新派 『葛西橋』 (1)

三越劇場での新派名作撰『葛西橋』『舞踏 小春狂言』。歌舞伎の俳優参加の新派名作発掘である。

葛西橋』はかつて東京で一番長い木の橋であったらしい。地図を見ると江東区清洲橋通りの荒川近くに旧葛西橋とあり橋はない。、旧葛西橋バス停はかつて葛西橋バス停だったのかもしれない。今の葛西橋バス停は現在の葛西橋の近くで現葛西橋はコンクリートの大橋で新派の雰囲気ではない。新派の場合難しいのは、かつての名作の継承を庶民の生活音と香りも残さなければならないことであり、その想像力を観客の中に呼びもどさ無ければならないことである。すぐそこにあるようで町はどんどん変わっているので江戸などにポーンと飛ぶより難しい事がある。

作・北條秀司 / 演出・成瀬芳一

おぎん・菊枝(おぎんの妹)・美也子 (三役)・市川春猿/友次郎・市川月乃助         お辰・市川笑三郎

葛西橋の近くに友次郎と菊枝が所帯を持つ。姉のおぎんは洲崎の遊郭の娼妓である。友次郎とおぎん深い仲であるが、菊枝が友次郎に惚れている事を知ったおぎんは、自由にならぬ自分の立場と二人の幸せを思い身をひき二人を添わせるのである。ところが友次郎は競馬と株で会社のお金を使い込む。さらにフルーツパーラーののマダム美也子と結婚の約束までしていた。菊枝が行方不明となり、菊枝が働いていた髪結い店のお辰が親身になりさがす。菊枝は身体を売って友次郎を助けようとしていた。菊枝にとってショックだったのは美也子が姉のおぎんに似ていたことである。警察の手もまわり友次郎は樺太に逃げることにする。葛西橋の上から友次郎が乗る船を見送るおぎんとお辰たち。その船に菊枝も乗っていた。思わずおぎんは叫ぶ。「畜生・・・・菊枝の畜生・・・・」

おぎんと菊枝の姉妹が翻弄される男友次郎。月乃助さんは長身さを使ってなんとか駄目さ加減を見せずにすまそうとする男の矛盾をだしていた。菊枝という純な娘が居ることによっておぎん友次郎はバランスを崩していくのであるが、最後に、菊枝が落ちて行くのを見ておぎんがだったら最初から菊枝に譲らなかったというのは、おぎんの菊枝を利用した自分の夢の崩壊であり、菊枝にしてみれば代理にされた反逆でもある。その間に入って落ちていく男のどうしょうもなさ。というふうに解釈させてはいけないのが新派なのかもしれない。ただこれからの新派は、そういう解釈もありえるということを意識しつつ闘っていかなければならない。かつての見せる芝居には中も周りも想像する環境が変わってきている。

観る側は、やはり観ないことにはどんな作品であったのかという事が解からないのであるから、大変でも堀り起こしていって欲しい。そこに新たな芽が出るかどうかはすぐには解からないものである。 

もぐらさんたち 【梁塵秘抄】 (りょうじんひしょう)

大河ドラマ「平清盛」 第40話。いい形で<梁塵秘抄>が出てきました。

「梁塵秘抄」とか「源氏物語」とか生活の中に溶け込んだ形でだすのが上手いですね。今回の脚本家さんは。

<舞え舞え蝸牛 舞わぬものならば ~>が出てきた時の異種を思わす後白河の雰囲気が面白いと思ったが、それが後の世にまで今様を残すと賽の目はでた。それを引き出す滋子がやわらかい。あのウェーヴした髪が、人と違っても動じない強さを感じさせ人物造形の手法の細やかさが出ている。

テーマ曲にも ラストに<遊びをせんとや生まれけん~>と今様が入る。出だしはピアノの一音一音から入っていくのが何処か違う世界に居て、そう母体の中にいて嵐の中に飛び出す前のやすらぎの世界のようである。

