『菅野の記』と白幡天神社

「菅野の記」は幸田文さんが、千葉県市川の菅野での父・露伴さんと娘・玉さんと暮らし、露伴さんを看取ったことを書かれた作品である。生半可な情緒的な文ではない。その町の人々をも観察し、介護の事、そこで生じる人間としての葛藤、ふと目にする自然のことなど、細部に神経が鋭く自分にも他人にも家族にも動いていて文学者の神経であり目である。

その中で、白幡天神社のことが出てくる。この神社の裏にあたる所に住まわれていたのである。「白幡神社の広場の入口に自動車がとまっている。いなかのお社さまはさすがに、ひろびろと境内を取って、樹齢二百年余とおぼしい太い榎が何本も枝を張っていた。海岸が近いから若木のときには相当揉まれて育ったのだろう、皆それぞれに傾斜をもって節だっていた。ものはその収まるところどころによる。榎はこんな広い処ではなかなかよかったし、枝のふりにはおもしろい趣きがあった。」「小石川蝸牛庵の前にも二百何十年とかいわれる大榎があった。」「小石川伝通院の榎は孤独で焼け傷んでいた。」白幡神社の榎から三か所の榎について語られる。

白幡天神社は、もとは白幡神社といい、源頼朝が源氏の御印の白幡を掲げたことに由来し、祭神は竹内宿禰(たけのうちすくね)で菅原道真を合祀して、白幡天神社と称された。幸田文さんが住まわれたころは、白幡天神社となっていたが、土地の人は古い呼び方で親しんでいたのかもしれない。この神社は永井荷風さんも出没したところで、水木洋子市民サポーターのかたも子供の頃そこで荷風さんを見かけたと言われていたので、訪ねてみた。

京成八幡駅ホームから荷風さんがかつ丼を食べに通われた大黒家が見える。踏切を渡ると荷風の散歩道として小さな荷風さんの顔が並ぶ京成八幡商美会通りである。狭い道幅に車と人が通り、その横を自転車が慣れているのかスイスイ通って行く。水木洋子さんが利用したうなぎ屋さん。荷風さんが利用した文房具屋さん。幸田文さんが利用し「菅野の記」にも出てくる魚屋さんなどが今も商売をされている。荷風さんが通われた銭湯の高い煙突も見える。文さんが利用したお酒屋さんを左に入ると白幡天神社である。文さんや荷風さんが住まわれた頃は田舎であったのであろうが、今はびっしり住宅があり、神社もこじんまりとしていて、掃除が行き届いて落ち葉も掃き清められていた。

鳥居を潜った左手に幸田露伴さんの文学碑があり、裏には<幸田露伴は小説「五重塔」「運命」等の作者である。昭和12年第1回文化勲章を受章、同21年に白幡天神社近くに移り住み菅野が終焉の地となった。露伴の晩年の生活をしるした娘の幸田文の「菅野の記」には当時の白幡天神社が描かれている。 平成22年8月吉日>とある。

東側の入口の左手には永井荷風さんの碑もあり、永井荷風の名の右側に<松しげる生垣つづき花かおる 菅野はげにも美しき里>とあり、左には<白幡天神社祠畔の休茶屋にて牛乳を飲む 帰途り緑陰の垣根道を歩みつゝユーゴーの詩集を読む 砂道平にして人こらず 唯鳥語の欣々たるを聞くのみ(断腸亭日記)>と記されている。こちらも建立されたのは平成22年夏吉日である。

同じ白幡天神社でも文さんと荷風さんとではその位置関係は相当違うであろう。文さんは露伴さんの介護のために氷を求めたり、食材やその他のものを求めて何回このそばを通られたことだろう。それは荷風さんの散歩とは違うのである。

文さんは文化勲章をもらい、文豪と奉られている露伴さんを介護しているが人はそのことに目がいっている。そのことは解ってはいるが、私は父を看ているのであると言うことを主張される。その世間の目からくる重圧。なにかがあると全て自分に係ってくる責任。そのことをしっかり受け、吐き出しつつ日々の仕事をされている。さらに露伴の名前を出せば便利を図ってくれることは解っていることでも、それを潔しとはしない。そんな中でも榎を見ると、三か所の榎を思い描くのである。

