『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎座12月) (2)

「道行旅路の花婿」は「落人(おちゅうど)」とも呼ばれる。塩冶判官にお供してきた勘平と、師直に顔世御前からの手紙を届けにきたおかるが出会い、相思相愛の若い二人が二人だけの世界に入ってしまい不忠となり、人目を忍んで落ちて行く人となるのである。

浅葱幕が落とされるとそこには、おかる(玉三郎)と勘平(海老蔵)が寄り添い笠で顔を隠し立っている。玉三郎さんは何か月ぶりであろうか。今回は「落人」の歌詞に一応目を通しておいた。舞台は遠目に富士が、桜と菜の花の明るい場面であるが、夜の設定なのである。場所は神奈川県の戸塚。東海道です。<気も戸塚はと吉田橋> 気もあせっていると土地の戸塚とをかけている。次のこちらの東海道の旅は保土ヶ谷から戸塚なので、嬉しくなる。広重の浮世絵〔戸塚 元町別道〕の橋が吉田橋らしい。しかし、鎌倉から落ち延びてきているのでややこしいのだが、そこのところは深く考えない。<墨絵の筆に夜の富士> そう夜なんです。難しいところは三味線と語りの調子と美しいお二人の動きとで楽しむだけ。

<泊りとまりの旅籠やで ほんの旅寝の仮枕 嬉しい仲じゃないかいな> おかるは少し浮き浮きした心持も。おかるのクドキは難しいようだ。おかるが世話女房になってはいけないらしいのである。実際観ていた時は、玉三郎さん静かに優雅に演じられたので感じなかったのであるが、時間がたち思い出していると、玉三郎さんは大きな役者さんなので、海老蔵さんより玉三郎さんの方が印象が大きくなりちょと困った現象の中にいる。おかるは腰元であるからそれなりの風格もある立場であり、単に可憐さだけでは駄目な役でもあろう。観ていた時はその振袖の扱いかたなどただただ美しいと見とれていたのである。<野暮な田舎の暮らしには 機(はた)も織り候 賃仕事>では、縫い物をする仕草がリアルで可笑しかった。所々に微笑ましいさを加え、打ち沈む勘平の気をひこうとするのが娘らしさの表れか。

<ねぐらを離れなく烏 かわい かわいの女夫(みょうと)づれ> かわい、かわいはカアカアと鳴く烏の声で、それを愛しいにかけている。反射的に「かわい かわいと烏は鳴くの かわい かわいと鳴くんだよ」(七つの子)が浮かぶ。作詞家の野口雨情さんこのあたりの歌詞も引き出しに入っていたかもしれない。

勘平が気を取り直したところに鷺坂伴内(権十郎)と花四天(はなよてん)が勘平を捕らえに現れる。権十郎さんは武士のいでたちから例の派手な着物姿に引き抜きのように変身でした。このかたちは初めて見た。勘平も噴き出す、洒落の効いた伴内の台詞。気分を変えさせる詞の力。

表情を変えず憂いを残す海老蔵さんと花四天の流麗な所作ダテ(舞踊味の強い立ち回り)があって、伴内を殺さずに逃がしてやり、勘平とおかるは花道から再び足を早めるのである。華麗な中にも悲愁と支え合う若い二人の面影を残す舞台であった。一幕見でもう一度見たかったが都合がつかないのが残念。

『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎座12月) (1)

今回は11月で筋は書いたように思うので、印象に残ったところをピックアップしていこうと思う。

先ずは台詞などを勝手に繋いだ部分の訂正から。『仮名手本忠臣蔵』 (歌舞伎座11月) (2)で<塩冶判官はやっと心中を吐露出来る人物が現れ苦しさの中から、由良之助に伝える。「憎っくきは加古川本蔵・・・」そこで由良之助はその言葉を全部まで言わせない。この場に及んでそのことは言われるなと止める。>と書いたが、塩冶判官が加古川本蔵に抱きかかえられ無念と思う気持ちを伝えるのは、上使の(切腹を言い渡しに来た使者)石堂右馬之丞と薬師寺次郎左衛門に対してであった。その後由良之助が登場し、仔細は聞いたであろうと由良之助に問いかけ無念さを表し、それ以上はと由良之助が止めるのであるが、加古川本蔵に対する気持ちもこの時伝えたと思い違いをしていたのである。しかし、塩冶判官の中にはそのことも伝えたいという想いはあったはずで、それら全てを受けての由良之助の得心と思う。そこのところも重なっての男と男の約束と受け取ったのである。

12月のほうは、塩冶が菊之助さんで由良之助が幸四郎さん。年齢差の違いもあってか、若い城主に対する経験を踏んだ家老の引き受け方に写った。役者さんの組み合わせによっても芝居の感じは違うものである。

菊之助さんは、おっとりとして、血気にはやる染五郎さんの若狭之助を抑える。そのおっとりが次第に師直の嫌がらせに持ちこたえられなくなる様を出し、力尽きて由良之助に託す。顔世御前の七之助さんはその儚さが、塩冶判官の死を一層無念で悲壮なものにした。その若い主人の無念さを幸四郎さんがグッと受け止める。

