奈良 山の辺の道 (2)

『旧柳生街道』もそうであるが、この『山の辺の道』も<東海遊歩道>の一つであるらしい。東海遊歩道というのがよくわからないが、そう指定されている道が東京から繋がっているらしい。『山の辺の道』の標識は判りやすい。どちらかなと思ったところに標識がある。今までで一番判りやすい親切な道標である。そのためか、平日でも人が歩いている。皆さんこの地域の農産物を買われ、ビニール袋を下げている。季節によっては、土日、祭日などは人が多いのかもしれない。

途中駅から歩かれるかたもいて、巻向(まきむく)からと言われた方もいた。次は<長岳寺>なのであるが、時間の関係で中には入らなかった。少し心残りであったが先へ進む。大きな<崇神天皇陵>(天皇陵として最も古いもの)<景行天皇陵>(ヤマトタケルノミコトの父)を右手に眺めつつ歩く。歌舞伎襲名興行スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』で云えば、現猿之助さんがヤマトタケルで現中車さんが父の景行天皇ということになる。この辺りの歌碑の筆者が文学者や名前の知れた方々となる。中河與一さん、武者小路実篤さん、山本健吉さん、岡潔さんなど。

<桧原神社>到着。崇神天皇が天照大神を祀った社とされ、天照大神は、伊勢神宮に移されたのでここを、元伊勢とも呼ぶ。大神(おおみわ)神社の摂社で本殿はない。鳥居の間から、ラクダの背のコブような二上山に沈む夕日が見えるそうである。二上山は少し霞んでいるが鳥居の間にしっかり見えた。二上山の右側の雄岳には、悲劇の皇子である大津皇子のお墓があるという。

ここの茶店で昼食とする。にゅうめんセット、三輪そうめんである。美味しい。ご主人に、この辺りの桜の美しい場所を尋ねると、ここから5分ほどの池の辺りだという。山の辺の道から少しはづれるので、聴かなければ通り過ぎたであろう。

この井寺池にも歌碑がある。「大和は国のまほろば たたなづく青垣山ごもれる 大和し美し」 筆者は川端康成さん。歌に関して余計なひと言の二人。「あまり字は上手いとは言えないね。」そしてありました。「かぐ山は畝火(うねび)ををしと耳成(みみなし)と相あらそひき 神代よりかくなるらし いにしへもしかなれこそ うつせみつまをあらそふらしき」 筆者は東山魁夷さん。その位置から左から畝傍山、耳成山、香久山と大和三山が並び、そして二上山が並ぶ。明日香村ではこの反対に見ていたのである。お腹も満たされ自然もゆったりした気分で眺められる。そして茶店にもどる途中に、柿本人麻呂の歌碑が。「いにしへにありけん人もわが如(ごと)か 三輪の桧原にかざし折りけむ」 昔の人も、私が今するように、この三輪の桧原で髪飾りを折ったことだろうか。筆者は吉田富三さん。

所どころに<山邊道>の石標があるが、小林秀雄さんの字である。さて歩き始める。<玄賓庵(げんぴあん)>玄賓僧都の庵で、世阿弥さん作の『三輪』にも登場するそうである。この辺りから道も石畳となり雰囲気のよい小道が続く。何となく、デザートが欲しくなる気分。タイミングがよすぎる。居心地よさそうな外での椅子とテーブル。「わらび餅がいいね。」と入ってメニューを見たら、栗のアイス。柿大好きの友は栗も大好き。信州の小布施まで特別限定の栗のスィーッを食べに行っている。早朝から並ぶらしい。このお店の奥さんが丹波の出身で丹波の栗を送ってもらっているという。

これは大当たりであった。大きな栗の渋皮煮がアイスの横に。今年初めて渋皮煮に挑戦。レシピも見ずに実行。人には勧められない出来。実行力は自画自賛。しかしプロとの違いに深くカクン。来年はきちんと挑戦する予定。アイスの中にも栗が練り込まれている。陽が西に傾き始めている。満足と悠久の時間が過ぎてゆく。

美味しいもの後は、道を間違い大神(おおみわ)神社までの道を、大回りしてしまう。三輪山をご神体とする神社で、檜皮葺きの美しい拝殿である。お酒の神様も祭神としていて、全国からのお酒が奉納されている。酒屋で見られる杉玉(新酒が出来た印)は三輪山の杉で作られているそうだ。歌舞伎では、 『妹背山婦女庭訓』の<道行・三笠山御殿の場>が関係している。