新聞のテレビ番組欄で「交響組曲 平清盛 大河ドラマ音楽の世界へ」を発見。9月20日に呉市で開催されたものの再放送でどっぷりとテーマ曲に浸った。作曲は吉松隆さん。平氏と源氏の曲調の違いなども説明してくださり、なるほどと改めてゆったりと聴けた。ピアノは<左手のピアニスト>舘野泉さんであった。映像ではあるが実際に演奏されているのを聴くのは初めてで嬉しい出会いとなった。大河ドラマのテーマ曲で口ずさめるのは「赤穂浪士」と「平清盛」であろうか。

もう一人の出会いは桃山春衣さん。梁塵秘抄などを歌い継がれている方で、郡上八幡で知ったのであるが記憶から薄れていて、検索して確認した。郡上八幡では<郡上踊り>に魅せられ、あの軽く下駄を鳴らす踊りに参ってしまった。今年の夏は東京青山での郡上踊りを見学した。岐阜から郡上にはいる山深さも魅力で、映画『郡上一揆』なども見た。ここにきて梁塵秘抄から桃山春衣さんが色濃く成ったのである。残念なことに他界されている。

映画 『馬』

映画『』と記せばやはりこの映画の事に触れないわけにはいかない。

』 1941(昭和16)年 東宝映画

監督・脚本・山本嘉次郎/製作主任・黒澤明/出演・高峰秀子・藤原鎌足・竹久千恵子

物語は、生まれた仔馬を貰えるということで妊娠馬をあずかった農家の少女いね(高峰秀子)が、まずは親馬のはなの世話を母親に嫌味を言われるほど一生懸命になる。そして約束通り生まれた仔馬を貰い少女いねと仔馬の交流が始まる。仔馬のうちに借金のため売られた馬を自分が紡績工となり仔馬を買い戻す。無心で心を込めて育てた仔馬も2歳となり結果的には生活のために軍馬として高く売らなくてはならないラストの別れは判っていながらどうする事も出来ないいねの気持ちと同化する。

「私の渡世日記 上」(文春文庫)に高峰さん自身が、撮影の様子や山本監督・製作主任黒澤さんの事など冷静な目で書かれている。また撮影外での馬との交流も書かれているが随分荒っぽいことを少女スターにやらせていたと思う。

この映画は昭和14・15・16年と三年越しで撮影されている。東北の四季が盛り込まれており軍馬を育成する事は国策でもあったので出来た贅沢かもしれない。大スター三船敏郎さんを見出したのは山本嘉次郎監督でデビュー作が黒澤さんと山本監督のもとで助監督をしていた谷口千吉監督の『銀嶺の果て』、その後、黒澤明監督の『酔いどれ天使』『野良犬』と続くのである。『馬』のカメラマンは春・夏・秋・冬それぞれ4人が自分の得手とする季節を担当していたというのも他ではないであろう。黒澤さんがこの『馬』から学んだ事は、後の自作映画に影響を与えていると思う。時代劇の馬の扱いかたとか隊列を組ませて歩かせたり走らせたりセット・衣装など。

撮影ロケの馬は移動させる事が出来なかったので現場でそれぞれ違う馬が調達され、小道具さんがその度に同じ馬と見えるように部分的な毛の色を変えたりする作業に高峰さんは同情しているが、馬と信頼関係を演じている高峰さんの大変さも並ではない。役者というのは肉体労働者である。

』を見直した。馬に注目して見ていたが、人物も馬も自然描写も丁寧である。

いねの馬に対する献身さは、母に嫌味を言われても馬中心である。馬のはなが病気になった時、真冬に雪に埋もれながら山道を青草求めて歩く姿は、こうと決めたら曲げない彼女の性格をよく表している。その性格が母親に叱られる原因でもあるのだが、はなが出産する場面は、父親の活躍の場で家族が一体化していく様子がよく出ている。この場面はこれからも映画ファンを魅了するであろう。生まれた仔馬が自分の力で立ち上がるのを応援する家族の姿を馬側からも撮っていて家族の顔が輝いて笑い声で溢れる。

馬の方の映像はドキュメンタリーのようである。また借金のために仔馬を売って、親馬が馬小屋から逃走して走りまわるシーンも長いショットである。その姿からいねは紡績工となって仔馬を買い戻すのであるが、母親が一番反対する。体を壊しでもしたらどうするのかと。いねの友達も皆行っているのだが、まだまだ紡績工の労働条件の過酷だったことがうかがい知れる。

