東京国立博物館『平安の秘仏』

平安の秘仏 櫟野寺(らくやじ)の大観音とみほとけたち

櫟野寺は忍者の甲賀市にあるんです。最澄さんが延暦寺の建立のとき、櫟野(いちの)の地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に観音さまを刻んだことが始まりとの言い伝えがあり、櫟の一木造りなんです。秘仏の御本尊の十一面観音菩薩坐像は、重要文化財のなかでは日本で一番大きな座像で圧倒されますが、切れ長の目が細くて、甲賀様式といわれています。

毘沙門天立像は、坂上田村麻呂が鈴鹿山の山賊を平定したとき報恩に、本尊をまもるために自分の分身としてまつったと伝わっています。御本尊の大きさに対して田村麻呂毘沙門天精一杯頑張られていました。

音声ガイドにみうらじゅんさんといとうせいこうさんのスペシャルトークが入ってまして、それがまた絶妙な味わいを加味してくれました。このお二人が櫟野寺を訪ねたDVDは見ていますので、話しを聞きつつ映像が浮かび上がってきました。

この地に油日神社がありまして、ツアーでいって気に入り、再度違うツアーで訪れたことがあります。油日神社は、楼門から左右につながっている廻廊(かいろう)が、何ともいいがたい空間を作ってくれていて気分がすーっと穏やかになるのです。JR草津線の油日駅から歩いて20分くらいということでしたので、いつかフリーで行きたいと思っているのです。

櫟野寺はそれよりももっと奥なのですが、歩けないことはありません。バスもあるようですが、秘仏なので公開日が限定されるので、今回、上野でお会いできてしあわせでした。宝物館修繕のため、初めて櫟野寺から出られたのです。まったく騒がしいことだと思われているかも。

甲賀は、伊賀に行ったので甲賀にも行かなければと行った日がみぞれで、<甲賀の里 忍者村>は甲賀駅から電話すると迎えにきてくれるということでしたのでたすかりました。甲賀は猿飛佐助や霧隠才蔵などフィクションの人物が、講談や小説で人気を博していますが、資料館では、梯子とか舟とか組み立て式のものなどがあり、智と技と工夫の世界で伊賀とは違う展示もあり、ここも楽しかったです。

この北東のほうに旧東海道があり、バスのない鈴鹿峠を越えて初めてバスの停留場があるところに田村神社があります。そこから京都三条まで三泊四日で行き着いたのです。京都で三泊して行きつ戻りつしながら歩いたのですが、荷物がないのが助かりました。一日使える二日目に田村神社からを入れ、京都から草津に来て草津線に乗り換えるときに、豪雨でそれまで草津線の電車が止っていて動き始めた時でした。雨の中歩くことを覚悟して貴生川駅からバスで田村神社まで行ったのですが、雨はやんでくれました。

田村神社に旅の無事をお願いして初めて気がつきました。田村神社は、坂上田村麻呂を主祭神とする社だったのです。緑が多く趣きある神社でした。江戸時代は、田村麻呂人気で、田村神社と櫟野寺参りがあったのだそうですが、どう歩いたのでしょうか。知りたいものです。

旧東海道は、無事雨がやみ、土山宿を過ぎると今度はいいだけ日に照り付けられ水はペットボトル二本は持参し、一本は凍らせて保冷バックにいれて背負い、必要に応じて自動販売機で補充しました。時には自動販売機もないところがありますから。

国道一号線にも時々出てバスの停留所も調べてあるので何とかなるであろうと計算していたのですが、お昼の食事どころがなくて困りました。国道があれば、だいたいは食事する場所はあったのですが、そんな雰囲気ではなく、どうにかコンビニ一軒と遭遇。そこへやっとたどりつき、オムライスの卵のふわふわに、これ!と温めてもらい、日蔭もないので外の炎天下で食べましたが、美味しかった!

なんとか、無事水口宿に到着でき、さらに草津線の三雲駅まで行けば次の開始の時間的ロスを少なくできるためそこまで頑張り、ほっとした思い出もあり、この辺りは記憶の濃いところです。

こういうところですから、山の中で静かに平安時代から信仰が続いているというのはわかる気がします。

鈴鹿山に籠るだけあってここの山賊たちは手を焼かせたのでしょう。

上野に櫟野寺の仏さまたちがいらしてくださり、田村巡りができ、甲賀の地域が近くなりました。

秘仏にお会いできなくても、油日駅から油日神社から櫟野寺まで歩きたい道です。

 

 

 

『デトロイト美術館展』『ゴッホとゴーギャン展』(2)

ゴッホとゴーギャン展』のほうですが、ゴッホからのゴーギャンとして考えていたのです。ところが、それぞれの表現者ですから、絵を観ているとゴーギャンって何なんだということにいってしまいます。

ゴーギャンといえばタヒチで、タヒチの太陽と文明から解放された島の人々というような感覚ですが、解説読んでみるとそれだけじゃなくて、絵のなかにゴーギャンの思想といいますか追及しているものが隠されているようなんです。解説に書かれていても絵の中にそれを読み取ることはできませんでした。

ただ、ゴッホとゴーギャンが一緒に住んで居た時、絵描き仲間という簡単な枠組みでないことだけはわかりました。

ゴッホはゴーギャンを迎えます。ゴーギャンを歓迎しその部屋に飾るためにひまわりの絵を描きます。ひまわりの絵はゴーギャンとの関係なければゴッホの象徴的絵とならなかったのかもしれません。