菅野での住まいの長屋のあったところには違う住宅が建ち、入り組んだ住宅街の道となっている。そこから駅まで歩きもどりつつ、何度も仕立て直した浴衣に男帯を締め父のために氷を求めて歩く文さんの姿と、人とは違う生命を感じて木を見つめている文さんの姿が前を歩いているように思えた。やはり凛とされていた。

 

 

 

『小石川の家』 

「小石川の家」は、幸田露伴さんのお孫さんであり、幸田文さんの娘さんである、青木玉さんの著書である。

幸田文さんが離婚され、玉さんを伴われて小石川の露伴さん宅へ戻られてからの、祖父・露伴さんと母・文さんと玉さんとの三人の生活から書き始められ、文さんの死で終わっている。文さんは露伴さんから愛されていないとずーっと思われていて、それでいながら父と博識の文豪としての露伴さんと正面から受けて立っている。(露伴さんとの最後の会話で文さんは自分が父のいとしごであったことを確信し歓喜する) 玉さんはそんな間に居られながら、祖父・露伴さんの孫としての甘やかしではなく、一人の人間として対峙してくる勢いに、母の背中に隠れたり、その母からも援助してもらえない状況のなかで、祖父・露伴さんに対し、それは無理というものですと心の内を子供の時の感覚に戻して書かれている。

たとえば、「風邪ひき」では、露伴さんが風邪の症状が出て、文さんから薬を持っていくよう頼まれ持ってゆくと、それは何か、お隣の先生がよこした薬かと尋ねられ、はいと答える。

「何のためのものか、おっ母さんは言っていたか」「いえ、お上げしてくるようにって」「うむ、それでお前は何も聞かずに持ってきたのか」

「申し訳ありません、聞いて来ます」「何を申し訳ないと思っているんだ、お前は何も考えないで、ただふわふわしている、申し訳などどこにもありはしない。薬というものは恐ろしいものだ、正しく使われれば命を救うが量をあやまてば苦しみを人に与える。何の考えも無しに薬を良いものとだけ信じて人にすすめるとはどういうことだ。昔、耆婆(ぎば)は釈迦の命が危うかった時に秘薬を鼠に投げて釈迦の元へ走らせた、なのにバカな猫がその鼠を食ってしまったから間に合わず釈迦は亡くなったというが、しかし薬は劇薬でそれを飲んだために命を縮めたという説もある。そもそも釈迦が死ぬような目に逢ったのは、信心深い婆さんが托鉢の鉢のなかへ献じた食物の中に毒きのこが入っていて、釈迦はそれを知っていながら承知で食べて、苦しみ死したとも言われている。愚かな者は、自分がよいことをしたつもりで恐ろしいことを平気でやってのける、お前は自分のしていることを、どう考えているのだ」

お釈迦様の話にまでいくのであるから、玉さんも答えようもない。文さんが入ってきてそこから逃れることができたが、今度は文さんからもぐずぐずしているからよと小言をもらう。玉さんは自分の部屋で気が納まるまで泣く。そして、毒と知りつつ釈迦はきのこを食べるなんておかしい。薬だって鼠ではなく千里を走る虎の首につけてやればよいのに。でも虎は他の生き物を食べたくなってお使いを忘れるから駄目かなどと露伴さんの説教を負かそうと子供なりに考えるのが微笑ましい。露伴さんは時として気に染まぬ時、玉さんにもその気持ちをぶつける。しかし、結果的には考えさせる機会を与えている。文さんと玉さんは年齢的な違い、感性の違いからそれぞれの考えを培われていかれ、露伴さんの手の内で育てられたように思われる。それは結果的には素晴らしい手の内であった。

 

 

映画 『少年H』

寒い時期に、今年の夏に観た映画『少年H』の映像が浮かぶ。戦争の中で家族肩を寄せ合い生きていく話である。戦争の時代は皆そうであったわけだが、少年Hの父母はキリスト教(プロテスタント)の敬虔な信者で、戦争という異常な中では敵国の宗教として白い目で見られる。さらにお父さんは洋服の仕立て職人で、住まいは神戸のため外国人の洋服の仕立てを請け負っているため、戦争が始まると外国人と接触していたというだけで疑いの目を向けられる。

