猪突猛進の旅(八犬伝・あしかがフラワーパーク)

猪の年だからというわけではないが、猪突猛進の旅となっているかもしれない。昨年の箱根から始まっているともいえるので、猪とは関係ないかも。まだ行っていない気になる場所をかたずけたいと思って行くと新たな情報を得、方向転換して突き進むということになる。少しお酒の入った猪のジグザグ突進。そこどけそこどけ。

先ずは千葉の『南総里見八犬伝』の<伏姫ノ籠窟>に行きたいと思っていたひとつ。近親者の若い人がつき合ってくれるというので正月早々行動する。彼はこの辺りの海岸線は自転車で走っているらしい。本当は冨山まで登るのが良いのだがそこまでの元気はない。<伏姫ノ籠窟>はJR内房線岩井駅から歩いて40分位で富山の裏参道にある。富山を表参道から登り南峰に到着し、つづいて北峰(こちらのほうが見晴しが良いらしい)へ行き、裏参道から降りるのが一般的であるらしい。そう思っていたらなかなか行動できなかったので<伏姫ノ籠窟>だけとした。短い猪突猛進である。

岩井駅から線路を渡り古い案内図に富山小学校とあるが様子が違う。(今は体育館のみ)それを左手にして進み、さらに福聚院を左手にして進み、芝入口を左に入り冨山中学校をめざす。学校が新しい感じ。富山学園とあり小学校もここに移っていた。あとは道なりに行けば門が見え上に<伏姫ノ籠穴>と書かれていて階段が続く。

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八犬士の名前が書かれた八角形の踊り場があり、先の岩場の間の階段を上ると洞穴があり白い球が一つありその奥に八犬士の名前が見える。

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石板に、「伏姫籠穴へ遠路ようこそお越しくださいました。私は里見義実(さとみよしさと)の娘、伏姫でございます。」と犬の八房とともに十六歳のときに籠り、十八歳のときに童子があらわれ受胎したことを知らされ八犬士の誕生の紹介文がある。文字が見えづらいのが残念である。

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門まで戻ると門の右手上に<犬塚>の石碑があった。

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同道者には先に下りてもらいその先の道の様子を見てもらう。道は20分位は穏やかな道でその先から急な階段道がつづいているとのこと。やはり富山までは無理なようであった。偵察ありがとうである。何となく富山の様子がわかった。

水仙が咲いていてこの時期が空気もクリアで展望にも良い時期だそうである。北峰の近くに<里見八犬士終焉の地>がある。駅にもどると、<伏姫と八房の像>があった。見落としていたようである。

次は栃木である。栃木のパンフレットに<あしかがフラワーパーク>の紹介があった。大藤が有名で冬はイルミネーションである。JRあしかがフラワーパーク駅から徒歩3分とある。JRあしかがフラワーパーク駅 ? 昨年の2018年4月に新駅・あしかがフラワーパーク駅が開業していたのである。かつて藤を見にいったことがあるが不便で駐車場からも歩いた記憶があるので、あそこね!ぐらいの印象であった。栃木県内では、35年ぶりのJR新駅の開業だそうである。両毛線に新駅が。富田駅から徒歩13分とそう遠くもなかったのだが最初の印象が強くその後調べもしなかった。

これは行かなければ。あしかがフラワーパーク駅からイルミネーションを目指して。両毛線は小山駅から高崎駅までの路線で途中駅に史跡など結構見どころの町が多い。岩舟駅はアニメ映画『秒速5センチメートル』にも出てきた駅である。今回は寄り道なしにイルミネーションのみ。新駅から西ゲート入口は車を注意すればすぐである。花をテーマにしていて平地での設定なので歩くのは楽である。そのぶん光に満ちた建物を作りそこを階段で登って降りれるように工夫している。

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小さな藁囲いの中の寄せ植えの花も可愛らしい。

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銀河鉄道の列車は動かないが、警笛を鳴らしている。藤のイメージの光の通路。藤の時期にもう一度きてみようかな。ショップには、お花も売っていて、サボテンの小さな寄せ植えもアイデア。飲食できる外のコーナーには石油ストーブで温まりつつ。人が少なかったのでレストランもゆったりと待たずに飲食できる。ここで佐野ラーメンが食べれた。年越しそばのあとはラーメンかな。伸びないうちに行動開始。

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両毛線は不便ではあるが、楽しませてもらった在来線でもあるので新しい駅ができて人々が利用してくれることを願う。今は無人駅でも利用可能であるから、こういう新しい駅の検討をしてみることも必要かも。スイカなどのチャージは充分にとのことです。埼玉の武蔵嵐山へも行った。木曽義仲の誕生した土地である。この旅については後日。

「マリア・カラス」とは(2)

  • 映画『永遠のマリア・カラス」は、晩年のマリア・カラスがアパートメントに引き籠って外に出なくなり、それを心配した友人がマリア・カラスの映画を企画する。声は期待できないので彼女の演技力で『カルメン』を映像化して、かつての若い頃のマリア・カラスの歌を編集して合体させるという試みである。

 

  • マリア・カラス役がファニー・アルダンで演技力抜群である。外見や雰囲気などをマリア・カラス本人と比較するのもいいが、ファニー・アルダンの作り上げた歌姫が映画『カルメン』にどう向かいあい、挑み、創り上げていくかで観ていても圧倒される。そのことがマリア・カラスを描くことに通じている。それは、マリア・カラスの友人でもあり、マリア・カラスの舞台を演出したことのあるフランコ・ゼフィレッリ監督が描きたかってであろうマリア・カラスと一致したのである。

 

  • 今回新たに知ったが、フランコ・ゼフィレッリ監督は、ルキノ・ヴィスコンティ監督のもとで仕事をしており、ルキノ・ヴィスコンテ監督はマリア・カラスの舞台演出をしていてマリア・カラスとは、相性が良かったらしくオペラも成功している。『マリア・カラスの真実』でもヴィスコンティ監督とテレビ出演しているマリア・カラスが真摯に監督の話を聞き答えてもいる。『マリア・カラスの真実』をどうして映画館で観なかったのであろうかと、フライヤーをさがして納得。フライヤーが好きでなかったからである。スキャンダルを追っているのではないかと想像したのである。実際の映像はきちんと調べて冷静にマリア・カラスの一生を追っていた。今回見逃さなくて良かった。

 

  • マリア・カラスはヴィスコンティ監督から演技を学んでいたであろう。おそらく呑み込みは早かったと思うし努力もしたであろう。歌を学んだ時のように。マリア・カラス自身も演技力には自信があり、声が出なくなったマリア・カラスにその演技力を求めたのが、映画の中での友人でプロモーターのラリーで、この役がジェレミー・アイアンズなのである。これまた完璧な役どころである。そして、歌と切り離して演技というところでマリア・カラスを復活させようとしたのがフランコ・ゼフィレッリ監督の狙いでもあろう。もしかすると、パゾリーニ監督が上手くマリア・カラスの演技を引き出せなかったことへの対抗心かもしれない。そう思わせるほど、フランコ・ゼフィレッリ監督のマリア・カラスへの友愛が感じられる。

 

  • ロックバンドなどをプロモーターしていて忙しいラリーはマリア・カラスを引っ張り出す企画を考え、若いスタッフがマリア・カラスは過去の人だというのを聞いて益々燃えあがり、逼塞して隠れるように生きている彼女をもう一度よみがえらせようと行動にでる。自分も資金を提供し、儲かるぞと資金提供者も集めいよいよ、撮影に入る。難色を示していたマリア・カラスも撮影が始まると水を得た魚のように、まるで鯉のように飛び跳ねたりもする。

 