斧定九郎の獅童さんが役にはまっていた。雨に濡れた髪のしずくを払い、袂を絞り、財布のお金を数えようと足の位置が決まり、決まったなと見えたら財布の中の指がゆっくり動いている。このタイミングが良い。そして、鉄砲に撃たれて振り向き、口から血が垂れるのはと思ったと同時に膝上に口から血が滴り落ちてきた。動きを貯めていながら、こちらの見たい時間にスーと動いてくれるので目が離せない。動きとこちらの思いが一致する。姿、形といい満足、満足。

獅童さんのお母さんが亡くなられた。舞台の十一段目では動きの激しい小林平八郎役である。千穐楽まで怪我のないように努められてほしい。もう一人歌舞伎役者さんで亡くなられた方がおられる。坂東 三津之助さんである。みの虫さん時代に印象づけられたのであるが、目もとに特徴があり、少し前かがみで大勢の時でも捜すことが出来、いました!いました!と見つけるとなぜか安心できる方であった。  【 合掌 】

 

大須演芸場

名古屋の大須演芸場が来年の1月で閉館となる。それを知って行動するのは忸怩たるものがあるが、一度は大須演芸場に座りたいと思っていた。関西方面への旅の時は何回か計画したのであるが、公演時間の関係から上手く組み入れることが出来なかった。なぜその場に座りたかったのか。志ん朝さんが1990年からそこで独演会を始めたと知っ時からである。

志ん朝さんが亡くなった2001年の10月に友人二人と犬山、明治村、名古屋の旅を計画していて、早過ぎる死に気落ちしつつの旅であった。二人の友人とは小中からの長い付き合いではあるが三人での旅は初めてである。長い付き合いを良いことに新幹線の中でも、今しゃべりたくないから二人で気にしないで談笑してと勝手を決めさせてもらう。次第に気分も晴れ間を覗かせ、名古屋での宿泊の夜は居酒屋でのお酒も美味しく飲めた。次の日、ひつまぶしを大須観音で食べようということになり、大須といえば大須演芸場もあるなと思い出す。大須観音にお参りし、大須演芸場の場所もわかり、ひつまぶしのお店を探す。友人がここが好さそうと当たりをつける。当たりであった。私たちの横の席で年配の方たちが、志ん朝さんの亡くなったことを話題にしている。物凄い親しみを込めて残念であると話されている。

こんなところで関東の落語家さんがこんな親しみをもって話されるとは、やはり志ん朝さんはさすがである。本当に残念でなりませんと思わず話しかけてしまった。その中のおひとりはこのお店の大女将さんで、そのお仲間と談笑されていたのである。そのお仲間が帰られて、大女将さんが私たちに話しかけられ、名古屋弁が生活から消えていくことを嘆かれていた。そして、名古屋弁を残すために小さなメモ帳のような製本された冊子を作られていて、お土産にどうぞとそれぞれに下さったのである。本当にこの地に愛着をもたれているのである。私たちは恐縮しつつ有難く頂戴した。

その旅から帰ってからである。大須演芸場の窮状を知った志ん朝さんがここで独演会を開催をされるようになったと知ったのは。そうであったのか。あの親しみの感じは。納得できた。その時一度は大須演芸場に座ろうと思ったのである。大須演芸場が無くなるということを聞かなかったら、まだ先伸ばしにしていたかもしれない。

出演者の中に快楽亭ブラックさんの名がある。<落語界の鬼才>とある。奇縁か鬼縁か。ブラックさんの名前を知ったのは、新聞に連載していた映画紹介の記事からである。見た映画見ない映画、どちらの映画も紹介や感想を毎回楽しみに読ませてもらっていた。そして、師匠の談志さんとの一緒の落語会で初めて聞かせてもらう。開国のころを題材にされていたのか(記憶が定かではない)外国人も登場し今まで聞いたことのない噺で面白かったのである。その後、浅草公会堂での新春浅草歌舞伎で、綿入れ半纏のブラックさんらしいいでたちの姿を見かけたことがあり、歌舞伎も見られるのか(落語家さんなのだから当たり前といえば当たり前ですが)と思っていたら、歌舞伎の本を出された。私の考えと違うところがあったので、本に挟まっていた葉書に意見を書き出版社に送ったが読んで貰えたかどうか。

今回の演目は「錦の袈裟(けさ)」。無難なまとめかたでした。志ん朝さんを思い出させてくれたのは、前に出ていた出演者の方をいじった時。志ん朝さんも前に出ていた方の話を聞いていて、ある二世の落語家さんが誰々の息子できちんと前座の修行もしたんですと言われたのを、落語家なんてたいした修行なんてしなくたってなれます。修行しているというのは、翁家のような曲芸で、あれは修行しなくては出来ません。と言われたのを思い出した。志ん朝さんは若手の修行の場としても演芸場を大切に考えられていた。

