ふたたび『三峯神社』と『秩父』

  • 早々と『三峯神社』への再挑戦である。解ったことは、やはりバスがかなり気力を奪われてしまう。行きも帰りも、あのカーブを登って下りるのでバスの車体だと振りが大きいのである。帰りは三峯神社で頂いた気をかなり使いきった感じであった。平日とあって先日より少しは人は少ないが、紅葉は見ごろなのでやはり人気である。

 

  • 三峯神社』では、しっかり「遥拝殿」から「奥殿」のある山にむかって手を合わすことができた。遥拝殿もっと距離があると思っていたが階段を少し登るだけであった。もともと高い場所なので見晴しがよい。この「奥殿」へ歩いて登るツアーも見つけたが期間がきまっている。乗り物の席が保証されているのが魅力である。スーパー歌舞伎でかなり身近になっている日本武尊像にもおそばから右手を挙げて挨拶できた。日本武尊は東国に来たおりこの地にのぼり、周囲のあまりの美しさに、イザナギノミコトとイザナミノミコトの二神をお祀りし、国の平和を祈られたのが始まりだそうである。

 

  • 拝殿へ向かう階段の脇に並ぶ石塔は東京築地市場講とありお店の名前が記されてあった。拝殿の横には水をまくと龍が現れるという石畳あり、小教院という古い建造物はコーヒーハウスとなっていた。先日見落としていたものを確認できた。拝殿への道も、隋心門を通らずに歩く楽な道があり、多くの摂末社が祀られている。早めにバス停にむかったので無事座ることができた。座っていても身体がゆれるカーブなのである。紅葉は綺麗であった。穏やかな自然体である。陽の光が当ったところだけが色づいている。その素直さは、あの大災害と同じ自然とは思えない。

 

  • 今回は『ちちぶ銘仙館』と『やまとーあーとみゅーじあむ』に行く予定を立てていた。秩父銘仙は、平織りで裏表がなく色があせれば裏を使って仕立て直しができ、明治後期から昭和初期まで人気があった。秩父銘仙は「ほぐし模様」といわれる変化に飛んだ斬新な模様で喜ばれたのである。「ほぐし模様」というのは、タテ糸に型紙を使って模様を染め、これを「ほぐし捺染(なっせん)」という。大正ロマンでは竹久夢二さんの描く女性の着物が明るい太い縞や植物、幾何学模様で銘仙であったとされている。当時の女性たちへのあこがれの相乗効果をもたらしていたようにおもえる。普段のおしゃれ着として開放的な可愛らしさを楽しめたのである。

 

  • 先に糸を染めて織りつつ模様を出していくものはしっかりめの硬さがあり、織ってから染めたものは手触りにも柔らかさがある。秩父銘仙はそのどちらでもない特徴を考案したものです。先にタテ糸で型染するのでタテ糸が柄を作り、横糸は一色で織り「ほぐし織」という。「ほぐし捺染」で大胆な柄を描くことができ、柄を簡略に織り込むことができ、さらにこの技法は光線の加減で玉虫色に光るという効果をも生み出したのである。「ほぐし」というのはたて糸だけではばらけてしまうので仮の横糸を織り込み、それは本織りのときにはほぐしてとってしまうところからきているのようである。秩父の織物は神話の時代にさかのぼる。

 

  • 秩父の織物は、神話時代、崇神(すじん)天皇が国造りのため知々夫彦命(ちちぶのひこのみこと)をつかわされ、知々夫彦命が秩父地域に養蚕と機織りの技術を伝えたのが始まりと言われている。このかたが秩父の祖神を祀ったのがはじまりで知知夫国の総鎮守としての『知々夫神社』があるわけだ。織物にもどすと、盆地で石灰質の強い土で稲作に向かず養蚕による絹織物が盛んになる。盆地というのはよくわかります。

 

  • 江戸時代、出荷できないような繭をあつめ作ったのが「太織(ふとおり)」。丈夫で江戸で評判になり「鬼秩父」と呼ばれ、いまでいうデニム感覚で歌舞伎役者や江戸っ子が着こなして秩父の織物が世に知られるようになる。歌舞伎役者の着るものは江戸ファッションのさきがけである。この「鬼秩父」は残念ながら展示されていなかった。見たかった。そのあとで『秩父銘仙』を作りだすわけである。

 

  • 秩父銘仙の歴史の年表が掲示されているが、上のほうで字も小さいのが残念。江戸時代の寛政の改革では、秩父夜祭の曳きまわしが禁止されている。そんな事まで目が届いていたのである。12年後に復活する。現『ちちぶ銘仙館』は秩父工業試験場として建ち、その後、繊維工業試験場となり変遷があって廃止となる。建物は、建築家ライト氏が考案した大谷石積みを使い、三角屋根の工場棟は渡り廊下になっており、市民運動によって残され『ちちぶ銘仙館』として開館する。

 

  • 最盛期には約7割の市民が織物関係に仕事にたずさわっていたという。おしゃれ着から、座布団や寝具などの製品としても送りだすが、時代の波は変わってしまった。「ほぐし捺染」に関しては、映像があって20分位かかる。案内チラシでは現在、毎週第2土曜日にすべての設備が稼働して、繭から秩父銘仙になるまでの工程がみれ、体験コーナーもあるらしいが確認が必要とおもう。銘仙は、秩父、足利、桐生、伊勢崎、八王子が関東の五大産地と呼ばれていた。

 

  • 同じ方向の先に『やまとーあーとみゅーじあむ』がある。ここは、棟方志功さんの作品を中心とした美術館ということである。羊山公園の北側の端にあって、南側の端が芝桜で有名な場所となる。今回芝桜の位置もわかったので来年は芝桜観にくるである。途中に「牧水の滝」という小さな憩いの場所があった。案内板の文字が薄れてしまっているのが残念である。ここの道を登って行けば美術館に行く道に出るのでできれば書き直して欲しいものである。若山牧水さんと奥さんの貴志子さんの比翼歌碑がありそこには記されてあった。

 

  • 牧水さんは、大正9年に秩父鉄道の秩父駅で下車し、徒歩で妻坂峠越えて名栗に向かっている。そのとき片側町の家並みから機織りの音がして、男女が声を合わせて唄う家もあると、紀行集『渓(たに)より渓へ』に記しているとある。牧水さんの歌は 「秩父町 出はづれ来れば 機をりの うた聲つづく 古りし家並に」。貴志子さん歌は、夫の歌碑のお礼として詠んだ歌で 「のび急ぐしたもえ草の あさみどり あやふくぞおもふ 生ひ立つ 子等を」。牧水さんの歌では、旅したころの秩父の様子がよくわかる。

 

