映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

2012年締めの観劇 『日本橋』で、観劇の感想を書いたが、映画『日本橋』(舞台公演を映画としてのこしたもの)を観る。時間がたってみると、かつて自分はこのように観ていたのかと意外とかつての自分に対し冷たいものである。今回は、<瓦斯灯>が気になって仕方が無い。一石橋で、お孝がガス灯の陰に隠れて佇み、葛木と巡査のやり取りを聞いていてガス灯の光を受けて姿をあらわす。照明の具合がいい。ガス灯はこんな具合に柔らかく照らすのであろうかと感じ入ってしまった。実際はどうあろうと私の中でこれがガス灯の灯りとインプットしてしまった。映画の場合、アップになる。舞台の場合は自分が好きなようにアップにしたり、全体を見たりと自在にやっているので、舞台の録画中継のとき、納得できなくて、ただ粗筋を理解しただけという場合もある。

さすが映画も作られている玉三郎さんである。重要な台詞のとき、聞かせどころ、観させどころを心得ておられる。アップが効果的で台詞がリアルに伝わってくる。そして涙しつつ、現実にこのような美しさはあり得ないが創造することは出来るのだと考えさせられる。汚れているはずのお孝がよごれをきちんと引き受ける潔さが伝わる。自分で播いた種を綺麗に刈り取って、次の種を播くためのさらな地を残していく。葛木はその時気がついたのではなかろうか。自分が作った美しさを人に求める時それは消えていくことを。彼が求める理想の人はこの世にはいないのである。しかし、鏡花さんは自然主義の自分をさらけ出して許しを請うことは文学の世界として相容れないものであった。消えても違う世界に美しくとっておきたいのである。触れることができなくなっても。

音がよかった。下駄の音。雪を踏む音。流れてくる長唄など(と思うが)。そこが舞台と違ってはっきり聞こえ映画の平板さを補ってくれた。

日本橋のコレド宝町は凄い人である。『日本橋』の映画を上映していたので行ったので何があるのかよく分らないが、こういうのは苦手なので早々に本郷菊坂散策の取りこぼし拾い作戦に移る。

上野広小路から仲町通りを歩く。現在は様々の歓楽のある通りである。通りの横道の空間から桜と不忍池の弁財天の屋根が見える。お蔦のころはもっと姿を現していたのであろう。その方向に手を合わせる人の姿も美しいものがある。そこから湯島天満宮の下を通り、切通坂を上る。瓦斯灯がきになったが時間がないので寄らない。しばらくは舞台映画のガス灯で十分である。啄木さんの案内板、壺の最中の壺屋さんもどんどん通り越し、本郷三丁目交差点へ。

申し訳ないが、再び交番で、「文京ふるさと歴史館」を尋ねる。春日通りをそのまま、信号3つ過ぎた右手の横道の左である。途中通り向かいに啄木さんの下宿していた床屋さん、理容院アライが見えた。一つ拾う。「文京ふるさと歴史館」についたのが4時40分過ぎ。5時閉館なので資料を買い、周辺地図をもらい、地図で<坪内逍遥私塾跡><宮沢賢治旧居跡>を教えてもらう。ゆっくり再訪することを告げ館の前の道を進むと炭団坂で急な階段である。その横に<坪内逍遥旧居跡>の案内板。メモする時間はない。炭団坂を下りて右手にいくと何人かの女性グループが<宮沢賢治旧居跡>の案内板をよんでいる。まずは三つ拾ったので安心。

地図を観て菊坂に上がり、菊坂を言問通りまで進む。今回は近道をしようとはせず、確実性を重視する。そこから新坂を上り、啄木ゆかりの旅館「大栄館」があり地図どおりに行くと、<徳田秋声旧宅>が見つかった。現在も人が住まわれているので案内板を静かにながめ元来た道をもどり、白山通りに出て<樋口一葉終焉の地>を目指す。そこは3回ほど行きつもどりつしてしまった。反省として旧東海道を歩いているわけではないのであるからして距離感覚を短くである。無事拾い集められたようである。歩いている途中で、明日の町歩きの問い合わせがくる。皇居の乾通り抜けは混雑しているようでやめることにする。

まずは何とか本郷菊坂散策は拾い集めることが出来た。詳しいことは後日何かの折に。

 

 

本郷菊坂散策 (1)

友人たちと歩いた谷中から、今度は本郷を歩こうと、湯島天神から始める。梅の三分咲きの頃である。湯島天神となれば菅原道真公であろうが、浮かんでくるのは、<湯島通れば思い出す お蔦主税の心意気>で泉鏡花の『婦系図』で新派である。いつどのようにこの歌の一節を記憶したのか覚えていない。<ちから>が<主税>と書くのも知ったのは随分あとである。

司馬遼太郎さんの『本郷界隈』によると、明治の文明開化の象徴ともいえる瓦斯灯(ガス灯)がこの境内に何基かあったことに触れ、「瓦斯灯があればこそ主税はお蔦をここへよび出せるのである。ふつう、村落の氏神の境内などには夜間灯火がなかった。もし湯島天神もそうだったら、両者は闇の中を手さぐりでにじり寄らざるをえず、芝居にならない。」と記している。なるほどと思いつつ、そこは工夫して石灯籠に火を灯し、背景に月を描き、月明かりとするであろうなどとつまらぬ事を考える。しかし明治という時代性を考えると<瓦斯灯>が似合っている。市川雷蔵さんと万里昌代さんの映画『婦系図』の録画が何処かにあるのでどうなっていたか、そのうち調べてみる。新派の舞台は瓦斯灯だったと思うが。ガス灯も復元されたらしいが、司馬さんの本は今、桜の時期に読み気がつかなかった。

