国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(4)

三幕<生麦村道念庵室の場>。托鉢をして歩く道念(橘三郎)の庵室に、義興の弟・義岑(歌昇)と傾城・うてな(米吉)がかくまわれていた。道念は、元新田家の旗持ちで、義岑の素性を知っていて、新田家伝来の白旗を渡す。そこへ、若い男女が道念の庵室に入ったのを見たぶったくりの万八(吉三郎)が百姓を焚き付け二人を捕らえにやってくる。それを察知した道念は隣にある、稲荷大明神のお堂に隠す。

この稲荷大明神の鳥居の額のところに狐のお面がかかっていて、これは何か意味があるのであろうかと観ていたところ、道念はこのお面をかぶり、お堂から稲荷大明神となって飛び出し、万七の行いの悪さを百姓にお告げして退散させるのである。たわいないが、これが橘三郎さんの動きと百姓の恐れおののくタイミングが合い滑稽である。二幕目と歌昇さんと米吉さんの落人の物悲しさからちょっと息抜きさせる場でもあり、二人を力づける場でもある。

ついさきごろまでは、歌舞伎は都合のよいところに、お堂があらわれると思っていたが、お堂しかないのである。

旧東海道を歩いていると、淋しい道中に小さなお堂がある。金谷坂の途中には、庚申堂があって、そこは、大盗賊の日本左衛門が夜働きの着替えた場所とされ口碑として残っているということで、堂横には見ざる聞かざる言わざるの三猿を彫った庚申塔があり可笑しさを誘う。庚申塔はかなり時間が経っているらしく剥離している。村人が長く信仰して守っているものがあり、当時暗闇に稲荷大明神が現れたのを信じてもおかしくない状況があったと思えた。この庚申堂は、猿田彦命を祀っていて旅人の安全をも守っていてくれる。

もう少し触れると、この金谷の地域の人々は江戸時代の旧石畳がわずか30メートルだけ残し、コンクリート舗装だったのを掘り起こし、町民約600人で石畳の道を430メートル復元されたのである。そこを、往時をしのびつつ歩かせて貰ったのである。ところで現在の生麦村はと考えたら、川崎から神奈川まで歩いていないようである。生麦はビールと生麦事件の碑だけであった。抜けていた。

そんなわけで、他愛無さそうでいて、結構江戸時代の村人の様子でもあると思える。

大詰め<頓兵衛住家の場>。お舟の芝雀さんの中に四代目雀右衛門さんが早くも降りてこられていた。芝雀さんはお舟が初役ということで、ちょっと驚いた。筑波御前とお舟を同時に観させてもらい、女形というもの奥の深さを知った。年齢を超える芸の被膜である。動きの少ない時も、激しい動きの時も娘で居なければならない。米吉さんは、大変な時に同じ役への挑戦であった。吉之助さんほか若い役者さんたちにとっても、大きな先輩達が前に立ちはだかってくれるということは、風よけをしていてくれるわけで、この風よけがなければ、上手く飛び出せないともいえる。

お舟は一目惚れで義岑のために突き進むが、義岑の身分と落人であるということ。さらにその原因が父親の頓兵衛にあり、お舟は父親自身の極悪非道さとも戦うのである。或る面では恋から人間性に目覚めたともいえる。義岑があの世では添い遂げようと言ってくれた言葉に自分の純化もかけてしまっている。玉手とかお三輪の流す<血>と通ずるところがある。義興の亡霊(錦之助)もお舟の想いによって出現したように思えてくる。

歌六さんも、筋の通った武士から、強欲な極悪さとがらっと変えて観せてくれた。

お舟の心をとらえたのは、美しさと品格と憂いであろうが、歌昇さんはそれに充分答えていた。米吉さんは、機転を利かせ歌昇さんを新田の白旗を掲げ諌めるのであるから、もう少し腹が欲しい。

種之助さんは、六蔵という凄い役をもらってしまった。ちょっと抜けていておかし味があり、お舟を恋して、頓兵衛という主人を持ち、お舟を止めなければならないしと大忙しである。引き出しに納まったであろうか。

頓兵衛の花道の引っ込みは、弁慶に源内さんが対抗してと思ったが、どうもそうではないらしい。頓兵衛が大役になったのは、天保2年5月の江戸河原崎座で七代目市川團十郎が演じて大きな役になったらしい。その時、蜘蛛手蛸足の引っ込みをしたかどうかは定かでないが、その時演じた役者さんによって極悪非道な登場人物が大役に変身したのである。

頓兵衛にかんしては、国立劇場脇にある伝統芸能館の中の図書館で知った。歌舞伎座での真山青果さんの元禄忠臣蔵の『仙石屋敷』の脚本を読むためであったが、『神霊矢口渡』が載っている書籍がその個所を開いて並べてあったのである。お陰で、思いもかけず短時間で情報収集ができた。

矢口の渡し付近へも散策に行かなければ。

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(3)

二幕目<由良兵庫之助新邸の場>。初代吉右衛門さんが上演されてから100年目の上演場面である。この場が座談会でも出たが『熊谷陣屋』と類似しているのであるが、兵庫之助には協力者がいた。

由良兵庫之助新邸とあるが、兵庫之助は足利尊氏に寝返り新しい領地をもらったのである。そこには、妻の湊はいない。息子の友千代が腰元たちと遊んでいる。そこへ、兵庫之助(吉右衛門)が尊氏側の江田判官(歌六)を伴って帰ってくる。江田判官は別室に下がる。

