映画『モリのいる場所』 『横山大観展』

  • 映画『モリのいる場所』は、画家の熊谷守一さんの94歳のときの一日を映画化したものである。この方を映像化するのは、変に誇張したり、間延びしたりで期待しつつも、まあ全てを受け入れましょうと観た。熊谷守一さんを壊すことなく描かれていて、熊谷守一さんの生活を楽しませてもらった。熊谷守一(山崎努)さんの日常をささえる秀子夫人(樹木希林)がこれまたいいのである。熊谷さんの作品との出会いは、白洲正子さんの武相荘の日本間の床の間にかけられた、「ほとけさま」と書かれた掛け軸である。文字だけで、なんの宗教心もなく手を合わせたくなる静かで暖かいオーラがあった。名前が熊谷守一とあり、書家なのであろうと思ったら画家であった。

 

  • 絵の前に立っているのであろう。じっと見つめる人がいる。誰であろう。かなり年輩であるが、画家か美術評論家かとみていると「この絵は幾つくらいの子供が画いた絵ですか。」とたずねられる。昭和天皇(林与一)である。横写しになるとそれが鮮明になる。そうなのである。子供のようであって子供ではない絵なのである。守一さんは、30年自宅から外へ出ていない。一度だけ出たことがあるがすぐ引き返してしまう。庭の樹々、花、虫、魚、アリ、石などを飽きることなく観察してお昼寝して自分の想い通りに時間を埋めている。映画の中で一つ気にかかったのはこの庭を歩くときの音楽である。少し軽快で音がきつすぎると感じた。楽しい気分を表しているのかもしれないが、個人的には違うなとここだけ思った。

 

  • 世捨て人ではなく、世の中の動きから身を引いていて、人と話す時は真摯に自分の想っていることをわかりやすく答えるのである。それが、ずばりで、楽しくて、可笑しくて、しごくもっとで、深いのである。文化勲章も「これ以上人がきて、ばあさんが疲れては困るから」と断るのである。秀子さんが、守一さんの流れに逆らわないが、守一さんが「生まれ変わったらどうする」と聞くと、「わたしはもういいです。疲れますから。」と答え、守一さんは少しがっかりしたようでもあるが「おれは、また生きたい。生きるのが好きだ。」と。このあたりが絶妙である。「あなた、学校へ行く時間ですよ。」「学校がなければいいんだが。」といって画室に入っていく。どちらに流されているのかわからなくなる。

 

  • 新聞に連載された「私の履歴書」が本になっている。『へたも絵のうち』は、とても読みやすくて明解にかかれている。そこには熊谷守一さんの平坦ではない人生があり、42歳で結婚されてからも、絵でご飯を食べれるようになったのが、57歳ころからで、ここから94歳になって穏やかな日常生活のルールが確立されたお二人の、いや特に秀子夫人の葛藤が大変であったことが想像できる。家のこと、来客、仕事のことなど、すべて秀子さんが守一さんとの間に入って上手く回らせているのである。秀子さん76歳。文化勲章より秀子さんが元気でいてくれることのほうが大事であることがわかります。家事を手伝う美恵(池谷のぶえ)ちゃんは、この熊谷家のルールにすっぽりはまっていて、それでいながら時々外の空気を吸って来るのが元気の秘訣らしい。この家に来る人は、皆、この夫婦のペースに呑み込まれてしまう。
  • 監督・脚本・沖田修一/音楽・牛尾憲輔/出演・加瀬亮、吉村界人、光石研、青木崇高、吹越満、きたろう、三上博史

 

  • 東京国立近代美術館で、『没後40年 熊谷守一 生きるよろこび』があったが、期間が長いと気を許していたら行く機会を逸してしまったので、『生誕150年 横山大観展』は早々と行った。作品を時代順に並べられると、やはり画家の挑戦していく過程がわかり、こんなことを考えながら模索していたのかと新しい発見があり、挑戦のたびに違う横山大観さんの情熱が見えて、大御所であるのに、身近に感じられる。ハレー彗星を描いた「彗星」などをみると、興味の対象を日本画に取り入れようとする革新性と自由さが感じらる。熊谷守一さんも「絵は才能ですか」と聴かれて「いや経験ですよ」と答えられている。観察して探って探って何かを探り当てていく。線であったり、色であったり、ぼかしであったり、構図であったり、主題であったり。そのどれもが、無限なのでしょう。横山大観展、もう一回観たいのだが・・・