えんぴつで書く『奥の細道』から(2)

奥の細道』への旅に出てみます。赤丸は芭蕉さんと関係なく私が行ったところです。

芭蕉は江戸深川から舟で千住にむかいます。

芭蕉稲荷芭蕉庵跡とするなら、芭蕉はそこから弟子の杉山杉風(すぎたさんぷう)の別荘 採荼庵(さいとあん・さいだあん等の読み方あり)に移動しそこから舟で千住へむかったのです。杉風は幕府御用魚問屋で、深川で芭蕉が庵をむすぶ手助けもしていて、こうした金銭的余裕のあった弟子たちがかなりいたと思われます。江戸にいれば芭蕉は弟子たちに囲まれ安定した俳諧師として暮らせました。それなのになぜ漂泊の旅にでたのでしょうか。

上記地図の赤丸の清澄庭園は紀伊国屋文左衛門の屋敷跡です。同じころ一方では贅沢三昧の生活もあったわけです。今の清澄庭園は三菱財閥の岩崎弥太郎が造園した庭園がもとになっています。その下に松平定信のお墓のある 霊巌寺 。松平定信も白河の関で登場しますのでご記憶を。

その下に深川江戸資料館。ここは江戸庶民の生活を実体験できるような展示があり楽しいところです。

芭蕉が深川の庵に落ち着くまでどんな経過をたどったのでしょうか。田中善信さんの文「芭蕉の係累を探る」よりますと、芭蕉は伊賀国上野赤坂の生まれです。29歳のとき江戸にでてきます。日本橋大舟町の名主・小沢太郎兵衛のもとで働きます。公務の記録係りですが、名主の仕事の代行もしていたであろうといわれます。芭蕉は太郎兵衛の借家から通っていました。

江戸の人々の飲料水は「神田上水道」から供給されていました。この露天部分にはゴミなどがたまり、それを一年に一回掃除したり修復する請負の仕事がありました。この請負人の名前に桃青(芭蕉の別号)の名があるんだそうです。この仕事は名主クラスの人が請け負っていたので、芭蕉はかなりそうした実務能力を兼ね備えた人だったようです。

俳諧師としてではなく生きて行けた人だったのかもしれません。

しかし芭蕉は俳諧師の道を選びます。深川に移り住んでこの請負の仕事をやめます。人をまとめたり、上の人と上手くやっていける人だったわけです。気の回る人だったようにおもえます。当時の旅は、それぞれ別の国ともいえる藩に入っていくのですからそれなりの政治的な気の使い方が必要だったとおもいます。そういう配慮もできた人だったのでしょう。

ただこの配慮は自分が俳諧に集中できるために他の邪魔が介入しないためともとれます。この旅ひとつとっても俳諧に向き合う気持ちは頑固で一途なところがみられます。

不易流行(ふえきりゅうこう)」

趣味悠々のテキストから解釈が納得できたのでそれを引用させてもらいます。「いつの時代にも変わらないものと時代とともに変化するものがあるが、それは別々のものではなく、表裏一体のものであるということ。」

この旅に随行したのが弟子の曾良でした。ほかに第一候補者があったようですが、その弟子は目立ちたがり屋で高弟たちが反対し曾良にかわったようです。曾良が記録した旅日記『曾良旅日記』が1943年(昭和18年)に発見され、芭蕉の『奥の細道』がかなり文学的フィクションが加わっているということがわかったのです。これはある意味芭蕉の新しい試みでもあったということがわかったということでもあり、曾良が随行でよかったということでもあります。

さて深川から隅田川を千住まで舟で向かったのは1689年(元禄2年)芭蕉、46歳の春です。今は隅田川水辺テラスの整備が進んで、隅田川のそって歩いて千住大橋まで行けます。反対に舟では行けないのです。

德川家康が江戸入府後、隅田川に初めてかけられたのが千住大橋です。ここから日光街道です。

千住大橋は歌舞伎では『将軍江戸を去る』が思い浮かびます。芭蕉の門人の其角は『松浦の太鼓』で赤穂浪士・大高源悟と両国橋で討ち入り前夜に会っています。芭蕉さんの知らない後の世のことです。

①草の戸も 住み替はる代ぞ雛(ひな)の家

芭蕉のわび住まいの家に次に住む人はお雛様を飾るであろうというのが可愛らしいです。

②行く春や 鳥啼き魚の目は涙

魚の目にまで涙を思い浮かべるとは、この別れがもしかして最後かもという覚悟と心細さが伝わりますが現代ではアニメ風にも想像できます。

現実的には厳しい旅の道であったことがわかります。

追記:  採荼庵跡   右脇の青い矢印の所に芭蕉俳句散歩道があります。