宝物殿へ入館してきたが、ここで思いがけず川鍋暁斎さんの「龍虎図」の衝立一双に出会う。龍も虎も威圧的ではなくどことなく愛嬌がある。意外な出会いである。湯島の梅に因み、奥村土牛、横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳等の梅の絵があり、竹内栖鳳の絵に引き付けられた。富くじの箱が展示されていて、司馬さんによると「この神社は幕府から社領をもらわず、そのかわり“富くじ”の興行をゆるされ、経費をそれでまかなっていた。」とある。当殿のパンフによると、目黒不動、谷中の感応寺、湯島天満宮が三富と称されたいへんなにぎわいをみせたらしい。落語の「富久」は深川八幡宮である。

男坂から下りようとすると、<講談高座発祥の地>の碑を目にする。文化4年(1807年)湯島天満宮の境内に住み、そこを席亭としていた講談師・伊東燕晋が家康公の偉業を語るにあたり庶民より高い高座とし、北町奉行小田切土佐守に願い出て認められたとある。なるほど初めから高かったわけではないのである。男坂を下り、美空ひばりさんの「べらんめい芸者」<通る湯島に鳥居はあれど 小粋なお蔦はもう居ない>と湯島天神から春日通りを登る。この切通坂は先にある麟祥院に春日局のお墓がありそれに因んだ名らしい。

ここから少しきつくなる。坂の勾配ではない。ここからのメモをなくしてしまったからである。さあどうなりますか。手さぐり坂である。

映画と新派の『婦系図』が見つかった。

映画『婦系図』(1962年) 監督・三隅研次/脚本・衣田義賢/出演・市川雷蔵・万里昌代の湯島天神はガス灯である。実際にはガス灯の明かるさはどの程度であったのであろうか。電球の街灯でさえ一部分を照らしていたのであるから、ほのかに明るいという感じであろうか。

新派は、新橋演舞場1985年公演の録画である。演出・戌井市郎/脚本・川口松太郎/出演/片岡孝夫(現片岡仁左衛門)・水谷良重(現水谷八重子)・波野久里子・安井昌二・長谷川稀世・英太郎・菅原謙次・杉村春子で、大きな石灯籠の灯りであった。こちらの方が場面としては薄暗い。お蔦が「あなた、いい月だわねえ」の主税の答えは「月は晴れても心は闇だ」である。月の姿はないが、台詞の中に<月>が出てくる。「ほらあの月を見てごらん。時々雲もかかるだろう。まして星ほどにもない人間だ。時には闇にもなろうじゃないか。」(主税)

あの周辺を歩いているので、台詞が立体化する。お蔦が自分が巳年なので弁天様にお参りしてくるという。それは上野不忍池の弁天様である。あそこまで行くのであろうかと距離的にどうかと思ったら、戻ってきたお蔦は仲町の角からお参りしたと告げる。江戸の切絵図でいえば池之端仲町の角ということであろうか。お蔦の別れる際の台詞が「切通しを帰るんだわね。思いを切って通すんじゃない。体を裂いて別れるよう。」

喜多村 緑郎さんのお蔦が良かったので、湯島の場面は泉鏡花さんが新たに書き足した場面らしいが、この辺はよく歩いていたらしく風景を上手く台詞に反映している。ただ、一度、石灯籠ではなくガス灯で舞台をやって欲しいとも思う。お蔦が石灯籠に腰かけての形がなくなるが、どうもあそこで形を作っていると意識され、リアルさから引きもどされるのである。それまでの作られているが、清元の「三千歳」の語りに合わせて動くお蔦の自然に流れるような動きが一瞬、それこそ引き裂かれてしまうのである。新しい明治のガス灯の淡い灯りのなかで、闇に向かう恋路というのもなかなかいいではないかと勝手に思い描いてしまった。ガス灯でも月の台詞は邪魔にはならない。

映画のほうは清元の「三千歳」は流れない。替わりに境内の石畳と下駄が作り出す音である。

 

演劇 『あとにさきだつうたかたの』と映画 『あなたを抱きしめるまで』

時間が取れないため、一日に凄い詰め込みかたをした。

銀座の映画館シネスイッチ銀座で『あなたを抱きしめるまで』の最終回を申込み、砧公園にある世田谷美術館で『岸田吟香・劉生・麗子展』を、下北沢で本多劇場で『あとにさきだつうたかたの』を、日比谷の出光美術館で『板谷波山展』を、すこし時間が空き、映画『あなたを抱きしめるまで』を見る。何処かでギブアップかと思いきや、それぞれ楽しめた。最後の映画はきっと睡魔であろうとおもったらどうしてどうして、見ておいて良かったである。

