ありがとう 勘三郎さん

感謝の言葉しか思い浮かばない。ありがとう。

歌舞伎を見続けられた一翼に勘三郎さんの羽ばたきは欠かせないものであった。楽しそうに演じられる勘三郎さんも素敵であったが、どこかでスイッチがきゅと入り、きりっと良い形にきまる勘三郎さんはもっと素敵であった。あっ!スイッチが入ったなと感じられる時の瞬間は、勝手にこちらが感知したと思い込んでいるわけであるが、至福のときである。そう感じられる演技をしてくれるのである。

『春興鏡獅子』の御小姓(腰元の少女)弥生の出から引っ込み、再び登場し戸惑いながらも挨拶して踊りだすまでの恥じらいと困惑の様は追随を許さないところがあった。歌舞伎観劇の手ほどきをしてくれた先輩からもらった20代の頃の『春興鏡獅子』の映像は何回見直したであろうか。勘三郎さんが鏡獅子を踊るたびに比較し楽しんだ。そして歌舞伎舞踊の楽しみ方を教えてもらった。

大河ドラマ『新平家物語』を先ごろ見たら、敦盛が勘三郎さんであった。もちろん勘九郎さん時代であるが、気が強そうで負けず嫌いの敦盛で、勘三郎さんらしい敦盛であった。

ありがとう 勘三郎さん。萎える気を負けん気にして見続けます。あなたの愛した歌舞伎を。

 

 

映画『地獄門』 と 原作『袈裟の良人』

村上元三著「平清盛」に<遠藤盛遠(えんどうもりとう)という侍が、渡辺渡(わたなべわたる)の妻袈裟御前(けさごぜん)に恋をして、夫を殺そうと企てたが、かえって袈裟の首を討ってしまい、自分は出家をするという事件が起こった。>とあり、それを聞いた清盛は<「武士が刀を抜くときは、よくよくのことがあったときでのうてはならぬ」>と言わせている。ここでは恋のために刀をぬくとは何と天下泰平か、と言う意味にもとれる。

この事件を題材にしたのが、菊池寛の戯曲「袈裟の良人」であり、それを原作に映画化したのが「地獄門」である。

映画の時代背景は平治の乱時期で、清盛が熊野参詣に行っている間に起きた争乱中、遠藤武者盛遠は袈裟と会う。袈裟は上西門院の女房で、争乱の際、上西門院の身代わりとなりそれを警護したのが盛遠である。清盛は熊野から即立ち返り乱も平定し、戦の褒賞を盛遠に尋ねると袈裟を娶りたいと願うが、袈裟が渡辺渡の妻である事が解かりその願いは退けられる。それでも諦めきれない盛遠は思いを遂げようと袈裟に言い寄り、自分の思いを叶えるためには渡の命さえも奪うと告げる。良人の身を案じた袈裟は良人を殺してくれと盛遠に頼み、良人と自分の寝所を取替え良人の身代わりとなって自分が盛遠に討たれるのである。それを知った盛遠は彼女の貞節を称え自分を恥じて髪を下ろし旅に出るのである。

菊池寛の戯曲は「袈裟の良人」とあるだけに袈裟の死んだ後の渡辺渡の独白に力を入れている。盛遠は自分を討たない渡に業を煮やし、自分の髷をふっつりと切り<おのれが、罪を悔いる盛遠の心が、どんなに烈しいかを見ているがよい。>と袈裟の菩提のため諸国修行に出ることを伝え立ち去る。

<お前はなぜ悲鳴を挙げながら、俺に救いを求めて呉れなかったのか。俺が、駆け付けて来てお前を小脇にかき抱きながら、盛遠と戦う。それが、どんなに喜ばしい男らしい事だったろうか。>

<盛遠は、恋した女を、自分の手にかけて、それを機縁に出家すれば、発菩提心には、これほどよいよすがはない。お前はお前で、夫のために身を捨てたと思うて成仏するだろう。が、残された俺は、何うするのじゃ。>