ゴーギャンはゴーギャンで自分の絵の定義を求めています。ゴッホも模索していますが、どこかゴーギャンに依存しているようなところがあります。ゴーギャンはゴッホの神経につき合いつつ自分の道を探すほどの余裕はありません。

ゴッホには弟のテオという経済的援助者もいますが、ゴーギャンは家族すら捨てて絵の道を進んでいます。生活基盤の相違からしてそれぞれの想いも違います。

ゴーギャンとの共同生活では、並んで同じ風景もえがいたでしょう。ゴーギャンに対する想いからでしょうか、「ゴーギャンの椅子」も描いています。しかし、ゴーギャンとの共同生活は短いものとなりました。

ゴーギャンはゴッホが亡くなったのちに、タヒチにひまわりの種を送らせてひまわりを咲かせ「ひじ掛け椅子のひまわり」の絵を描いています。この時ゴーギャンは自分の絵というものの本質をつかまえ方向性はきまっています。ゴーギャンはゴーギャンでそこまで走りつづけてきたのです。

ゴッホの神経はそこまで走り続ける程の強靭さと柔軟さはありませんでした。宣教師としても失格で、画家を目指し、機織りをする男性「織機と職工」など働く人々を描き、パリでは自画像を、アルルでは外に出て作物畑などを、「グラスに生けた花咲くアーモンドの小枝」というゴッホには珍しい小さな花の絵もあります。今回は展示されていませんが、テオに子供ができたとき、青空に咲くアーモンドの花の絵「花咲くアーモンドの木の枝」を送っています。ゴッホと同じヴィンセントを名前つけました。

テオは兄のゴッホが亡くなった次の年に亡くなっています。その後、テオの奥さんがゴッホの展覧会を開いたりして、最終的にはゴッホの甥が、ゴッホの作品を守り父であるテオの想いを成し遂げるのです。

ゴッホもそうですがゴーギャンに関してはもっと表面的にしか絵に接することができず、自分の中でゴッホとゴーギャンの絵をぶつけ合わせることが出来ませんでした。神に対する想いも二人それぞれに屈折しているところがあり、そのあたりも関係してくるようにおもいます。

こちらの展示会には、ゴッホとゴーギャンの椅子のレプリカが置いてありました。

ゴッホとゴーギャンに関しては不完全燃焼です。もう一回観ても無理でしょう。それぞれの画集で時代を追って検証してから、原画をもう一度見直す作業が必要のようです。ゴッホとゴーギャンの自画像を観れただけでも良しとします。ゴッホはどこか不安そうで、ゴーギャンはくわせものといったような斜に構えた挑むようなところがあります。

その他、ゴッホの「収穫」「刈り入れする人のいる麦畑」、ゴーギャンの「家畜番の女」「タヒチの牧歌」などもよかったですし、結果的に観て置いて良かったということでしょう。

さて気分を変えて、ゴッホの映画で違う愉しみ方をみつけることにします。しっぽをまいて早々と逃げるが勝ちです。

 

『デトロイト美術館展』『ゴッホとゴーギャン展』(1)

上野の森美術館で『デトロイト美術館展』、東京都美術館で『ゴッホとゴーギャン展』を開催しています。ゴッホを主軸として観ることにしました。ゴッホは何を見ていたのかという視点も気にかかります。ところがいつもながらの力なさで、そこに個人の好みの視点を入れると、ガラガラとゴッホが崩れていくようで、ただその瓦礫を拾っているような気分もしてきます。

『デトロイト美術館展』では、ゴッホがパリで見聞きし影響を受けたであろう雰囲気を印象派やポスト印象派などの絵の中から味わい、『ゴッホとゴーギャン展』では、ゴッホとゴーギャンの関係を感じとるようにしようと思いました。これまた難しい。今までの観て来た眼力では横道にそれるか、再構成力のなさから袋に瓦礫を入れてそれを静かにそこへ置くだけという状態です。

デトロイト美術館展』に入ってまず驚いたのが、写真OKだったことです。月曜日と火曜日がOKなのです。写真を上手く撮ろうとすると時間がかかり観る眼が中断されてしまうので、全部みてから邪魔にならないようにピンとはそこそこに気になった作品を写しましたが、その人の好みで曜日を選んだ方が良いでしょう。

解説文は写して置いて参考になりましたが、実物の絵と写真では全然比較になりません。絵は自分の眼に焼き付ける時間をとったほうがいいという結論でした。

ゴッホの黄色い麦わら帽子をかぶった自画像の麦わら帽子の感覚が写真ではとらえられないのです。とにかくゴッホの絵の具の凹凸感は、写真では無理です。

ゴッホの麦わら帽子の色一つとっても変化をします。その中でこれだけ黄色い麦わら帽子の色の絵はないでしょう。それも筆触が絵の具の量であらわすかのように多いのです。明るさに反撃しているようにもおもえます。

『志村ふくみ展』の図録で、高階秀爾さんが、志村さんの日本独特の美意識の例として茶と鼠を挙げていることに対して、印象派のことにも触れて書かれています。茶と鼠は地味で暗い色の感じの色で、印象派の画家たちがパレットから追放した色であるが、日本人は、四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)というほど多様な色を認めていたと。茶と鼠は江戸の粋な色でもあったんですよね。

ゴッホは、暗い色から始めています。ゴッホは四十八茶百鼠のように、わずかな色の違いを感じていて、その色を捨てていけなかったのかもしれません。パリでその新しさを吸収しつつ闘い、細い線描の集まりの自分の顔に対して、麦わら帽子に太い筆触をもってくるあたりにも、闘いそのものが感じられます。

