映画『告訴せず』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』

映画配信はすぐ観れて便利であるが、DVDは特典映像が含まれていたりするので意外な情報を貰えることがあり、今のところDVD派である。

映画『告訴せず』は特典映像に堀川弘通監督のインタビューがあり、気さくに話される内容が大変参考になった。しゃべってもいいのかなという感じで『告訴せず』の映画の欠点を話される。それが、こちらが観たときのなぜかストンと落ちてこない原因がそこなのかと納得させてくれた。

映画『告訴せず』(1974年・堀川弘通監督)は、松本清張さんの社会派推理小説が原作である。江戸川乱歩さんが推理小説を世に広め、子供にも愛される広範囲な読者層を獲得された。そこへ松本清張さんは社会派の大人対象の推理小説の道を加えられた。江戸川乱歩さんは傾向の違う松本清張さんに次の推理小説の担い手として高く評価した。

木谷(青島幸男)は大衆食堂の厨房で働いている。木谷の妻(悠木千帆・樹木希林)は兄・大井(渡辺文雄)が保守系の立候補者として選挙中でそちらにつきっきりである。木谷の妻は兄が勝つためには選挙資金を大臣にお願いすべきだと提案し大臣の承諾を得る。その資金を受け取りに行く役が目立たない木谷にまわってくる。

3000万円のお金を受け取りに行く木谷。受け取ったお金が大井のもとに届かないが大井は当選する。木谷は温泉宿にいた。お金は相手が告訴できない選挙違反の金である。木谷は宿の仲居のお篠(江波杏子)と一緒になり小豆相場にお金をかける。木谷は逃げきれるのか。

政治資金、狂乱マネー、暴力の世界が一人の男を通して描かれている。未だに同じような選挙とお金の関係である。

堀川弘通監督によると、松本清張さんから、自分の作品の上を言った映画は『張込み』(1958年・野村芳太郎監督)と『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960年・堀川弘通監督)で、また撮ってくれと言われた。プロデューサーの市川喜一さんが『告訴せず』を青島幸男さんでやろうということで、先ず青島幸男ありきではじまった。三枚目の主人公ということでコメディさも入れている。周囲の俳優陣は自分で決めていった。欠点は、火事の場面からダレてしまい、木谷が金にまみれてだまされていた本当の主犯の出し方が弱かったという点である。なるほど、まさしくそうなのである。

松本清張さんがほめた映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』は、かなり前に観てこれは面白いと『黒い画集シリーズ』を観たがそれぞれの作品の展開に満足した。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』を再度観たが、細部まで目にはいったが、ミステリーは筋を知ってしまうと新鮮味を保つのは難しく、そうであったとの確認となってしまい最初の満足度は下がってしまったがテンポといいどうなるのかという先への引っ張り具合は計算されている。

平凡でそこそこの会社の課長・石野(小林桂樹)は部下の梅谷(原知佐子)と愛人関係にあり、家庭も上手くいっており満足の日常であった。ある夜、梅谷のアパートからの帰り道、隣人の保険外交員をしている杉山(織田政雄)に会い挨拶をする。普段も出会えば挨拶する程度の関係であった。石野は彼女のことがバレないかとちょっと不安になる。

その不安は杉山が向島の若妻殺しの容疑者として捕まり、杉山は犯行時間には新大久保で石野と会っていて向島にはいなかったと主張する。検事が会社に尋ねて来る。石野の「あるサラリーマンの証言」が重要になって来るのである。

堀川弘通監督は、セットが嫌いで、現場で苦労して作るのが好きであるといわれている。夜の情景もつぶしではなく、その時間に撮るようにしている。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』は映画ができあがってどうしてもラストが気に入らず撮り直し、それも気に入らず再度撮り直した。ラストを三回撮ったことになる。あの頃映画会社もお金があり、スタッフも燃えていたからできたといわれる。そのラストの2つのシーンに似た場面が、特典映像の予告編にもでてくる。やはり撮り直したラストがベストだと納得である。

黒い画集 ある遭難』(1961年・杉江敏男監督)

黒い画集 第二部寒流』(1961年・鈴木英夫監督)

映画『国士無双』『台風騒動記』

伊丹万作監督の映画『国士無双』は有名でそのリメイクかと軽く考えて観ていなかった。面白かった。周囲のことは意に介しない中井貴一さんがいい。剣の腕があるのかないのかの動きもいい。すっきりとした着流し姿ででてくるのもいい。どこかの御曹司若様がわけあっての一人旅か。記憶喪失か。仙人が育てた子か。などとチラチラ浮かぶがそれはナンセンスであった。映画のほうがナンセンスなのであるから。

映画『国士無双』(1986年・保坂延彦監督)。伊丹万作脚本より、原案・伊勢野重任、脚本・菊島隆三。

「武士道華やか過ぎし頃」。ところどころで字幕がはいりそれもよい。浪人二人(岡本信人、火野正平)が無一文で何とかならないかと思案して伊勢伊勢守の行列から思いつく。伊勢伊勢守になり澄まして豪勢に呑み明かそうと。ニセの伊勢伊勢守を物色中、一人の男が着流しであらわれる。男(中井貴一)は名前もなく何もわからず伊勢伊勢守の名前が気に入る。男にとってニセモノもホンモノもない。気に入った名前が自分の名前なのである。

世の中のことは何もわからぬが、道場破りの男(中村嘉葎雄)からお金をせしめる方法も学ぶ。武家の娘・お八重(原田美枝子)を助け、身投げしようとする娘・お初(原日出子)を助け、無勢に多勢の出入りのお六(江波杏子)を助ける。

お八重はホン者の伊勢伊勢守(フランキー堺)の娘でホン者はニセ者を叱責するが受け付けない。では勝負となる。なんとも武士道などお構いなしのニセ者の立ち振る舞いである。ここらあたりの動きが上手く動かしていて可笑しい。ホン者は修業にで、かつての師(笠智衆)のもとで修業に励みもどってくる。

再びホン者とニセ者の対決。ニセ者は勝ったらお八重を妻にしたいと条件を出し、娘も想う人と添い遂げられるというハッピーエンドである。その中に流れる、ホン者とニセ者との区別はなんなのか。けっこう色々あてはまる命題である。ホンモノの政治家ってなに。ホンモノの実力ってなに。際限がないかも。

のほほんとしていながら頑固な中井貴一さんと多才なフランキー堺さんの押さえ処のきいた絡み加減がなんともいい味である。

音楽(喜多嶋修)がこれまた合っていて、文楽や歌舞伎調の舞踊など多彩な色を散りばめてくれている。特典映像には伊丹万作監督の『国士無双』(1932年)の映像もところどころみせてくれる。片岡千恵蔵プロダクションの作品で、お八重が山田五十鈴さんで14歳ということである。当然ニセ者は片岡千恵蔵さん。

中井貴一さんは、お父上の佐田啓二さんがコメディが少なかったのに比べてコメディ方面での活躍も多く楽しませてくれている。

映画『台風騒動記』(1956年、山本薩夫監督)は佐田啓二さんの数少ないコメディ参加作品である。(原作・杉浦明平著『台風十三号始末記』)

