歌舞伎座初春歌舞伎

  • 吉例壽曽我』は初めてで、曽我兄弟物のこれまた一つである。今度は場所が大磯の「鴫立澤 対面の場」であるから歌舞伎の飛びようは変幻自在である。ただ、東海道という万民周知の設定は外さない。曽我兄弟の仇である工藤祐経が箱根権現に参詣に行くというのであるからこの道である。曽我兄弟は、春駒門付けとしての登場で呼び出すのは小林朝比奈の妹・舞鶴の児太郎さんで、新橋演舞場との掛け持ちである。

 

  • 春駒門付けの兄弟は弟・箱王の芝翫さんと兄・一万は七之助さん。そして鴫立庵にいたのは、工藤祐経の奥方・梛(なぎ)の葉の福助さんである。そのため居並ぶのも女中たちで、馬入川、藤沢、花水橋などの風景を現わすセリフもあり、時期は冬。雪の対面なのである。こういうのも歌舞伎ならではの、小さい舞台に大きな風景を乗せる趣向の定番である。そして、福助さんにその風景を背景とした曽我物にふさわしい大きさがある。今のこの声が好きである。

 

  • 廓文章』は染五郎さんの伊左衛門のどうしょうもない上方のぼんぼんのダメさ加減と可笑しさをたのしむ。花道でのし所に女形かなと思わせるところがちらっとみえたのが気にかかり、ここが上方の和事の形の難しさなのかなとふっと思わせられた。吉田屋の座敷での場は、よくこうまで夕霧を待つ間に考えるものだと思える一人芝居。会いたい、不満、しっと、不安など様々の心の中の葛藤が身体で表される。観ているほうは笑うしかない。笑えるのは、その身体表現にほころびがなくなっているということである。七之助さんは傾城の大きさと夕霧の本心をゆったりとみせてくれた。

 

  • 一條大蔵譚』はめずらしく白鸚さんの一條大蔵卿である。若手での記憶が残っているのであるが、今回は、常盤御前が魁春さん、お京が雀右衛門さん、鬼次郎が梅玉さんで、やはり平家時代物の厚さが浮かび上がりその違いを感じた。それぞれの役どころが時代を背景として人物像がはっきりする。それぞれが、秘して生きている。鳴瀬の高麗蔵さんと勘解由の錦吾さんも加わって、大蔵卿の仮りのあほうが明らかになる。大蔵卿のここぞの方向性の示し方、それを受け取る者とがはっきりする濃密な短い時間。そして再び秘密の扉は閉じられる。

 

  • 絵本太功記』も、光秀の吉右衛門さん、妻・操の雀右衛門さん、母・皐月の東蔵さん、敵側の久吉の歌六さん、正清の又五郎さんでしっかり構成された。息子・十次郎の幸四郎さんと許嫁・初菊の米吉さんが再度のコンビでさらに悲哀を深くした。『松竹梅湯島掛額』で幸四郎さんは吉三郎という若い役で、猿之助さんがそれとなく、若くみせてますが40過ぎていますからといって観客を笑わせていたが、40過ぎようと50過ぎようと若者を演じられなければ歌舞伎役者ではないのである。

 

  • 幸四郎さん、芸の力で若くみせていた。手の置き方、横座りの脚の位置、はやる心の若武者の走り方など上手く調和した身体の芸で、今回はそれがさらに身についていた。米吉さんの初菊も前はただ教わった通りを無我夢中でそれが可愛らしさにつながっていたが、今回は少し落ち着きを持って気持ちを発露させる。このお二人がアップした分、吉右衛門さんの私憤だけではない主君春信を討った動かぬ覚悟のほど、雀右衛門さんのくどき、孫と共に死に臨む東蔵さんの最後、そして結婚したばかり若い二人の哀れさなどが凝縮された。小さな庵で出会ってむかえる家族の悲しみが大きな歴史の一端を展開する。

 

  • 松竹梅湯島掛額』はこんな笑いも歌舞伎にはありますよという芝居である。時代性も変則ではあるが加味している。木曽の源範頼が攻めてくるということで、町人の娘たちは本郷駒込の吉祥院に逃げ込んでくる。おくれて美しい八百屋のお七の七之助さんもやってくる。範頼は義朝の息子で、頼朝や義経と兄弟ということになるが、木曽とつけているのは木曽義仲を意識して、京に上った時乱暴であったという印象とを重ねているのであろう。そしてこの範頼がお七が美しという話から家来に連れてくるよう命令する。

 

  • ところが、お七は吉祥院の小姓の吉三郎と夫婦になりたいと思っている。八百屋は借金のためお七の母の門之助さんは結婚相手をきめてあるのだがそれも覆しお七は吉三郎一筋に突き進み、最後は「櫓お七」の人形振りとなる。そこまでの悲劇を喜劇でつなぐのが紅屋長兵衛の猿之助さんである。皆にベンチョウと呼ばれていて、お七が悲しむのがいやでお七が笑顔になるように一生懸命にあれこれ考えるのである。それがベンチョウならではのアイデアである。範頼の家来なども巻き込んでのてんやわんやである。お正月にテレビでも放映されていたが、それ以上に松江さん、吉之丞さんらは喜劇役者となっていた。どなたの仕込みであろうか。(竹三郎さんは休演で代役は梅花さん。)

 

  • 初春にふさわしく三番叟の芝翫さんと千歳の魁春さんの『舌出三番叟』と、梅玉さんを筆頭に若い鳶の者が加わり、にぎやかに獅子舞の登場する『勢獅子』の舞踏。踊りあり、重厚な時代物あり、笑いありの歌舞伎座であった。

 

シネマ歌舞伎『沓手鳥孤城落月』『楊貴妃』

  • 沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』。実際の舞台でも落城前の大阪城での臨場感ある場面には圧倒されたが、映画は表情がよくわかるので息を詰める箇所もあった。あの淀君が、千姫を連れ出そうという徳川側の動きを察知して止め、怒り心頭である。さらにそれを企んだ主要人が舌を噛み切って自害するのであるから、なんたる失態かと局たちへの叱責も次第に増大するばかりである。居たたまれない千姫はその場から消え、城を出る。

 

  • 次第に淀君の心は壊れていく。自分の両親を殺した秀吉と一緒になり秀吉亡き後は、秀頼の母としてその権力を握ったわけであるが、今、それが崩れる寸前である。自分と秀頼の位置を脅かそうとしている者たち。そばに仕える者に対する猜疑心。それらがかみ合わさって壊れていくしかない淀君。

 

  • そんな母を見るに耐えない秀頼。この芝居の中の秀頼はマザコンではない。しっかり母親の姿を見据えていて憐れんでいる。この母の姿を広く周知させてはならないと母を殺し、自分も自害しようとする。周囲は、正気に戻るからそれまで待ってくれと懇願する。正気に戻る淀君。秀頼のことは認識できた。しかし、元の母ではない。秀頼は自分が豊臣家としての判断をしなくてはならないと腹を決める。そして側近たちの意見に耳を貸し、徳川に降伏することを決断するのである。

 

  • 映画を観て、この秀頼は凄いと思った。見終わった後、友人と淀君はあの最後の秀頼を育て上げただけでも凄いよと感じ入ってしまった。まさか淀君は自分を客観的に見つめ決断するだけの判断力があるとは思っていなかったのではないだろうか。自分が守らなければの母としてのいつまでも子供である意識である。ところが息子はしっかり最期を自分で決めるまでに成長していたのである。