さて、書き手は急ぐ。<平等寺>を通り、<金屋の石仏>二枚の泥版岩に釈迦如来像と弥勒如来像が浮き彫りにされているものが収蔵されている。<喜多美術館>を通り過ぎようとすると、友が、「佐伯祐三の絵がある。ごめん。彼の絵だけ見てもどってくる。」「この際だから急がなくていいわよ。」。彼女興奮して絵ハガキ片手にもどる。「一枚あって見たことのない絵だった。まだ所蔵があるらしい。」「絵に呼ばれたのね。展示の時連絡してくれるよう頼んだ。」「住所と名前書いて来た。」

<海柘榴市観音堂>。海柘榴市(つばいち)とは、この辺りは椿の林があったらしいい。山の辺は読み方の難しい漢字の出てくる道でもある。長谷寺へ向かう初瀬街道、飛鳥への磐余(いわよ)の道、大阪への竹ノ内街道、大阪からの舟もつく、交易市のあった場所である。観音堂は民家の間にひっそりと二つの観音様を祀っている。そして最後が初瀬川の流れをのぞむ<仏教伝来之地碑>である。

ただし、ここからJR桜井駅まで、1.5キロほどある。これが長かった。無事到達、あとは、奈良にもどっての乾杯のみ。飛び込みの友も、仕事と親の通院の介助もあり、違う日常に大満足。驚いたことに、そのお父上が池部良さんの同級生で「あいつは、本当にいいやつだった。」といわれているそうである。予定外の好きな画家の絵にも会え、良かった。

次の日、『正倉院展』も見れ、京都、東京、奈良国立博物館三館を訪れることが出来た、2014年の秋であった。

 

 

奈良 山の辺の道 (1)

奈良の『山の辺の道』も長い間のあこがれの道であった。柳生街道を歩いた時、次は山の辺にしようと旅の友と話ていたのだが、思いの外、とんとんと話が決まった。その話を聞いた仲間が一人、歩き通せないときは途中から電車かバスにするのでと参加を希望。旧東海道を一緒に歩いたこともあり、私より大丈夫である。三人での『山の辺の道』となる。JR桜井線と思ったら、JR万葉まほろば線となっている。通じる間は桜井線で押し通す。

桜井線の天理駅から桜井駅まで15.9kmである。アップダウンも無さそうだし、7時頃から歩き始めるというので、桜井駅を3時から3時半として、桜井駅から奈良駅に向かい奈良駅の一つ手前の京終(きょうばて)駅で降りて、ならまちへ向かう。私はならまちは散策済みなので、国立奈良博物館の『正倉院展』が6時までなのでそちらへ行き、二人でゆっくり散策して近鉄奈良駅前で落ち合うという計画であったが、桜井駅についたのが4時半近くであった。最初から最後まで歩くペースは変えずスローペースのほうで、昼食以外に甘味処に入ってしまったのも、時間のかかった原因でもあるが、栗のアイスは大当たりであった。という事で、一日たっぷりの『山の辺の道』であった。

天理駅から石上(いそのかみ)神宮をめざす。先ずはアーケード街の長さに驚く。それから、帰りに電車から天理駅前のイルミネーションが見えた。そうである。帰りの天理はもう陽が落ち真っ暗であった。<石上神宮>は日本最古の神社である。ただここで注目は、その中にある古い建物である。男性がその建物の床下を覗いて回っている。柱の下は、新しいコンクリートが敷かれている。何を見られていたのか。私たちもその後覗くが解らない。この古い建物は、先に出てくる、内山永久寺跡の、内山永久寺にあった、拝殿を移築したもので、国宝<出雲建雄神社拝殿>であった。国宝と知ると、ほうーと感心する三人である。

内山永久寺跡はその前にある本堂池と萱の御所跡の碑(後醍醐天皇が吉野遷幸のおり立ち寄ったとされる)が往時を偲べる自然である。まだ紅葉には早いが、池に色づき始めた木々を映す。ここは桜の名所でもあるらしく、芭蕉が、<うち山や とざましらずの花さかり>、よその人はしらないであろうが、ここは素晴らしい桜だ、とよんでいる。よそ者も知ってしまった。