<盛遠は、迷いがさめて出家するのじゃ。俺は、最愛の妻を失うて、いな最愛の妻に、不覚者と見離されて、墨のような心を以って出家するのじゃ。>

<お前の菩提を弔うてやりたい!が、俺の荒んだ心は、お前の菩提を弔うのには、適わぬぞや。まだ懺悔に充ちた盛遠こそ、念仏を唱ふのに、かなって居よう!あゝさびしい。>

<俺の心には長い闇が来たのじゃ。袈裟よ!袈裟よ!なぜ、お前はこの渡を、頼んで呉れなかったのか!>

菊池寛さんの台詞は凄い。かなり削除して書いたが、これほど無常観を独白する心情をいれつつ盛遠の意識していない部分まで客観的に見つめている台詞を書くとは。

映画は平安末期の混乱と色彩と恋と救いを描き、戯曲は大衆をも取り込んで不安に満ちていた末法世界への入り口を描いている。

 

地獄門は戦に敗れた者のさらし首の場所であり、二度目に袈裟と盛遠の出会う場所であり、盛遠が袈裟を求めてさ迷う通り道でもある。

 

 

文楽の若手

国立劇場のあぜくら会の企画で「あぜくらの夕べ~吉田一輔を迎えて~」があり、抽選に当たり参加できた。聞き手が葛西聖司さんで、NHKの「芸能花舞台」でこちらはお馴染みなので楽しみであった。

文楽の場合、主になる人形は三人で遣うのである。今回始めにその三人遣いの説明があり知ってはいたが、足と左の遣いかたの感覚が増幅された。

解説は女の人形であったが、右に対する左手の追従のしかた、足の動かしかたによるふっと立ち止まるか、駆け出すか、それらが一人で遣っている様に自然に動くのであるからいかに修行するか明白である。足遣いは主遣いの腰に寄り添っていて腰の動きから主遣いの動きを察知し、左は人形の頭(かしら)の動き、肩の動きから主の動きを察知して動くのである。

たとえば写真などを見ても人形の形がすばらしい。武者など左は人形の肩のあたりを常に意識されているから、人形の右手が右斜め上に伸びて左手は左下に一直線に綺麗な斜め線が描け大きさを現したりできるのである。これがバランスが崩れていればやはり間延びして、ぴしっときまらない。足も左右どちらかをバランスよく曲げる事によって安定したよい形となる。

一輔さんは文楽に入って30年であるが、まだ師匠(吉田簑助)の遣いかたが全然わからないそうで、師匠の人形の頭の中の指はその場に応じて伸びているのではないかといわれていた。E・Tのように伸びるのかもしれない。それほど顔の表情や頭の動きが無限大なのであろう。遣われているかたが、涼しい顔で遣われているのでいつしか技術面などは忘れて見るものは泣いたり笑ったりしている。

主人公となるような人形の左・足遣い手は相当のかたが遣われているのであるから名前がでても良いのではと思う。黒子なのでどなたなのかわからない。今回の左は期待できるなどと思いつつ見るのも楽しさが倍増するかも。今日の足は駄目だったなどとの声も聞こえたりして。

葛西さんは古典芸能の造詣が深いので、話を引き出されるのが上手く、若手の現状を柔らかくよく表に出されていく。評判になった三谷幸喜さん作・演出の『三谷文楽(みたにぶんらく) 其礼成心中(それいなりしんじゅう)』と一輔さんたちとの創造過程の話から、文楽では若手でも世間的にいえば中堅で、青春時代を文楽にかけた重みを伝えてくれた。演劇界のスターに対しても文楽の世界では互角に対する気概はやはり先輩たちの苦節を背負ってたつ意気込みである。

この演目は来年1月1日 WOWOで放送される。NHKさんも放送してください。

『三谷文楽 其礼成心中』

作・演出/三谷幸喜  作曲/鶴澤清介

出演/竹本千歳大夫・豊竹呂勢大夫・鶴澤清介・吉田一輔 ほか

 

 

 

 

 

平家物語の能 『清経』 (きよつね)

平家物語は古典芸能にも多く取り上げられている。国立能楽堂で、能「清経」を観ることができた。始まる前に「『平家物語』から能へ」の解説があり、大変参考になった。ただ清経は重盛の第三子であるのだが、物語の中で何処に出てきたのか記憶にないのである。捜したのだがいまだ判明していない。記述は四行くらいらしいのだが。

「清経」は世阿弥作で、そのほかにも世阿弥作の『平家物語』からの能は「頼政(よりまさ)」「実盛(さねもり)」「景清(かげきよ)」「忠度(ただのり)」「敦盛(あつもり)」などがあ。これらは修羅物(しゅらもの)といわれ、死んで修羅道に堕ちた武士の霊が、救いを求めてこの世に出現するという演目である。その他、義経 がでてくる「屋島(八島)」なども世阿弥作である。