昭和31年、台風13号の被害を受けた富久江町はてんやわんやである。台風による被害の補助金を貰うべく町の有力者たちは画策する。小学校を鉄筋コンクリートの校舎にしようと一千万円の補助金をもらうため小学校を壊して台風の被害にしてしまう。

そこへ友人の小学校教員・黒井(菅原謙二)を訪ねてきた吉成(佐田啓二)が、大蔵省の役員に間違えられ丁寧な接待を受けてしまうことになる。話しとしては当然ホンモノの役人が現れるわけである。そんな町の騒動を描いている。「中央公論」と「世界」を読んでいる人は赤で要注意人物ということにもなっている。何が赤だか黒だかわからぬが、赤っ恥ということもある。

出演陣が芸達者な俳優さんたちである。(桂木洋子、野添ひとみ、多々良純、三島雅夫、中村是好、加藤嘉、飯田蝶子、佐野周二、藤間紫、宮城千賀子、左卜全、渡辺篤、三井弘二、坂本武etc)

追記: 映画『国士無双』の脚本をされた菊島隆三さんが原作のテレビドラマ『死の断崖』を鑑賞。松田優作さんを映像で観るのも久しぶりである。独特の間とどちらにもとれる雰囲気がサスペンスをじわじわと盛り上げていきラスト本心があかされる。ライターを立てて煙草を吸う姿が決まっている。工藤栄一監督。

伊藤若冲(2)

若冲』(澤田瞳子著)。小説を読みつつ若冲さんの絵を眺め、旅の思い出などもフル回転しつつ刺激的な新たな旅をさせてもらった。チラッ、チラッとテレビドラマも浮かぶ。『若冲』も史実では書かれていないことを大胆に話の中心に持ってきていて、どうしてこの絵が描かれたのかというところに物語性があって若冲さんの絵の強烈さからくる発想であった。そのことによってより若冲さんの絵に視線がいく。

若冲』ではその絵に描かれている鳥、魚、動物の視線にも注目している。仲の好い鴛鴦(おしどり)が視線を合わせることがない。それも、雌のほうは水に上半身を沈めているのである。雄の方は陸で雌を無視したようにはるか先に視線がいっている。小説は若冲さんが妻をめとったことがあるという設定となっているのである。非常に大胆である。そして雄鳥の視線にも関係してくるのである。

次々と若冲さんの一つ一つの作画の動機が明らかにされていく。推理小説の動機は何かの探求とも類似していてそれが若冲さんの40歳から始まって、若冲さんが亡くなって四十九日の法要まで書かれているのである。そこまで若冲さんの絵は関係者の心の中で渦を巻き続けるのである。語り手は母の異なる妹である。ぐんぐん引っ張ってくれる。

若冲さんの家族は、法名しかわかっていないため異母妹なのかどうかはわからない。ただこの妹さんは後家となって子供一人と共に石峰寺で晩年の若冲さんと暮らしていたようである。若冲さんは、自分の生まれた錦高倉市場から離れた、深草の石峰寺に移ってそこで亡くなっている。

若冲さんは、相国寺の大典さんとの交流から黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山萬福寺の僧とも交流があり、萬福寺の住持から道号を与えられている。在家ということであろうか。そして石峰寺に五百羅漢の石仏を造像するのである。相国寺に生前墓を建てているが明和の大火で錦町内と相国寺との永代供養の契約を反故にしている。そのため、相国寺と石峰寺の両方にお墓がある。

京都を旅した時、石峰寺で若冲さんの五百羅漢に出会った。すぐそばで眺められたが肩透かしをうけたような感覚であった。あまりにも近くに無防備にそこにあり、石像は素朴な表情なのである。それは伏見人形の影響のようにおもわれる。萬福寺は満腹の様子の布袋像と僧たちが食事をする建物の前に掲げられていた大きな木魚が記憶に残っている。黄檗宗のお寺は中国的な雰囲気のお寺である。

若冲』には、円山応挙、池大雅そして与謝野蕪村、谷文晁(たにぶんちょう)も登場し、さらに応挙の息子・応瑞(おうずい)も登場する。テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』で、大典との淀川下りの時に大典さんが『上方萬番付(かみがたよろづばんづけ)』に載っている絵師の番づけを紹介する。実際には『平安人物志』と思うが応挙、若冲、大雅の順番はもっとあとに発表された番づけで、若冲さんが60歳の時のものである。4番に蕪村さんの名前がある。応挙、若冲、大雅、蕪村の順番は若冲さんが67歳の時も同じであった。

応挙さんが一番というのは、犬の絵を観ればわかる。応挙さんの描く犬は、観る人が可愛いと思う犬なのである。人が見て可愛いと思わせる犬を描いている。ところが、若冲さんの描く犬は、仲よくじゃれ合っているのだが視線が微妙にずれていて、何か考えているのと聴きたくなるのである。一匹一匹が自己主張しているようなのである。題名は「百犬図」で60匹ほどいるが、主人公がいないというより、一匹一匹全部が主人公なのである。

観る者にシリアスにも見え、見方によってはユーモアとも受け取れるのである。一つの観方で満足するような絵ではないのである。

小説『若冲』もテレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』もそんな絵から派生し、動機づけを模索したくなる力がある絵ということである。

小説『等伯』(安部龍太郎著)もあると知った。これまた惹きつけられる。

テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』 16日(土)BSプレミアム 夜9時~10時30分「完全版」 放送あり

追記: テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』の放送を紹介した友人たちの評判がよかった。七之助さんを久しぶりでみた歌舞伎ファンは上手くなったと絶賛。絵を描く姿がきたえられた女形の美しさだと。

追記2: 若冲大好きなひとは。久々にドラマたのしんだ。脚色してあるのだろうが良い意味で面白かった。キャストもあっていた。時間内によく収まってもっと見たかったがあれでちょうどよいのかも。コロナでなければランチしながら若冲の事話したい。

追記3: ある人は。なかなか深い。芸術家ならではの心の純な処が(若冲と僧)いっそう前に進ませる物があり~同じ志の者が自然に集まり、より良い絵を作りだしていく。凄いなぁ~日本人にも、こんな絵を描く人がいたんだなぁ~と感心して見ていました。色彩が鮮やかで、どこが創作で、どこが史実かは、私にはわかりませんですが、そのまま心にはまりました。

追記4: 身体的表現者の方々の体調不良のお知らせを目にします。この時期ですので経験以上の精神的負担が大きい事でしょう。過剰なプロ意識は避けて充分に休養されることをお願いします。

伊藤若冲(1)

テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』は、想像力を膨らませてくれるドラマであった。あのあでやかな若冲の絵に、若冲と大典顕常(だいてんけんじょう)との妖しき友愛がなんとも不思議な魅力を加えてくれました。面白い解釈でした。七之助さんは、昨年は二回も観劇を中止して生を観れなかったので、女方の柔らかさがほの見えて満足。ほあ~んとしたところが、才能を持ち合わせていたオタクの若冲という印象に新鮮味がありました。演出的にも永山瑛太さんの美しさもかなり計算されていたのでしょう。