少年のHは、お母さんがセーターに少年の名前、肇の頭文字Hを編み込んでくれたことからのニックネームである。アルファベットは消えていく時代が来る。少年は友達からHは敵国の文字だと言われる。少年は、同盟国ドイツのヒトラーの頭文字と同じだと反論する。疑問に思う事の多い少年は、それを遮られるのが嫌である。そんな少年を父親は冷静に優しく、世の中が変わりつつあり少年が思うままに意見を発することの危険性を諭していく。お母さんは自分の信じる宗教の道を日常生活でも貫く人で、当時の日本人としては、少し違う価値観を持っていた家族である。妹の好子ちゃんがまた愛らしい。泣き虫であるのにその家族の中で皆のことを見つめ自分なりに一生懸命である。

本当にこのお父さんは聡明な人で、自分が引き受ける仕事先の外国人の家に息子を連れていき、洋服の採寸したりする様子をみせ、家ではひたすらミシンに向かう。そんな職人さんなのに、教会の牧師さんたちや、外国人のお客さんが本国に帰ったあと、憲兵に連れて行かれスパイ容疑で拷問にあう。少年はその原因は、アメリカに帰った人からのエンパイアステートビルの写った絵葉書を一番仲の良かった友人に見せ、アメリカは凄いと話したことで、その友人のせいだと思う。その友人に挑もうとして家を出ようとするとき、父親が言う。その写真を見せたのは誰か。少年ではないか。少年が見せなければ、その友人も人に話さなかったであろう。今一番心を痛めているのはその友人だと話す。ここは本当に驚いてしまった。あの状況でそのように冷静に話せる大人は多くはなかったであろう。

神戸の空襲被害の凄さ、終戦。その中で生きる希望を失う父親。あれだけ少年の道標だったのに不甲斐無い父親となり、苛立ちをぶつける少年。少年は学校での軍事訓練、終戦による大人たちの変貌に自分の見る目を持ち始めていた。やっと焼けたミシンを運び修理をして、ミシンを踏み始める父親。少年は看板屋に職を得て自立することにする。火の鳥が今飛び立つのである。

実際のご夫婦である水谷豊さんと伊藤蘭さんが、映画でも夫婦役となり話題となった映画である。原作はベストセラーとなった、妹尾河童さんの「少年H」である。静かにいつの間にか自分の意見を自由に云えない状況となり、それがモンスターとなって戦争に進み、一般市民の多くが空襲のため犠牲になるさまを、一つの小さな光に導かれたように生きていった家族を通して声高ではなく描かれている。

監督・降旗康夫/原作・妹尾河童/脚本・古沢良太/音楽・池頼宏/出演・水谷豊、伊藤蘭、吉岡竜輝、花田優里音、小栗旬、早乙女太一、原田泰造、佐々木蔵之介、國村隼、岸部一徳

 

世田谷文学館と蘆花恒春園

世田谷文学館の『幸田文展』から、蘆花恒春園に行き大宅壮一文庫、賀川豊彦記念松沢資料館そして、京王線の上北沢駅に向かうつもりが、文学館で思いがけない催し物があった。

多摩美術大学・世田谷文学館共同研究『清水邦夫の劇世界を探る』第三弾で、リーディングシアター『楽屋』の公演が自由参加で見れるというのである。朗読劇のようなものである。3年間つづけられ今回で終了らしい。それが始まる前の短時間に蘆花恒春園に行き開演時間に合わせて急いでもどる。

清水邦夫さんの名前は知っているが、その戯曲と公演は初めてである。『楽屋』は、そのまま楽屋が舞台なのであるが、そこに主演女優となれなかった女優の亡霊が住んでいることである。その亡霊は二人いて、現在の主演女優が舞台に出て行った後に話始める。主演女優の悪口もいいつつ、自分たちがプロンプターだったことや、やっと採れた端役のこと、あこがれの役の台詞など話は尽きない。恨みつらみもたっぷりである。そこに枕を抱えた若い女優が現れる。その女優は病も治り舞台復帰しようとするが果たせず、二人の亡霊と同じ世界にいることなる。三人の女優は三人そろったところで「三人姉妹」の台詞の世界の中に入って行く。