セザンヌの「サント=ヴィクトワール山」などは、いかに平板に描くかを試みていたのだそうで、そういう試み方もあって描いていたのかとはじめて知りました。

その後のピカソにいたると、「座る女性」などは茶と鼠色だけで、絵画史の流れにとらわれない独自の色の使いかたをしているように思えますし、愉しくなるような色の組み合わせもありますし、また少し楽しみかたが増えました。

ゴッホの自画像は、パリの新しい風になじもうとしつつも自分の絵に迷いが生じ、その絵が売れるかどうかによって決まる絵の価値に対する反逆など、あらゆることが含まれている自画像です。

ゴッホのもう一枚は「オワーズ川の岸辺、オーヴェールにて」はこれからボートを楽しむ人々の姿がある風景ですが、川は直線のタッチで周りの木々の葉は曲線のタッチで男性は黒で縁書きされていて、赤系の色も少し入り、一枚の絵に今捨てきれないすべてをえがきこむゴッホの姿があるようにおもえました。ゴッホは二枚でしたが、少ないだけに細かく見入りました。

この展覧会では、出口のそばに凹凸感もある手でさわれる複製画があります。ゴッホとセザンヌの絵もあって、ゴッホとセザンヌは実物の絵を観ていて触りたいとおもいましたので粋な試みでした。

 

着物の展覧会

日本の着物地、布、和紙、染め、色などを眺めているのは楽しい時間です。

世田谷美術館で『母衣への回帰 志村ふくみ』を開催しています。志村ふくみさんは自然の草木からの染色の絹糸で紬織をされている重要無形文化財保持者でもあります。60年におよぶ創作活動をされていて、染めて織られた着物の作品が初期から最新の作品まで展示されていますが、字も、文章も読みやすくそれでいて深く、文章を読むと作品に会いたくなり二回訪ねました。

説明文はあとにして、何を感じとれるか自分の感覚を楽しんでいくため、織物の<題>は作品を見てからにしたのですが、一つも当たらず、そうくるのですかとその題名も楽しませてもらいました。

興味があるであろうと思う友人に展覧会のことを伝えておいたのですが、二回目のとき友人と偶然遭遇しました。「母衣曼荼羅(ぼろまんだら)」は志村ふくみさんのお母さんの使われていた残った糸で志村さんが紡がれたもので、友人がその前に立っておりました。声をかけると涙がでてきてしまったと自分の世界に入っていましたので、私は二回目なので、好きに味わってと各々の空間へ。時間がないので後日ランチでもと別れました。

二回目は『いのちを纏うー色・織・きものの思想ー』(志村ふくみ、鶴見和子)と『遺言ー対談と往復書簡』(志村ふくみ、石牟礼道子)の二冊を読んだ後だったので、しゃがんだり、すかしたりと結構時間をようしました。

志村ふくよさんの作品が残っていて美術館の展覧会で作品を観れるのは、新橋の芸者さんが、志村ふくみさんの着物をみてこの着物を着たいと購入しはじめ、その後、滋賀県立近代美術館に60枚ほど寄贈されそれが引き金となって志村さんも「源氏シリーズ」を寄贈されて、地元の美術館に収蔵されることとなった経緯があるからです。この紬の着物に魅かれ、後を濁さず美しいながれが続く行動を起こされた方も、やはり志村さんの紬の着物に行動させる命の芽ぶきを感じられたのでしょう。

こちらは、後日のランチが次の日となり、口の大活躍となりました。志村さんの本はさらに数冊積んでますので、目も活躍させます。色々なことがつながって驚きと楽しさと深さの空間の中に漂わせてもらっています。

世田谷美術館 11月6日(日)まで

終ってしまったなかで面白かったのは、泉屋博古館分館『きものモダニズム』(2015年9月26日~12月6日)です。大正から昭和にかけて花開いた「銘仙(めいせん)」とよばれた着物たちです。日本の古典的柄を色、大きさの配置で新しい感覚で描き、さらに花などの植物や幾何学的模様の大胆な構図が、現代よりも解放されていました。こういう感覚も戦争によって閉じられてしまったのだという時代が左右する文化の閉塞が思いやられました。

ただ、この展覧会に来られている若いひとたちの着物の着方が、展示されている着物に劣らないくらいの楽しさでした。帽子をかぶっていたり、長い羽織をきていたり、そのコーディネートは、色の組み合わせ、小物の配置のしかた、手の持つ袋物など、じろじろながめてしまいました。

おそらく、着物をきてこられたかたたちは、見られるだけの感性を着方に集中されていて、ご自分の着物を通しての芸術的センスを造形しておられたとおもいます。若いだけにシックな色をもってきて着物の着方の基本をくずしても落ち着いた雰囲気でした。それが、展示の<きもののモダニズム>と上手く共有し、観る者を楽しませてくれました。

全然わからなかったのが、弥生美術館での『耽美華麗悪魔主義 谷崎潤一郎文学の着物を見るーアンテイ―ク着物と挿絵の饗宴』(2016年3月31日~6月26日)です。

谷崎さんの文学作品に出てくるヒロインの着物姿とはどんなものかを再現させたのです。『細雪』などの映画のなかで女優さんが着ているような着物を想像するとおもいますが全然違うのですとありましたが、その通りでした。

半衿から帯から帯締めの飾りから帯揚げから羽織から、すべてに模様があり、どこをどう見ればよいのかわかりませんでした。全部が主張していて、記憶に残らないような組み合わせなのです。作品の文章も紹介されていますが、どうやら、文章は目で追いつつ、頭の中の映像は映画の映像だったようで、正しく文を捉えていませんでしたが、それを知っても、着物の姿を思い描くことはできないということを知りました。