それに対し談志さんは、落語協会を辞められたため、お弟子さんたちはその日から自分たちで落語をやる場所を探すこととなった。志の輔さんも下北沢での出発時の話をされていたが、皆さん這い上がってこられた。次世代の育て方も様々である。ブラックさんはさらに違う育ち方をされたようであるが。<場>を維持するということは、演者と客との闘いでもある。それを提供する方の闘いも想像以上であろう。名古屋で生の演芸が見たり聞いたり出来なくなるのであろうか。

アクの強い芸人さんの中に、どういう事からここにいることになったのであろうか、と思わせる娘さんが出てきた。お茶子さんのような立場か、前座の芸人さんとも思われないが舞台の道具立てをする。お茶子さんのような着物を着ていて、機能的な動きで好きな動きである。次の出演の落語家さんの座布団を運んできた。それをトンと置いた。上には背の低いマイクを乗せていてそれを舞台の中央に置き、コンセントなのであろうか舞台の小さなふたを開けセットする。体が沈みそうもない座布団を持ち上げてから置いて、座布団中央の押さえの糸を、やっても無理だけれどと(これは私が新しいとは言えない座布団で綿を押さえている数本の糸もくたびれて見えて、整えても無理だけどやるに越したことはないと思った気持ちとの重なりで彼女の仕草と重なった気持ちの反映であるのだが)糸を少し整える。そして程よい動きで右そでに消える。落語が終わって彼女の動きを見るのが楽しみだった。コンセントを外し、そのマイクを座布団の上にポンと乗せそれを抱えて右そでに消えた。ただそれだけであるのに、機能的でそして程よい動きが気持ち良い。彼女は意識していないであろう。役目だからやっているのであろう。程よい動きというものが、程よい心持ちにするということを感じさせてくれた。

大須演芸場のお土産である。

 

旧東海道・神奈川宿から保土ヶ谷宿(~戸塚宿)

やっと旧東海道歩きの仲間たちの神奈川宿から保土ヶ谷宿に参加できた。

東海道川崎宿から神奈川宿で、仲間たちの心残りを書いた。<神奈川宿に入る手前に生麦事件の場所がある。薩英戦争にまで発展した事件である。それよりも歩いた仲間たちは、京急生麦駅の近くにあるビール工場に寄りビールが飲みたかったと残念がっていいた。心残りはそれらしい。> 次の神奈川宿から保土ヶ谷宿の時、生麦に寄ってビールを飲んではどうかと提案したら早速、キリンビール横浜工場の見学に申し込みをしたと連絡が入り、実行となった。ビール飲むなら行くという人も現れた。

京急電鉄の生麦駅で6人集合。無事保土ヶ谷まで着くのであろうか。途中に生麦事件の碑があったが工事中のため一時的に移転して現在の場所にある。

キリンビール横浜工場は予想以上に広大でさらに工事をしているらしく見学入口まで、ぐるりと回った感じである。ホップを手にし、麦芽を口に。香ばしい。ビンビールのビンを軽くしたり容器にも工夫をしている。なるほどなるほどと思っているうちに、お待ちかねの試飲である。種類を変えて三杯までOK!一杯目がまろやかで美味しい!その時ビールの美味しい注ぎ方を実演してくれてそれに見惚れてて慌てて二杯めを。そこで時間切れ。しっかり要領を解っていて三杯目をクリアーした人もいる。ビール工場を二つ周るツアーに参加し、六杯きちんと飲んで来たそうであるからさすが。心残りがまたまた残った人もいたが、もう次の事を考えていた。ビールを自分でつくり送ってもらうという有料体験コースもあり、これは人気で抽選だそうでこれに次は挑戦するようだ。

生麦駅にもどり、そこから電車で神奈川駅へ。人任せなので呑気なものである。一人の時は地図とにらめっこである。生麦事件のイギリス人は横浜の根岸競馬場からの帰りという話がでる。あの競馬場は外国人用の競馬場だったとか。調べていないので事実かどうかは定かではない。どんどん歩いていて、先導者が、あれ!あっちは横浜よね。旧東海道を飛ばしてきたのかな。立ち止まりつつ、その交差点の高台側にある欄干が青海波の模様の橋が気になっていた。狭い橋のようであるが、人が歩き車が走る橋。何故かあの橋が気になるんだけど。うん。気になる。とにかくあそこの橋まで上がってみよう。

正解。旧東海道であった。もどることとする。神奈川駅から青木橋を渡り、大覚寺と書かれている高台まで、まず上がるべきであったのだ。先導者これが東海道よ。さっきのの橋が上台橋。そこを神奈川駅方面にもどると、台の関門跡がある。さらに台の茶屋跡。広重の<台の景>の場所である。そこに案内版があり、今も残っている「田中家」さんという料亭は坂本竜馬のおりょうさんが働いていたところだそうだ。そこに広重の版画の写真もあり、まさしく東海道の面影がある。田中家さんの前身さくらやもある。かつては左手は海だったのである。横浜は海だったのですからね。

ふりだしにもどり本覚寺へ。横浜開港の時、アメリカ領事館となったお寺である。下まで降りてまた最初に通った道を引き換えす。途中食事をして、今時珍しくにぎやかなシルクロード天王町商店街を通り、帷子(かたびら)川にかかる帷子橋をわたり無事JR保土ヶ谷駅へ。

