茅ヶ崎からの歩かない旅

テレビの『英雄たちの選択』(名優誕生!九代目市川團十郎新時代に挑む)から、かつて歩いた茅ヶ崎を思い出してその旅を読み直した。

茅ヶ崎散策(1)  茅ヶ崎散策(2)

http://www.chigasaki-kankou.org/pamphlet/images/walking_map2019_a.pdf (茅ヶ崎の散策地図)

随分時間が経ってしまったものである。その時もイサム・ノグチさんの名前が出ているが、どういうわけかそれ以上にイサム・ノグチさんに興味が深まらなかった。今回はとても惹かれてしまった。イサム・ノグチさんのお母さんを主人公した映画『レオニー』(2010年・松井久子監督)も知っていたが今回は観るのがたのしみであった。

何が原因なのか。やはり新型コロナの影響なのであろうか。人種差別の問題と関係するのかもしれない。イサム・ノグチさんは、日本人の父とアイルランド系アメリカ人の母との子としてアメリカで誕生(1904年)する。その時、父の野口米次郎さん(詩人)は日本へ帰ってしまっていた。イサム・ノグチさんは芸術家となるが、その仕事は二つの祖国で揺れ動きながら、最終的には国を越えて自分の目指すものを表現する広さを獲得した。それは、お母さんのレオニーさんの生き方も大いに影響していたであろう。

ドキュメンタリー『イサム・ノグチ  紙と石』では、イサム・ノグチさんの作品がそれを取り巻く空間やそこに位置する人を包んでもっともっと広がっていくのが伝わってくる。そこに国境はない。イサム・ノグチさんは、父と母の国のどちらからも疎外されている孤独感を味わっている。そのことがかえって広がりを作ったようにおもえる。

ドキュメンタリー『イサム・ノグチ 紙と石』と映画『レオニー』からまとめてみる。

イサム・ノグチは、3歳の時母と日本へ来る。父が親子を日本へ呼んだのである。ところが米次郎は日本人の妻を持ち、レオニーは妻としては認められなかった。レオニーは米次郎から自立するため茅ヶ崎に移り住んだ。そうなのである。茅ヶ崎はレオニーさんが選んだ町なのである。

レオニーは茅ヶ崎で英語教師などをし、妹のアイリスを出産する。誰の子であるかは最後まで口を閉ざした。家も建てるのである。(映画ではアメリカの友人からお金を借りている)その時、10歳のイサムに設計を手伝わせる。

イサム13歳の時、母の意向でアメリカでの教育を受けるため単身旅立つ。入った学校は間もなく閉校となるが、助けてくれる人がいてコロンビア大学の医学部に進みことができた。母とアイリスもやっとアメリカのイサムのもとに来る。イサムは夜は美術学校の彫刻科に通い、その3か月後には初の個展を開いている。そのとき、イサム・ノグチと名乗る。幼少の頃は、野口勇とし、それからイサム・ギルモアと名乗ったようである。その後26歳の時、父からノグチの名前を名乗ることを禁じられたりもしていて、イサムと父の関係はずーっとギクシャクしたものであった。

父は父でアメリカで疎外感を味わい、レオニーと恋愛関係があっても日本女性の古さを求める男性でもあった。彼にとって、レオニーという女性は手こずる相手であった。アメリカであってもこれだけの自己を保持する強さをもった人はまれであったろう。レオニーは60歳で肺炎で亡くなっている。

第二次世界大戦でイサムは、ニューヨークに住んでいたため対象とはならなかったのであるが、アリゾナ州の日系人の収容所に志願して入所する。そこで、芸術的なことで日本とアメリカのつながりを持ちたいとするが思うようにいかず収容所から出ることとなる。

ニューヨークに戻ったイサムは、工事現場から薄い石の壁材を集めそれを磨いて組み立て、石の彫刻をはじめ、世間の注目を集めるようになる。これが石とイサム・ノグチとの作品としての出会いといえる。

戦後は、インテリアの作成にもたずさわり、彫刻などもただ眺められるものではなく、その空間に眺める人をも包みこむ広さを求めていく。そこは自分の作品が生み出す空間であった。