作者がこれを書こうと思いついたのは、女性達の楽屋の壁にアイロンの焼け焦げた跡を見たからだそうで、それを、亡霊を出すことによって演じる者たちの舞台、台詞、役に対する嫉妬、挑み、喜び、挫折などあらゆる感情や思いを傷口も見せつつ表にしたのである。

そのあと、「清水戯曲の魅力」と題して井上理恵(桐朋学園芸術短期大学教授)さんの講演があったが、新劇の全盛時代にそれとちがうものを目指し向かって突進してきた、若き演劇人の中の一人の清水邦夫さんについて語られた。時間が短かったのであるが、その時代のエネルギーが伝わってきた。面白かったのが、井上先生、クラシックなワンピースと上着のスーツを着られていて、大学の先生だからかなと思ったら、<今日は私も演出してきました。十年前のクラシックな服を引っ張り出し、つけているクチナシの花はかつては白かったのですが、こんな薄汚れた色になってしまいました。でも一点ものですのでつけてきました。>演劇を愛する方のようにお見受けし遊び心が楽しい。アイロンの焼け焦げも、美しい茶の模様に見えてくる。

時間の無い蘆花恒春公園。徳富蘆花が愛子夫人とともに恒春園と名付け晴耕雨読の生活を送られた地で、母屋が公開されている。大逆事件で処刑された幸徳秋水を思い書院に秋水書院と命名している。

蘆花記念館もありざーっと見ていたら、新島八重さんの兄・山本覚馬の娘・久栄さんと恋愛し別れるとある。ちょっと驚いたら、その日の大河ドラマ「八重の桜」がその事をやったので2度びっくりである。年譜によると、明治19年に恋愛感情を抱き、明治20年、兄の猪一郎が上京し、民友社を設立。久栄さんに訣別の手紙を送っている。明治25年久栄さんとのことは「春夢の記」としてこの頃書いたらしい。明治26年に久栄さんは亡くなっている。明治27年愛子さんと結婚。愛子夫人談話の聞き書き「蘆花と共に」によると、久栄さんのことは、蘆花の中でも上手く収拾がつかず、夫人も久栄さんの影に相当心を悩ませたようである。しかし、愛子夫人の日記から、大逆事件に関しても、蘆花には保身がなく、人道主義者であることが解るようである。

特定秘密保護法案が国民の間で充分に考える時間もなく国会で決められそうである。どうしてそんなに急ぐのか非常に疑問である。皆がもっと考える時間が必要と思う。

 

世田谷文学館 『幸田文展』

幸田文さんは幸田露伴さんの娘さんである。幸田露伴さんが亡くなられたとき、近くに住んでいた永井荷風さんは喪服が無いとして、家には入らず外から露伴さんを弔われている。(『永井荷風展』 (2))その家の中では、喪主の文さんとその娘さんである玉さんが並んで座られていたのである。その時、文さんは43歳である。その年令から父・露伴さんのことを書き始め好評を博し認められるが、自分の力ではない様に感じられ、筆を絶つ事を宣言され、台所仕事なら自信があるとして職を探し、47歳の時柳橋の芸者置屋に賄婦として住み込む。この仕事の経験から生まれたのが「流れる」であり映画にもなっている。映画会社から、「流れる」ではどうも縁起が悪いのでと改題を申し込まれたが、文さんは頑として断ったらしい。他の所でこのことを、室生犀星さんが書かれている。

絶筆宣言は、幸田露伴の娘からの文筆家としての決別ともとれるが、既に文さんの文さんとしての文章表現力は確立されていた。露伴さんとの共に生活した題材からの決別で、新たな主題を見つけていかれる。

それでいて、露伴さんから習った植物のこと、木のこと、日常生活のことなどに自分の目を加えられて作品化していく。

60歳を過ぎてから、奈良斑鳩の法輪寺の三重塔再建への協力され一時は奈良に住まわれる。しかし、この経過については法輪寺の住職のかたが本にまとめられたので、文さんはその経過については書かれていない。そこに位置する人を尊重されてのことであろう。