偶然にも湊と筑波御前は新邸に一夜の宿を頼む。夫とは違い滅びた新田家に仕えしっかり筑波御前を守っている湊は、夫に考え直してくれるよう懇願するが、兵庫之助はにべもなく二人を追い出してしまう。

今度は怪我をした南瀬六郎がたどり着き、裏切り者の兵庫之助に立ち向かうが、徳寿丸は助けてやると言われ隣室に入る。そこへ、足利の重臣・竹沢監物(錦之助)が犬伏官蔵(大谷桂三)と焼餅坂下で徳寿丸の顔を見た長蔵らを伴って南瀬六郎と徳寿丸の首を渡せとせまる。兵庫之助は躊躇することなく六郎を弓で射る。六郎は無念とばかりに自刃する。兵庫之助は、徳寿丸の首を差し出す。長蔵が徳寿丸だと証言するので監物らは引き上げる。六郎は無念なことであろう。

そこへ筑波御前と湊が馳せ参じ驚愕する。兵庫之助は二人を残し冷ややかに奥へ引っ込む。筑波御前は自害しようとするが、兵庫之助が徳寿丸を抱きかかえて現れる。実は、六郎の守っていた子は兵庫之助の子・友千代で腰元たちと遊んでいたのが徳寿丸だったのである。兵庫之助は事の次第を語り始める。

兵庫之助は、義興から不興を買い扇子を投げられる。そこには、徳寿丸を頼むとあり、六郎も加わって尊氏から徳寿丸をまもる計略を立てていたのである。六郎の死も最初から尊氏側を欺くための覚悟の上であった。

隠れて話を聞いていた長蔵は、尊氏に諌言しようとするが、江田判官に殺されてしまう。判官は兵庫之助を敵ながらもあっぱれと、お互いに戦場での再会を約束するのであった。

首実験の時に、湊と筑波御前もおらず、六郎が自刃して敵を欺いてくれたので、熊谷と違い、寝返った悪しき兵庫之助を崩さずに吉右衛門さんは押し通す。そして、わが子の死に対し湊と共に豪快な笑い泣きとなり、その辺りが流れとして二面性が一気に露出して兵庫之助に膨らみがでた。役者さんも揃い、首実検もしっかり行われ疑う事の無い騙され様であった。

兵庫之助の吉右衛門さん、江田判官の歌六さん、湊の東蔵さん、筑波御前の芝雀さんと徳寿丸で大きさが出て幕となる。

どうして通しで上演されて来なかったのであろうか。次の三幕目も面白いし、新田義興の怨念が娘お舟の力添えによって成就するというのが流れとして判ると<頓兵衛住家の場>が今までよりしっくりと落ち着く。何か納得していなかったのである。

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(2)

『研修発表会』の前に<お楽しみ座談会>があり、これは先輩方が若手のためにお客さんを呼び込んで下さっている一因にもなっている。そして今月の国立劇場での芝居のことも聞けるので、観客にとっても有益である。

司会・織田紘二/出演者・中村吉右衛門、東蔵、芝雀、錦之助、又五郎、歌六

吉右衛門さんが若手のためお見苦しいところはご勘弁をと言われる。<焼餅坂の場><由良兵庫之助新宅の場><道念庵室の場>は百年経っての上演であるから、皆さん初役である。そのため<初々しく>が合い言葉となり、場内笑いが。吉右衛門さんが、平賀源内は土用の丑の日にウナギを食べることを考えたり、浄瑠璃も江戸発信で江戸周辺を舞台にしていて、時代は南北朝時代で、平賀源内さんと新田家の子孫のかたが訪ねて下さり、今に繋がっていることに驚かれていた。歌六さんが、新田神社の破魔矢を出されて、この破魔矢を考えたのも源内さんであると。又五郎さんは、又五郎さん演じる南瀬六郎宗澄の子孫の方も訪ねてこられたということで、吉右衛門さんは、ずっと昔のことでも歌舞伎は今につながっておりますので、歌舞伎をどうぞ宜しくと歌舞伎の宣伝もしっかりとされる。

源内さんは恐らく歌舞伎を色々調べて『神霊矢口渡』を書かれたであろうから、他の作品にもと思わせる場面があり、東蔵さんは、色々な引き出しを開いて、こうであろうかと毎日考えているので、まだ固まっていないと言われる。それを受けて歌六さんは、違う引き出しを間違えて開かない様にしなければと。子息の米吉さんのお舟のことを聞かれると、芝雀さんに全てお任せしているので。芝雀さんは、筋の良いご子息なのでと言われ、自分は身体が硬いので、訓練して何んとか海老反りにもっていってますと言われ、五代目雀右衛門襲名については、すでに緊張の毎日とのことである。

又五郎さんは、六郎は、兵庫之助に対等な役と思うので兵庫之助に負けない心構えですと。錦之助さんは、義岑の役と思っていたのに若い人に取られ、線が細いので心配ですが、敵役的な竹沢監物と義興の霊をやり、義興の霊は気持ちの良い役なので、次にこの芝居に出る時には義興の霊がやりたいと笑わせられた。

通し狂言『神霊矢口渡』を観たあとでのお話しだったので、役と較差させて楽しく聞かせてもらった。

序幕<東海道焼餅坂の場>は、東海道の戸塚宿に向かう途中にある坂で、武蔵と相模の国境にある。その坂は焼餅坂と名付けられそこで茶店と宿を兼ねている亭主(吉三郎)が旅人に焼餅坂の名の由来を教えようとするが旅人は時間がないと聞いてはくれない。