人任せは楽で楽しいのですが、観劇の事を先行したため時間も立ち、地図を見直していないので途中の記憶が抜けている。困ったものである。今回はビール工場と広重の東海道五十三次の神奈川宿<台の景>が残れば良しとしましょう。

保土ヶ谷駅前のお蕎麦屋さん「桑名屋」でおそばをいただきました。

次の保土ヶ谷宿から戸塚宿は参加できないようなので自力で何とかしなければ。

 

追記 : 保土ヶ谷宿から戸塚宿

保土ヶ谷宿から戸塚宿までは、戸塚から保土ヶ谷に逆方向で歩きそのためか権太坂が見つからず再度権太坂を探しに。見つけることができ無事歩きました。

歩いた日にちは違いますが一応、保土ヶ谷宿から戸塚宿で写真を並べてみました。

本陣跡案内板

保土ヶ谷の旧東海道は「歴史の道」として案内板を設置していました。小田原北条氏の家臣苅部豊前守の子孫が本陣を守っていました。三軒の脇本陣がありました。(藤屋、水屋、大金子屋)

脇本陣は普段は一般旅行客も宿泊させられますが本陣は参勤交代のためのだけの宿なので継続が難しくなる本陣もあったようです。

脇本陣(水屋)跡と保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設案内板

一里塚跡・上方見附跡

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樹源寺  

境内

旧東海道途中の小祠

旧東海道権太坂改修記念碑

権太坂案内板   権太坂の由来は旅人が坂の名前を老人に尋ねたら権太と自分の名前を答えた。

権太坂の石碑

権太坂案内板   もう一つの権太坂の名前の由来。権左衛門という人が代官の指示でひらいたので「権左坂」と名づけられたがいつのまにか権太坂となった。


境木立場跡   権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くが見晴らしは良かった。

境木地蔵尊

武相国境之木   武蔵と相模の国境

焼餅坂の案内板   坂の近くの茶店で焼餅を売っていた。

  

品濃一里塚   

一里塚公園

益田家のモチノキ

護良親王(もりながしんのう)首荒井戸   護良親王については深くは知りません。 

江戸方見附跡  戸塚宿に入るわけです。

吉田一里塚跡

清源院   徳川家康の側室だったお万の方が家康の供養をした。

境内に千手観音のあった朝日堂石碑。その右は心中歌碑。近くで心中があり住職が歌碑を建てた。   <井にうかぶ 番(つがい)の果てや 秋の蝶>

旧東海道 戸塚から藤沢 (1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

平成25年12月国立劇場 歌舞伎公演 (3)

『忠臣蔵形容画合』は、仮名手本忠臣蔵を基盤にした舞踏劇とでも言えそうである。仮名手本忠臣蔵のパロディーとも言える。大序から七段目までである。作者はあの河竹黙阿弥。

初演は慶応元年(1865)で明治元年(1868)が慶応4年の9月8日からであるから、明治になる約3年前であろうか。ということは、幕末の紛糾している時でもある。その時期に忠臣蔵をパロディー化するということは、黙阿弥は武士の時代は終わると考えていたのであろうか。そのあたりの黙阿弥の考えを知りたいものである。黙阿弥が亡くなるのは、明治26年(1893)78歳の時である。黙阿弥は江戸時代を約50年、明治時代を約30年生きたことになり、明治に入っても作品は数多く書いている。江戸と明治に分けて黙阿弥の作品の変化を調べると黙阿弥の時代性が出てくるのかもしれない。そう思うだけであるが、そう考えるとこの『忠臣蔵形容画合』も時代の狭間に入っているようで、興味がわく。

『仮名手本忠臣蔵』と違い、軽いタッチのものである。音楽も竹本、清本、長唄と変化に富んでいる。大序の鶴ケ岡八幡宮前での、師直(又五郎)、塩冶判官(種之助)、若狭之助(歌昇)が引き抜きで奴三人となり踊るのである。酒による、怒り上戸、笑い上戸、泣き上戸である。又五郎さんとお子さん二人の踊りは初めてである。種之助さんは、愛嬌のある笑い上戸であった。おかると勘平の色にふけったばっかりにの逢引場面は米吉さんと隼人さんコンビ。

顔世御前(魁春)の桜の場面は初めてである。廣松さんが女方。記憶に残っているのは力弥。今回の力弥は鷹之資さん。11月の歌舞伎座でも力弥でした。何れは供奴を踊るでしょう。

斧定九郎が、歌六さんで凄味があります。ところが、与市兵衛との二役で、さらに猪となった与市兵衛と踊るという趣向。あれあれ花道に来てしまった。でもやはり鉄砲には撃たれます。与市兵衛の女房おかや(東蔵)は、与市兵衛と勘平を偲んで村の衆と念仏踊り。いつも忠義側の松江さんもひょうきんにと努められているのが可笑しい。

七段目はおかる(芝雀)と平右衛門(錦之助)の人形振り。思いかけない様々な様式を使いこの役がこんなかたちでと楽しみました。そして役者さんたちの変貌ぶりにも楽しませてもらいました。吉右衛門さんは定番の由良之助で貫禄たっぷりに締めて下さった。

