旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(5)

<浄瑠璃寺>について土門拳さんは書かれている。

こんな山の中に美しい大伽藍をつくったのは、どういう考えだったのであろうか。 そして京から奈良から、野越え山越え浄土信者たちは詣でたのであろうか。その道のりの遠さは、彼岸への遠さと似ていたのであろうか。 浄瑠璃境内に雨におもたくぬれるさくらは、ものうく、あまく、人の世のさびしさ、あわれさをいまさらのように考えさせている。

土門さんはタクシーを利用されている。山のなかゆえ歩いては行けない。タクシー料金は相当高いが、それも苦にならないほど通われる。

境内のさくらを雨が音もなくぬらしている春が一番、浄瑠璃寺の浄瑠璃寺らしい季節かもしれない。

初めて行った私は、土門さんの一番良いとする季節と雨という状況の中にいたわけである。そんな好条件でありながら、これは、何回か訪れた土門さんの感性である。こちらは、小雨とは云えども、<岩船寺>から歩いている。<浄瑠璃寺>の彼岸では晴れてお目にかかりたかった。ただ池に落ちる雨の波紋は趣きを加えてくれた。 <浄瑠璃寺>前からバスで奈良に入る。加茂から奈良へ入りたかった旅も成就出来た。これからが欲の深いところで、<道明寺>を目指す。土門さんの感性に逆らい、バタバタしていては、とても、土門さんのような奥深い文章は書けそうにない。酒田での『土門拳記念館』への旅も忘れられない楽しい旅でしたのでお許しを。

<浄瑠璃寺前>バス停からJR奈良駅まではバスで30分弱である。奈良から行くなら、「奈良公園・西の京/1DayPass」(500円)が断然お得である。範囲が浄瑠璃寺までなので、岩船寺までは別料金であるが、岩船寺から浄瑠璃寺まで歩けば片道分で済む。バスの本数が少ないので頭を使うが、お天気なら、浄瑠璃寺から2キロほどのところに<浄瑠璃寺口>バス停があり、そこはバスの本数も多いのでそこまで歩くと、時間を自由に使える。

JR奈良駅で案内のため立たれていた駅員さんに<道明寺>までの行き方を尋ねる。解かったつもりが券売機の前ではてな。二回乗り換えるが、どこまで買えば良いのか、また駅員さんのもとへ。奈良で二回も乗り換えるとなると、時間的ロスが心配になり、またまた、あたふたする。 JR奈良から快速で王寺へ、そこから普通で柏原に行き、道明寺線で道明寺へいくのである。乗ったことのない道明寺線に乘れる。一時間弱で到着するようで、楽勝である。落ち着いて車窓を楽しむ。河内堅上駅の桜が満開であった。河内ということは、大阪なのである。

先ずは駅前の商店街を抜け<道明寺天満宮>を目指す。最初は土師寺があり、そこへ道真公が伯母の覚寿尼さんをたびたび訪ねられ、道真公の亡きあと祟りをおそれ、天満宮が出来、土師寺も道明寺と改名し、天満宮も道明寺天満宮となったようである。立派な天満宮である。桜が多く、梅は無いのかと歩いて行くと、きちんと整備された梅園があった。さらに予想外に、白太夫社があり、「菅公大宰府への途次の道道案内をした従者白太夫を祀る」とあった。歌舞伎の世界と交差する。

この地で、大坂夏の陣で道明寺合戦というのがあったらしく、<大阪夏の陣400年道明寺合戦まつり>の宣伝看板があり、かなり力を入れているようである。

ところで<道明寺>は何処であろうかと近くのかたに尋ねたら、「尼寺さんですね」と関西弁でいわれ、「尼寺さん、良い響きだなあ。」と思う。歌舞伎の道明寺の場面から、こちらは、<道明寺>=道真公と思っているが、地元のかたにとっては、尼寺としての<道明寺>なのである。芝居とは離れた昔からある地元の尼寺さんなのである。地元ならではの響きである。

<道明寺>は尼寺さんらしく静かであった。本尊が、十一面観音菩薩であるが、18日と25日にしか拝観できないのだそうで、お寺のかたが気の毒がってくださる。今回の旅で、<道明寺>まで足を延ばせたのであるから、またご縁のあるときとする。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(4)

<旅籠屋>は、一般の旅人や武士が公用でない時に泊まり、食事がついている。今でいえば、一泊二食つきである。関宿の玉屋さんでは、坪庭と離れ座敷があり、食器も、石川県の輪島から取り寄せた、玉屋のシンボルの宝珠の紋が入っていた。<木賃宿>は、食事がなく、自分で食材を持ち込み自炊し、薪代などとして宿代を払うのである。