ご亭主あなたがその坂で焼餅を売っていたので焼餅坂と言われたと現代の案内板にありました。別名、牡丹餅坂の名もあります。戸塚の東海道の絵には、焼餅坂の様子と焼餅を食べている旅人の姿が描かれています。

序幕から歩いた場所で、江戸の人にとっても身近な場所と思える。上方で人気があった演目ということで、上方からすると遠い江戸のことのほうが、想像力が喚起され楽しんだのかもしれない。容易に行けない場所が芝居で見れるという感覚を源内さんは判っていて当て込んだのかもしれない。

戸塚宿の手前の焼餅坂で、義興の奥方・筑波御前(芝雀)と家老・由良兵庫之助の妻・湊は馬子と雲助に戸塚宿と言われ騙されてしまう。馬子の寝言の長蔵(吉之助)と雲助願西(又之助)は、筑波御前と湊に言い寄るのが目的であったが、湊が機転をきかせてその場を逃げてしまう。筑波御前と湊は生き別れとなった徳寿丸を捜しての旅の途中であった。

その後に、南瀬六郎が徳寿丸を笈(おい)に隠し背負い巡礼者となって坂にさしかかるが、長蔵たちに褒美の金目当てで襲い掛かられるが、怪我をしつつも追い散らす。

役の名前など、どこか源内さんが楽しみつつ付けたような感じがする。馬子と雲助が湊に見事騙されてしまう可笑し味の場面であるが、東蔵さんの気強い柔らかさに対し吉之助さんと又之助さんは可笑し味を誘うまでの柔らかさが足りない。こういう役どころが難しい。もう一人の雲助野中の松の吉兵衛さんは元相撲取りで儲け役であった。

芝雀さんはお舟との二役なので、女形としての奥方と娘役の二通りを見せて貰えるのである。女形の被膜を被り、そこにさらに、役の被膜が加わると言うことで、アニメ的にはならないということがどういうことであるかが解かって貰えると思う。そこに女形の難しさとやりがいがあるところであろう。

歩いたところなので、出だしから楽しませてもらった。

 

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(1)

10月に続いて、若い役者さんの『研修発表会』が開催された。今回の通し狂言『神霊矢口渡』の序幕<東海道焼餅坂の場>と三幕<生麦村道念庵室の場>は百年以上上演がなく、二幕<由良兵庫之助新邸の場>は百年目の上演である。

大詰め四幕目の<頓兵衛住家の場>は、『神霊矢口渡』となればここの場しか上演されていなかったので、お舟という娘が一目ぼれした相手のために命がけで太鼓を叩く話しとして記憶されている。それと、お舟の父親の極悪非道さである。身代わりとなった娘を刺しておきながら、賞金が手に入らなくなると言ってさらに娘をなじるのである。

この父親・頓兵衛の一番の見せ場は、賞金のかかっている落人を追い駆けるため花道を駆けだすのであるが、その引っ込みが<蜘蛛手蛸足(くもでたこあし)>と言われる動きで、さらに刀のつばをカタカタ鳴らすのである。

作者が、様々なことに挑戦した平賀源内さんで、福内鬼外の名でこの浄瑠璃を書いたのである。<ふくうちきがい>と読ませているが、福は内、鬼は外である。頓兵衛の引っ込みも弁慶の引っ込みに対抗して考えたのではないかと思ってしまう。

その後、お舟の見せ場で下男六蔵に邪魔されつつも、死に物狂いで太鼓を打つのである。この芝居を初めて観たときは、八百屋お七に似ているなと思った。この太鼓は、落人が捕まったから包囲を解いてもよいという知らせなので、太鼓を叩くことによって落人が逃げれるのである。

お舟が一目惚れしたのは、足利尊氏との争いに負けて逃げる新田義岑(にったよしみね)である。善峯の兄の義興(よしおき)は、渡し守頓兵衛が舟の底に穴を空けていて水死していたのである。それが、この矢口の渡しである。頓兵衛は報奨金も手に入れ、さらに善岑を捕らえ褒美の金を手に入れようとの強欲な父親である。

しかし、神は許さなかった。義興の霊が現れ、頓兵衛は義興の怨念の一矢をうけるのである。この最後に義興の霊が現れることによって、話しがぴしっと納まった感じがした。

もう一つ、義岑は恋人の傾城うてなを伴って、頓兵衛の家に一夜の宿を頼むのである。一目惚れしたお舟はうてなが妹であればよいと思い義岑に尋ねると妹だという。お舟は、大胆にも言い寄るのである。義岑もその願いを叶えるとしたところで、二人は何かによって気を失ってしまう。それを見たうてなは、新田家の白旗をかかげると、目覚めるのである。この現象でお舟のほうは、何か神がかり的な暗示をもらったのではないかというのが、私の推理である。人目惚れの恋心の力だけで、刺されていながら太鼓を打つまでのあのエネルギーが出せるであろうかと思ってしまうのである。それぐらい長丁場なお舟のしどころである。それは個人的考えなのでこちらに置いておく。

研修会の配役

お舟(米吉)、義岑(蝶之介)、うてな(京由)、下男六蔵(吉兵衛)、船頭八助(吉二郎)、しっかり候兵衛(蝶一郎)、二ぞろのびん助(蝶三郎)、三とめの十蔵(吉助)、義興の霊(京純)、頓兵衛(吉之助)