「清経」のあらすじは、平家一門とともに西国に渡った清経が入水し、家臣の淡津三郎(あわづのさぶろう)が京の屋敷で一人待つ清経の妻に、形見の髪を届けにくる。妻は驚き悲しみ、遺髪を見ていると自分を残して命を絶ったことが恨めしく思われるので宇佐八幡に納めて欲しいと三郎に返してしまう。夜も更けて清経の霊が現れ、自分の形見の髪を手放したことを恨み、妻は妻でまた会えると約束したのにと恨む。清経は神にも見捨てられ絶望の末に決意した心情とそれまでの状況を語る。

最後に月に向かい笛を吹き今様を謡い、最後に念仏を十唱えて入水する。この場面の地謡が哀愁にみちている。

<人にはいはで岩代のまつ事ありや暁の、月にうそむくけしきにて舟の舳板(へいた)に立ちあがり、腰より横笛(ようじょう)抜き出だし、音もすみやか吹きならし今様を唄い朗詠し>

<西に傾く月みればいざや我もつれんと、南無阿弥陀仏弥陀如来、迎へさせ給へと、ただ一声(ひとこえ)を最期にて、舟よりかつぱと落ち汐の、底の水屑(みくず)と沈み行くうき身のはてぞ悲しき。>

この船上の笛を吹いてる清経の姿は、絵師・月岡芳年の『月百姿(つきひゃくし)』の中の「舵楼(だろう)の月」に描かれていると教えられたので調べると波静かで月に笛で語りかけているようである。また、経正の絵もあり「竹生島月」とあり、竹生島で琵琶をかなでている。

解説者によると、「舵楼の月」絵は、『平家物語』からでは無く能から発想したのではないかといわれていた。そう思える絵である。

入水後、修羅道に苦しむが最後に念仏を十唱えた功徳で成仏できるのであった。

数少ない能の鑑賞のなかで一番ゆったりと余裕をもって受け入れられ、一つ一つの動きや謡の内容・声・面の変化など楽しめた。それぞれ戦いによって追い詰められていく内面も修羅道で、それを能は様式美と面で普遍性を広げている。

「清経」は、男女の心情の相互理解の難しさもテーマとしているのだそうだが、動きとしてはその修羅場はないのでその点は深く感じなかった。

『平家物語』に誘われての新たな展開であった。

(国立能楽堂 12月公演)

解説・能楽あんない 『平家物語』から能へ 小林建二

狂言・大蔵流     「狐塚」 茂山千五郎・茂山正邦・茂山茂

能・宝生流       「清経」 當山孝道・水上優・高安勝久

 

 

村山源氏

下北沢の本多劇場「バカのカベ」の観劇のあと古本屋で村山リウさんの「源氏物語」と遭遇。一度だけ村山源氏の講義を受けた事がある。主婦の友社であったような気がするのだが。
物語よりも衣装・色・髪かたち・着こなし・道具の事などを詳しく説明された。

「平家物語」を読んでいて、例えば維盛が頼朝追討の出陣の容姿は<赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に萌黄縅(もえぎおどし)の鎧を着て、連銭葦毛の馬に黄覆輪(きぷくりん)の鞍(くら)をおいて乗っている。>とある。こういう出で立ちがぱっと絵になって目に浮かぶともっと楽しいと思う。

時間的余裕がなく村山源氏の講座は一回しか聴けなっかたが、こういう入り方も今となれば面白い。「源氏物語 ときがたり」は全二冊で読みやすそうである。前回の古本屋は映画関係の本であったが、今回は古典関係の本に目がいき、古典は人気がないのかかなり安価で買うほうはニコニコで加減しつつも相当の重量を我慢して持ち運んだ。

「日本列島恋歌の旅」~梁塵秘抄と後白河院~では後白河院の今様への愛着は半端ではなく、<三度も声帯を破ってしまったというのだから、相当のマニヤ、歌キチ。プロ級の打ちこみ方といえるだろう。>と杉本苑子さんは書かれている。<艶っぽい歌詞の氾濫かと思うと、さにあらず。圧倒的な量を占めるのは神や仏への信仰歌なのだ。> さらに<したたかな策士のように見られているけれど、運に恵まれて危急を切りぬけた場合も、なるほど多い。帝王などになるより皇族のまま、グループ・サウンズでも結成し、気楽な一生を送ったほうが、あるいはお仕合せであったかもしれない。>と結んでいる。