旧東海道を歩いていると、<高札場跡>というのを目にするし関宿にもあった。その場所は昔は「札(ふだ)の辻」と呼ばれ、その名前が交差点や町名として残っているところもある。木の板に、ご法度や、掟などを墨で書かれたもので、奈良の「山の辺の道」の旅で、奈良の興福寺の猿沢池方面に下りた三条通りの橋本町で<高札場>を見つけた。修学旅行の生徒さんで賑うお土産屋さんの近くである。現物が見れ、これで今はなくても想像が倍加する。

さて、関西本線の加茂駅からバスで、<岩船寺>に向かう。時間的には15分ほどで着いてしまうが、その短い時間の自然との出会いが楽しい。この辺りは京都府の木津川市で、この地の神社・仏閣を回るのは、車でないと数をこなせないのであるが、その分、行ったと言う満足感も湧く。<岩船寺>の境内は静かで、小雨の中でも赤が美しい色をみせる三重塔が目に入る。ゆっくりと三重塔を目指し、池を巡り歩く。「石室不動明王立像」が、小さいが正面奥の石板に彫られ、石の屋根と左右を石板に囲まれていたのが珍しかった。本尊の阿弥陀如来と四方を守る四天王の力強さとバランスがとれている。白象の上に坐している普賢菩薩がなんとも優美で、象はその優美さを誇って背に乗せ守っているようである。喧騒を離れこの世の平和な静寂を願っておられるような仏様たちであった。

お寺の方に、「浄瑠璃寺まで歩きたいのですがこの雨でも大丈夫でしょうか。」と尋ねると「大丈夫ですよ。階段したの道を左に進んでください。」とのこと、安心して歩みをすすめる。山門を下りた左手に神社があり、上ってみる。<春日神社>と、<白山神社>が並び、円成寺の二つ並んだ檜皮葺の社を思い出した。円成寺は<春日堂>と<白山堂>となっている。春日と白山が並ぶにはなにかいわれがあるのかもしれないがここまでとする。

<岩船寺>から<浄瑠璃寺>へ行くには、<岩船寺>を時計周りと反対周りの道があり、反対周りのほうが、距離的に短いのでそちらを教えてくれたようである。これからの道は<当尾(とうお)の石仏>を眺めつつの道なのである。柳生街道に比べると石仏や磨崖仏も小さくて可愛らしさがある。旅人と共に時々姿を表すといった感じである。表示の通り進んで行けばよい。

岩に彫られた不動明王立像も、別名<一願不動>とあり、一つだけ一心にお願すれば、その願いをかなえてくれるらしい。阿弥陀三尊磨崖像は<わらい仏>。本当に笑っておられる。ここの石仏は、庶民のささやかな日常の気持ちに寄り添って祈りを受けられ守られてきたおもむきがある。疲れも感じない程度で、<浄瑠璃寺>に着く。

しおりの説明によると、このお寺の礼拝のしかたがあり、東の三重塔の薬師如来に現実の苦悩の救済を願い、その前で振り返って中にある池越しに、彼岸の西方の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝とある。西方の阿弥陀堂には、九体の阿弥陀如来像があり、往生には九段階あるということのようである。

この「九体阿弥陀如来像」も「九体阿弥陀堂」も今では<浄瑠璃寺>だけにしか残っていない。藤原時代のもので国宝である。

<浄瑠璃寺>には、四秘仏があり、そのうちの「吉祥天女像」を拝観できた。五穀豊穣、天下泰平を授ける幸福の女神である。衣裳の色も想像がつくほど艶やかに残り、正面からの、そのふくよかなお顔とお姿は頼もしくさえあり、まさしく五穀豊穣、天下泰平の女神である。それでいながら、少し横から見ると気品と凛としたところがある。写真家の土門拳さんは、「仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。」とまで言われている。これは好みの問題でもあるが、偶然にも拝観でき幸せであった。

雑誌「太陽」の土門拳さんの特集をながめていたら、画家の堀文子さんが一文を寄せられていて、若い頃、土門拳さんに影響を受けられていたことを知る。土門拳さんのあの激しさと、堀文子さんのあの優しい色とがどこかで繋がっていたとは、意外であったが、嬉しかった。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(3)

<関宿旅籠玉屋歴史資料館>の隣が築120年の古民家のゲストハウスである。お酒屋さんがあるから、地酒もあるし、ここは、歩いてきて関宿に入り泊まって、次の朝草鞋を履くというのもいい。情報提供すれば、仲間が、いくつかのコースを考慮してくれるであろう。旧東海道をかなり飛び越して、先にこの辺りの歩きを提案することにする。

旅籠の会津屋さんが食事処になっていて、そこで食事をとる。お店の前が、国指定重要文化財の<地蔵院>で桜が美しかったが、東追分のほうが満開のようですとお店のかたが教えてくれる。お店の暖簾に「鈴鹿馬子唄」の一節が書かれていた。小万さんが主人公のようである。お店は地元の常連のかたが、飲みつつ歓談しており邪魔をするようで質問は止めた。