  • 撮影のマリア・カラスに、オペラの舞台にのぞむマリア・カラスがいる。完璧主義で、時には傲慢で専制君主のようなところもあるが、生き生きとしている。この撮影場面やその場その場のマリア・カラス(ファニー・アルダン)の表情も眼が離せない。試写も終わりマリア・カラスも大満足。ラリーは次は『椿姫』だと意気込む。ところがマリア・カラスは次は『トスカ』で、今の声で歌って映像化するという。今の声ではお金にならないと資金提供者たちは納得しない。マリア・カラスは今の自分を冷静にみつめ決心する。

 

  • 『カルメン』を破棄してくれとラリーに伝える。この場面の撮り方も淡々としていながらマリア・カラスの言葉を深く心に刻ませる。やはりあの『カルメン』はニセモノである。「マリア・カラスはペテン師だった!」とは言われたくない。ラリーに「私のせいで破産?」と問いかける。ラリーは大丈夫と答える。このふたりの最後の会話がいいのだ。これは創作の世界だからこそできた場面であろうし、ここがまた、フランコ・ゼフィレッリ監督のマリア・カラスへの友愛の熱さである。

 

  • 脇役の女性評論家サラのジェーン・ブローライトの演技も光る。驚いたのは撮影が映画『王女メディア』と同じ人であった。『カルメン』は多数映画化されているが、1954年アメリカのミュージカル映画『カルメン』が長く感じて途中だれてしまった。マリア・カラスが録音したオペラ『カルメン』のCDを聴いてわかった。オペラも長いのだ。CDも2時間40分はある。解説文によると、ビゼーのオペラには、メリメの原作には出てこないドン・ホセの許嫁であるミカエラが登場する。これは、柄の良くない人間が多く登場し、最後は殺人でおわるため、もっと明るく愉しい雰囲気をだすため純情可憐な田舎娘を加えたのだそうだ。

 

  • 「マリア・カラス」とは、個人的にはオペラへの入口となった。作品をどう理解しその真意をどう伝えるか。マリア・カラス関連映像を観ているとオペラの作品に対するのめり込みかたにすざまじさがある。『私は、マリア・カラス』で語る、家庭とオペラを両立できないというマリア・カラスの言葉にうなずけるのである。

 

「マリア・カラス」とは(1)

  • 2019年も災害の多い年となるのであろうか。まだまだ災害の爪痕が回復していないところもあるというのに、不安をつのらせる現身の世の中である。そんななか楽しい年であることを願いつつ、そうあるべきように祈りつつ、「マリア・カラス」から始めることにする。

 

  • 昨年の続きということである。昨年12月、ドキュメンタリー映画『私は、マリア・カラス』をみて、マリア・カラス関連の見れる映画や舞台映像、ドキュメンタリー映像などを観た。創作部分の多い映画『永遠のマリア・カラス』は、映画館で観た時よりも創作にマリア・カラスへの愛が感じられて観ていてさらに心に沁みた。作った人の温かさがある。

 

  • 「マリア・カラス」をどのようにまとめたらよいのか。書きつつその流れに任せることにする。『永遠のマリア・カラス』は、マリア・カラスの名前は知っているが歌もきちんと聞いたことはないし、ゴシップ的なマリア・カラスといってもそれほどくわしくはないしで、「マリア・カラス」ってどんな歌手だったのかと興味を持たせてくれた映画である。その映画のあとパリデビューの公演DVD『歌に生き、恋に生き』を購入したらしい。らしいというのはパリデビュー自体がよくわからず、観ておそらく途中で投げ出しているようだ。『永遠のマリア・カラス』は、『カルメン』が主なのである。『カルメン』なら聞きなれた歌もある。ところが、『歌に生き、恋に生き』は素晴らしい声なのであるが、こちらの気持ちとかけ離れていたのであろう。

 

  • 私は、マリア・カラス』では、声が出なくなってからコンサートに切り替えて歌うマリア・カラスの表情が好きであった。『歌に生き、恋に生き』のマリア・カラスは挑むような表情で入りこめなかった。それに比べ、サーカスで子象に観客席まで押されて、子象のお尻を軽くたたくマリア・カラスには生身のキュートさがあった。最後のコンサートは日本で札幌であった。完全主義でもあったであろうし、傲慢でもあったであろうし、とにかく突出している才能を発揮した歌い手であった。

 

  • 私は、マリア・カラス』では、年齢と共に衰えるであろう声に関して、オペラ歌手を続けられるかどうかということに対しては常に頭にあったようである。パゾリーニ監督の映画『王女メディア』に出演するときも、新しいこともやっていかなければと話している。家庭にあこがれるが、家庭と仕事の両立は難しく自分には無理であると語る。どの時点でのインタビューの答えかということが問題になってもくるが、普通の家庭に対するあこがれが非常に強かった。それは、両親が離婚して母に才能をみつけられ鍛えられて自分が望まずに歌い手になったことにもよるのであろうし、オナシスを完全に信じ歌を捨てて家庭に入っても良いと思ったことにもよるのであろう。

 

  • 私は、マリア・カラス』では、マリア・カラスへのインタビューを中心に、その答えかたなどでマリア・カラスの生の魅力を引き出そうとしている。マスメディアでの写真や映像が次々とでてきて、その着こなし、一瞬一瞬の表情の多様性に驚いてしまう。これはドキュメンタリー映画『マリア・カラスの真実』でなぞが解けた。こちらのドキュメンタリーのほうが、マリア・カラスの生い立ち、母との確執、オペラ歌手としての成功、結婚、離婚、オナシスとの関係、最後のコンサートまでの一生を客観的に描いている。舞台衣装も映されて、その豪華な舞台が想像できる。

 

  • 痩せて美しい歌姫となったマリア・カラスの洋服をデザインしていたのがミラノのデザイナーでプッチー二の孫娘のビキ。太っていたころのマリアはスリッパをはいてリハーサルへ行き、ビキは「晴れ着の百姓女」とまでいっている。そこまで言えるのはいかに変身させたかという自信があってのことであるが、1957年にマリアはベストドレッサーに選ばれている。これであの着こなしの素晴らしさの仕掛け人がわかった。マリア・カラスは、洋服にいつどこで着たかラベルをつけたそうでその整理の緻密さには驚いてしまう。そして表情であるが、マリアの演技力である。マリア自身が前奏曲のときに表情で観客を引きつけるといっている。自分の歌い始めからではなくその前に引きつけるのである。

 

  • 私は・マリア・カラス』で次々と紹介されるマリア・カラスのその時々の映像の表情が、演技なのかどうかはわからないが、あらゆる表情があってそこが見どころでもあり魅力的でもある。ただ『歌に生き、恋に生き』を今回観て、その表情は演技力が過剰すぎるきらいがあり歌よりもその強烈さからこちらは引いてしまった。パリデビューは、1958年1月のローマ歌劇場で『ノルマ』第一幕で出演を中止させ怒号の幕切れとなった後の、1958年12月パリ・オペラ座公演である。これがパリデビューである。キャンセル問題から一躍マリア・カラスを再び頂点に引き上げた公演でもある。ここで成功するかどうかは重要な分岐点でもあったが大成功を収める。ただすでに声は下降線であるという人もいる。

 

  • このパリ公演『歌に生き、恋に生き』はモノクロの映像なのであるが、『私は、マリアカラス』では、カラーに直し真っ赤な衣装となっている。映画『マリア・カラスの最後の恋』では同じ衣裳がグリーンにしていてこれにはちょっと驚いた。こちらの映画はオナシスの人の利用の仕方の凄さがわかりそこが面白い。オナシスは死ぬ前に病身でありながらマリア・カラスを訪ねている。償いをしたともいえ、そういう点では最後までマリア・カラスを愛していたのか。それとも彼特有の見せ場としたのか。海運王になるくらいの人であるから、これも彼の最後の演出だったのかもしれない。当人どうしがわかればよいことである。

 