二人を出会わせた絵を「蕪に双鶏図」とし、京都から一歩も出たことのない若冲の絵の修業がお寺が所持する絵の模写というのも納得である。池大雅が各地を旅していたのは知らなかったし、円山応挙とも上手くドッキングさせ最後に人気番付が一位・円山応挙、二位・伊藤若冲、三位・池大雅という落ちもなかなかでした。

若冲、大典、応挙、大雅の4人を結ぶ放浪の茶人・売茶翁(ばいさおう)の出現も短時間でドラマ化する役目を上手く担っている。

若冲は大典顕常とお釈迦様が中心にいる美しい世界を描くことを約束する。約束を果し、「釈迦三尊像」3幅、「動植綵絵(どうしょくさいえ)」30幅の計33幅を相国寺に寄進するが、その中の2幅はわが同志の大典顕常に捧げるという。それが「老松白鳳図(ろうしょうはくおうず)」と「芦雁図(ろがんず)」である。白は自分で黒は大典。落下してくる雁を見つめる白鳳。ドラマの作品としてこの二つの絵に注目し設定したのがお見事である。

相国寺の承天閣美術館へ行った時、若冲があるというのであの極彩色が観れるとおもったが地味な水墨画でした。その時は知識もなくがっかりしたのです。金閣寺の書院にかかれた壁画の一部があり、当時としても書院の水墨画はめずらしかったようで、もう少しじっくり鑑賞すればよかったと今になって後悔しています。この壁画で若冲は絵師と認められるのです。

明治の廃仏毀釈で相国寺は困窮し、「釈迦三尊像」は遺し、「動植綵絵」は皇室が買い取り相国寺は存続することができたわけで若冲が守ったことになる。それで納得できたことがあるのです。

学習院大学資料館で開催された『明治150年記念 華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美』で明治宮殿の写真がありそこに若冲の絵が飾られていたのである。驚きました。どうしてここの若冲があるのであろうか。これで解決である。

この展覧会は興味深いもので、西洋化のなかでも日本の技芸を残そうと、帝室(皇室)技芸(美術)員制度をつくる。皇后のドレスにも日本刺繡で飾ったり、帝室技芸員には浅草の元からの職人さんたちが技芸員として腕をふるっていたりしたのである。

「ミュージアム・レター」には、現天皇が皇太子のとき学習院大学資料館の客員研究員をされていて、一研究員としての自然体の人柄を感じさせるほのぼのとする文章を寄せられていた。(「華ひらく皇室文化展」に寄せてーボンボ二エールの思い出ー)立場上こういう文章を書かれることはもうないのであろう。

さて若冲にもどるが、2019年の1月に「天才絵師 伊藤若冲 世紀の傑作はこうしてうまれた」というテレビ番組があり録画して観ていなかったのである。今回ドラマを観てから再生したのであるが、「動植綵絵」を詳しく分析してくれていた。

2016年に「釈迦三尊像」と「動植綵絵」の33幅は日本で公開されているが、観ていない。さらに2018年にパリで公開され並ぶのがきらいなフランス人が並んだという人気ぶりであった。

その時、相国寺有馬頼底管長もパリに行かれて読経をあげられている。そして、若冲が相国寺に33幅を奉納したのは、弟が若冲に代わって家業を継いでくれたが疲労のため亡くなってしまったのでその菩提を弔うために寄進したと話されている。

番組は「動植綵絵」を5つのキーワードで解説していく。極彩色の色どり「彩」。神わざといわれる「細密」。緊張感の中に秘める「躍動」。「主役不在」。ぬぐいきれない「奇」。

「主役不在」というのは、釈迦三尊のまわりに存在するすべての尊い命ということにもつながるであろう。「老松白鳳図」はレースのような羽根の「細密」。そして「奇」にも入る。それは羽根のハートの文様で、トランプはすでに日本に入ってきていたので若冲はそれをみたのかもしれない。さらにフラシスコザビエルの人物画にハートが描かれている。愛をあらわしているのである。ただキリスト教と関係するなら隠さなければならないが、若冲は描いている。そこが「奇」である。

ドラマと重ねて現代の解釈からすると「愛」であろう。「芦雁図」は、上に向かって飛ぶ鳥が普通描かれるが、落下する鳥というのが若冲独特の眼かもしれない。老松と白鳳、落下する雁は死にむっかているのかも。その絵の前で若冲と大典顕常は死がふたりを分かつまで一緒に友でいましょうと約束する。

仏教徒ですから、死んでもこの二人はお釈迦さまの回りの動植となって何からも解放され若冲の絵の世界のあの世で永遠の日々を謳歌しているのかもしれない。それを望みつつ美しく細密に躍動的に心を込めて描いたのかも。若冲がその世界を描けることに大典顕常は嫉妬したが、きちんと二人の世界も描いてくれていてのさらなる宇宙で、自分の想いが通じていたと満足したことであろう。この二人のキーワードを加えると「秘」と「愛」であろうか。

若冲の絵にはまだまだたくさんの「秘」がありそうである。

江戸時代のひとは、アジサイはすぐ増えるので嫌ったそうであるが若冲は描いている。当時の人々の感性におかまいなしに自分の感性のおもむくままに描いている。だからこそ今も感嘆しさらに面白がられて楽しませてくれる。

若冲に関しては知らないことが多く、ドラマはまた違うドラマを呼び起こしてくれました。

中村七之助・永山瑛太 W主演!正月時代劇「ライジング若冲 天才 かく覚醒せり」制作開始 | お知らせ | NHKドラマ

追記: 源孝志監督の映画『大停電の夜に』は、クリスマスイヴに停電がおこる。その事によってそれまで隠されていた事実があきらかになり、ねじれてしまっていた人間関係がスームズに上手く流れるようになる。交流の無かった人々がどこかで作用しあう。停電は結果的にサンタクロースのプレゼントとなる。穏やかな展開でありながら意外性あり。

追記2: 若冲さんの絵の本を手もとに置き、澤田瞳子さん著『若冲』に入る準備整う。どんな若冲さんであろうか。心持ち飛躍。図書館にネットで予約した本も届いたと連絡あり。接触少なくて助かります。

追記3: 図書館では返却された本と予約の本は消毒してくれていた。他の図書館で借り手が殺菌する機器を利用できるところがあったので設置の希望をだした。置いてある鉛筆を「消毒済」「使用済」に分けてくれていたが、マジックの黒で書かれていてウム!とおもったので赤でわかりやすくしてはとお願いしたら、「消毒済」「使用後」となって赤を上手く使ってパッとわかるようになっていた。使わない人もやってくれているのがわかる。よかった。 

新しい年・爆笑問題

正月三が日外に出ないという初めての年である。今のこの世の中からすると、出なくても生きていられることに感謝すべきなのかもしれない。今日から不安を感じつつも生きるために満員電車に乗らなくてはいけない人々もたくさんおられるのである。そのことを思うとこちらの立場など微々たるものである。のか。