船頭八助が仲間に紐でつないだ銅錢の一束を渡すことによって、頓兵衛がどうして振る舞うだけのお金があるかがわかる。こういう台詞がきちんと聞こえるか聞こえないかで、芝居の理解度が違う。それと役者さんの向きで聞こえづらいときもあるが、しっかり聞こえた。

お舟の米吉さんの出は可愛らしいが、義岑を思うしぐさなどは、可笑し味もある場面であるが、まだ身にしっくりとはいっていず、アニメ的な可愛らしさであった。それが、変貌してくるのが、頓兵衛に刺されて、頓兵衛と向かい合い海老反りになったあたりからである。六蔵と渡り合い、六蔵を斬り殺し、刀の鞘を持ち太鼓を打つまでは若さの勢いで見せてくれた。

頓兵衛の吉之助さんは、憎憎しさなどの表現はまだであるが、大きな頓兵衛になる可能性を秘めている。花道の引っ込みも可笑しさに欠けるが、しっかりと身体を動かしていた。

六蔵の吉二郎さんは、お舟の動きに合わせようと努めていて、自分の役を出すまでには至らなかったように思える。その他の役者さんも、一生懸命で、10月でも思ったがもう一回位は演じさせてあげたかった。

10日ほど先輩たちから指導を受けたそうで、歌舞伎としては異例の練習時間である。ドキドキ、ハラハラの激動の経験であったであろうが、先輩たちもかなり気にかけておられた様子であった。これから国立劇場観劇の方は、一段とゆとりのある大きな芝居が観れるかもしれない。

豊島区民センターで 舞台写真家・福田尚武さんの「歌舞伎写真展」を開催している。23日の今日までであるが、最終日は2時までのようである。池袋東口から歩いて5分くらいの場所で無料である。迫力があり、役になりきった役者さんの姿とお顔は、舞台の神様に微笑みかけられたような一瞬で圧倒されました。

 

 

 

『サクリファイス』(近藤史恵著)からの連鎖

旧東海道歩きのとき、本とか映画とかの話しが出るが、ふんふんと聞いていると次の時には手渡される。読みたい本が積んであるのだがと思うが、受け取る形となり、借りた本は横眼でみているが、そろそろと思い読み始める。

『サクリファイス』。読みやすく、自転車ロードレースの世界の話しで全く知らない分野なのであるが引力が強い。始めに誰かの死があり、その死の解明でもあるが、自転車ロードレースというスポーツの想像を超える展開に文字が飛んでいく。

自転車ロードレースはチームで参加し、そのチームにエースのために働くアシストという役目の選手がいる。エースの勝利のために走るのである。そのアシストが主人公で、アシストとしての眼が、自分に、エースに、チームメートに、試合の展開にと、心理の動きも追って行き、さらに過去との交差もある。アシストの自転車に乗っているようなスピード感で、周りの風景も動いているような気分にさせられる。思いがけない展開に終盤はウルウルさせられる。スポーツ小説であり、ミステリー小説であり、心理小説でもある。

貸してくれた友人に「面白かった」とメールしたところ、続きの『エデン』と外伝の『サヴァイブ』がきた。そして、断ったはずの有川浩さんの『図書館戦争』4冊と『レインツリーの国』が。

『レインツリーの国』は、『図書館戦争シリーズ②』の『図書館内乱』に出てくる小説作品名であるらしい。難聴者の少女に聴覚障害者を主人公にした本を勧めたということが人権侵害に当るとして、図書隊員がメディア良化委員会の査問を受ける。人権侵害を受けたとされる少女が、反対に、障害があると恋愛小説の主人公になってはいけないのかと反論するらしい。そのことは友人から聞いていた。『レインツリーの国』は後で、別に一つの作品として書かれたもので、友人は『図書館内乱』から読んでから、『レインツリーの国』を読んだほうが良いとのことであるが、内乱で『レインツリーの国』を先に読もうと思う。

近藤史恵さんの本は読みやすく、『エデン』『サヴァイヴ』と単行本なので早く読みすすめられた。レースの駆け引き。ただ走っていたいのにそれだけでは済まされぬ現実。思わぬ妨害。思いがけない人との繋がり。しかしやはり『サクリファイス』が一番面白い。

近藤史恵さんは歌舞伎も好きで、歌舞伎に関連した作品も書かれている。歌舞伎界の内実を題材とした本は読みたいと思わなかったのであるが、読みやすいので『二人道成寺』を見つけて読む。歌舞伎の『摂州合邦辻』に絡め、歌舞伎役者さんの奥さんが火事で意識不明となる事件から謎解きが始まり、役者同士の確執の影や愛の炎が垣間見えてくる。ところが、歌舞伎の演目の<愛>は唐突で始め表面には出なくても実は濃厚な構成であるため、小説の世界の<愛>が意外と水彩画のように映る。改めて歌舞伎芝居の内容の濃密さを感じてしまった。

借りた本の時間稼ぎに、適当に本を選んで押し付ける。その中に旧東海道関連として、阪妻さんの大井川の金谷を舞台とした川越え人足と拾った赤ん坊の人情話し『狐の呉れた赤ん坊』のDVDと、勝小吉の『夢酔独言』の出奔の部分だけ付箋を張り、歩いたところの参考にと加える。