  • パリデビュー公演はテレビでも放映された。そういう意味では、マリア・カラスの演技力はオペラに馴染のない人々にとってもオペラを親しみやすくさせたことだろう。それまでのオペラが退屈なものであるという固定観念をくつがえしたのもマリア・カラスである。ただ、テレビというものが、時間をかけて舞台に完璧主義をもとめたマリア・カラスにとって仇となる。テレビの出現によるスピードはそんなに時間をかける必要はない。人気のある演目をやればよい。そのため『ノルマ』などは80回近く歌うこととなる。こうしたことにもマリア・カラスは不満を募らせていく。そうしたマリア・カラスのオペラに対する姿勢を生き返らせたのが、映画『永遠のマリア・カラス』である。

 

12月の夜の駆け足東京散策

  • 2018年(平成30年)映画館での鑑賞映画の最後は『私は、、マリア・カラス』となった。この映画上映を知り観るまでに夜の東京散策があった。12月歌舞伎座の夜の部の終焉が20時といつもより早かった。それではと、観劇一回目は、歌舞伎座から、恵比寿のガーデンプレイスのイルミネーションを見に。バカラシャンデリア。ここは何回か来ている。そこから六本木へ。六本木ヒルズから東京タワーを真ん中にしたケヤキ坂のイルミネーション。夜のほうが目的場所が見つけやすい。さらに日比谷のミッドタウンへ。日比谷にミッドタウンという建物ができ、小さなフリーの一画ができあがった。ツリーやイルミネーションが飾られていて、ツリーの光の変化を眺めてから6階の空中庭園へ。

 

  • クリスマス前なので人は少なく、透明の囲いが夜のため黒いガラスとなってテラスに飾られた灯りが映る。昼のここからの景色もみたいものである。下におりると、ツリーを上から座って眺められる空間があり、ここのほうが綺麗でゆったりできる。なるほどである。この建物にシアターフロアーができていた。(TOHOシネマズ日比谷)今までTOHOシネマズシャンテの映画館での上映映画が好きで鑑賞していたが、これからは多数の映画も見られるようになったわけである。馴染のTOHOシネマズシャンテで『私は、マリア・カラス』を上映するポスターを見つける。失敗したのはこの時フライヤーをもらっておくべきであった。上映が始まるとフライヤーは置かないのである。(TOHOシネマズ日比谷とTOHOシネマズシャンテは別建物です。)

 

  • 観劇二回目の夜の部の終焉後はさてどこにしようかと考え、新橋からゆりかもめに乗ってお台場へ行くことに。夜のゆりかもめの車窓はなかなかおつなものである。乗っている人は少なく乘り慣れているのか誰も興味をしめさない。さてどうするか。観覧車が綺麗なので観覧車のある場所へ。よくわからないが、お台場海浜公園駅で降りて観覧車をめざす。青海駅のほうが近かったようだ。通路があって多少歩いたが観覧車まで行けた。観覧車は一周16分。下がシースルーになっていて見えるゴンドラは15分待ちというので普通のゴンドラにする。東京タワーとスカイツリー、レインボーブリッジと東京ゲートブリッジの両方がみえた。

 

  • 東京ゲートブリッジはオシャレな姿をしていて名前がわからなかったのであるがアナウンスがあった。お台場の観覧車は「パレットタウン大観覧車」と名前があり日本で一番大きいのかなと思ったら葛西臨海公園にある「ダイヤと花の大観覧車」のほうが大きくさらにおおきいのが大阪にできたらしい。葛西臨海公園とお台場は水上バスもあり東京ゲートブリッジもそばに見えるようなので水上バスを利用しつつ今度体験しよう。

 

  • 三回目の『阿古屋』一幕見の時、番号つきの入場券を購入してからTOHOシネマズシャンテへ行き『私は、マリア・カラス』の入場券を購入して席を指定する。歌舞伎座へもどり番号順に並び席を確保し『阿古屋』を観て再び日比谷へ。時間があるので日比谷公園での「日比谷クリスマスマーケット」へ。

 

  • 「クリスマスマーケット」というのはドイツを中心にヨーロッパで楽しむクリスマスでクリスマスツリーではなくクリスマスピラミッドの周辺で飲食の屋台やクリスマス用の雑貨のお店が並びクリスマス気分を楽しむのである。手に同じようなマグカップを持っており、ホットドリンクは最初にマグカップ付きで購入し、その後は飲物代だけを払うシステムで、マグカップはお持ち帰りとなる。ホットワインなどもあるのでなるほどである。ビールはグラスを借りる代金を含めて購入し、グラスを返すと料金がもどってくる。イルミネーションで華やかであるが、足元が暗く少しでこぼこなので、飲食は昼間ゆっくりと何を食べようかと楽しみつつ選んで味わったほうがよさそうである。

 

  • オシャレな場所が好みの友人もいるので、そういう場所も散策してみようかと駆け足であるが回ってみた。こういうところは人が多く、結構地下鉄からの階段の上り下りなどで歩いて疲れる場所なので下調べは一人が効率的にである。お台場はお台場海浜公園駅で降りたため、りんかい線の東京テレポート駅の位置もわかった。こういう場所を散りばめつつの東京旅計画もできそうである。

 

  • イルミネーションはクリスマス時期をはずしての散策が人が少なく楽である。人がいないと盛り上がらないという人にはさみしいであろうが。人形振りではないが、人の動きをちょっと外すと味わい方も違って来る。普通じゃないのも失敗したりするが、集中度が増したり新しい発見へとつながることもある。

 

  • 箱根のポーラ美術館も制覇。期待に応えてくれた。箱根の美術館は一箇所で充実しているので、さらに欲張って二箇所として自然を楽しみつつの日帰りコースの案もできあがった。これで箱根全体の愉しみ方の予想図が出来上がる。2018年の締めとしてはまずまずである。2018年も楽しかった。2018年よ、ありがとう!

 

歌舞伎座12月『あんまと泥棒』『二人藤娘』『傾城雪吉原』

  • あんまと泥棒』が笑わせてくれた。夜の部がAプロとBプロとあって、あんまの中車さんと泥棒の松緑さんもAプロとBプロで役を交替して欲しいと書いたが、二回観ても面白かった。明治座で、中車さんと猿之助さんで観て意外にも面白さに欠けていたが、2015年(平成27年)から3年半たっている。中車さんは、あんまの秀の市が三回目なのでその人物像も相当考えて練り上げられたようである。

 

  • あんまの秀の市は、目が不自由なだけに人の声からその人の考えていることが察知できるらしく、幕開けから相手の気をそらさずにしゃべり続けである。そして時には安い揉み賃でよくもまあこき使うものだなどとぐちっている。途中で会った夜番の人に貸したお金の催促などもしておりどうやら金貸しをしているらしい。家に着くと貧しい長屋暮らしで家財道具はほとんどない。今朝貰ったおこわを食べようとするところに泥棒の権太郎が声をかける。俺は刃物を持っているのだと凄むが刃物持っていない。貯めた金を出せとおどす。

 

  • 秀の市は、とぼけて時間稼ぎをし、ふたりで焼酎を飲み始める。ところで泥棒さん日銭にするとどのくらいの稼ぎになるのかと秀の市は権太郎にたずねる。そして、そんな稼ぎで危ない橋を渡るなら真っ当に働いた方がよいと意見し始める。権太郎は泥棒のような悪行には向いていないらしく、自分の身の上ばなしをする。しかし、泥棒に入った以上手ぶらでは帰られないと押入れを探しはじめる。

 

  • 押し入れの中から位牌が出てくる。秀の市は女房の位牌で供養もしてやれないと嘆く。ウソである。権太郎は、自分が島送りの間に女房が死んでいるので自分と秀の市を重ね始める。外は次第に明るくなり長屋の住人の朝のお勤めの読経がはじまる。権太郎は夜が明けたので帰ることにする。秀の市は、誰かに逢ったら秀の市のところで夜を明かしたと言いなさいという。それじゃと権太郎は表戸から出て行く。ところが読経の声に乗せられ自分の持っている財布に手がいく。行きつ戻りつ、ついに女房の供養にと秀の市にお金を投げてやる。読経のリズムに乗っての松緑さんの動きが抜群であった。その迷いと人の好さが見事にでていた。