先ずは、<西追分>まで行ってもどろうと考えて進むと、観音院というお寺がある。そこで、2番目の案内人に声をかけられる。このお寺は今はほかのお寺の分院なのだそうである。昔は後方に見えている観音山にあり、こちらに移ってからは鐘楼が山にあるため、ご住職さん夫婦は大晦日には、除夜の鐘を鳴らす為に山に登り、年を越されたとか。今は無人で行事のある時、本院からお坊さんが来られるらしい。観音様が御本尊なのであろう。観音山といわれるだけに昔は栄えたお寺だったのであろう。観音山の下に<鈴鹿関>跡がある。

<鈴鹿関>が関宿の名前のもとのようである。この<鈴鹿関>は<不破関>、<愛発関>(その後<逢坂関>に変る)古代日本三関の一つである。<逢坂関>は歌にもでてくるのでどこかに印象づけられているが、鈴鹿といば<鈴鹿サーキット>である。

「関東」という呼び方は、この三関から東にある地域として「関東」となったのだそうで、あの和菓子屋さんの看板を考えられた人は優れた遊び心のあるかたである。こちらも、あのお店の前を通り後ろを振り向き、ニンマリしたいところであったが、残念ながら自力でのそこまでの奥行がなかった。時間的に<西追分>の休憩施設は閉じられていた。ここから、大和、伊賀街道へと続くのである。

ではとばかり、踵を返して東追分に向かう。途中<福蔵院>の門柱に「織田信孝卿菩提所」とある。織田信長の三男で、秀吉によって自害させられるが、その首をここに納め、信孝死後400年忌にお墓を建立したとある。もう一つ<小万の墓>と記念碑もあった。父の仇討を成し遂げた娘さんらしい。なるほど、それが「鈴鹿馬子唄」に残ったのである。信長さんの名前が出てくると、映画『忍びの者』『続・忍びの者』の信長役・城健三郎さんが浮かぶ。城健三郎さんは、若山富三郎さんの大映時代の芸名である。

<眺関亭>は5時までなので、急ぐ。関の家並みが眺められる場所である。<百六里庭>ともあり、江戸から約百六里の位置にある。さてさて、東追分に向かわなければ。気になることが一つあったが、その前で声をかけられ説明を受けたのである。関宿は、宿場町を残そうと始めて30年たつのだそうで、電信柱も町屋の後ろに移動させ、家を新しく直すにあたり、土台を残して復元させる場合の、柱のその継ぎ目なども教えてくれた。格子も千本格子とか、もっと細かい格子など。

この関には本陣が二つあり、参勤交代の上りと下りの二つの藩が泊っても大丈夫なだけの用意ができる宿であったこと。旅籠と木賃宿の違い。家康の御座所があり、家康は本陣ではなくそこに泊まり、家康の家よりも棟を高くしてはいけなかったこと。「関の山」の語源ともなった<関宿の山車>は、今は4基しかないが、山車全体を人が回すのではなく、山車の中間部分が回るようになっていて、京都から譲り受けたことは確かなのだが、京都のどこからとは記録にないそうである。山車が回るような仕掛けのあるものは初めて聴いた。

こちらがさらに知りたかったのは、家の前に、材木のような丸材を乗せた縮小したような引っ張る車があったのが何かである。伊勢神宮の式年遷宮が20年ごとにあり、そこで使われていた、四か所の鳥居の木が四か所に払下げになり、関宿は、宇治橋の鳥居の旧材をもらいうけるのだそうである。ということは、伊勢神宮の鳥居も木材は、40年間その役割を全うしているわけである。さらにもらいうけるところがあれば、さらに使われることとなる。これは聞いて嬉しかった。いくら伊勢神宮の神々のためとは云えども、選ばれた木が使われるわけであるが、贅沢だなあと思っていたのである。切られた以上は出来るだけ長く使われて欲しい。

そのもらい受けた旧材を東追分にある鳥居の建て替えに使うのである。そのため関宿の住民総出で<お木曳き>がおこなわれ、ミニチュアは、幼稚園生が曳くためのものだったのである。なるほど納得である。その行事が、今年、平成27年5月30日にある。5月23日から6月6日まで鳥居建て替え期間のようである。

東追分の鳥居は、伊勢への入口で「一の鳥居」と呼ばれ、広重の絵にも、この鳥居を潜って伊勢に向かう旅人が描かれていて、その道が階段で急なのである。実際にはどうかなのか、見たかったのである。辺りは、かなり暗くなってきている。熱心に教えて下さった方にお礼を言い東追分に向かう。これくらいの心意気でなければ、和をもって伝統を守っていくということは難しいであろう。

もしかすると江戸時代の関宿の夜のほうが、明るかったと思われるような暗さである。旅をすると、皆がいう。電気の消費をしているのがどこであるかがわかるわよね。駅以外はどこも暗いわよね。