重いおもいをしても、書物からほとばしる面白さは、それを忘れさせてくれる。

村山リウさんで思い出すのは<友人たちとの外での食事などは割り勘にさせてもらってます。はじめの頃は、多少仕事もし収入もあるので皆さんの分を払った事もあったのですが、自分の名を鼻にかけていると言われ、お金を払ってまで言われたくない。割り勘にして、ケチと言われるほうがまだいいですよね。>と言われて皆さんを笑わせていたのをなぜか覚えている。かなりの年齢になられていたが自分の意見をはっきり言われ清々しいかたであった。

 

 

忠度(ただのり)・経正(つねまさ)の都落ち

清盛の弟、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は都を去るとき歌の師である藤原俊成を訪ねて、世の中の乱れから数年歌の道を粗略にしていたわけではないが疎遠となっていたこと詫びる。自分は都を離れるが勅撰集のご沙汰があった時は一首なりとも入れていただきたいとお願いする。世の中が鎮まってから俊成は『千載集』の中に一首入れる。ただし帝からとがめを受けた平家の人なので「読み人知らず」と名を伏せ「故郷花(こきょうのはな)」という題の歌を一首。

さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな

敦盛の兄であり、経盛の長男である経正(つねまさ)は仁和寺(にんなじ)の御室(おむろ)の御所に八歳から十三歳の元服まで稚児姿でお仕えていた法親王(ほっしんのう)にいとまごいに訪れる。法親王は戦の出で立ちなので遠慮する経正を庭から大床(おおゆか)まで上げさせる。経正は琵琶の名手でもあったのでお預かりしていた赤地の錦の袋にいれた琵琶<青山(せいざん)>を名残をおしみつつ、都に帰って来る事があればまたお預かりしますと言ってお返しした。

法親王はたいそうかわいそうに思われ歌を詠まれて一首おあたえになった。

あかずしてわかるる君が名残をば のちのかたみにつつみてぞおく

経正の返歌。

くれ竹のかけひの水はかはれども なほすみあかぬみやの中(うち)かな

この琵琶は仁明(にんみょう)天皇の御代に唐から伝えられた名器で、仁和寺の御室に伝えられたもので、経正は法親王の最愛の稚児であったので、十七歳のときこの名器を賜ったとある。

心に残るいとまごいである。

 

平家の笛

大原富枝の平家物語」を読み始めた。読みやすく、見逃していた細かいところに興味がいく。

高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)が大切にされていた笛のことなど。宮は<小枝(こえだ)>と<蝉折(せみおれ)>二本の笛を所持されていた。二本とも中国産の竹からできている。<小枝>は宮が御所から逃れる時忘れたのを信連が届け最後まで所持されていた。

<蝉折>は鳥羽院の時宋の皇帝から贈られたもので、蝉のような節のついた竹で作られた由緒あるもので、宮が笛の名手でいられたのでご相伝になった。宮はいまは最後と思われたので三井寺の金堂の弥勒菩薩に奉納されたとある。

よく知られているのは敦盛の<青葉>の笛であるが、「平家物語」では敦盛が熊谷次郎直実に討たれたとき身に着けていたのは<小枝(さえだ)>となっている。敦盛の祖父忠盛が鳥羽院から賜った名笛を父経盛からやはり笛の名手であった敦盛に譲られたとある。<小枝>が(こえだ)と(さえだ)の二通りの呼び方で二本の笛があるのが面白い。

須磨寺には、敦盛卿木像(熊谷蓮生坊作)と青葉の笛が展示されていて、青葉の笛の説明がつぎのようにあった。 [ 弘法大師御入唐中 長安青龍寺に於いて天竺の竹を以ってこの笛を作り給ひ 笛を加持遊ばされしところ不思議に三本の枝葉を生す。大師帰朝の後 天皇に献上。天皇青葉の笛と命名。後 平家につたわり敦盛卿の笛の名手にて愛玩。肌身放さずもつ。] 右に青葉の笛、左に細い高麗笛があった。この笛も敦盛所持の笛なのか。

平家の公達は歌・舞・音曲・御所での儀式のしきたりを心得、さらに武芸にも優れていなければならなっかたわけで、これらすべてを兼ね備えられるとしたらスーパースターである。頼朝が鎌倉に幕府を開いた意味もそこにあるのか。

 

須磨寺にある平敦盛と熊谷直実の像

 