 

  • 秀の市は、権太郎がいなくなると、泥棒のお人よしを笑う。そして床下から小判をだしその音に酔いしれるのであった。秀の市は悪いことをしているわけではない。貸した金の利子を取り立ててこつこつと貯めているのである。ただ人をたぶらかせることには長けているのである。あんま秀の市の手の内を中車さんは、うまくころがして権太郎より一枚上手であるところを見せてくれた。だがもしこれを機に権太郎が真っ当な生き方をするとしたら、秀の市の説教もまんざら意味がないわけではない。もしかするとだまされた権太郎には幸いなこととなるかもしれない。

 

  • 二人藤娘』は、梅枝さんと児太郎さんで、その衣裳の違いからくる舞台のあでやかさはどっぷりと楽しませてくれる。しっかり者の姉を思わせる梅枝さん。甘えん坊さがちらほらの妹の児太郎さん。それぞれの人物像が踊りの中に垣間見えていた。あなたそんなに飲んで大丈夫なの。少し飲み過ぎたかな。お姉さんよろしくね。困った人ね。こちらも困ったことに唄のほうが飛んでしまうほど華やかなお二人の踊りであった。藤の精が、日本版妖精のように歌舞伎座の舞台に現れたようであった。

 

  • 傾城雪吉原(けいせいゆきのよしわら)』は玉三郎さんによる新作歌舞伎舞踏でる。こちらの踊りは雪の吉原を情景に傾城のやるせないしっとりとした作品である。初めのうちは詞も曲調も踊りもなるほどとのれたのであるが、途中から地唄舞の『雪』の世界のような求心力がもう少し欲しいなあとおもってしまった。何か物足りないまま終わってしまったような。風景と心情が重なっている踊りは、新作であるがゆえに何回か観て、観る方もその世界観になじまないとダメなのかもしれない。

 

歌舞伎座12月『幸助餅』『於染久松色読販』

  • 幸助餅』。電車の遅延で少し遅れての観劇となったが内容的には問題ないと思う。角力に入れ込んだ若旦那・幸助がすってんてんになり、妹を廓へ奉公させることになる。ところが贔屓の力士・雷(いかづち)が大関となり幸助に晴れ姿をと言われ嬉しくなって、廓から受け取った大金を祝儀だと渡してしまう。幸助は後悔し、恥を偲んでお金を返してほしいというが、雷はそれを拒む。その義憤を胸に幸助は発奮して餅屋となり幸助餅として繁盛させる。その陰には雷の後押しがあり、そのことを知って幸助は涙するのであった。定番の人情劇であるが上手く運んでくれ締めをほろりとさせた。

 

  • 欲を言うなら、幸助の松也さんが大関になった雷の中車さんに会って嬉しくなってご祝儀を渡すあたりはもう少し若旦那のどうしょうもない風情がほしかった。アホやなあ、またやってるわ!と思わせつつ、しゃあないなあと軽く受けさせる感覚がほしい。萬次郎さんが仲立ちで話の筋をたて、片岡亀蔵さんが叔父としてさとす。女房の笑三郎さんと児太郎さんが幸助の家族として支え、芸者の笑也さんが明るい話をもってくる。勧進相撲の寄付を集めに来る世話役の猿三郎さんの短い出に大阪が映る。

 

  • 於染久松色読販 お染の七役』。浅草の質見世油屋の お染(壱太郎)は丁稚の久松(壱太郎)に恋い焦がれている。久松には、死んだ父が紛失した刀とその折紙を探す仕事がある。お染の兄・多三郎(門之助)は放蕩者で芸者・小糸(壱太郎)を身請けするため折紙を番頭の善六(千次郎)に渡してしまう。善六は悪い奴で、油屋を乗っ取ろうとしている。番頭の悪巧みを聴いた丁稚の久太(鶴松)は番頭から口止め料を貰い、そのお金でフグを食べ死んで早桶の中。その棺桶はたばこ屋の土手のお六(壱太郎)の家におかれている。土手のお六はかつて仕えていた竹川(壱太郎)から刀と折紙を手に入れるために百両用意してほしいとの手紙をうけとる。竹川は久松の姉である。

 

  • 土手のお六の亭主・鬼門の喜兵衛(松緑)は、竹川、久松の父から刀と折紙を弥忠太(猿弥)から命じられ盗んだ張本人だった。喜兵衛は盗んだ刀と折紙を油屋に質入れして百両受け取っていた。その百両で弥忠太は小糸を身請けしようとしていたが、喜兵衛は使ってしまい金策の思案をしていた。そこへ、嫁菜売りの久作(中車)がたばこを買いに寄り、髪結いの亀吉(坂東亀蔵)が寄り、久作は亀吉に髪をなでつけてもらいながら、柳島妙見で油屋の番頭から額を傷つけられた話をしていく。その話を聞いた喜兵衛はゆすりをおもいつく。

 

  • 鶴屋南北さんの作品である。このゆすりは喜劇的展開を見せ失敗におわるのである。早桶に入っている死人の額を割り久作とし、さらにお六の弟であるとし、どうしてくれると油屋にねじ込むのである。油屋太郎七(権十郎)が渡したお金では少ないと百両要求する。ところが、死んだとされた久太はお灸をすえると息を吹き返すのである。丁稚の久太とわかり、ゆすりであることがばれてしまう。『新版歌祭文 野崎村』でもお灸をすえる場面があるのを思い出す。久作の娘・お光(壱太郎)もすでに柳島妙見の場で登場している。

 

  • 久松はお染との不義の罪で土蔵に閉じ込められ、お染は嘆くが継母・貞昌(壱太郎)が油屋のため清兵衛(彦三郎)と結婚してくれとさとされる。お染と久松は心中することを申し合わせる。久松は、喜兵衛がゆすりに失敗して蔵に刀を盗みに来たためあやまって殺してしまい探していた刀を持ってお染の後を追うのであるが、お染は連れ去られてしまう。そこへお光が久松を探してやってくる。久松は久作に育てられ、お光はずっと久松と一緒になることを信じていたのであるが、久松が油屋へ奉公に行ってそこの娘と恋仲であるとの噂から、ついに気が触れてしまっていた。隅田川で船頭(松也)と猿回し(梅枝)を振り切ってあてどもなく久松を追うお光。

 

  • というわけで壱太郎さんの、お染久松小糸土手のお六竹川お光貞昌、の七役である。一番魅力的で今までの壱太郎さんの役の枠を超えたのが土手のお六である。娘役は経験から難は無いであろうとおもっていた。ところがお六が無理につくったというところがなく、自然に話のながれに添って、かつて仕えた人への義理、こんな暮らしだからやることと言えば悪に決まっているが、そこは粋に格好良く決め、後はご愛嬌という変化を上手く作られていた。自分は自分の鬼門の喜兵衛の松緑さんも色男の顔にしてすっきりと決め、とんだ結果にさもありなんの引きのよさである。脇が皆さん役どころを経験済みの役者さんで、早変わりの芝居はなんのそのとその場を押さえてくれ、こちらもゆったりと早変わりと芝居を楽しませてもらった。

 

歌舞伎座12月『阿古屋』

  • 12月の歌舞伎座は『阿古屋』を梅枝さんと児太郎さんが演じるということで話題となっている。玉三郎さんの『阿古屋』と、日にちの関係からの梅枝さんの『阿古屋』の切符を購入していた。三人の役者さんの『阿古屋』を観るためには夜の部三回行かなければならないということなのである。梅枝さんを観て、玉三郎さんを観て、やはり児太郎さんも観ておきたいと一幕見となった。色々と考えさせられる舞台であり、『阿古屋』という特別視される演目が高嶺の花として奉られては『阿古屋』という芝居がさみしすぎるなとおもえた。