このあたりから、見つかれば歌碑も目にしていく。先導の友が、パンフレットで意味を読み上げてくれる。残りの二人の解釈に疑問を投げてのことである。<月待ちて 嶺こへけりと聞くままに あわれよふかき 初雁の声>  「月の美しいよる、男女が一夜を共にし、明けがた初雁の声を聴いたのよ。」「そんなこと全然書いてない。月の出を待ってあの嶺をこえてきたんだな、この夜更けに初雁の声がしていると書いてある。」「万葉だとそんな味気ない歌じゃないんだけどなあ。」「山でさえ、恋の争いをするのにね。」それ以降、二人は歌の解釈は御法度である。

夜都伎(やとぎ)神社を過ぎると、<せんぎりや>と看板のある無人の無料休憩所&販売所。有料の飲料水、果物などもある。お茶の用意もあって、なんかお遍路さんになった気分。インスタントコーヒーを頂きつつ、新鮮な野菜や果物に嘆息。柿が大好きな友は、悔しがる。途中で食べれるからと小粒のみかんを買う。軽いからと、カラカラに干した切干大根、カリンのチップ、小豆、などをそれぞれ購入。裏では、年配の女性のかたが、柿を剥いて干し柿を作られている。友はさっそく、ここの干し柿は何月頃ですかと尋ねる。「12月です。」

紅葉はまだだが、柿の葉は赤く美しい。この辺りからが無人販売所があれば、全て覗いていく。もう一人はあまい<万願寺とうがらし>を探していて探しあてることが出来た。真っ赤な唐辛子は、飾って置きたいような赤である。リュックの空がなくて幸いかもしれない。大きければ買い出しスタイルの名演技賞となったであろう。稲刈りあとには、小さな稲ボッチが並び、木には蜜柑と柿。秋の里山満喫である。道は竹之内・萱生(かよう)環濠集落へと続く。環濠(かんごう)集落とは、南北朝の乱世のころ、自分たちの暮らしを守るため村の周囲に濠を張り巡らし自衛した集落である。

萱生集落で、柿だけ売っている家があった。その家のかたが、みかんと柿を作っていたが、今は柿だけで、この柿は特別甘いと言われ試食させてくれた。本当に甘かった。ついに柿好きの友は陥落である。そのご主人が、この山の辺の道について教えて下さった。講演会があってそこで聞いてきたのだそうである。どしてこの辺りに古墳が多いのか。古墳を造るために道が必要である。石材などもそうであるが、大きな古墳には、多くの人々が係っていたわけで、その人たちの食糧を運ぶためにも道は必要だったわけである。その道が『山の辺の道』なのだそうである。そしてこの道が出来たことによって、この辺りに沢山の古墳が作られることになったというわけである。この萱生集落のそばにも西山塚古墳がある。この先には大小様々の古墳があるから、眺めて行きなさいと教えてくださる。古いお家なので、何年位立つのですかとお尋ねすると、自分が生まれた時に建てたから80年ということである。80歳になられても、好奇心をもたれ、美味しい柿を丹精込められて作られているのである。この柿が萱生の刀根早生(とねわせ)である。

「つまらぬことを話しました。」「いえいえ大変参考になりました。有難うございます。ご馳走さまでした。」

労役という税金もあったわけであるからと、<労役>を調べたら、奈良の高取町には土佐の名前が残っていて、四国の土佐から労役で渡って来た人々の町とある。そうか、労役は、都近くの人々だけではなく、遠方の人々も都に 来ていたのである。教科書で習ったときの実感がいかに薄いかがわかる。そして、この辺りから、柿本人麻呂の歌が多くなる。

無名塾 『バリモア』

『バリモア』のポスターが、中折れ帽を被った仲代達矢さんの横顔である。素敵な横顔であるが、これは、偉大なる横顔といわれた、ジョン・バリモアを演じている仲代さんである。

ジョン・バリモアについては、『グランド・ホテル』の<男爵>を演じた役者さんで、それでしか彼は見ていない。品のある甘さで、ちょっと甘すぎるなというのが、印象であるが、一世を風靡したであろうことは想像できる。『グランド・ホテル』自体面白い映画である。ただ<男爵>があっけなく死を迎えてしまう。何があろうと、グランド・ホテルは何もなかったように次のお客様を迎えるのである。