と言いつつ愚にもつかないことを書いていくことになるのが心苦しいが、記憶から消えるのも速くなったので多少なりとも残るように書き続けることにします。

2021年の最初は、DVD『漫才・爆笑問題 ツーショット』(2019年度版)です。生でも観た事があるので30分位のネタで幾つか収録されているのであろうと思ったら1時間15分近くずーっと舞台に立ってしゃべっていた。これには驚いたが飽きさせないのには恐るべしである。

太田光さんのほうはしゃべりながら百面相やら演技も入ってくる。それを上手く操り話を進める田中 裕二さん。日本語の面白さを再認識させられ、その展開は世代層の幅が広いのである。令和という新しい元号から新しさを披露する。雛飾りがプロジェクトマッピングで8段でも16段でも飾れてお雛様たちが踊ったり歌ったりすることもできるといって出てくる歌が昭和の歌なのである。

新しさから過去への戻り方が老若男女を問わず惹きつけてしまう。

ことば遊びも上手い。イチロー選手が引退したことから、振り子打法が振り込み打法になりオレオレ打法になる。

出てきた映画名が『君の名は。』『ラ・ラ・ランド』『13日の金曜日』『バトル・ロワイアル』『貞子』『カメラを止めるな!』『翔んで埼玉』『万引き家族』『ボヘミアンラプソディ』『タイタニック』である。

ホラーは苦手なので『13日の金曜日』『貞子』は観ていない。『バトル・ロワイアル』も観なくてはと思いつつ後回しになっている。『タイタニック』で太田さんがネタバレしてると怒ってられたので、このDVDのネタバレはここまでとします。2020年版もたのしみである。

映画からおもいだした。『万引き家族』の是枝裕和監督の映画『真実』も観ていた。大女優が自伝を出版するが、書かれていないことがあると娘が家族と訪れて母にただす。母の女優は映画の撮影中で、撮影現場との往復で娘の知らざることがわかっていくという展開である。この撮影を追ったテレビでのスペシャル番組『是枝裕和X運命の女優たち~フランスに挑んんだ一年~』の録画も見終えた。『真実』の撮影現場がのぞけて、カトリーヌ・ドヌーヴの貫禄振りはさすがであった。

今年もこんな感じで進むとおもいます。昨年は読書の楽しみに浸れたのでそのほうに時間が多くとられるでしょう。

追記: ツーショットにもう一つ映画名がでてきました。『三度目の殺人』です。突然思い出しました。あぶない、あぶない!詫びません!

追記2: 2020年版を観る。一年間を笑いつつ全くばかばかしいことがあったなあと思い出しつつふり返れた。そのばかばかしさが今も続いているのが腹立たしいが。ネタバレに太田さんがまた文句を言ったら、反対に田中さんがオレはどれだけその犠牲になって犯人を知らされたかとぼやく。田中さんは太田さんの止まらない一人芝居の犠牲にも。どこまで続くのか。よく続くと感心もする。

『類』(朝井まかて著)迷走編(5)

終わるつもりがどんどん深入りして道に迷い始めている。楽しいので横路があれば曲り、行き止まりになってもどったりとなかなかの味わいある迷走路である。

荷風追想』。荷風さんを追想する59人のかたの文章が集められている。

その中に於菟さんの『永井荷風さんと父』、小堀杏奴さんの『戦時中の荷風先生』、茉莉さんの『「フジキチン」ー 荷風の霧』がのっている。類さんの文章はのっていないが、茉莉さんの文章に登場している。それも不律(ふりつ)という名前にしていて、不律さんは亡くなった茉莉さんの弟であり、杏奴さん、類さんのお兄さんである。『荷風追想』に鷗外さんの5人の子供たちが登場したことになる。

於菟さんは、『荷風全集』の附録に書かれたもので、荷風さんの『日和下駄』の「崖」の章の一節に書かれている観潮楼の内部の様子が「情緒を最もよく表している」とし、「時を同じゅうし齢を異にし、しかも心と心とのぴったり合った二文人の出会いを描いた『日和下駄』」をしみじみ読み直してもらいたいとしている。

小堀杏奴さんはご夫婦で荷風さんを訪ねられ、交流があり、戦時中ゆえ品物を届けられたりした様子などが書かれている。これほど親しくされていたというのは初めて知り驚きであった。戦後も市川の菅野の住まいまで訪ねられたようである。

茉莉さんのは、小説となっている。主人公の私は弟の不律と浅草で映画を見たあとにレストラン「フジキチン」に入る。この店は新聞記者が永井荷風を見つけたという場所であった。店の内部の様子から荷風は「欧羅巴(ヨーロッパ)を思い出すんで、くるんだね。」と不律はいう。姉と弟は自分たちの世界に入り込み荷風の話をする。ここでの弟は不律の名をかぶせられた類さんである。

茉莉さんの弟であり類さんの兄である不律さんは1907年8月に生まれ次の年の2月には亡くなっているのである。半年という短い命であった。不律さんと茉莉さんは百日咳にかかり、この可愛い弟が亡くなった時彼女の容態も風前の灯状態であった。もしかすると茉莉さんも駄目かもしれないと一緒に弔うことになるかもという状況であったが奇跡的に茉莉さんは回復するのである。

不律という名前を登場させたのは、あの弟が生きていればこのように語り合ったかもしれないし、もっと違う話をしていただろうかとの想いがあったのかもしれない。他の兄弟とは違う特別の想いが時々生じていたような気がする。

類さん(不律)の状況を姉はみつめる。「不律は頭蓋を締めつけている、コンプレックスという鉱鉄(かね)の輪を、決して脱いではならない冠のように、頭に嵌(は)めていた。途って遣ろうと思う人があっても、除って遣ることが出来ない、それは神が嵌めた輪のように、みえた。自分自身だけの狭い、固い考えの中に縮んまっている為に不律は、人間に馴れない鳥のような眼をした、純朴な男のように、見えるのである。」的確に表現されている。

杏奴さんは、『晩年の父』を荷風さんに贈ったとき「鷗外を語るもののうち、大一等の書と存ぜられ候」との言葉をもらっている。そして対面するのである。

茉莉さんは終戦後、市川真間の荷風さんを訪ねている。自分の原稿を読んでもらうためである。原稿を差し出すや荷風さんの「笑顔は忽ち消えた。」市川真間時代の荷風さんは「他人への心持ちも、変っていたようだ。」茉莉さんは鴎外の子という特権を利用したわけではない。純粋に文学者荷風の眼で文章をみてもらいたかったのである。

真間時代の荷風は杏奴さんが接したころの荷風とは違う人であった。しかし茉莉さんは「荷風の文学が、鷗外なぞは遠く及ばぬ情緒の文学であることは、それらの欠点を帳消しにして、尚余るものであることも、私は知っている。」と荷風文学の魅力に対し変わることはなかった。これは茉莉さんの『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』に書かれているがこの著書が鷗外周辺を離れての上級の迷走路の糧でもある。

類さんの『鴎外の子供たち』(ちくま文庫)も手にすることができた。『森家の人びと 鷗外の末子の眼から』に載っていない文章があり、写真もあり、観潮楼の図面があってこれによって飛躍的に森家の人々の行動の立体化の助けとなってくれた。