  • そこからも秩父市街がみえるがさらに登ったところに『やまとーあーとみゅーじあむ』があり、お隣には『武甲山資料館』がある。資料館のほうは寄れなかった。武甲山は秩父市街の南にそびえる石灰岩質の山はだをみせる名峰である。秩父神社とも関係が深く、秩父観音霊場はこの武甲山への信仰が基盤なのだそうである。隣駅の横瀬駅から近い『横瀬町歴史民俗資料館』にも信仰と祭りというコーナーがあるらしく興味ひかれる。

 

  • やまとーあーとみゅーじあむ』の棟方志功さんの作品たちよかったです。個人の方が収集されたそうです。「大和し美(うるわ)し」もあり、三峯神社でヤマトタケルノミコト殿に挨拶したばかりなので嬉しい。よくこれだけの文字を彫ったものである。秩父の夜祭りの版画もあった。観ているとしぼんでいた<気>が膨れ上がってくる。書も恰好良くて元気がもらえる。棟方志功さん、やはり爆発している。熊谷守一さんの絵も三点あった。アリとネコである。爆発なんのそので、これまた可笑しくて素敵である。帰りの電車、爆睡であった。秩父また行くよ~。

 

『合邦辻閻魔堂』

  • 松竹座へ歌舞伎鑑賞で行った時、以前閉まっていた『合邦辻閻魔堂』に再度訪問を果した。無事お参りできた。これで一つ気にかかっていたことを終わらせることができた。そして、無償に『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』の浄瑠璃が聞きたくなった。タイミングよろしくお江戸日本橋亭で女流義太夫演奏会があり聞くことができた。『摂州合邦辻 合邦庵室の段』を浄瑠璃・竹本越若さん、三味線・鶴澤駒治さんである。

 

  • お辻(玉手御前)が嫁入り先の継子に恋をして、お辻の父・合邦が継子の俊徳丸と許嫁・浅香姫をかくまっているのを知り、合邦庵室に訪ねてくるのである。事情を知っている合邦は家にいれるのを拒みますが母のほうが懇願し入れてやるのである。何んとかお辻の考えを改めさせようとする親とあきらめない娘のやりとりとなる。恋に狂うというがあるがお辻はその典型で、恋に狂う女の妖しさもかもしだされるのである。そこが、女流ならではの妖しさとなって聞かせてくれた。これもまた実はがあるのだが、それは無しとして聴くのが常道である。

 

  • まじかで聞かせてもらって、三味線の手にも感心してしまった。どうしてこういう好い手がはいるのであろうか。浄瑠璃はそのふしの流れと、三味線の手のシステムがよく分からないのであるが、魅了される。ほんとに不思議である。それに合わせて動く人形。それをさらに人間の身体で表そうとして取り入れた歌舞伎の先人たちにも思いが馳せる。

 

  • そのほか『絵本太功記 尼ヶ崎の段』(浄瑠璃・竹本越里/三味線・鶴澤津賀榮)、『伽羅先代萩 政岡忠義の段』(浄瑠璃・竹本駒佳/三味線・鶴澤賀寿)、『妹背山婦女庭訓 金殿の段』(浄瑠璃・竹本綾之助/鶴澤津賀花)であった。

 

  • 義太夫の後は、『三井記念美術館』へ。「仏像の姿(かたち) ~微笑む・飾る・踊る~」仏師がアーティストになる瞬間。「顔」「装飾」「動きとポーズ」に切り口をいれての展示である。こんなお顔が。こんなに前かが身なの。力士さんみたい。風をおこして動いてる。不動明王さまの髪がそれぞれ違うがかつらみたい。さすが力の入った見得。全身飾ってますね。その変化が楽しかった。

 

  • 東京藝術大学文化保存学(彫刻)とのコラボとして仏像の復刻作品や修復作品なども展示され、寄木作りでは部分、部分がどのようにつながるかも分かりやすく少し離して分解してくれていて、なるほどパーツごとに彫られて一つになるのかと大変参考になった。

 

  • 正式には東京芸大大学院美術研究科文化財保存学保存修復彫刻研究室(籔内佐斗司教授)のスタッフが制作した薬師如来が、福島県の磐梯町にある史跡慧日寺跡の金堂に納められ、その映像があった。慧日寺(えにちじ)は徳一という人が開いた寺で司馬遼太郎さんが『白河・会津のみち』の「徳一」「大いなる会津人」で書かれている。旧仏教(奈良仏教)を代表して、新仏教(平安仏教)の最澄と論戦し、最澄を苦しめつづけたと。その新しい金堂に平成に作られた薬師如来像が納められたのである。慧日寺の名は忘れていたが、徳一という名前は憶えていて『磐梯とくいつ芸術祭』のチラシにもしかしてあの徳一さんかなと思ったのである。

 

  • 2018年の『磐梯とくいつ芸術祭』はチラシによると慧日寺資料館で「薬師如来像ができるまで」を紹介しているらしいが、検索してもでてこないので、もし興味があるなら慧日寺資料館に電話で問い合わせるほうがよい。金堂の薬師如来像の拝観も同様に問い合わせられたい。慧日寺跡はいってみたい場所である。何もないとおもっていたので。

 

『没後50年 藤田嗣治展』(東京都美術館)

  • 『没後50年 藤田嗣治展』(東京都美術館)終わり一週間前なので混んでいるのは覚悟でして行ったのだが、入場は並ばずに入れた。とにかく史上最大の大回顧展ということなので流れがわかればよいと力まずに観覧することにした。「Ⅰ原風景ー家族と風景」で、『父の肖像』があった。嗣治さんの父上は軍医でもあり、森鴎外さんとも知り合いであるということを文京区の鴎外記念館で知った。嗣治さんは鴎外さんに父とともに訪れ、学校をやめてパリに行きたいがどうでしょうと意見を求めている。鴎外さんは学業を終えてからにしなさいといわれ、嗣治さんは鴎外さんの意見に従う。

 

  • 鴎外記念館で、コレクション展『東京・文学・ひとめぐり~鴎外と山手線一周の旅』を開催していた時で、『藤田嗣治展』があるということもあってか、その関係が少し展示されていて、そこだけ印象に残ったのである。「鴎外と山手線一周の旅」は範囲が広すぎた。そして浅草がなかったのでなおさらサラリで終わってしまった。美術館で嗣治さんが描いた『父の肖像』がすぐにあったので、このかたがお父上かと注目してしまった。父・藤田嗣章(つぐあきら)さんは、森鴎外さんの後任として陸軍軍医総監になっている。

 

  • 東京美術学校(東京藝術大学)では、黒田清輝さんらに教えを受けている。黒田清輝さんはフランス留学帰りで印象派の光の当たった絵を描かれていて、東京都美術館の近くには『黒田清輝記念館』があり無料であるが、代表作の公開は期間限定であるので注意されたい。黒田清輝さんというと、熊谷守一さんの先生の一人で『へたも絵のうち』に書かれている青木繁さんのことが浮かぶ。