岐阜提灯から竹と紙が創る新しい人を包む灯りを作り出す。「紙の提灯は壊れてもまた新しい物に替えられる。私はこの概念を日本に教わった。過ぎ行くものをいつくしむ心。いずれ人生は終わり桜の花は散る。そこに残るのは芸術と命なのだ。」

イサムが創る庭園や公園、そしてそこにある彫刻はひとの命を現わしているのだろう。「庭園は彫刻のあるべき姿を表現したものだと思う。美術館に並んでいるものだけが彫刻ではない。実際に生きる人々が生活の中で経験するものだ。その空間を共有し体感するのだ。」

1986年、高松の牟礼で「黒い太陽」の制作に入る。「石と向かい合う私は決して一人ではない。彫刻の歴史、現代までの彫刻の歴史と一緒に作業しているのだ。自然、風や星、私達が生まれそして帰っていくところ。」一緒に仕事をされた和泉正敏さんはイサム・ノグチさんがこういわれていたという。「石を割り過ぎて失敗したと思っても、一年か二年するとそれが良い味わいになってくる。人間の体と同じように手とかに傷してもそれが回復する。色など美しいところもでてくるものだ。」そして「もうこの石の中に入ってもいいだろう。」と言われて少したってから亡くなられたそうである。

牟礼のアトリエと住まいは今はイサム・ノグチ庭園美術館となっている。

映画『レオニー』のエンドロールには札幌のモエレ沼公園で遊ぶ子供たちが映される。札幌の大通公園には、「ブラック・スライド・マントラ」と名付けられた黒御影石の滑り台があるという。札幌の大通公園近くに住む友人に尋ねたら、この滑り台は東京のお孫ちゃんのお気に入りだそうである。イサム・ノグチさんの想いはつながっていたのである。

映画『レオニー』は、主人公のレオニー・ギルモアを演じたのが、映画『マイ・ブックショップ』のエミリー・モーティマーだったので、観始めた時から彼女ならと落ち着いてみていられた。気丈さが過剰に誇張されずに描かれていて満足であった。野口米次郎の中村獅童さんも根底にある古い日本男子をコントロールして苦悩を抑え気味にし、レオニーとのぶつかり合いを上手く出していて、レオニーの人格を浮き彫りにした。

実際にレオニーがこれほど日本語を覚えなかったとは思えないが、下手な日本語で演技するより伝わり方が直接的であり、レオニーに対する非難も一つ一つ捉えていたら話しがそれてしまいがちなところを上手く筋道を通してくれていた。そして小泉八雲の奥さんの竹下景子さんがこれまた通訳としての良い位置にあった。レオニーさんは女として母として硬い石をコツコツと削ったり、時には割り過ぎたりしながら生きられた方である。

イサム・ノグチさんも晩年は硬い石に惹かれて玄武岩や花崗岩など削るのに時間がかかり彫刻に困難なものを選んだそうである。この母にしてこの子ありであるが、レオニーさんはイサム・ノグチの母でもあるが、レオニー・ギルモア個人として想像できないほどの意思を通した方である。

東京都美術館で『イサム・ノグチ 発見の道』2020年10月3日(土)~12月28日(月)が開催予定である。

その時には興味ひかないものが、ある日発見することもある。ドキュメンタリー『わが心の歌舞伎座』(2010年)もそれである。勘三郎さんが舞台で、いつまでやってんだろうね「さよなら歌舞伎座公演」と冗談を言われていたが、正直本当と思ったくらいである。2009年1月から2010年4月まで行われていたのである。そのため『わが心の歌舞伎座』も申し訳ないが観ようとは思わなかった。

ところがである。今回観ると惹きつけられて集中して観てしまった。役者さん達の芸に対する考え方とその芸の技の一致にまず魅了される。そして舞台裏の技の世界がこれまた知られざる積み重ねの世界なのである。もしかすると、歌舞伎舞台のできない今だからこそ、魅入ってしまったのかもしれない。好い時に観ました。

イサム・ノグチさんの言葉を勝手にあてはめてみた。「舞台と向かい合う私は決して一人ではない。先人の歴史、現代までの舞台の歴史と一緒に作業しているのだ。舞台装置、音楽や語り、私達が生まれそして帰っていくところ。」