これは寝静まった江戸の関宿と想像して歩く。直した家などは、車も格子戸の中にしまわれる様にしているところもある。どんどん歩いていく。ありました。東追分の「一の鳥居」。そこから伊勢街道は坂になっている。先はかなり深い闇である。

目的達成である。関宿は充分味わったが、仲間たちともう一度来たい場所である。亀山宿から歩いて関宿に入りたいものである。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(2)

関宿は、残りの時間を全てあてようと思って居たので、ゆっくりと表示板などを見ながら見学を試みる。いつもは、荷物は駅のロッカーに預けるが、熊野の旅あたりから、少し鍛えなければとリュックを背負ったままで歩く。旅人と思ってくれたのであろうか、関宿では三人の男性に、関宿についてのありがたいご教授を承った。メモしていないので、かなりのことは忘却のかなたであるが、皆さん関宿を守るための意気込みと継続へのねばり、そして誇りを感じさせてもらった。

驚くほど、宿場町が残っている。関駅から北に向かって真っすぐ進むと東西に伸びる宿場町の中町の町並みにぶつかる。そこから、ゆっくりと西へ向かう。時代劇の町屋のセットと思ってしまうほど、古い町屋形式の家が並ぶ。間口が狭く奥が長い形である。<関まちなみ資料館>で町屋の中の様子と保存の歴史的資料をみる。三人目の方の話しを聞いた後でのほうが良かった内容であるが、その方の説明を聞き終わったのが、夕暮れでもう暗くなっていたのである。

自転車をおされた男性が、ある町屋の瓦屋根を横から見るように勧めてくれる。見上げると瓦屋根が直線ではなく、少し丸みをおびたカーブをしている。さらに「関の戸」という看板のある和菓子屋さんの前で、その看板に注目するように教えてくれる。「関の戸」の看板の字は金で金箔を張られていて眩しいほどである。その文字が江戸側からはかな文字で京都側からは漢字なのである。江戸からの旅人には、京都に向かいますよと知らせ、京都からの旅人には、江戸に向かいますよと知らせているわけで、漢字と仮名で江戸と京を表す感覚が楽しい。そして帰りには、無料で上に上がると町並みが見える場所も教えてくれた。<眺閑亭>である。

せっかくなので和菓子屋さんで「関の戸」の和菓子を購入する。歌舞伎の『関の扉』と関係があるのか尋ねると、三つの<関の戸>があるといわれていると。銘菓の<関の戸>、相撲取りの<関ノ戸>、歌舞伎の<関の扉>である。そして、六代目歌右衛門さんが歌舞伎座で『関の扉』に出られた時に描いて頂いたという桜の色紙が飾られていた。今月の歌舞伎座の『六歌仙姿彩』には、『関の扉』の宗貞は後の僧正遍照で、小野小町、大伴黒主と重なっている。ただ、僧正遍照だけが老けてしまうが。

この和菓子は、380年間作り続けられている。阿波の和算盆をまぶしてある小さな甘さひかえめの和菓子である。その和菓子の説明書きに関宿の繁栄の様子が書かれていた。

東海道五十三次の内、四十七番目の関宿は、大和街道と参宮街道(伊勢別街道)の三つの街道が交わる宿場で、参勤交代やお伊勢参りの人々で賑わい、一日の往来客は一万人を超えていました。

 

看板の文字は、新しくしたばかりで、外に晒されているので金文字もくすんできてしまうため定期的に直しているそうで、光り輝く時にぶつかったわけである。

次は、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と歌われた旅籠玉屋の見学である。ここも、時代劇のセットにして人物を配置して想像してしまう楽しさである。驚いたのが、階段が急である。とてもではないが、「はい、はい」などといって駈け上がったり、下りたり出来る物ではない。江戸時代の人は小柄で足も小さかったので、出来たのであろうか。係りの方も今ではできませんよねと言われる。そして、藁ではなく、竹の火縄があった。時代小説に出て来たのである。藁よりも火持ちがよいそうで、竹の節から節まで薄く削ってそれを材料にして作るが、今はそれを作る人が一人しかいないとのことである。可笑しかったのは、旅籠でののみ除けの方法が書いてあり、その一つに、「からたちの実を一つ持って抱いて寝る事」とあった。効くのであろうか。「からたちの実」と「のみ」。

関宿については、もう少し滞在である。

 

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(1)

仲間たちが旧東海道歩きを始める前から、観光や、歴史の残っている町、大磯、小田原、三島などは行っていたのであるが、今回、加茂から岩船寺を経て浄瑠璃寺に行けることを知り、その途中の<亀山宿><関宿>を訪ねてから奈良に入る事とした。