 

  • さらに観ていて面白かったのは、玉三郎さんという役者さんの大きな壁に向かって他の若い役者さんたちがぶつかっていく姿が大阪城の落城の異常な緊迫感を漂わせているのである。その玉三郎さんの淀君に負けまいとしつつも冷静に心の内をおさえつつ臨む七之助さんが現実と芝居を一致させているところに深さがでた。もしこの壁のない若手同士でやるときはどうするのか。仮想の壁を自分たちで作らなければならないのである。今でもその心構えは必要と思う。いらぬ心配かもしれないが。(松也、梅枝、米吉、児太郎、坂東亀蔵、彦三郎)

 

  • 楊貴妃』は、『沓手鳥孤城落月』の世界からすると、浄土の世界である。玄宗皇帝は亡き楊貴妃が忘れられないでいる。方士に楊貴妃の魂を探し出すように命じる。方士というのは特別の能力がある人のことを指すようで、方士の徐福は秦の始皇帝から不老不死の薬を探すように命じられる。和歌山県新宮市に徐福の墓があった。日本にも来たことになっていて伝説が残っている。

 

  • 『楊貴妃』のほうの方士も難問を命じられたわけである。日本ではイタコという死者の言葉を口寄せで語るのがあるが、『楊貴妃』は姿を現すのである。そして、自分と会った証拠にと簪を方士に与えるのである。シネマ歌舞伎の前に先の映画予告『七つの会議』があって、方士の中車さんが香川照之さんで凄い顔で映っていた。

 

  • 現れた玉三郎さんの楊貴妃は、もう阿弥陀様になられているのを楊貴妃の姿にもどって出てきたという感じである。本来の趣意としては、私も玄宗皇帝のことを想い続けていますよということなのかもしれないが、そういう人間性はもう飛んでいる感じで、玄宗皇帝あなたももうそろそろ救われた気持ちにおなりなさいという風に思えた。これはもしかすると映像のためかもしれない。舞台ではそう感じなかったので。舞台と映像では、違った見方となるのが面白い。

 

  • 映画のあと、友人が『平家物語』の講話を聴いているというので、義仲、義経、頼朝の源氏の同族争いのことや、義経のゲリラ戦術などの話しを聞いた。埼玉県嵐山町散策の後だったので復習のようなかたちとなって楽しかった。嵐山町を案内したいが、足が不自由で無理なのが残念である。

 

国立劇場『通し狂言 姫路城音菊礎石』

  • 今年一番始めの観劇が国立劇場『通し狂言 姫路城音菊礎石(ひめじじょうおとにきくそのいしずえ)』だったのであるが、歌舞伎をめったに観ない友人が珍しく観に行くという事なので友人の感想を聞いてからと思っていた。歌舞伎のほうは、話しの流れとしては分かりやすい。菊五郎さんが桃井家を守る従順な家老かとおもったら実はその反対のお家を潰す悪家老で、出番は少ないが主軸である。桃井家再興のために奔走する人々と、さらに桃井家に恩のある狐の夫婦が恩返しと頑張るのである。例年菊五郎劇団が国立劇場の新春歌舞伎を飾り、スペクタルな奇想天外な芝居が多いようにおもうが、今年は地味系である。

 

  • 友人に感想を聞くと「う~ん、う~と。」とうなっている。何となくわかる気がするのである。少しずつ誘導尋問風に尋ねてゆく。「芝居の筋はわかった。家老が悪人と知ってそう展開するのかと思った。お家騒動が現代においてそれほど重要なテーマなのであるかどうかよくわからないので距離感もあった。まあ歌舞伎だからであろうが。いや、う~ん。」役者さんは。「役者さんは、途中からイヤホンガイドを借りたので何となくわかった。」この役者さんはもう一回違う芝居で観たいと思う役者はいたか。「いなかった。」残念。出演している役者さん一人一人の輝きが薄くなかったか。「そう、そうなのよ。」

 

  • やはりなあと思う。内容的も分かりやすかったので、役者さんの役どころの光を求めたのだがそれを感じとれなかったのである。お家再興のために働くのにそのオーラが低いのである。どうしてなのであろうか。友人は本と演出かなという。

 

  • 観ているうちに今作品が、復活狂言を目指しているわけでそこに主眼があるが、菊五郎さんが、次の世代に橋渡しの試みをしているようにも思えた。菊之助さん、松緑さん、梅枝さん、萬太郎さん、尾上右近さん、竹松さん、坂東亀蔵さん、彦三郎さん等へ。現代の人が観るのであるから現在の役者さんの輝きをも考慮する必要があるのでは。そのさじ加減が難しいところであろうが。この作品もかつては芝居の内容と役者さんが一致して盛り上がったと思う。芝居自体の盛り上がりとその中で切磋琢磨する役者さん、その両方が観れるのが観客にとってはベストであり、理想である。なるほどなるほどで終わってしまった。それぞれに小さな竜巻を起こして欲しかったのであるがそこまでいかない納得さでまとまってしまった感じである。

 

  • テニスを趣味としている友人はテニスに例えると話がはずむ。遅まきながらコーチについて基本を習い始めたら、基本というものがいかに美しいかを知ったという。それと同じことが歌舞伎の身体の基本にはある。美しいのである。上手な人のプレーを見るとあの形をやってみたいと思う。歌舞伎役者さんも先輩たちの芸をみるとああなりたいと思い演じて見たいとなるであろう。それは凄くよくわかる。相手のプレーがわかっている場合待ち受けて基本の形で受けることができる。ところが、思ってもいない球がくると基本などはなくなっている。それではいけないのであるが、でもそうくるかとこれまた面白いのである。レベルの上の人とやっていると少ないが、その面白い場面に会って嬉しくなり楽しくなる。役者さんにもそんな感覚があるのではないだろうか。

 

  • 小さな役者さんの寺嶋和史さんと寺嶋眞秀さんに対してはどうおもったのか。お客さんに拍手をもらって喜びを感じてこの道を進んで行こうと思うのであろうが、大変な進むべき道ね。でもスポーツの場合は勝ち負けで決まってしまう厳しさもある。勝ち負けがないだけにつかんだという手応えがないかも。それは、観客との空気かなあ。可笑しいときの空気、息を詰めている時の空気、先輩の役者さんと観客との空気、それを感じれるのは舞台に立っていれるからこそだろうし、テニスはコートに立っていればこそよ。生身の一か月は大変ね。取り留めない長電話であった。プロでない気楽さのなせるわざである。

 

  • 舞台は始めに姫路城の美しい映像が浮かび上がっている。歌舞伎の舞台もこういう新しい手法がどんどん盛り込まれていく。桃井家の後室の時蔵さんは、姫路城に妖鬼がでると噂を流しその事を利用して妖鬼退治の名目で求人し、剣の達人を見つけお家再興に役立たせようという試みも行う。お家没落も先代萩のごとく、しかけられた若殿様の遊蕩である。そして狐の恩返しの早替わりも盛り込まれる。

 