 

  • そのころに美術学校には変わった人がたくさんいて、青木繁さんが変わり者であった。絵をかいていて黒田さんが入って来るとすーっと教室を出て行くのだそうである。「あんなヤツに絵をみてもらう筋合いはない、という意思表示なのです。」それも戸をわざと音をたててしめてでいくのです。熊谷守一さんも黒田清輝さんは、どちらかといういと政治家だから、美術学校には役立ったでしょうが、絵はあまり感心しませんとしている。

 

  • 黒田さんも、絵を志す青年の気持ちはわかるのか自分の描き方はおしつけなかったとし、青木繁さんの態度にも、別に怒りもせず知らぬ顔をしていたようである。こちらが黒田清輝さんの絵を観るとさすがフランスで印象派を学ばれたかたの絵であるとおもって観てしまうが、才能のある人はそう単純ではないようである。黒田清輝さんが政治家になったとき、政治家は大変でしょうと聞かれて、美術界の集まりに比べればたいしたことはないと言われたと書かれたものを読んだことがある。納得してしまう。政治家のほうは損得で動きそうだが、画家はそう簡単には動かなさそうである。

 

  • 藤田嗣治さんも、新しさを求めてパリへ行き、パリっ子も羨望し感嘆するあの「乳白色」を見つけ出すのである。それまでの貧しい時代には、自分の回りにある物を絵にしていて、その細やかな線や色にも目がいく。モディリアーニの長い顔とかユトリロのような真っ直ぐな建物の街角、ゆがんだ街角など、吸収すべき技は貪欲に学んでいる。そのうえで独自のものを見つけるのである。北米、中南米、アジアを旅すればそこの土地の色を見つけ出し、土地の人をとらえる。日本に帰り戦争時代である。そして最後は宗教画となるのである。

 

  • 藤田嗣治さんのこの技に対する貪欲さと才が、あの戦争絵に反映しているように思える。『アッツ島玉砕』などは、こんな死に方をしなくてはならないなんて戦争は嫌だとおもう。『サイパン島同胞臣節を全うす』なども民間人が自決する絵である。なんと戦争とは悲惨なことを強いるものなのだとおもう。しかしその時代には、逆なのである。国を守るためには皆この心構えで戦わなくてはいけないのだ。前線では皆お国のために、このように身を捧げているのだとなるわけである。

 

  • そのことが戦後、問題となってくる。それだけではないようだが詳しくはわからない。画家として絵に対する技の追求の想いがあったことはたしかである。それと日本を離れていたので、ここで日本人にならなければという想いもあったのかもしれない。戦争責任問題で彼は失望し日本を離れる。その後何処へ行っても藤田嗣治の絵の人気は高かった。

 

  • 一つの場所に集められた一人に画家の多数の絵の変化には、やはり驚きもあり、興味深かった。一人の画家から、どうしてこんな変化にとんだ絵が出来上がるのであろうかと不思議におもう。マジックにかかっているみたいである。秋田県立美術館の『秋田の行事』も思い出してしまう。あそこにも藤田嗣治さんの色と雪国の人々がいた。才をあたえられ、さらに技を磨いて、華々しく開花したゆえに、生き方が難しいということもあるのだろう。

 

『木田金次郎展』(府中市美術館)

  • 暑さのため美術館へ行くのが少なかったが、気に入ったのは『木田金次郎展』と『河井寛次郎展』である。

 

  • 『木田金次郎展』(府中市美術館)は、9月2日までなのでギリギリセーフであった。有島武郎さんの小説『生まれ出づる悩み』のモデルである画家・木田金次郎さんの作品が予想以上に沢山展示されていた。好い絵である。有島武郎さんと木田金次郎さんとの実際の出会いを小説だけではなく、木田さんの文章などからも紹介していて文学展としての意味合いもあり、複合的な展覧会になっている。

 

  • それぞれの生い立ちからどうして巡りあったのか。そのあたりも興味をそそるように展示物され、解説文を読むことで解き明かされていくようになっていた。解説文も読みやすかった。字の大きさなどから、その前に人が立っていても横からも読めるようになっている。この間隔が上手であり、なるほどこういう風にして読むことができる置き方というのもあるのだと思わされた。そのためしっかり時間をかけて見学する気にさせてくれた。

 

  • 木田金次郎さんは、北海道の岩内の海産物を営む家に生まれている。裕福で東京の中学校で勉学する。ところが、父が漁業に乗り出しうまくいっていたのが、岩内港の修復工事で木田家の漁場に土砂が流れ込み漁業が上手くいかなくなった。岩内にもどる金次郎さん。東京時代は、萩原守衛、高村光太郎、藤島武二、有島生馬などがヨーロッパから帰国し活躍し始めていた。そんな空気を感じつつの帰郷である。

 

  • ある時、札幌で有島武郎の表札の家に偶然出会う。金次郎さんは、黒百合会の展覧会で有島武郎と名のある絵に感銘を受けたことがあった。後日、自分の作品を持参して見てもらう。いい絵だといってくれる。有島武郎さん32歳、木田金次郎さん17歳である。金次郎さんは家のこともあり漁師の出稼ぎにもでたりして7年後の再会となる。大きな体の人が訪ねて来て有島さんは、金次郎さんとはわからなかった。そしていろいろ相談に乗ってくれ最終的に、地元に残りその土地を絵に描くのがよいという意見をもらう。

 

  • 有島武郎さん自身も、親から受け継いだ有島農場や自分が作家として生きていくことなどの模索があり、自分とその青年とを重ねて、作品を生み出す悩みを小説に書いたのである。有島武郎さんは農場を小作人たちに個人個人に譲るのではなく共有するという形で譲っている。そのあたりのこともわかるように展示されている。有島武郎さんの死に衝撃を受けながらも、金次郎さんは、岩内に残り絵を描き続ける。1954年、岩内で大火がある。連絡船洞爺丸が沈没した台風の時である。映画『飢餓海峡』にも出てくる。その火災で金次郎さんは、1500点の絵を焼失してしまうが、有島武郎さんからの手紙だけは持ち出している。

 

  • 岩内港の焼け跡をすぐに描いている。その絵が岩内地方文化センターホールの緞帳となっている。その絵のほうも展示しているが、60歳になって初めて個展を開いている。絵の色合いが好きである。そしてどの絵にも微かに明るさがある。明るさは後の作品にどんどん増していく。絵は小説『生まれ出る悩み』のモデル画家から解放されている。芸術とはそういう物なのだとおもう。

 