加藤健一事務所の『あとにさきだつうたかたの』は、作が山谷典子さんである。この方の書かれた作品は初めてである。役者さんとしてはまだ見ていない。この作品を観て、30代の女性がしっかり歴史を見つめ、演劇として構成的にも面白い本を書かれたことが心強かった。次の時代を担う人達のほうが冷静であるのは嬉しい限りである。戦争時代を通らなければ成らなかった人々の人生と日常の中での心。さらにジャーナリズムとは何か。科学者とは。加藤健一さんを始め役者さんの演技力で静かに確実に伝わる舞台をつくりあげた。

自分に問いかけたり、誰かを待っていたり、問いかけても答えてくれない回答、待っていても来ない人、さらに答えを見つけようとし矛盾に急速に飛び込んでしまう人など、ウミガメの産卵と脱皮からウミガメを生きる先輩として配置し、さらに鴨長明の<ゆくかわのながれはたえずしてしかももとのみずにあらず よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすびてひさしくとどまりたるたとえなし> をも下敷きとしている。

隠されているもの、知らせられないもの。それを知ると言う事はつらいことでもある。知ったがゆえに心にもっと傷を負う事もある。しかし、知りたいと思う人の意思を妨げてはいけないし、最終的には妨げられないことであろう。

説明しなければならない事がらを山谷さんはきちんと台詞で語らせ、説明にはしていない。生活者の言葉としている。最後に個人の事情を知らない人同士が、ウミガメの子どもが殻を破り海へ一斉に向かうのを見に行きましょうと約束する指切りがいい。そして、盲目の傷痍軍人が家族を探すために、帰らぬ息子を待つ母親のために唄う歌が美しい。

今と過去を加藤さんは老人の姿のまま少年になり、行ったり来たりする。休憩がなく、同じ舞台装置なので、その行き来に邪魔が入らず観客も負担なくスムーズに行き来でき、老人の明らかになっていく人生と時代を納得していけた。懐かしさを通り超えたところにある真実への虹の架け橋である。

それから、二つの美術館。これまたよく調べられて自分の興味あるところをピックアップし易い構成の展示と解説で、疲れることなく、ピックアップして楽しんだ。

映画『あなたを抱きしめる日まで』は事実に基づいた映画である。やはりジュディ・デンチは裏切らない。この人がいての映画である。ハッピーエンドの小説の好きで、一緒に息子探しの旅にでるジャーナリストと男性に粗筋を嬉々として語るところなど微笑ましいし、考えた事を伝えるところは自分なりにしっかり考えたという自信があり、事実に直面したときの威厳が何とも言えない。取り乱すことのない許しは、この主人公のずーっと息子を思い続けてきた苦しみの裏返しであろうか。この映画はジュディ・デンチあっての映画である。

謎が解かれて行く途中のミステリー映画のような音楽もいい。旅を一緒にするスティーヴ・クーガンの主人公フィミナの様子を見つめる眼もいい。真実はいつかは知らされる。その時はいつか。遅すぎるとその悲しみは誰が受けなければならないのか。胸を張ってドアを叩く。

 

 

水木洋子展もラストへ

平成25年10月26日から始まった市川市ミュージアム企画展の『水木洋子展』も3月2日で終了である。期間が長いのでと思っていたが、なんとか2回行くことが出来た。水木さんが脚本を書くにあたって現地へ行かれ念入りな取材と資料の中から積み上げていった事はよく分った。たとえば、『ひめゆりの塔』に関して、現地の校長先生の話の取材で<沖縄では、いわゆる適格者(18歳以上60歳までの男女)は軍の命令によって疎開できなかった>とあり、映画の会話の中にも、自分の母親が60歳なので疎開できないで残っているとでてくる。水木さんの取材メモが無かったら見過ごしたであろう。そんな事実があったのだ。

東日本大震災のとき、未亡人の知人が息子さんさんにとにかく後で笑い話になってもいいから関東から脱出して関西に行ってくれと言われ京都に行ったそうである。ホテルはどこも満室に近かったようだ。お母さんが行っててくれれば何かがあれば、僕たちはバイクでもなんでもそちらに行けるからと言ったそうで、笑い話ではなく、凄い親孝行な息子さんと話を聞いた皆は感心した。この沖縄の話からそんなことも思い出した。

今回は、展示されていた水木さんの映画作品のポスターやチラシの中の宣伝や紹介文を一部載せておく。

ひめゆりの塔』  一人の英雄もなく一人の残虐な将校もいない焦土と化した沖縄に「ひめゆり部隊」二百余名の乙女がその若き生命を捧げて永遠の平和を願う 一大叙事詩!世界映画史上に不滅の一頁を!

キクとイサム』  村中をひっくり返すデブちんと腕白小僧!

おとうと』  生きることに徹し愛することに徹した二つの魂!市川崑が人間の美しさ挑む文芸大作!

喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん』  ズラリ揃った奇想天外の配役陣!愉快で陽気なオバアチャンの浅草道中!

あれが港の灯だ』  波荒き玄海灘に体当たりする日本映画界空前の野心作!!

裸の大将』  頭がよわいが絵を描きゃ大将!日本中の毒気を抜いてぶらぶら歩けば犬まで笑う!

ここに泉あり』  いばらの道をふみこえて夢は大きく花ひらく今井映画最高の壮麗ロマン!

