でしか会えないような多種多様の人々に会い、二人のお婆ぁちゃんは新たな社会体験をするのである。老人施設の面倒な人間関係それを浅草に照らしてみるとまだまだと元気になるのである。テレビに映った北林谷栄さんを見て「浅草のあの人」から、ミヤコ蝶々さんは元気をもらう。シニカルでコミカルで、脚本の力、役者さんの力、監督の力、そして浅草の力が融合した傑作である。その浅草を懇切丁寧に解説されているのがこの著書である。今度は根気よく確認しなければ。
- この著書には出てきてない映画がある。『ガキ☆ロック』である。コミックの実写化である。浅草に住む人情に長けた若者が時には暴走しつつも人助けに浅草を走り回る4人である。コミックならではの登場人物のキャラを楽しむ映画でもある。歌舞伎の『助六』だって江戸のキャラ満載の芝居である。
- 『ガキ☆ロック』は東武鉄道浅草駅が重要な場所となっている。そこにおり立った蝶々さんに主人公の源(上遠野太洸)は一目惚れである。源はストリップ劇場の息子で仕事を手伝っている。劇場の名前が、イギリス座。フランス座にぶつけたとおもわせる。蝶々さんはストリップの踊子さんで、兄を探しに大阪からでてきてイギリス座に世話になることにしたのである。その兄探しを手伝うのが源の仲間の、人力車の車夫のマコト(前田公輝)、フリーターのジミー(川村陽介)、坊主向きではないまっつん(中村僚志)である。
- お兄さんは見つかるのであるが、気の弱いヤクザになっていた。皆は、お兄さんを大会社のサラリーマンにし、恋人役も頼み、兄と妹の再会を演出する。しかし、それも蝶々さんにばれてしまい、最後はお兄さんもヤクザから堅気になって、兄と妹は東武浅草駅から大阪に帰るのである。(2014年/原作・柳内大樹/監督・中前勇児/脚本・山本浩貴)
- 東武浅草駅はかつては今のとうきょうスカイツリー駅が浅草駅で、その後隅田川を渡って延長し、浅草雷門駅とした。それが、浅草駅は、業平橋駅となり、浅草雷門駅は浅草駅となり、スカイツリーができ、業平橋駅はとうきょうスカイツリー駅となったわけである(詳しく知りたいかたは是非本で)。この東武浅草駅は電車が隅田川を渡って駅に入るのがなかなか面白いのである。
- 東武伊勢崎線で浅草からとうきょうスカイツリー駅まで乗ったのだが、どうもピントこないので、また引き返した。やはり駅構内に入っていくほうが新鮮な気分になる。隅田川に架かる東武鉄橋は隅田川が見えるように設計されている。かつてはとうきょうスカイツリー駅(浅草駅)から皆歩いて浅草に遊びにきたのである。ただ、上野などからは都電はあったであろう。今度はとうきょうスカイツリー駅から歩く機会をつくろう。
- 『ガキ☆ロック』の一人は人力車の車夫である。かつては、樋口一葉さんの『十三夜』のように、密かに想いあっていた男のほうが車夫に身を落としてといったような印象であるが、今の浅草では勢いのある格好いい姿を楽しませてくれていて浅草になくてはならない存在である。日本近代文学館(『浅草文芸、戻る場所』)では人力車・明治壱号が展示されていた。車輪は荷車の車輪職人、金属部分は鍛冶職人、座席は家具職人、塗装部は漆職人によって制作されていたとか。それぞれの専門の職人さんの合作だったわけである。
- 車夫の印象といえば、美空ひばりさんの歌『車屋さん』で明るい光があたったような気がする。『小説 浅草案内』(半村良著)では、主人公が猿之助横丁を歩いている時、ご苦労さまという芸者に見送られて梶棒をあげる俥屋のシルエットをみて、「たった一台だけだが、この界隈には俥屋がまだ残っていて、それが走っても全然違和感のない町並みなのだ。」と書いている。そして「生き残った最後の何台かは、木曽の妻籠あたりへ移って、観光用の商売をしているとか」とくわえている。実に色々な顔をみせてくれる浅草である。