  • 「青春の苦悩と孤独を歓喜にかえた画家たち」ということで、作家・水上勉さんが「若狭がうんだ農民画家の第一人者」と評した渡邊淳さんの絵も展示してある。独創的な感覚をもった絵を描かれている。水上勉さんは、渡邊淳さんに触発されて作画されるようになったそうで水上さんの絵も二点あった。水上勉さんは『飢餓海峡』を書かれたかたで、あれ、つながってしまったとおもった。北海道で『生まれ出づる悩み』コンテストというのをやっているらしく、そこで選ばれた若手画家たちの作品の展示もあった。

 

  • <有島武郎『生まれ出づる悩み』出版100年記念>とも表記されているが、どうして府中市なのであろうかと美術館のかたにお聞きしたら、有島武郎さんのお墓が近くの多摩霊園にあるからとのことであった。なんにせよ画家・木田金次郎さんの絵が観れてよかった。絵をみて『生まれ出づる悩み』を読むとまた違った味わいになるかもしれない。

 

  • 美術館には、時々面白い本を置いてある。今回は、町田康さんの『猫とあほんだら』の題名が気に入りすぐ読めそうで購入。パナソニック汐留ミュージアムでの『河井寛次郎展』(~9月16日)では、獅子文六さんの『ちんちん電車』を。こちらは都電のお話で、浅草もでてくる。獅子文六さんが見る影もなくすたれているようすから、若い頃通った浅草六区を懐かしんで書かれていて楽しかった。

 

『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(2)

 

  • 別当の喜久次郎のほうは、泣く子も黙る小金井金次郎一家を相手にするときがきた。小金井一家のものが馬車の伝法(ただ乗り)をしたのである。黙っているような喜久次郎ではない。相手をやりこめ、後日払うという約束をとりつける。相手から金を渡したいと連絡がくる。喜久次郎は一人で乗り込んだ。その時懐から出したのが鉄砲だった。これは、郵便馬車には重要な郵便や現金が積まれていて襲われたことがあり、それから駅逓局は別当のおもだったものに鉄砲を持たせていたのである。このときから「鉄砲喜久」の名前がついた。しかし、いざこざはおさまらず喜久次郎は警察のやっかいになる。

 

  • 警部から大福餅を出され、このままではお前の一生はまっとうできない。八王子から姿を消せ、と言われる。その人は、子供の頃、父の使いでの山道で倒れていた天狗党のひとであった。喜久次郎は、持っていた大福餅と弁当を与えて助けたのである。喜久次郎の実家は菓子製造をしていた。八王子に来てすぐ警察につかまり釈放してくれたのもこの人であった。

 

  • 喜久次郎は新宿で飲み屋を始める。ところが、客は別当仲間で、小金井一家や他の一家も客として相手をしなくてはならない。そんなおり不審火で店は焼け、隣家も焼けてしまい債務の問題で裁判所に呼び出された。その裁判長が、喜久次郎の親戚で、喜久次郎は今のやりかたでは滅亡しかない。自分で火をつけたのと同じだ。鉄砲を封印し、どん底からやり直せとさとされる。預けられたのが吉原の稲弁楼で、ここで技夫(牛太郎)として働くことになる。このとき喜久次郎、31歳。

 

  • 牛太郎とは、番頭のことで、立派な牛台の上にすわって、客の呼び込み、楼内すべての監督をしていた。外からみるとただの呼び込みにみえるが、「毎夜登楼した客の人相、推定年齢、顔立ちの特徴、服装など」を記録して警察に届ける仕事もしていた。短時間のやりとりでそれだけを把握していたのである。

 

  • ここで喜久次郎は、亡くなった初恋の人お辰に会ってしまう。名前もお辰であった。この人は、辰巳楼の女将であった。主人に早世され、実質的な後援者がすでにいた。後援者というのが、台屋であった。台屋というのは、客の食する物を直接座敷へ届ける仕出し屋で、この台屋者が郭で腕力を振るう客に腕力をもって応酬できる荒っぽい男たちであった。それでも喜久次郎はあきらめられなかった。そんな時、根岸浜吉と再会する。10年ぶりである。

 

  • 浜吉は浅草六区建設の夢に向かってつきすすんでいた。浜吉は喜久次郎の願いを引き受けてくれ、喜久次郎とお辰は結婚できたのである。ただし、辰巳楼はたたみ、新たに稲弁の二字をもらい辰稲弁とし、喜久次郎は入り婿となった。入り婿の条件として、吉原はねぐらで仕事は浜吉達と外でするとした。喜久次郎は、この商売をやめたかったが、その後の話し合いでもお辰にはお辰の考えがあり曲げなかった。結婚式には、守田勘弥が黒の礼服で、左團次は舞台の富樫の衣裳に長袴だけとりかえて駆けつけたので、吉原はてんやわんやである。ただの牛太郎であった鉄砲喜久はたちまち大物になってしまった。

 

  • この頃、勘弥は高利貸しとのやり取りで大変だったが、落ち目の新富座に左團次は残っていた。『上野戦争』と『勧進帳』で大入りとなり、木挽町にできた歌舞伎座のほうがが苦戦。勘弥は歌舞伎座に興行主任としてむかえられ、歌舞伎座で再び團・菊・左の舞台が実現するのである。勘弥は明治30年に亡くなり、新富座は時を経て松竹の経営となるが関東大震災で崩壊し再建はされなかった。関東大震災での浅草寺の修復もおこなわれる。その時観音堂の屋根の中心にあった鬼瓦取り外されてしまう。その鬼瓦が「江戸東京博物館」の一階に置かれている。崩壊したものには十二階の凌雲閣がある。浅草公園のひょうたん池からその姿を眺める絵があるが、「江戸東京博物館」の浅草ゾーンにその模型がある。ゆっくり眺めにいく。

 

  • 前に来た時より見た事のない模型の凌雲閣が身近になってみえる。浅草公園は、明治6年に上野寛永寺と芝増上寺が公園になったのと時を同じくしている。浅草は低地で浅草田んぼとよばれていた。六つに分けられ、浅草の行楽街の全盛期には、一区が浅草寺、二区が仲見世、三区が浅草寺伝法院、四区が木馬館通り、五区が花やしき、六区が映画館街である。根岸浜吉の六区建設の夢は四区、五区、六区が含まれていた。風紀問題、喧騒など様々な問題があったが、六区浅草公園内で道化踊りの興行許可がやっとおりる。続いて玉乗り、のぞき眼鏡、剣舞、幻燈、パノラマなどが人々をたのしませることになる。

 