  • 楽善さん、團蔵さん、権十郎さん、片岡亀蔵さん、萬次郎さん、橘太郎さんらが脇をがっちり固めてくれるので、その中心の花芯を担う世代の重要性を強く感じる。先輩達からの教えを受けつつ、自分たちでお互いに主張し高める時期にきていると。稽古時間の少ない歌舞伎であれば、その切磋琢磨する時間をどこで作るのか。そういうことも考慮しなければならない時代性も感じる。そしてそこに次の世代を巻き込む勢い。そんなことを感じさせられた国立劇場観劇であった。
  • BSプレミアム 2月3日の夜中24時から放映とのこと。

 

木曽義仲の生誕地 埼玉県嵐山町

  • 浅草の新春歌舞伎でも上演されている『義賢最期』の源義賢は木曽義仲のお父さんで、芝居で葵御前は身ごもっていて、お腹の赤ちゃんが義仲なわけである。『実盛物語』で色々あって無事この世に誕生するわけであるが、幼児の頃の名前は、駒王丸(こまおうまる)である。芝居では、義賢の兄・源義朝が平清盛に討たれるが、義賢は平家側についている。清盛は義賢の忠誠を再度確かめるため、義賢に兄・義朝の頭蓋骨を踏めと申し付けるのである。義賢はそんなことはできるかとばかり反旗をひるがえし、壮絶な最期をとげることとなる。
  • 埼玉県の嵐山町には、義賢が構えていたという大蔵館跡がある。義仲が生まれたのはもう少し西の鎌形と言われた地で、源氏の氏神としての鎌形八幡神社がある。義賢は近衛天皇が皇太子の時、その警護役である帯刀(たてわき)の長官をしていたことから帯刀先生(たてわきせんじょう)とよばれていた。『義賢最期』で所持していた白旗は帝から賜ったという設定はそういうこととも関係しているのであろうか。
  • ひとつの説によると駒王丸(義仲)の母は小枝御前で、父・義賢は「大蔵の戦い」で最期をとげる。兄・義朝の長男である悪源太義平がこの地方に勢力を伸ばすため大蔵館を攻めたとある。一族はほとんど討死にし、駒王丸は二才で鎌形で母と共に捕らえられたが、畠山重能(しげよし)と斉藤別当実盛に助けられる。そして木曽の中原兼遠にあずけられることとなる。そして無事元服し、木曽義仲となるのである。『平家物語』と『源平盛衰記』などによったりその後の調査などで史実は錯綜するが、義賢の兄・義朝は頼朝や義経の父であるから結果的には兄・義朝の系列が鎌倉幕府となり、源氏は親族間での争いも絶えなかったことになる。
  • この地を訪れるには電車であれば東武東上線の武蔵嵐山駅である。「武蔵嵐山」の文字をみると京都の嵐山を連想したりするがその名の由来はやはり関係している。昭和の初期、日本初の林学博士の本多静六博士がここを訪れて、その美しい景観が京都の嵐山に似ていることから「武蔵嵐山」といったことが始まりだそうである。読み方は「むさしらんざん」である。都幾川辺りは桜並木が続き、嵐山渓谷は紅葉の名所で、今年からはラベンダーの新名所もできる予定だそうである。
  • 一応ネットでも調べて訪れたのであるが、駅西口にある観光案内所での地図と、分かりやすい道案内の説明のおかげで散策できた。ただその地図には義賢の墓は記載されていなく、こちらも、大蔵神社から鎌形八幡神社に上手く行けるであろうかと心配だったので義賢のお墓のほうが飛んでいて、帰りに戻る形となった。案内の方の話しから帰りには「埼玉県立嵐山史跡の博物館」に寄る予定であったがあきらめた。大蔵館跡→大蔵神社→鎌形八幡神社→班渓寺→大蔵神社→義賢のお墓。最初に義賢のお墓に行くのが良さそうである。
  • 義賢のお墓大蔵館跡大蔵神社鎌形八幡神社班渓寺菅谷館埼玉県立嵐山史跡の博物館 鎌形八幡神社は坂上田村麻呂が勧請したともいわれている。義仲の産湯の清水がある。班渓寺は義仲生誕の地となっており、こちらにも義仲の産湯の清水がある。また義仲の妻の一人である山吹姫のお墓もある。山吹姫が義高の母とも言われ、嵐山町が源義賢、義仲、義高三代関連の地ということになる。大蔵の地が本館で、鎌形の地が下館であろうか。
  • 武蔵嵐山駅からお墓まで歩いて40分くらいであろうか。大蔵にはバス停もあった。そこから鎌形八幡神社へは観光案内で教えて貰った道で嵐山町総合運動場のそばを通って進み30分くらい。戻りは、都幾川辺を歩いて桜の時期を想像して歩き途中で地元の方の親切な案内で無事大蔵神社にもどれた。地図上ではラベンダー園の場所もわかるし、紅葉の頃の道もわかる。道は観観案内で聞くのが一番と思う。義賢のお墓や木曽義仲生誕の地などは他にもあるようで、それだけ人気のある歴史上の一族ともいえる。
  • 「埼玉県立嵐山史跡の博物館」のそばには、菅谷館跡がある。鎌倉時代の畠山重忠の居館とされる。木曽義仲を助けたとされる畠山重能の次男で宇治川の合戦、一の谷の合戦、奥州攻めなどで功績をあげた御家人で、北条氏によって神奈川の二俣川で滅ぼされている。その他、この地にはホタルの里やオオムラサキの森などもあり、歴史と伝説と自然の詰まった地域である。一つ手前のつきのわ駅から歩いて30分のところに『丸木美術館』がある。桜かラベンダーの頃再訪するのもよさそうである。

義賢のお墓

大蔵館跡

大蔵神社

班渓寺

義仲の産湯の清水

班渓寺は、義仲の側室で義高の母である山吹姫が義賢、義仲、義高の源氏三代の菩提を弔うために開基したともいわれている。

新春浅草歌舞伎

  • 戻駕色相肩(もどりかごいろあいかた)』は、観るのは初めてである。駕籠を担いで花道から登場であるが、その衣裳は駕籠かきとは思えないもので、駕籠に乗っていたのは可愛らしい禿(梅丸)であった。京・大阪・江戸の廓話を洒脱に踊るのだが、三都の廓の違いがよくわからなかった。面目次第もございません。駕籠かきの二人は誰なのかなと思いましたら久吉(種之助)と石川五右衛門(歌昇)でした。なるほどであるが、歌昇さんは、『関の扉』の関守関兵衛にも似ていて今度関兵衛に挑戦してはいかがかな。種之助さんの台詞のニュアンスに一瞬これはと面白さを感じた。変化に幅がある。『番町皿屋敷』で納得。

 

  • 義賢最期』は、ダイナミックな演出があるが、そこに至る義憤の場面が難しい。松也さんはなんとかクリア。義賢の周囲の女形が弱いのが難点。若手のチームワークだけでは持ちこたえられない源平合戦前の悲哀がこの芝居にはあるはずである。御台葵御前の鶴松さんと小万の新悟さんがまだ熟していない。小万は難しい役どころである。義賢の最後を看取る役であり常に義賢に気を使う役である。出が少ないだけに難しい。『実盛物語』にも続き、義賢の壮絶な死に方を無駄にしないで白旗を次に渡す役でありその腹をどこかで感じさせる深さが必要である。義賢の想いを仏倒しという演出の死に方にしているが、それに拮抗する義賢の周囲の演技があっての義賢最後である。小万の父親の桂三さんは全体の流れが分かっていてのこの場での百姓九郎助であった。