お盆にいねが帰ってきて仔馬をこぞうと呼んで捜すが解からない。こぞうはいねの後ろからずうっとついていく。美しいシーンである。こぞうはいねの想像を超えて成長し立派な体格になっていたのである。しかしそれは別れの時でもあった。

こぞうは馬市で競りにかけられる。550円と高値で軍馬として買われることとなる。これでいねの紡績会社への借金も払うことが出来、紡績工から開放される。だがいねにとってそれは喜びとはならなっかた。その矛盾のなかでじっとこぞうを見送るいねの涙顔。いねの激しいときは激しく、決心したときは抑えた姿がそのまま共感できる。

興味をひいたのは、いねの兄が編んだバスマットが、東京駒場民藝館の東北地方農業民芸展覧会で評判を得て100枚の注文がきて手付けとして30円送られてきたことである。この民藝館は1936年に柳宗悦が駒場の自宅隣に建てて「民芸運動」の拠点としていたわけで映画の中でその活動の一端を知れたわけである。「日本民藝館」は今でもあり、近くには「日本近代文学館」「旧前田侯爵邸」がある。

もう一ついねの一家が預かった馬の品種がノルマンで当時軍馬はノルマンと決まっていたそうである。ということは時代によって馬の品種も違うわけで、黒澤監督などの時代映画はその辺はどうだったのであろうか。この映画『馬』に関してはその時代のノルマンを存分に堪能できる。

さらに今では歴史的建造物としてしか見られない住居の中の馬小屋のある生活が余すことなく描かれていて、馬と共に生きた農耕文化の一時期の生活をいねを通して体感できるのも映画の力である。

追記: その後、映画の馬がノルマンにサラブレットを交配したアングロ・ノルマンと知る。軍馬生産振興のために政府からの指示で制作された映画だそうであるが、少女と馬の交流が心に残る映画となっている。アングロ・ノルマンの馬は今は「幻の馬」で馬を見るだけでも貴重な記録映画となっている。

追記2: アメリカ映画で馬と少女の映画と言えば1945年のエリザベス・テイラー主演の『緑園の天使』である。こちらの少女は夢に向かってひたすら行動する。

映画 『夢』

黒澤明監督・脚本の映画 『』(1990年)を見直した。

浅草にある 布文化と浮世絵の美術館「アミューズ ミュージアム」で <美しいぼろ布展>を開催している。青森の厳しい自然のなかでは綿花の栽培は無理で麻布が主で綿布は大事に大事にされ、布というものは繕われ、重ね合わされ、さらに刺し子をして身を守る物として代々伝えられていった。さらに使い古しの着物は細く切り裂かれ、それを織り上げ新しい布(裂織・さきおり)として再生させるのである。

その青森の本物の野良着を使ったのが、映画『』の最後の夢、水車の村のお葬式の葬列に出てくる村人たちの衣装である。その衣装集めを頼まれたのが<美しいぼろ布展>の中心的人物、田中忠三郎さんで一人こつこつと江戸~昭和にいたる衣服や民具をあつめ生まれ故郷の衣服に対しては母親の言葉「布を切るのは肉を切るのとおなじこと」を胸に集められていて、寺山修司さんの映画『田園に死す」でも協力されている。

民族学者、民族民具研究者でもある田中さんの集めた膨大なコレクションの786点は国の重要有形民族文化財に指定されているという。(「物には心がある」 田中忠三郎著より)

映画『』の水車の村で笠智衆さんや村人が被っている帽子(端折・はしおり)は映画『馬』(1941年)を撮影していたとき、山本嘉次郎監督と助監督だった黒澤監督が津軽のその風俗の美しさに目を見張りその記念として買い求めた帽子で、それから50年後に映像の中でいかされるのである。

すげ笠を帽子のように形つくり前の部分が顔が見えるように美しい折り返しとなっている。この映画『夢』のコーナーも「アミューズ ミュージアム」にはあって、裂織の前掛けの美しさとともに目を楽しませてくれる。

そんな事から『』を見直したのだが、黒澤さんの先を見通す眼力には驚いた。そして水車の村を最後にした『夢』は人間の自然の姿を現しており、<夢>ではなく自然の摂理にかなった人の生き方でそうありたいと思う姿である。