黙阿弥さんは楽しんで書かれたのでしょうか。それともこれだけのアイデア四苦八苦だったのでしょうか。前者と思います。

供奴が出ましたので横道へ。『小石川の家』(青木玉著)の「長唄」に、露伴さんが三味線音楽で最も好んだのは長唄だろうと書かれていて、家で先生と供奴をお稽古している時の様子が描かれている。「時に祖父も混じって大合唱のテンツルテンツルで「見はぐるまいぞや、合点だ」となる。」 露伴さんが供奴を唄うとは、なんだかパロディーのようである。ラジオから流れる長唄もよく聞かれていたようである。

 

平成25年12月国立劇場 歌舞伎公演 (2)

『弥作の鎌腹』は、千崎弥五郎と百姓をしている兄・弥作の話である。仮名手本忠臣蔵で千崎弥五郎は、山崎街道で勘平に会い、勘平に討ち入りを打ち明けた人物である。勘平はその時同志への拠出金を約束し、猪を撃ったつもりが人でその人の懐から50両盗んでしまい、そのお金を弥五郎に渡す。おかるも一文字屋へ引き取られ、姑に舅を撃ち殺したと責め立てられているところへ弥五郎と不破数右衛門が訪ねてくる。罪の責任をとり勘平は切腹。しかし、舅の傷は刀傷で、疑い晴れた勘平は連判状に名を連ねるのであるが、あの場面にいた、千崎弥五郎と兄の話である。江戸時代の歌舞伎好きの人であれば、芝居談義花盛りであったろう。

実直で他の百姓仲間からも慕われている弥作は、お世話になっている代官の七太夫(しちだゆう)から、弟の弥五郎を養子にとの申し込みがある。その後、隣村の代官の娘を娶るという。浪々の身となっている弟にとってこんな良い話はないと弥作は喜んで承諾する。

兄(吉右衛門)を訪れた弥五郎(又五郎)はそんな話に乗るわけにはいかないのである。これが、弥作が武士なら弟よ、武士の本懐とは何かと詰め寄るところであるが、百姓の弥作にとって、弟が良い職が見つかり生活が成り立てば良いのである。なぜ弟が断るのかわからない。弥五郎は仕方なく訳を話し、その話は内密にして代官(橘三郎)に養子の事を断ってくれと頼む。弥作は弟の固い決意を知り、代官のもとへ行く。ここから悲劇と喜劇の背中合わせが始まる。どんどん弥作は追い詰められていく。弥作が悪いわけではない。その正直さゆえに嵌められていってしまう。その辺の罪なき百姓の考えもつかない罠に嵌められていく悲しさと可笑しさを吉右衛門さんは明確に表現された。橘三郎さんも自分の利益のために脅したり賺したりその緩急が憎たらしくて、それでいながら、こういう人はいつの時代もいるなと思わせる。

弥作は本当の事を弟に言えない。仲の良い妻(芝雀)も間に入り弥作は益々混乱してしまう。そして、切腹の仕方を弟に聞くのである。この時弥作は武士なら切腹に値する事をやってしまったと思ったのであろう。塩冶判官の切腹の場は様式美で武士だから心構えということもあってか、痛いという感覚よりも、悔しさのほうが伝わるが、弥作の場合は観ている側も痛いのである。心構えもなく、その場に立たせられてしまった人の可笑しさと悲しさ。忠儀の名のもとに殉死しなければならなかった一人の百姓の物語である。

長閑な村にも、赤穂事件は侵入してきたのである。

話すつもりは無かったものを。聞くつもりは無かったものを。言うつもりはなかったものを。聞けるとは思っていなかったものを。それを何処へ伝えようか。伝えられてなるものか。ズドーン!である。そうなれば、稲を刈るかわりに鎌で・・・・・悲し・・・・

 

平成25年12月国立劇場 歌舞伎公演 (1)

今回の国立劇場の歌舞伎公演は、忠臣蔵の幹から伸びた枝葉の面白さであろうか。演目もそうであるが、出演者の役者さんも枝葉の伸び盛りの方達が多い。木枯らしにも負けず、折れそうでしなり、落葉しても色づいて風を舞う頑張りを見せていた。

『主税と右衛門七(ちからとえもしち)』『弥作の鎌腹』『忠臣蔵形容画合(ちゅしんぐらすがたのえあわせ)』

『主税と右衛門七』は、討ち入り前夜の主税と右衛門七のお互いの高ぶる気持ちの高揚を打ち明ける話である。主税(隼人)は15歳、右衛門七(歌昇)は17歳である。右衛門七は、主税が世話になっている大野屋の娘・お美津(米吉)に結婚をせまられている。今日は13日。明後日、15日に返事をすると約束する。討ち入りが終わった翌日である。それは、当然断りの返事であるが、返事をすることの出来ない事態となっていることであろう。お美津は何も知らず、右衛門七に金の鈴を渡し、自分は銀の鈴を嬉しそうに鳴らす。