それにしても、『図書館戦争』文庫本4冊。きつい。文庫本ロードレースの山岳コース。単行本に化けて欲しい。

知りませんでした。『レインツリーの国』が映画になったのである。

『図書館戦争』がアニメ化されたが『図書館内乱』の中の「恋の障害」のエピソードはDVDの三巻で、TVでは放映されなかったらしい。<アニメ化の大前提として聴覚障害者の毬江のエピソードはTVでは放映できないということがあった>とする有川浩さんの文を、文庫の解説(作家・山本弘)で紹介されている。

フィクションの世界であっても、それは現実と違いすぎるという障害者の方々から意見があるのは自然のことである。そのことが面倒だからと、フィクションの世界から閉ざしてしまうのは反って不自然のように思える。テレビというメディアの大きさがそうさせるのであろうか。そういう現実があるということを知った。単に売り上げをあげるためにことさら歪曲して宣伝的に書いたのか、何かおかしくないかと問題点として書いたかは、作品を読む読者の読み取る側に託されてもいる。

 

歌舞伎座 11月『勧進帳』『河内山』『実盛物語』『若き日の信長』『御所五郎蔵』

『勧進帳』。幸四郎さんの弁慶。義経が松緑さん。富樫が染五郎さん。松緑さんの口紅が赤いと書いたが、他の役者さんの義経も赤が強かった。こちらのイメージが勝手に創造していたらしい。富樫の染五郎さんは、セリフで幸四郎さんの弁慶に負けているのか、富樫が動き過ぎと感じてしまった。富樫は、富樫で役目がらと、弁慶の義経に対する忠誠心を目の当たりにして見逃すわけであるが、そこのこらえが弁慶に押されて動きで対抗しようとしているように映った。

お酒を飲んだあとの幸四郎さんの動きが、愛嬌、悲哀、勇壮と変化に富んでいた。宗之介さんが駿河次郎で大丈夫かなと思ったが声もしっかりしていた。今回の幸四郎さんの弁慶は、ベテラン相手の弁慶ではなく、若手をどう引っ張って『勧進帳』を作り上げるかという、違う意味での工夫の弁慶であるように思えた。

『河内山』。海老蔵さんだけでなく、今の役者さんたちは何とか歌舞伎に親しんでもらおうとの思いからか、サービス精神がいい。それはそれで一生懸命なのは理解できるが、時間は限られているわけで、自分の修行の時間も大切にしてほしい。今しか学べないことも多い。観客席を沸かせることに腐心していると、<芸>の神様が意地悪するかもしれない。松江出雲守の梅玉さんは、河内山に対する不快感を家来を呼ぶ手のたたき方一つで、その気持ちや、感情の押さえられぬ性格を表していた。動きが少なくても、言葉が少なくても、人物像を表す手段は、歌舞伎の中にはある。

緋色の衣に「ばかめ!」。それだけでも、歌舞伎の培われた練がある。

『実盛物語』。染五郎さんの実盛は、まだではないかと思ったがハマっていた。悲惨な戦の話の中でも、親子の情愛がからまり、それを上手くまとめる実盛の知恵者としての面白さのある役である。亀鶴さんの瀬尾は、女の片腕を生まれた子供といいくるめられ、さらに、その片腕の女の小万が自分の子であり、孫に自分を討たせ手柄としてやるあたり意外にもきちんと収まった。小万が思いを伝えるため生き返るのも、秀太郎さんならではの役どころである。児太郎さんの葵御前も、若い風格がある。九郎助夫婦も芝居にそう。

『若き日の信長』。これこそ、海老蔵さんが思うままにやってよい演目と思うのであるが、うつけにはなられなかった。信長(海老蔵)を想うお守役の政秀(左團次)、人質の弥生(孝太郎)などが周囲にいるのであるが、その人たちにも自分の進むべき道を理解させるのは難しい。それを引きずっていては今川との戦いには勝てない。誰も今川がやぶれるとは思っていない世の中である。その中で情を捨て一人だけの道を進むしかなかった。そばに一人、声をかければ飛んでくる藤吉郎(松緑)がいた。

『御所五郎蔵』。黙阿弥の七五調を菊五郎さん、左團次さんが安定した台詞できかせ、仁左衛門さんが仲裁に入る。傾城皐月に魁春さん、傾城逢州に孝太郎さんである。ベテラン人の余裕のある演目となった。

吉例顔見世大歌舞伎・十一世市川團十郎五十年祭。多くの役者さんの顔が揃い、今の歌舞伎界の世代の層の一端が見える。若い世代がこれから、多種多様の役に挑戦し、主も脇も実績を積んで行かなければならない時期のように思える。歌舞伎を面白くするために。

 

歌舞伎座 11月『江戸花成田面影』『元禄忠臣蔵』

旅で戯言の言わない友人から「あなたの歌舞伎は上から目線よね。」と言われる。来ました。戯言は言わないが、ツッコミはくるのである。それが許せる仲ではあるが。「勘三郎さんと三津五郎さんの喪失は、次の世代には兎に角痛手でこれを埋めるためには若い役者さんたちに頑張ってもらうより方法がないと思っているので、大先輩達がいるうちに、学んでおいて欲しいのよ。」

歌舞伎は良い意味で大家族主義であり、血縁関係主義である。これが、長く続いてきた根源でもある。しかし、<芸>を考えるなら実力をつけて頂かなくては、伝統芸能の意味がない。伝統芸能だからというブランドで観るのか、<芸>があるからこそ伝統芸能であると認めるのか、それは観る側の問題でもある。