この水車の村は、安曇野の大王わさび農場で撮影されている。撮影の時は水車を幾つか新たに設置している。JR穂高駅から自転車で大王わさび農場へ向かう風景は自然に抱かれているようで素晴らしい。駅の反対側には「碌山美術館」もあり、黒澤監督とは違う自分だけの<こんな夢を見た~>と言える『』の映像を創ることができる。

「アミューズ ミュージアム」は浅草寺の二天門に隣接していて、美術館の屋上からはスカイツリーも見え、なんといっても浅草寺を上から真近に見られるのが嬉しい。浮世絵の大胆な構図で眺めている気分になる。

追記: 残念ながら「アミューズ ミュージアム」は建物が老朽化のため閉館してしまいました。

国立劇場『通し狂言 塩原多助一代記』

『塩原多助一代記』は歌舞伎では52年ぶりの上演で、通しでは83年ぶりだそうである。どこかで「塩原多助」の噺と芝居があるという事は目にし、苦労して財を成した人までは解かっていたがそこまでであった。

8月に<本所深川の灯り(2)>で下記のように記した。

>三遊亭円朝旧居跡(この地で塩原太助一代記を書く)・山岡鉄舟旧居跡などなど歴史の足跡が沢山ある。

それが、国立劇場で購入した「三遊亭圓朝の明治」(矢野誠一著)で圓朝と鉄舟との交流関係を書かれていた。さらに「塩原多助」は初め塩原家の怪談話から取材していたが出世一代記となった事も書かれている。江戸から明治を生きた芸人の半生記が簡潔に書かれていて引き込まれる本である。

その辺の事は別にして歌舞伎としての「塩原多助一代記」に入る事にする。

解かりやすい芝居である。芝居を見ていけば多助の人間性も解かるし、多助の商売に対する姿勢も解かる。多助は子供の頃、親の出世の為に塩原家の養子なる。養父が亡くなり後妻の母に虐められ命も危うくなり江戸へ逃げ、炭屋に奉公し独立して嫁も貰い目出度し目出度しとなるのである。

役者さんたちの台詞が聴きやすくある面では、歌舞伎として演技的に物足りないとも言えるが善と悪に際立って分けると言うのではなく、多助の質実な生き方を中心に据、恨みを薄めて前に進む多助像を生かしたといえる。

多助(坂東三津五郎)の父、塩原角右衛門(市川團蔵)は沼田で偶然同姓同名の百姓と出会い50両で息子を養子にするが、その時父はあくまでも預かっていた息子を実の親に返し、今まで育てた礼として50両を手にすると自分に言い聞かせる。その為、多助が江戸で仕官した親と逢った時、父はなぜ実家を見捨てたのかとなじり多助とは逢おうとはしない。このあたりは母親(中村東蔵)の想いとは違う父親像で、多助は恨みつつも沼田の実家の再興を心に決めるのである。

多助は養父(坂東秀調)の後妻のお亀(上村吉弥)の連れ子のお栄(片岡孝太郎)を嫁にしているが、お亀親子は侍の原丹治(中村錦之助)丹三郎(坂東巳之助)親子と不義をし邪魔な多助を離縁して追い出したいのだが多助は分家の太左衛門(河原崎権十郎)の助けもあり養父に背くことになると承知しない。そこでお亀・原親子は多助殺害を企てる。

ここで多助と愛馬青との別れの場面となる。仕事の帰り青はなぜか前に進まない。何かを察知している。そこへ友人の百姓円次郎(中村橋之助)が多助の代わりに青を引いてくれる。円次郎が気の良い性格で多助の身代わりとなった時、なかなか多助が円次郎を残して逃げれない気持ちがわかる。それを押しての青との別れが胸に響く。多助の情、青の鼻息、尻尾の振り方、袖の引っ張り合いなどいい場面である。この場面が後に、落ちぶれた姿で幼子を連れたお亀と逢って青の消息を聞くとき観客はこの場の青を思い出し、青の活躍に溜飲を下げ青の無念さを思うのである。そして多助が幼子とお亀を引き取るのも、青の人間よりも一途な思いにかられてと納得できるのである。この間にお亀と原丹治がだまされる場面と悪党道連れ小平次(坂東三津五郎)のゆすりの場があるが芝居としては薄味である。それゆえに、多助の生き方に目がいくのであるが。