  • 江戸東京博物館」には、その後の、六区の電気館や映画館街のジオラマや地図などがある。ひょうたん池は今のウインズ浅草(JRA場外馬券売場)のところにあった。ウインズ浅草の前にあった映画館がなくなり、今は建物がないので明るく、その通りからひさご通り、花やしき通りが行きやすくなり、ここはど~この細道じゃと散策しやすくなった。浅草には高い建物は似合わない。今のうちに楽しんでおくことにする。博物館には、江戸時代の実寸大の日本橋があるが、今回は意外と短いのに気がつく。両国橋と広小路の見世物小屋などのジオラマもあり、中村座もある。四谷怪談の小さな舞台の仕掛けがもあり、短時間で提灯ぬけ、仏壇返しなど係りの人が説明してくれる。

 

  • 吉原には三きくがそろった。大阪楼の松本菊次郎。中村楼の菊次郎。辰稲弁の山田喜久次郎である。明治29年三陸沿岸で地震による大津波がおこる。吉原には東北出身者多い。三きくは支援物資をもって災害地に飛んだ。想像を超えていた。喜久次郎は、顧問をしていた本郷の春木座(のちの本郷座)で天災の大変さを伝える『三陸大海嘯(つなみ)』の芝居を沢村吶子(とつし)を中心に上演し、救済をうったえ大入りで、慈善興行の収益金を東北三県に送った。春木座は本郷座になってから新派の人気もあり一流の劇場の地位をえる。

 

  • 根岸浜吉は喜久次郎より32歳年上であったが85歳(明治45年)でなくなり長命であった。二人の間にお金の貸し借りはなく、喜久次郎は浜吉に仕えた。根岸興行内にあって喜久次郎は浜吉の代理を勤められる実力がありながら、相談役に徹し、出資者としての立場にはたたなかった。浜吉は浅草公園に常盤座をたて、金竜館では映画で儲け、赤坂に中劇場の演技座をつくった。演技座は歌舞伎役者の稽古場的役割を果たし、新派の井伊蓉峰はここで育った。浜吉に実子がないため親戚の小島丑治を娘と結婚させ養子とした。この後実質的浅草六区の繁栄は、養子の小島丑治とそれを支えた喜久次郎の力による。

 

『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(1)

  • 映画『浅草・筑波の喜久次郎 浅草六区を創った筑波人』から、喜久次郎さんを知り、不完全燃焼から『鉄砲喜久一代記』の本に出会い、ドカーンと壁が破られたような感じである。筑波山下の北条村の茂在喜久次郎は、子どもの頃から天性の暴れ者で暴れ喜久と呼ばれていた。そんな喜久次郎に剣術、柔、読み書き、算術などを教えたのは、宝安寺の住職・宗円である。喜久次郎が子供の頃、天狗党の旗揚げがあり、喜久次郎の父は天狗党の後押しをしていた。著者の油棚憲一さんは本名・茂在寅男さんで、600年以上続く家系の同じ一族の出であることは間違いないとされている。資料的にもよく調べられていて水戸藩が幕末から明治にかけて内紛でいかに多くの人材をを亡くしたことかと言及されている。

 

  • 喜久次郎は、天狗騒動で、まじかに人の生死をみている。さらに人の浮き沈みも目の当たりにし、12歳で父が亡くなり父の遺言で他人の冷や飯食わなきゃ偉くなれないと、奉公にでる。よく働いたが、番頭の不正を見逃しておけず暴力をもって懲らしめる。喜久次郎には、三つ年上の初恋の人・お辰が心の支えでもあった。ところがお辰は嫁入り前に桜川に飛び込み自殺していた。その日は、喜久次郎がかつて桜川に流され死にそうになった日であった。お辰の覚悟の自殺であった。喜久次郎は放浪の旅にでる。18歳の時、東京にでてきて新富町の劇場の前にたつ。大看板が風で倒れそうになり、それを押さえる木戸番に喜久次郎は加勢する。ふたりは筑波下の方言を飛ばし合う。それが、根岸浜吉との出会いであった。「長脇差しの浜吉」として喜久次郎も名前は知っていた。

 

  • 浜吉は新富座の立見席の株をもっていて木戸を預かっており、十二世守田勘弥とは縁続きであった。喜久次郎が初めて観たのは『川中島』で芝居と役者に魅了された。浜吉の手はずで喜久次郎は初代市川左團次の家に住み込みで働くことになる。浅草猿若町に中村座、市村座、守田座があったが、新富町は短期間新島原の名で遊郭があり大暴風で多くの家が倒壊し、遊郭も立ち退きとなる。その空き地に浅草から新しい新富座を立てたのが十二世守田勘弥であった。

 

  • このあたりは、四世市川小団次と河竹新七(黙阿弥)の関係、小団次の養子となって上方から江戸に下った升若が左團次と改名。上方弁が観客に失笑を買い、河竹新七や守田勘彌に助けられ修業に修業を重ねたことなどが書かれていて興味深い。猿若町時代は劇場がはねると車に乗れるような役者になれと言い聞かせ、吾妻橋を渡り自宅の柳島まで歩いて帰り、夜食をとると妙見様へはだし参りをして、江戸流の台詞の練習をしたとある。喜久次郎が仕えたころは、団・菊・左の時代で、左團次は大成していた。喜久次郎はこの苦労人の左團次を敬愛しよく仕えたのである。

 

  • 新富座は建てて五年で火事のため全焼してしまう。守田勘弥は、新しい新富座を建てることを発表する。総レンガ造りで、照明はガス燈である。収容人数は2000人。資金集めに苦労し、工事は中止という事態もあったが、そんなことが外にもれては信用にかかわるので、偽装をした。こういう時活躍するのが道具方と親しくなっている喜久次郎である。道具方に頼み、あちこちの建築現場からかんな屑を買い集め新富座の建築現場入口に盛り上げたり、金主をつれて勘弥が案内するときは、新富座の印半纏の者が先にいって忙しく立ち働くのである。大工棟梁以下がいかに勘弥を応援していたかである。

 

  • 明治11年めでたく開場となった。国家行事のような大イベントであった。陸軍軍楽隊の演奏、続いて海軍軍楽隊の演奏。音楽が終ると、菊五郎、團十郎の祝辞。幕がおりた舞台では、團十郎の翁、菊五郎の三番叟、左團次の千歳、家橘のツレである。舞台が終わりに近づいたところで、ガス燈がつく。その明るさに皆驚いた。読んでいると写真でみただけの新富座の中まで観えるようである。浜吉も喜久次郎も涙、涙である。ここから歌舞伎の演劇改良も始まるのである。喜久次郎はといえば、またまた怒りを抑えられない場に遭遇してしまうのである。

 

