新橋演舞場『舟木一夫特別公演』

友人と暖かくなったら会いましょう、涼しくなったら会いましょうと言っているうちに一年が過ぎ、はや年末であります。今年のうちに会いましょうと、新橋演舞場での観劇となりました。

一、『華の天保六花撰 どうせ散るなら』 二、シアターコンサート

天保六花撰とは、河内山宗俊、片岡直次郎、三千歳、金子市之丞、暗闇の丑松、森田屋清蔵の六人のことらしいです。

歌舞伎では、河内山、河内山の弟分の直次郎、直次郎の情婦の三千歳、三千歳を想う市之丞、直次郎の弟分の丑松といった関係で登場しますが、今回の芝居は全くそれにこだわらず、6人が、自分たちの面白いと想う生き方をしようという無頼の徒のお話しです。筋書は市之丞が考えます。

金子市之丞(舟木一夫)、河内山宗俊(笹野高史)、片岡直次郎(丹羽貞仁)、森田屋清蔵(外山高士)、三千歳(瀬戸摩純)、丑松(林啓二)

市之丞の道場に、宗俊がある藩の家老・北村大膳(小林功)を案内してきます。「さあ、さあ、さあー」と。笹野の<ささ>と音をかけているらしいのですが、こちらは、出始めから河内山が北村大膳を案内してきてどうするの、「ばかめ!」はこの芝居にはないのであろうかと思いました。そこは齋藤雅文さんのこと、これが上手く回っていくのです。

北村大膳は松江藩の家老で、その松江藩のお殿様(真砂京之介)相手に、河内山は高僧に化けて直次郎の許嫁の腰元・おなみを助けに行くのですから。河内山は行きたくありません。河内山は市之丞にぼやく、ぼやく、超ぼやくです。すでに大膳に顔は知られていてウソが発覚する確率は高く、ウソとわかると命は無いものと思ったほうがよいのです。

河内山ぼやきつつも、知恵者の市之丞から人差し指を一本出されたり、「ご老中」とのヒントをもらうと、まあ弁の立つこと、見得まで切ってしまいます。笑ってしまいます。

笹野さんが河内山宗俊をすると聞いたら、勘三郎さんはきっと「え!」と言って面白がったことでしょう。「あなたが演るなら、私も演りますよ。その時は観に来てくださいよ。」と言われたとおもいます。

河内山は市之丞の作戦通り「ばかめ!」とのたまって花道を去ります。なるほどこうくるのかと流れの自然さに拍手です。

もうひとつ大きな人の情の流れがあります。直次郎の母(富田恵子)が、田舎からでてきます。直次郎は母に殿様になっているとウソをついており、市之丞の発案で天下の影の実力者である中野石翁(里見浩太朗)の別宅を拝借するのです。この直次郎親子と市之丞に生じる情愛。

そして、勝手に屋敷を拝借したことが石翁に知れてしまいます。筋を通す市之丞と石翁との心に通う後戻りできない人の世。家斉の死によって石翁は権力が失墜し老中水野忠邦の改革の時代で、そばに仕えていた者が忠邦の実弟で(田口守)屋敷には捕り方が。

石翁の中に自分と同じ無頼をみた市之丞は死に場所をみつけます。そして、そこには、河内山と丑松もいました。空には守田屋の上げた花火が大きな音をたてます。

最後の<どうせ散るなら>の立ち廻りは圧巻です。久しぶりに時代劇映画の実践版を楽しめました。捕り方の六尺棒の扱いに動きがあり、そろって床に倒す音もきまり、舟木さんも美しくきっちり受けを決められ殺していきます。

市之丞と石翁の場面も、時代劇の良き時代の空気が漂い、時代劇ファンにとっては、見る機会の少なくなってきた風景の生の舞台と思います。今の若い人たちの殺陣とはまた違った息があります。

笑いあり、涙あり、立ち廻りあり、豪華な舞台装置と、若い人では出せない芝居となりました。

ピンポイントで面白いこともありました。直次郎の母が、直次郎の座っている椅子を、和尚さんの座るような椅子に座ってというのですが、まさしくで、台詞細かいと思いました。京橋のギャラリーで和紙展をみてきましたので、舞台の行灯、唐紙、障子、市之丞が盃を拭く<和紙>の果たす効用などにも目がいきました。

流れる音楽にも注目です。

作・齋藤雅文/演出・金子良次/その他の出演・伊吹謙太郎、川上彌生、近藤れい子、真木一之

二、『シアターコンサート

こちらは、あっけにとられていました。どうしてこんないい声がでるのであろうかと。友人は高橋真梨子さんのファンなのですが、舟木さんの歌を聞いて、コンサートのあと「これは相当訓練しているわよ。それでなかったら、芝居のあとにあんな声出ないわよ。舟木さん歌い方変えたわね。舟木さんは音を長くつなげる歌い方で、こんな響きのある歌い方ではなかった。もともとじょずな人だけど、今の歌い方のほうがいい。」といっていました。

私は柳兼子さんの「みなさん、年を取ると歌えなくなるのではなくて、歌わなくなるんでしょ」の言葉を思い出しました。

舟木さん歌の途中でトークしてくれましたがよく覚えていません。A面とB面のとき、A面はこういう流れでいこうという指針があっての曲が多いですが、B面はそれに比べると結構その流れでないものがあって面白いものがあるとそんなことを話されていました。

コンサートも重くならずに、流れがよく声の響きを愉しませてもらっているうちに終わってしまいました。歌って芝居より儚いものですね。

友人も行きたいとは言ってくれましたが、暮れに時間をとらせて満足してもらえなかったらどうしようと案じましたが、愉しんでくれてホッとしました。私も、齋藤雅文さんの舟木さんとの三部作見れたので、一丁上りです。

友人がこんなことも言ってました。「里見さんは流石の貫禄ね。でもいつも変わらないのよね。この方、天狗にならないのよ。」言われてみるとなるほどと思いました。

かつての時代劇映画見始めると止まらなくなります。年末には厳禁です。

 

東京国立博物館『禅 心をかたちに』 映画『禅 ZEN』

11月27日に終わってしまった国立博物館での特別展の『禅 心をかたちに』へ行ったのですが、捉えどころがなくて書きようがなく気にかかっていたのです。

劇団民藝『SOETSU 韓くにの白き太陽』の登場人物、浅川巧さんの映画『道~白磁の人』(監督・高橋伴明)から高橋伴明監督の映画『禅 ZEN』が出現。勘九郎さんが勘太郎時代の映画で、今は観たくないの枠に入っていたのですが、特別展の『禅 心をかたちに』がぼやけているので見ることにしました。

宗教家の伝記映画は、命をかけて修業をし仏の教えを受けて伝導するもので、ほとんど泣かされてしまうパターンとしてわかっているので避けていたのですが、少し解りやすい形で禅を伝えて欲しいとの想いもあったのです。