そんな多助に縁談があるが相手が大店の娘お花(片岡考太郎)であるため身分違いと断る。多助の仕事仲間の久八(中村萬次郎)の養女となったお花は、長い振袖を鉈で断ち切り、共稼ぎの炭の粉で暮らす覚悟をみせ目出度し目出度しとなる。嫁については、前のお栄の事もあり貧乏に負けない相手を多助は望んでいたのであろう。

ただ多助は倹約だけに務めてる訳ではない。入って来たお金にもっと働いて来いとだしてやり、もう十分働いて動けなくなったら収めるのだという。また、お金のない人達には炭の計り売りをしお客の便宜を考えた商売をする。多助の堅実さが商売にも生かされるのである。

「三遊亭圓朝の明治」(矢野誠一著)の本には、圓朝の<不肖の倅>の事が書かれている。もしかすると圓朝が『塩原多助一代記』を一番語って聞かせたかったのはその<不肖の倅>になのかもしれない。

 

もぐらさんたち 【西行花伝】

辻邦生さんの小説「西行花伝」をもとに、NHK・FMでラジオドラマを制作放送

「西行花伝・その一/花の巻」 平成九年(1997)1月2日(木) 21時~22時45分

「西行花伝・その二/雪の巻」 平成九年(1997)1月3日(金) 21時~22時45分

「西行花伝・その三/月の巻」 平成九年(1997)2月11日(木)23時10分~午前1時

合わせると5時間20分の放送である。幸いにもこのドラマはCD化され販売されていた。西行の名前というより声の出演者に引き付けられ購入したのである。

CD・Ⅰ/序の巻  青年義清の青春から出家の動機を探る発端篇。

CD・Ⅱ/破の巻  出家を許され西行と名のり歌と共に自分の道を捜しあぐねる若き僧西行の激動篇。

CD・Ⅲ/急の巻  西行高野山に籠り、<保元の乱>勃発。崇徳院の配流と崩御に悲哀    の乱世篇。

CD・Ⅳ/寂の巻  崇徳院の眠る讃岐白峰陵に詣で、その後心穏やかに歌と仏の道を歩き    73歳の春、望みどうり満開の桜の下で永眠する黄金の晩年篇。

<願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ>

<仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば>

声の出演  西行(佐藤義清)/竹本住大夫

藤原秋実(西行の弟子)/阪東八十助(現三津五郎)

西住(鎌倉二郎・西行の親友)/日下武史

堀川尼(待賢門院の女房の一人・歌人)/川口敦子

寂然(西行の師藤原為忠の四男・歌人)/鈴木瑞穂

寂念(西行の師藤原為忠の次男・歌人)/北村和夫

兵衛佐局(待賢門院の女房の一人・堀川尼の妹・歌人)/白坂道子

玄徹(宋伝来の医術の心得がある聖)/津嘉山正種

登場人物の表現技術に優れた方々の声の出演である。西行の半生を、西行の出合った人々の事を語りつつ、あるいは西行の生き様を語りつつはなしは綴られていく。西行を軸にした磁場は時には激しく、時には諦念を持って、時には穏やかに広がりを見せる。

「西行花伝」では、鳥羽院が崇徳帝を白河法皇の子であると思い込んでいるとしている。鳥羽院・崇徳帝・待賢門院の孤独と悲しみが大きな渦となって嵐となるのを西行は予感し、なんともし難い人間世界を越えるものとして歌の心を追い求めていく。生涯を終えるまで西行の道にも悟りの道が開けたのであろうか。生きている間、皆人はそれを望みつつ死を迎えるような気がするのだが。

凄く贅沢なラジオドラマである。ラジオを聴く時間を持てない者にとってCDに出会わなければこんな大きな作品があったことなど知らずにいたわけである。先ずは出会えた事に感謝!