<耽美華麗悪魔主義>とは、これだけならべると何が耽美で何が華麗で何が悪魔なのかわからなくなってしまうということです。上から下までトータルで見る見方をしているためか、ひとつひとつの価値がわからないということなのかもしれません。

布その他工芸にかんしては、東京国立近代美術館工芸館でたくさん見させてもらっています。芹沢銈介さんの作品(2016年3月5日~5月8日『芹沢銈介のいろは』)もここでじっくり楽しませてもらいました。この国立近代美術工芸館は金沢に移転されるそうで、全て東京に集中せず地方へというのは賛成ですが、国立近代美術工芸館東京分館として、今までと同じように作品は楽しませて欲しいものです。

 

 

 

熊本と新宿をつなぐ作家 漱石・八雲

熊本の被災された方々の避難所にベビーバスが届き、赤ちゃんのお湯につかって満面の笑顔などもテレビみることができるようになった。うれしさが声になって出そうになる。「気持ちいいよね。よかったね。」

まだまだこれからであるが、少しずつ少しずつ、立ち上がる方向に進んでいるように思える。激甚災害制度も適用になったようである。

今回、被災者生活再建支援制度などもどんな制度かを調べた。阪神・淡路大震災があって、そこから制定された法律なのだということを知る。関東で竜巻があったとき、その地域で10世帯以上の住宅全壊被害がないので支援制度適用にならないという報道を目にし、そんな線引きがあるのと憤慨したが、どうもそうらしいのである。

東日本大震災の時も、仲間が家が傾き、住まいを借りるなら補助がでるということであった。その方は、A市在住で、B市の友人がB市にある家を安い家賃で貸してくれるということであったが、A市での賃貸でなければ補助は出せないとのことでA市で捜すこととなった。話しを聴いていた皆が、被災はA市がひどいんだからB市で借りてもいいのにねと言い合ったことを思い出す。

これからそうした手続きや、家族間での話し合いなども加わり大変さが加わるであろうが、少しずつもとの生活を取り戻していただきたいものである。

昨年の夏(7月19日~8月30日)、新宿歴史博物館で『熊本と新宿をつなぐ作家 漱石・八雲』展があった。夏目漱石さんは、小泉八雲さんの後を追うように熊本第五高等学校の教師となり、その後、東京帝大の英文科講師としては、八雲さんの後任である。そして、最後の住まいが同じ新宿であった。

東京帝大では、八雲さんは学生たちに大変人気があり、留任運動もおこったようである。しかし、漱石さんの講義も人気で、和辻哲郎さんなどは教室の外から聴いていた組である。

漱石さんは、熊本で結婚して父親となっている。八雲さんも熊本で父親になっている。漱石さんは、熊本には四年三カ月暮らしていて6回引っ越しをしている。<漱石先生くまもとMAP>があって、それをながめつつ、熊本の街をあるきたいなあと思っていたのである。

この新宿歴史博物館の企画展にはくまモンも来館し、学生服を着て第五高等学校生となって、展示をながめていったようである。

来年の平成29年9月には、「漱石山房」記念館が開館する予定である。くまモンもその時は元気になって来館し、熊本をアピールしてくれると良いのだが。

熊本の子供さんたちも、早く授業が始まって勉強ができるようになると笑顔がふえるであろう。学校の友達は、家族とはまた違ったつながりのある仲間である。

熊本市は路面電車が走っているのだ。3月末から4月にかけて函館に行ってきたが、路面電車が最高であった。熊本の路面電車も乘りたい。路面電車は、街を優しくする乗り物である。

今日は、日比谷と有楽町にある、鹿児島と博多のアンテナショップに寄る。時間がなかったので、九州全体と考えることとした。周りが元気なら熊本や大分も元気になれるであろう。博多織りの綺麗なしおりがあった。

その説明によると「献上博多織」とは、豊臣秀吉の軍師である黒田官平兵衛の長男黒田長政公(筑前福岡藩初代藩主)が毎年3月幕府に帯と反物を献上したため生まれた名前とある。文字でみるとなるほどである。

本屋にも寄って「東京防災」を聞いたが連休あけでなければ入らないとのこと。

地下鉄の中で、ベビーカーの若いお母さんを見て思った。だっこひもかおんぶひもを所持したほうがいいんじゃなかろうか。5年前より若いお母さんの一人でのベビーカーが増えている。ひもさえあれば誰かにおんぶしてもらうこともできるし。そんなこんなを思いめぐらされた一日である。

 

隅田川から鎌倉そして築地川(2)

鎌倉国宝館には、鎌倉時代を代表する仏像が、数は少ないが至近距離で対峙させてもらえる。十二神将立像などは、初めまして!じっーと見つめますが恋心が生じるかどうかは疑問で、作者の運慶さんに傾くかもしれませんとお声かけできる距離である。

薬師三尊の周りを守る十二神将の間には、木像の五輪塔があって実朝の墓らしく秦野の畑の中にあったそうだ。

鎌倉国宝館の前には実朝歌碑があった。「山はさけうみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも」 実朝の死で頼朝の血は途絶えてしまう。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0688-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0689-1024x619.jpg

 

鶴岡八幡宮の参道の両側に源平池がある。頼朝夫人政子が平家滅亡を願い作らせたといわれる。東の池が源氏池で三島を配し、西の池平氏池には四島を配した。三は<産>、四は<死>である。