 

  • 玉三郎さんが三曲(お琴、三味線、胡弓)を習い始めたのが14歳の時だそうである。14代目守田勘彌さんは玉三郎さんの才能を見抜いておられたのは当然であろうが、三曲を14歳からやらせ、20歳までに女形の全てを身に着けるようにといわれたそうで驚いてしまいます。『阿古屋』を演じられるという保証は何もないわけである。『阿古屋』をやるのは、それから33年後だそうである。六代目歌右衛門さんに指導を受けたわけであるが、歌右衛門さんも芸には厳しいかたであったからそれなりの積み重ねがなければ演じることを許さなかったのではないだろうか。

 

  • 玉三郎さんは、女形の芸の途絶えることを恐れておられるようにも見受けられる。それだけ女形の芸は厳しい修練の上に成り立っていてそれを今の若い人にどう伝えていけばよいのか。一人がその芸を継承するのではなく何人かが切磋琢磨して継承していかなければ途絶えることもありえると考えられておらるのでは。急にできるものではなし、若い人にどうやる気を出してもらってその責務を感じてもらえるか。色々試みておられる。菊之助さんとの『京鹿子二人道成寺』。七之助さんとの『二人藤娘』、勘九郎さん、七之助さん、梅枝さん、児太郎さんとの『京鹿子五人道成寺』、『秋の色種』では、児太郎さんと梅枝さんに、琴と三味線を弾かせた。

 

  • それだけではない。壱太郎さんには、松竹座で『鷺娘』を指導され、『秋の色種』では琴と三味線を。今回は『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』での<お染の七役>である。七之助さんも<お染の七役>は習われている。七之助さんは、今まで勘九郎さんと公演していた特別舞踏公演を一人で主になって回られるという。よいことである。『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』より舞踊劇に構成したものを踊るらしい。演じることによって感じたものをさらに自分のものにしたいと思われているのだろう。玉三郎さんは、『於染久松色読販』を前進座の五代目河原崎國太郎さんに指導を受けられている。初演は21歳の時。

 

  • どんな素晴らしい演目も、舞台の上で花開かなくては意味がない。あれは凄い作品ですといわれて奉られて本として残っていても戯曲というものはうんともすんともいえないのである。それにしてもまさか、違う『阿古屋』を歌舞伎座で三回観させられるとはおもわなかった。玉三郎さんだからできたことなのであろう。

 

  • 『阿古屋』という作品は何回か観ているとその世界観を自分でいじくって考えられようになってくる。どうして重忠は、景清の行方を阿古屋に吐かせるため三曲を弾かせるのか。三曲を聴いた重忠の下す裁きは、阿古屋は景清の行方は知らない、である。その音曲に乱れがなかったからというのである。今回三人の阿古屋を観て、重忠は景清の恋人としての誇りを阿古屋が保つとすれば傾城としての芸であろうと考えたのではないか。芸を武士の刀に代えて曇りのない心意気をしめすなら阿古屋が形成する芸としての完成度、それを見極めればわかるはずだ。

 

  • 阿古屋はそれに気が付いたかどうかはわからない。ただ途中で分かったのではないか。梅枝さんは箏を弾きつつ「かげというも月の縁 清しというも月の縁」と景清を匂わす言葉を入れた歌をうたわれた。(児太郎さんは「かげというも」までだったので梅枝さんが歌われたかどうか揺らぐのであるが歌われたとしておく。)ここで、重忠は何の曲を歌えとは言っていないのである。その後の三味線も胡弓も弾けであって、何をではないのである。梅枝さんの胡弓は物凄く弱弱しい音色で、景清と会えない悲しさを現わしているようであった。

 

  • そのあと玉三郎さんの阿古屋を観た。何をいうかという感じの大きさと強さである。景清の相手としての傾城という立場を軽く見られてなるものかという感じである。三曲を弾くことになると、すこし重忠のやり方に戸惑いを持つが、景清の詞をいれて挑みかかるような感じである。ようするに傾城として養ってきた芸を軽く見てくれるなという感じである。ただ恐らく途中で景清のことを思い出しているのであろうがそこがどこかまでは見抜けなかった。重忠は、琴が終ると景清とのなり染めと別れを尋ねる。ここの阿古屋の語りがいいのであるが、梅枝さんと児太郎さんはまだそれぞれの味は出せない。弱い。

 

  • 三味線では、阿古屋は姿勢的にも顔をあげるのであるが、見ている方は三味線の手もとをみてしまう。三味線あたりで、阿古屋は三曲の物語と自分と景清のことを一体化して、そうか重忠は私の心が乱れれば景清の行方を知っていてまた会えると思っていると想像するのかもしれないと気が付くのではないか。そこで、胡弓ではいえいえ、もう逢う事もなく、愛も終わりなのですと胡弓独特のキー、キュッ、という切れるような音と優しい音色を奏でる。玉三郎さんの場合は胡弓はことさら力強く響いた。児太郎さんは、まだ弾くのに一生懸命であった。

 

  • 梅枝さんは、何んとか冷静に無事にこの場を切り抜けようという感じで、児太郎さんは玉三郎さんの後に観たので分が悪いが、一心不乱で阿古屋に臨む姿勢がそのまま阿古屋という傾城を描くこととなり、それぞれの阿古屋である。玉三郎さんの場合は、次第に三曲の物語性の構成をどう作り上げるかという面白さがさらに加わり、次の阿古屋に出会えるのがたのしみになった。三人の役者さんの阿古屋は、『阿古屋』という作品と対峙する楽しみを大きくしてくれた。

 

  • 重忠の彦三郎さんは、声の響きがよいがもう少し三曲の拷問の仕掛け人としての心持ちが現れてもよかったのではと思え、玉三郎さんの阿古屋の時には押され気味で小さく見えるのが面白い現象だった。松緑さんの岩永は愛嬌ある人形振りであったが胡弓の真似は、実際に弾く玉三郎さんのほうが芸が細かくなるほどと納得。六郎の坂東亀蔵さんは伝える時はしっかりと、控える時は折り目正しくであった。重忠に自由であると告げられ阿古屋は重忠に手を合わせるが、阿古屋の気持ちと無事終わってほっとしての役者の気持ちが重なって映る。そして『勧進帳』の弁慶が無事義経を逃がしホッとして花道で頭を下げる姿とも重なった。弁慶を多数の役者さんが勤めるように『阿古屋』も複数の女形さんが演じたほうが観客は違う色合いを楽しめるということである。

 

国立劇場12月『増補双級巴』

  • 通し狂言『増補双級巴(ぞうほふたつどもえ)ー石川五右衛門ー』。フライヤーには興味ひかれる言葉がたくさん並べられている。50年ぶりの上演となる「五右衛門隠家」。70年ぶり復活の「壬生村」。90年ぶり復活の「木屋町二階」。

 

  • 石川五右衛門は超有名な盗賊であるから江戸の人がほっとくわけがない。そうなると浄瑠璃、歌舞伎も舞台に乗せないわけがない。色々な五右衛門物の登場となる。今回は初代吉右衛門さんが上演したものを二代目吉右衛門さんがそれを継承し、新たに通し狂言として演じられるわけである。三世瀬川如皐(せがわじょこう)作を基本としている。

 

  • 石川五右衛門の生い立ちから、家族との関係。そこで見せる人間味あふれる五右衛門ということで、葛籠抜け(つづらぬけ)の宙乗りが夢であったとの設定である。五右衛門(吉右衛門)の夢が醒めたところが京の「木屋町二階」で、その場面で巡礼に扮した久吉(菊之助)との南禅寺山門のパロディ―である。あの豪華な「金門五山桐(きんもんごさんのきり)」が宿屋の二階と下ということであるが、何回もあの場面観させられているのでかえって新鮮で、夢と上手くつながっていた。葛籠抜けも『増補双級巴』で考案されたということである。

 