 

 

もぐらさんたち 【西行】

西行は、武芸・和歌・蹴鞠に優れていて鳥羽院の北面の武士として仕える。しかし、23歳(1140年)で妻子がありながら出家する。この時代出家しても世俗との関係は継続していたようであるが、西行は浮世を離れ仏道・山伏修行に身をおいたようである。出家の原因は鳥羽院と崇徳院親子をめぐる皇位継承らの争い、鳥羽院の中宮待賢門院への悲恋とも言われている。

待賢門院は1142年に仏門に入り1145年に崩御している。その後待賢門院の生んだ第四皇子が後白河天皇となるが、兄崇徳上皇と勢力が分裂し<保元の乱>となり崇徳院は讃岐に配流となる。西行は崇徳上皇の讃岐での崩御に心を痛め讃岐の崇徳上皇の白峰陵に詣でている。

崇徳院は「金葉集」「詞花集」の編纂を勅宣している。<瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う>(川瀬の流れが早いので岩にせき止められた滝川の水は分かれてしまうがいつかは逢いたいと思う)は「詞花集」に収めらてていて百人一首の77番目の歌である。

百人一首の80番目に待賢門院に仕えた待賢門院堀川の歌が載っている。<長からむ心も知らず黒髪のみだれてけさは物をこそ思へ>(あなたが長く私を思ってくれるかどうかわからない。今朝の私は黒髪の乱れたように心がちゞに乱れてもの思いに耽っている。)

百人一首の86番目に西行法師の歌が。<なげけとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな>(嘆けと言って月が私を物思いにさせるのであろうか。まるでそうであるかのように流れ落ちる私の涙よ。)

待賢門院堀川と西行法師の歌は「千載集」からである。「千載集」は後白河院が勅宣して編纂されたものである。

もぐらさんたち 【崇徳院】

落語に「崇徳院」という噺がある。歴史上の崇徳院は自分の皇子を帝位に就けることが出来ず、弟が後白河帝となる。崇徳院は政争に巻き込まれ保元の乱が勃発し、その争いで敗者となり出家して仁和寺に籠もるが、讃岐に流されてしまい讃岐で悲憤の中崩御される。

落語はその崇徳院の歌<瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う>を使っての噺である。熊五郎のお世話になっている家の若旦那が心の病になっているので原因を聞きだす役目となる。若旦那は恋の病で上野の清水観音の茶店でふくさを拾ってあげた娘の事が忘れられないでいた。手がかりは娘がお礼に短冊に書き残した崇徳院の歌<瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う>だけである。それを手がかりに熊五郎は娘さんを捜すのである。

古今亭志ん朝さんの「崇徳院」をCDで聴き直した。熊五郎と若旦那のやり取りが絶妙である。江戸っ子の職人の熊五郎は恋わずらいの若旦那の気持ちなど全然解からないから若旦那の話を混ぜっ返す。若旦那はため息吐息であるからその熊五郎に対し優男の頼りなさで答える。「元気ならぶつよ~」。この若旦那がなんともいい。歌舞伎の和事を声だけで表現している。客の笑い声が聴こえるので若旦那のときはそれなりの動きをしているのであろうが、声だけで十分伝わってき想像できる。流石である。

大河ドラマではこの歌は崇徳帝との佐藤義清(のりきよ)との間で交わされ政争の苦悩を表しているように使われている。一方それとは別に純粋の恋い歌としてみるむきもある。この佐藤義清が出家して西行となるのである。

 

平家物語

大河ドラマの「平清盛」の10話位までなら録画しているという方に録画のDVDを借りて見始めた。清盛を白河院の落胤とし、その事が色々に交差しあい情念が強くなっているようである。

映像は映像として、やはりこれは「平家物語」を読まなくてはいけないような気がしてきた。「平家物語」は叙事詩である。この物語は琵琶法師によって語り継がれてきたものである。語るための調子を持った文体である。読むとしたらもちろん現代語訳ではあるが、本当は原文を声にだして味わうのがよいのであろう。

様々な繋がりがモグラ叩きのモグラのように飛び出してきた。

落語・歌舞伎・今様・梁塵秘抄・郡上八幡・源氏物語・西行・地獄門・明石etc・・・・

「源氏物語」は殿上人の物語である。「平家物語」になると武士の地位まで下がり歌・舞・音曲を武士階級も貴族の真似をしつつ楽しむようになる。そのあたりを大河ドラマは上手く取り入れつつ果敢に闘っているように思われる。