特別展の『禅 心のかたち』は臨済宗とその流れをくむ黄檗宗(おうばくしゅう)で、京都の萬萬福寺へ行った時には聞きなれなかった黄檗宗がわかりました。萬福寺はJR奈良線黄檗駅から近いので行きやすいお寺で、山門も建物も中国風でお腹の大きな布袋像があって<まんぷく>と重なって親しみやすさがあります。

東博にも来られていましたが、羅怙羅尊者(らごらそんじゃ)像は、お腹のなかを手でばーっと引き裂いて見せていまして、中に仏さまの顔があり、自分のなかに仏がいるのだということを示しています。最初みたときは驚きます。この黄檗宗は江戸時代に中国から伝わっています。

禅宗が中国から伝わり広まるのは鎌倉から南北時代で京都五山といわれていますが、南禅寺はその五山の上の別格で、そういう意味でも石川五右衛門と南禅寺の山門には劇中の権威に対する思惑が含まれています。この件、かなりしつこいですが。

臨済宗での功名な祖師たちの肖像や肖像画などが多くありましたが、そのあたりはよくわかりません。書や教本などもさらさらとながめました。一応音声ガイドは借りたのですが。

禅のはじまりは<達磨(だるま)>です。インドから中国に渡来します。雪舟さんの絵には、座禅する達磨に自分の腕を切り達磨に入門を願う僧の絵がありました。国宝です。たとえ腕がなくなったとしてもという決意をあらわしているのでしょうが、白隠さんの絵のほうがユーモアがあっていいです。

白隠禅師は日本臨済宗の教えを完成させた祖といわれているんですが、殴り書きみたいに多くの禅画を描かれていて人気のあるかたです。大きな顔のみの達磨の絵。「富士大名行列図」には、<参勤交代は庶民を苦しめる浪費>と書かれてありまして、ユーモアがあるのに鋭さもあります。

臨済宗の祖は、中国唐代の臨済義玄(りんざいぎげん)で、絵によると恐ーいお顔をされています。「喝(かつ)!」と一声を発した荒っぽさもあったとか。

気に入った禅僧の肖像画は、愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)さんです。出世をのぞまず質素な生活をされたそうで、その姿絵は、右腕を挙げた手は頭頂にあてられ熊谷直実の花道での嘆きの姿ですが、直実とは違って、こまったなあ本当に絵にするのといった感じです。座っている椅子は節だらけで、下に置かれている沓はわらでできているようです。<こころをかたちに>がわかりやすい絵姿でした。

こんなのもありました。源実朝が二日酔いのとき、栄西(ようさい)が茶と「茶徳の書」を献上したという逸話があると。

源実朝を暗殺し、三浦一族に殺されてしまうのが実朝の甥の源公暁ですが、この公暁が映画『禅 ZEN』の道元の友人として出てくるのです。となるとなんとなく時代はわかるとおもいます。さて、映画のほうに移ります。

道元は禅宗のなかの曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖です。

原作が小説なので、史実のほどはわかりませんが、道元にとって、公暁はいつも心のなかにいたことがラストでわかります。流れの筋はわかりやすく流れています。道元は留学僧として中国の宋に渡ります。そこで自分が教えを受けたい師をもとめついに巡り合い悟りをひらきます。

日本にもどり自分の学んだ禅宗の布教を共に修業した僧とはじめます。さらに宋で公暁と似ていて、道元が公暁!と呼びかけた僧も日本に渡ってきてくれます。ただひたすら、座禅による修行です。そして、そのままを受け入れる修業でもあります。

布教が広まると比叡山の僧に迫害を受け、越前に移りそこでつくられたのが永平寺なのです。生活のために身を売る女との問答、時の天下人・北條時頼との問答など、勘九郎さんの道元は台詞に落ち着きと信念があって涼やかです。時頼に鎌倉に残るようにいわれますが、越前の小さな寺が自分の場所であるとしてことわります。

台詞の声を聞きつつ、勘三郎さんの響きが時々あり、そのへんで押さえておいてと思いました。勘三郎さんの響きが多くなると、動きが違ってくるような気がするのです。自分の領域を多くしておいて欲しいです。『二人椀久』も『京鹿子娘五人道成寺』もこの道元の静かな表情が基本でいいのかもしれません。

座禅の時へその前で手のひらを上にむけて両手を重ね、親指の先を接する印相は禅定印(ぜんじょういん)といい、その空間に仏さまがいるのでそうです。子供が手のひらを毬を上と下ではさむような形にしていて、「それは違いますよ」と注意されるのですが、「雨が降っていますから」といいます。そこには小さな道元がいました。

人の進む道はそれぞれの空間に生じるわけで、それぞれの修行の道です。到達点はなく、とどいたと思ったらまた進まなくてはいけないのです。

体験しましたが座禅をして無になるのは大変です。感じて考えてあちらにふらふらこちらにふらふらしているのが今はいいです。

なんとか<禅>もつたないまま終わらせられました。

監督・脚本・高橋伴明/原作・大谷哲夫(「永平の風 道元の生涯」)/音楽・宇崎竜童、中西長谷雄/出演・中村勘太郎(現勘九郎)、内田有紀、藤原竜也、テイ龍進、高良健吾、安居剣一郎、村上淳、勝村政信、鄭天庸、西村雅彦、菅田俊、哀川翔、笹野高史、高橋恵子

 

 

劇団民藝『SOETSU 韓(から)くにの白き太陽』

<SOETSU>(そうえつ)というのは、柳宗悦さんのことです。正確には<やなぎむねよし>ですが<そうえつ>と呼ばれることのほうが多いとおもいます。民藝運動に力をいれたかたで、私的には「名もなき人々のつくった生活のための工芸品の価値を高めた人」との認識で、宗悦さんの本は難しそうで読んでいません。

私が三回足を運んだ世田谷美術館の『志村ふくみ展』の志村ふくみさんは、第五回日本伝統工芸展に<秋霞>を出品して宗悦さんから破門されています。「民藝を逸脱し、個人の仕事をした」ということなんですが、友人にいわせると、二人の子供を抱えているんだもの、可能性も見極めて自由にしてあげたんじゃないのかなという意見で、破門されたことによって個人としての名前を出して突き進む道ができたということでもあります。

柳宗悦さんは『日本民藝館』を設立する前に、韓国に『朝鮮民族美術館』を設立開館させています。その時代は日韓併合の日本が朝鮮総督府をおいて朝鮮を統治している時代で、朝鮮の独立運動の三・一などが起こった時代でもあったのです。そういう時代に宗悦さんは、朝鮮の人々が日常に使われている食器や膳、中国の青磁とは違う白磁の壺などに<美>を感じてそれを残そうと行動するのです。

作者は長田育恵さんで、井上ひさしさんに師事された時期がありました。様々な人々と交流のあった宗悦さんですから全体像は難しいですが、その中でも時代的に日韓併合時代に焦点を合わせられ、この時代をよく判らない者としては、少し時代の裂けめを感じることができました。