写真の中に志げ夫人の写真があり、ちょっと衣装に不思議な気がした。この疑問は杏奴さんが編さんしている森鴎外『妻への手紙』でわかったのである。鷗外さんは妻に写真を送るようにと手紙に何回か書いている。志げ夫人は、花嫁衣裳を着て写したのを送ったことがありその写真であった。結婚の時写真を撮っておかなかったのでこの時撮ったのである。花嫁さんらしくないとして杏奴さんには結婚記念写真は当日撮っておきなさいと告げている。

妻への手紙』は鴎外さんが細やかに志げ夫人を気づかっている様子がうかがえる。志げ夫人の正直なところそこがいいのだと書いている。そのことで暴発しないことを気づかっている。詩や文学に興味が行くようにそれとなく誘いかけてもいるが、志げ夫人はそれには答えていないようである。すでに自分の実家の貸し家に暮らしていて、鷗外さんは茉莉さんの冬の洋服が千駄木から届くだろうとか、お金のことなど心配しないように気を使っている。鷗外さんの母が財布を握っているので、志げさんの苦労も想像出来る。

鷗外さんんを中心に回るいくつかの惑星はそれぞれの回転で様々な表情をみせてくれる。そこにはまり込むとこちらは迷走するしかないが、驚きと発見に楽しさも与えてもらうことになる。気が向けばそこから抜け出しまた入り込むのである。

』を読んで類さんの妻である美穂さんの生きる力に敬服し、あの茉莉さんを疎開先で面倒をみたということに驚愕したが、茉莉さんが『贅沢貧乏』のなかで志穂さんの様子を書かれていた。「弟の家内になった娘は八人家族の家で、母親の代理をやっていた娘である。家族八人だが、三日にあげず客があるから、食事は大抵十五六人前である。母親の方は専ら社交の方面を受持っていた。娘の方も社交に敏腕で、彼女は客があると、台所と客間とを往復し、台所では料理の腕を振るい、客間に入ると、社交の言葉と笑いの花を、ふりこぼした。」「弟の家内という人は自由学園の羽仁もと子式で薫育された、才媛(さいえん)である。」

疎開先ではこうなる。「百姓が舌を巻く位の畑仕事の腕を見せ、薄く柔らかな眉のある眉宇(びう)の間に、負けず嫌いの気性を青み走らせながら、遣(や)ったことのない和服の裁縫を、数学の計算のように割出して遣りおおせた。月が空の中でかちかちに凍っている夜、一人で何百個かの馬鈴薯(ばれいしょ)を土に埋めた。通りがかった知合いの工員が涙を催して手をかしたという、逸話の持主である。」やはりなあと思わせる。

茉莉さんは回転の加速をあげて、どこに飛んで行くかわからないかたである。『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』などは、ベットの上でずーっとテレビを見ていただけあってその感想というべきものはかなり鋭い針のような感触すらある。

ただ多種多様の範囲で見ているのには脱帽である。テレビでみた内容が説明され、あれっ、これは家城巳代治監督の青春映画ではないか。こちらも正確な題名を探す。『恋は緑の風の中』である。原田美枝子さんのデビュー作で原田さんがダントツに光っていたが、その少年少女たちの事ではなく、周囲のおっ嚊あ(おっかあ)たちのことなのである。母親たちのことである。大変立腹していてその一つの例にされたのである。

個人的にはどうして家城監督はこういう青春映画を撮られたのかわからなかったが、茉莉さんが見るとそこを突くのかとこちらの見どころの甘さを感じないでもないがそう立腹するほどの描き方でもないような気がする。

春琴抄』の山口百恵さんの春琴はほめている。笑わないからである。百恵さんが白い歯をだして笑うのは彼女を嫌う最大の原因としている。茉莉さんの基準は難しいのである。ほめていても、谷崎の小説の中の春琴ではなく、山口百恵の春琴である。それはわかる。

そんなわけで、突然の茉莉流の標識出現に右往左往されつつ笑い、いぶかしがり、喝采しつつ嬉々として迷走させてもらうのである。

そうそうヒッチコック映画に対しても興味深かったのですが、書いていたら際限がなくなりますので、一人密かに楽しみつつ2020年とお別れすることといたします。新しき善き年がむかってきてくれていることを祈って。

ひとこと・図夢歌舞伎『弥次喜多』

歌舞伎の弥次さん喜多さんが、このコロナ下どうなるのか知りたかった。

かなり謎めいた展開。分断される弥次さんと喜多さん。哀しいかな、お伊勢参りも、ラスベガスも、歌舞伎座のアルバイトの思い出も共有し共感できなかった。

現実に新型コロナは先ず分断を狙っている。その中で犠牲になっているのが誰であるのかさえ隠蔽するのである。

個人的には現実で、新型コロナが出始めて緊急事態宣言となり映画館へも行けなくなり有料の映画配信を観ることにした。ところがこれが上手くつながらなくてカードが拒否される。ここで止めておけばよかったのに、ガチャガチャやってしまって、結果的に観れなかった。後日カード会社からの電話でカードの不正使用されているのがわかった。カードの再発行で事なきを得た。そのため有料配信はやめていた。今回の配信先は登録済みだったので思いの外簡単に視聴できた。新しい世界の生活も大変である。

もし何かおかしいと思ったらカードの裏の電話番号からカード会社に電話を。メールからの反応は禁物。

『図夢歌舞伎「弥次喜多」』Amazon Prime Video 12月26日より独占レンタル配信開始/(C)松竹

追記: 思わず深夜噴き出して声が出たのであるが、どんな場面だったのか思い出せないのである。誰か一番笑えたところ呟いてくれないであろうか。後半の押した部分でのことなのだが。くやしいー!

追記2: あれ!視聴し始めて48時間は何回でも観れるという事なのですね。観なおしたのだが声をだして笑ったところがはっきりしない。かえって話の展開に集中してしまった。

追記3: 3回集中して観た。何となくあわただしいこの時期だからこそ集中できたのかも。世界観の大きさ、歌舞伎の世話物のしんみりさ、人気ドラマがドッキングして旬で愉しむ価値あり。喜多さんのかたりと弥次さんのラスト、年末の心に沁みました。

追記4: 彼方岸子(笑三郎)の初舞素敵です!