 

  • 芋堀長者』は、芋掘りがお姫様に恋をしてという身分違いの恋愛始末記を面白く踊りにしている。巳之助さんの得意とする役どころでもあるが、若さと明るさで出演者一同自然体でこなしている。芋掘り藤五郎の友人の治六郎の橋之助さんが襲名披露も終わったためか介添え役が力が抜けていて愛嬌がある。歌女之丞さんが全体の軽さを程よく締める。

 

  • 壽曽我対面』は、五郎の松也さんと十郎の歌昇さんであるが、反対の役どころで、松也さんが押さえのほうが良かったような気がするが浅草ならではの挑戦ともいえる。工藤祐経に錦之助をむかえ、周囲は先輩たちに囲まれて修業してきた成果がでていた。巳之助さんの小林朝比奈の道化役がいい。今までも居並ぶ役どころでしっかり声を張り上げ、やってますね、と思って観ていたのであるがその声の調子とコミカルさが結実してくれた。

 

  • 五郎と十郎が持って出る島台の飾りが江戸三座でそれぞれ違うのだそうで初めて注目した。宝尽くしに金の烏帽子と小づちで、これは市村座だそうである。大磯の虎の新悟さんの声がいい。化粧坂の少将の梅丸さんとともに傾城での居並ぶ体験が生かされている。こういうのは場数を踏んで衣裳に負けない姿勢が大切なのであろうと思えた。幕切れの工藤祐経の見得の形は鶴を現わし、五郎、十郎、朝比奈は富士を現わしているそうで初春らしいおめでたさたっぷりの対面なのである。

 

  • 番町皿屋敷』は隼人さんの青山播磨と種之助さんのお菊で純愛ものになった。先輩たちの場合は純愛といえない年輪が加わるのであるが、今回は純愛そのもであった。種之助さんが耐える女形を演じるとは思ってもいなかったのでお菊のできには驚いた。『戻駕色相肩』でちらっと感じた台詞の幅がこういうところでも生かされたのかと納得した。隼人さんの青山播磨は、ここで声高に張り上げて台詞を引っ張るのかなと聞いていたらそうはならず、あくまでもお菊を諭す感じである。これならお菊も納得して死んで行けるであろう。

 

  • お菊の死骸を捨てた井戸に片足をかけ覗き込むところに青山の悲哀を出し、自分の宝も愛も捨てた男をみせる。そして、それを振り切るように喧嘩へと飛び出すのである。純愛にしてくれたほうがこのお話救いがある。『義賢最期』や『壽曽我の対面』でも隼人さんの台詞の調子が整ってきていたので長台詞も大丈夫かもと期待したら及第点であった。種之助さんのお菊ともども浅草ならではの挑戦である。鶴松さんのお仙がお菊の心を知らず綺麗な立ち振る舞いで腰元としての仕事をし、お菊に受け答えする様子が、お菊の不安さを引き立たせてくれる。桂三さんの十太夫がお家大事の役目をになう。錦之助さんが、播磨が苦手とする伯母さま役で播磨の若さを強調してくれた。

 

  • 最後『乗合恵方萬歳』は、橋之助さんが女船頭という見慣れぬ役どころであるが、皆さんそれぞれ納得いく役どころでにぎやかに幕となる。今回は若手9人(松也、巳之助、種之助、橋之助、梅丸、鶴松、隼人、新悟、歌昇)という挑戦である。先輩から受け継いだ浅草新春歌舞伎も、松也さんの求心力も強化し、千穐楽までにさらなる回転力を増すことが予想される。

 

歌舞伎座12月『あんまと泥棒』『二人藤娘』『傾城雪吉原』

  • あんまと泥棒』が笑わせてくれた。夜の部がAプロとBプロとあって、あんまの中車さんと泥棒の松緑さんもAプロとBプロで役を交替して欲しいと書いたが、二回観ても面白かった。明治座で、中車さんと猿之助さんで観て意外にも面白さに欠けていたが、2015年(平成27年)から3年半たっている。中車さんは、あんまの秀の市が三回目なのでその人物像も相当考えて練り上げられたようである。

 

  • あんまの秀の市は、目が不自由なだけに人の声からその人の考えていることが察知できるらしく、幕開けから相手の気をそらさずにしゃべり続けである。そして時には安い揉み賃でよくもまあこき使うものだなどとぐちっている。途中で会った夜番の人に貸したお金の催促などもしておりどうやら金貸しをしているらしい。家に着くと貧しい長屋暮らしで家財道具はほとんどない。今朝貰ったおこわを食べようとするところに泥棒の権太郎が声をかける。俺は刃物を持っているのだと凄むが刃物持っていない。貯めた金を出せとおどす。

 

  • 秀の市は、とぼけて時間稼ぎをし、ふたりで焼酎を飲み始める。ところで泥棒さん日銭にするとどのくらいの稼ぎになるのかと秀の市は権太郎にたずねる。そして、そんな稼ぎで危ない橋を渡るなら真っ当に働いた方がよいと意見し始める。権太郎は泥棒のような悪行には向いていないらしく、自分の身の上ばなしをする。しかし、泥棒に入った以上手ぶらでは帰られないと押入れを探しはじめる。

 

  • 押し入れの中から位牌が出てくる。秀の市は女房の位牌で供養もしてやれないと嘆く。ウソである。権太郎は、自分が島送りの間に女房が死んでいるので自分と秀の市を重ね始める。外は次第に明るくなり長屋の住人の朝のお勤めの読経がはじまる。権太郎は夜が明けたので帰ることにする。秀の市は、誰かに逢ったら秀の市のところで夜を明かしたと言いなさいという。それじゃと権太郎は表戸から出て行く。ところが読経の声に乗せられ自分の持っている財布に手がいく。行きつ戻りつ、ついに女房の供養にと秀の市にお金を投げてやる。読経のリズムに乗っての松緑さんの動きが抜群であった。その迷いと人の好さが見事にでていた。

 

  • 秀の市は、権太郎がいなくなると、泥棒のお人よしを笑う。そして床下から小判をだしその音に酔いしれるのであった。秀の市は悪いことをしているわけではない。貸した金の利子を取り立ててこつこつと貯めているのである。ただ人をたぶらかせることには長けているのである。あんま秀の市の手の内を中車さんは、うまくころがして権太郎より一枚上手であるところを見せてくれた。だがもしこれを機に権太郎が真っ当な生き方をするとしたら、秀の市の説教もまんざら意味がないわけではない。もしかするとだまされた権太郎には幸いなこととなるかもしれない。

 

  • 二人藤娘』は、梅枝さんと児太郎さんで、その衣裳の違いからくる舞台のあでやかさはどっぷりと楽しませてくれる。しっかり者の姉を思わせる梅枝さん。甘えん坊さがちらほらの妹の児太郎さん。それぞれの人物像が踊りの中に垣間見えていた。あなたそんなに飲んで大丈夫なの。少し飲み過ぎたかな。お姉さんよろしくね。困った人ね。こちらも困ったことに唄のほうが飛んでしまうほど華やかなお二人の踊りであった。藤の精が、日本版妖精のように歌舞伎座の舞台に現れたようであった。

 