登場人物が、柳宗悦、宗悦の妻であり声楽家の柳兼子、宗悦の書生の南宮璧(ナングンビョク)、浅川巧・浅川伯教(のりたか)兄弟、宗悦の妹・今村千枝子、総督府の役人である千枝子の夫・今村武志、宗悦と同じ学習院出身の軍人・塚田幹二郎、斎藤実総督、宗悦が朝鮮で定宿とした女将・姜明珠(カンミョンジュ)、明珠の養女やその婚約者の独立運動家などで、それぞれの思惑が交差します。

朝鮮総督府は三・一独立運動で威圧的な武断政策から、文化政策に変更します。そうしたなかで宗悦さんは周囲の協力のもと『朝鮮民族美術館』を設立して朝鮮の民藝を残そうとします。朝鮮の人からは、文化政策の懐柔的戦略の一つに過ぎないとみなされたりもしますが、残すことに意味があると開館までこぎつけるのです。

宗悦さんの奥さんである兼子さんは資金集めのため、朝鮮でコンサートを開いたりして経済的に宗悦さんを助けます。

千葉県我孫子市に『白樺文学館』があり訪れたことがあるのですが、この地は白樺派の武者小路実篤さんや志賀直哉さんも住んだところで、『白樺文学館』近くの志賀直哉邸宅跡には書斎部分が残されています。『白樺文学館』には兼子さんが使われていたピアノがあり、地階は音楽室になっていて兼子さんの歌曲が流れていました。その時購入したCD(「柳兼子 現代日本歌曲選集 第2集 日本の心を唄う」)のなかには、80歳すぎてから録音されたものもあり「みなさん、年を取ると歌えなくなるのではなくて、歌わなくなるんでしょ」といわれています。

宗悦さんが我孫子に住まわれたのは叔父の嘉納治五郎さんの勧めがあってなのです。プーチン大統領の日本人で尊敬するひとの嘉納治五郎さんが叔父さんだったとは。本通りから狭い坂道を入ったところに、宗悦さんの住まわれて三樹荘跡があり、敷地内は非公開ですが、その前にある嘉納治五郎別荘跡は緑地となっていて入れたとおもいます。

浅川巧さんは、甲府にある山梨県立美術館に行く途中で大きな映画の案内があり、韓国との友好を成した人のようで、ここの出身のひとなのだと思ってそのままにしていたのですが、芝居をみていて、このかたかなと思って調べましたらそうでした。映画『道~白磁の人』(監督・高橋伴明)。

朝鮮の山が伐採だけで、植林されないのを何とかしたいとしていて、兄の関係から宗悦さんと巡り合い、朝鮮白磁の収集に協力します。そして韓国で骨を埋めます。

日本人に好意的な宿の女将との交流などが続く中、時代の流れの中で、人の想いにも変化がおこります。そうした経験を経てその後の日本での民藝運動の柳宗悦へとつながっていくのだと暗示させられます。

宿の女将・姜明珠の最後の宗悦に対する詞が本心だったのか、子どもをかばうための言葉だったのか、それとも両方だったのかが観客の自分のなかではっきりしませんでした。

朝鮮王朝は朝鮮の人民に不当な扱いと貧困の苦しみを与えていたようですが、それを救うとしてその国の生活の美しさを壊してはならないという想いが柳宗悦さんを動かしたのでしょう。そんな宗悦を篠田三郎さんは、ひょうひょうとしながら言いたいことは主張して突き進む意志の強さをあらわしました。実在のかたははっきり見えてくるのですが、フィクションであると思われる人物は、今回は時代と異国ということもあって演じるのに苦労されたように思われました。

別々にそれぞれの生き方で芝居一本出来てしまうような登場人物をなんとか宗悦でつなげたことの大変さには敬服します。

作・長田育枝/演出・丹野郁弓/出演・柳宗悦(篠田三郎)、柳兼子(中地美佐子)、姜明珠(日色ともゑ)、浅川巧(齊藤尊史)、浅川伯教(塩田泰久)、今村武志(天津民生)、今村千枝子(石巻美香)、南宮璧(神敏将)、塚田幹二郎(竹内照夫、斉藤実(高橋征郎)etc

日本橋・三越劇場 12月18日まで

 

工藝に関してはこれでお終いかなと思っていましたら、『21世紀鷹峯フォーラム』(第二回)というのをやっています。ガイドブックを高倉健さんの追悼特別展で手にしたのですが、100の連携、300におよぶ工芸イベントがのっていて驚きです。

もちろん「日本工藝館」ものっていますが、<創設80周年特別展 柳宗悦・蒐集の軌跡>は11月で終わっています。このフォーラム、2016年10月22日~2017年1月29日までですが、無料のギャラリーもあって、日本の工藝をあらためて愉しむことができます。残念ながら終わったところもあってもう少しはやく知りたかったと思うものが沢山ありました。これは来年までつながります。

追記: 映画『道~白磁の人』(監督・高橋伴明)みました。国家間が政治的に争っている時でも、芸能、芸術、文化はひっそりと、時には凛として光り輝いているのが素晴らしいですね。知らなかったことを教えてくれる演劇、映画の力も素晴らしいです。

 

『頭痛肩こり樋口一葉』『恋ぶみ屋一葉』

樋口一葉さんの『大つごもり』のようにお金の拝借はしないで年はこせそうですが、時間はどこからか盗んできたいところです。

見なければよいのに『頭痛肩こり樋口一葉』『恋ぶみ屋一葉』の録画をみてしまったのです。やはり面白かったです。かなり時間がたった舞台ですので、現在入りの良い舞台などの比較としても面白い現象の変化がみれます。

一番見落としていて今回驚いたのは『恋ぶみ屋一葉』の脚本が齋藤雅文さんであったということです。こういう物も書かれていたのだと新しい発見でした。

録画の『頭痛肩こり樋口一葉』は1984年の「こまつ座」旗揚げ公演です。

脚本・井上ひさし/演出・木村光一/出演:一葉・香野百合子、母の多喜・渡辺美佐子、妹の邦子・白都真理、母が奉公していた旗本稲葉家のお嬢様のお鑛・上月晃、父の八丁堀同心時代の隣組の中野八重・風間舞子、幽霊の花蛍・新橋耐子

樋口家の明治23年から明治31年のお盆までの出来事としています。お盆としているのは花蛍という記憶喪失の幽霊が登場するためでもあります。あの世とこの世の世界を同じ次元としていて、そこには悲しみはありません。ここが井上ひさしさん独特の構成でもあり、樋口一葉という若くして亡くなった悲劇の女流作家を悲劇にはしないで笑いを起こして描き表わしているのです。それでいながら一葉さんが伝わってきます。

江戸から明治維新を上手く乗り越えられなかった旗本や下級武士の生活。吉原での源氏名が花蛍という幽霊の怨みがめぐりめぐって一葉をも通過して中島歌子から皇后さまにまでいたる人の気持ちの影響力。一葉の作品の登場人物と同じ生き方をしてしまう重なりぐあいなど味わいどころは一杯なのです。

