特撮の展示会

東京都現代美術館で「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」が開催されている。庵野秀明さんを全く存知あげない。「新世紀エヴァンゲリオン」などを監督されたかたらしいが、この分野は異分野である。何に惹かれたかと言うと「特撮」である。

豊田四郎監督の「白婦人の妖恋」を見た。1956年東宝。原作・中国民話「白蛇伝」林房雄作「白夫人の妖術」より。脚本・八柱利雄。撮影・三浦利雄。特技監督・円谷英二。

この映画は白蛇の精(山口淑子)と貧しい青年(池部良)との恋物語である。円谷英二の東宝特撮カラー映画作品第一号だそうで、見ていて違和感はなかった。出だしから綺麗な河であろうか、湖水であろうか違う世界の映画ということを印象付けた。その事もあって<特撮>は気に懸かった。

その前に、三浦利雄キャメラマンの事を。テレビの映画解説で山本晋也監督が三浦利雄さんの名前の<三浦賞>のある事を話されていて、この方かと注目したのである。少し調べたら、この映画のあと「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)を撮影され亡くなられている。この二作品で幾つかの賞と芸術選奨を受けられている。豊田四郎監督とは、1953年「雁」・1955年「夫婦善哉」、そして、1956年「白夫人の妖恋」・「猫と庄造と二人のをんな」である。

<特撮>のほうにもどるが、チラシの写真の得体の知れない異星人?は何?「風の谷のナウシカ」に出て来て終盤動き出すがすぐ倒れて活躍しなかった<巨神兵>のキャラクターを使用しての復活。ここで初公開される、最新特撮短編映画「巨神兵東京に現わる」の<巨神兵>。この短編特撮の現場映像もあり、CGを使わない手作り特撮の技も公開され感嘆と驚嘆である。特撮職人一本道の楽しくも泣かせる世界が垣間見える。この時使われたミニチュアの街もあり、その中を歩いてデジカメに納めるも好し。

特撮の原点みたいな「ゴジラ」「モスラ」のような古い映画関係の資料やミニチュアもある。説明付きのイヤホンガイドもある。関連音楽も聞こえるとのことで袖を引かれたが時間がかかりそうなのでパス。ただ、「ゴジラ」の映画音楽は聞きたかった。DVDの雑誌の映画音楽のベストテン(洋画も含めて)に入っていた。「モスラ」はザ・ピーナッツの歌が印象的なので特撮は音楽的効果もかなり力を入れていたのであろう。

特撮の需要が減って、保存していたミニチュアの老朽化、忘れ去られる技・道具・資料をきちんと残して行きたいという気持ちから博物館として残せないかとの想いで企画された展示会である。その心情と真摯さが伝わる企画である。

円谷英二さんは、衣笠貞之助監督との関係からか林長二郎(長谷川一夫)さんのデビュ-作「稚児の剣法」(監督・犬塚稔)の撮影を担当しており( 円谷英一の本名で) 少し調べただけでも、林長二郎の映画18本も撮っている。長谷川一夫さんも円谷さんの撮影技量は賞賛していたそうである。

特撮としては、「ゴジラの逆襲」から特技監督の肩書きが固定されたとある。

チラシの裏に、スタジオジプリ・プロデューサー・鈴木敏夫さんが<こういう時代だからこそ、そうした職人たちの、“されど、われらが日々”を振り返るのも、悪くない。>とある。

9月18日 BS日本テレビ 「ぶらぶら美術館・博物館」で、「特撮博物館」を紹介してくれた。木場公園から木場公園大橋を渡ってくれスカイツリーも写してくれた。案内人の一人山田五郎さんは歌川広重の名所江戸百景<深川木場>の版画絵も紹介してくれさすが必殺案内人である。館内では、展示に係わられた原口智生さんが助っ人として登場。この方のお祖父さんが東宝の録音技師さんだったそうで、検索で「白婦人の妖恋」にも参加されてる事が解かった。