  • 傾城雪吉原(けいせいゆきのよしわら)』は玉三郎さんによる新作歌舞伎舞踏でる。こちらの踊りは雪の吉原を情景に傾城のやるせないしっとりとした作品である。初めのうちは詞も曲調も踊りもなるほどとのれたのであるが、途中から地唄舞の『雪』の世界のような求心力がもう少し欲しいなあとおもってしまった。何か物足りないまま終わってしまったような。風景と心情が重なっている踊りは、新作であるがゆえに何回か観て、観る方もその世界観になじまないとダメなのかもしれない。

 

歌舞伎座12月『幸助餅』『於染久松色読販』

  • 幸助餅』。電車の遅延で少し遅れての観劇となったが内容的には問題ないと思う。角力に入れ込んだ若旦那・幸助がすってんてんになり、妹を廓へ奉公させることになる。ところが贔屓の力士・雷(いかづち)が大関となり幸助に晴れ姿をと言われ嬉しくなって、廓から受け取った大金を祝儀だと渡してしまう。幸助は後悔し、恥を偲んでお金を返してほしいというが、雷はそれを拒む。その義憤を胸に幸助は発奮して餅屋となり幸助餅として繁盛させる。その陰には雷の後押しがあり、そのことを知って幸助は涙するのであった。定番の人情劇であるが上手く運んでくれ締めをほろりとさせた。

 

  • 欲を言うなら、幸助の松也さんが大関になった雷の中車さんに会って嬉しくなってご祝儀を渡すあたりはもう少し若旦那のどうしょうもない風情がほしかった。アホやなあ、またやってるわ!と思わせつつ、しゃあないなあと軽く受けさせる感覚がほしい。萬次郎さんが仲立ちで話の筋をたて、片岡亀蔵さんが叔父としてさとす。女房の笑三郎さんと児太郎さんが幸助の家族として支え、芸者の笑也さんが明るい話をもってくる。勧進相撲の寄付を集めに来る世話役の猿三郎さんの短い出に大阪が映る。

 

  • 於染久松色読販 お染の七役』。浅草の質見世油屋の お染(壱太郎)は丁稚の久松(壱太郎)に恋い焦がれている。久松には、死んだ父が紛失した刀とその折紙を探す仕事がある。お染の兄・多三郎(門之助)は放蕩者で芸者・小糸(壱太郎)を身請けするため折紙を番頭の善六(千次郎)に渡してしまう。善六は悪い奴で、油屋を乗っ取ろうとしている。番頭の悪巧みを聴いた丁稚の久太(鶴松)は番頭から口止め料を貰い、そのお金でフグを食べ死んで早桶の中。その棺桶はたばこ屋の土手のお六(壱太郎)の家におかれている。土手のお六はかつて仕えていた竹川(壱太郎)から刀と折紙を手に入れるために百両用意してほしいとの手紙をうけとる。竹川は久松の姉である。

 

  • 土手のお六の亭主・鬼門の喜兵衛(松緑)は、竹川、久松の父から刀と折紙を弥忠太(猿弥)から命じられ盗んだ張本人だった。喜兵衛は盗んだ刀と折紙を油屋に質入れして百両受け取っていた。その百両で弥忠太は小糸を身請けしようとしていたが、喜兵衛は使ってしまい金策の思案をしていた。そこへ、嫁菜売りの久作(中車)がたばこを買いに寄り、髪結いの亀吉(坂東亀蔵)が寄り、久作は亀吉に髪をなでつけてもらいながら、柳島妙見で油屋の番頭から額を傷つけられた話をしていく。その話を聞いた喜兵衛はゆすりをおもいつく。

 

  • 鶴屋南北さんの作品である。このゆすりは喜劇的展開を見せ失敗におわるのである。早桶に入っている死人の額を割り久作とし、さらにお六の弟であるとし、どうしてくれると油屋にねじ込むのである。油屋太郎七(権十郎)が渡したお金では少ないと百両要求する。ところが、死んだとされた久太はお灸をすえると息を吹き返すのである。丁稚の久太とわかり、ゆすりであることがばれてしまう。『新版歌祭文 野崎村』でもお灸をすえる場面があるのを思い出す。久作の娘・お光(壱太郎)もすでに柳島妙見の場で登場している。

 

  • 久松はお染との不義の罪で土蔵に閉じ込められ、お染は嘆くが継母・貞昌(壱太郎)が油屋のため清兵衛(彦三郎)と結婚してくれとさとされる。お染と久松は心中することを申し合わせる。久松は、喜兵衛がゆすりに失敗して蔵に刀を盗みに来たためあやまって殺してしまい探していた刀を持ってお染の後を追うのであるが、お染は連れ去られてしまう。そこへお光が久松を探してやってくる。久松は久作に育てられ、お光はずっと久松と一緒になることを信じていたのであるが、久松が油屋へ奉公に行ってそこの娘と恋仲であるとの噂から、ついに気が触れてしまっていた。隅田川で船頭(松也)と猿回し(梅枝)を振り切ってあてどもなく久松を追うお光。

 

  • というわけで壱太郎さんの、お染久松小糸土手のお六竹川お光貞昌、の七役である。一番魅力的で今までの壱太郎さんの役の枠を超えたのが土手のお六である。娘役は経験から難は無いであろうとおもっていた。ところがお六が無理につくったというところがなく、自然に話のながれに添って、かつて仕えた人への義理、こんな暮らしだからやることと言えば悪に決まっているが、そこは粋に格好良く決め、後はご愛嬌という変化を上手く作られていた。自分は自分の鬼門の喜兵衛の松緑さんも色男の顔にしてすっきりと決め、とんだ結果にさもありなんの引きのよさである。脇が皆さん役どころを経験済みの役者さんで、早変わりの芝居はなんのそのとその場を押さえてくれ、こちらもゆったりと早変わりと芝居を楽しませてもらった。

 

歌舞伎座12月『阿古屋』

  • 12月の歌舞伎座は『阿古屋』を梅枝さんと児太郎さんが演じるということで話題となっている。玉三郎さんの『阿古屋』と、日にちの関係からの梅枝さんの『阿古屋』の切符を購入していた。三人の役者さんの『阿古屋』を観るためには夜の部三回行かなければならないということなのである。梅枝さんを観て、玉三郎さんを観て、やはり児太郎さんも観ておきたいと一幕見となった。色々と考えさせられる舞台であり、『阿古屋』という特別視される演目が高嶺の花として奉られては『阿古屋』という芝居がさみしすぎるなとおもえた。

 

  • 玉三郎さんが三曲(お琴、三味線、胡弓)を習い始めたのが14歳の時だそうである。14代目守田勘彌さんは玉三郎さんの才能を見抜いておられたのは当然であろうが、三曲を14歳からやらせ、20歳までに女形の全てを身に着けるようにといわれたそうで驚いてしまいます。『阿古屋』を演じられるという保証は何もないわけである。『阿古屋』をやるのは、それから33年後だそうである。六代目歌右衛門さんに指導を受けたわけであるが、歌右衛門さんも芸には厳しいかたであったからそれなりの積み重ねがなければ演じることを許さなかったのではないだろうか。

 