あらくれ』  幾度も男に傷つき躓きながら女の生甲斐を求めるお島

あにいもうと』  洋画ファンも文化人もきっとこの怒りと愛情に泣く!最高文芸巨編!

夫婦』  市井の片隅に揺れていて侘しい夫婦のささやかな愛の灯妻の倖せとは・・・全女性いに献げる愛の珠玉

丘は花ざかり』  恋する現代女性の生態、限りない親愛感を以てせまる石坂洋次郎文学決定版

おかあさん』  往年の名作「綴方教室」を凌ぐ感動の芸術作品!

浮雲』  風に吹かれ雨にたゝかれ儚くながれゆく浮草の流転する姿にも似た女が・・・・

今回展示されているポスターの一部で、ポスターは幾種類かあるので、そこにはまた違う宣伝文があるであろう。

展示と関係の無い他の資料の中には、たとえば、『浮雲』などは、<漂泊の涯てなき恋の旅路の歌かあわれ女の情炎図>と書かれたものもある。こうして見ていくと、いかにして映画にお客を引き付けるか宣伝部が工夫をこらしていたのであろうと 想像できる。今の時代のポスターはどんなであろうか。気にかけていなかったので、これを機会に気をつけてみよう。

水木洋子のドラマと映画 (3)

水木さんの作品に石坂洋次郎原作の『丘は花ざかり』(1952年)がある。これは共作で、相手は『青い山脈』(1949年)で脚本家デビューをした、井手俊郎さんである。映画脚本では、水木さんも八住利雄さんと共作で『女の一生』で1949年の同年にデビューしている。井手さんとは『丘は花ざかり』『夫婦』『愛情について』『にごりえ』の4本共作している。<男女の問題を扱うとき男の作家が加わる方が中庸を得る>とし、井手さんに関しては「珍しいほど女性について新しい鋭敏な理解者」と言われている。井手さんのほうは、原作を約7分の1のシナリオにした大変さと「ほとんど全部水木さんにおんぶして、どうやら出来上がった」といわれている。『青い山脈』は戦後の初の古い考え方を打破する青春映画と言えるもので、池部良さんと、杉葉子さんの学生としては少し大人過ぎるが、爽やかなフレッシュコンビである。

そのコンビともう少し大人のちょっと危ない関係を描いたのが『丘は花ざかり』である。この映画は市川市文学ミュージアムの貸出でその場で視聴できた。『青い山脈』で大人の色気で魅了した芸者役の小暮実千代さんが既婚の姉で杉さんが出版社勤務の妹役である。この二人の恋愛を軸に話は進む。

小暮さんは、息子のPTAの役員となりそこで上原謙さんに引き付けられる。この上原謙さんが好演である。キザでありそうで、キザまで足を踏み入れていないぎりぎりの線を保ち、女を魅惑的に誘う役どころである。本物の恋に発展しそうな雰囲気でありながら、小暮さんは家庭にもどるのである。『青い山脈』の<変しい、変しい>の手紙のアクセントと同じで、他の役員に、小暮さんと上原さんは見られたくない場所で会っているところを見られてしまう。、その役員から小暮さんの夫に手紙が届く。てっきり逢引の告げ口と思ったらそれは夫への碁のさそいであった。

杉葉子さんは奥さんを亡くした上司の山村聡さんを好きになってしまい、子供の世話などもし結婚を考えるが、山村さんはそういう気持ちはないとはっきり伝える。杉さんは落胆するが、杉さんに好意を持っている池部さんとのことを恋愛の範ちゅうに入れることとする。

小暮さんの家族と、杉さん池部さんが加わり、上原さんとの関係を清算し農場に住み込む高杉早苗さんのところへ遊びに行き、全て丸く治まり皆で笑顔でサイクリングとなるのである。バックには藤山一郎さんの歌う「丘は花ざかり」が軽やかに流れて目出度し目出度しである。大人のほんのり冒険的心ときめかす青春映画といったところである。主題歌としては「青い山脈」のほうが、やはりインパクトは強い。小暮さんと上原さんの不倫ものとなれば、当然「丘は花ざかり」の歌は挿入されないであろう。そこにもう一つの恋を組立て上手く収めている。<中庸>なのかもしれない。  監督・千葉泰樹 (「青い山脈」「丘は花ざかり」はともに 作詞・西條八十/作曲・服部良一)

上原謙さんは、木下恵介監督のデビュー作 『花咲く港』 (1943年・菊田一夫原作)で小沢栄太郎さんと兄弟を装ったペテン師役をやっている。おおごとになると思わなかったのに、小さな島全体の善良な住民を騙す事となり結果的には改心し島のために尽くす形となる。この役などは、『丘は花ざかり』後に演じたとしたらもっと面白味のある演じ方をされたと思う。1953年『』『夫婦』で毎日映画コンクールで主演男優賞を受賞されている。『夫婦』は水木洋子さんと井手俊郎さんの共作で成瀬己喜男監督、共演・杉葉子さんである。

 

 

水木洋子のドラマと映画 (2)

水木さんのドラマ、映画の作品で音楽性という事も興味を誘う部分である。その中でも『キクとイサム』のなかでの、キクが歌う歌である。『キクとイサム』は日本映画の黄金時代と水木さんの最も輝かしい時代の作品でもある。1960年公開で、1959年には、日本映画は映画観客が年間11臆2700人と史上最高記録となっている。