名古屋からは、東海道新幹線か東海道本線で琵琶湖周辺を回っての旅が主で、関西本線は眼中になかったのである。これも、忍者の妖術のお蔭であろうか。仲間たちは、人数の揃わない時は単独でそれぞれが旧東海道を歩いているようである。私も単独で宿場巡りはすると伝えてあるので、情報を宜しくと言われている。

<亀山宿>で観光案内所に飛び込み、観光時間をはかる。次の電車の時間と町の様子から一時間半を取る。案内の方も<関宿>に比べると残っている町並みは少ないとのことである。

亀山宿と関宿のイラスト案内図と、亀山駅ぶらりマップをもらう。イラスト案内図に、<志賀直哉と亀山>とある。志賀さんの母が亀山の生まれで、志賀さんは若くして亡くなった母の面影を探し求め、この亀山に来ている。その時のことを、『暗夜行路』に描いているという。その場ではどうすることも出来ないので、先ず、亀山城跡を目指す。亀山城は、蝶の舞う姿にたとえられ<粉蝶城>とも呼ばれたそうであるが、今は多門櫓、堀、土居の一部が残るだけである。今の多門櫓は平成23・24年に修理されたわけで、志賀さんが訪ねたころはかなり朽ちていたのであろう。

彼は、亀山に降り、次の列車までの一時間半ばかりを俥で一通り町を見て廻った。亀山は彼の亡き母の郷里だった。それは高台の至って見すぼらしい町で、町見物は直ぐ済み、それから神社の建っている城跡の方へ行って見た。広重の五十三次にある大きい斜面の亀山を想っている謙作は、その景色でも見て行きたいと考えたが、よく場所が分らなかった。

 

その後、俥を鳥居の前に待たしてあるが、これは、多門櫓の下にあった亀山神社のことであろうか。謙作は、高台に上がり、掃除をしている婦人に母の実家の名前を言い尋ねるが、母のことは分らなかった。小説の中の主人公にとって、この部分はかなり重要であるが、そのことに触れると長くなるので止める。

主人公は、伊勢参りのあと亀山に寄っている。そして伊勢では古市に行き、「芝居で馴染みの油屋という宿屋に泊り」「伊勢音頭を見に行き」「古市の伊勢音頭も面白く思った」とある。芝居とは『伊勢音頭恋寝刃』である。今は古市には油屋もなく、大林寺に遊女お紺と孫福斎の比翼塚のお墓があるだけであるが、志賀さんの頃にはまだ油屋は残っていたわけである。

亀山の町は、志賀さんが訪ねた頃よりも整備され、古い物を残そうと頑張っておられる。亀山城は関氏の城下として発展し、東海道の江戸から数えて46番目の宿場町である。お城があるだけに明治に入って、廃城令により取り壊されているので、志賀さんが訪れたころは、見すぼらしく見えたのであろう。そして、母の昔の消息も分らなかっただけに、町の印象が主人公にとっては、良いものとして残らなかったのである。

宿の一部分の旧東海道も歩け、突然、46番目まで飛んでしまったが、江戸の旅人だけではなく、志賀直哉さんも訪れていたというので、記憶に残る宿場町になった。これを書くにあたり『暗夜行路』をパラパラめくってその部分を探し出したが、暗い。若さで読んでいたのであろうか。理解していたとは思えない。もう一回読み返したくもある。暗夜の路をもう一度。

亀山市歴史博物館が、駅から40分と遠いため、残念ながら詳しい歴史的なことは分らなかった。関宿に比べると、宿の道が、かなりジグザグである。地形的なものであろうか。関宿が1.8キロで亀山宿は2.5キロと長いが、本陣、脇本陣が各一軒で、紀行文にも「さびしき城下」と書かれているようである。今は広い道路が出来ているが、広重の絵のような地形だったのかもしれない。

『岡田美術館』にて芦雪出現

箱根の『岡田美術館』で、喜多川歌麿さんの<深川の雪>が再び公開とある。正直のところ、ここの美術館は入館料が高すぎる。交通費を入れると躊躇する。そのため前の公開のときは止めたのであるが、今回は、一度観ておけばいいのだからと訪れた。高いと思う気持ちは変わらないが、長沢芦雪さんに会えたのである。

歌麿さんと同時代の絵師としては次のような方がいる。江戸の歌川豊春、司馬江漢、谷文晁(たにぶんちょう)。京都の円山応挙とその弟子の長沢芦雪、呉春、伊藤若冲、。大阪の森狙仙。

歌麿さんの『深川の雪』は、『 品川の月』『吉原の花』(米国の美術館所蔵)との三部作の一枚である。深川、品川、吉原の地域がら、着物の色、柄などが、深川が一番地味である。自然は<雪>であるから、お盆にのせたり、手を伸ばしたり、炬燵に潜り込んだりと、様々な様相を体している。中の品物は綿入れの着物であろうか、大きな風呂敷包みを背負う使用人の姿もある。<雪>に反応する料理茶屋の女性たち一人一人が歌麿さんによって配置されている。女性達の下唇が青である。笹色紅(ささいろべに)といって、紅を厚く重ねて玉虫色に光らせる化粧法を表しているとのこと。『品川の月』と『吉原の桜』のレプリカもあるので、比較できたのはよかった。