  • 玉三郎さんは、女形の芸の途絶えることを恐れておられるようにも見受けられる。それだけ女形の芸は厳しい修練の上に成り立っていてそれを今の若い人にどう伝えていけばよいのか。一人がその芸を継承するのではなく何人かが切磋琢磨して継承していかなければ途絶えることもありえると考えられておらるのでは。急にできるものではなし、若い人にどうやる気を出してもらってその責務を感じてもらえるか。色々試みておられる。菊之助さんとの『京鹿子二人道成寺』。七之助さんとの『二人藤娘』、勘九郎さん、七之助さん、梅枝さん、児太郎さんとの『京鹿子五人道成寺』、『秋の色種』では、児太郎さんと梅枝さんに、琴と三味線を弾かせた。

 

  • それだけではない。壱太郎さんには、松竹座で『鷺娘』を指導され、『秋の色種』では琴と三味線を。今回は『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』での<お染の七役>である。七之助さんも<お染の七役>は習われている。七之助さんは、今まで勘九郎さんと公演していた特別舞踏公演を一人で主になって回られるという。よいことである。『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』より舞踊劇に構成したものを踊るらしい。演じることによって感じたものをさらに自分のものにしたいと思われているのだろう。玉三郎さんは、『於染久松色読販』を前進座の五代目河原崎國太郎さんに指導を受けられている。初演は21歳の時。

 

  • どんな素晴らしい演目も、舞台の上で花開かなくては意味がない。あれは凄い作品ですといわれて奉られて本として残っていても戯曲というものはうんともすんともいえないのである。それにしてもまさか、違う『阿古屋』を歌舞伎座で三回観させられるとはおもわなかった。玉三郎さんだからできたことなのであろう。

 

  • 『阿古屋』という作品は何回か観ているとその世界観を自分でいじくって考えられようになってくる。どうして重忠は、景清の行方を阿古屋に吐かせるため三曲を弾かせるのか。三曲を聴いた重忠の下す裁きは、阿古屋は景清の行方は知らない、である。その音曲に乱れがなかったからというのである。今回三人の阿古屋を観て、重忠は景清の恋人としての誇りを阿古屋が保つとすれば傾城としての芸であろうと考えたのではないか。芸を武士の刀に代えて曇りのない心意気をしめすなら阿古屋が形成する芸としての完成度、それを見極めればわかるはずだ。

 

  • 阿古屋はそれに気が付いたかどうかはわからない。ただ途中で分かったのではないか。梅枝さんは箏を弾きつつ「かげというも月の縁 清しというも月の縁」と景清を匂わす言葉を入れた歌をうたわれた。(児太郎さんは「かげというも」までだったので梅枝さんが歌われたかどうか揺らぐのであるが歌われたとしておく。)ここで、重忠は何の曲を歌えとは言っていないのである。その後の三味線も胡弓も弾けであって、何をではないのである。梅枝さんの胡弓は物凄く弱弱しい音色で、景清と会えない悲しさを現わしているようであった。

 

  • そのあと玉三郎さんの阿古屋を観た。何をいうかという感じの大きさと強さである。景清の相手としての傾城という立場を軽く見られてなるものかという感じである。三曲を弾くことになると、すこし重忠のやり方に戸惑いを持つが、景清の詞をいれて挑みかかるような感じである。ようするに傾城として養ってきた芸を軽く見てくれるなという感じである。ただ恐らく途中で景清のことを思い出しているのであろうがそこがどこかまでは見抜けなかった。重忠は、琴が終ると景清とのなり染めと別れを尋ねる。ここの阿古屋の語りがいいのであるが、梅枝さんと児太郎さんはまだそれぞれの味は出せない。弱い。

 

  • 三味線では、阿古屋は姿勢的にも顔をあげるのであるが、見ている方は三味線の手もとをみてしまう。三味線あたりで、阿古屋は三曲の物語と自分と景清のことを一体化して、そうか重忠は私の心が乱れれば景清の行方を知っていてまた会えると思っていると想像するのかもしれないと気が付くのではないか。そこで、胡弓ではいえいえ、もう逢う事もなく、愛も終わりなのですと胡弓独特のキー、キュッ、という切れるような音と優しい音色を奏でる。玉三郎さんの場合は胡弓はことさら力強く響いた。児太郎さんは、まだ弾くのに一生懸命であった。

 

  • 梅枝さんは、何んとか冷静に無事にこの場を切り抜けようという感じで、児太郎さんは玉三郎さんの後に観たので分が悪いが、一心不乱で阿古屋に臨む姿勢がそのまま阿古屋という傾城を描くこととなり、それぞれの阿古屋である。玉三郎さんの場合は、次第に三曲の物語性の構成をどう作り上げるかという面白さがさらに加わり、次の阿古屋に出会えるのがたのしみになった。三人の役者さんの阿古屋は、『阿古屋』という作品と対峙する楽しみを大きくしてくれた。

 

  • 重忠の彦三郎さんは、声の響きがよいがもう少し三曲の拷問の仕掛け人としての心持ちが現れてもよかったのではと思え、玉三郎さんの阿古屋の時には押され気味で小さく見えるのが面白い現象だった。松緑さんの岩永は愛嬌ある人形振りであったが胡弓の真似は、実際に弾く玉三郎さんのほうが芸が細かくなるほどと納得。六郎の坂東亀蔵さんは伝える時はしっかりと、控える時は折り目正しくであった。重忠に自由であると告げられ阿古屋は重忠に手を合わせるが、阿古屋の気持ちと無事終わってほっとしての役者の気持ちが重なって映る。そして『勧進帳』の弁慶が無事義経を逃がしホッとして花道で頭を下げる姿とも重なった。弁慶を多数の役者さんが勤めるように『阿古屋』も複数の女形さんが演じたほうが観客は違う色合いを楽しめるということである。

 

国立劇場12月『増補双級巴』

  • 通し狂言『増補双級巴(ぞうほふたつどもえ)ー石川五右衛門ー』。フライヤーには興味ひかれる言葉がたくさん並べられている。50年ぶりの上演となる「五右衛門隠家」。70年ぶり復活の「壬生村」。90年ぶり復活の「木屋町二階」。

 

  • 石川五右衛門は超有名な盗賊であるから江戸の人がほっとくわけがない。そうなると浄瑠璃、歌舞伎も舞台に乗せないわけがない。色々な五右衛門物の登場となる。今回は初代吉右衛門さんが上演したものを二代目吉右衛門さんがそれを継承し、新たに通し狂言として演じられるわけである。三世瀬川如皐(せがわじょこう)作を基本としている。

 

  • 石川五右衛門の生い立ちから、家族との関係。そこで見せる人間味あふれる五右衛門ということで、葛籠抜け(つづらぬけ)の宙乗りが夢であったとの設定である。五右衛門(吉右衛門)の夢が醒めたところが京の「木屋町二階」で、その場面で巡礼に扮した久吉(菊之助)との南禅寺山門のパロディ―である。あの豪華な「金門五山桐(きんもんごさんのきり)」が宿屋の二階と下ということであるが、何回もあの場面観させられているのでかえって新鮮で、夢と上手くつながっていた。葛籠抜けも『増補双級巴』で考案されたということである。

 

  • 芥川の場」から面白かった。お金をつくらなくてはならない百姓の次左衛門(歌六)が旅の途中の奥女中(京妙)が癪を起こし困っているのを介抱する。奥女中がお金を持参しているのを知って殺してしまう。定番であるが、奥女中は大名の子を宿していた。幕となってからオギャーと産声が響く。

 

