映画『ダ・ヴィンチ・コード』から映画『メリー・ポピンズ』(1)

映画『ダ・ヴィンチ・コード』のパンフレットがでてきました。捨てに捨てていますのですっきりしてきました。もっと早くにやっておけばよかった。時間が経過してしまい、テンションが上がりませんので、DVD『ダ・ヴィンチ・コードの謎』『ダ・ヴィンチ・コード・デコーデット』というのを見つけ、見てみました。

ダ・ヴィンチ・コードの謎』を見て、錯覚を起こさせられたことを思い出しました。ダ・ヴィンチさんの絵「岩窟の聖母」はパリとロンドンにと二枚ありまして、パリのルーヴル美術館のほうの絵でマリアが右腕に回している子供がヨハネですが、こちらがイエスと最初思ったのです。

よく見ると、マリアの右横の子は、下の子に手を合わせているのです。ヨハネが下のイエスに手を合わせ、左下の子は、ヨハネに対して右手で祝福をあらわしており、マリアがその子の頭上に左手をかざしているのですからイエスなのです。ヨハネのほうが位置的に高く、マリアに近いので優位に見てしまいイエスと見誤ったのです。ところが、この優位がヨハネがイエスより上であったということを表しているというのです。洗礼者ヨハネを端に発するキリスト教のもう一つの解釈があってそれを暗示しているというのです。

ロンドンのナショナル・ギャラリーほうの「岩窟の聖母」は、依頼者によって書き直されたと言われています。ヨハネに十字架を持たせ、イエスとヨハネに光輪を加え、ヨハネを指さしていた天使ガブリエルの指さす手は消されています。私が誤って見たように見られないようにはっきりさせたのでしょう。最初に描いた時、ダ・ヴィンチはヨハネがイエスよりも上の立場であるということを意識して描いたとの解釈もなりたつということです。

娼婦とされたマグダラのマリアもカトリック教会は1969年に娼婦ではなかったと従来の見解が誤りであったことを認めたとのことです。

『ダ・ヴィンチ・コードの謎』は、『ダ・ヴィンチ・コードの謎を解く』の著者であるサイモン・コックスさんが制作していて、『ダ・ヴィンチ・コード』の著者・ダン・ブラウンさんも出て次のように述べられています。

「カトリック教会は他のキリスト教義を異端と見なし排斥し続けてきた。『ダ・ヴィンチ・コード』はマグダラのマリアを<イエスの子どもたちの母>と位置づけている。この仮説は13世紀悪名高き異端審問のはるか以前に十字軍による血の粛清を引き起こした。フランス南部のカタリ派信者大虐殺である。残念ながら僕には絶対的な信念はない。でも常に探しもとめている。」

最後に「私は歴史の歪曲がどのように起きたのか、未来にどう関わるのかを書きたいと思った。」としています。

イエス中心ではなく、ヨハネ中心の時があり、それがイエスに置き換えられ、またマグダラのマリアの力をを恐れて男性優位の世界に位置づけしたということです。と、私は解釈したわけです。それにしても、ダ・ヴィンチさんは巧妙に見る者に錯覚をおこさせる手を使います。この手法が謎に謎を生んでいて、ワクワクさせるわけです。凄いプロデュースぶりです。後の世の人をこれだけ巻き込んでしまうのですから。信じるか信じないかはそれぞれの思いで映画『ダ・ヴィンチ・コード』を楽しむには参考になりました。

ダ・ヴィンチ・コードデコーデット』では、ダン・ブラウンは、次のように言っています。

「有史以来、歴史は、勝利者によって記されてきました。社会や信仰は征服し生き残った側のものです。」

<歴史は、勝利者によって記されてきました> これはトンチンカンな私でも心に沁みて納得できます。後の世に何が残るのか。残した者の勝ちです。信仰は難しいです。制服しようとしまいと信仰という行為は続いているでしょうから。信仰を権力とつなげたいと思う人が現れれば信仰ゆえにそれに従ってしまうことになるでしょうし。

研究者5人ほどが自分の説を説いていますので盛りだくさんで書きようがないのですが、「レンヌ=ル=シャトーの謎 イエスの血脈と聖杯伝説』の共著の一人であるヘンリ・リンカーンさんが、「私は区別したいと思っている。信仰の象徴のキリストと歴史上の人物イエスを。キリストの子孫の話じゃない。キリストは信仰の象徴だよ。だがイエスは人間だ。」その人間としてのイエスを研究するのは、他の歴史的研究と同じに考えて欲しいということです。信仰とは別に研究するのは自由だと思います。

『ダ・ヴィンチ・コード』では、ルーヴル美術館の館長ソニエールが殺されたことから謎ときが始まるわけですが、19世紀に実際にフランスの田舎の教会にソニエールという名前の司祭がいて、その司祭がまた謎の行動をしているのです。

若い司祭ソニエールは、南フランスのレント=シャトー村の教会に赴任して教会の修復にかかります。そのあとで、豪華な別荘を建て家政婦と住むのです。急に金使いが激しくなり、教会の修復で財宝を見つけたか、あるいは教会を揺るがすような重要秘密を握って大金を得たのではないかという説があるというのです。

こうした書物らも読み、ダン・ブラウンさんは小説構成の参考にされていることでしょう。テンションを上げつつ、他の資料からは潔く敗退し、これから見るトム・ハンクス出演のDVDを横眼で眺めつつ『ダ・ヴィンチ・コード』の映画の美術や出演俳優の他の出演作品に移りますが、ダ・ヴィンチさんが異教徒だったかどうかは別として科学者ですから、偶像イエスよりも人間イエスのほうに強い関心があったように思います。偶像化に対しては斜に構えていたと思います。

それが、天才ゆえに、色々なところに謎を残したのかもしれません。「最後の晩餐」しかりです。

『ダ・ヴィンチ・コード』が<歴史は、勝利者によって記されてきました>に一石投じたかたちとなったことは間違いないでしょう。

そうしたこととは別に、テンプル騎士団が現代の銀行のかたちを考え出したというのには驚きました。『ダ・ヴィンチ・コード』の中でティービングが言います。「ヨーロッパの貴族にとって、金塊をかかえて旅をするのは危険きわまりなかったが、テンプル教会はそれを預かって、ヨーロッパじゅうのどこのテンプル教会でも引き出せる仕組みをつくった。」「必要なのは適切な書類と、、、ちょっとした手数料だ。」そういうことを知る楽しみもこの作品にはあります。

パンフレットで、アリンガローサ司教役のアルフレッド・モリーナさんが、次のような冗談を言われています。

<妻とバケーションに行った時、ホテルのプールサイドで10人が『ダ・ヴィンチ・コード』を読んでいたんだよ(笑)。そのとき考えたのは、本に対する興味よりも、ダン・ブラウンって奴は、相当儲けてるなってことだよ(笑)>

こちらは取りかかるのが遅かったので、古本で手にいれましたので、貢献度は低いです。