二階のこの展示室に到達する前に、一階展示の陶磁器などを見なくてはならないので、休憩と食事がしたくなる。入場券さえあれば、一日出入りできる。食事は一旦外にでて、美術館関係の食事どころ利用となり、そこを利用したが、メニューがすくないので、お隣の「ユネッサン」のレストランを利用するのも手である。雨模様だったので、庭園はやめたが、入園料がいる。足湯もあるが、有料である。美術館の中で、ほっとできる場所がない。

小田原で、限定公開の桜の見どころに寄ろうと思っていたが、雨でもあるし、この美術館一つと決める。貴重品のみ、携帯などは持ち込み禁止である。入場するとき、空港のような検知器を通らなければならない。出足の気分としては降下する。展示室には係り員がいないので、全てカメラで監視しているのであろう。食事場所が外なので、再入場となり、再び検知器を通る。こういう雰囲気の美術館が増えることを懸念するが、神社仏閣に油をかけるような犯罪が起こると、自由に見学できたものも規制されることにもなりかねない。自分も自由に見学できている立場を考えてほしいものである。

三階の展示室で、歌麿さんと同時代の絵師に会える。その中の芦雪さん、やはり楽しい。応挙さんの小犬の絵は可愛い。東京国立博物館での杉戸に描かれた「朝顔狗子」が最初の出会いであろうか。岡田美術館にもグッズとなっている「子犬に綿図」がある。その師匠の絵を手本にしたと思われる芦雪さんの「群犬図屏風」がある。この作品の芦雪さんの印が<魚>でないので、師匠を模して描かれた頃のものと判断されている。

応挙さんの犬と同じように愛らしいのであるが、構図が芦雪さんらしい。左に母犬がいてそのそばに子犬が戯れ、真ん中ほどに二匹の犬が優しい眼差しを、さらに右手の一匹の犬に向けている。二匹の犬が声をかける。「どうしたの。こっちへおいでよ。遊ぼうよ。」右手の犬は、他の子犬に比べると黒の斑の部分が大きい。足はしっかり止めていて、「でもさ、僕は自分の道を探しに行くよ。」と言っているようである。そんな会話を観る者が創作できる絵なのである。芦雪さんの絵はそれが魅力である。

もう一つは「牡丹花肖柏図屏風」で、辺りは淡く夕焼けに染まり、牛に乘った人物がゆったりと夕焼けを眺めている。牛はこちらにお尻を向けていて、この人物は牛を後ろ向きに乘っているのである。牛の頭には牡丹の花が載せられ、牛の顔は見えない。この人物は室町時代の連歌師の肖柏で出かける時はいつも牛に乘ってでかけ、号を<ぼたん花>ともいったそうである。のんびりユーモアあふれる夕景である。「良い夕焼けですね。一句出来そうですか。」「いやいや、こういう風景には言葉は無力です。」

呉春さんは、司馬遼太郎さんの短編集『最後の伊賀者』の中に『蘆雪を殺す』と一緒に『天明の絵師』として入っていた。小説では、呉春さんは与謝蕪村さんに弟子入りし、蕪村さん亡きあと、応挙さんのもとにいき「四条派」として繁栄する。蕪村さんの娘のお絹さんは「あの人は、器用だから。」と感想を述べている。呉春さんの作品はそつのない絵ともいえる。蕪村さんは生きているうちは認められなかった方である。小説のなかでは、当時の「千金の画家」として、応挙さん、若冲さんなどをあげている。さらに最終では、次のように記されている。

とまれ、蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で名利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほど高く、「勅命」で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい。

 

呉春さんは、京都の金福寺で師の蕪村さんと隣り合って眠っているという。金福寺は、『花の生涯』の村山たかさんのお墓があるのに驚いたのと、お庭の紫と白の桔梗の清楚さしか記憶に無い。蕪村さんは、芭蕉さんを敬愛されていた。近江の義仲寺にある<無名庵>の天井絵は若冲さんである。

サントリー美術館で、『若冲と蕪村』を開催している。同じ年齢とか。面白い企画である。

岡田美術館には四時間ほど居たであろうか。ここの美術館は時間がかかると思ったほうがよい。人もほどほどでゆっくり鑑賞できた。個人的には、色々なつながりの作品が見れて満足ではあった。

もし、いつか再度訪れるとすれば、講演会のある時などを考慮して訪れるかもしれない。お天気がよければ、<曽我兄弟の墓>のバス停から<六地蔵>バス停までぷらぷら歩きたかったのであるが、次の機会である。

串本・無量寺~紀勢本線~阪和線~関西本線~伊賀上野(2)