『バリモア』は、アルコールに犯されているバリモアが、かつて成功をおさめた『リチャード三世』を演じようとして、台詞をプロンプターの力をかりつつ思い出そうとする。映画だけではなく、古典の舞台役者としても成功しているのである。ところが、出てくるのは、かつての自分と今の自分の違いである。大スターが今はその片鱗もないという、バリモアの実人生をバリモアによって、語られるという形をとっている。悲劇の大スターの話しという事になる。

ところが、悲劇ではあるが、仲代さん演じるバリモアには、メディアがよく取り上げる悲劇性はない。バリモアが自分の言葉で語りたかった彼の人生そのものがある。バリモアは、仲代さんに自分を演じてもらい、アルコールを楽しみつつ拍手喝采であろう。「そこは少し違うが、まあいい演じ方だよ。そうか、そういう風に陽気にやればよかったのかも。モンスターの観客にはそう言ってやれば良かったんだ。よく言ってくれた。酒がよりうまく感じるよ。」仲代さんのバリモアを見つつ、もう一人のバリモアの声が聞こえる。

バリモアの兄と姉のこともでてきて、『グランド・ホテル』に兄が出ているという。どの人か判らなかったので調べたら、病気で余命が少ないサラリーマン、最後の思い出に分不相応のグランド・ホテルに泊まる男である。映画は昨日見直しているので、バリモアが、兄である役者ライオネル・バリモアについての想いが納得できる。芝居好きの観客にとって見逃せない芝居である。

仲代さんは台詞を覚えられるのに相当苦労されたようであるが、芝居での仲代さんのバリモアにはそんな苦労が伝わらない。むしろゆとりがあり、楽しんでおられるようである。役者さんにとって、それはどう思われることか解らないが、モンスター観客にとっては、大変嬉しいことである。

姿を見せないプロンプターとの声だけのやりとりも、実際の舞台稽古のように息がぴったりで、シェークスピアの作品の台詞が、バリモアの人生の一断片として重なり、シェークスピアはやはり、普遍的な台詞をちりばめてたのだなあと思ったりする。もったいぶっているようで、意外とどこにでもある日常を差し示しているのかもしれない。

リチャード三世の衣装で出きたバリモアの表情が、観客がその姿を見たときのどう見たらよいのかわからない目をしているのを映しているようで可笑しかった。

虚像と実像の間のその空間を演じることは、役者にしかわからないことで、それが面白くて続けるのか、苦しくて続けるのか、その回答がないからこそ続けるのか、鶏と卵のような関係とも思われるが、モンスター観客もなぜ芝居をみるのか、出たとこ勝負である。

バリモアさんは、アジアのある国で、自分を演じてくれたある役者の名前は、酔っ払いつつも、プロンプターなしで覚えたことであろう。

作・ウィリアム・ルース/翻訳・演出・丹野郁弓/キャスト・仲代達矢(ジョン・バリモア)、松崎謙二(プロンプター)

劇場/シアタートラム

加藤健一事務所『ブロードウェイから45秒』

ニール・サイモン作であるが、名前はよく耳にするが、彼の作品は観ているようでどうも観ていなかったようである。

『ブロードウェイから45秒』。この作品の芝居に関しては、残念だがラストは書けないのである。この作家の手の内で転がされて、ラストを迎えると楽しさが十倍返しで、失敗しない作家の腕の中である。

出てくる登場人物が、超個性的。それも演劇を愛する人々の溜まり場のカフェ、喫茶店である。店には沢山の写真が貼られている。スターの写真ではない。名前を世に出すことの出来なかったスターを夢みた人々の写真である。この店の主人はスターは手を貸す必要はない。手を必要としているのは若い演劇人の卵であるとの主義で、何かとそういう人々を手助けしてきたようである。

常連客には、現役のコメディアン、現役の役者、役者をめざす娘、脚本家をめざす男、プロデュサー、芝居大好きの女性二人、そして芝居には全然関係の無い老夫婦、この店をきりもりする経営者夫婦である。これだけの登場人物の人物像を軽快で自己主張の強い台詞を捉えていくのである。笑いたいのに、笑えず振り回される。