72歳の時、大谷崩れを取材し、各地の崩壊する自然を訪ね、これが最後のライフワークとなる。このことは死後(没86歳の1年後)「崩れ」として発表される。

文さん好みの着物も展示され、文さんが選んだという自分の花嫁衣裳は黒地に白、濃さの違う赤、ねずみ色の松が描かれ、裏地は赤鹿の子で袖のふりからその赤が極細く表に見せているのが花嫁さんの愛らしさが覗いていて素敵であった。文さんの好きな縞柄は本の装丁にも使われている。露伴さんもおしゃれであったようで、石摺り(しのぶ摺り)の羽織があった。裏は雲に龍を配置してあった。(しのぶ摺りについたは司馬遼太郎 『白河・会津のみち』)

幸田文さんの文学領域について見やすく分類されていて、文さんの娘さん・青木玉さんの遺品の管理の良さのお陰でもある。映画「おとうと」の映画ポスターや脚本は、市川市文学ミュージアムからの提供であった。市川市文学ミュージアムでは「水木洋子展」(2013年10/26~2014年3/2)を開催している。同じ時期にお二人の仕事の展示が開催されていてとても嬉しいのである。「幸田文展」は、2013年10/5~12/8までである。着物が好きでよく着る友人が、幼い頃から田舎で木や草花に親しんでおり、近々屋久島に行くというので、「幸田文展」を見てから行ったほうが良いと伝えたら早速行ったようで、感謝とメールがきた。木とどんな対話をしてくるのであろうか。それを聞くのが楽しみである。

 

 

 

『仮名手本忠臣蔵』 (歌舞伎座11月) (4)

七段目は祇園一力茶屋の場となるが、祇園での遊興の場でそれぞれの人間関係を知らない者同士が全然違う思惑で動いていて、気がついて見れば全て繋がっていて一点に集約されていくのである。

由良之助(吉右衛門)は、祇園で放蕩三昧、仇討のことなど忘れている。ところがこの放蕩が仇討の為に敵にも味方にも悟らせない戦術ということをほとんどの観客が知っているので、由良之助役者がそれをどう演じるかを見られる場面でもある。役者さんにとって遣り甲斐があると同時に怖い場面でもあると思う。吉右衛門さんは由良之助の遊び方の柔らかさ、日常を突き抜けたゆったりしたばか騒ぎなど、パッーと劇場を包まれた。その雰囲気が上手くいけばいくほど、若い同志の怒りが由良之助に向って激昂する様が納得できるのである。その同志と共についてきた寺岡平右衛門(梅玉)が仇討に加わるために由良之助に嘆願するが、軽くあしらわれてしまう。

由良之助一人の座敷に顔世御前からの手紙を力弥が届けに来る。その力弥を返す時、「祇園を出てから急げよ」と注意を促す。この台詞も良く出来ている。酔態しつつも本性のしっかりしていることを表す。この密書を隣の部屋の二階からあのおかる(芝雀)が鏡で覗き、縁の下では師直と通じている斧九太夫が盗み読んでいた。由良之助はこの二つの事実を知り動揺するが、すぐ放蕩の由良之助にもどり、おかるを身請けして三日後には自由にして良いと告げる。おかるは大喜びである。勘平のもとへ帰れるのである。

勘平に手紙を書いているところに平右衛門が現れ、ここで平右衛門がおかるの兄であることが分かる。平右衛門はおかるの身請けの話を聞き、由良之助が手紙を読んだおかるを殺すつもりであると理解し、おかるに自分の刀で死んでくれるよう頼む。おかるは驚くが、勘平がこの世にいないことを知り兄の願いを聞き分けるのである。そこへ由良之助が現れそれを留めさせ、九太夫をおかるに討たせ平右衛門を仇討に加えるのである。

この一力茶屋でおかるは同志の妻であり、平右衛門はおかるの兄で、仇討のためなら妹をも犠牲にしようと思う腹がある。そして、密偵の九太夫の息子・定九郎はおかるの父の敵でもある。その全てを捉えた由良之助は一点に集約させるのである。この一力茶屋という狭い世界の中で、由良之助の手腕をも表している。それは広い世界を狭い舞台に乗せてしまう芝居空間の面白さである。