本当に様々な方々の積み重ねと錯綜で形成されていった事が解かる。この番組を見たら特撮映画に興味の無かった人も多少引き付けられたと思う。

私なぞは、黒澤映画のリアリティーは東宝の映画技術職人さんたちの力があってこそかなと想像してしまう。実写は特撮でない実写を、特撮は実写でない特撮を追い求めそれが東宝の気風を作っていたように思われる。

日活映画100年・日本映画100年

東京国立近代美術館フィルムセンター展示室で「日活映画の100年・日本映画の100年」の展示会が開催されている。

珍しい映像が見れる。「紅葉狩」。九代目市川団十郎の更科姫と五代目尾上菊五郎の平維茂。「紅葉狩」は1887年九代目市川団十郎によって初演され、映画の撮影は1899年11月歌舞伎座の裏の芝居茶屋の屋外で撮影されている。風の神は子役時代の六代目菊五郎が演じていてやはりリズミカルにピシツピシツと決まっている。2009年この「紅葉狩」は映画フィルムとして初めて国の重要文化財に指定され、えいがフィルムが文化財として保護される道をひらいた。

白瀬南極探検隊の「日本南極探検」の映画の一部も見れる。後に日活になるM・パテー商会の代表梅屋庄吉(孫文の辛亥革命の金銭的支援をする)が相談を受けキャメラマンを派遣する。白瀬中尉は探検にかかった莫大な借財のためこのフィルムを持って全国を回った。

衣笠貞之助の「狂った一頁」の映像もあり、これは懐かしかった。古いフィルムセンターであったと思うが、衣笠監督の話を聴きつつ「狂った一頁」と「十字路」の映画を見たのである。かつてこんな前衛的な映画があったのかと驚いた。衣笠監督は女形俳優であったのも初耳で非常に気さくなかたで、サイレント映画のため映像を追いつつ説明されていた。こちらとしては映像からイメージを受けたいので少々困ったが、監督もそれに気がつかれ止められた。話したいことが山ほどあったのであろう。その後、林長二郎(長谷川一夫)の<情緒的な時代劇>を作り上げ、「地獄門」ではカンヌ映画祭グランプリを受賞する。

そして、「狂った一頁」(1926年)の撮影に杉山公平、撮影補助に特撮で名を成す円谷英一(本名でその後英二にする)が名を連ねている。(円谷に関しては違うところでまた出てくると思う。)   原作・川端康成で、衣笠映画連盟と新感覚派映画連盟(川端康成・横光利一等新感覚派の文学者が映画にも参画したのであろう)の共同制作である。

その他、初代水谷八重子の娘時代、オペラ歌手藤原義江の歌う様子など、一部分ではあるが数多い。

日活は1912年吉沢商会・横田商会・M・パテー商会・福宝堂の四会社が合併し「日本活動写真株式会社」となった。

時代劇だけで言うと目玉の松ちゃんこと尾上松之助は吉沢商会から日活へと移り大スターとなる。その後、伊藤大輔監督が大河内傳次郎でリアルな「忠次旅日記」を撮り、サイレント時代劇の古典最高傑作といわれた。その映像も一部見れる。忠次が病に倒れ体が不自由となり寝たまま、忠次を守ろうとする子分たちが次々捕らえられていく。胸の上に刀を抱きどうすることも出来ない忠次。<英雄像を一新し落ちぶれた無頼漢の最後を悲壮美にまで高めた>とある。熱演である。

当時の六大時代劇スターは、 大河内傳次郎・阪東妻三郎・嵐寛寿郎・市川右太衛門・片岡千恵蔵・林長二郎(長谷川一夫)である。それぞれが自分のキャラクターを色濃く持っていて観客を楽しませてくれた大スターたちである。ポスターを見ているだけで楽しい。

追記: 後に日活になるM・パテー商会の代表梅屋庄吉(孫文の辛亥革命の金銭的支援をする)>がテレビドラマになった。2月26日 テレビ東京 夜9時~10時48分 『たった一度の約束~時代に封印された日本人~』