そして、登場人物の人物像、考え方まで把握できたと思ったら、こちらは、昼は歌舞伎、夜は翻訳劇のスケジュールで疲れのためか眠気が少し起こる。そこへ、コメディアンのお兄さん登場。この兄弟の掛け合いが面白い。なんだか、ニール・サイモンにこちらの観劇状況を察知されているようである。今まで笑わなかったのを取り返すように声を出して笑ってしまう。コメディアンとしてのシリアスな話も出てくるが、全然それを理解しないお兄さん。

そして興味深かったのが、観客が芝居に出資金を出すというシステムがあるようで、もし芝居が当たれば配当金があるのであろうか。芝居好きの客が出資金を出した話をしている。その芝居の題名が気に入って出資するのである。ところが・・・

笑っているうちに、話が違う方向に展開し、そうだったのかと思っている間を外さず次の展開へとつながる。観客がこの芝居の中にに入っている心理状況を、ほくそ笑んで操作している作家、それが、ニール・サイモンである。頭を抱えて考えているのかもしれないが、ほくそ笑んでいる方が格好いい。

ただし、下手な役者さん達では、作家の意図するように観客を操作できない。操作できる役者としての技がいる。今回はそれが、そろったということである。今回はではなく、今回もであろうか。こういう騙されかたは大歓迎である。

そして、次の加藤健一事務所の公演ポスターもお店に張られていて、話がうまくそこへ繋がるのである。話せないことの多いお芝居でのお芝居の話しである。時には沈黙は金なり?

 

作・ニール・サイモン/訳・小田島恒志、小田島則子/演出・堤泰之

出演・加藤健一、石田圭祐、新井康弘、天宮良、加藤義宗、加藤忍、占部房子、田中利花、佐古真弓、山下裕子、  滝田祐介、中村たつ

場所/紀伊國屋サザンシアター

 

国立劇場歌舞伎『通し狂言 伽羅先代萩』

『通し狂言 伽羅先代萩』は国立劇場である。仙台藩の伊逹騒動を題材としている歌舞伎であるが、有名なのは山本周五郎の『樅ノ木は残った』であるが、こちらは読んでおらず、伊達騒動となると歌舞伎の『先代萩』のほうしか頭にはないのである。

藩主の足利頼兼(あしかがよりかね)が放蕩にふけり隠居させられ、その子・鶴千代が跡取りとなるが、幼いゆえ伯父や執権仁木弾正がお家乗っ取りを計り、それをさせまいと乳人の政岡が孤軍奮闘し、政岡の子、千松が鶴千代の代わりに悪人側の献上の毒入りの菓子を食べ忠儀を尽くして亡くなる。最後は、鶴千代側の家臣の訴えが認められお家安泰となるのである。

一番の見せ場は、政岡と千松親子の忠儀の場、<足利家奥殿の場>である。足利家の悪人に加担している山名宗全の妻・栄御前が、鶴千代が食が進まないとのことで、菓子をもって訪ねてくる。いつ毒をもられるか判らないので、政岡は自分が作った食事以外は鶴千代の口には一切入れさせない。しかしせっかく持参してくれた菓子を辞退辞退することは出来ない。その時、言い聞かせられていた息子の千松が毒見係りとして菓子を食し苦しみだす。悪事をばれるのを恐れ、八汐は、不届き者として千松を殺すのである。

この場の政岡は藤十郎さんで、いつものしどころと違っていた。ことの急変に政岡はすぐ、鶴千代を打掛の中に入れ守るのであるが、鶴千代を他の部屋に写し、奥殿の柱で身体を支え我が子の最後を見届けるかたちをとられた。観ていてこれは、鶴千代を守りつつ見ているよりも政岡にとっては辛さが違うように思えた。この幼き主君を守るのだという気持ちの拠りどころが薄れ母としての気持ちが出てしまうのではないか。しかし、藤十郎さんはそんなこちらの気持ちを跳ね除けるほどの、耐え方をされ、それをじっと見ていた栄御前の東蔵さんが、今殺されたのが、実は政岡の自分の子千松ではなく鶴千代君で政岡は自分たちの仲間と思い込むのである。自分の子が殺されるのを目の前にして、あんなに耐えられないとの解釈で栄御前は政岡に連判状を渡してしまう。驚く政岡。