演劇とか芝居とかは、スポーツのように一位です二位ですとか、勝ちました負けましたという判定がつけられるものではないし、好みもあるし厄介なしろものであり、同時にだからこそ面白いという事もある。そして、こちらも迷走しつつ楽しんでいるのである。そういう楽しみ方をしていると、思い入れも加わり、友人に指摘される観方になってしまったということである。

11月の顔見世は十一世市川團十郎五十年祭ということもあってか、昼夜、重い演目が並び、舞踊は曾孫の堀越勸玄さんの初お目見得ということもあって『江戸花成田面影』だけである。初お目見えと初舞台は同じと思っていたが、どうも別らしい。役がついての初登場が初舞台らしい。芸者の藤十郎さん、鳶頭の梅玉さん、染五郎さん、松緑さんと艶やかで粋で華やか踊りに、仁左衛門さん、菊五郎さんも加わり、誠に御目出度い一幕であった。千穐楽までもう少しの頑張りである。

今月で一番面白かったのは、初めての『元禄忠臣蔵』<仙石屋敷>である。心理推理小説の舞台をみているようであった。討ち入りを果し仙石屋敷にて、内蔵助を筆頭に浪士たちがそろい、伯耆守(ほうきのかみ)からの尋問に答えるのである。300余人いた浪士がなぜ四十七士にまで減ってしまったのか、仇討ちの真意は、吉良邸での灯りに松明は使ったのか、など次々尋ねていく。これは、台本がないと正確に書けないがその答えが心理情況も踏まえ聞かせるのである。雪あかりと月あかりで外は明るかったとか、引き上げるときは、世情を騒がせぬため両国橋は渡らなかったなど、耳をそばだてる。以前、深川の芭蕉記念館に寄ったとき、赤穂浪士が通ったところとしていたので不思議であったが、映画に出てくるような江戸庶民に騒がれるような引き上げかたでは無かったのかもしれない。

仙石伯耆守の梅玉さんが尋ね、大石内蔵助の仁左衛門さんが答える。内蔵助の語りは、浪士たちの苦労を踏まえての一致した心情を雄弁にかつ、奢ることのない語り口で、伯耆守も深く感じ入る。

他の浪士たちも、尋ねられると本懐を遂げた安堵感からか、それぞれの役目など話していく。そして、それぞれがお預けの屋敷が伝えられ最後の別れを惜しむのであるが、内蔵助と15歳の主税は別々の預かり場所となる。内蔵助は主税が最後に見苦しき振る舞いをしないことのみ願い、主税は大丈夫であることを父の前に再度手をつきしっかり父を見つめるのである。主税が千之助さんである。相手が仁左衛門さんであるから、情愛と臨場感が増す。

それぞれの役者さんのセリフのトーンが頭に残っているうちに、もう一度、文字で確かめたい作品である。長いセリフは観客を引っ張り通す<芸>が必要である。

旅の前の戯言

歌舞伎座11月、話題は「十一世市川團十郎50年祭」に血筋の堀越勸玄さんの初お目見得であろう。花道から海老蔵さんに手を引かれての堂々の登場である。舞台正面にきちんと正座して、子供独特の言い回しでの自己紹介である。その可愛らしさとあどけなさと真摯さはどの役者さんもかなわない。プロとしての初舞台大成功である。

幼い頃からプロとして舞台に立つ運命であり、そこを成長に従ってどう埋めていくのか測り知れない道が続くのである。先輩の左近さんが『勧進帳』の富樫の太刀持ちをしている。左近さん、10月は丁稚長松を無難にこなされた。今月はじーっとお行儀よく、富樫のこれぞというときに太刀を渡す。大先輩たちと同じ舞台にあって、その空気を意識せずに身体に吸い取っていくのであろう。

勸玄さんもそうした経験をこれから沢山積んでいくわけである。煩い外野の声を聞きつつ答えのない道を歩き続けるわけである。初舞台の真摯な目で、観客席をにらみ返すことを願っている。

その勸玄さんに銘じて余計なことを少し。『若き日の信長』の海老蔵さんの発声に疑問。籠ったたような声を押し出して響かせていたが、信長の人物の味を薄めてしまう言い回しの発声である。

『河内山』では、目での演技が多く、河内山の腹がない。ふっと小馬鹿にしたような視線はいいが、絶えず心のうちの視線であろうか動く。腹の座った愛嬌は何回も見せては価値がさがる。玄関での見せ場があるのであるから。

これまた、左近さんに免じて松緑さんへも一言。義経の台詞の声は、工夫が伺え松緑さんの初めて聞く声質である。それは良い。しかし、義経の顔の作りが濃すぎるように思えた。『若き日の信長』での藤吉郎では、癖ある藤吉郎をあえて信長の影に隠れて仕えるという押さえた顔の作りでよかった。義経は品格を持っての隠れての逃避行である。口の赤さも気にかかった。

気の置けない友人との旅の前のあわただしさの中で、言わなくても良い戯言を言ってしまった。旅の準備にかかる。雨の日がありそうだ。本数の少ない路線バスを使う日にぶつかりそうである。言わなくても良い戯言は言わない友人たちなので、大いに助かる。

断捨離予定本が復活『東京人』

本棚の板が重みで歪曲して、ビスの部分がひび割れている。まずい。断捨離である。悪魔の手が伸びて生贄は、『東京人』(1999年8月号」)<特集 世紀末は落語で笑え!>。開いてしまったのが悪魔の運の尽き。面白くて、復活し、断捨離終了である。