<肉筆浮世絵>のほうは、「当流遊色絵巻」(奥村政信)で、禿がのぞきからくりをのぞいている姿がありおかしかった。それは、小津安二郎監督の映画『長屋紳士録』を思い出したからである。

絵師・懐月堂安度の解説に江島生島事件に連座とあり、どういう関係であったのかと気になる。作品は「美人立姿図」である。

やはり圧巻なのは葛飾北斎さんである。「桜に鷲図」の鷲の威風堂々たる姿には圧倒された。その足の爪がしっかり桜の枝を掴んでいる。どこかの国で試験的に、飛んでいる違法のドローンを鷲がそれこそわしづかみにし、部屋の角にたたきつける方法をやっていた。鷲の爪はドローンのプロペラなど全然平気だそうだが、北斎さんの絵の鷲が誇張でないのがわかった。それだけ威力ある爪なのである。

「雪中張飛図」、三国志の張飛が雪の中で右手には槍を、左手には編み笠を高くかかげ顔は空を見上げ、足はひいた左足に45度の角度で右足。三度笠のきまった形である。ところが、お腹は前にせりだし、衣服は異国風のあざやかな模様である。形の決まった大きな役者張飛である。

黒い三味線箱に酔って物思いのていでよりかかる「酔余美人」。大黒さんが大きな大根になにか書きつけている「大黒に大根図」。

あの汚なくて暗い長屋で描いたとは思えない。やはり天才ゆえか。しかし、お得意さんに頼まれて、その立派な部屋で画いてこともあったであろうなどと想像する。

歌川広重の「高輪の雪」「両国の月」「御殿山の花図」の3幅もよかった。

満足して、『川喜多映画記念館』へ。ここでは「映画が恋した世界の文学」がテーマで、関連の映画ポスターがびっしり展示されていた。予告編映像もあり、「汚れなき悪戯」のマルセリーナ坊やが相変わらず天使の笑顔。映画関連の本を虫食い状態であれこれ読む。

時計の針のまわりが早いので重い腰をあげ、『鏑木清方記念美術館』。「清方芸術の起源」

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG0930-744x1024.jpg

 

 

明治時代の庶民の暮らしを描いたっ作品《朝夕安居》が中心である。巻き絵になっていて、芸人さんの玄関さきから裏の長屋の人々の生活へと移って行くが、玄関の軒灯の紋で芸人の家とわかるらしい。

井戸の水を木おけで運ぶ女性の姿は、その重さがわかる描き方である。戸板を二枚横に十字に立てて行水をつかう女性。永井荷風さんの『すみだ川』にも出てくる。「それらの家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見えることもあった。」「大概はぞっとしない女房ばかりなので、落胆したようにそのまま歩調を早める。」お気の毒に、清方さんの絵の女性は美しい。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG09313-1024x283.jpg

 

ランプのそうじをする女性。百日紅の木の下で煙管をくわえる風鈴屋。麦湯の屋台を取り囲む縁台に夕涼みの人々。なんとも古きよき時代の風情である。

清方さんは、16歳のころ挿絵画家として出発する。そして、会場芸術、床の間芸術に対し、卓上芸術を唱える。卓上にて愉しむ芸術である。《朝夕安居》もその一つである。

清方さんは幼少から挿絵画家時代築地川流域ですごしている。そのころの人々の様子を描いたのが「築地川」の画集である。その一部も展示され、展示ケースの下の引き出しを開けるとさらに作品を鑑賞できる。

外国人居留地であった明石町であそぶ外国人のこどもたち。築地川にかかる橋で夕涼みする浴衣の女性。佃島からいわしを担いで船に乗るいわしうり。船で生活する少女が河岸から船に渡した板の上を渡る。築地橋そばの新富座。

鎌倉で築地川に会うとは思っていなかった。ほとんど埋められてしまった川である。

記念館のかたに作品「築地川」の資料がないかたずねたところ、収蔵品図録があった。「卓上芸術編(一)明治・大正期」「卓上芸術品(二)昭和期」

二冊で超お買い得であった。文がまた興味深い。葛飾北斎さんの「隅田川両岸一覧」にふれ、自分もこの両岸を写して見たいとも書かれている。描かれたのかどうかは調べていない。

清方さんの絵が、幸田文さんの『ふるさと隅田川』や永井荷風さんの『すみだ川』に書かれている市井の人々の姿とも重なり楽しかった。

書いていたらきりがないので終わりにするが、面白い事に、小津安二郎監督の映画『長屋紳士録』は築地川そばの長屋が舞台である。そこにもつながるとは、鎌倉がとりもつ縁であろうか。

 

隅田川から鎌倉そして築地川(1)

幸田文さんは、「二百十日」に生まれたことについて、幸田露伴さんの『五重塔』から次のように言及する。

「『五重塔』は露伴の代表作だという。それもことにあらしの部分がいいそうだ。なんだかそこにはむずかしいあらしが吹いているが、どういうものか以前から教科書へ載るのはそこにきまっている。」

「いったい父というあの人はどんな眼で、どんな気もちであらしへ対いあったのだろうとおもうのである。そして、私のような子をあらしの日に産んでしまって、いったい私が一生二百十日をどう思えばいいというんだろう。」

五重塔』というのは、谷中感応寺で五重塔を建てることになり、川越の人望もあり腕のある棟梁・源太がえらばれるが、腕はあるが世渡りのへたな<のっそり>の十兵衛が名乗りをあげる。感応寺住職の采配と棟梁・源太の思いやりから<のっそり>が請け負うこととなる。完成式を前に烈しいあらしとなる。しかし、五重塔は微動だにしなかったというあらすじである。