旗揚げ公演ということもあってか、動きが大きく、歌も入るので、それまでの新劇の枠を超えていて、観客の笑い声が大きいのです。この飛んだり滑ったりの観客を笑わせ入場客を一杯にする今の演技術につながっています。ところが、この作品はその後、動きよりも聞かせどころに移行していきます。私が観た範ちゅうではということですが。

2000年新橋演舞場の新派公演。

演出・木村光一/出演:一葉・波野久里子、多喜・英太郎、邦子・紅貴代、稲葉鑛・水谷八重子、中野八重・長谷川稀世、花蛍・新橋耐子

2009年浅草公会堂

演出・齋藤雅文/出演:一葉・田畑智子、多喜・野川由美子、邦子・宇野なおみ、稲葉鑛・杜けあき、中野八重・大鳥れい、花蛍・池畑慎之助

新派は動きを押さえ、当たり役の新橋耐子さんの幽霊の動きを際立たせるという感じで、浅草は新橋耐子さんの当たり役に挑戦した池畑慎之助さんが、踊りの訓練をしているしなやかな動きで幽霊の動きを見せるというところが印象的でした。さらに浅草公会堂での舞台装置が、菊坂の借家の路地の階段をあらわし、菊坂の雰囲気充分でした。

1984年の時、笑い満載だったものを、その後は、一葉さんの作品と重なることが伝わるようなゆったりさをもたせていました。同じ作品で登場人物や演出、舞台装置、音楽などで違った印象を与えるものです。録画のほうは、脚本も読んでいてみたので、笑いも作品の重なる部分もたっぷり堪能でき、井上作品が当時新しい風をおこしたであろうことが十分理解できました。

浅草公会堂で井上ひさしさんをお見かけしたのが最後のお姿となりました。講演会などでのユーモアがあって深いお話も聞くことが出来なくなり時間は過ぎていきます。

恋ぶみ屋一葉』は1994年に読売演劇大賞最優秀作品賞を、杉村春子さんが大賞と最優秀女優賞を受賞されています。

作・齋藤雅文/演出・江守徹/出演:杉村春子、杉浦直樹、藤村志保、榎本孝明、寺島しのぶ、英太郎

杉村春子さんが、88歳のときです。何がそうさせるのかという激しい動きもないのに可笑しいのです。笑いつつふっと今のどこが可笑しかったのかと疑問視しているのですが、わからないのです。間なのでしょうか。弦に触れて出る音がかすかなのに微妙にその違いが苦労なくとらえさせてくれるのです。構えていなくても伝えてくれるのです。ドタバタにしなくても伝わる可笑しさ。こんな女優さんはもうでてこないでしょう。

脚本もよくて、登場人物が思いもしなかった巡り合わせとなり、そこに『シラノ・ド・ベルジュラック』のように、恋文の代筆がからんでくるのです。

尾崎紅葉の門下生である前田奈津(杉村春子)は、一葉のような女流作家を目指しますが、今はあきらめて下谷龍泉寺町で吉原の遊女などの手紙の代筆業をしています。紅葉門下の後輩である加賀見涼月(杉浦直樹)は売れっ子小説家となっていて、二人は文学の話しも通じるよい距離感の仲なのです。涼月はかつて芸者の恋人・小菊(藤村志保)との仲を、師の紅葉に裂かれてしまい、小菊は川越にお嫁にゆき若くして亡くなってしまいます。奈津と小菊は親友で、奈津は涼月とともに小菊を懐かしみます。

ところがこの小菊が生きていたのです。そしてさらに小菊の息子・草助(榎木孝明)が小説家になりたくて涼月のところの書生になっていて、息子を川越にもどすべく小菊が奈津の前にあらわれます。草助は吉原の芸者・桃太郎(寺島しのぶ)と恋仲に。実は草助は涼月との子どもだったのです。お決まりの感じですが、それがなんともいい雰囲気で話が展開していくのです。芸の力です。

奈津はかつて小菊の涼月への恋文の代筆もしていたのです。杉村春子さんと杉浦直樹さんのコンビの間のずれ具合も絶妙でした。

この公演は、最初齋藤雅文さんの別の作品で制作発表もしたあとで、どうも違うとの判断から、映画『午後の遺言状』の撮影をしていた杉村春子さんにも了承をえに行き、前売りぎりぎりで差し替えたのだそうです。

齋藤雅文さんは、関連するものを集めてオリジナルとして組み立てるのが上手い脚本家さんです。『恋ぶみ屋一葉』の題名もすっきりしています。奈津さん、一葉さんが欲しいと眺めていたという簪をもらうんのですが、フィクションの使い方も自然で、ほど良い作品としてのアクセサリーにしてしまいます。

『頭痛肩こり樋口一葉』『恋ぶみ屋一葉』で、樋口一葉さんとの<大つごもり>も早めに楽しく終わることができました。

 

 

十二月歌舞伎『寺子屋』『二人椀久』『京鹿子娘五人道成寺』

寺子屋』は、勘九郎さん、松也さん、梅枝さん、七之助さんが大役に頑張っておられるが、やはり若すぎます。こういう時代物はやはり先輩たちが空気を締めてくれるから若手も光るので、自分のしどころだけでいっぱいいっぱいであるからして、からみが面白くならず、すーっと流れてしまう感じです。

今回観ていて、大役がくるこないではなく、先輩たちの間に入って順番に教えを受けて進むということが、いかに恵まれたことであるかということが実感されました。しかしそんなことは言っていられない歌舞伎界の現状ですから、とにもかくにもこの作品の自分の原点を見つけていただきたいです。

勘九郎さんは、きちんと作品の解釈をできる人です。泣き過ぎないでください。松也さんは声の響きが良いのですが、それに甘えすぎずに工夫してください。梅枝さんは古風さがよいところですので、そのままで全体の浮わつきを押さえてください。七之助さんは泣いて松王丸に怒られたらじーっと耐えてください。

これは、私が観た『寺子屋』の先輩役者さんたちの良かった場面を勝手に思い出してピンポイントで思った感想です。そして一番肝心なことは、こうした感想を吹き飛ばす負けん気と若さを発揮していただきたいです。

勘九郎さんの他の作品ことを書かせてもらいますが、井上ひさしさんの『手鎖心中』を小幡欣治さんが脚本にした『浮かれ心中』というのがあります。兎に角世の中に注目されたい栄次郎が絵草子を書いて死後にその絵草子が世の中に認められるのですが、ラストで栄次郎は宙乗りであちらの世界へいくところで、友人の太助が栄次郎に声をかけます。 <茶番でも本気に勝てる気がしてきた。太助の名前を式亭三馬にかえてあなたの分まで書きます。> 栄次郎は答えます。<たくさん書いてくれ。絵草子の中には夢と笑いがつまっているのだから。>