キクとイサム』は、母が日本人で父がアメリカ人の姉弟である。キク12歳、イサム9歳で父はアメリカに帰り、母は亡くなり、東北の貧しい農村で祖母に育てられている。町に出かけたりするうち、自分を見る人々の視線に疑問を持つようになる。祖母も回りの人々もこれからの二人の行く末を心配し始め、弟のイサムはアメリカに養子となって行き、キクは自分がどうなるか不安でもある。祖母はキクに対してもイサムに対しても可愛いい気持ちは十分ある。しかし老齢でもあり、どうするか頭を抱え彼女なりの考えで孫の幸せを一生懸命に考えたのである。そしてキクに対しても結論をだす。辛い仕事なのでやらせたくはないが、借りている狭い農地で畑仕事を自分について覚えろとキクに伝えるのである。キクは嬉々揚々として農具の鍬を肩にかけ祖母の後をついていくのである。

監督・今井正/脚本・水木洋子/出演・高橋恵美子(キク) 奥の山ジョージ(イサム) 北林谷栄(祖母) 滝沢修、宮口清二、東野英治郎、朝比奈愛子、清村耕次、荒木道子、三国連太郎

キネマ旬報ベスト・ワンに選ばれている水木さんの作品は五作品ある。『また逢う日まで』『にごりえ』『浮雲』『キクとイサム』『おとうと』である。

水木さんはキネマ旬報に要約すると次のような一文を書かれている。<背後に民族問題ということもあるが、大上段に社会劇としたり、問題劇として叫ぶことは避け作品のスタイルも写実からシンボライズへ半歩前進したいのがこの仕事のねらいである。東北に世界をおきながらも、山ざとのカラリとした夏から秋に設定した。主人公のタイプもわざとフトッチョの美人型でない可憐でない、憎たげなフテブテしい子供を描き、主役タイプの定石を破りたかった。殆どが反対意見で、監督が最後の決断をくだしてくれなかったら、私はこの脚本と心中をしてしまったことであろう。>

今井監督のほうは、子役を探し東北で70人くらいの子に会っていたが、水木さんが東京で探して「あの子に決めた。あの子でないと書かないわよ」と言ったという。それがキク役の高橋恵美子さんである。今井監督は「おばあさん役の北林谷栄さんともども大きな功績ですね。」ともいわれているから、北林さんを選ばれたのも水木さんだったのであろう。水木さんは、柳永二郎、伊志井寛の旗上げ公演に『風光る』の芝居を書かれていてその時、北林さんと会っている。その時「風雪に立ち向かう激しい姿勢が、だれかと話すひと言の中にも、ナマで私は感じられ、遂に恐れをなして一語も言葉をかわさなかった。」そして『キクとイサム』で初めて口をきく。「その一番初の言葉が「ずいぶん水木さんも成長したものだ」と感にたえた声で言った。「これだけ描かれた役柄を自分がはたしてやれるか」とは言わなかったが、脚本をほめておいて、見ごとにやってのけた。」水木さんの役者さんの選び方の修養さの一端である。

深刻なテーマでありながらユーモアにみちているのは、子供の遊びや夢中になるその姿でもある。祖母が神経痛が痛み、野菜を背負い町へ売りに行き、そのお金で医者にかかる。その時、キクは膚の黒さから好奇の目にさらされる。それを感じた祖母はキクを先に帰す。その帰り、キクはアイスキャンディーを買うお金で櫛を買う。女の子の自然の感情として、周囲に関係なく楽しそうに描く。祖母は医療費の値段を聞き注射をやめて逃げ帰る。そのお金でイサムには帽子をキクには下駄を買って帰る。キクはイサムに大事にするように言い、イサムも喜んで約束する。次の場面では、その帽子は採った魚を入れる容器となってアップとなる。かくありなんである。子どもは面白いことがあれば、それに集中する。子ども達の遊びも言葉の暴力も遠慮なく描く。

イサムが養子に行ってしまい寂しいであろうと、祖母は村に芝居が来るとキクを見に行かせる。キクは歌をすぐ覚えるらしく、<ケイセラセラ~><りんごの花びらが~>とか所々で口ずさむ。それが花開くのが、旅役者の人々に披露する歌である。「お富さん」のタップつき。褒められてやるのが、しぐさつきの「江戸の闇太郎」である。このあたりも水木さんの手の内のように思われる。今井監督は『青い山脈』で歌謡曲挿入に反対している。歌舞伎のおかるの台詞導入といい水木さんの発想と思う。山奥で見聞きするもの。それは、集会所にくる、映画か旅芝居であろう。それを入れて当時の庶民の娯楽をもり込んでキクを慰める楽しみごととしている。そのことが、登場人物を生き生きとさせる。ここで問題が起こる。夢中になったキクは、いじめっ子を追いかけ子守りをしていた赤ん坊を停まっていた車の荷台に乗せ、その車が発車して赤ん坊が行方不明となるのである。この事件があり、キクは自殺を試みるが、身体の重みで古い縄が目的を果たせず切れてしまう。祖母は決心する。