栄御前を送った花道での政岡の心の内の推し量れないほどの深さが凄かった。そしてことの成り行きからか、藤十郎さんは懐剣の袋をきちんと被せず紐を巻き、その後皆が去り、千松と二人きりになり母の気持ちとなって千松を褒め讃え、悲しみを現すときも、その懐剣袋の乱れと紐の乱れが、母親の気持ちを表し強い印象を残した。赤の袱紗を、息絶えた千松の首にかけてやるのを、今回初めて気がついた。八汐に抉られた傷口を隠したのであろう。今更ながら見落としていることが沢山ある。今思うに政岡の着物の赤が、派手な赤ではなく、不思議にもっと落ち着いた赤に捉えていたようで、やはり、藤十郎さんの芸のなせる力であろう。

善人と悪人が判り易かった。先ず出の頼兼の梅玉さんの伽羅の下駄の足さばきには恐れ入った。あの下駄が香りの良い伽羅なのだと思って見ていたら、その足さばきに見惚れたのである。足だけが動いているわけではない。身体の使い方が、足の下駄までをも美しく見せていると言うことである。騒動の原因となった藩主は、自分の美意識をきちんと持っていた人なのかもしれないと思わせられる頼兼であった。

善人のほうは、政岡の扇雀さん(竹の間の場)。冲の井の孝太郎さん。松島の亀鶴さん。相撲取りの松江さん。男之助と渡辺外記の彌十郎さん、細川勝元の梅玉さん(二役)。

悪人は、八汐の翫雀さん、大江鬼貫の亀蔵さん、黒沢官蔵の松之助さん、忍び者の橘太郎さん、山名宗全の市蔵さん、女医者の秀調さん、仁木弾正の橋之助さん。

竹の間の扇雀さんの政岡は一歩も譲らぬつよさがあり、孝太郎さんが気持ち良いくらい八汐をやり込めて政岡を助けてくれる。松島の亀鶴さんも静かに控えているが身体が大きく、翫雀さんの八汐は三対一で、企みが裏目裏目になるのでもう少しにくにくしさと貫禄で押して欲しい。翫雀さんの頑張りどころであるが、こちらの考えている八汐とは違う八汐を考えられているのかもしれない。翫雀さんは上方歌舞伎を意識されているようで、江戸と上方がまだよく分からない。松江さんは近頃、様々な役に挑戦されている。橋之助さんの仁木弾正は、花道すっぽんからの出と引っ込みまで、不敵なかすかな笑いに悪があっていい。

政岡の連判状を盗み、そこから大詰めの対決と刀傷の場は、適材適所で、女だけの場から、男だけの場へと上手く気分を変えてくれた。若手の国生さん、虎之助さん、新悟さん、梅丸さんも行儀よく勤められた。最近とみに、脇役の役者さん達の台詞が聞きやすく、芝居の内容を知るうえで重要なので助かる。幕開きから耳を澄まして聞いていると、これからの芝居登場人物の様子や、事の成り行きなどを語ってくれているのである。これからも宜しくお願いしたい。

奈良の柳生街道(3)

2日目。滝坂の道コースである。この道は石仏を見て歩くコースである。どんな現れ方をしてくれるのかワクワクである。先ずは1日目見ることの出来なかった<円成寺>からである。思っていた以上に心地よい迎え方をしてくれる。楼門(ろうもん)と本堂を映す庭の池が、これは紅葉の頃はたまらない美しさであろうと溜息が出る。さぞ混雑するであろうと思うが、お寺の方の話しだと、駐車場がバス2台しか入らないそうである。ここは、バスの便を考えるとどうしても避けてしまい、先に他をと思ってしまう場所である。

 

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円城寺>には、 運慶の最初の作品ではないかと言われる、若き運慶作の国宝大日如来像がある。後白河法皇によって寄進されたという多宝塔(現在は三代目)に安置されていて、保護のためにガラス張りである。光の加減から、ガラスに顔を近づけ両手で光をさえぎって観るとよい。写真でしかはっきりと観れないが、均整のとれた姿で、頬がふっくらとしていて、髪の毛一本一本がわかるような彫り方である。

他の女性お二人は、神奈川の金沢八景から来られていて、金沢文庫にこの仏像がきたとき、間近から拝観されたそうである。うらやましい。このお二人から、急に滝坂の道を私たちもこれから行きたいと言われたのであるが、私たちは初めての道で、昨日も道に迷っているので、申し訳ないがご一緒出来ないとお断りする。本堂の阿弥陀如来坐像、可愛らしくて聡明な聖徳太子立像、四天王立像などを拝観し、1時間ほどここで時間を取り出発である。