大河ドラマ 38話「平家にあらずんばひとにあらず」は古典「平家物語」を使われているようだ。テレビの禿(かむろ)は創作かと思ったら「平家物語」の[禿髪(かぶろ)]の段に<十四から十五、六の童を三百人えらび、髪を禿に切らせ、赤い直垂を着せて召し使っていたが・・・・平家のことをあしざま口走る者があると・・・・禿がたちまち仲間に触れまわし・・・その者の家に乱入し、私財諸道具を没収したうえ、当人を捕らえて六波羅へ引き渡した>とある。

<入道相国清盛の妻の兄、平大納言時忠(ときただ)卿のごときは、「平家一門にあらざる者は、人にして人にあらず」と高言を吐いた。>

これは物語では始まって早い時期にでてくる。大河ドラマは古典の「平家物語」を探りつつ新たな清盛像を描いているのかもしれない。

 

平清盛

NHKの大河ドラマの「平清盛」が色々取りざたされていたが、2回で見るのを止めてしまった。基本的にテレビの続き物のドラマを見続けるのが苦手で映画派である。

村上元三「平清盛」を読んだところ面白い。帝、上皇、法皇と院政が形作られて行くのが解かるし、武士の台頭していく様も面白い。殿上人の世界の魑魅魍魎さ。そして今とは違う寺社の力。寺院の強訴というのが、神輿を担ぎだして京に入り込み混乱を起こすという手法は仏に仕えるというよりも、子供が衆人の真ん中で寝転がってバタバタ手足を動かし大人達を困らせているようで苦笑ものである。清盛はその辺も利用し武士が居なくては貴族は成り立たないと認めさせていくのだが。

今は信仰よりも美術品的にあるいは観光的に鑑賞してきたお寺などの名前が出て来て、その、木造建築、歩いた道、周辺の風景が平安後期に移動して小説の中に現れ、ただ見てきただけの浅はかな旅も少しは役に立つようだと思ったりしつつまた小説の中に入って行ったりした。

<延暦寺の僧兵は日吉社の社人(しゃじん)とともに、日吉社の神輿(みこし)を担ぎ、総勢五百人ほどで洛中になだれ込んで来た。>

観光バスで延暦寺から琵琶湖側に降りて来た時、日吉大社を通り坂本の町を眺めここにはまたいつか来ようと思った。そして三井寺、坂本と尋ねる事ができた。そのことが荒法師の猛り声と共に浮かび上がり、現世に変遷してきた寺院もまた人間の欲得にまみれていたと思うと親しみも湧くものである。延暦寺と三井寺(園城寺)も派閥問題等で対立していたようで、かの弁慶も延暦寺の荒法師で三井寺の鐘を戦利品として叡山まで引き摺り上げたという伝説も残っている。

旅の小話・・・・・ 三井寺には近江の昔話「三井の晩鐘」のはなしもある。この話を題材にした日本画を残され夭折した三橋節子さんのことも偲ばれる。(「湖の伝説 三橋節子の愛と死」梅原猛著)

三井寺を訪ねた時は、33年に一度開扉される秘仏 如意輪観音坐像にも御会いでき思い出深き旅となった。そして坂本では穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣をいたるところで眺めることができた。

弁慶の主人義経は鞍馬であるが、常盤御前を母とする牛若の兄・今若・乙若は醍醐寺にて出家する。醍醐寺というと秀吉の<醍醐寺の花見>が浮かぶが、まだ武士が権力を握れ無い頃、醍醐寺で命を救われた若子が出家したという時間空間もあったのである。

そんなこんなを考えつつ小説を読み終わり遅ればせながら大河ドラマを見始めた。面白い捉え方をしている部分と誇張され過ぎてる部分と半々である。清盛の新しい国造りの発想は面白い。ただ濃すぎる演技には閉口する。ドラマは役者の演技も楽しむものだが、そこまでやらなくても貴方の役どころは解かりますよと言いたくなる部分も或る。

自分が大河ドラマを見続けるには、それにそくした小説を読んで自分の中で筋を組み立ててからでなければ楽しめないようである。