  • 芥川の場」から面白かった。お金をつくらなくてはならない百姓の次左衛門(歌六)が旅の途中の奥女中(京妙)が癪を起こし困っているのを介抱する。奥女中がお金を持参しているのを知って殺してしまう。定番であるが、奥女中は大名の子を宿していた。幕となってからオギャーと産声が響く。

 

  • 壬生村次左衛門内の場」では、芥川の場からかなり年数がたち、次左衛門は、目が不自由になっているがやはり貧乏である。赤貧である。どうしょうもなくて、娘の小冬を廓に売ることにする。小冬はけなげでひな人形さえも掛け取りに引き取らせる。借金のもとを作ったのは次左衛門の息子であるが行方不明である。その息子が帰って来る。喜ぶ小冬。父が連れてきた廓の使いの者に大金を投げて帰す息子。息子は石川五右衛門となっていた。

 

  • 次左衛門は自分の犯した罪が息子に災いしたかと怖れ、自分が五右衛門の母を殺したことを打ち明け、自分を殺し悪事から手を洗うようにさとす。五右衛門は自分が大名・大内義弘の子供であることを知って、大きな野望を抱くのである。次左衛門はこれ以上の悪事はさせぬと五右衛門を殺そうとして、目が不自由なため娘の小冬を刺してしまう。五右衛門を育てたことが次左衛門親子にとって悲しい結末となってしまうのである。小冬が父の罪も全てかぶることとなり、次左衛門は実の親のようにその後の五右衛門を心配して後を訪ねるのである。「壬生村」は罪の重なり合いの家族の悲劇を示した。歌六さんの複雑な親ごごろ。ひたすらけなげな小冬の米吉さん。自分の生い立ちをさらなる悪に増大させようとうそぶきたくらむ五右衛門の吉右衛門さん。この流れがバランスよく、しっかり見せてくれた。

 

  • 野望をいだいた五右衛門は、勅使に化けて将軍・足利義輝の館へ。ここで竹馬の友・猿之助(さるのすけ)が此下藤吉郎久吉となっており再会する。芝居などでは盗賊・石川五右衛門も話が大きくなり、秀吉の寝首をねらったということにまでなって、秀吉を久吉として登場させている。これも秀吉が百姓の出であるということが自由に登場させれる要因でもある。この「志賀郡足利別館奥御殿の場」「奥庭の場」は河内山宗俊を思わせる痛快な場でもある。

 

  • 奥御殿の場」は趣向があって、義輝(錦之助)はきんきらの御殿で傾城芙蓉(雀右衛門)をそばにはべらし遊興。そこへ御台彩の台(東蔵)が現れる。歌舞伎を観慣れない友人がよくわからなかったという場面でもある。義輝に気に入られるようにと彩の台は、芙蓉に傾城の話し方、作法の教えをこうのである。義輝はそれは面白いと、お互いの打掛けを交換させる。入れ替わらすわけである。そこへ勅使の五右衛門が現れ、御台としてその応対に出るのが芙蓉で、五右衛門は芙蓉の色香に相好を崩すというおまけがつくのである。当然お家をねらう悪玉がいて長慶(又五郎)であるが五右衛門に軽く抑えられる。

 

  • この場は、ニンにあった役者さんが揃い、居並ぶ大名たちの松江さん、歌昇さん、種之助さん、吉之丞さんたちも重さが出てきておさまり、軽く楽しめる。さらに久吉との再会である。ここは、他の五右衛門の芝居にも出てきてお馴染みである。吉右衛門さんの五右衛門と菊之助さんの久吉のコンビはセリフも明解で難はないが、役者同士の面白さまでには至らなかった。義父の次左衛門は五右衛門が心配で探し、久吉にとらえられていた。久吉は次左衛門を葛籠に入れ五右衛門につきつける。ここがややこしい駆け引きとなり、五右衛門の母の形見の笛も出てくるが詳しくは筋書でどうぞ。そこら辺をうやむやでも葛籠抜けというスペクタルな場へと飛んで楽しむのも一興である。

 

  • 五右衛門隠家の場」。五右衛門に家族がいて、母と子は生さぬ仲で継子いじめという現状であるが、実はという流れがある。五右衛門の女房・おたき(雀右衛門)は先妻の子・五郎市を事あるごとに小言を言って家から追い出す。五右衛門はそれを知っているが、おたきを家から出すと何を訴人されるか分からないので我慢してくれと五郎市に語る。そのとき胸にこたえるのは、おたきと間男のことであるとつぶやく。それを聞いた五郎一は、部屋にいるおたきの父(橘三郎)を間男と勘違いし刺してしまう。ところが刺したのはおたきのほうであった。

 

  • 瀕死のおたきの口から語られるのは、五郎市の将来に対する心配であり情愛であった。この部分見せ場なのであるが、もう少し色濃くでてもよいと思われた。継子いじめの雀右衛門さんに憎らしさがあるが、その裏返しが薄かった。雀右衛門さんがどうのというより、この場の情愛を増幅させるなんらかの演出が欲しかった。心理描写の上手い吉右衛門さんもしどころの少ない場となってしまった。訴人するのが、おたきの父である。最終場、「藤の森明神捕物の場」の立ち回りの場へと移る。

 

  • 捕物に囲まれ五郎市の名を呼ぶ五右衛門。五郎市は捕らえられ、久吉に連れられて登場する。その息子の姿をみて五右衛門は観念して縄にかかる。久吉の温情をことわり、縄打たれた五右衛門は倒れている五郎市の着物の襟首を歯でかんで立ちあがらせる。親の情愛を感じさせるしぐさである。友人は最後泣けたと言っていたがこの五右衛門のしぐさであろう。

 

  • こちらは泣けなかったのである。偶然、歌舞伎を長く観ている友人に会い聞いたところ彼女も泣けなかったと泣けた人がうらやましいと嘆いた。吉右衛門さんが情を表す役者さんなので、どうも二人とも期待が大きすぎたのではないか。やはり石川五右衛門という盗賊なので、その盗賊としての大きさを維持するとすれば、情のほうに深くというのは難しいのではの結論であった。感性が硬くなっているのかも。

 

  • 五右衛門の子分の種之助さんが、誰なのと思わせる盗賊ぶりであり、その子分たちに身ぐるみはがされる中納言の桂三さんが身分ゆえの情けなさと可笑しさを上手くだして笑いを誘っていた。何十年ぶりかの場面上演の石川五右衛門のお芝居、満足の域に達していて、新たな五右衛門物として愉しめた。時間が経つに従い先人たちの工夫をどう生かすか。工夫が多いだけにそれを整理するのも大変な作業でもありやりがいでもあろうし、観る方もその歴史を開けて舞台で見せてもらえるのであるから大きな喜びである。

 

「国立映画アーカイブ展示室」から

  • 最古の『忠臣蔵』鑑賞のあと、7階にある展示室へ。久しぶりである。目的は『生誕100年 映画美術監督 木村威夫』の展示であったが、見慣れた常設展・「日本映画の歴史」からさらっと見て行ったが、『藤原義江のふるさと』の映像で足が止まる。今回は浅草オペラなども少し知ったので以前と興味が違う。なるほどこれが「吾等(われら)のテナー」かと耳をそばだてる。1930年、溝口健二監督作品で日活第一回のトーキー映画と宣伝されている。完全なトーキーではなくサイレント部分もあったようである。

 

  • 藤原義江さんは、澤田正二郎さんが新国劇を立ち上げた時、戸山英二郎の名前で入団している。ところが、関西で田谷力三さんの歌声をきいてオペラの道に進むのである。全く音楽などやったことのない人であった。日本にオペラが誕生したのは、帝国劇場にイタリア人のローシーが招かれてオペラの指導をしたのが始まりである(1912年)。ここで清水金太郎さんなどが育つ。石井漠さんはローシーと喧嘩して山田耕筰さんのところへいくが、ローシーに指導されたバレエが後の舞踏家誕生となるのである。帝劇歌劇は経費がかさみ1916年には解散となる。