さっそく石畳の道となり東海道の箱根を思い出す。迷うことなく順調に進む。広い道路から集落に出て、峠の茶屋があるが、茶屋は閉められていた。これからいよいよ石仏群の道に入るかなと思ったら、左手に無理をしないようにと言われた道の入り口にさしかかる。そこで後ろからこられた夫婦連れのかたに挨拶すると、お二人は左の道を進むという。何回か来ていてその道を歩いているということなので、同道を申し入れる。快諾してくださる。やはりアップダウンの道である。

地獄谷石窟仏>を観ることができた。以前は無かったというが、やはり保護のため柵などがあるが、石仏絵には彩色が残っている。途中ご主人が、以前来た時と道の様子が違うからと先に様子を見にいかれる。やはり初めての同道者がいるので気を使ってくださる。大丈夫のようである。盛り土されたような細い道もあり、山道である。お蔭さまで基本の柳生の道に辿りつき、<首切り地蔵>の前にでる。

 

 

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首切り地蔵>は首に亀裂が入っていて、これは石質が軟弱だからなのであるが、荒木又右衛門の試し切りとも言われている。それにしても、お地蔵様の首を試し切りとは、荒木又右衛門も剣豪ゆえの迷惑な言われ方である。荒木又右衛門も、新陰流である。そういえば、武蔵も荒木又右衛門も、12月の歌舞伎座と国立劇場の演目に関係してくる。12月の国立劇場『伊賀越道中双六』はかなり複雑な話となるようで、あぜくら会の集いで、吉右衛門さんをゲストに解説とトークショーがあった。三大仇討ちの一つ<伊賀上野の仇討ち>を題材にしている。12月は仇討ちの月のようである。

 

 

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今はこの<首切り地蔵>の場所は休憩所があり、ここで持参の昼食をとることにする。春日山の原生林の中であるが、何本か道があり、休憩所もあるため、人の通りが一番多い。食事後、ご夫婦がこのまま進みますがといわれ、再び同道させてもらう。川の流れを交叉しつつ歩き、滝坂道弥勒三尊磨崖仏(たきさかみろくさんぞんまがいぶつ)・朝日観音滝坂道弥勒立像磨崖仏(たきさかみちみろくりゅうぞうまがいぶつ)・夕日観音に逢うことができた。木々の間から朝日を浴びることから<朝日観音>、夕日に映えることから<夕日観音>と呼ばれている。

 

朝日観音

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磨崖仏

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この道を通った修験僧は何を思ってこの石仏を彫ったのであろうか。六道のどの道の煩悩に苦しんでいたのであろうか。そして、剣豪たちは、何を思いつつこの石仏の道を歩き、柳生を目指したのであろうか。石仏のその剥落のみが知っている柳生の道である。

時々振り返りつつ、柳生の石畳みの道との別れを惜しむ。

 

 

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そして、春日大社の若宮神社のそばでご夫婦とお別れする。お二人のお蔭で、2日目はスムーズに滞りなく、柳生街道を愛でることができた。そして、二人では無理と思っていた<地獄谷石窟仏>への道も歩くことができた。途中で、新薬師寺に行くならこちらですよと言われたのであるが、友人にはまたの機会にささやきの小道から志賀直哉旧宅、新薬師寺、百毫寺、ならまち、元興寺のコースを別枠で回ってもらいたと考え、春日大社、東大寺の方を勧める。

そして、二人は、次の道をお互いに想い描いていて、帰ってからすぐ、その計画は迅速に進んでいる。

 

奈良の柳生街道 (2)

柳生の里までたどり着くまで、幾つかの<六地蔵>に出会う。<六地蔵>は、六体のお地蔵様が立っていたり、一つの石に彫られていたりする。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道を生命は輪廻しつつ生き変わることを現しているらしい。 <天乃立石神社><一刀石>の森から<芳徳寺>へ向かう。

芳徳寺>は、柳生宗巌石舟斎の屋敷跡で、柳生宗矩が父の菩提寺として、沢庵和尚が開基し、宗矩の末子列堂和尚が初代住職である。史料室に、沢庵和尚、列堂和尚、宗矩の像があり、石舟斎による「新陰流兵法目録」も展示されている。

 

