映画『あすなろ物語』『わが母の記』(2)

映画『わが母の記』は、映画『あすなろ物語』の主人公が小説家になっているというつなぎで鑑賞しなおした。それぞれが独立した映画ではあるが。そこに井上靖さんの小説なども加えてみた。

映画『わが母の記』(2012年・原田眞人監督)も原作は井上靖さんである。小説家の伊上洪作(役所広司)が母・八重(樹木希林)に幼い頃捨てられたという想いの強さから逃れられないでいた。そのことを確かめたいがはっきりさせることができないでいた。そのうち母が認知症となり母にきちんと通じているかどうかわからないが、それとなく聞き出そうとする。おもいがけず母がそばにいない息子と心の中で交流していたことを知るのである。

映画『あすなろ物語』で鮎太が蔵で一緒に暮らすお婆さんが、映画『わが母の記』では、<土蔵のばあちゃん>とよばれていて、彼女が洪作の曾祖父のお妾さんであったことがあかされる。母・八重の戸籍を独立させ分家とし、八重の母とされたのである。戸籍上<土蔵のばあちゃん>は洪作の祖母となるわけである。<土蔵のばあちゃん>の立場は守られたのである。さらにその彼女のものとに八重の子供が預けられたのであるから彼女にとって洪作はかけがえのない存在であったと思われる。

母の八重は、洪作を迎えに行くがその時は洪作は<土蔵のばあちゃん>のおぬいばあさんとの生活に慣れ親しんでいたのであろう。八重は息子をおぬいに盗られたと思っている。洪作は迎えに来なかったとしている。八重と洪作のづれがそこにある。

洪作少年はおぬいさんのわけありの立場が子供心に何んとなくわかっていたであろう。本家には裏から入りその板の間で挨拶しそこから先へは絶対入らなかったそうである。洪作少年がおぬいさんと一緒に暮らすことで彼女の立場は実質的にも守られていたのである。

グウドル氏の手袋』(井上靖著)によると、作家が湯ヶ島の郷里で6歳から11歳まで一緒に暮らしていた女性はかいといい、60歳の声をきいていたとされる。彼女が曾祖父・潔と出会ったのは18、9歳の時東京で芸者に出ていた時である。潔が40歳で郷里に引っ込んで開業することになり曾祖父の第二夫人として姿をあらわした。その時彼女は26歳であった。それから30数年後、母屋は人に貸し小さな土蔵の二回で少年とおばあさんは住んだのである。

世間のかのさんに対する受けの悪さに反して少年はかのさんに毎晩抱かれて眠る生活に何も不満はなかった。ただ一つ自分の成績が悪いと小学校の教員室へ文句をつけに行くことをのぞけば。

映画『わが母の記』のなかで、八重が口ずさむ。「姥捨山(おばすてやま)は月の名称だってね。そんなところなら捨てられた老人も案外喜んでもいたかもしれない。」今そのおふれがあったら自分も喜んで行くという。洪作の妹たちは嫌味であると憤慨する。

洪作は姥捨山の絵本を伊豆に行く時母に貰ったのを思い出す。母を捨てるなんてと涙を流したのである。この姥捨山もこの映画の流れの中では大事な押さえどころでもある。この絵本は母と洪作の誰も探したことのない行くべき海峡をみつける道筋となる。

ここでは『姥捨』(井上靖著)に触れる。作者が母を捨てるという話を聴いて涙したのは五つか六つのときであった。その後、姥捨山説話の絵本「おばすて山」を叔母からもらったのが10か11歳の時である。

昔信濃の国に老人嫌いの国主がいて70歳になったら山に捨てるようにとおふれをだす。ある息子はどしても母を捨てることが出来ず床下に隠すのである。隣国から国主に使いが来る。次の三つの問題が解けなければ国を攻め亡ぼすと。この難問を解いたのが床下の老母であった。老母の知恵の大切さを知った国主は老人を尊ぶようになるのである。

後年大学生となり郷里の土蔵でその絵本をみつける。そこに描かれている月に照らされた母を背負う息子の姿は子供心にも強烈な印象を与えたことがわかるのである。母が70歳になったとき、映画の八重と同じようなこという。それから作者は信濃への旅の途中で姥捨駅を通過するときこの絵本の母子を母と自分に置き換えて想像の世界に入っていく。

その後作者は実際に戸倉温泉から車で姥捨駅にむかい姥捨の地に立つのである。

映画『あすなろ物語』は、会社からにらまれるほど撮影場所を吟味し時間をかけただけあって特に鮎太の小学生時代の自然がいい。映画『わが母の記』も伊豆の家の周辺が郷愁をさそう風景で八重が東京を嫌うので軽井沢の別荘に連れて行くという設定も丁寧である。

人間の心情と自然が上手く相乗効果を与えあって観る者をひきつけ良質の流れにのせてくれる作品である。