おかるの芝雀さんは福助さんの休演の代役であったが、歌舞伎の場合すぐそれが出来てしまう。相手が違えばそれに合わせて即、息も変えれる凄さが修練された役者さんたちにはある。仁左衛門さんも出られる予定だったのが療養を必要とされ残念であるが、体調のすぐれない時はしっかり休まれ、また素晴らしい舞台を見せていただきたい。

最後は若い役者さんたちの活躍する討ち入りの立ち回りを見せ、ついに師直は討たれるのである。(十一段目)

バランスの行き届いた『仮名手本忠臣蔵』であったと思う。複線も分かり、それぞれの決められた形の落ち着きもよく、今まで取りこぼしていた台詞も幾つか拾うことができ、それは、芝居の膨らみに重要なことであった。

 

『仮名手本忠臣蔵』 (歌舞伎座11月) (3)

主君の関係でありながら、男と男の誓いのせつなき思い(四段目)の後は、男と女の道行である。<道行旅路の花婿>。京都南座12月公演には昼の部に<道行旅路の嫁入>があります。こちらは嫁入りの旅路です。種明かしになりますが(歌舞伎を見られている方はご承知ですが)誰が誰の所に嫁に行くのか。加古川本蔵の娘・小波が、大星由良之助の息子・大星力弥のもとへお嫁入りである。その母に付き添われての道行である。その先どう考えてもすんなりとはいきそうにない。それを知りたい方は京都から東京へ起こし下さり九段目『山科閑居』をどうぞということか。さらに、国立劇場では12月は、「知られざる忠臣蔵」として、私はまだ観た事のない演目が並ぶのである。

さて<道行旅路の花婿>は、塩冶判官のそばにいなくてはならない早野勘平(梅玉)は恋人のおかる(時蔵)と逢引をしていて、刃傷ざたとなり館の中へ入れなくなる。大失態である。おかるの勧めで彼女の郷里に身を寄せる事となり、その旅路の舞踏である。おかるは勘平と所帯を持てると何処か浮き浮きしているが、勘平は切腹しようとまで考え、おかるに止められおかるの郷里へと向かうのである。この男と女の気持ちの違いなどを梅玉さんと時蔵さんが形よくしっとりと踊られる。

この二人にも、幸せとは成らぬ運命が追いかけてくる。おかるとその両親は勘平が仇討に参加したい気持ちを察し、そのための軍資金を得るため、勘平に内緒でおかるは遊女となる決心をする。そのお金を受け取ったお軽の父親は家に帰る途中、盗賊にお金を盗られ殺されてしまう。この悪い男が斧定九郎である。この短い出の悪役を中村仲蔵は工夫を凝らしたのである。今回は松緑さんである。形は良いが、顔の目の化粧の作りが好みではなかった。目の周りの線が濃過ぎていた。松緑さんの目は凄味がきくので化粧の力に頼らなくても良いと思った。この定九郎を猟師になった勘平(菊五郎)が猪と間違って撃ってしまう。暗闇の中、人を殺したと知り勘平は驚くが、お金を何とかしたいため、その懐から財布を盗んでしまう。その財布は舅の財布である。(五段目)

家に帰りつきおかるが遊女となることを知り止めるが、事の次第を聞き、自分の盗んだ財布が舅のものとわかる。自分は舅を殺しおかるが遊女となってこしらえたお金を貰いに行って受け取ったお金半金50両を盗み、そのお金を同志に仇討のための資金として渡してしまっていた。おかるは遊女屋の迎えの駕籠の人となる。苦悩する勘平。一夜の内に勘平の人生は変っていた。その心理の流れを鉄砲撃ちから勘平の思い違いの苦悩までを菊五郎さんは丁寧に演じられる。この場の出で鷹揚に構えていた勘平がどんどん追い込まれていく。姑(東蔵)に血のついた舅の財布を見られ、責められ尋ねてきた同志にもなじられ、ついに勘平は切腹するのである。しかし、舅の傷口は刀傷であることから犯人は定九郎と判明する。早まりし勘平。身の潔白が分かり連判状に血判を押し、死出の仇討参加となる。(六段目)