「お前を何処にもやンねエ。婆ちゃんと一緒に居てエつウなら、4反借りている畑サ一人で立派にやってのけるようになれ。」

大人のしるしのあったキクは赤飯の弁当を持ち祖母と畑に向かうのである。途中で会ういじめっ子にキクは笑顔で言う。「年頃だから、オラ。かまってやらねえで。もう。」 チンプンカンプンのいじめっ子を後にキクは堂々と胸を張って祖母の後についていくのである。このラストも語り草となる可笑しさで、見るものをほっとさせる場面である。

お蚕を飼っていて、そのために摘んだ桑の葉が雨に濡れてしまう。キクもイサムも祖母のところに駆けつけ、桑の葉の入っている駕籠の上から自分の着ている洋服を脱いでかける。こういうところは、お蚕さんを飼っている農家にとって、お蚕さんがどれだけ大事かわからない人も多い事であろう。町の祭りの帰りに寄ってくれた人を接待する食べ物が畑から抜いてきた大根の輪切りである。その貧しさの中でもキクは憎まれ口をきき負けてはいない。そのふてぶてしさはキクの命そのものである。見ている者がいつの間にか笑いつつ応援してしまう。

バック音楽はピアノで始まる。何かが起こると管弦楽器なども加わるが、基調はピアノである。その流れにキクの歌謡曲がはいるのである。

風に稲穂はあたまをさげる~ 人は小判にあたまをさげる~ えばる大名をおどかして~~~ヘンおいらは黒頭巾 花のお江戸の闇太郎~

見終わると、このメロディーが出てくる。百円ショップで美空ひばりさんの「江戸の闇太郎」の入っているCDを買ってしまった。 ~花のお江戸の闇太郎~

参考  北林谷栄さんとミヤコ蝶々さん

水木洋子のドラマと映画 (1)

市川市文学ミュージアムで水木洋子展をやっていることはすでに書いたと思うが、水木洋子展の内容に関しては書いていない。と言いつつ今回も書くつもりはない。映画のポスターや、シナリオの原稿は説明しても想像するのは難しいであろう。と言う事で水木さん脚本のドラマについて。

横浜放送ライブラリーで、水木さん脚本作品の聞けるもの見れるものは全て見たのであるが、水木洋子展の関連でテレビドラマ上映会と映画上映会をやっている。その中で、1970年の「東芝日曜劇場 五月の肌着」だけ再度見ることが出来た。面白い手法を使って姉と弟の言葉に表すと壊れてしまうような情愛を描いている。

先ず画面の大きさでバックに流れる音楽の見る者への影響が大きいことを知る。チェンバレンのような楽器の音楽が流れその音楽と列車の踏切の信号の点滅とが重なる。いい流れである。放送ライブラリーでは気にかけなかったがはっきりと印象づけられる。電車の乗り降りの乗客があり、ホームの若い青年が電車のドアガラスを乗車内に向かって割るのを乗車内から写す。その青年のこぶしの先に一人の着物姿の女性が写し出される。彼女の仕種、表情から回りの乗客三人がそれぞれこの男女の関係を想像するのである。その想像が週刊誌の見出しと同じというように、電車の中の週刊誌の釣り広告が映し出される。

この美しい女性は池内淳子さんで、想像に任せて、想像の役をするのである。青年が高橋長英さんである。人の想像とは面白いものである。どれが本当の彼女なのか。若い男を騙し袖にしてその仕返しなのであろうか。水木さんは、よく役者さんを見ていて上手い配置をする。特に女優さんの選び方は素晴らしい。(一応水木さんが選んだと仮定していての話である)池内さんは五役演じている。48分のドラマに五役であるから何が何だかわからないという事になりそうであるが、そこは、脚本の良さと役者さんの力である。この二人の男女の関係は本当はどういう事なのかと頭のどこかで思わせられつつ、本題に引っ張られていく。

問題を起こし家を出てしまった弟。家族のために婚期を逃してしまった姉が今度こそは結婚しようとして、弟に会いに行くのである。弟には年上の恋人がいて、弟は姉を慕っていることがわかる。今度は自分は結婚すると決めそれを告げ電車に乗ったところで弟が姉に向かって電車のドアのガラスを割るのである。それが弟のどんな気持ちなのかは、見る者に託されている。

私は、弟が俺はもう大丈夫だよとの気持ちでこぶしを奮ったと感じたが、見る人によっては、結婚するなの意思表示ととるかもしれない。池内さんはその弟の行動にびっくりするが、時間が経つと微笑むのでる。単なる微笑みではないので事情の知らない人は、ふてぶてしい笑いととり自分の想像通りと満足するのである。

父親が畳職人で中村翫右衛門さんである。(このかたの芝居を見れなかったのは残念であった。映画『いのちぼうにふろう』の安楽亭の主人などは大好きである。この人以外考えられない。あの仲代さんのような個性的な役者さんの親分となれるのは。)母親代わりとなって婚期を逃した池内さんとの親子関係も息が合っている。長男が林隆三さんで飄々としている。次男の高橋さんのほうが、畳職人としての腕は良かったらしい。そういう細かい人物設定も水木さんならではである。

もう一度見たいなと思わせる作品である。電車の音なども入り丁寧に作られている。

参考  水木洋子 『北限の海女』

 