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このお寺の裏に柳生一族のお墓があり、そのお墓の入口にも<六地蔵>の石碑がある。墓地で柳生十兵衛のお墓を探すが無い。十兵衛は三巌(みつよし)の名もあり、後になってそれを知り、友人とお互いに<柳生三巌>ならあったような気がするとメールし合う。字の読みづらい碑もあり、読めないと軽く素通りしたら、山岡荘八さんの文学碑であった。大河ドラマ、「春の坂道」の原作を書かれている。なんともいい加減な旅人である。<芳徳寺>への違う道で、この石段から上りたかったと思う風情のある石段が見つかるが下から眺めるのみ。下りながら<正木坂道場>へ。今でも使われている。外国の方も修業に来ているらしく、私たち不思議そうな目をしていたのであろうか。「私フランス人。合気道やってます。」と言われて道場に向かわれた。

やっと昼食。要望のお粥定食に。赤米と黒米の古代米のお粥に黒米の小さなお餅が二つ入っていて香ばしい。素朴な味である。旅の時など胃も疲れているので、胃に優しいのがいい。例のフランス人の修行者が入って来られ、いっときの息抜きであろうか。茶屋を出る時、「頑張って下さい。」と声をかけると、「頑張ります。」と言われ出口まで歩いてこられ見送ってくれた。さすがフランス人。それぞれの国の習慣の違いであろう。

史跡公園となっている<旧柳生藩陣屋跡>。柳生藩は将軍の剣道指南役で家康、秀忠、家光三代に信任も厚かったが、江戸定府大名で江戸常駐のため、城はなく城下町としての発展がなかった。それだけに、柳生の里という神秘的な意味合いを含むのである。

 

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石垣の立派な<家老屋敷>は、江戸後期の家老小山田主鈴(おやまだしゅれい)の屋敷である。米相場で柳生藩財政の立て直しに貢献している。この家老屋敷は、昭和39年に作家の山岡荘八さんが購入し、ここで『春の坂道』の構想を練ったそうで、大河ドラマの写真も展示してあった。その後、奈良市に寄贈され史料館として公開している。

 

 

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柳生の里も散策し終わり、暗くならない内に予定通り奈良ゆきのバスに乘ることができた。バスの本数が少ないため、混雑時期は、奈良まで立つ場合もあると旅行雑誌にあった。時々出逢う団体さんがバス停にいないので不思議に思っていたら、先にもう一箇所バス停があって、すでに乗られていた。二つ席は空いていたのでほっとする。1日目満足。

帰って来て、映画『宮本武蔵』(原作・吉川英治/監督・内田吐夢/主演・中村錦之助)を見返す。5本のうちの三部にあたる『二刀流開眼』から見始める。武蔵が柳生石舟斎を訪ねるのである。武蔵が柳生の庄を見下ろす場面があるが、私たちが行かなかった<十兵衛杉>のある場所からなら、柳生の里が見渡せる。<十兵衛杉>は十兵衛が諸国修業の旅に出る時に植えたとされ、落雷のため枯れ、今は二代目がその横に育っている。帰りのバス停から見えたが、そこまで上る元気はなかった。武蔵は石舟斎の切った花のしゃくやくの切り口から腕の凄さを知り、是非会いたいと思うが、会う事出来なかった。しかし、その門弟たちと斬り合うかたちとなり、そのとき二刀流に開眼するというものである。そのあと、吉岡清十郎(江原真二郎)との蓮台寺野の決闘がある。

石舟斎は、現芳徳寺の位置に住んでいたことになる。石舟斎は剣人とは誰とも合わず、藩主は江戸におり留守であると門人に伝えさせるが、なるほど宗矩はずーっと留守なわけである。藩陣屋敷へも武蔵は行くが、その時の見上げた石段は、現在残っている石段の雰囲気がある。同じ風景を当てはめたのであろう。石舟斎は薄田研二さんで、この役者さんは悪役も、こういう深見のある役もこなせる不思議な方である。沢庵和尚は三国連太郎さんである。『二刀流開眼』『一乗寺の決斗』『巌流島の決斗』『般若坂の決斗』『宮本武蔵』と気ままな順番で見直したが、面白かった。『一乗寺の決斗』のカラーでありながら決斗場面はモノクロというのが、素晴らしい効果であった。

柳生の里も、なぜか、<柳生と宮本武蔵>の旗がひらめいていた。

 

奈良の柳生街道(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)