『仮名手本忠臣蔵』 (歌舞伎座11月) (2)

塩冶判官が腹切り刀を腹に刺す、遅かりし由良之助ついに現れる。別の部屋に控えていた家来たちが摺り足で塩冶判官の後ろにサァーと控える。こちらも由良之助は何時来るのかと待っていたわけで、この辺りの場面設定もさすがである。ここで家来たちの主君に対する忠儀心は一段と増すのである。

国家老・大星由良之助(吉右衛門)は、塩冶判官(菊五郎)の仰せに従い主君の傍による。塩冶判官はやっと心中を吐露出来る人物が現れ苦しさの中から、由良之助に伝える。「憎っくきは加古川本蔵・・・」そこで由良之助はその言葉を全部まで言わせない。この場に及んでそのことは言われるなと止める。塩冶判官もそうだなと納得する。今回初めてである。この台詞から二人の身に添う交流を感じたのは。そしてここでまで出てくる本蔵は芝居的には九段目に繋がるのである。ここにも伏線はあったのだ。この九段目は今回は無い。一月の歌舞伎座での演目となっている。この本蔵がどうなるかは来年新春のお楽しみである。

塩冶判官は腹切り刀で師直の首を取る事を暗示する。この時の塩冶判官の気持ちを汲み取るまでの由良之助のわずかな間。上使に気取られないように分かりましたと自分の腹をポンと打ち、目で伝え、塩冶判官はそれに安堵し息を引き取るのである。このお二人のやりとりは見せ場である。空気が熱かった。この主君の意思をしっかりと血刀とともに懐にした由良之助は、家来達の気持ちを押さえ敵討することを伝え、屋敷明け渡しとなる。この若き役者さん達の家来が一点に気持ちが集中しているのが分かり、この勢いを押さえる役者の大きさを見せる立役者であることが分かった。吉右衛門さんは大きな役者さんであるが、相対する力関係も必要な条件である。そして、その勢いが去ったあと、由良之助は一人屋敷の門前で主君の形見の血刀の血を手に受け口に含み性根を見据え、家紋のついた提灯のじゃばらの部分をたたみ袖にしまい屋敷を後にするのである。場面的には城明け渡しである。

評定の場で家老の斧九太夫(おのくだゆう)はお金の配分のことから我さきにその場を立ち去ってしまう。この<お金>もこれから、様々な人の人生を狂わしていくのである。賄賂といい底辺にはお金がうごめいてもいるのである。中村仲蔵が演じた斧定九郎はこの斧九太夫の息子である。やはりお金が絡む。

 

『仮名手本忠臣蔵』 (歌舞伎座11月) (1)

立川志の輔 『中村仲蔵』での解説はかなり記憶から薄れてきているが、どうなるであろうか。友人から歌舞伎座に行きたいのだが、何をやっているのかと尋ねられ11月12月は忠臣蔵と答えたところ、忠臣蔵と幕末ものはもういいよとの答が返ってきたが、分からなくもない。またと思うところもある。しかしそれがひっくり返されるかどうかは観るまで判らないところもある。

今回、筋道は一本ついている。どこに注目が行くか。前半は加古川本蔵(かこがわほんぞう)であった。塩冶判官(えんやはんがん)の妻・顔世御(かおよごぜん)に懸想した高師直(こうのもろなお)はしつこく顔世御前に付きまとい、それを桃井若狭之助(もものいわかさのすけ)に見とがめられる。そのため若狭之助は師直から嫌がらせを受け、堪忍袋の緒が切れる寸前である。初めて見た時は、若狭之助を塩冶判官と思い違いをして観ていた。苛められるのが塩冶判官と思い込んでいたためである。そうではなく初めは若狭之助が嫌がらせを受け若狭之助が師直を殺そうと思うのである。それを知った若狭之助の家来・加古川本蔵が鎌倉の足利館門前で師直に進物をするのである。この時、師直の家来・鷺坂伴内(さぎさかばんない)が、本蔵に館に入り将軍の弟・足利直義の饗応の模様を見学するようにと誘う。ここで本蔵は身分上断るのであるが再度勧められ師直の駕籠の後ろから付いて行く。