  • 苦労人の左團次を敬愛する喜久次郎は、菊五郎の物腰が気になっていた。そこへ、『高橋お伝』の舞台幕引きで、幕引きが腹痛をおこし、喜久次郎が代わってやることになった。初めてである。幕が足に絡まりつつも何とか引き終るのである。菊五郎から叱責が飛んだ。喜久次郎はカチンときて言いたいことを言ってしまい火に油をそそいでしまった。浜吉が間に入っておさめたが、役者側も道具方も後へは引かず、次の日の幕は開かなかった。喜久次郎は責任をとって再び流浪の身となった。浜吉は、二、三年たったら俺のところに戻ってこいといったが、ふたたび会うのは十年後であった。

 

  • この旅で、喜久次郎は、「役者の大詰めの所作と、幕引きとの間の呼吸の一致ということは、素人である自分などには分からない真剣なものがあるのだろう。」ということなどまで考えられるようになっていた。陸(おか)蒸気で横浜へ出て、そこから九州までめぐり、日本海側を通って人々の生活を見って回った。新しい世の中について行けない人々。自由民権運動。東京に近づき、八王子で足を止めた。秩父貧民党。八王子困民党。そんな中、困民党に間違われ警察に引っ張られる。すぐ釈放されたが、そこで知り合った者の紹介で鉄道馬車の御者となる。

 

  • 一回目の流浪の時、盛岡の馬市の仕事をして馬のあつかい方と乗り方は経験ずみであった。御者を別当(べっとう)と呼び、半纏が細かな弁慶模様で粋だった。「馬車の別当さんは小弁慶のそろいで、東京島原迷わせる」と歌われた。郵便乗合馬車というのがあり、郵便物を運ぶのが第一で、そこに6人ほどお客が乗れた。東京から甲府まで、三日かかった。喜久次郎はそれを一日にする提案をする。優秀な御者を選び、馬車も新しくして要所、要所に替えの馬と御者も替え連続13時間で走らせる。客を安心させるため転覆保険付きとした。「はやあし馬車」。馬車の急行である。雨のときは、小仏峠、笹子峠は駕籠にして運賃を安くするのである。定期便二便と「はやあし馬車」が一便走ることになった。

 

  • この乗合馬車、「車の構造は悪く、車輪は鉄の輪付きの木製。ガラガラと音はうるさいし、道路はでこぼこ。尻は席から飛び出すし、頭は屋根にぶっつかる。」喜久次郎の手綱さばきは見事だったようである。少し寄り道をしますと、泉鏡花の『義血侠血』(滝の白糸)で、水芸の太夫滝の白糸が出会うのが馬丁(べっとう)の欣也である。馬車の客と人力車の競争となる。三月歌舞伎座の演目である。この部分は、滝の白糸(壱太郎)の語りとなる。途中、二頭の馬の一頭を馬車から放し、酒代をはずんだ滝の白糸を乗せて欣也は次の茶店まで走り届けるのである。これには滝の白糸もぞっこんである。話しだけの馬丁・欣也(松也)がさらりと登場である。滝の白糸の話しに納得である。この馬車の中の客の様子も、この本ではっきりした。

 

 

映画『モリのいる場所』 『横山大観展』

  • 映画『モリのいる場所』は、画家の熊谷守一さんの94歳のときの一日を映画化したものである。この方を映像化するのは、変に誇張したり、間延びしたりで期待しつつも、まあ全てを受け入れましょうと観た。熊谷守一さんを壊すことなく描かれていて、熊谷守一さんの生活を楽しませてもらった。熊谷守一(山崎努)さんの日常をささえる秀子夫人(樹木希林)がこれまたいいのである。熊谷さんの作品との出会いは、白洲正子さんの武相荘の日本間の床の間にかけられた、「ほとけさま」と書かれた掛け軸である。文字だけで、なんの宗教心もなく手を合わせたくなる静かで暖かいオーラがあった。名前が熊谷守一とあり、書家なのであろうと思ったら画家であった。

 

  • 絵の前に立っているのであろう。じっと見つめる人がいる。誰であろう。かなり年輩であるが、画家か美術評論家かとみていると「この絵は幾つくらいの子供が画いた絵ですか。」とたずねられる。昭和天皇(林与一)である。横写しになるとそれが鮮明になる。そうなのである。子供のようであって子供ではない絵なのである。守一さんは、30年自宅から外へ出ていない。一度だけ出たことがあるがすぐ引き返してしまう。庭の樹々、花、虫、魚、アリ、石などを飽きることなく観察してお昼寝して自分の想い通りに時間を埋めている。映画の中で一つ気にかかったのはこの庭を歩くときの音楽である。少し軽快で音がきつすぎると感じた。楽しい気分を表しているのかもしれないが、個人的には違うなとここだけ思った。

 

  • 世捨て人ではなく、世の中の動きから身を引いていて、人と話す時は真摯に自分の想っていることをわかりやすく答えるのである。それが、ずばりで、楽しくて、可笑しくて、しごくもっとで、深いのである。文化勲章も「これ以上人がきて、ばあさんが疲れては困るから」と断るのである。秀子さんが、守一さんの流れに逆らわないが、守一さんが「生まれ変わったらどうする」と聞くと、「わたしはもういいです。疲れますから。」と答え、守一さんは少しがっかりしたようでもあるが「おれは、また生きたい。生きるのが好きだ。」と。このあたりが絶妙である。「あなた、学校へ行く時間ですよ。」「学校がなければいいんだが。」といって画室に入っていく。どちらに流されているのかわからなくなる。

 

  • 新聞に連載された「私の履歴書」が本になっている。『へたも絵のうち』は、とても読みやすくて明解にかかれている。そこには熊谷守一さんの平坦ではない人生があり、42歳で結婚されてからも、絵でご飯を食べれるようになったのが、57歳ころからで、ここから94歳になって穏やかな日常生活のルールが確立されたお二人の、いや特に秀子夫人の葛藤が大変であったことが想像できる。家のこと、来客、仕事のことなど、すべて秀子さんが守一さんとの間に入って上手く回らせているのである。秀子さん76歳。文化勲章より秀子さんが元気でいてくれることのほうが大事であることがわかります。家事を手伝う美恵(池谷のぶえ)ちゃんは、この熊谷家のルールにすっぽりはまっていて、それでいながら時々外の空気を吸って来るのが元気の秘訣らしい。この家に来る人は、皆、この夫婦のペースに呑み込まれてしまう。
  • 監督・脚本・沖田修一/音楽・牛尾憲輔/出演・加瀬亮、吉村界人、光石研、青木崇高、吹越満、きたろう、三上博史

 