- 『昭和浅草映画地図』には参考資料文献も記載されているので、興味ひかれるものは目を通したいものである。図書館にリクエストした本も二冊ほど届いたそうなので秋の夜長映画と本で楽しめそうである。そして思い立った時には浅草へ。夏に友人が浅草神社の夏詣での特別御朱印を貰いに行ったのだそうである。最終日で凄い人で整理券の番号からすると夕方になっても無理そうで、整理番号券があれば違う日でもよいということで後日再び出かけたらしい。
- 美空ひばりさんの映画『お嬢さん社長』で、お参りする神社があって、映画の流れからすると浅草神社のようなのだが、随分心もとないたたずまいなので違うのかなとおもったところ、『昭和浅草映画地図』にやはり浅草神社と書かれてあった。そんな具合に曖昧さを払拭してくれる有難い本でもあるわけである。
- 上野の『藤田嗣治展』の後、上野公園を歩いていると、スプレー缶で絵を描くアーティストに遭遇する。音楽を流しながらリズミカルにシュー、シューと吹きかけていく。材質は紙なのであろうか。どうやら海のようである。波かな。上から光が差し込む。できあがった絵も素敵ではあるが、やはりこれは絵の出来る過程が愉しいパフォーマンスアーティストである。
- 次は奥に雪山が顔を出し、手前は木々の森であろうか。木々の葉っぱの感じも細かく描かれていく。あーなって、そーなって、こーなってと早いのである。シューにためらいがない。紙を波型に切ってそれを当ててシュー。直角に板を当てて45度の線にシュー。観ているほうは必死でそのシューを追いかける。描く方はいたって軽やかである。たのしかった。
- 頭の中で思い描いた映画が、『ハチミツとクローバー』。登場人物はある美大の学生たちで、皆どこか変わっている。原作は、羽海野チカさんのコミック。でも美大にはこんな個性的な人がいそうである。天才的な力を持っているが、人と上手くコミュニケーションがとれない転入生の女子。ヘッドホンで音楽を聴きながら絵を描く。(はぐみ) その娘に恋心をいだく正当な青春派の建築学科生。(竹本佑太) その娘の才能を理解し、その娘をうろたえさせる、突然もどってきた才能ある先輩の自称芸術家。(森田忍)
- 好きな人の建築デザイン事務所でアルバイトをし、ストーカー的行動に出てしまい首になる建築学科生。(真山巧) その学生を好きでふられてしまうが、彼を応援し、再びアルバイトに復帰させるべく手助けする陶芸科の彼女。(山田あゆみ) この五人の物語で、この五人とつながっているのが、多くの学生に慕われている美大の教師で、彼の自宅は、時々飲み会の会場となる。(花本修二)
- 主なる登場俳優。蒼井優さん、櫻井翔さん、伊勢谷友介さん、加瀬亮さん、関めぐみさん、堺雅人さんとなれば、この順番をバラバラにしても、なんとなくキャラがわかってこの役はこの俳優さんと結び付けられると思う。青春物でドロドロした人間関係にはならない。美大の教師たちの年代のほうが何かあったような雰囲気であるが、そこは少し匂うぞで終わらせている。
- 一人は少し年上であるが、気持ちは青春で、まだ学生ということもあってそれぞれの才能の浮き沈みははっきりしない出発点で、それが青春物の基本ともいえる。こういう個性的な面々と一時期過ごしたくもなる良きキャラの面々である。(2006年・監督・高田雅博/脚本・河原雅彦、高田雅博)
- シューのスプレー缶とくれば映画『ヘアースプレー』。ぽっちゃりタイプの女子高生が毎日元気に青春を謳歌している。歌とダンスが好きで、歌とダンスのテレビ番組を観るのが一番の楽しみである。番組のホスト役の名前をとって「コ―ニー・コリンズ・ショー」。場所はアメリカ・メリーランド州ボルチモア。1960年代で人種差別の強いところらしい。主人公のトレーシーは、授業時間中に先生から注意を受け居残りの紙をもらってしまう。
- 居残り組の教室に行ってみると黒人の生徒たちが、ダンスを踊っている。新しいステップを教えてもらいトレーシーは彼らと踊るのが大好きになる。そして、「コ―ニー・コリンズ・ショー」のダンスメンバーに欠員が出来、トレーシーはそこに加わることができる。人気者になったトレーシーは、お母さんが巨体で家に引っ込んでいるため、自分の楽しさをお母さんにも味わわせたいと外に引っ張り出す。