令和三年 新春ご挨拶と初舞 『寿 万歳』市川笑三郎 – YouTube

追記5: 「図夢歌舞伎」と同じ配信サイトからドキュメンタリー映画『RBG 最強の85才』が観れた。欲していたことが叶って少し前進した気分。

追記6: ラスト、弥次さんにあたる光が想像をかきたてる。笑也さんバージョンか門之助さんバージョンに続くバージョンがあるのか。弥次さんと喜多さんの旅は神出鬼没ですからね。      

『類』(朝井まかて著)(4)

朝井まかてさんの『』のなかでは登場しないが、森類さんや森茉莉さんの作品には永井荷風さんの名前が登場する。そのことで頭を巡らした。

半日』(明治42年、1909年、鷗外47歳、杏奴誕生、茉莉6歳))、『妄想』(明治44年、1911年、鷗外49歳、類誕生)。その間の明治43年に志げ夫人の『あだ花』が出版され、鷗外さんは慶應大学文学部文学科の顧問となり永井荷風さんを教授に推挙したのである。

鷗外さんが亡くなったのが大正11年(1922年)、60歳であった。茉莉さんは杏奴さんが生まれるまでの7年が両親を独り占めし、15歳で結婚。パリにいる夫の元に兄の於菟さんと旅立ったので父の死には立ち会えなかった。杏奴さんが12歳、類さんが10歳であるからその年齢によって父に対する想いはそれぞれに違っていたこととおもわれる。

母の亡きあと茉莉さんと類さんは二人で一緒に暮らしている。志げ夫人の看病には二人に任せておくことが出来ないと出産前の小堀杏奴さんは頑張られた。茉莉さんと類さんはそれぞれの生活を犯すことなく行動するが、寄席や映画館などで顔を合わせ、お互いの感想などを打てば響く感じで交信しあった。茉莉さんは結婚したあとも出かけると銀座、上野、浅草と時間を忘れて行動している。そして浅草大好きであった。ただこれは戦前の浅草のようであるが。

森茉莉さんのエッセイ集『父の帽子』の中の『街の故郷』で故郷いえば生まれた千駄木附近になるがもう一つ第二の故郷があるとしている。「それは昭和10年頃の「浅草」と下谷神吉町にあったアパルトマンである。」部屋でごろごろして文章を書いていようが、一日本を読んでいようが、気が向けばなりふり構わずに散歩にでようが気楽で天国のようであったとしている。浅草人の気風がとても気にいっていた。しかし、戦争のため浅草と別れ類さん一家の疎開先へと移るのである。

戦後世田谷区のアパートに住んでいた頃そのアパルトマンの住人と肌が合わない様子が書かれているのが『気違いマリア』である。同じ格好をしていても全く異質の浅草族というのがあってそちらは、パリになじんだのと同じように越した日から浅草の人間になれたが、こちらときたらと気に食わないことだらけなのである。浅草はパリなのである。「要するに、浅草族は東京っ子であり、世田谷族は田舎者なのである。」

気違いマリア』の書きはじめが凄い。「マリアが父親の遺伝を受けたとしても、又母親の遺伝をうけたにしても、どこかに気違い的なところを持っていていい訳なのである。」で始まり父親と母親の変なところの紹介となり、だからそういうことなのであるとなる。

さらに永井荷風の気違いも遺伝し、宇野浩二の気違いが遺伝し、室生犀星の遺伝も引き受けているのである。永井荷風は彼が市川本八幡で死んだとき悪い脳細胞の悪い要素が風に乗って世田谷淡島まで飛んで来てマリアの頭にとりついたらしいのである。

茉莉さんは永井荷風さんの浅草とは違う独自の戦前の浅草に恋したのであるが、荷風さんの気違いが遺伝するのは当然としたのである。むしろ来い来いという感じである。

類さんの作品『細き川の流れ』のなかで、小説家を目指す主人公は奥さんから本気度が足りないと言われ言い争いとなる。そして荷風の名がでる。主人公は荷風は毎日出歩いてその先で小説の題材を産んで羨ましいと言ったらしく、奥さんはそのためにこづかいを渡したがそれによって書けた小説がないという。さらに「荷風だって出歩く電車賃は自分で稼いだ原稿料で好きな処へ行ったんだと思うの、出歩いた事が間接に創作に役立っていても元は頭から湧いたものよ。」と詰め寄るのである。

未発表の『或る男』の彼は、自虐的に自分の中の世間のあざけりを吐露しつつ浅草に行く。『彼奴とうとう浅草へ来やがった。恥知らず奴が赤い靴を履いて田原町を歩いている。馬鹿が、馬鹿者が、無能力者が、ウッフフ、女房と子供が四人もいるのに、耳の横に白髪が光っているのに』。しかし浅草は彼に作品となる題材をあたえてくれるところではなかった。

類さんは自分の身近な生活周辺で起こることを題材とする。生田の土地の所有権の問題発生。家主になるまでのアパート建設に問題発生。部屋を借りる人々の人間模様。診察をしてもらった医師の不当と思える起訴による裁判傍聴の記録。そして森家の兄弟の事などを題材とするのである。画家の熊谷守一さんにインタビューもしていました。

一度は絶縁しつつも最後まで交信し合った類さんは家族があるゆえに、茉莉さんのようには気違いの遺伝をもらうわけにはいかなかったのである。かつて楽をした分生活者として闘うことになるのである。

茉莉さんの鼻の化粧の事で絶縁したその鼻に対して茉莉さんは『気違いマリア』の最後に「その微かに紅く、高くなった面皰(にきび)の痕跡を、むしろよろこんでいた。決して若い時のように、薔薇色の粉白粉で隠そうという努力なぞはしないのである。」としめくくる。これは、室生犀星さんが自分の顔に強いコンプレックスを抱いていたが晩年は自分の雑誌に載った写真をほしがるようになり、父ものちに知的な自分の顔に自信をもったからである。気違いの遺伝もそう悪い方へとはいかないのである。

茉莉さんは『半日』というエッセイで、鷗外の『半日』に対し、ここに出てくる「玉」が成長し「博士」に対する哀しい訴えとして最後にきっちりしめている。「「公」と「私」との別は、どれ程悲しくてもつけなくてはなるまい。」そして『気違いマリア』の中では『妄想』に対しては、主人公が翁になった気分に浸っているとし、この翁に浸るために、子供たちには健康のために二週間日在に移住したらしいとしている。

半日』と『気違いマリア』では、同じ人が書いたのであろうかと思えるほどの飛び方である。そして日を経るごとに茉莉さんは少女のような妄想の世界に浸り込んでいく。

なぜ世田谷のこのアパートにいるのか。「(目下だけではなく、マリアはこの建物に永遠に住む覚悟でいる。今いる部屋でなくては小説が書けないと信じているからで、マリアは萩原葉子が自分のアパルトマンに来いと言った時もその理由で断った。富岡多恵子がそれを聴いて、葉子さんの誘いを断るとはさすがマリさんである、と言った)」なんともこのツーカーぶりが見事である。この交信の速さがなければ茉莉さんとは交信できないのである。

茉莉さんの最後の住家は経堂のアパートとなるが、そこで類さんは茉莉さんの交信が弱くなり、部屋ごと硝子の水槽の中に入れて水族館に預けたいとおもったのである。茉莉さんを下界から囲って夢の世界で浮遊させ自分はそれを眺めているだけでいいと感じたのである。

そうした類さんを投射して朝井まかてさんは、『半日』の父と母を日在の川に浮かべた船に乗せ、童謡の世界に浮かべている類さんを作りあげたわけである。と、こちらは受け取ったようなわけであります。

朝井まかてさんの『』から森類さんの作品を読み、さらに森茉莉さんの作品に再度触れて笑わせられ、類さんと茉莉さんのどこに行くのか解らない作品に心配になった小堀杏奴さんの不安も伝わってきて、広く楽しい時間を持つことが出来ました。好い時間でした。

『類』(朝井まかて著)(3)