 『三千両初春駒曳』から映画『家光と彦左』

『三千両初春駒引』の幕に美しく飾られた白馬がうつし出され初春らしい華やかさであった。馬の鞍がきらきら輝き席につくと楽しい芝居が観れそうで明るい気分にしてくれる。素敵な趣向である。

<釣天井>で思い浮かべたのが、映画『家光と彦左』である。「宇都宮釣天井事件」という史実的にははっきりしない話があり、これは、二代将軍秀忠を宇都宮城主本田正純が釣天井で暗殺しようとしたというものである。『三千両初春駒曳』でもその話を導入して勝重が三法師丸を暗殺するため釣天井をつくるのである。歌舞伎の釣天井は、釣った天井の上に大きな石が幾つか乗っており、天井が床に落ちても、そこに役者さんが隠れるような工夫になっていて、人が床に潰されてしまう形となった。

映画『家光と彦左』は、三代将軍を決める時、長男の千代松(家光)を大久保彦左衛門が押し、次男の国松を松平伊豆守信綱が押す。将軍秀忠は彦左衛門の長男が継ぐのが順当の意見に従い、家光を三代将軍にする。そこから家光と彦左の<じい><わこ>の熱い関係が生まれるのである。彦左は老体となり生きがいを無くす。それを見た天海僧正が時には暴君となるのも必要ですと家光に提言する。家光は彦左が飛んできそうなことをしでかし、彦左は張り切って家光に意見すべく登城してくる。家光は彦左の花道として、日光東照宮参詣の先供を命じる。彦左は三千石の身分の自分がと涙を流し任務に励むのである。途中、本多正純の宇都宮城に寄りそこでの宴の席が突然、入口、窓など全て閉じられる。何事かと尋ねる家光に正純は自分は秀長(国松)を将軍にと仕えていたから、ここで家光には死んで貰うという。そして釣天井が下がってくるのである。主君正純の考えに一度は同意した家来の川村靭負は慌てることなくそれを受け入れようとする家光を、隠し通路から逃がし自分は正純の家来として死するのである。

家光を窮地に立たせてしまった彦左は切腹の覚悟であったが、家光は彦左の気持ちを察し、勝手に死ぬなよと言葉をかけるのである。

あらすじを読むと娯楽時代劇の定番であるが、家光が長谷川一夫さんで彦左が古川緑波さんである。天海僧正の意見を受け入れ家光は芝居をする。遊興にふけり白拍子と連れ舞いをする長谷川一夫さん。お手の内である。ところがその間に分け入るロッパさんの動きのよさ。老人の形で危なっかしさを見せつつ踊りのすき間を上手く動くのである。家光が芝居をしていると彦左は気が付き憤慨するが、天海に家光の心を受け入れなさいと言われ芝居に芝居する。その辺のあたりも二人の役者さんの見せ場である。長谷川一夫さんは川村靭負との二役で船弁慶も舞う。そしてもう一つの見どころは16歳の藤間紫さんが出ており、静御前を短時間であるが舞う形がいいのである。長谷川さんが褒めたというのでこの映像を見て確かめられ納得した。

1941年の東宝作品で、戦の馬の場面、釣天井が下がる屋台崩しや、建物の爆破など、東宝の技術人の力がわかる。

監督・マキノ正博/脚本・小国英雄。

筝曲の宮城道雄さんと按舞に藤間勘十郎さんの名前もある。家光と彦左の互いを思う気持ちを軸に、名君を返上しての振舞という形で歌舞音曲も入れ、世継ぎ問題からくる逆臣の手の込んだ企ても見せ、娯楽時代劇でありながら見せてくれる映画である。

 

『上州土産百両首』から若者映画

歌舞伎の『上州土産百両首』浅草公会堂 新春浅草歌舞伎 (第一部)から現代の若者映画に思いが移った。二人の江戸時代の世の中から外れた若者の友情と絶望と復活。その辺りを現代の映画はどう描いているか。などと大袈裟なことではないのであるが、たまたま見た映画三本が、屈折があり面白かった。

『まほろ駅前多田便利軒』『僕たちA列車で行こう』『アヒルと鴨とコインロッカー』

瑛太さんのファンではないが、三本とも瑛太さんとのコンビの映画である。瑛太さんは共演者の個性の映りを引き出す何かがあるのかもしれない。

『まほろ駅前多田便利軒』は、三浦しをんさん原作(直木賞受賞)で、その前に『舟を編む』の小説と映画に接していたからである。『舟を編む』が思いもかけない辞書編集者の話で<まほろ駅前>の駅名もミステリアスで行きたい気分にさせてくれた。松田龍平さんが出ているのも気に入った。わけありの幼馴染が出会い、便利屋をやっている主人公と一緒に暮らし仕事をする。それぞれの過去を知り、それぞれの感性の違いが際立ってくる。これ以上の腐れ縁は沢山だと思いつつ、また一緒に暮らし仕事をすることになる。監督・脚本は大森立嗣さんでこの監督の映画は初めてである。