- お母さん役がジョン・トラヴォルタで特殊メイクで、あのトラヴォルタだからこそ、あの巨体でダンスが出来てしまうのであろうと、その違いがたのしい。父親がクリストファー・ウォ―ケンである。あの渋さを崩さずにトラヴォルタとの組み合わせにはさすが役者さんとおかしくなる。ミュージカルで歌とダンスがたっぷりで、歌の歌詞を追っているとダンスがよく見れず、大忙しである。
- 人種問題や偏見などがテーマとなっているが、明るく乗り越え、好い方向に進んで行く。1988年に公開され、それがブロードウェイでミュージカルとなり、そのブロードウェイ版が再び2007年に映画となったらしく、監督も違う。とにかくトレーシーはキュートに踊って前へ前へと進む。それを阻止しようとする側にミシェル・ファイファーと脇の堅めもしっかりである。主人公役は、オーディションで射止めたニッキー・ブロンスキー。恋人役のザック・エフロンは『グレイテスト・ショーマン』の劇作家役だったらしいが、ちょっとそちらの顔が思い出せない。
- ヘアースプレーは当時の髪型を決めるための必需品でもあり、「コ―ニー・コリンズ・ショー」のスポンサーがヘアースプレーの会社なのである。テレビのなかでもむせ返るほど、シュー、シューとスプレーしている。というわけで、この二本の映画の登場となったのである。
- 京王井の頭線・駒場東大前駅西口改札から歩いて7分の「日本近代文学館」で『浅草文芸、戻る場所』展をやっている。関東大震災のころは、写真というものが庶民に広く普及していたわけではないので、十二階の凌雲閣などの様子も銅板画とか錦絵などで、こういう貴重な絵をしっかり保管しておられる方がいての展示である。2時からギャラリートークもありそのあたりのことの解説があった。
- 凌雲閣は関東大震災で二つに折れて倒れ、その後爆破されて消滅してしまうが、今年の2月にその建築跡が出て来てきちんとその位置が確認されたそうである。そのときに分けてもらった赤レンガの破片が展示されていた。凌雲閣が重要な場面となっている文学作品の紹介もあった。爆破のときのことは、川端康成さんの『浅草紅団』にもでてくるし、江戸川乱歩さんの『押絵と旅する』にも出てくるらしい。乱歩さんが使いたい建物である。青空文庫にもあるらしいがまだ読んでいない。
- 凌雲閣の映画といえば、『緋牡丹博徒・お竜参上』である。最後の闘争の場所が凌雲閣なのである。お竜さんが、鉄の門を開けるのであるが、そこからすぐに凌雲閣の建物がありこんなに狭いのだろうかとおもったが、絵からするとかなり正確である。架空の東京座という劇場の利権争いがあるが、この東京座の前に実際にあった電気館の建物が映り、この六区のセットには相当力を入れていたのがわかる。
- 監督は加藤泰監督で脚本も鈴木則文さんとふたりで書いているので、意識的に凌雲閣を選んだのであろう。お竜さんが世話になるのが鉄砲久一家で、色々調べられて、六区を選んだ以上その雰囲気を作り出そうと頑張られている。映画人の心意気である。お竜さんが馬車で走る鉄で覆われた橋はかつての吾妻橋のように思える。今戸橋の雪の中をころがるミカン。この映画の事は書いているかもしれない。
- 文学のほうにもどると、ひょうたん池に噴水があったが、もう一つ浅草寺の本堂の後ろにも噴水があってその真ん中に立っていたのが、高村光雲作の龍神像で、今はお参り前に清める手水舎に立っているのだそうで、よく見ていないので今度いったときは見つめることにする。その噴水で子供の身体を洗ってやる親子のことを書いているのが、堀辰雄さんの『噴水のほとりで』である。堀辰雄さんは橋を渡ったすぐの向島の育ちであるから浅草育ちと言ってよいだろう。
- 浅草はレビュー、カジノフォーリー、オペレッタ、浪花節、女剣劇、喜劇などのエノケン、ロッパ、シミキンなど多くの芸人さんの名前が登場する。シミキンこと清水金一さんなどの「シミキンの笑う権三と助十」の宣伝ポスターもある。伴淳さんもロック座で一座を構え、喜劇とレビューをやっていたが、レビューのほうが人気となりそれがストリップとなり、伴さんの退団でストリップ劇場になったとあった。こういうポスターやチラシなどを収集しているかたがいてその方たちからお借りしての展示となったようである。