少し横道に逸れるが、劇団民芸 『八月の鯨』でサラが、戦争で亡くなった夫の写真を前に一人結婚記念日を祝うところがある。ワインと白と赤のバラ二本。白のばらは真実、赤のばらは情熱とあなたは言ったとつぶやく。金と銀の鈴も和風のアクセントでお洒落である。この芝居の初演は昭和34年(1959)である。

右衛門七とお美津のことも感じ取り、主税は、恋も知らずに死んでいく自分を顧みる。右衛門七は足軽の息子である。父も死に、母は右衛門七の討ち入りの邪魔になってはいけないと自害している。自ずと、主税と右衛門七の立場は違う。そのことを踏まえて二人は、友人のように、兄弟のように打ち解け合い語り飲む。欲をいうなら、歌昇さんには、足軽の立場から友人、あるいは兄の立場となるところの変化が欲しかった。心理を語るのは上手い。歌舞伎の場合、この立場、階級的雰囲気が大切と思う。それは隼人さんにも言えることで、この形を分らせて初めて、歌舞伎の心理劇は成立すると思う。そこが歌舞伎の厄介なところである。米吉さんは町娘の愛らしさを段取りよく動いていた。時間がたつと考えずに動けるようになるのであろう。お琴、足軽踊りなど心理にかぶせる音、動きも加わり若手としては遣り甲斐のある作品と思う。短すぎる青春である。

そんな若者二人に対して、大石内蔵介(歌六)は、二人の気持ちを沈める言葉を伝え花道より迷いのない平常心で消える。

この作品の作者は、多くの映画脚本を書かれている、成澤昌茂さんで、私が見た映画(DVD)だけでも「雁」「噂の女」「新・平家物語」「赤線地帯」「浪花の恋の物語」「宮本武蔵」などがある。初演の時、右衛門七が染五郎(現幸四郎)さんで主税が萬之助(現吉右衛門)さんであった。筋書に成澤さんが当時の染五郎さんと萬之助さんの芝居に対する違いを書かれている。なるほどとその表現に納得する。初演から半世紀を超えているのである。

追記: 成澤昌茂さんがとらえた当時の染五郎さんと萬之助さん。「染五郎は、持ち前の勘の良さで役の性根をパッと掴む。萬之助は、役の性根を、じっと握りしめて、苦闘する。」

劇団民芸 『八月の鯨』

『八月の鯨』は映画にもなった。たしか岩波ホールで見て、リリアン・ギッシュとベティ・デイヴィスが共演し、それも高齢になってからの共演で老年をあつかった映画として話題になった。よくわからなかった。リリアン・ギッシュは可愛いおばあさんでベティ・デイヴィスは皮肉屋のおばあさんといった印象で、若い頃の映画の役柄をも表しているのだろうかと思ったものである。鯨を待っていて、待っている鯨は現れない。「ゴドーを待ちながら」を重ねているのだろうかなどとも考えたりしたものである。

今回舞台の『八月の鯨』を観て、こんなに静かな心もちであろうか。もっと老いとはドロドロした内面なのではないだろうかと考えた。マグマは見せなかった。歳をとると諦める、諦念の心境に入ると思われがちだがそうとも言い切れない。

アメリカのメイン州沿岸の島の別荘で夏だけ過ごすことになっている二人の老いた姉妹の、ある夏の話のようである。ここに住み着いている二人と思っていたのでその点でも捉え方が違ってきた。姉のリビー(奈良岡朋子)は目が不自由らしく、さらに動きも思うようにはいかないため、妹のサラ(日色ともゑ)が面倒を見ている。サラは老いてはいるが、家事一般をするにはまだ大丈夫のようで、体を動かせる喜びを感じつつ楽しそうに家事に勤しんでいる。バザーに出す品物の制作もし人との付き合いも上手くいっている。リビーのほうは、老いる前からそうだったのかどうかは定かではないが、サラのやることに皮肉を言ったり人付き合いも上手いほうではないようだ。人に頼まなければ出来ないという立場は辛いことで、老いとともにそうなったのかもしれない。

周りには、毎日訪ねてきてくれる友人・ティシャ(船坂博子)や家の修繕などをしてくれるジョシュア(稲垣隆史)がいて、二人の話仲間となってくれている。そこへ、マラノフ(篠田三郎)というロシアから亡命してきた貴族が、釣った魚を持参してディナーとなる。マラノフは紳士的で話方も優雅でサラは次々質問するがリビーは早々と自分の部屋に入ってしまう。

サラは姉の仕打ちを謝るがマラノフは言う。<お姉さんは見抜かれている。> それはマラノフの本心を見抜いているということである。ある意味、リビーとマラノフは同じ立場なのである。誰かのお情けを必要とするのである。それを上手く取り入るか、それが嫌さに依怙地にならざるおえない老いの悲しさと闘いがある。お互いにそれを感じているのであるが、言葉で説明するのは難しいことである。時間とともにそれぞれの問題となってくるのであるから。リビーも自分のためにサラを縛っておくわけにはいかない。サラもこのままだと姉に対する愛情がなくなってしまうかもしれない。と二人が感じたかどうかは解らないが、そう受け止めた。