半日』(森鴎外著)は森鷗外さん夫人・志げさんが姑を疎ましくおもっている様子が書かれている。鷗外夫人悪妻のレッテルを張られたような作品である。

鷗外さんは遺言で観潮楼は於菟さんと類さんに半分づつの所有権とし夫人には日在の別荘を残した。日在の別荘での様子は、日在の場面から始まる小堀杏奴さんの『晩年の父』からも想像出来る。志げ夫人は田舎での生活は嫌いであり砂浜を歩くということも好きではない。鷗外さんはお金が必要になれば売ればよいのだからと考えたのであろうか。この多少ミステリーな部分を『』で夏井まかてさんは類さんの想いに解決をさせるという形にしたのである。

この日在の別荘地を志げ夫人は類さんに残すのである。類さんはこの地を売ってしまうのであるが妻の志穂さんと相談して買いもどす。志穂さんの死後類さんは再婚しこの地で二人で暮らすことになる。小さなころ怒られてばかりであった母は、類さんのために川崎の生田に土地を買っておいてくれ、日在の地も残してくれたのである。類さんの生活力を心配していたのであろう。

鷗外さんの亡きあと森家は先妻との長男・於菟さんが本家ということになる。さらに決定的だったのが、類さんが書いた『森家の兄弟』が『世界』に載り続きが載る予定であったときに岩波書店から断られてしまう。原稿を読んだ杏奴さんが茉莉さんの鼻の化粧の様子の記述に茉莉さん共々抗議したのである。類さんはその部分は削除するからと提案するが拒否されてしまう。このことから杏奴さんと茉莉さんとは絶縁となってしまう。

茉莉さんとはその後和解するが、杏奴さんとは終生歩み寄ることはなかった。

そのようなこともあり杏奴さんは於菟さんの本家としての後押しをし、類さんがなるべく表にでないように望む。於菟さん夫婦が亡きあと、その子の真章(まくす)さんにも「あなたが森家の本家」と伝えている。それは、鷗外記念会常任理事に真章がなったと知った時類さんは真章さんと話す。真章さんは、杏奴さんから言われたことを伝える。あなたが森家の本家なのだから先祖の菩提を弔うことはもちろん記念会のことも森家の代表者として面倒みるようにと頼まれました。ただ祖父の想いでは杏奴さんと類さんにお願いします。類さんは納得するがただほかから知る前に一言先に伝えてほしかったと胸に納める。

類さんを無視してことが運んでしまっていることが何回かあるのだ。それは鷗外さん亡き後、志げ夫人を排除していく力と関係し、その関係が、杏奴さんと類さんの不和でさらに強まってしまったようにみえる。

類さんと杏奴さんの蜜月時代もあった。類さんと茉莉さんの蜜月時代もあった。それが壊れてしまう。それは、亡き鷗外の愛の独占であったと類さんは思う。

パッパが一番愛していたのはあたしで、パッパを一番愛していたのはあたしなのと杏奴さんも茉莉さんも確信している。茉莉さんは「茉莉文学という花に、しとどの露を宿らせた。」杏奴さんは、「小堀姓になっても鷗外のご息女の生霊が森家の息災を願って正面からも側面からも舵取りを見守っている。」杏奴さんは森家のことに対し余計なことは書いて欲しくないと思っていたのであろう。

その杏奴さんも母に対してはかなり厳しい表現をし「父と母とが仲の好いように感じられた記憶は私には殆ど見付からない。」とまで書いている。類さんも、最後の小説『贋の子』で母らしい馨の人物像を珍しい性格として描いている。

一番印象的な志げさんは、『半日』である。主人公を挟んでの母と妻の嫉妬に対し、主人公は一応母に肩をもち妻をなだめる。自分(鷗外)が書くことによって外からの内に向かって入られるよりも内から外に発したほうがいいと考えたのかもしれない。

妻を世間が悪く言っても鴎外さんには愛する家族が手の届くところにあり守ってやることもできるのである。そして老いた母も自分の優位を感じつつ残された人生を送らせたいのである。さらにこの頃鷗外さんは志げさんに小説を書かせている。残念ながら志げさんの作品は読んでいないのであるが、志げさんが書く行為によって何か感じてくれることを期待したのかもしれない。そして『妄想』が書かれる。

妄想』は、主人公が別荘で老いを感じ、そこからドイツに留学したころのことを回想して死についてなど様々に考えがめぐる。志げ夫人は、夫との年の差から現実的な不安を感じていたと思う。その思考する方向性の違いもそれぞれにもっともなことに思える。

類さんは小説『贋の子』の発表前に津和野の父の生家に再訪したことを随筆『武士の影』で書いている。その質素な家から森家の人々の生活を想像し、先妻も母もお嬢様育ちで誰も悪い人間ではないのに相克が起ったのは当然であると考える。ただ最終的に自分が森家の墓に入ることを拒否されそのことを『贋の子』という小説にしこれが最後の小説作品となっている。

類さんが森家本家から受けた森類外しで納得できない心の内を伝える。類さんは森家のその後をここまで書いたのだからここでお終いにしようと考えたのかもしれない。もし佐藤春夫さんが生きていて相談したなら小説はもっとお書きなさいと言われたように思う。

朝井まかてさんは、『硝子の水槽の中の茉莉』で「ベスト・エッセイ集」に選ばれ日在で類さんの妻、子供、孫がお祝いをしてくれるところで終らしている。『硝子の水槽の中の茉莉』の最後に、茉莉さんの葬儀には類さんが喪主であったが、三鷹の禅林寺での一周忌には本家の営む法事となって参列している。「当然なのにこれで本当の茉莉姉さんの一周忌になったと思った。」茉莉さんが森家のお墓に入れたということに類さんはきまりがついたと考えられたのかもしれない。パッパに愛された茉莉姉さんがパッパのそばにもどった。

類さんは日在からの海をみつめつつ、パッパと母の関係を思い起こす。父の『妄想』の作品が日在の風景から始まっていることから自分の記憶をたぐる。「母は一緒に砂浜に出たりしない。自然が嫌いであったのだ。海の見える書斎で父とお茶をのんだり、本を操る音に耳を澄ませながら団扇でも扇いでいたのだろう。」その時鷗外さんには老いが近寄っていたのである。

鷗外さんは、日在で誰にも邪魔されない家族の時間を大切にしたのであろう。子供たちには自然を、妻には森家周辺の騒音を避けさせて。類さんは、回答をえる。「父はこの景色を他の者に継がせなかった。ここだけは母に残したのである。今になって、その真意に触れている。」その真意に触れるきっかけに、月夜に父は別荘の爺やに夷隅川に小舟を浮かべさせたことがあり、「月明りの下で、類は父と母の横顔を見上げ」月の砂漠の王子様とお姫様にたとえているが、これは朝井まかてさんのプレゼントで、個人的には感傷的と感じた。

この真意によって、類さんは、自分の存在の確かさを手にしたのである。

外されて外されて行き着いた自分だけの父と母であり、その子供であった。

』の作品がなければ類さんのことや作品を読むことはなかってであろう。森茉莉さんが亡くなられた時、親戚は何をしていたのかという批判があったように記憶している。その時、茉莉さんの作品や編集者と喫茶店で会っている記事などから茉莉さん独特の世界観と生活感から違う暮らしを無理強いはできなかったであろうと想像していた。かすかな記憶から、その批判を受けたのが類さんだったのではという想像も浮かぶ。