- 同時開催として『モダニズムと浅草』として、川端康成さんを中心にした展示室もある。川端さんは映画『狂った一頁』(1926年)で映画製作にも参加している。小説『伊豆の踊子』の発表が1926年で、小説『浅草紅団』が1929年に発表され浅草が評判となり、1930年には映画化されている。そして『伊豆の踊子』が1933年に映画化されている。大正時代の経験が小説となり、そして、映画化さる。川端康成さんの作家として、あるいは作品としての知名度は芸人さんと芸人さんのいた場所と映画とが結びついて始まっているわけである。
- 大正モダニズムについては、日比谷図書文化館で特別展を『大正モダーンズ 大正イマジュリィと東京モダンデザイン』も7月1日まで開催していたが、そこで観たいと思っていた浅草ひょうたん池の夜の絵葉書があった。
- 高見順さんの『如何なる星の下に』で、主人公と嶺美佐子という女性がひょうたん池の橋の上から池に映るネオンをみて「綺麗だ」という場面がある。展示物に東京の地図に当時の写真の絵葉書をそえて名所を紹介していたものがあった。名所用でもあるから、夜のひょうたん池はネオンの灯が映って美しかった。けばけばした歓楽街とすたれた歓楽街の両極端のイメージがついて回りちょっと気の毒な六区なので、「綺麗」の言葉にちょっと気恥ずかしがっている六区に思えた。
- 『東京モダーンズ』では、大正時代の印刷術の発達と出版文化の興隆時代であることに触れている。なるほどと納得する。雑誌の表紙や挿絵、そして、浅草でのカジノフォーリー、レビュウー、演劇、音楽などのポスター、パンフレット、プログラムなどにどんどんポップな絵やデザインが使われるのである。それが『浅草文芸、戻る場所』の六区のポスターなどにもあらわれている。
- 女性や子供に人気があったのが竹久夢二さんである。その他、杉浦非水さんなどが図案集などをだし、そこから商店などが宣伝用に図柄を使っているのである。「新時代のジャポニズム」として小村雪岱さんや橋口五葉さん、鏑木清方さんなどの絵も新しい浮世絵として見直される。
- 次に出てくるのが写真ということになる。浅草の芸人さんたちも写真で紹介され雑誌などにも写真で登場ということになる。劇場も実演が成功すると芸人さんは浅草六区から出て行き映画のほうが主となっていく。この辺の変遷は沢山あった劇場のそれぞれの変遷でもあり複雑で手に負えない分野である。浅草を舞台とした小説も書かれた年代によって浅草の顔が違う。
- 高見順さんの『如何なる星の下に』は、1939年(昭和14年)に連載され、その時代の浅草なのであるが、主人公はその一年前に浅草の本願寺うらの田島町に部屋を借りるのである。しかし主人公は六区や浅草寺の境内や仲見世などにはいかないのである。その反対側にある「風流お好み焼 惚太郎」が軸になっていて、そこで出会う芸人さんなどとのことで回転していくのである。
- 活躍している芸人さんたちではないのでその人達からきく六区の様子はかなり厳しい状態のようである。浅草国際劇場の松竹歌劇団華やかなりし頃で、そのお客は脇目もふらずに田原町の停車場か地下鉄駅と劇場を真っ直ぐに往復すると書かれてある。そういう時代である。
- 「風流お好み焼き 惚太郎」は現在の「染太郎」さんで、「高見順の観た浅草」ということで、日本近代文学館では染太郎二代目ご主人の対談があったようである。『如何なる星の下に』で主人公は、浅草レビュー発祥の水族館も廃屋のままで、ただ食い物屋は凄いと言っている。確かに無くなってしまった飲食店もあるがいまだにしっかり残っているところもあり、主人公の考察は当っていることになる。また半村良さんの『小説 浅草物語』は時代も違い、浅草の別の顔がみえるが、長くなるのでこのへんで・・・。
- 『浅草文芸、戻る場所』の主催は「浅草文芸ハンドブックの会」である。