  • 東京国立近代美術館で、『没後40年 熊谷守一 生きるよろこび』があったが、期間が長いと気を許していたら行く機会を逸してしまったので、『生誕150年 横山大観展』は早々と行った。作品を時代順に並べられると、やはり画家の挑戦していく過程がわかり、こんなことを考えながら模索していたのかと新しい発見があり、挑戦のたびに違う横山大観さんの情熱が見えて、大御所であるのに、身近に感じられる。ハレー彗星を描いた「彗星」などをみると、興味の対象を日本画に取り入れようとする革新性と自由さが感じらる。熊谷守一さんも「絵は才能ですか」と聴かれて「いや経験ですよ」と答えられている。観察して探って探って何かを探り当てていく。線であったり、色であったり、ぼかしであったり、構図であったり、主題であったり。そのどれもが、無限なのでしょう。横山大観展、もう一回観たいのだが・・・

 

メモ帳 2

  • 北野恒富展 -「画壇の悪魔派」と呼ばれた日本画家』(千葉市美術館) ナニワで明治、大正、昭和と活躍された画家。期待の「画壇の悪魔派」がよくわからない。結果的には美人画家の印象。作品多数でナニワの美人画家がチバで頑張り、寒風の最終日鑑賞者も頑張る。日本酒の美人ポスターから熱燗連想。「鷺娘」の絵からナニワの『鷺娘』がきになる。

 

  • 映画『総会屋錦城 勝負師とその娘』 表舞台から消えていた大物総会屋・錦城の志村喬さんがやはりこの人ありの抜群さ。老いていながら娘のために相手の総会屋を倒し、総会屋はダニであると自ら豪語。妻の轟夕起子さんも適任。近頃、轟さんに注目。京マチ子さんにも。

 

  • 男はつらいよ純情詩集』の京マチ子さんと寅さんの出会いは最高。満男の先生・壇ふみさんを好きになり、さくらにお兄ちゃんは先生のお母さんと同じ年代よと注意されて、寅さん納得。そこへ先生のお母さんの京マチ子さんが登場。こんな落ちありと爆笑。世間離れしたふたり。山田監督の俳優さんの芸歴に合わせた人物像の設定の上手さ。

 

  • 溝口健二監督の遺作『赤線地帯』は、売春防止法が議論されている時代の娼婦たちの様子をえがいている。京マチ子さん、若尾文子さん、三益愛子さん、木暮実千代さんなどがそれぞれの事情からその生き様を演じる。この女優さんたちが渡辺邦男監督の『忠臣蔵』にこぞって出演。その振幅がお見事。『赤線地帯』の前に、同時代の厚生大臣一家を描いた川島雄三監督の『愛のお荷物』があり、厚生大臣夫人が轟夕起子さんで好演。過ぎし日の映画鑑賞はやめられない。

 

  • 国立科学博物館で『南方熊楠』展始まる。(2018年3月4日まで)
  • NHKEテレビ 12月19日22時~「知恵泉」究極日本人・南方熊楠

 

  • 映画『女の勲章』原作・山崎豊子さんで吉村公三郎監督。船場のとうはんの京マチ子さんが、洋裁教室から商才に長けた八代銀四郎の力を借り洋裁学校にし、チェーン学校へとファッション界を登りつめる。銀四郎の田宮二郎さんがギンギンの大阪弁のテンポの速さで女も経営も手にしていくが、とうはんは自殺。若尾文子さん、叶順子さん、中村玉緒さんと個性がくっきり。ファッションも楽しめる。原作のほうが、経営手腕の機微は面白いであろう。驚き。テレビドラマで銀四郎を仁左衛門さんが、孝夫時代に。現代物の色悪。

 

  • 世界最大級のファッションイベント「メットガラ」密着ドキュメンタリー『メットガラ ドレスをまとった美術館』。ファッション満載であるが、NYメトロポリタン美術館のスミに追いやられている服飾部門の地位獲得の目的がある。ファッションはアートになれるか。テーマは「鏡に中の中国」。今まで中国のイメージで創作されたファッションの展示。和服の場合。日本では工芸としての位置づけがすでにある。織り、染め、刺繍などから、帯留め、煙草入れまで工芸品のアートとして展示。洋服のファッションは動いてこその意見もある。そんなこんなで裏も表も刺激的。

 

  • 映画『楊貴妃』溝口健二監督である。実家での下働きのような生活。宮廷での優雅な生活。どちらも自分なりの生き方で行き来する京マチ子さん。枠組みは狭く、権力争いの中でそれとは関係なく自分の生き方を探すがやはり負けてしまう楊貴妃。溝口監督の世界。玉三郎さんの『楊貴妃』はその後のことで難解。言葉と踊りが自分の中で曖昧。玉三郎さんの世界に入りきれなかった。

 

  • 映画『大阪物語』原作は井原西鶴作品をもとに溝口健二監督が。脚本・依田義賢。溝口監督が急死され、吉村公三郎監督が引き受ける。夜逃げの百姓一家が大阪で大店に。主人の二代目鴈治郎さんのお金に対する執着心が引っ張る。最後はお金の妄執にとりつかれる鴈治郎さん。この方が出演されと映画に一味深みが加わる。

 

メモ帳 ー吾輩はメモ帳であるがまだ名前はないー

  • 国立劇場 『今様三番叟』雀右衛門さんの鼓のリズムに乗った動きか軽快で艶やか。『隅田春妓女容性(すだのはるげいしゃかたぎ)』 菊之助さんの女房役にやっと満足できてうれしい。娘役と女房役の境界線が成立。

 

  • 単色のリズム 韓国の抽象画』(東京オペラシティアートギャラリー) 画家の生き方など関係なく作品のみ目の前にある。紙に傷をつけたり、線を引いただけだったり。観てしまうとこれって出来そうと思わせるところがいい。できっこない。

 

  • 歌舞伎座12月 中車さんの台詞の上手さが生きた。『瞼の母』の渡世人・忠太郎の形も驚くほど。彦三郎さんのほどよさもあり半次郎の兄貴分になっていた。母役の玉三郎さんへ体当たり。関西弁『らくだ』が達者な愛之助さんとのコンビでいつもと一味違う。橘太郎さんの柱の蝉の素早さに不意打ち。

 

  • 土蜘』の松緑さんの僧の足使いが良い感じで面白く気に入った。今月の歌舞伎座は『ワンピース』の出演者が新橋演舞場から大移動で『蘭平物狂』の捕手などに活躍大奮闘。脇からの次世代の地固めが始まっている。

 

  • 民藝『「仕事クラブ」の女優たち』(三越劇場) 小山内薫亡き後の築地小劇場とそれを取り巻く演劇状況。左翼劇場との合同公演を機に女優達が悩み、迷い、生活の糧を求める。新劇界の空白分部をよく調らべ、そこを芝居で埋めた、新劇による新劇史。奈良岡朋子さん演ずるなぞの女性。そばにいてくれると弱い心が救われる存在感。

 