  • 壬生村次左衛門内の場」では、芥川の場からかなり年数がたち、次左衛門は、目が不自由になっているがやはり貧乏である。赤貧である。どうしょうもなくて、娘の小冬を廓に売ることにする。小冬はけなげでひな人形さえも掛け取りに引き取らせる。借金のもとを作ったのは次左衛門の息子であるが行方不明である。その息子が帰って来る。喜ぶ小冬。父が連れてきた廓の使いの者に大金を投げて帰す息子。息子は石川五右衛門となっていた。

 

  • 次左衛門は自分の犯した罪が息子に災いしたかと怖れ、自分が五右衛門の母を殺したことを打ち明け、自分を殺し悪事から手を洗うようにさとす。五右衛門は自分が大名・大内義弘の子供であることを知って、大きな野望を抱くのである。次左衛門はこれ以上の悪事はさせぬと五右衛門を殺そうとして、目が不自由なため娘の小冬を刺してしまう。五右衛門を育てたことが次左衛門親子にとって悲しい結末となってしまうのである。小冬が父の罪も全てかぶることとなり、次左衛門は実の親のようにその後の五右衛門を心配して後を訪ねるのである。「壬生村」は罪の重なり合いの家族の悲劇を示した。歌六さんの複雑な親ごごろ。ひたすらけなげな小冬の米吉さん。自分の生い立ちをさらなる悪に増大させようとうそぶきたくらむ五右衛門の吉右衛門さん。この流れがバランスよく、しっかり見せてくれた。

 

  • 野望をいだいた五右衛門は、勅使に化けて将軍・足利義輝の館へ。ここで竹馬の友・猿之助(さるのすけ)が此下藤吉郎久吉となっており再会する。芝居などでは盗賊・石川五右衛門も話が大きくなり、秀吉の寝首をねらったということにまでなって、秀吉を久吉として登場させている。これも秀吉が百姓の出であるということが自由に登場させれる要因でもある。この「志賀郡足利別館奥御殿の場」「奥庭の場」は河内山宗俊を思わせる痛快な場でもある。

 

  • 奥御殿の場」は趣向があって、義輝(錦之助)はきんきらの御殿で傾城芙蓉(雀右衛門)をそばにはべらし遊興。そこへ御台彩の台(東蔵)が現れる。歌舞伎を観慣れない友人がよくわからなかったという場面でもある。義輝に気に入られるようにと彩の台は、芙蓉に傾城の話し方、作法の教えをこうのである。義輝はそれは面白いと、お互いの打掛けを交換させる。入れ替わらすわけである。そこへ勅使の五右衛門が現れ、御台としてその応対に出るのが芙蓉で、五右衛門は芙蓉の色香に相好を崩すというおまけがつくのである。当然お家をねらう悪玉がいて長慶(又五郎)であるが五右衛門に軽く抑えられる。

 

  • この場は、ニンにあった役者さんが揃い、居並ぶ大名たちの松江さん、歌昇さん、種之助さん、吉之丞さんたちも重さが出てきておさまり、軽く楽しめる。さらに久吉との再会である。ここは、他の五右衛門の芝居にも出てきてお馴染みである。吉右衛門さんの五右衛門と菊之助さんの久吉のコンビはセリフも明解で難はないが、役者同士の面白さまでには至らなかった。義父の次左衛門は五右衛門が心配で探し、久吉にとらえられていた。久吉は次左衛門を葛籠に入れ五右衛門につきつける。ここがややこしい駆け引きとなり、五右衛門の母の形見の笛も出てくるが詳しくは筋書でどうぞ。そこら辺をうやむやでも葛籠抜けというスペクタルな場へと飛んで楽しむのも一興である。

 

  • 五右衛門隠家の場」。五右衛門に家族がいて、母と子は生さぬ仲で継子いじめという現状であるが、実はという流れがある。五右衛門の女房・おたき(雀右衛門)は先妻の子・五郎市を事あるごとに小言を言って家から追い出す。五右衛門はそれを知っているが、おたきを家から出すと何を訴人されるか分からないので我慢してくれと五郎市に語る。そのとき胸にこたえるのは、おたきと間男のことであるとつぶやく。それを聞いた五郎一は、部屋にいるおたきの父(橘三郎)を間男と勘違いし刺してしまう。ところが刺したのはおたきのほうであった。

 

  • 瀕死のおたきの口から語られるのは、五郎市の将来に対する心配であり情愛であった。この部分見せ場なのであるが、もう少し色濃くでてもよいと思われた。継子いじめの雀右衛門さんに憎らしさがあるが、その裏返しが薄かった。雀右衛門さんがどうのというより、この場の情愛を増幅させるなんらかの演出が欲しかった。心理描写の上手い吉右衛門さんもしどころの少ない場となってしまった。訴人するのが、おたきの父である。最終場、「藤の森明神捕物の場」の立ち回りの場へと移る。

 

  • 捕物に囲まれ五郎市の名を呼ぶ五右衛門。五郎市は捕らえられ、久吉に連れられて登場する。その息子の姿をみて五右衛門は観念して縄にかかる。久吉の温情をことわり、縄打たれた五右衛門は倒れている五郎市の着物の襟首を歯でかんで立ちあがらせる。親の情愛を感じさせるしぐさである。友人は最後泣けたと言っていたがこの五右衛門のしぐさであろう。

 

  • こちらは泣けなかったのである。偶然、歌舞伎を長く観ている友人に会い聞いたところ彼女も泣けなかったと泣けた人がうらやましいと嘆いた。吉右衛門さんが情を表す役者さんなので、どうも二人とも期待が大きすぎたのではないか。やはり石川五右衛門という盗賊なので、その盗賊としての大きさを維持するとすれば、情のほうに深くというのは難しいのではの結論であった。感性が硬くなっているのかも。

 

  • 五右衛門の子分の種之助さんが、誰なのと思わせる盗賊ぶりであり、その子分たちに身ぐるみはがされる中納言の桂三さんが身分ゆえの情けなさと可笑しさを上手くだして笑いを誘っていた。何十年ぶりかの場面上演の石川五右衛門のお芝居、満足の域に達していて、新たな五右衛門物として愉しめた。時間が経つに従い先人たちの工夫をどう生かすか。工夫が多いだけにそれを整理するのも大変な作業でもありやりがいでもあろうし、観る方もその歴史を開けて舞台で見せてもらえるのであるから大きな喜びである。

 

11月 「国立劇場」「歌舞伎座」

  • 今回はあらすじについて触れるかどうかはいまのところ未定である。自分のなかでこうなってこうなるとすっきりさせたくなれば書くであろう。どちらも歌舞伎音楽に惹きつけられたのである。音楽を言葉で表すのが厄介である。とらえられないのに気にかかる。ジリジリした状態であるが、観劇は楽しかった。時間の前後が目茶目茶なのであるが、ラジオを聴いたことが触発されているかもしれない。

 

  • NHK・FMで金曜日、11時~11時50分『KABUKI TUNE(カブキチューン)』という放送がある。昨年までは『邦楽ジョッキー』であったのがかわったのである。すいませんが聞いてるわけではありません。興味は非常にあるのですが。パーソナリティーが歌舞伎役者の尾上右近さんで、正確には、清元栄寿太夫(7代目)の名前もありまして今月の歌舞伎座では、清元も語られて役者としても出演されるという劇的な登場をされている。

 