勘三郎さんの栄次郎と三津五郎さんの太助の時、勘三郎さんならではの華やかで、観客は手をたたき盛り上がるしでこのラストがぴりっとした栄次郎と太助の絆がなくて、私的には不満だったのです。ところが、勘九郎さんの栄次郎と亀三郎さんの太助の時 <茶番でも本物に勝てる> の言葉が生き、栄次郎のばかばかしい生き方が無駄ではなく太助に受けつがれるのだとジーンときまして、そうだよこの作品はこうこなくてはと、すっきりしたことがあります。

勘三郎さんのときはもっと盛り上がったがという意見のかたもいましたが、たとえ勘三郎さんでも盛り上がればいいというものではなく作品の中から観客に伝えたいことがあるとしたらそれを伝えなくてはと、私は勘九郎さんに軍配をあげました。

何を言いたいかといいますと、古典でも勘九郎さんは勘三郎さんを越す時がくるということです。ということで、『寺子屋』のことを書くテンションが上がりませんでしたが、若い役者さんたち時代物も頑張ってください。

二人椀久』の勘九郎さんは動きを一つもおろそかにはしないぞという感じでした。玉三郎さんの松山との踊りにもまだゆとりがありませんでしたが、日にちが立てば、変化していくことでしょう。今回はどう変化するかを確かめにいきます。

京鹿子娘五人道成寺』は最初から、玉三郎さん、勘九郎さん、七之助さん、梅枝さん、児太郎さんの五人も白拍子花子がいるのでは、一回ではとらえきれないと二回いくことに決めていました。五人の配置はどうなるのか。最後、まさか五人が鐘に乗るわけではないであろうしと楽しみでした。

目移りはしましたが、花道二人で本舞台三人とか、それが入れ替わったり、「恋の手習い」は玉三郎さん一人で踊られてたっぷりという感じだったり、おかしかったのは、梅枝さんがひとり紫地の衣装を引き抜くと、四人の白拍子花子がさーっと登場して鈴太鼓を使うのです。白拍子花子の女子会で、そこに玉三郎さんが違和感なく加わっているのが可笑しくて、鈴太鼓の軽快さが楽しさを増してくれます。しかし、鐘に対する恨みを忘れているわけではありません。鐘の上は玉三郎さんと勘九郎さんで蛇の尾をあらわすように下に段差をつけて七之助さん、梅枝さん、児太郎さん三人が並ばれました。並んだ順番は記憶していません。

書きつつ思いました。二回目もぼーっとして楽しんで来ようと。

道成寺を観ていて一つ気にかかっていたことがやはりとおもうので書き足します。十月の新橋演舞場の『GOEMON 石川五右衛門』ですが、出雲阿国の壱太郎さんが五右衛門の愛之助さんからフラメンコを習って踊る場面があるのですが、あそこは、五右衛門から受け継ぐという意味で途中から日本の楽器をもって、阿国が歌舞伎に取り入れたとしてつなげて欲しかったと思ったのですが、今回その気持ちがよみがえりました。

そして権力者秀吉の座る場にはあの秀吉なのですからその工夫を考えてもらいたかったです。舞台装置が鉄骨のような無機質感を出していましたが、フラメンコとのコラボということなのでしょうが、芝居の中には流れがあるわけですから、筋を説明するながれとフラメンコだけでは薄すぎると思いました。

五右衛門と南禅寺の山門の場も、あれは、五右衛門が南禅寺の山門を自分を大きく見せるために盗んだともいえるんじゃないでしょうか。そこを台詞だけで聴かせる意味はなんなのか。秀吉も登場しているのに。よくこのへんもわかりませんでした。パフォーマンスに終わってしまった感じでした。

歌舞伎も次々と新しい試みがある昨今ですので、観客も整理のつかぬまま混乱気味ですので筋違いにはご容赦を。

 

十二月歌舞伎座『あらしのよるに』『吹雪峠』

三部制の一部は新作歌舞伎『あらしのよるに』です。原作がきむらゆういちさんで、絵本の「あらしのよるシリーズ七巻」のようです。歌舞伎のほうでほろりときて、絵本のほうをよんだところ、絵本のほうが一冊ごとにほろほろで図書館の児童室で、あらしのよるぽろぽろでした。

お芝居の休憩時間のとき観客のかたが「これは親子劇場とかで観せるといいよ」といわれていましたが、私もその意見に賛成です。国立劇場で歌舞伎鑑賞教室などやっていますが、もっと年令を下げた観客に歌舞伎を観てもらう演目として、もう少し短くして解説無しでやるとよいと思います。

お話の中に引き込んでいく力がある作品ですので、芝居を観る中で、歌舞伎の音楽、歌舞伎ならではの動物のしどころなどを無で受け入れてもらえると、どこかで刺激のボタンが作用して興味の広がりのきっかけとなるのではないでしょうか。全国を駆けめぐってもっと若い若い歌舞伎ファンの種をまいてほしいと思います。

今まで子どもが入り込める作品がなかったので、狼のがぶの獅童さんと山羊のめいの松也さんのがぶとめいの登場は画期的です。原作の持ち味を壊さずに歌舞伎化されました。童話などは深く考えると怖さがあるのですが、この作品も、肉食と草食の動物の友情ですから、一緒にいながらも二匹には常に葛藤があるわけです。これって現実に合わせると凄くつらいことでもあります。そこさえも上手くいかして、狼と山羊の世界のぶつかり合いや権力闘争を加えて歌舞伎様式を使い話しを広くしたのも舞台の動をつくり、がぶとめいの友情の焦点を持続させました。

絵本でみて読んだお話しが時間が過ぎてふーっと思い出すように、小さいころにみた歌舞伎をどこかで思い出し、歌舞伎を観てみようかなと思ってくれるような人生での出会いの作品として尊重すべき作品になるとおもいます。内容や細かいことは絵本を開いたときのようにそれぞれの世界観におまかせします。

二部の『吹雪峠』を観終ったかたが、『あらしのよるに』は入って行けたのに『吹雪峠』は入って行けなかったと言われていましたが、これは入っていく作品ではないでしょう。あらしの夜ではなく吹雪の夜は裏切った人間同士が出会ってしまうのですから。

吹雪の夜やっと小屋にたどり着いた夫婦はいろりに火を入れ一息ついての会話の中に一人の男の話しがでてきます。どうやらこの夫婦は、兄貴分の男を裏切った兄貴分の元妻・おえんと弟分・助蔵のようです。助蔵は兄貴分を裏切ったという気持ちがあり、自分の病気もそのことで罰が当った思っているところがあります。そんな助蔵をおえんは今を大切にしようと助蔵の気を振るい立たせます。

そんなところへ、一人の旅人が吹雪に難渋し小屋にたどり着き、おえんは自分たちもこの小屋に助けられたので快く応対します。その旅人が二人が裏切った直吉でだったのです。事情のあるもの同士がこうした場面に合った場合、人間の心理とはどう動くのであろうかという密室劇です。