時間と状況が変ると二人の関係もまた変ってくるのかも知れない。ただかつて見た鯨の訪れた時は去ってしまったのである。だからといって時間は止まるわけではない。時間はもう前に進んでいるのである。どうやってその時間を埋めていくのか。それぞれの課題である。

奈良岡さんはもっとマグマを爆発させるのかなと思ったが、意思の強さをだしつつ、老いとの闘いを内に秘めつつ演じられていた。日色さんは、リビーの老いの状態までいっていない若さを明るく、今の老いを楽しんでいる様子を表現された。海を感じ、風を感じ、その自然の風景を観客に見せてくれた。過ごしやすい所なんだろうなあ。それだけに、リビーの老いの状態からくる心のやり場のなさが解るのである。

芝居が終わってから出演者との交流会があり、訳・演出の丹野郁弓さんが、「作者であるデイヴィッド・べリーが今回の舞台を観てくれて今までで最高のシチュエーションだと言ってくれた。」「バックから鐘の音が聞こえていたと思いますが、これは、パンフレットの表紙の写真にありますが、舞台となった海にあった浮標ベル(ブイベル)の鐘の音です。」と教えてくれた。その音を出すために波の音が小さめだったのかもしれない。教会が遠くにあるのかなあと思たりもしていた。客演の篠田さんの役は、詐欺師としたくなかったと丹野さんは言われた。映画のマラノフの人物像は忘れていたので、マラノフの台詞にはハッとさせられた。漂泊。パンフレットの写真を見つつ、浮標ベルは漂いながらも海の道標で、小さくても意味のあるもので、忘れられそうで忘れられない存在である。

奈良岡さんは、「是非生の舞台、ライブを見てください。音楽でも芝居でも民芸だけでなく他の芝居も。それから自分の好きなことを見つけて下さい。何でもいいんです。小さなことで。好きなことをやるのが元気の素です。」と話された。

(2013年12月4日~19日 三越劇場)

 

 

加藤健一事務所 『Be My Baby いとしのベイビー』

どこから押してもふかふかのコメディである。セットからして、幼稚園のお楽しみ会と思わせられるが、そのわけありのわけは次第に解明していく。スコットランドを車で走り、スコットランドからサンフランシスコまで飛ぶのである。きちんと飛行機で。そのつど、観客は自分のCGの洗剤?いや潜在能力を駆使して舞台背景を作りあげるのである。時々、黒い帽子とお洋服のちょろちょさんが見え隠れするが、それは洗剤を使って綺麗にする。

誰が主人公かと言えばそれはもう<BeMyBaby>である。本当は赤ちゃんなんですが、生まれたばかりですから舞台には出せないので、お人形の赤ちゃんですが、侮れない。最後は、観客全部の<BeMyBaby>にチャッカリなってしまってる。これだけの作り物を大奮闘で奮闘している様子は微塵もなくやってのけてるのが役者さんたちである。あらすじを少し。

ロンドン育ちの19歳の娘(グロリア)が恋をして、結婚するためにスコットランドへ育ての親である叔母さん(モード)と車で向かう。その相手はお屋敷に住み執事のような人(ジョン)に育てられた青年(クリスティ)。若い二人はホットでも、ジョン(加藤健一)とモード(阿知波悟美)は、若い二人の親代わりで、スコットランドとイングランドでは生活に対する考え方も違い、逢ったときから非友好的である。クリスティ(加藤義宗)とグロリア(高畑こと美)は無事結婚。ところがわけあって、グロリアの従妹の生まれたばかりの赤ちゃんをサンフランシスコまで、ジョンとモードが引き取りにいくこととなる。その珍道中が笑わせてくれる。その珍道中に何役もの変化芝居を楽しませてくれるのが、粟野史浩さんと加藤忍さん。さすがジョンとモードはその変化にまどわされることなく自分たちの役に徹していて笑わせつつも、粟野さんと忍さんには負けてはいない。ここで崩れると筋のないただのお笑いになってしまうがその点はさすが押さえている。

加藤健一さんと阿知波悟美さんは初共演ということだが、息が合っている。飛行機の座席での場面からして間が上手い。阿知波さんは座席を倒して同じ失敗を数回するのであるが、その突然の動きが会話のペースの中で動きのギャグと言えば良いのか、お笑い芸人さんより面白い。台詞も必要でそれを聞いてるだけで面白いのに、そこに良くありそうな動きが可笑しさを倍増する。それでいて相手が失敗すると本人の見えないところで、バックアップするのが微笑ましい。

この二人の間に赤ちゃんが加わる。この赤ちゃんはお人形である。ところが、抱いたりミルクを飲ませたり、ベビーカーに乗せてるときの赤ちゃんの可愛らしい表情や様子を台詞で伝えてくれる。その表現が観客に乗り移ってしまうのである。お人形でなくなるのである。ホテルの部屋に赤ちゃんを閉じ込めてしまい合い鍵を待てずにドアに体当たりするジョンの真剣さ。芝居の笑いというものは、登場人物が困っていれば困っているほど可笑しいものである。その喜劇芝居のツボをおさえつつ、大人の恋もくり広げてくれる。