  • ラジオの『KABUKI TUNE(カブキチューン)』で、歌舞伎座からの録音中継をするというので今回は興味があり聞いたわけである。それも再放送。朝の5時~5時50分。その日一日の生活時間に狂いが生じ、国立演芸場の「花形演芸会」の申し込みを忘れたというおまけつきである。気が付いていたとしても購入は無理だったと思うが。ラジオのほうは歌舞伎楽屋の臨場感があり聞いた甲斐があった。そのなかで竹本葵太夫さんがしびれるような素敵な声で出演されていた。その時は、国立劇場の『通し狂言 名高大岡越前裁(なもたかしおおおかさばき)』を観たあとであった。葵太夫さんが浄瑠璃を語られる「大岡邸奥の間庭先の場」が見せ場であった。

 

  • 葵太夫さんは、歌舞伎座の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』でも語られていてお忙しい月である。この舞台の石川五右衛門の吉右衛門さんの大きさと真柴久吉の菊五郎さんが上と下でバランス良く対峙して、内容なんてどうでもいいような歌舞伎の醍醐味であった。そして思ったのは、歌舞伎役者さんは体の中に浄瑠璃の音が入っていないとその動きに大きさと面白味が加わわらないのではということである。ただ観ていてもそれがこうだとはわからないし説明できない。何か息の詰め具合の微妙さがあるような気がする。

 

  • 葵太夫さんがラジオで言われて印象的だったのは、竹本では葵太夫さんが一番上なのだそうである。教えてもらえる先輩がいない。清元は沢山先輩がいていいですねと。そうなのかと驚いた。江戸からの音楽は伝えていかなければならないわけでそちらも大切である。歌舞伎は演者も音楽もナマが本来の形である。その基本を守りつつも新たな試みもしていかなければならないわけで、若い歌舞伎役者さんに求められているのは新旧二刀流の構えである。となると、尾上右近さんは三刀流でなければならないとうことになる。ということは、『ワンピース』のゾロということか。口にも刀。

 

  • 国立劇場の『名高大岡越前裁』は天一坊改行と名乗る男が八代将軍徳川吉宗のご落胤(らくいん)だとして世の中を騒がせそれを大岡越前守が名お裁きをするという話しであるが、実際には大岡越前守はこの事件にはかかわっていなかった。どなたが裁かれたのかしりたいところであるがそれは置いといて、この芝居では、大岡越前守は切腹まで追い込まれるという危機一髪のところで証拠がそろい、お裁きとなる。この切腹場面が「大岡邸奥の間庭先の場」である。

 

  • 白装束の大岡越前守と妻・小沢の間には息子の忠右衛門も自分も切腹をさせてくれと父に頼みこむ。大岡の梅玉さんと小沢の魁春さんに挟まれ、市川右近さんがきっちりと演じられ、その臨場感を守られた。浄瑠璃の語りはあるが、梅玉さんと魁春さんは大げさに演じるわけでもなくむしろ淡々としているのであるが、その覚悟のほどは広い劇場に浸透していく。大岡はすでに将軍の怒りをかい閉門の身でありながら再吟味の場を作り証拠が不十分で覆せなかったのである。立ち回りが一切ない舞台だけにこの場で大岡の窮地を家族の情で伝え、さらなるお裁きへの踏み台としての場面としてよく出来上がっていた。

 

  • 歌舞伎座での『十六夜清心』での清元にのっての極楽寺の僧侶・清心と遊女・十六夜との心中である。清心の菊五郎さんと十六夜の時蔵さんの身体の音楽性の年季が如実であった。自然に心と体が動いて行く。栄寿太夫さんの声綺麗である。ただ清元も詞を聞き取るのは難しい。心中した清心が泳ぎが上手で死ねなかったのであるが、再び死のうとして端唄が聞こえてくる。端唄は聴きやすい。端唄を聴いて清心が死ぬのをやめてしまうのがなんとも可笑しい。浄瑠璃系はむずかしい。若い栄寿太夫さんによって若い方が清元になじまれ、より歌舞伎の深さと楽しさを探られることを期待する。こちらは、曲と離して読むことから始めないとだめなようである。

 

  • 文売り』は清元の舞踏である。雀右衛門さんが一人で踊る舞台はめずらしい。文売りという恋文の代筆業のことであり、それを売って歩く女性が登場する。現れた場所が逢坂の関ということで二つの道が一つになるという恋の成就をかけているのであろう。様々な人物の踊り分けもあり、詞を調べて目を通してから観ると楽しさが増すことと思う。『素襖落』は狂言を舞踏劇にしたもので、太郎冠者がお姫様に素襖をもらって主人らと取り合いになるという喜劇性だけが頭に残ってた。ところが竹本の義太夫と長唄両方の登場となる。松緑さんは最初から愛嬌ある表情で、喜劇性と那須の与一の扇の的を射る踊りもあるというものである。それも酔いつつなので、こんなに大曲の踊りだったのだと思わせられた。

 

  • お江戸みやげ』は、舞台が開いた時、この芝居は歌舞伎座では広すぎるなと思わされた。結城紬の行商人の話しで色彩的には地味な人情物である。お辻の時蔵さんとおゆうの又五郎さんの演技の機微は申し分ないがそれが伝わるには広すぎる。お辻は、お江戸の大切な思い出ともなる人気役者の片袖を貰い。この片袖、『名高大岡越前裁』でも重要な意味がある。法沢(天一坊)が自分が死んだと思わせるために片袖を使うのである。後にこれが命取りの証拠となるのであるが。法沢の右團次さんも好い人とおもわせてさらさらと悪事を働いて行く。それに加担する弁の立つ山内伊賀亮の彌十郎さん。悪事の役者もそろい名お裁きの一件も落着。テレビでの大岡越前といえば加藤剛さんである。(合掌)

 

  • 隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ) 法界坊』は、『ワンピース』の仲間たちが歌舞伎座に集結の感である。ルフィの猿之助さんが法界坊で、いいだけ仲間たちに絡んでいる。一番絡まれているのが手代の要助の隼人さんで実は松若丸で、「鯉魚の一軸」を探している。え!大阪・松竹座で一件落着だったのではなかったの。あれからまた紛失したらしい。絵の鯉はもどったが軸の本体は人の手から手えと移動してのてんやわんや。ルフィの代役をした尾上右近さんのおくみは代役のお礼の意味か、法界坊に言い寄られてしまう。そして文売りが書いた恋文ではなく法界坊本人が書いた恋文が道具屋甚三の歌六さんに読み上げられてシュン。要助は番頭の弘太郎さんにも落とし入れられる。はっちゃんよりはまっている。いい男はひたすら笑わずに耐える。うむ!

 

  • 双面水澤瀉」では、法界坊に殺された野分姫の種太郎さんと甚三に殺された法界坊の猿之助さんの亡霊が合体して、もう一人のおくみとしてあらわれる。肉体の猿之助さんが、常磐津と竹本の掛け合いで野分姫と法界坊の踊り分け。亡霊を退治する観世音像をかざす渡し守おしずの雀右衛門さん。音楽と肉体。肉体と幽霊。三浦雅士さんの講演の話しが重なってくる。(寺山修司展記念講演『ベジャール/テラヤマ/ピナ・バウシュ』神奈川近代文学館)かなりいびつなモンタージュが頭の中を駆け巡る。書き手本人だけが面白がっているのでほっといて自分で観劇するのが一番である。