立川談志さんと吉岡潮さんが、談志さんが「ゆめ寄席」に実際に選んだらどんな芸人さんが並ぶのかということで、選んでいく。人の並べ方だけでなく、この人のこれという指定がある。その中に、柳家紫朝さんの「両国」が入っている。この雑誌が出たとき、こちらは、紫朝さんは知らない。寄席で紫朝さんの都々逸などを聴いて気に入りCDを買った。ところが、響いてこない。骨折して時間を持て余し静かに聞いたところ微妙な声の響きと節つけに気がつく。紫朝さん選ばれたたのが嬉しい。かつて『文芸寄席』をやったことがあり<永六輔が講談、清川虹子と宮城千賀子の座談、手塚治虫先生が漫画を描き、俺と前田武彦が漫才、はかま満緒が手品、前座が円生師匠>との話しあり。止まらなくなる。

金原亭馬治さんが、馬生襲名予定の年で志ん朝さんも出てくる。

東野圭吾さんが、自分の作品に『快笑小説』『毒笑小説』という短編があって、「笑い」をテーマにしていて、「笑い」をテーマにすることは東野さんにとっては修業の一つであるとしている。そして『しかばね台分譲住宅』は志の輔さんが『しかばねの行方』と改題して創作落語にしていた。知りませんでした。

池内紀さん。どこかで目にしたお名前である。日本近代文学館の今年の夏の文学教室で、「森鴎外の「椋鳥通信」」の講演をされたドイツ文学者である。そのかたが「明治の大名人三遊亭円朝」を書いている。鏑木清方の高座での円朝の画像が有名であるが、清方さん、円朝さんについて旅をしているのである。明治28年、円朝さん56歳、清方さん17歳である。新し噺の取材旅行である。茶店があると疲れていなくても寄り、話しを聴くのだそうである。

「牡丹灯籠」にもふれ、下駄の音を「カラコロ」とでてくるのは、樋口一葉さんの「にごりえ」で、10年あとに円朝さんは下駄の音を「カランコロン」とする。

「「牡丹灯籠」では、因果物語と恋の怪奇がかわるがわる語られる。それぞれをA、Bとすると、ABABABといったぐあいに進んでいる。」

今日はAかなと思うとBの話しで、次はまたAの話しになるという続けかたである。聞き手の興味を裏切りつつ、その手の内にハマらせ、次を聴きたくさせるのである。

速記本として出し、手直しをしてまた発表して「原稿料」をとる。手直しは高座での客の反応を批評家として見立ててなおすのだそうで、清方さんの絵の円朝さんのじーっと客を見つめる眼が座っている。

「浅草十二階をつくった男」(稲葉紀久雄・文)浅草にあった<凌雲閣>の設計者バルトンさんの話しである。バルトンさん、衛生工学が専門で、日本や台湾の上下水道の整備をされたかたで、浅草っ子に気に入られ、高い塔を建てることに参加したのである。大阪に<凌雲閣>(のちの通天閣につながる)があり、いつしか<浅草十二階>と呼ばれるようになる。

最初は、浅草寺の五重塔の修理費用のため周囲に足場を組みお金を取って五重塔の上まで登らせたところ凄い人気となり、修理後、高いところを人々が好むことに眼をつけたのが始まりということである。<浅草十二階>は関東大震災で八階から折れてしまう。

しかし、バルトンさんは、日本各地に上下水道の設計をして衛生のために尽力されたことは残された。日本人女性と結婚し、日本で亡くなられている。明治の浅草の写真に写されている<浅草十二階>にはそんな歴史があったのである。

その他「ミステリー小説の東京・乃南アサ」(川本三郎・文)「川端康成と少女論」(小谷野敦・文)等、この一冊を選んだがゆえに断捨離の時間は、読書の時間になってしまった。

吉川潮さんが本格派声帯模写の丸山おさむさんを紹介していた。このかたの流行歌手の物真似は本格的で、時間的長さが必要のため、テレビでは無理であり、やはりな生で味わう人である。

東野圭吾さんの本は、旧東海道の帰りに古本屋で手に入った。友人は、値の下がるのを待っていた本が5冊見つかり重いリュックも何のそのである。

円朝さんの話から、歌舞伎座10月『文七元結』で感じたのは、円朝さんの眼は、角海老の女将として、和泉屋清兵衛の眼として見まわしている。清兵衛が文七を認めてはいるが、自信過剰の部分を見抜いている。それが、お金紛失と左官屋長兵衛との出会いによる経験で、独立させてもいい時期と思うのである。単に、めでたしの付け足しではなく、文七の成長をもきちんと描いていると思う。そして、お久の人間性。それらを見定めてのめでたしで、さらに、一皮むけた文七は、元結のアイデアをだすのである。円朝さんはきちんとその辺りを計算に入れていたように思えた。

一冊も断捨離できない原因は、本を開いたことである。しかし、16年前、一冊の本をこんなに愉しんではいない。それだけ少しは、振り幅が広がったのであろうか。

来年こそは、断捨離で本棚の歪みを正常にしよう。

 

 

 

 

笠間と益子へ

藤の咲くころ、友人に茨城の美味しいお蕎麦屋さんへ連れて行くと声をかけられ、美味しいと聞くと執念を燃やす友人も加わり連れて行ってもらう。

笠間なのだそうで、『笠間稲荷神社』、『笠間日動美術館』、魯山人の『春風萬里荘(しゅんぷうばんりそう)』、『茨城県陶芸美術館』など、見どころの多い所で三回ほど訪れている。彼女は、日常に疲れると笠間、益子を訪れ、時には車を近くに置いて半日の登山などもするらしい。全くのお任せコースである。日動美術館と春風萬里荘は入っている。