この『五重塔』は、芝居では前進座が得意とする演目で、亡くなられた中村梅之助さんの<のっそり>で観ている。芸の深い役者さんが一人また去られてしまった。舞台上でもこのあらしの迫力と五重塔と人の拮抗が上手く現されていた。

文さんは、作品は作品として置いておき、そのあらしで被害にあった市中の人々に目がいっているのである。そこには、やはり<川>がうねり狂っているのである。そして<水>。二百十日に生まれた文さんは、露伴さんに対する問いかけを自分にむける。そして、めぐりめぐっておとずれた<崩れ>との出会いに立ち向かっていく。それが二百十日うまれの文さんの筋の通しかたとなるのである。

隅田川に対して、露伴さんは文さんの思いも寄らないことを口にする。

「川は生きものだ、ということは、私は実感で知ったとおもう。だが、川が生きものであるからには、病むことも腐ることもある筈だ、とはどうしても考えられなかった。父は、やがて墨田川はくさる、といっていたのだがー。」

隅田川は、荒川放水路もでき暴れが少なくなった。ところが、露伴さんのいっていた通りになる。周囲に工場ができ、人が増え隅田川はくさってしまう。

しかし、1964年(昭和39年)に東京オリンピックが決まるや、よそ様に見苦しいところはおみせできないとばかりに、下水道等の完備がすすみ、顔をしかめなくても散策できる川となったのである。

今年の桜は隅田川にしようか。

さて、ここからは鎌倉にむかう。

鎌倉国宝館。大正の関東大震災で社寺が被害をうけたのを契機に、文化財を守り見学してもらえるようにと設立されたとある。

目的は『肉筆浮世絵の美 ~氏家浮世絵コレクション~』。

 

折り紙から映画へ

友人が新しい年なので会いましょうというので、どこか行きたいところはと尋ねる。ジュサブロー館、おりがみ会館ゆしまの小林、村上隆の五百羅漢図展、いい映画をやっていれば岩波ホールで映画、思いつくままにとのこと。

おりがみ会館を調べると御茶ノ水である。神保町の岩波ホールへは歩いていける。

岩波ホールでの映画は『ヴィオレットーある作家の肖像ー』。<彼女を支え続けたボーヴォワールとの絆>との文が目を引く。

ヴィオレット・ルデュック。全然しらない作家である。監督は映画『セラフィーヌの庭』のマルタン・プロヴォ監督である。

御茶ノ水駅で待ち合わせ、「おりがみ会館」へ行き、近くでランチをして、岩波にするか、移動して違う映画館にするか、会っての時間と好み次第である。時間調節として明治大学の「阿久悠記念館」も視野に入れる。

「おりがみ会館」なるものの存在を知らなかった。会館の前にあった案内板によると、<幼稚園発祥の地・教育折り紙発祥の地>とある。江戸時代に初代小林幸助さんはこの地で襖紙加工業をはじめた。明治になって初代文部大臣の森有礼さんが、折り紙を日本教育に取り入れ、正方形の折り紙を小林染紙店が製造し始めるのである。正方形の折り紙はここで作られたのだ。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0684-1024x584.jpg

 

 

ゆしまの小林には、落語家の黒門町の師匠こと桂文楽さんが勤めていたこともある。さらに、あの絵師川鍋暁斎さんが、隣に仮住まいしていたともいわれているのであるから驚く。文楽さんはたばこ入れ屋にもいて、たばこ入れの収集家でもあった。たしか「たばこと塩の博物館」に寄贈したはずである。

かつては、和紙を揉んだような江戸しぼりの作業もしていたようであるが、今は染めだけを工房で見せてくれる。はけで真っ赤な染めをしていた。

展示階には折紙のお雛様が展示されていたが、折り方も素晴らしいが和紙の質感と色、模様なども美しい。

売店にも沢山の和紙があり、渋い粋な縞から友禅柄、現代的模様まで、額にいれて眺めていたいような美しい多様な種類であった。

折り紙の講習などを通じて、和紙や折り紙の良さを伝えて行きたいとの趣旨の会館のようである。

ゆっくりできるであろうと近くのホテルでランチをする。友人は、次は岩波での映画優先ということで、混雑状況がわからないのでランチのあと早めに映画チケットを購入。整理番号20番なので安心である。「阿久悠記念館」はパスしてお茶をして時間調整とする。

映画『ヴィオレットーある作家の肖像ー』は、私生児で自分の生き方を見つけることが出来ず、母との確執などから、男性など人に愛されたいとだけ望んでいるような女性が、書くと言う行動に向かう。彼女はボーヴォワールに作品を読んでもらう。ボーヴォワールは彼女の生きる道は書くことにあると判断して、書くことによって全てを吐き出すことを勧める。

処女作『窒息』は世間には認められず、ボーヴォワールのほうは『第二の性』が大評判となる。ボーヴォワールにときとして寄りかかりたいヴィオレットとの距離をボーヴォワールは彼女流の距離感で保ち、援助しつつもヴィオレット自身の自立の道を見守る。このあたりが微妙である。ヴィオレットが真っ逆さまに転落する可能性もある。

しかし書くという行為をヴィオレットは捨てなかった。ボーヴォワールからも自立して書く行為と果敢に闘う。そして、恋もする。彼女はかつてのように、恋の裏切りも、自分の生い立ちや姿かたちの美醜のせいにはしなくなった。彼女は書きつづけ、作家として自立の道を切り開くのである。