この赤ちゃん、若い二人の気まぐれさを最初から見抜いていたのか、自分の一番良い居場所を獲得するのである。なかなかである。

この芝居の作者は劇中歌も指定していて、それも浮き浮きした気分にさせてくれる。

「Be My Baby」(ザ・ロネッツ) 「Hound Dog」「Heartbreak Hotel」「Let Me Be Your Teddy Bear」(エルビス・プレスリー)

作・ケン・ラドウィッグ/訳・小田島恒志、小田島則子/演出・鵜山仁

 

『菅野の記』と白幡天神社

「菅野の記」は幸田文さんが、千葉県市川の菅野での父・露伴さんと娘・玉さんと暮らし、露伴さんを看取ったことを書かれた作品である。生半可な情緒的な文ではない。その町の人々をも観察し、介護の事、そこで生じる人間としての葛藤、ふと目にする自然のことなど、細部に神経が鋭く自分にも他人にも家族にも動いていて文学者の神経であり目である。

その中で、白幡天神社のことが出てくる。この神社の裏にあたる所に住まわれていたのである。「白幡神社の広場の入口に自動車がとまっている。いなかのお社さまはさすがに、ひろびろと境内を取って、樹齢二百年余とおぼしい太い榎が何本も枝を張っていた。海岸が近いから若木のときには相当揉まれて育ったのだろう、皆それぞれに傾斜をもって節だっていた。ものはその収まるところどころによる。榎はこんな広い処ではなかなかよかったし、枝のふりにはおもしろい趣きがあった。」「小石川蝸牛庵の前にも二百何十年とかいわれる大榎があった。」「小石川伝通院の榎は孤独で焼け傷んでいた。」白幡神社の榎から三か所の榎について語られる。

白幡天神社は、もとは白幡神社といい、源頼朝が源氏の御印の白幡を掲げたことに由来し、祭神は竹内宿禰(たけのうちすくね)で菅原道真を合祀して、白幡天神社と称された。幸田文さんが住まわれたころは、白幡天神社となっていたが、土地の人は古い呼び方で親しんでいたのかもしれない。この神社は永井荷風さんも出没したところで、水木洋子市民サポーターのかたも子供の頃そこで荷風さんを見かけたと言われていたので、訪ねてみた。

京成八幡駅ホームから荷風さんがかつ丼を食べに通われた大黒家が見える。踏切を渡ると荷風の散歩道として小さな荷風さんの顔が並ぶ京成八幡商美会通りである。狭い道幅に車と人が通り、その横を自転車が慣れているのかスイスイ通って行く。水木洋子さんが利用したうなぎ屋さん。荷風さんが利用した文房具屋さん。幸田文さんが利用し「菅野の記」にも出てくる魚屋さんなどが今も商売をされている。荷風さんが通われた銭湯の高い煙突も見える。文さんが利用したお酒屋さんを左に入ると白幡天神社である。文さんや荷風さんが住まわれた頃は田舎であったのであろうが、今はびっしり住宅があり、神社もこじんまりとしていて、掃除が行き届いて落ち葉も掃き清められていた。

鳥居を潜った左手に幸田露伴さんの文学碑があり、裏には<幸田露伴は小説「五重塔」「運命」等の作者である。昭和12年第1回文化勲章を受章、同21年に白幡天神社近くに移り住み菅野が終焉の地となった。露伴の晩年の生活をしるした娘の幸田文の「菅野の記」には当時の白幡天神社が描かれている。 平成22年8月吉日>とある。

東側の入口の左手には永井荷風さんの碑もあり、永井荷風の名の右側に<松しげる生垣つづき花かおる 菅野はげにも美しき里>とあり、左には<白幡天神社祠畔の休茶屋にて牛乳を飲む 帰途り緑陰の垣根道を歩みつゝユーゴーの詩集を読む 砂道平にして人こらず 唯鳥語の欣々たるを聞くのみ(断腸亭日記)>と記されている。こちらも建立されたのは平成22年夏吉日である。

同じ白幡天神社でも文さんと荷風さんとではその位置関係は相当違うであろう。文さんは露伴さんの介護のために氷を求めたり、食材やその他のものを求めて何回このそばを通られたことだろう。それは荷風さんの散歩とは違うのである。

文さんは文化勲章をもらい、文豪と奉られている露伴さんを介護しているが人はそのことに目がいっている。そのことは解ってはいるが、私は父を看ているのであると言うことを主張される。その世間の目からくる重圧。なにかがあると全て自分に係ってくる責任。そのことをしっかり受け、吐き出しつつ日々の仕事をされている。さらに露伴の名前を出せば便利を図ってくれることは解っていることでも、それを潔しとはしない。そんな中でも榎を見ると、三か所の榎を思い描くのである。

菅野での住まいの長屋のあったところには違う住宅が建ち、入り組んだ住宅街の道となっている。そこから駅まで歩きもどりつつ、何度も仕立て直した浴衣に男帯を締め父のために氷を求めて歩く文さんの姿と、人とは違う生命を感じて木を見つめている文さんの姿が前を歩いているように思えた。やはり凛とされていた。