お蕎麦屋さんは、こんなところにお蕎麦屋さんが本当にあるのという一本道を入って行く。途中に営業中の小さな木の板が出ていて、ここで営業中かどうかを知るらしい。営業時間が短いので、電話で聴くのを忘れてしまうが、今回は私たちを連れていくので営業していると確かめてくれた。家があった。普通の別荘風の家でお蕎麦屋をしようと思っての建物ではない。のれんもなく、中はレストラン風であるが、お蕎麦屋さんである。リピーターがいて、次第に席が埋まっていく。友人が薦めるだけあって美味しかった。

次に、早めにいかなければ売り切れる時もあるからと、お豆腐屋さんへ。小さなお店である。お豆腐、がんも、あげ、厚揚げなどが取りやすいように何個か紙袋に入れられたりしていて、効率よく並べられている。おからの冷凍したのが保冷材として10円で売られていて、解ければそのまま調理すれば良いわけである。このアイデアは素晴らしい。狭いながら、豆腐ソフトクリーム座って食べているお客さんもいる。私たちは外の日蔭で食する。

笠間稲荷では、見せたいのは後ろと、後ろにまわる。見事な彫刻である。ただこのままでの野ざらしで大丈夫であろうかと保存状態が気にかかる。ここも来ているが後ろまでは気がつかなかった。日動美術館。春風萬里荘へとまわる。この江戸時代の日本家屋は北鎌倉で北大路魯山人さんが30年間住んで居た旧宅を移築したのである。驚いたことに春風萬里荘は以前きたときは、だれも見学者がいなくて係りの人も一人であったが、今回は外人さんが多く訪れていて、係りの人も二人いた。ぼんやりと庭を眺めつつ抹茶を口にするところであるが、賑やか過ぎ時間もないのであきらめる。

最期は、友人のお気に入りの喫茶店で、ギター制作のお店と小さなギャラリーと喫茶室のある建物である。彼女も何があるのだろうと入って知ったのだそうであるが、その作家さんの変わるギャラリーも喫茶も彼女のお気に入りとなったようである。その日は古布を洋服や小物に作り変えている方の展示であった。入ったらミシンの前にいた作家さんがいなくなってあれっと思ったが狭いので勝手に見て下さいと席をはずされたのかもしれない。

それからお茶をして、帰るときもう一度のぞくと居たので、気に入った藍染めのマフラーの布は何かと尋ねると紬だという。肌触りが良かったが値段から考えると信じられない。友人にこれ買いなさいと薦める。友人が「えっ、いいの!」という。「譲る!お金は出さないけど連れて来てくれたんだから、いい買い物してよ。」オーナーで喫茶室のママさんが「売れなかったら私が買うつもりだったのよ。」といわれる。皆、目をつけていたのだ。友人は自分の快適と思う解放の場所を時間をかけて見つけていた。

その友人から再び、お蕎麦食べに行くと声がかかる。メンバーは同じである。日動美術館に鴨居玲さんの部屋が出来たとの情報を知っていたので、行きたいと思っていた。調べると企画展が<孤高の画家 熊谷守一と朝井閑右衛門>である。願ったりである。お蕎麦のあと、美術館へ。鴨居玲さんも激しい魂の慟哭と闘った絵描きさんである。何回か自殺未遂をされ、「司馬先生くるい候え」と赤ペンでかいた原稿用紙への遺書的文もあった。あごから頭にかけタオルを巻き、自分の自画像を描いている写真があったが、まるでゴッホが耳を切り落とした時のような姿で自分を描いていて、その闇ははかりしれない。教会が空を飛んでいる青い絵。

朝井閑右衛門さんは初めてである。ルオーのような画風の時期もあり、絵の具との葛藤も見受けられる。熊谷守一さんは好きなのでただ色と空間と形を愉しむ。どうしてあらゆる可能性のある無数の線の中から一本確定し簡単そうに決めれるのであろうか。

友人が書が気にいったという。私が最初に熊谷守一さんを知ったのは、白洲正子さんの旧白洲邸『武相荘(ぶあいそう)』の日本間に掛っていた「ほとけさま」と書かれた書の掛け軸からである。文字でありながらそこに仏さまがいるような不思議な温かさがあった。大きすぎてはいけないバランスのよさがある。それを書いた人が熊谷守一さんで画家であった。仙人のような方である。

それから、水戸の茨城県近代美術館へ 中村 彝さんの絵を見に行こうかという話しになったが、時間的に慌ただしいから、益子にしようということになり、益子の友人のお気に入りのお店を案内してもらう。藍染めの作業場のあるお店はお休みであったが、少し見せてもらう。藍の入ったかめの多さに驚いた。

益子には沢山の陶器のお店があるので、彼女の行くままに覗いて楽しませてもらった。帰りに寄ったお店のビーフカレーも美味しかった。まろやかでありながらきちんと辛さもある。ピザも味見をさせてもらったが美味しい。彼女がお勧めのお店はお値段もリーズナブルなのが嬉しい。そして、土地柄、器も楽しませてくれる。かなり通い気に入ったところを案内してもらうのであるから、こちらは、全身が、栄養満点の旅であった。