  • シネマ歌舞伎『め組の喧嘩』 十八代目勘三郎さんの粋な火消鳶頭の辰五郎の動きをしっかりと見つめる。わらじを履くとき踵をとんとんと強く叩く。どうしてなのか知りたいところである。橋之助さんは芝翫となり、片岡亀蔵さんのらくだの足先までの上手さが、時間を交差させる。芝居後の勘三郎さんの映像が涙で一気にゆがむ。

 

  • 映画「忠臣蔵」は各映画会社が競って制作。これぞと役者さんをそろえる。大映映画『忠臣蔵』は長谷川一夫さんの内蔵助に歌舞伎役者、映画スター、新劇俳優の豪華さ。内蔵助の長女役の長谷川稀世さんが新橋演舞場では貫禄の戸田局。大河ドラマ『赤穂浪士』の右衛門七の舟木一夫さんが内蔵助。堀田隼人の林与一さんが吉良上野介。時の流れの速さ。(映画『忠臣蔵』16日 BS朝日 13時~)

 

  • 新橋演舞場『舟木一夫公演 忠臣蔵・花の巻・雪の巻』 昼の部と夜の部の通し狂言。通しでありながら昼だけ夜だけにも気を使う構成の難題に挑戦。芝居だけを続けて観たいのでコンサートは失礼して泉岳寺へ。短慮な内匠頭の刃傷沙汰を承知で、自分たちで物語を作ってしまう舟木一夫さんの内蔵助。上杉家も家を守るため必死である。この役者陣なら3時間半くらいの芝居で一気に観たかった。

 

  • 朝倉彫塑館『猫百態ー朝倉彫塑館の猫たちー』へ猫大好きの友人と。新海誠監督の『言の葉の庭』の雨描写が好きというので急遽新宿御苑へ。東屋を探す。東屋4つあり全部見て歩く。池のそばなので正解は見つけやすい。藤棚が二つ。モデルはわかる。加えたり削ったり。入口は千駄ヶ谷門か?。印象的な坂道が。満足したニャン!

 

  • レンタルショップに映画『忌野清志郎 ナニワサリバンショー 〜感度サイコー!!!〜』があり、初めて忌野清志郎さんと対面。ライブも面白いが映像の構成もラジオからという設定で渋い。ナニワの風景も楽しい。めっちゃナニワのノリノリライブ。あれっ、獅童さんも。ナニワの砦が一つ消えたような。ファンでなくてもしんみり・・・

 

『ゴッホ展 巡りゆく日本の夢』『北斎とジャポニスム』(2)

日本からの浮世絵などの風を受け取った一人がゴッホさんなら、送った一人が北斎さんという設定が『北斎とジャポニスム』です。

「東京都美術館」と「国立西洋美術館」でそれぞれ忍者を忍び込ませて、どうやらあちらはこういう手を使っているらしい、こちらはこういこう、なんて探り合いをやっていたとしたら面白い映画ができそうです。丁度二つの美術館の間で伊賀市のフェステバルをしていたのです。

怖かったのが「上野の森美術館」の『怖い絵展』の観覧者の長い列の怖さ。国立博物館の『運慶』も終わりに近づいていますから並んでいたかも。鑑賞終わらせているので冷たく他人ごとです。上野公園の美術館等はビルの中でないのがいいです。ただ東京国立博物館の年間パスが無くなって、新しいシステムは相当の割高になりました。保存修復とかいろいろ財源が必要なのでしょうがかなり不満です。

北斎さんの漫画にはこの不満顔に似た絵も載っていることでしょう。北斎さんは人、動物、魚類、ハ虫類などのあらゆる姿を前からも後ろからも横からも、あるいは踊っている姿、相撲をとっている姿など動画のように描いてもいます。

こういう絵を観た西洋の絵描きさんたちは、描く人物がかしこまっていなくていいのではないか。そのほうが、その人物の本質がわかり、絵を観た人がもっと自由な発想をするのではないかと思ったのではないでしょうか。

北斎さんの絵と並べて、その影響を示してくれています。お行儀悪く足を開いてソファーに座る少女。すねているのか、遊び疲れきってしまったのか子供のあどけなさがでています。踊子を描いたドガも、舞台裏の踊子はそれぞれの想いのポーズで出番を待ちます。ロートレックは酒場の様子や踊子の絵やポスターを描いていますが、線が重要な要素になっていて、その当時の人々はその描かれている対象からも、これが芸術だなんて思わなかったでしょう。

北斎さんの浮世絵だって、江戸の人は芸術だなんて思っていません。どこかのお城やお屋敷の襖絵とかは何々派の偉い絵師の絵であるとおもっていたでしょうが、浮世絵は庶民のもので、役者絵、美人画、名所絵など庶民の生活とつながっていました。

その風が西洋にも吹いていったのです。西洋に雪景色を描くなどの発想はなかったようです。北斎さんは雨だって描いていますからね。映画『ゴッホ 最後の手紙』でゴッホが雨の中で絵を描いていて周囲は止めるのですが、もしかしてゴッホさんは雨を描くにはどうしたらよいかと考えたのかしらと思って観てました。

虫とかカエルとかトンボとか花などは、エミールガレやドームなどのガラス工芸にも影響しているわけで、その他の工芸にも影響しています。ただ日本だって大陸から風が吹いてきていたわけですから、日本で熟成して違う風になって送ったともいえます。

「神奈川沖浪裏」の波の影響力は強大です。クールベさんの港や海の風景は暗くて好きではないのですが、北斎さんの波の影響とするなら上手く使っているなと思えました。女流彫刻家のカミーユ・クローデルも北斎さんの波に触発されています。

とにかくなんでも描いた北斎さんは、これも絵になるのか、これも描けるのだ、工芸に使うと面白いと刺激を与えまくったことは間違いないです。

東海道の松の間から富士山を描いた絵から、モネさんは風景画の中に木々を並べ、ゴッホさんも同じような木の並べ方で描いています。いくら江戸時代でもこんな風景ではなかったであろうと思われる切り口の北斎さんならではの風景画です。そこには北斎さんの独自性があります。鯉に乗った菩薩の絵では、こちらは歌舞伎の『鯉つかみ』の鯉を思いだしていました。

北斎さんは線であっても、積み重ねられたデッサンの量は超人的ですからそのリアリティはしっかりしています。

二つの絵画展は、えっ!そうなのという楽しさでした。楽しかったことのみ思い出すままに書きましたので悪しからず。でもこれから北斎探偵団員になって、絵をみてしまいそうです。ロートレック展(三菱一号館美術館、2018年1月8日まで)もやっているのですね。師走でもあり眼がチカチカします。

そう師走なのに右手首を痛めてしまい、これ以上悲しいことにならないよう書き込みは控えようとおもいます。足首でなくて良かったのかどうか。どちら様もお気を付けください。