対称的なヴィオレットとボーヴォワールの姿形、服装なども加え、その関係の危うさとどこかで流れる電流のようなつながりと火花が面白い。

鶴の折り方で翼のところで繋がった連鶴があるが、あのわずかな繋がりのように、心もとないが切れても一羽の鶴として飛び立てて、相手を眺められる状態というのも大切である。

友人の提案から、楽しい一日であった。

 

たばこと塩の博物館

「たばこと塩の博物館」で、隅田川関連の浮世絵展をやっていると知り、訪れる。軽く考えていたら、なかなかしっかりした展示であった。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0548-1024x576.jpg

 

<隅田川をめぐる文化と産業 ー浮世絵と写真でみる江戸・東京ー>

江戸時代の浮世絵の中の隅田川、行徳の塩浜で生産された塩の流通経路としての隅田川、さらに近代産業の工場が立ち並んだ隅田川と大きく三つにわかれている。

浮世絵のほうは、隅田川での庶民の遊興の様子、隅田川伝説、歌舞伎などの隅田川物などの関連浮世絵で、また一つ浮世絵を見る視点をもらった。

川には両岸があるわけで後方に何があるかで、人がどちら側に立ち、後方や前方の鳥居、塔の先端、森で三囲神社(みめぐりじんじゃ)、浅草寺、待乳山などと、そこに立っている人物になれるのである。

江戸の人がどんな風景を眺めていたか、描かれている人はこちらを向いているが、見ているこちらが、描かれている人の振りむいた時の目になっているのである。

風景は変化しても神社、仏閣が残っているため、隅田川は江戸時代が想像しやすい場所でもある。

多人数の遊興図には、春は花見のため鮮やかな緋毛氈(ひもうせん)を担いだ人がいる。これは、この後千葉市美術館(「初期浮世絵展」)へも行ったのであるが、一つの浮世絵に二人の緋毛氈を担ぐ人がいて、女性も担いでいた。楽しいときは、小さい毛氈であれば、私が担いでいきますよと言ったのかもしれない。一応自主的行動派と解釈しておく。

浮世絵と歌舞伎役者は切っても切れない関係であろうから、職人さんたちも歌舞伎役者が演じているのかと思わせる粋で格好よいのである。

女性の振袖が大きくゆれていたりするが、新春歌舞伎座での『廓三番叟』で、親造松ヶ枝の種之助さんの振袖がよくゆれて、絵師であればあのゆれを描くであろうなと思って見ていたので、やはりである。一人美人図は静止であるが、隅田川などを背景にすると、やはり動く様子や気持ちも表したくなるであろう。

肩にかかった白い手ぬぐいが肩から後ろに流れている。そんな時は背景の小さな旗や煙などが風で流れている。隅田川の風のさわやかさが伝わってくる。散る花とか、そこには人と空気の動きがあるのだ。

千葉市美術館での解説にもあったが、絵は高価であるが、その絵を庶民が安価に楽しむために版画という手法が考えられたというのが凄い。それも高度の職人さんの手を経てである。

隅田川といえば川開きや花火もある。庶民の楽しみと浮世絵はこれまた切っても切れない関係である。

隅田川にまつわる話しは、浅草寺のご本尊が三人の漁師によって隅田川で引き上げられたこと、在原業平が都を想ったところ、梅若丸伝説の残る場所でもある。

梅若丸伝説の水神に柳の植えられた梅若塚が遊興の場の絵にも重要な位置をしめている。

そして、歌舞伎の隅田川物に『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』がある。久松の姉・土手のお六夫婦が本所小梅でたばこ屋をいとなんでいて、三代目歌川豊国の浮世絵では、土手のお六の夫の鬼門喜兵衛衛がキセルをくわえながらたばこの葉を刻んでいる。

ここでやっと整理できた。『野崎村』は、近松半二作の『新版歌祭文』の一部。『お染の七役』は、『新版歌祭文』を新たに書き直した四世鶴屋南北の『於染久松色読販』の一部なのである。文化文政時代に早替りがはやり、南北さんがお染の早変わりとしたのである。なるほどそういうことか。豊国さんの絵で整理できた。

渓斎英泉さんの風景画『江戸八景 隅田川の落雁』の浮世絵もあった。隅田川が下流から上流に流れ、筑波山をめがけて雁の群れ飛んでいく。手前は三囲神社がありその前をキセルをくわえた馬方がのんびりと歩いている。風景画の英泉さんは構図もしっかりしている。怖いお栄さんに「この構図はだれとだれのだね」と言われないことを願う。まあお栄さんは「みんなそこから始るのさ」とも言うだろうが。

歌川国芳さんの『両国夕涼之図』は藍摺りと呼ばれ、歌舞伎役者が藍色の夏の装いでの花火見物であるが、この藍色は西洋から輸入された藍色染料を多用して摺られたとある。藍色の染料を輸入していたのである。

『たばこと塩の博物館』であるから、たばこに関する常設の展示もある。そこで刻みたばこがあった。髪の毛のような細さのたばこである。これも凄い技術である。それをたばこ入れに入れるわけである。これまた新春歌舞伎『源氏店』の蝙蝠安が自分のたばこ入れに店のたばこを押し詰める場面を思い出す。