「市川崑物語」

岩井俊二・監督・脚本・編集・音楽 「市川崑物語

岩井監督がいかに市川監督を敬愛しているかが伝わり、市川監督の仕事を知る上で大変参考になり、市川監督作品を見る上で多数の視点を貰える映画である。

市川監督は少年時代、チャンバラと絵を画く事が好きで、それが映画のアニメの仕事へと繋がり、さらには実写映画へと移行して行き、和田夏十さんとの二人三脚へと道は続くのである。

その中で、和田夏十さんの脚本ではない例外があるという。映画化されないで宙に浮いている脚本があって、市川監督も夏十さんも映画化されるべき良い本だと考えが一致した。それが水木洋子さんの「おとうと」である。この話は嬉しかった。さらに試写会のあと夏十さんが「ラストがいけないわね。なんであそこに音楽がないの」と。それは市川監督のねらいだった。弟を失った姉の孤独感、それを引き立てるためにドライに仕上げたのである。しかし夏十さんは音楽にこだわった。「やさしい音楽でしめくくるべき」。考え直した。ラストに音楽を加えた。キネマ旬報ベストワン。

岩井監督のこの映画の素敵なところは、写真とか映像を入れながら字幕が効果的に出てくるところで、そこがドキュメンタリーでありながらスッキリしていて新しく市川監督にふさわしい工夫のあるところである。

予想外の面白さ新米銭形平次

映画「天晴れ一番手柄 青春銭形平次」(東宝 1953年)

原案 野村胡堂・ 脚本 和田夏十・市川崑・ 監督 市川崑・ 音楽 黛敏郎・

銭形平次(大谷友右衛門) お静(杉葉子) 八五郎(伊藤雄之助)

録画して見たらばかばかしいので数年そのままにしていた。処分する前にと思って見たら「青い山脈」の杉葉子さんが時代物に出てきたので珍しいと見続けた。大谷友右衛門さんが出ていたので録画したのであるが歌舞伎の中村雀右衛門さんの印象が強く、それもあり途中で頓挫したのであるが予想外に面白い。

大映で長谷川一夫さんが既にシリーズ化され映画「銭形平次捕物控」を3・4本出されているので、これに対するパロディーかと思ったらそうでは無いようで、江戸時代の新米目明しの実態を現代感覚に直すとこのようなズレが生じそこにおかしみが出現するのでは、といったようなところであり、ドタバタしながらもドタバタだけではなく見ている者に色々な事と比較させて笑わせてしまうのである。とにかく貧しくてどうして目明しになったのかもよく解からない。飴やの仕事を精出したほうが良さそうなくらいである。子供がチャンバラに憧れるように捕り物に取り付かれているようで、小柄な友右衛門平次さんが一生懸命になると八五郎と一緒に応援したくなる。雄之助さんの八五郎も大きな身体を折り曲げて、走り動く平次親分によく着いて行く。

大捕り物も、市川監督がもし正当な時代劇を作るなら「雄呂血」のように撮りたいと思わせるような形だけのリアルでない大捕り物である。このへんも笑えてしまう。美しく楽しい大型娯楽時代劇あった時代にこのアイデアは素晴らしい。さすが「東京オリンピック」で唖然とさせられた監督である。運動部の友人は試合前の選手の気持ちがよく解かると言ったが。わたしは不完全燃焼であった。

銭形平次の映画の台詞の面白さは、市川監督夫人の和田夏十さんの力によるであろう。髪結いでの女たちの会話や平次を挟んでのやりとりなど立て板に水である。さもありなん。

最後、平次がご褒美に貰った衣文にかけた浴衣だけ写して終わるのも、貧しき事は楽しかるべしでさっぱりとした江戸っ子である。走り周ってるのは、どうも京都伏見あたりのようですが・・・・

それと、その後、大映映画 長谷川一夫 三百本記念 「雪之丞変化」は、シナリオ・和田夏十 監督・市川崑 で撮られている。10年後の1963年である。

記憶の扉 (2)

純愛物語

1957年作品・東映

監督  今井正

脚本  水木洋子

江原真二郎(早川貫太郎) 中原ひとみ(宮内ミツ子) 岡田英次(下山観察官)

聖愛学園園長(長岡輝子) 瀬川病院医師(木村功) 小島教官(楠田薫)