いったん二人を許す直吉が、突然二人に小屋から出ていけと伝えます。そこからおえんと助蔵の命乞いがあり、おえんと助蔵はお互いに相手を口汚くののしり始めます。それを見て直吉は自分から吹雪の中に出ていくのです。この芝居役者さんによって雰囲気がちがってきます。どうも、おえんは色男で優男の助蔵に魅かれて、そんなおえんに抵抗できず間違いをおかしたようです。助蔵の松也さんとおえんの七之助さんにはそんな感じがありました。

直吉の心は。これが難しい。中車さん、台詞の見せ所ですが、心理劇で、ここでこうだからこう結論が出るというものでもありません。格好良く許したが、それは本当の心ではない、この状況がいやになってふたりに、自分の前から姿を消せということでしょう。ところが益々人間の欲が見えて来て、このシチュエーションから俺は降りるぜということのように思えました。外は吹雪です。吹雪はおさまっていないのです。

恰好の良い股旅ものではありません。心理描写は直吉にまかされています。しかし台詞で全部語られるわけではありません。直吉はおえんの本質をすでに知っていて、それでも惚れている自分をもてあましたのかもしれません。そのあたりの想像の世界は観客にゆだねられています。そういう直吉の中車さんの台詞術でした。

すまないと思いつつも自分可愛さの人間性を助蔵の松也さんとおえんの七之助さんが上手く出していました。原作は宇野信夫さん。演出に玉三郎さんの名前がありました。

 

『日本の伝統芸能展』

日本橋の「三井記念美術館」で国立劇場開場50周年記念の特別展として『日本の伝統芸能展」が開催されています。

これから先の開催予定に、2017年4月15日から『奈良西大寺展』があるのです。タイミングの良さに驚いてしまいました。「愛染明王像」も来られます。魔法の壺から魔法のジュウタンをだされて飛んでこられるのでしょうか。

いとうせいこうさんの西大寺の恋仏の文殊菩薩さまも、そしてなんと、みうらじゅんさんの恋仏の浄瑠璃寺の吉祥天さまもいらしゃいます。いとうせいこうさんとみうらじゅんさんの恋心の引力でしょうか。こちらは、その引力のおかげで再会できるのですからありがたやありがたやであります。お二人の『見仏記』を読みますと、恋する仏さまにたいする、その切なくも可笑しいお二人の様子がわかります。原文で読まないとちょっと微妙な表現を味わうことができませんので興味のある方は是非お読みください。

私が吉祥天さまにお会いした時のことはこちらにあります。お二人の発想からみると味わいの無いつまらなさの一例です。 亀山宿~関宿~奈良(4)

嬉しくて前置きがながくなりました。

本題の『日本の伝統芸能展』ですが、「雅楽」「能楽」「歌舞伎」「文楽」「演芸」「琉球芸能・民族芸能」の6つを柱としての展示ですが、基本的には「歌舞伎」が中心になってしまいました。

舞楽の陵王(りょうおう)の面がまじかに見られました。中国で武将が美し過ぎて兵士の士気があがらないため、恐ろしい仮面をかぶって戦いに挑んだという陵王にちなんだ舞楽に用いる面で目をかっと見開いて迫力があり、舞楽用ですので豪華絢爛という感じです。

小鼓の胴の部分が蒔絵になっていてその包みに<大和法華寺伝来>と墨書してあるという説明書きの<法華寺>の文字には、こちらも目をぱちっと開きました。今は三井記念美術館所蔵です。

興味ひかれたのは、阿国歌舞伎から始まる歌舞伎図屏風です。囲いの無かった舞台に能舞台を踏襲していたのが、竹矢来で周囲が覆われ、入口がねずみ口となり、三味線が加わり、やぐらも出来、京都の四条川原から江戸にも広がり「上野花見歌舞伎図屏風」(伝菱川師宣)では、中村屋のやぐらがあがり、やぐらの垂れ幕には<きょうげん 中村かんざぶろうつくし>と書かれています。この流れがわかる歌舞伎図屏風の展示でした。

このあたりから浮世絵になり絵師もはっきりしてきます。「中村座内外の図」(初代歌川国貞)定式幕が左端にまとめてつるされていて、黒御簾が下手にあり、舞台では <対面>が演じられ、五代目幸四郎の工藤、七代目團十郎の五郎、三代目菊五郎の十郎です。

役者浮世絵には初代右団次の佐倉宗吾の妻の霊の幽霊が描かれているものもありました。楽屋での役者たちの様子もあり、三代目三津五郎が所作事の振りつけを教えているところなど、役者の素顔がかいまみれます。

衣裳もあり、六代目菊五郎着用の松王丸の衣装は黒綸子(くろりんず)ですが、紫に変色していましたが、その紫も美しいというのはは品物が良いからでしょうか。今月の歌舞伎座の勘九郎さんの松王丸は銀鼠(ぎんねず)綸子の音羽系でした。七代目幸四郎着用の工藤の衣装は黒の木綿地にびっしりの錦糸の刺繍は織物のようです。琉球芸能の紅型(びんがた)の衣装の色が明るくて艶やかで、沖縄舞踏で使われる花笠の赤も綺麗でした。

なるほどなるほどと納得して楽しんで見てきました。

 

奈良十一面観音巡り(3)

法輪寺』 ここの三重塔は昭和19年(1944年)に落雷で焼失してしまい再興にさいしては、作家の幸田文さんも尽力された塔で、昭和50年(1975年)に完成したのです。幸田文さんは69歳のとき、一年ほど斑鳩に転居されてもいました。<斑鳩・いかるが>響きがいいです。

『法隆寺』『法輪寺』『法起寺』の塔は、斑鳩三塔といわれてきたのですが、30年近く二塔でした。今は不在であったのが忘れられたように再び斑鳩三塔としてとけこんでいます。

風のある日には、塔に下げられた風鐸(ふうたく)の音ををきくことができるそうで、風もなく穏やかな日でよかったと思っていましたが、それをしると風のないのが残念と勝手なものです。

十一面観音菩薩立像は、講堂に他の仏像とともにおられて、切れ長な目ははっきり開かれていて、上唇の二つの山がしっかりとわかる厚さでエキゾチックなお顔をされています。観音さまに意志などはないでしょうが、意志疎通ができそうな感じです。飛鳥時代の虚空蔵菩薩と薬師如来は、細身の飛鳥とふくよかな平安の仏像が並ばれると国の違う異国人みたいなところがあります。