 

  • ローシーは自費で東京赤坂「ローヤル館」を設立、オペラをはじめる。ここに入ったのが三越少年音楽隊出身の田谷力三さんである。この「ローシー・オペラ」で田谷力三さんを聴いてオペラに魅了されたのが藤原義江さんなのである。ローシー・オペラ→浅草オペラ→藤原歌劇団へと進むわけである。ちなみに「ローシー・オペラ」は失敗で、1918年にローシーさんは日本を離れる。横浜港から見送ったのは田谷力三さんだけであった。

 

  • 浅草オペラの根岸歌劇団の柳田貞一さんの弟子となって・看板スター・田谷力三さんと同じ部屋にいたのが榎本健一さんである。エノケンさんはその前に、尾上松之助さんに弟子入りしようとして京都に行くが居留守を使われあきらめる。そのあと根岸歌劇団のコーラス部員となるのである。関東大震災で浅草オペラは衰退。エノケンさんは二回目のカジノ・フォーリーでやっとお客をとらえる。お金がないから道具立てはなくバックは画である。

 

  • エノケンさんバックの描かれたベンチで腰かけ弁当を食べ、胸がつかえて描かれた噴水の水を飲む。大爆笑。新しい喜劇の誕生である。エノケンさんが初めてでたトーキー映画が日本初の音楽レヴュー映画『エノケンの青春酔虎伝』である。1934年。『藤原義江のふるさと』から4年後である。監督はエノケンさんの希望で山本嘉次郎さんであった。撮影は同時録音で、二階からシャンデリアに飛びつき手がすべってコンクリートの床にたたきつけられ気を失う。気が付き立ち上がるが再び倒れて病院行きとなったがキャメラマンはしっかりまわしていたという映画である。こちらも止まらなくなるのでここでとめる。

 

  • 展示室には、アニメ『アンデルセン物語』で登場するキャラクター人形があった。これも見た記憶があるが、何のアニメか忘れていた。『アンデルセン物語』のアニメ映画を見てすぐなので親近感が違う。時々は同じ展示とわかっていてものぞいてみる必要がありそうである。

 

  • 映画美術監督・木村威夫さんの仕事も素敵である。最古の『忠臣蔵』のセットはかなり手を抜いていたので、その後の映画人がいかなる努力、工夫によってセットやロケのための設定をしたかの心意気が伝わってくる。『』(豊田四郎監督)は好きな映画で坂の場面は特に印象深い。医学生の岡田(芥川比呂志)が散歩で、高利貸しの妾であるお玉(高峰秀子)の家の前の坂道を通る無縁坂。あれはセットであった。緻密につくられた設計図に基づいて作られていたのである。

 

  • 木村威夫さんの父・小松喜代子(きよし)さんは、岡田三郎助さんに東京美術学校で教えを受けている。岡田三郎助さんは二代目左團次さんと小山内薫さんが始めた「自由劇場」の背景の仕事をしており、喜代子さんはその手伝いをしている。わが国で最初にイプセン劇を演じたのが二代目左團次さんで、森鴎外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』である。小山内薫さんはその後「築地小劇場」を創設。その頃舞台美術家として活躍していたのが伊藤熹朔さんである。木村威夫さんは、伊藤熹朔さんに師事するのである。

 

  • 『雁』以降の映画美術で資料として展示されていたのは、『或る女』『春琴物語』『黒い潮』『雑居住宅』『陽のあたる坂道』『昭和のいのち』『花と怒涛』『肉体の門』『刺青一代』『東京流れ者』『ッィゴイネルワイゼン』『ピストルオペラ』『カポネ大いに泣く』『忍ぶ川』『サンダカン八番館 望郷』『本覺坊遺文 千利休』『ZIPANG』『父と暮らせば』『夢のまにまに』『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』などである。『陽の当たる坂道』では、やっとこれという洋館を鶴見に見つけ、中はセットで坂道は別の場所と4、5か所をモンタージュでつないだということである。『ZIPANG』は、宇都宮の大谷石地下採掘場を使っていた。木村威夫さんの仕事のほんの一部である。『夢のまにまに』『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』は映画監督作品でもある。

 

  • 映画『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』(2009年)をDVDで観た。筋は有るような無いような。舞台は老人ホームで元気だが色々な事情で入居している人々と職員の様子が描かれている。主人公は学歴のない植物学者ということらしい。学歴があってもなくてもよいのだが一応話題として出てくるのである。その植物学者が黄金花をみつけてその花に惹きつけられて水死するということで映画は終わる。とらえどころがなく、美術映画監督の木村威夫さんの様々な映画の仕事を映画をみつつ思い浮かべて楽しむ方向に切り替えた。自然尊重のもの、文学的なもの、斬新なものなどその映画美術に関しては広域におよんでいる。その一つ一つを散りばめているようにおもえた。黄金花の花粉が光となって拡散しているようである。

 

  • DVDの特別映像で、京都造形芸術大学北白川派との共同作業で出来上がった作品らしいということがわかった。木村威夫監督は筋はいらないといわれている。一応基本がなければということで周囲の人が筋を考えているようだ。木村威夫監督は若者のようなアバウトさで新しい映像を求めているらしい。周囲はかなり困惑している。変更に変更を重ねていく。91歳。60歳のとき0歳になったのだから今は31歳だという。老人が登場するが31歳の感覚の映画を作るといことであろうか。老人たちが思う出すのも30代の場所ということか。筋書きがあるようで無い生のたゆたい。

 

  • 大学の学生さんが、ヒマラヤの山奥の200年生きる人の背景を発泡スチロールで一生懸命作っていて、その出来栄えに木村威夫監督が感動していた。映像に映るか映らないかわからない美術。まさしく秘するが花の仕事である。国立映画アーカイブでの映画美術監督・木村威夫さんの展示は来年の1月27日までやっている。

 

  • もう一つ映画ポスター展のフライヤーがあった。場所は「アーツ千代田3331」で営団地下鉄銀座線の末広町駅4番出口徒歩1分とある。末広町駅は初めて降りた。建物の前が練成公園で、案内板がある。『松浦武四郎住居跡』「1818年伊勢国で生まれ、日本全国を旅し見聞を広めた。その後、蝦夷に渡り、蝦夷地の豊かな原始の自然に魅せられた、アイヌの人たちとともに全6回、13年にわたり、山川草木の全てを調査した。明治になると、政府が設けた開拓使の役人となり、蝦夷地に代わる名称「北海道」を提案採用される。1888年、この地で亡くなる。」

 

  • 「アーツ千代田3331」は元練成中学校の建物である。『映画ポスター モダン都市風景の誕生』で、『浅草の灯』のポスターもあった。ポスターの数は少ないが、大きなポスターもありよく保存していたと思う。興味ひかれたのは関東大震災以後にできた映画館の写真映像である。モダンで「葵館」などは建物の表がレリーフになっている。当時の新しい感覚を取り入れ、映画館内もデザインに凝っており、ロビーの椅子や灰皿などもアートを主張している。ポスター、映画館の建物、内部と人々を誘い、スクリーンでさらに魅了させたわけである。それにしても廃校の面白い使い方である。

 

  • いわさきちひろさんも師事した岡田三郎助さんの展覧会が、箱根の「ポーラ美術館」で開催されている。(2019年3月17日まで)『岡田三郎助生誕150年記念 モダン美人誕生』。「ポーラ美術館」は一度行ってみたいと思っていたので良い機会である。計画にいれよう。

 