『僕たちA列車で行こう』は、列車の走る外と内と車窓の映像が沢山見れそうで選んだ。監督・脚本は森田芳光さんで、森田監督の遺作である。コンビは松山ケンイチさんと瑛太さん。鉄道好きな二人で松山さんは、車窓を眺めながら音楽を聞くこと。瑛太さんは、実家の鉄工所の仕事を手伝っており、車輪の音やシートの手すりのカーブなどに興味がある。マニアックな趣味の持ち主であるが、それが功を奏して人生上手く回る。上手くいかなくてもこの二人のマニアックさは変らないであろう。

『アヒルと鴨とコインロッカー』は、映画『はじまりのみち』で注目した濱田岳さんが瑛太さんと絡むとあったからである。原作は伊坂幸太郎さんで、初めて(吉川英治文学新人賞)。監督も初めての中村義洋さん。脚本は中村義洋さんと鈴木謙一さん。仙台で大学生活を始める濱田さんがアパートの戸の外で段ボールを片づけながら、ボブ・ディランの「風に吹かれた」を歌っていると、隣の住人の瑛太さんが声をかける。この映画はネタばれになると面白くないのでそこまでであるが、松田龍平さんも出る。原作は解らないが、映画での濱田さんはこの役はこの人以外にいないと思うくらいはまり役である。今度は、伊坂幸太郎さん原作の『重力ピエロ』と中村義洋監督の『ジャージの二人』のDVDを借りてしまった。

歌舞伎の『陰陽師』の染五郎さんと勘九郎さん、『主税と右衛門七』の歌昇さんと隼人さんなど新しいコンビの芝居が増えるのを期待する。四月に三津五郎さんが戻られるようなので、三津五郎さんと橋之助さんコンビも嬉しいのだが。

 

 

 

水木洋子展講演会(恩地日出夫・星埜恵子) (2)

星埜(ほしの)恵子さんは美術監督であり、恩地日出夫監督とはご夫婦である。という事を今回の講演で知ったのであるが、一番驚いたのは、千葉県佐倉にある国立歴史民族博物館に展示されている『浮雲』の映画セットを展示するために尽力されたかたである。歴博の現代の展示室に『浮雲』のセットを見たとき、映画の『浮雲』は傑作だが、どうして『浮雲』なのであろうかと不思議に思ったのである。星埜さんはその経過について、物凄い数の現場写真を紹介しつつ報告された。

2005年に世田谷文学館で『浮雲』の再現セットが特別展示された。その時、若い方がよく古い物を探して揃えられましたねと言われ、古い物もあるが、「汚し」という新しいものを古くしていく技術があることを伝えなければと思われたのだそうである。私も国立歴博のセットを見たときは若い方と同じ感想であった。その後、展示できる場所で展示を続け最終的に国立歴博に永久保存となったのである。書いてしまえば数行であるが、その努力と労力と人脈のつながりは膨大である。この仕事に係った沢山の方々の名前と写真が登場した。星埜さんの話を聞いて、国立歴博の『浮雲』のセットの歩みを理解したのである。

「温故知新」、古きをたずね新しきを知るという言葉があるが、星埜さんの師・吉田謙吉さんの座右の言葉をそのまま使わせてもらっていて、知るだけではなく創る行動まで進むということを実行されている。国立歴博の展示は、人類の登場から順番に見ていくと<現代>の第六展示室は当然一番最後となり、『浮雲』のセットがと思いつつサラサラと見てきたのである。<大衆文化からみた戦後日本のイメージ>とのテーマのところに展示されていてテレビCM映像コーナーなどもあった。今度行くことがあれば、星埜さんの写真や説明を思い出しつつ、よく眺めてくることにする。

略歴を見ると東陽一監督の『サード』『もう頬づえはつかない』の美術助手をされ、『尾崎翠をさがして』『平塚らいちょうの生涯』の美術監督をされている。尾崎翠さんの作品は『第七官界彷徨』だけしか読んでいないが、摩訶不思議な作品である。作品の配置図を作っているのかなと思ったら、作品のあとに<「第七官界彷徨」の構図その他>と付記している。小説でありながら映像的配置図で、屋根の無い模型の中に登場人物を入れて上から操作してそれを側面から移動させて、そこに片恋の交差を言葉で表し、靜物と植物をも小道具として使っている。しっとり水分を含んでいるように見え、触ると乾いている感触で、サラサラしているのかと思ったら、冷たい水分を手に受けてしまうようで、ジトッとした感触でないのが良い。1930年代にこいう作品を書いた女性がいたことが驚きである。<第七官界>を<彷徨>していたのである。映画があることを知ったのが遅かった。『平塚らいちょうの生涯』も羽田澄子監督の演出なので見たかったがこれも遅かりしであった。いつ出会えるであろうか。講演会がなければ、星埜恵子さんの仕事を知ることはなかったであろう。

『水木洋子展』では、関連イベントとして、水木さんの脚本の映画やテレビドラマの上映会を開催してくれている。ドラマは横浜にある放送ライブラリーから借りてこられたようだ。資料だけではなく、脚本の映像が見れるのは設計図から実際の建築物を見れるのと同じことである。

新宿歴史博物館では、『生誕110年 林芙美子展』が ~1月26日まで開催されている。こちらも行かねば。

 

追記 :映画『元始、女性は太陽であった』 2017年7月8日 11時30分からと7月16日 3時から東京国立近代フィルムセンター小ホール(京橋)にてアンコール特集で上映されます。

映画『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』