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敦盛を呼び止める熊谷

 

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振りむく敦盛

 

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芭蕉の句碑 (須磨寺や ふかぬ笛きく 木下闇)

 

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『バカのカベ~フランス風~』(加藤健一事務所)

時のながれも粋なもので、風間杜夫さんと加藤健一さん息もぴったりである。

風間杜夫、加藤健一とくれば<つかこうへい>だが、その頃は演劇雑誌か何かで「熱海殺人事件」を読んで、こんな台詞をどうやって料理して舞台に載せるのかと想像がつかなかった。舞台の汗だらけの役者さんの写真と劇評を読んでもやはり想像力はこの台詞たちを突き抜けられなかった。つかこうへいさん作・演出の初めての舞台は、「熱海殺人事件/モンテカルロ・イリュージョン」で感じはつかめたので、最初に読んだ戯曲の舞台を楽しみに待ちやっと見れた時は嬉しかった。台詞と役者の動きが突発的であるのに必然でもあるようにも思わせ、それは不合理だと思わせていつの間にか納得させられてしまうその押し寄せる波は、怖さと快感を伴っている。今度はだまされないぞと思っているのにまた裏をかかれる。世の中よく見つめなければ。

とにかく動き回りしゃべりつづけたお二人の30年ぶりの共演(競演)である。文句なく楽しい。登場人物になりきっていただければ話の展開としては笑わせてくれる話なのであるが、そう簡単なものではない。ドタバタで終わってしまう可能性もある。

ピエール(風間杜夫)は毎週火曜日、変わり者を招待し本人には気づかれないように「バカ」として仲間内で笑って楽しむという悪趣味がある。そんな事を知らず招待されたフランソワ(加藤健一)は自分の趣味のマッチで作る橋や塔の事を理解してくれる新たな友人が出来ると思い込んでいる。ピエールがぎっくり腰になってしまいフランソワと自分のマンションで待ち合わせて行こうと思っていた悪趣味のパーテーにいけなくなる。動けないピエールはやってきたフランソワに来週に延ばすことを了承してもらい、来週の為にフランソワから笑いのねたを捜しておこうとする。動けないピエールの事を思ってやるフランソワの行動は自分の思い込みを優先させ脱線し誠実でありながらどんどんピエールを窮地に追い込んでいってしまう。動けないといってもフランソワとのからみで動かざるえないピエール。つかさんが見たら30年後のおまえたちの動きにしては上出来だといいそうで可笑しい。笑い者にされかけたフランソワが引き起こす渦はあるところでキュウーと上手く治まるかに見えて・・・・

風間さんと加藤さんのそれぞれが歩まれた芝居の経験のコラボの上手さだと思う。ピエールとフランソワの人物像がしっかりしているのできちんと役の登場人物を楽しめる。そこの基本はお二人共通していると思える。どんなに笑っても観たあとで、ピエールはこんな人、フランソワはこんな人と人物像が残る。お二人気が合って楽しそうに演っておられるがそれだけの役者魂とは思われない。よく笑わせてもらいました。つまらぬ事をぐだぐだ書いて笑われているのは承知のうえである。

 

 

平家伝説と歌

平家伝説が様々のところにあるらしい。そしてそこには歌も残されている。

宮崎県の椎葉村にも平家の落人伝説がある。壇ノ浦で敗れた平家の残党が椎の里に隠れ住んでいた。残党狩りのため探索に来た源氏方の那須大八郎宗久(那須与一の弟)はこの隠れ里を見つける。しかし、慎ましく静かに暮らす落人の生活に感銘し、この地に留まる。やがて大八郎は、平清盛の末裔である鶴富姫(つるとみひめ)と恋仲となるが、鎌倉の命で帰国してしまう。鶴富姫は大八郎の子を産み、その女の子に婿をとりこの地の那須家の始祖としたとのはなしである。

民謡「ひえつき節」は大八郎と鶴富姫の悲恋を歌ったものだそうで歌詞を見ると出てくる。

庭の山椒の木 鳴る鈴かけて ヨーオーホイ (これは聞いたことがある)

おまや平家の公達ながれ~

那須の大八鶴富捨てて~

しっかりと二人のことが歌詞になっている。気にもかけずに聞いていた事になる。

宮崎県の民謡「五木の子守唄」も五木村に平家の落人伝説が語り伝えられ、落人伝説と関係があるともいわれているようである。

 

 