 

 

 

 

歌舞伎座 四代目中村鴈治郎襲名披露(2)

昼の部上方歌舞伎らしく近松物の『碁盤太平記』『廓文章』がある。夜の部の『河庄』を含む三作品は<元辞楼十二曲〉に入っているらしい。

このほかの<元辞楼十二曲>には、『時雨の炬燵』『封印切』『あかね染』『恋の湖』『土屋主税』『椀久末松山』『藤十郎の恋』『引窓』『敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)』がある。観ていない作品が半分ほどあるので、是非上演して戴きたい。

『碁盤太平記』も四十年ぶりの上演。この作品は、『仮名手本忠臣蔵』の<山科閑居>にも影響を与えたそうで、興味深い。

山科での大石内蔵助は、放蕩にふけり敵討ちなどするような気持ちなどないというところを見せる場面である。実際に大石の情報操作が、敵討ちを成功させた一因でもあり、そこを芝居として組立てる近松門左衛門さんの腕でもある。当然ここでの大石は辛抱役となる。大石を取り巻く家族、使用人等の思惑が入り乱れ、その中心点に《碁盤》を据えている。近松さんは、磁場の中心点に何かを持ってくる傾向があるように思う。『河庄』であれば、《手紙》。『廓文章(くるわぶんしょう)』であれば、《炬燵》。それが、役者の動き、心理を面白いものにさせる。

大石内蔵助の立役の扇雀さんも見どころである。『野田版 鼠小僧』の「キリキリキリ」の後家の兄嫁役、『恐怖時代』のお銀の方とは全く発想を変えなければならない役であるが、自然に観ることができ、大石の心ゆるさぬ警戒心のさまも味わうことができた。上野介の間者である染五郎さんとそれを見破る壱太郎さん。大石を諌めつつも、そっと大石の本心を探る母の東蔵さん、妻の考太郎さんとそろい、作品の面白さを楽しませてもらった。寿治郎さんも好演で、亀鶴さんの花道での眼がいい。

『六歌仙溶彩(ろっかせんすがたのいろどり)』は、紀貫之が六歌人を六歌仙と名指しした小野小町(魁春)を軸に僧正遍照(左團次)、文屋康秀(仁左衛門)、在原業平(梅玉)、喜撰法師(菊五郎)、大伴黒主(吉右衛門)がそれぞれの役どころを押さえての舞踊である。それが皆さんニンに合っていて、これだけの<六歌仙>はちょっと無いかもしれない。<喜撰>のお梶の芝雀さんが、すっきりとされた印象で、鷹揚な愛嬌の菊五郎さんと合っている。小町の魁春さんも、遍照、業平、黒主それぞれ雰囲気に合わせたられる。失態の遍照、可笑しみの色好み康秀、気品の業平、大きさをみせる黒主と、艶やかな舞台となった。<喜撰>の所化も豪華。(團蔵、萬次郎、権十郎、松江、歌昇、竹松、廣太郎)

『廓文章』は、夕霧が、藤十郎さんで、伊左衛門が鴈治郎さんである。鴈治郎さんが、藤十郎さんの貫禄に押され気味である。伊左衛門は、江戸では考えられない、ぼんぼんの若旦那である。そして、ここが上方独特の色男である。観ていると何んと我儘でしょうもない男なのかと思わせる若旦那である。それでいながら、どこか憎めないという若旦那で、勘当されているのに、最後は勘当が解けて夕霧を身請けするという、そんなことありなのと思わせる内容である。夕霧しか眼中になく、夕霧をどうしたら自分に目を向けさせておけるかと、端から見ると、可愛い若旦那でもある。そこを、もっとど~んと、上方芸で観せて欲しかった。もっと、藤十郎さんの夕霧にぶつかって欲しいと思った。『河庄』の治兵衛のたっぷりの味を、伊左衛門にも加えて戴きたい。劇中で喜左衛門の幸四郎さんが、新鴈治郎さんの紹介をされる。又五郎さん、歌六さん、秀太郎さんが、手堅く脇をかためられる。

『河庄』の丁稚の虎之介さんがいい。上方の丁稚というものが、実際にはわからないが、こうであったであろうと思い込んでしまう、はんなりとしてしっかり者の丁稚であった。

これを機に、上方の歌舞伎というものの面白さを、加え伝えていって欲しいものである。

 

 

 

歌舞伎映画 『野田版 鼠小僧』

『野田版 鼠小僧』(作・演出・野田秀樹)は、構成もしっかりしていているが、実際に観たときは、勘三郎さんの素が見えすぎて、こちらとしてはしっくりした気分になれなかった。その記憶がありながらなぜ映像を観たかというと、映画としては、編集で役者・勘三郎さんを映すであろうし、三津五郎さんとの対決の場面をもう一度観たくなったのである。 予想していたように、役者・勘三郎さんで、棺桶屋の三太の勘三郎さんであった。笑って泣いて、カーテンコールの映像をバックに流れるエンディングロールを眺めつつ、しみじみと、勘三郎さんと三津五郎さんを偲んだのである。