大安寺』 東大寺、西大寺と並んで南大寺といわれたこともあったお寺で、南都七大寺の一つとあります。

南都七大寺 『東大寺』『大安寺』『西大寺』『興福寺』『法隆寺』『薬師寺』『元興寺』

今回『大安寺』『西大寺』を訪れて、この南都七大寺グループも制覇です。『大安寺』の特別拝観がなければ先伸ばしにしていたわけで、記憶に残るお寺さんとなります。

本堂にある十一面観音菩薩立像は、受付の人にずーっとおそば近くまで行って拝観するようにといわれ、御簾が開いているそば近くにいって座って下から見上げるようにして拝観するかたちです。お顔は穏やかですべすべとされていますが、首から下は時代の風をうけられたような木肌がみられます。そしてそれがまた体を張って守りますから安心なさいと言われているような優しさがあります。癌封じの仏様としても、信仰されていて、1月23日の癌封じのご祈祷のあと青竹の御猪口に笹酒がふるまわれるそうです。讃仰殿(さんぎょうでん・宝物殿)に七体の奈良時代の仏像が安置されていて、ボタンを押すと案内が流れ静かにゆっくりと拝観できます。

このお寺さんで、竹と銀杏と紅葉の小さな空間の秋を楽しむことが出来ました。

門を出ると、150メートル先に遺跡ありとの案内板があったので進んでいきますと、そこには七重塔が東と西にあったとされるところに盛り土してあり、『大安寺』がいかに広かったかが想像できました。

西大寺』 こちらは近鉄が通り、まわりは住宅街ですから、『大安寺』のように掘り返して位置を確認することができませんが、奈良の都の平城京には大きな敷地をもった大寺院があり、そこで学僧が勉学に励み、今でいう大学のような学問所が沢山あったのだということがわかりました。

今の感覚ですとお寺、宗教、信仰、仏像といった感覚ですが、遣唐使などが色々な仏典と同時に医術、薬学、建築学などの知識をも運んで来ていたわけで、さらにそれを教え研究していたと思われます。

「四王堂」「本堂」「愛染堂」「聚宝館」に寺宝がありますが、「聚宝館」は期間限定で期間外で観れませんでした。十一面観音菩薩立像は「四天堂」の中にあり、長谷寺式で大きな立ち姿です。もともとは京都の法勝寺にあったのですが破損してしまい、西大寺の名僧叡尊(えいそん)によって修復され「四天堂」におさめられました。西大寺は最初に作られたのが四天王というのが特徴で、今は十一面観音さまが「四天堂」のご本尊です。

近くに幼稚園があり、ちょうど園児の帰る時間で、外から観音さまに手をあわせて帰る園児がいるかとおもえば、棒切れを振り回し注意される園児もいたりして、かすかにお目を開かれた観音さまは平等にじーっと見守られているのです。

「本堂」のご本尊は釈迦如来立像で、京都の清凉寺の釈迦如来像を仏師善慶を中心にして模刻したものです。そして、いとうせいこうさんが一瞬にして恋してしまった文殊菩薩さまがあり、その侍者の善財童子は灰谷健次郎さんの『兎の目』にでてきます。

「愛染堂」には秘仏愛染明王座像があり、特別公開時ではないのでお前立てで我慢です。(公開日 1/15~2/4、10/25~11/15)仏師善円作で、名僧叡尊の座像は善春によって作られ、この像は今年国宝になったようです。善派の仏師は西大寺専属のような感じもあります。

秘仏愛染明王座像は歌舞伎とも関係がありました。

宝暦4年に愛染明王座像が江戸の回向院に出開帳されたとき、二代目團十郎さんがこの愛染明王の顔から隈取を考え『矢の根』の五郎を中村座で演じ大当たりしました。中村座では大当たりしたのでお礼に、鳥居清信に矢の根の五郎を描かせた絵馬を奉納し、その絵馬がお寺の現存しています。公開はされていません。そうしたご縁からでしょう、2013年10月31日と11月1日に海老蔵さんが奉納特別舞踊で『保名』と『お祭り』を踊られている雑誌の記事がありました。

愛染明王像は34センチと小さいですが、憤怒は激しいです。今回坐している蓮台の下にペルシアの壺のようなものがあり、お寺の方が、アラジンの魔法のランプのようなものですといわれた。いいですね。魔法のランプの上におられる愛染明王さま。

お顔が一番よく写されているのが、JR東海の<うましうるわし奈良>のポスターの愛染明王だそうで、ポスターも張ってありました。キャッチコピーがこれまた可笑しい。 「怒ったような顔して 愛だなんて」

歌舞伎座に隈取の絵葉書を売っていてその中に「矢の根」もあります。どう工夫したかの参考になります。「矢の根」と「暫」の隈取も似ていました。

そしてなんと、京都駅の八条口で、フードをかぶりサングラスにマスクの御仁とすれ違いました。何者と一瞬思いました。人はすぐには止れないモードです。そしてはたと気がつきまして振り返ったところ、そのかたフードをとられて車の中へ。海老蔵さんでした。時間とは不思議なものです。人それぞれの時間のなかで、人と人はすれ違っているのですね。

あおによし 奈良の都は咲く花の におうがごとく 今 さかりなり

 

奈良十一面観音巡り(2)

奈良十一面観音巡り(1)のほうで、興福寺・南円堂の中の無著・世親菩薩立像のことを書きましたが、そう言えば東京国立博物館に<運慶>と書かれたチラシがあったなと思って取り出してみました。出ました!なんと無著菩薩立像のお顔の写真。『2017年秋、天才仏師の傑作が東京に集結 運慶 』 来年の9月26日から11月26日ですのでずーっと先ですが、弟の世親菩薩立像も来られるでしょう。どんな並べかたをされるのかも興味があります。

『八十八面観音巡礼』は八体の十一面観音像を訪ねる旅です。

西大寺』『法華寺』『海龍王寺』『大安寺』『法輪寺』『聖林寺』『長谷寺』『室生寺』の十一面観音菩薩像です。

訪れていないのが『西大寺』『大安寺』『法輪寺』です。『大安寺』の十一面観音像が10月1日から11月30日のみ御簾が上がるということですので、この機会を逃したら来年までは御簾ごしにしか拝観できないので行くことにしたのです。

ツアー参加者のかたで、『聖林寺』『長谷寺』『室生寺』のツアーで十一面観音が気に入ってしまったと言われていましたが、その気持ちわかります。『聖林寺』は、桜井駅からバスの便が少なく観光案内のひとが丁寧に地図をかいてくれて歩きました。お会いしたかったから歩くのもなんのそのでした。その帰りに『安倍文殊院』にまわり、善財童子像に出会い、それから何年かして東京国立博物館の『国宝展』で再会できたのです。

西大寺』『大安寺』『法輪寺』をどう回るか。『西大寺』は近鉄大和西大寺駅から近く、『大安寺』は奈良駅からのバスの本数も多く問題はありません。『法輪寺』は法隆寺駅から歩いて30分。雨なら王寺駅からバスで中宮寺バス停へ、そこから歩いて15分。法隆寺駅からレンタルサイクルもあるようです。

晴れ。決まりです。

京都から奈良の法隆寺駅 (レンタルサイクル) ⇒ 法輪寺 ⇒ 法起寺 ⇒ 法隆寺駅(電車)⇒ 奈良駅(バス)⇒ 大安寺(バス)⇒ 近鉄奈良駅(電車)⇒ 近鉄大和西大寺駅(徒歩)⇒ 西大寺 (近鉄で京都へ)