歌舞伎 『将軍江戸を去る』

友人がNHK「にっぽんの芸能」「歌舞伎・将軍江戸を去る」での市川海老蔵さんの声の出し方が変わったのではないかと思うが、との感想があり急いで録画を見る。この演目は澤瀉屋襲名の演目の一つである。

海老蔵さんが渋い。お腹のあたりが膨らんだりへこんだり。複式呼吸である。台詞の声の幅が豊富で安定している。声を荒げるわけではない。あれだけの呼吸の上下運動があれば声にその息の動きが響くのではと思うがいたって穏やかである。ただ慶喜に対しての場面であるから役柄として当然力の入るところであるが、力みは押さえ、慶喜を刺激し過ぎず、慶喜に<時には裸身に成りたい時も或る>と言わせるあたりの引っ張り方も、ついに慶喜が<鉄太郎を呼べ>と言わせるまでもって行く手順の運びもこの声でやるのである。こういう脇も固められるのだと歓心した。

『将軍江戸を去る』は、江戸城を渡す日、徳川慶喜が水戸に隠棲するため静かに江戸を去るまでの前日と当日のはなしである。

大政奉還も終わり、江戸城無血開城も決まり、慶喜(市川團十郎)は上野大慈院の一室に謹慎している。ところが明日水戸に退隠する予定が慶喜病気のため延期になったと聴き伊勢守(市川海老蔵)がその真意を確かめにくる。謀反を勧めるものもあり慶喜が退隠の意志を翻すのではとの心配からもう一度真意を確かめたいとするのである。同じ様に思った山岡鉄太郎(市川中車)と門前で行き会い鉄太郎を拒む彰義隊を静め同道する。

伊勢守は槍の指南役で慶喜の薩長に対する怒りを一身に引き受ける。慶喜の気持ちが解かりすぎるくらいわかるのである。そう思わせる海老蔵さんの伊勢守であった。そこに別室に控えていた鉄太郎の声が響く。水戸は幽霊勤皇だと叫んでいる。(このあたり意味不明であった)慶喜はついに我慢できなくなり鉄太郎をそばに呼ぶ。ここから鉄太郎=中車さんの見せ所である。

鉄太郎は時には慶喜を刺激し熱弁である。意味不明であった<尊王>と<勤皇>の違いもなんとなく理解できた。<頼朝以来の武士の政権を壊す><国土と民を皇室に返し徳川家は一代官となる>そこまでやらなくては徳川家の権力をまだ夢見ている人々と薩長との争いで江戸は火の海となり、罪無き江戸の民が巻き込まれてしまう。(そのように理解した)鉄太郎は二回ほど言ったと思う。自分も時の流れの中でそのことが解かったのだと。

このあたりは鉄太郎=中車さんの何とか慶喜の怒りがあらぬ方向へ行かせず決めた真意を貫かそうとする姿と襲名した一役者の一生懸命さが重なる。

印象的なのが後ろに控えている伊勢守である。鉄太郎の考えをじっと聴きつつ、そっと目線が慶喜の方に動く。その目が何とも言えない。慶喜に対する不安と慈愛と祈りが混ざりあっているように見える。そこで初めて解かる。伊勢守は自分では慶喜の気持ちが解かり過ぎ慶喜の情に負けてしまうと考え、鉄太郎なら慶喜の進むべき道を間違わせずに解き明かすであろうと考えたのだと。

鉄太郎もそのところは解かり、慶喜も二人の思いが解かったと思う。

次の朝、千住大橋で江戸の人々に見送られる。鉄太郎が<その一歩が江戸の端です>と。焼け野原の江戸ではなく、昨日と同じ江戸を残して慶喜は江戸の人々と別れをつげるのである。

山岡鉄太郎は山岡鉄舟である。あの『塩原太助一代記』を書いた圓朝と一時期住まいが近く交流もあった人である。またまたここでお会いできるとは、まだ他でもお会いしてるのです。映画「勢揃い東海道」で片岡千恵蔵さんの清水次郎長に市川右太衛門さんの山岡鉄舟。実際に繋がりがあったようで、山岡鉄舟という方はかなり広範囲の方と交流のあった方らしくその辺を考慮するなら中車さんはもっと味のある山岡鉄太郎も作りあげられるのではなどとも考えたのだが。

作・真山青果の維新三部作の三部目である。『江戸城総攻』『慶喜命乞』『将軍江戸を去る』