たばこ入れを作るお店には、自分の気に入った柄の布を選んで作ってくれるように布地も置いてあった。

遊女の使っていた長いキセル、護身用のキセルなども展示されている。

キセルとなれば、新春歌舞伎では<浜松屋の場>の弁天小僧菊之助である。

たばこと歌舞伎も切り離せられない。十二代目団十郎さんの沢山のキセルを持った助六と二代目吉右衛門さんの立派なたばこ盆を前にする工藤祐経の写真もあった。

さらに塩である。日本には岩塩はないわけで、塩田である。舞踊などで『汐くみ』などがある。こちらは、業平さんの兄の行平さんが出てきて、優雅な踊りである。しかし、実際の塩田の塩作りは重労働である。

大変見どころの多い博物館である。今回は隅田川の浮世絵を中心にである。

千葉市美術館は「初期浮世絵」なので、広重、北斎、英泉、国芳の時代まで整理したいところであるが、時代的には二代目團十郎から七代目團十郎までつなぐようななものなのである。

「初期浮世絵展」だけでも、三分の二で疲れはてた。しかし美術館ショップで杉浦日向子さんの『百日紅』と出逢えたのでやはり呼ばれたのであろう。

鎌倉国宝館でも浮世絵展をやっており、2月には、太田美術館も改修工事がおわるので、この際であるからなんとかクリアーしたいものである。

 

『肉筆浮世絵 美の競艶』展からの映画『百日紅』

肉筆浮世絵展をどこかでやっていたはずと調べたら、上野の森美術館であった。版画と違い肉筆であるから一点しかないわけである。

アメリカ・シカゴのロジャー・ウエストさんの個人所蔵なのだそうである。

映画『百日紅』(原作・杉浦日向子/監督・原恵一)の中で北斎さんのところに出入りしている善次郎は、お栄さんに<だめ善>と言われているが、後の渓斎英泉さんである。今回の肉筆浮世絵展で、英泉さんの絵が見たかった。今までも見ているのであるが、これが英泉だという取り込みかたはしていなかった。お栄さんの<だめ善>から俄然興味が湧く。

映画では、酔っ払い頼りなく机に向かいふうーっとため息をつき、絵を描く姿はない。お栄さんに<部類の女好き>と言われ、そうモテる風情でもない。ただお栄さんは軽くは言ってはいるが、その後の絵師としての才能は認めているらしく、最後に鉄蔵が90歳で亡くなり、その一年前に善次郎が死んだことを付け足して告げるのである。これは、善次郎がお栄さんの中で絵師であったとして死んだことを告げているのである。ここら辺りのお栄さんの言葉少ない語りも結構含みが感じられ、たまらないところである。

絵を見終わってチラシをみたら、12人の美人画の載っているうち英泉さんの絵が3作品載っているのである。驚きました。図録を買わなかったので、大切なチラシとなった。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG0915-758x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG0919.jpg

 

表に「灯火文を読む女」「秋草二美人図』裏に「夏の洗い髪美人図」である。

 

灯火文を読む女

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG0929-445x1024.jpg

 

 

秋草二美人図

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG0928-472x1024.jpg

 

 

夏の洗い髪美人図

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG0927.jpg

 

 

夏の洗い髪美人図」は、顔と手足が大きく腰が曲がっていて美しい立ち姿とはいえない。バランスが悪いのである。そのバランスの悪さを落ち着かすように足元には花を生けた水盤がある。

図書館で美術書の英泉さんの浮世絵を見て来た。英泉さんはお栄さんの言うように<女好き>で、女性のいる色々な場所へ行っている。そして美人画も吉原、岡場所、水茶屋、下働き、町娘など様々な女性をとりあげ、美しさだけでなく、その姿態、媚態、気だるさ、はやる気持ちなど、それぞれの住む世界で生まれる姿を映しだしている。そして美しいと思わせても足をみると甲高で、平面的美しさを拒否しているかのようである。

灯火文を読む女」は提灯の灯りで文を読む遊女であるが、遊女の身体のひねりと衣装の豪華さが、恋文の域をこえた激しさが伝わってくるようで、何が書かれているの、良い事悪い事と尋ねたくなる雰囲気である。

滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の挿絵を北斎さんは描いていて、英泉さんも描いている。どんな挿絵なのかは見ていないが見たいものである。滝沢馬琴さんも本所深川の生まれであるが、本所にいたのは短いようである。

北斎さんのチラシにも載っている「美人愛猫図」は、女性は美しいがその美人の胸元に抱かれ、着物の襟もとから身体をだしている猫の顔が美人にそぐわないほど可愛くないのが、お栄さんの <へんちきなじじいがありまして> を思い出してしまった。

 

美人愛猫図

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG0917.jpg

 

さらに上野の森美術館のギャラリーでは『江戸から東京へ~浮世絵展』も開催されていた。上野近辺の江戸から東京にへの変遷が浮世絵で展開される。

上野の森美術館の前方に清水観音堂がある。ここは、歌川広重さんの名所江戸百景の「上野清水堂不忍池」の浮世絵になっている。そこに描かれている、くるりと曲った<月の松>が復活している。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0517-1-904x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0514-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0513-1024x576.jpg

 

英泉さんは広重さんと中山道の名所絵も共作しております。さらに英泉さん「美人東海道」というのもやっておりまして、美人の後ろに東海道宿が描かれているわけです。お栄さんのいう<だめ善>は、色々やってくれていますが、お栄さんからすれば「ふん」かもしれません。そして、死ぬのが早すぎるよと言いたかったのかもしれません。

映画『百日紅』は、浮世絵への興味を一段と増してくれた。永青文庫の『春画展』見ておくべきであった。

『肉筆浮世絵展』は1月17日までである。