この部分、進物(賄賂)から本蔵が師直について館に入るという重要なところを今まで素通りしていた。なぜ本蔵があの刃傷のあった松の間にいて、塩冶判官が師直を切りつけたとき、後ろから抱きかかえられたのか。きちんと芝居の中で説明されているのである。それは前面には出てこないが伏線としてひかれている。この伏線を線の部分の台詞が今回は太くみえたのである。

この本蔵の賄賂と、顔世御前に拒絶された返歌から、師直の苛めは塩冶判官に向けられ、押さえきれなくなった塩冶判官は刃傷へと走るのである。(三段目)

そして、塩冶判官は自宅にて、上使から切腹、さらにお家断絶、所領没収を言い渡される。この切腹の様式美の場面は、観劇にきた高校生なども真剣に見詰め緊張の時間である。家来たちが、別の部屋から主君のそばに行きたいと願い出るが、由良之助が来るまではそれはならないと塩冶判官は答える。塩冶判官はその場においてひたすら大星由良之助を待つのであるが。

 

 

11月花形歌舞伎 (明治座)

昼の部 『鳴神(なるかみ)』『瞼の母』『供奴(ともやっこ)』

夜の部 『毛抜(けぬき)』『連獅子』『権三と助十』

こちらの一押しは『連獅子』である。澤瀉屋の『連獅子』と言えるもので、躍動感に溢れていて、親獅子と子獅子の情愛というより、右近さんと弘太郎さんの若い動きを楽しむものであった。動きが良いので弘太郎さんの谷底から這い上がってからの微笑みはいらないと思う。身体の動きでその喜びは十分伝わり、緊張感は最後まであったほうが力強くて良い。

松也さんの『供奴』、個人的舞台意外での一人踊りは初めてなのではないであろうか。一生懸命さが伝わる。足のテンポも良いと思う。ただ花道の出から箱提灯が、ピタッとまっすぐに決まらず、斜めになる時があり気になった。姿を美しくとなるとそうした少しの事も影響するものである。故富十郎さんのを見直したら矢張り箱提灯も綺麗に形よく決まるのである。声の響きが良い方に変わってきた。世話物に欠かせない役者さんになりそうである。

獅童さんの『瞼の母』の忠太郎は感情を母親に手いっぱいぶつける。獅童さんの身体、容貌からすると希望としてはもう少し押さえてほしかった。秀太郎さんが自由自在の方であるから、そのほうが忠太郎の空しさがジーンと伝わるような気がした。役に成りきってその役で笑いを取ってほしい。『毛抜』は荒事でありながら、失敗もしその愛嬌で客を楽しむ。力強いのに失敗する可笑しさ。謎解きをする機転があるのに他では上手くいかない人。それは役に成りきってこその可笑しさである。ところが、世話物『権三と助十』ではアドリブで笑わせる。

隣に座られた若い方が「菊五郎劇団ではやりますが、澤瀉屋は世話物珍しいですね」と言われた。その一言から思ったのである。世話はその間が難しい。当たり前に出来ると思われるが当たり前ではなく、その役の生活、人間性を表し伝えるのは技量を要する。その技量は荒事などのように大きな表現方法よりも観客に見せづらいし解っては観客もしらける事もある。そこを充分納得しないうちにアドリブに頼るとせかっくの積み重ねの時期、もったいない事になると思う。客は役者の芸を楽しむよりもアドリブを楽しみ、その要求は増幅していくものである。その辺をしっかり心して励んでほしいものである。

嫌味なもっともらしい感想となったが、<花形>の時期は体力もあり覇気もありそこでの一生懸命さは観ている方も気持ちが良いが、ベテランが、一生懸命だと観ているほうも疲れるものである。やはりベテランは芸がありその工夫を見せる時期である。それぞれの時期を大切にして戴きたいのである。

中村獅童、市川右近、市川笑也、尾上松也、市川猿弥、市川春猿、市川寿猿、市川弘太郎、坂東新悟、市川笑三郎、市川門之助、市川右之助、片岡秀太郎