昼食も入れてのほどよい計画の一日コースでした。『法起寺』にも十一面観音像があり、どういう基準で『八十八面観音巡礼』が決められているのかはわかりません。尋ねるのも忘れていました。飛鳥以来の奈良の自転車で、そうだ自転車もあるのだと再認識したのです。ただ、乗り捨て可と不可とがありますので、調べてからのほうがいいようです。法隆寺駅前のレンタル屋さんはもどってくることが条件です。

法起寺』は聖徳太子が建立された七つのお寺の一つでした。(『橘寺』『法隆寺』『中宮寺』『広隆寺』『四天王寺』『法起寺』『葛木寺』)

『葛木寺』は廃寺でありませんので、『法起寺』にきて現存する六寺を訪ねられたこととなり、別の一つのグループを完結という感じです。

ここの三重塔は日本最古で国宝であり、世界遺産に登録されています。十一面観音菩薩立像は本尊ですが、収蔵庫に安置され扉からガラス越しの拝観でしたがお顔も全体的にもふくよかな観音菩薩さまでした。

小さな池ごしから眺める三重塔は国宝であろうとなかろうとここにただ存在しているのですと奈良の斑鳩(いかるが)の静けさを際立たせていました。

一つ失敗あり。こういう田園風景の時は、三重塔を観る位置を考慮すべきでした。少し離れてあぜ道あたりから眺めることをしなかったことです。せっかくさえぎるものがないのですから。自転車で時間短縮をしながら、歩いた時の感覚を失していました。

 

奈良十一面観音巡り(1)

櫟野寺(らくやじ)の十一面観音菩薩にお会いしたら、他の十一面観音菩薩にお会いしたくなりました。タイミングよく、日帰りツアーで、奈良の『法華寺』と『海龍王寺』の秘仏十一面観音菩薩立像が御開帳で、さらに『興福寺』の北円堂が特別公開、奈良国立博物館の正倉院展も付いてと一日の行程としてはほど良い配分です。歩ける距離なので、『法華寺』からは歩いてまわるというのも気に入りました。

京都駅⇒奈良駅 ⇒ (路線バス) ⇒ 法華寺 → 海龍王寺 → 近鉄奈良駅近くで昼食 → 興福寺・北円堂 → 正倉院展 → 奈良駅⇒京都駅

自分で計画できる行程ですが、久しぶりに関西のツアーで、ツアーは楽であることを実感。奈良駅からボランテアのかたの説明付きです。お一人様が6人いて昼食の時近くに座らせてくれ、そもそも仏像好きの一人でも行きますの吾人たちなので自然に交流ができ、それぞれの見方で、顔を合わせると情報交換で楽しかったです。

正倉院展は、光明皇后(聖武天皇の后)が宝物を東大寺に献納されたので現代まで残って鑑賞することができるのですが、『法華寺』は光明皇后が創始された国分尼寺で、十一面観音菩薩は、光明皇后をモデルとされているといわれいます。お顔が人間味が強く長い右手は天衣(てんね)をつまんでいて、右足が遊び足と言われる前に一歩だされるような感じで親指が上にそらされいるのです。

『法華寺』も荒波があり、豊臣秀頼と淀君が再興され、本堂の階段の高段の擬宝珠(ぎぼし)に秀頼の名前が彫られていました。

白洲正子さんが『十一面観音巡礼』の「幻の寺」に、『法華寺』の門跡さんのことに触れていますが、この門跡さんが女優の久我美子さんの叔母さんにあたられる久我高照門跡尼でしょう。

話しがそれますが、樋口一葉さんの作品映画『にごりえ』のなかの「大つごもり」で、久我美子さんが好演でした。貧しい女中おみねがひたむきにまっすぐな生き方をしていながらどうにもならなくなり間違いを起こしますが、放蕩息子に救われ観ているほうも安堵させられました。はまり役でした。

平家物語で滝口入道との悲恋相手の横笛さんが尼となって祈った<横笛堂>もあり、これは意外な出会いでした。<国史跡 名勝庭園>は春に特別公開なので残念ながら見れませんでした。

海龍王寺』も、光明皇后が建立したといわれていますが、飛鳥時代からすでにお寺はあったとされていて、古くて自然のままにという感じのお寺で、土塀の古さがいいのです。この辺りは、光明皇后の父、藤原不比等の邸宅のあったところで、不比等の死後、光明皇后が譲りうけられたたのです。

奈良時代のもので残っているのは、五重小塔で、大きな塔を建てる敷地がなかったので、東と西の金堂に十分の一の小塔を納め、西金堂が今も残っているのです。五重小塔は均整も取れていて大変美しい姿で細部までしっかり作られています。

十一面観音菩薩は鎌倉時代のものですが、小ぶりで金泥が残っていて装身具や衣も模様などがわかるように残っています。

十一月の歌舞伎座での藤十郎さんの観音様の髪飾りにこの観音様の飾りを思い出していました。

遣唐使として無事帰って来た玄昉僧正(げんぼうそうじょう)が、暴風雨のとき海龍王経を唱えたとして聖武天皇から寺号を『海龍王寺』と定められます。今も水色のガラスの容器に納められた全国各地からの海水を供え、海龍王経を唱える法要が4月18日に行われ、平成24年(2012年)から東日本大震災の被災地の海水も供えられました。この小さなガラス瓶の中に静かにおさまっていて欲しいとただ願うばかりです。

興福寺の北円堂』も特別公開で、南円堂もあるのですが、公開日が違い、今回の参加者の中にも南円堂の公開の時にも来たと言われているかたがいました。

北円堂は藤原不比等が亡くなった菩提のために建立されたもので、1210年に復興された古い堂です。堂の中にある弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像、四天王立像は国宝で、弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像は鎌倉時代の運慶一門の作品です。

無著(むちゃく)・世親(せしん)は北インドの兄弟僧侶で、無著は老年をあらわし世親は壮年をあらわす二体の両像で、運慶は人種や時代を超えた理想的な仏教の求道者の姿を追求したのだそうですが、運慶が仏像だけではなく、人間としての仏教の求道者も制作していたのが興味深かったです。

正倉院展はレクチャーもあったのですが、2014年の66回目の時、良く知られている天平の美人図の<鳥毛立女屏風>や儀式用の赤い靴、楽器など印象的なものが多かったので、今回は少しがっかりしてしまいましたが、聖武天皇の一周忌のとき下げられた大幡(だいばん)は、きっと色鮮やかに幾つもひるがえっていたのだろうと想像できました。

奈良国立博物館から奈良駅に歩く人とバスの人別れ、歩き組でぶらぶらと歩き、京都駅で新幹線までの間一緒に食事をして、新幹線では別々の席で、ではという感じで帰路に着きましたが、爽やかな関係でいい旅でした。

そして、大和路<八十八面観音巡礼>というのがあることを知り、再び一人フリーで訪れることとなりました。