類さんの書かれた物から感じるのは、正直な人であった。ある意味母・志げさんの性格を受け、書くことに対しては静かに写生を試みる父・鷗外との子供であった。

『類』(朝井まかて著)(2)

森類さんの著書『森家の人びと 鷗外の末子の眼から』にて思いもかけない方向に導いてくれる。第一部・エッセイと第二部・小説となっている。森類さんの抑制のきいた文章がいい。朝井まかてさんの『』から想像していたよりも冷静な視線で変に感傷的でないのが信用できる。

優しかった父・鷗外を思い出す場面も本屋の仕事の合間に煙草を一服吸うような感じである。鷗外を背負うわけでもなく、嘆くわけでもない。読者は父鷗外の愛をそっと抱えて鷗外の子の枠からいい意味で解放される類さんの文章の世界に添う。文章は淡々としている。

佐藤春夫さんとの気を使っているようないないような微妙な関係が『亜藤夫人』に書かれている。「来たいから来ただけで、用がないから黙っている。先生の方も来たから座らせてあるだけで黙って居られる。」佐藤春夫さんは、校正刷りにさらに手を加えらているがなかなか終わらない。そんな長い時間の中でふっと先生は安宅さんの奥さんの様子をたずねられる。

「安宅さんの奥さんと云うのは僕の妻の母で、先生が昭和25年の「群像」十月号に書かれた『観潮楼付近』の主人公亜藤夫人である。」安宅夫人はかつて佐藤春夫さんと恋人であった。そして、類さんが佐藤春夫さん宅を訪れるきっかけを作ってくれた人である。

類さんは、入ってきた奥さんと先生のやりとりに夫婦の愛情が籠っているのを感じる。この奥さんが谷崎潤一郎元夫人の千代さんである。

観潮楼付近』を読んだ。わたくし(佐藤春夫)と観潮楼の関係、亜藤夫人との若かりしころの出会いと別れが書かれている。わたくしは郷里から出てきて生田長江の門下生となる。そして、観潮楼のすぐ前の下宿屋に住んだことがあったのである。わたくしは、森鷗外と観潮楼にあこがれをもって外からながめるだけであった。

その新しく出来た下宿に対して、鷗外が小説『二人の友』の中でこの家を描いている。「眺望の好かった私の家は、其二階家が出来たため陰気な住いになった。」

生田長江さんのところに出入りしていたO女(尾竹紅吉)が生田長江門下生の秀才を妹の結婚相手にしたいと提案した。その秀才がわたくしであった。一年半ほど妹と付き合うが、恋人は亜藤画伯と結婚することになってしまう。わたくしは落第生であり詩人ともいえない状態だったので彼女を祝福したのである。

O女は青鞜廃刊後、同人誌を発刊することになる。同人誌名『蕃紅花(サフラン)』は聖書から選んで命名したのがわたくしであった。「その創刊号には雑誌名と同題で鷗外の一文が寄せ与えられている。」鷗外さんも力添えしていたのである。

森鷗外記念館のため観潮楼址の地鎮祭と記念事業の奉告式があり、そこで、わたくしは若い夫人から一礼され「母から、よろしく申し上げよと申しつかってまいりました。」といわれる。その若い夫人が森類さんの妻であり、母が亜藤夫人であることを知るのである。わたくしはお共に頼んで来てもらった青年詩人Fに誰かと尋ねられ「夫人の方はむかし僕に『ためいき』という詩を書かせた原動力になった人の娘さん」とこたえるのである。

どんな詩なのであろうかと興味がわいた。『観潮楼周辺』には『ためいき』の詩も載っていた。恋に破れて故郷にもどって作られた詩であった。

その後、わたくしの家に亜藤夫人、森類夫婦、森茉莉の4人が訪れるのである。

小説『』のラストは、類さんが茉莉さんの没後に書いた随筆『硝子の水槽の中の茉莉』がベスト・エッセイに選ばれたため家族がお祝いのため日在の家に集まってくれたところで終わっている。そのエッセイは類さんが茉莉さんのマンションを訪ねときの茉莉さんとのその独特の交流を描いたものである。茉莉さんの様子を「硝子の水槽の中の茉莉」と表現したのは茉莉さんとかつてのように交信できなくなった淋しさと茉莉さんの世界観をそっとしておく類さんの心である。

かつて茉莉さんのことをリアルに描いた類さんを通過しての表現者としての類さんである。

佐藤春夫さんの『観潮楼周辺』は観潮楼の建物を中心に、その中に住んだ者、その周辺をウロウロした者、そして周辺の風景が上手く交差しつつ描かれている。わたくしの「青春時代のわが聖地」であったと今回初めて知ったのである。

小説『』で、斎藤茂吉さんは本屋の名前の候補を二つ出している。『鴎外書店』と『千朶(せんだ)書房』で、「千朶」はどこから考えられたのかと疑問におもっていた。それは、鴎外さんが前妻の登志子さんとうまく行かず離れて住んだのが千朶山房であったと『観潮楼周辺』に書かれている。この家はその10年後夏目漱石さんが住み、『吾輩は猫である』を書かれたので「猫の家」と言われている。住所の千駄木とも重ねて「千朶」が浮かんだのかもしれない。

前妻の登志子さんとの子が於菟(おと)さんで、類さんより21歳年上である。類さんと於菟さんの関係は、祖先から続く森家の構造、異母兄弟、年の差などが複雑にからんでいる。

観潮楼周辺』のわたくしは、於菟さんはちょっと苦手のようである。亜藤夫人の娘婿でもあるゆえか類さんには好意的である。亜藤夫人たちが帰った後、わたくしの奥さんは詳しく客の説明を聴いて亜藤夫人はこんなところに嫁に来なくて良かったと思ったでしょうという。わたくしには複数の女性関係があり、今の夫人とは二回目の結婚である。奥さんの言葉に対してわたくしは「それとも自分が来ればこの人もそんなに度々結婚しないでも一度で納ったろうと思ったか、どちらかだね。」といって笑うのである。

お二人には揺るぎない関係が存在しているが、わたくしはハッピイエンド観の小詩をしたためて満足する辺りが作家のサガであろう。

類さんは、『亜藤夫人』の中で、義母が先生の家に何回行こうがどうでもいいことだが「一緒に並んで行くのが厭だった。岳父が心の底からこれを楽しめないとすれば、先生の奥様にとっても、心から楽しい筈がないのである。」と書いている。

類さんには彼特有の周囲に対する観察力がある。その観察力で自分が主導権を握るとか、強く自己主張するというのとは違う。自分の中で調節して決まれば自分の考えとして自分で納得するのである。そして世間の喧騒から身を引くのである。

佐藤春夫さんは喧騒に立ち向かう方である。

朝井まかてさんは、『』のラストで、類さんが自分なりの父と母のつながりを完成させ納得する類さんを描かれている。それは朝井まかてさんの類さんに対する上等のプレゼントのように思えた。