戦後10年近く経っているが、浮浪児が自分の身をなんとかして守ろうと、さ迷う上野の森。ここで暮らす人々は、ここを上野の山と呼ぶ。、ここから抜け出す事を考えてスリから足を洗おうとする孤児のミツ子は仲間から制裁を受けそうになり、ダグボートのかん坊(貫太郎)に助けられる。上野公園が戦後こういう状態の時もあったのだと現在と比べてしまう。近年公園の生い茂る木々は切られおしゃれなカフェテラスの飲食店が建てられている。

二人は自分たちで自立するため最後の資金稼ぎとしてアベックスリを実行するが捕まってしまう。貫太郎は一度逃走するが、二人はそれぞれ別々の更生施設に送られる。

ミツ子はそこで周囲からバックレ(仮病)と決め付けられてしまうが、身体に異変が起こり始める。親身になって心配してくれる教官に連れられ病院で検査を受けるが自分が原爆症の疑いありとされ、もしそうなら貫太郎に会えなくなると思い逃走し、貫太郎の施設を訪ねるが会えぬまま貧血を起こす。その時腕の紫色の斑点に気づく。腕の斑点の記憶は正しかった。映画を見ている自分にとっても衝撃だったのである。

その後二人は再会する。この映像も記憶とほぼ同じであった。二人は純粋に輝いている。二人が会った時もそうであるが、憎まれ口を言いつつも解かり合える人に会えた喜びが素直に伝わってくる。貫太郎はミツ子に白いズックの靴をプレゼントし二人の初めてで最後の一日のデート。そこで口にするミツ子のささやかな望みがいじらしい。「毎朝、温かい味噌汁を温かいご飯にかけて食べる」。

これは、「また逢う日まで」の蛍子(久我美子)の結婚出来た時のささやかな日常生活を描くのと共通している。戦時下と戦後の時間差はあってもその傷跡は深い。

ささやかな望みは叶えられないままミツ子は原爆症で帰らぬ人となる。原爆症の集団検診で検診を受けていた親子が、ミツ子の死を知って街をさ迷う貫太郎とすれ違う。この映画のはじまりはそれから二年後と言う事で貫太郎が上野の山を歩く所から始まり、貫太郎はミツ子のささやかな当たり前の生き方を通せる人間になっていると思わせてくれる。

「また逢う日まで」も三郎(岡田英次)の日記を読み終えた蛍子の母(杉村春子)が、蛍子の画いた三郎の肖像画に向かって「けいちゃん、私は帰るわよ。あなたここに居させてもらいなさい」と語りかける最後は、たとえ死んでいても三郎と蛍子は夫婦なのだから私はそこから離れてしっかり生きて行くわよ、という姿勢が伺える。水木さんは、その辺が静かでありながらしなやかに強いのである。

白い靴を抱きしめて幸福に胸ふくらませた想い出の日・・・・

記憶の扉 (1)

記憶の中に鮮明に残されている映画のシーンがある。出演者は判っている。

中原ひとみさんと江原真二郎さんである。二人は恋人同士らしい。中原さんが小さな食堂の店員で食堂の横の狭い路地で江原さんと話をしている。江原さんが中原さんを励ましているようでもある。もう一つの場面は中原さんの腕に紫色の斑点がでている。 この二つのシーンだけが、ずうっと残っていた。この映画を見たのか、それとも他の映画の時予告編で見たのか記憶に無い。見たとすればおそらく小学校に入るか入らない頃である。その後、水木洋子さんという脚本家が居た事を知る。小学校で見せられた映画「キクとイサム」の脚本も書いていた。紐解いていくと、これも、それも、あれもと、どんどん繋がってゆく。そして、どうやら記憶の映画は「純愛物語」であるらしいと目星がつく。いつか会えるだろうと思っていたら古本屋のチェーン店でDVDの「純愛物語」に出会う。半世紀を過ぎての出会いである。

この出会いは映画と同時に水木洋子さんという、ひとりの脚本家(人としても)に対する、個人的共感と信頼感(一方的)のような気がするし、これからも事あるごとに考えたり癒されたりする方だと思っている。