仏教関係の映画からお坊さんの映画談義の本へ

仏教シネマ お坊さんが読み説く映画の中の生老病死』。釈徹宗さんと秋田光彦さん、お二人の映画談義です。お二人は住職をされていてさらに色々な活動もされているらしく、さらに映画好きというお坊さんなのです。

この映画は般若心経のこういう言葉の意味とつながりますとか話されるのかとおもっていましたら、そんな説教はありませんでした。読んでいるうちに、えっ!この映画も観ていたのですかと、勝手に親しみを覚えてそうそうあの映画のそういうところが面白かったですよねなどとうなずいたり、これ観なくてはとDVDを借りたりしました。

ただお二人にしますと映画は映画館で観るものでDVDなどは邪道なのです。映画を観たことにはならないのです。すいませんがこの邪道がたまらない魅力なのです。ずーっと気にかかる疑問などを映画館で観れるまで待っていられる忍耐性がなくなっています。近頃は配信なども利用しています。映画関係の本を読んでいて観たいと思い、観れるはずもないという映画を配信で巡り合えたりするのです。溝口健二監督の無声映画『瀧の白糸』もそのひとつです。この誘惑には抵抗し難い魅力があります。

邪道をやらなければ、映画関係の本など読まないでしょう。というわけで邪道者が参入させてもらいます。この本に出てくる映画は110本近くあり、そのうち観たのは50本ほどでした。ゆえに参入どころかチラッとまぜっかえして終わりということになります。

秋田光彦さんは映画製作にもたずさわれていて、秋田さんが原案の『カーテンコール』は観ました。佐々部清監督の映画を観ての『カーテンコール』への流れで、その時は原案がどんな方かなど知りませんでした。

映画館で映画と映画の間を繋ぐ幕間芸人(まくあいげいにん)の家族の話しです。かつて下関市の映画館で幕間芸人をしていた人を取材してほしいという依頼からタウン誌の女性記者が取材するのです。その彼女の過去や、映画産業の衰退、知られざる在日コリアン家族の別れと絆が彼女の取材で明らかになっていくのです。女性記者の粘りづよい取材が過去と現在と未来をつなぐことになるのです。

仏教シネマ お坊さんが読み説く映画の中の生老病死』の映画談義の中に出てくる映画に進みます。<お坊さんが読み説く映画の中の生老病死>とありますように、<生老病死>と一つ一つテーマごとに映画作品が登場します。到底全てに触れるわけにはいきませんので「第4章・死ぬ」で出てきた映画について少し。

死体がテーマの映画について言及があります。『スタンド・バイ・ミー』がそうです。少年たちは死体を探しにいきます。テーマ曲がたまりません。ヒッチコックの『ハリーの災難』は、死体によって生きている人間が翻弄されます。遺体は出てこないのですが誰が殺したのかという『8人の女たち』もオシャレで面白い映画でした。

日本映画では、『おくりびと』があります。アメリカでは、遺体に対し「日本人は、こんなに敬意を払うのか」と驚嘆されたのだそうです。私などは遺体を扱う人の仕事の大変さのほうをみていましたが、そういう見方もできるのだと気づかされました。

フラットライナーズ』は、医学生の一人ネルソンが人為的に死を経験して蘇生するという実験をするため4人の仲間(レイチェル、ダヴィッド、ジョー、ランディ)を集めます。臨死体験の実験なのです。かつて映画好きの知人から、若い頃のスターたちが出ているとの紹介で観たのです。5人の仲間の俳優は、キーファー・サザーランド、ジュリア・ロバーツ、ケヴィン・ベーコン、ウィリアム・ボールドウィン、オリヴァー・プラットです。

ネルソンは無事蘇生します。ところがそれから彼は少年に襲われるようになります。それは子供の頃いじめて亡くなった少年だったのです。そのことをネルソンは仲間に言わなかったので、ジョー、ダヴィッド、レイチェルと実験はつづきます。ダヴィッドは自分が過去の罪をよみがえらせて持ち帰ったことに気づき、その相手に謝り許しを得ます。

ネルソンは自分が死んで死後の世界でその子に謝るしかないと一人で死を選びます。それを察した仲間はネルソンを蘇生させようとします。ダヴィッドは、神の領域を犯した自分たちを許して下さいと祈ります。ネルソンは少年の許しを得て蘇生します。あきらめかけていた仲間たちは安堵します。この映画を観なおし死後の世界は神の領域というのが印象的なセリフでした。

お二人のこの映画に対する考え方が、臨死体験といっても深層心理のフタが開くだけで別に死をのぞいたわけでもなんでもないという描き方とされています。さらに、まじめに罪と向き合って告白することによって赦されるという典型的なキリスト教文化の図式とされます。

最初に観た時は、サイコ映画のようにただドキドキして観ていて、今回はダヴィッドが救いの道を見つけたのかと流れが捉えられたので、お二人の観方にも素直に納得できました。

一番興味深く納得できるというかそうすれば落ち着くと思わされたのが、釈徹宗さんが今思いつきましたと言われたことです。小津安二郎の超ローアングルは、死者のまなざしじゃないですかという考えです。『東京物語』を例にとられているのですが、私が気になっていたのは誰もいなくなった家の廊下などからの長い静止の映像です。なんでこんなに長く映しているのかと思うのです。

飛躍しすぎますが、いつかは誰もいなくなるという死者のまなざしだとすればあのくらいの長さがあっても当然と思えます。上手く言えませんが淋しさとかも静かに超えて無心になっていく時間のようにも思えてきました。何かを語りたいという死者のまなざしが静かに引いて行く何とも言えない時間空間の感覚。

もう少し時間を置いてから小津安二郎監督の映画は観なおしてみます。全然的外れでしたということにもなりかねませんが。

というわけで、お二人の映画談義からいただいた自分勝手な搾取のほんの一部分だけの紹介でした。

邪道でも半分しか観ていませんからね。これだけの、いえもっと観られているのでしょうが、映画館で観られていたというのはどういう時間の使い方をされておられたのでしょうか。摩訶不思議です。『人生、ここにあり!』のやればできるの精神でしょうか。

追記: 登場人物があの世からこの世へ姿を現すのが多いのが今月の新橋演舞場の『おあきと春団治~お姉ちゃんにまかしとき~』です。伝説的になっている春団治をバックアップしていたのが姉のおあきであったという視点です。そのお姉ちゃんが春団治の娘にお父ちゃんのお見舞いに行ってあげてと頼みます。藤山直美さん、これといった演技をしているようには見えないのです。それでいながらじ~んと胸にきます。なんやろ、これ死人技(しびとわざ)? 芸の極み?