『類』(朝井まかて著)(4)

朝井まかてさんの『』のなかでは登場しないが、森類さんや森茉莉さんの作品には永井荷風さんの名前が登場する。そのことで頭を巡らした。

半日』(明治42年、1909年、鷗外47歳、杏奴誕生、茉莉6歳))、『妄想』(明治44年、1911年、鷗外49歳、類誕生)。その間の明治43年に志げ夫人の『あだ花』が出版され、鷗外さんは慶應大学文学部文学科の顧問となり永井荷風さんを教授に推挙したのである。

鷗外さんが亡くなったのが大正11年(1922年)、60歳であった。茉莉さんは杏奴さんが生まれるまでの7年が両親を独り占めし、15歳で結婚。パリにいる夫の元に兄の於菟さんと旅立ったので父の死には立ち会えなかった。杏奴さんが12歳、類さんが10歳であるからその年齢によって父に対する想いはそれぞれに違っていたこととおもわれる。

母の亡きあと茉莉さんと類さんは二人で一緒に暮らしている。志げ夫人の看病には二人に任せておくことが出来ないと出産前の小堀杏奴さんは頑張られた。茉莉さんと類さんはそれぞれの生活を犯すことなく行動するが、寄席や映画館などで顔を合わせ、お互いの感想などを打てば響く感じで交信しあった。茉莉さんは結婚したあとも出かけると銀座、上野、浅草と時間を忘れて行動している。そして浅草大好きであった。ただこれは戦前の浅草のようであるが。

森茉莉さんのエッセイ集『父の帽子』の中の『街の故郷』で故郷いえば生まれた千駄木附近になるがもう一つ第二の故郷があるとしている。「それは昭和10年頃の「浅草」と下谷神吉町にあったアパルトマンである。」部屋でごろごろして文章を書いていようが、一日本を読んでいようが、気が向けばなりふり構わずに散歩にでようが気楽で天国のようであったとしている。浅草人の気風がとても気にいっていた。しかし、戦争のため浅草と別れ類さん一家の疎開先へと移るのである。

戦後世田谷区のアパートに住んでいた頃そのアパルトマンの住人と肌が合わない様子が書かれているのが『気違いマリア』である。同じ格好をしていても全く異質の浅草族というのがあってそちらは、パリになじんだのと同じように越した日から浅草の人間になれたが、こちらときたらと気に食わないことだらけなのである。浅草はパリなのである。「要するに、浅草族は東京っ子であり、世田谷族は田舎者なのである。」

気違いマリア』の書きはじめが凄い。「マリアが父親の遺伝を受けたとしても、又母親の遺伝をうけたにしても、どこかに気違い的なところを持っていていい訳なのである。」で始まり父親と母親の変なところの紹介となり、だからそういうことなのであるとなる。

さらに永井荷風の気違いも遺伝し、宇野浩二の気違いが遺伝し、室生犀星の遺伝も引き受けているのである。永井荷風は彼が市川本八幡で死んだとき悪い脳細胞の悪い要素が風に乗って世田谷淡島まで飛んで来てマリアの頭にとりついたらしいのである。

茉莉さんは永井荷風さんの浅草とは違う独自の戦前の浅草に恋したのであるが、荷風さんの気違いが遺伝するのは当然としたのである。むしろ来い来いという感じである。

類さんの作品『細き川の流れ』のなかで、小説家を目指す主人公は奥さんから本気度が足りないと言われ言い争いとなる。そして荷風の名がでる。主人公は荷風は毎日出歩いてその先で小説の題材を産んで羨ましいと言ったらしく、奥さんはそのためにこづかいを渡したがそれによって書けた小説がないという。さらに「荷風だって出歩く電車賃は自分で稼いだ原稿料で好きな処へ行ったんだと思うの、出歩いた事が間接に創作に役立っていても元は頭から湧いたものよ。」と詰め寄るのである。

未発表の『或る男』の彼は、自虐的に自分の中の世間のあざけりを吐露しつつ浅草に行く。『彼奴とうとう浅草へ来やがった。恥知らず奴が赤い靴を履いて田原町を歩いている。馬鹿が、馬鹿者が、無能力者が、ウッフフ、女房と子供が四人もいるのに、耳の横に白髪が光っているのに』。しかし浅草は彼に作品となる題材をあたえてくれるところではなかった。

類さんは自分の身近な生活周辺で起こることを題材とする。生田の土地の所有権の問題発生。家主になるまでのアパート建設に問題発生。部屋を借りる人々の人間模様。診察をしてもらった医師の不当と思える起訴による裁判傍聴の記録。そして森家の兄弟の事などを題材とするのである。画家の熊谷守一さんにインタビューもしていました。

一度は絶縁しつつも最後まで交信し合った類さんは家族があるゆえに、茉莉さんのようには気違いの遺伝をもらうわけにはいかなかったのである。かつて楽をした分生活者として闘うことになるのである。

茉莉さんの鼻の化粧の事で絶縁したその鼻に対して茉莉さんは『気違いマリア』の最後に「その微かに紅く、高くなった面皰(にきび)の痕跡を、むしろよろこんでいた。決して若い時のように、薔薇色の粉白粉で隠そうという努力なぞはしないのである。」としめくくる。これは、室生犀星さんが自分の顔に強いコンプレックスを抱いていたが晩年は自分の雑誌に載った写真をほしがるようになり、父ものちに知的な自分の顔に自信をもったからである。気違いの遺伝もそう悪い方へとはいかないのである。

茉莉さんは『半日』というエッセイで、鷗外の『半日』に対し、ここに出てくる「玉」が成長し「博士」に対する哀しい訴えとして最後にきっちりしめている。「「公」と「私」との別は、どれ程悲しくてもつけなくてはなるまい。」そして『気違いマリア』の中では『妄想』に対しては、主人公が翁になった気分に浸っているとし、この翁に浸るために、子供たちには健康のために二週間日在に移住したらしいとしている。

半日』と『気違いマリア』では、同じ人が書いたのであろうかと思えるほどの飛び方である。そして日を経るごとに茉莉さんは少女のような妄想の世界に浸り込んでいく。

なぜ世田谷のこのアパートにいるのか。「(目下だけではなく、マリアはこの建物に永遠に住む覚悟でいる。今いる部屋でなくては小説が書けないと信じているからで、マリアは萩原葉子が自分のアパルトマンに来いと言った時もその理由で断った。富岡多恵子がそれを聴いて、葉子さんの誘いを断るとはさすがマリさんである、と言った)」なんともこのツーカーぶりが見事である。この交信の速さがなければ茉莉さんとは交信できないのである。

茉莉さんの最後の住家は経堂のアパートとなるが、そこで類さんは茉莉さんの交信が弱くなり、部屋ごと硝子の水槽の中に入れて水族館に預けたいとおもったのである。茉莉さんを下界から囲って夢の世界で浮遊させ自分はそれを眺めているだけでいいと感じたのである。

そうした類さんを投射して朝井まかてさんは、『半日』の父と母を日在の川に浮かべた船に乗せ、童謡の世界に浮かべている類さんを作りあげたわけである。と、こちらは受け取ったようなわけであります。

朝井まかてさんの『』から森類さんの作品を読み、さらに森茉莉さんの作品に再度触れて笑わせられ、類さんと茉莉さんのどこに行くのか解らない作品に心配になった小堀杏奴さんの不安も伝わってきて、広く楽しい時間を持つことが出来ました。好い時間でした。