最古の『忠臣蔵』映画

  • 国立映画アーカイブ(元・東京国立近代美術館フィルムセンター)で現存する一番古い全通しの『忠臣蔵』(1910年、横田商会)の映画特別上映会があった。牧野省三監督で主演は尾上松之助である。三本あったものを、一番映像の綺麗な映像を基本に、無い部分を他の映像で補い、デジタル復元した最長版である。討ち入りの日に特別上映会で昼夜二回で、夜は音楽と弁士つきとなっているが、昼の部の鑑賞である。昼夜どちらも音楽と弁士付きと勘違いしていてややこしいことになったが、とにかく昼の部だけでも鑑賞できてよかった。

 

  • 音が一切無いのでその分、絵に集中できた。歌舞伎の動きである。舞台が映画になっていると思っていい。ただロケもあり、セットも幕に絵を描いただけであったりして、それも屋外で撮っているらしく風で後ろの背景絵が風にゆれているという珍現象もおこるが、最古の『忠臣蔵』としては上出来である。

 

  • 日本初の映画スター尾上松之助さんは、目玉の松ちゃんと言われただけあって眼力がすごい。歌舞伎の見得の眼なのでそうなって当然であるが、小柄な方なので意識的に演じられ印象づけられたのかもしれない。女性役も女方で美しいとはいえない。「南部坂の別れ」で、間者の腰元が連判状を盗み逃げようと応戦するのであるが、それが結構長く、男なみの争い方で笑ってしまったが、やはりチャンバラの場面はお客の要求ということなのであろう。

 

  • 松之助さんは、浅野内匠頭、大石内蔵助、清水一角の三役をやっていて、やはり松之助さんのチャンバラ場面は必要不可欠というところなのであろう清水一角ではたっぷりと立ち廻りをみせる。討ち入りが終わり引き上げる時両国橋を渡るが、役人から江戸市中は通らないでほしいとの要請であろうか引き返す場面がある。その辺は両国橋を見せ色を添えつつ史実に合わせたのであろう。

 

  • 泉岳寺の内匠頭の墓の前に、瑤泉院つきの局が現れ吉良上野介の首実検をするという場面もあり、確かに吉良内上野介に間違いない、でかした!の強調であろうか。映画は匠頭の墓前で終わりということになった。所々にコミカルさをいれつつ約90分の上映で、終了後、担当者のどのように編集しデジタル復元したかの解説があった。こうして最長版が出来上がり観やすくなったのでこれからもこの映画の公開はあるであろう。生の弁士、伴奏つきはなかなか大変と思うので、録音していただいて、録音音声つきで鑑賞させてもらえればありがたいのであるが。

 

  • 日本映画の父・牧野省三監督 Χ 日本最初の映画スター・尾上松之助」の最古の『忠臣蔵』が映像も新たに討ち入りの日に復元上映であった。

 

  • 横田商会の横田永之助さん、牧野省三監督尾上松之助さんの関係について『映画誕生物語』(内藤研著)から少しまとめて紹介する。著者・内藤研さんの母方のひいおじいさんは、活動弁士・駒田好洋さんの巡業隊に加わり好洋さんと交代で弁士をつとめた芹川政一さんで芸名を芹川望洋といわれた。後に東京シネマ商会というニュース・文化映画の制作会社を創立している。

 

  • 横田永之介さんは、23歳のときコロンブス世界大博覧会に京都府出品委員として渡米し、展示されていたX線装置(レントゲン)を持ち帰り見世物の電気ショーをはじめる。自分の骸骨がみたいと評判になる。その後、日本に初めて映画を運んできた稲畑勝太郎さんからシネマトグラフの興行をまかされ、東京で映写技師も活弁士もかね興行をし横田商会を設立して巡業にでる。その後、日露戦争関連のフィルムを購入し大当たりとなる。次に考えたのが映画製作である。お金を出して任せらる人はいないか。紹介されたのが牧野省三さんであった。

 

  • 牧野省三さんの母親は離婚して、大野屋という演芸場を経営し、義太夫の師匠もして三人の子を育て、省三さんは芸能好きの末っ子であった。母親と省三さんは、大野屋を改造し千本座を開き、芝居の上演・興行のすべてにかかわっていた。そこに横田永之助さんがやってきて、映画監督・牧野省三の誕生となった。

 

  • 牧野省三監督は1907年(明治40年)劇映画をつくりはじめる。初めてつくったのが、『本能寺合戦(ほんのうじがっせん)』で、千本座に出演していた一座をつかい、東山の真如堂の境内を本能寺にみたて撮影した。その多くは、歌舞伎の名場面、歴史上の有名場面の映画化であった。牧野省三さんは、熱心な金光教(こんこうきょう)の信者で、岡山の金光教本部に生まれたばかりの長男の名前をもらいにいった。この長男が正唯(まさただ)で芸名がマキノ正博である。このとき、生神さまが、この近所に好い役者さんがいるから探してみなさいとのお告げがあった。近くの芝居小屋にでていたのが尾上松之助一座である。

 

  • 尾上松之助さんは、武士の子として生まれるが踊りや芝居が大好きで役者になりたかった。反対の末、父は守り刀を手渡して許してくれた。旅回りの一座で修業し19才で座長となる。牧野省三監督と会うのはそれから19年目である。しかし、土の上でやる芝居は本当ではないと断る。牧野省三監督は京都西陣の自分の千本座で興行させ、一座全ての生活面の面倒を見た。尾上松之助さんは、西陣周辺の人気者になり、牧野省三監督に恩義を感じ、活動写真への出演を承諾。

 

  • 監督が松之助さんを見込んだのは、身の軽さであった。活動写真なのだからはつらつとして動く役者を求めていたのである。牧野省三監督、尾上松之助主演の最初の映画は『碁盤忠信(ごばんただのぶ)』(1909年)であった。義経の家来佐藤忠信が重い碁盤を振り回して活躍するのである。松之助さんは自分の映画をみて納得し、活動写真に力を入れることにした。牧野省三監督と尾上松之助コンビの映画は13年間で約700本つくられた。一週間に一本の割り合いである。

 

  • 「目玉の松ちゃん!」は、映画『石山軍記』(1910年)で楠七郎を演じた松之助さんが、敵の足利尊氏軍を大きな目玉でギョロリとにらみつける場面に観客が反応して思わず掛け声をかけたのである。『忠臣蔵』は『石山軍記』より同じ年でも後の作品と思われるが、映画を観てその背景設定などから如何に短時間で撮影されていたかが納得できた。人力車に何通りもの衣裳や小道具を積み込み、同じ場所で違う作品もつくっていたのである。

 

  • サイレント(無声)なので子役だったマキノ正博さんが台詞を覚えられないときは、松之助さん相手に「いろはにほへと」とやり松之助さんも「ちりぬるをわか」と答えた。シナリオが間に合わない時は口伝えであった。牧野省三監督と松之助さんコンビがのりにのっている時、東京ではあの「ジゴマ事件」がおこるのである。その同じ年・1912年、横田商会、吉沢商店、M・パテ商会、福宝堂が合併し「日活」となる。横田永之助さんは後に五代目社長となる。東京の撮影所は現代物、京都は時代劇がつくられ、牧野省三監督と尾上松之助さんコンビは看板となり、されに忍術もの『猿飛佐助』『豪傑児雷也』へと進むのである。 『ジゴマ』の大旋風

 

  • 牧野省三監督のお孫さんが、長門裕之さんと津川雅彦さん(合掌)で、お二人から譲り受けた資料なども国立映画アーカイブで保管しているとのことである。この復元『忠臣蔵』を通じて新しい事実がでてくるのかもしれない。周防正行監督最新作『カツベン!』のフライヤーがあった。活動弁士を夢見る青年が主人公だそうである。「フライヤー」。今まで映画や芝居の案内をチラシと記していた。フライヤーという言葉があるのは知っていたが広告案内のためのチラシの感覚でチラシにしていたのであるが、劇団民藝『グレイクリスマス』のパンフレットで、片岡義男さんが「フライヤーにならんでいる言葉を引用して」と書かれていて「フライヤー」のほうがいいなあと思ったのである。そこでこれからは「フライヤー」と記すことにする。