ところが、自分では大丈夫と思って居たのに、一日、二日と過ぎると、お二人の喪失感に落ちいってしまった。まずい状態である。この状況から脱出するには、荒治療で、映画『野田版 鼠小僧』について書くしかない。

勘三郎さんは、これだけの段取りをどうやって頭にいれ、膨大な台詞を言いつつ身体を軽快に動かすのかと、改めて見入ってしまった。どういう内容だったのかと問われても、答えられない状態であったが、映画を観つつ、どんどん思い出していく。観た舞台を自分が撮っているように、絵ときされていく。舞台では一歩遅れる笑いも、映画では同時に笑えてしまう。

しかし、よく動く。動いていても、鍛えられた太腿はピタッとくっついているので、ピッと立ち姿などは決まる。

棺桶屋の三太はお金のことしか頭にない。前半は三太の兄が死んで、その遺言状ですったもんだが起こる。兄嫁の扇雀さん、その娘の七之助さん、番頭の彌十郎さん。後半はひょんなことから、三太は鼠小僧となり、大岡越前守と対決することになる。

三津五郎さんの大岡は、後家の鑑の福助さんのところに通い、後家の鑑には間男・與吉の橋之助さんがいる。この與吉は皆から善人と思われている。與吉には三太という息子がいるが、三太など知らないと三太の存在さえ認めない。

棺桶屋の三太は、自分と同じ名前の三太の存在をも否定され、大岡との裏取引を反古にして大岡達の悪を暴くが、悲しいかな、三太より大岡のほうの悪知恵が上であった。

クリスマスには、空から小判が降ってくるという祖父の坂東吉弥さんの言葉を信じて手のひらを上に向けて待つ子供の三太。その三太に屋根の上から鼠小僧となった三太が「屋根の上から、誰かがいつも見ているからな。」と声をかけるが、子供の三太には聞こえない。雪が舞いおり、その雪がキラキラと輝いている。

勘三郎さんの台詞が、舞台を観たときよりも、沁みてしまう。そして、大岡の三津五郎さんの弁舌爽やかな論理の展開に、羽交い絞めにされてしまう勘三郎さん。このお二人の丁々発止がもう舞台で観られないということも、沁みてくる。

鼠小僧を追っかける目明しの勘九郎さん。棺桶屋の三太の死んだ兄の幽霊の獅童さん。大岡の妻の孝太郎さん。娘役の新吾さん。その他、いつもは名前の出て来ない方の名前も表示される。ただ悲しいかな、勘三郎さん、三津五郎さんの他にも故人となられた役者さんもおられる。中村屋を支えられた小山三さんも、勘三郎さんのもとへ旅立たれた(合掌)。

屋根の上から、見ているであろうが、悔しがってもおられるであろう。今更ながらそんなこんなの感情が渦を巻く。恐らく、これからも様々な感情がふーっと襲って来るのであろう。

少々厄介な心もちにされてしまったが、映画は細かな部分も再認識でき見ておいてよかったと思う。

歌舞伎座 四代目中村鴈治郎襲名披露(1)

中村翫雀さんが四代目中村鴈治郎さんとなられた。二代目鴈治郎さんは、沢山の映画に出られていて、今でも観ることができる。鴈治郎さんならではの役作りをされるので、鴈治郎さんが出られていると知ると映像でもその出から注目してしまう。 四代目鴈治郎さんは、屋号も「成駒屋」から「成駒家」に変えられた。夜の部の襲名披露口上は、今まで観た事の無い流れである。

成駒家歌舞伎賑(なりこまやかぶきのにぎわい』という演題で、木挽町(こびきちょう)の芝居町に、道頓堀の座元・仁左衛門さんに案内されて鴈治郎さんが現れる。道頓堀の座元が、役者・鴈治郎さんを木挽町の座元・菊五郎さん、太夫元・吉右衛門さん、芝居茶屋亭主・梅玉さんとの顔合わせのお世話をするのである。 花道が二本作られ、両花道には、男伊達と女伊達の役者さんが揃い、それぞれの名の短いが粋なつらねとなる。男伊達が、左團次さん、歌六さん、又五郎さん、錦之助さん、染五郎さん、松江さん、権十郎さん、團蔵さん、彦三郎さん。女伊達が、魁春さん、東蔵さん、芝雀さん、孝太郎さん、亀鶴さん、高麗蔵さん、萬次郎さん、友右衛門さん。 江戸奉行として幸四郎さんが、お祝いに駆け付け、我當さん、秀太郎さん、進之介さん、寿次郎さんと、本当に賑やかな木挽町芝居小屋前である。

そして、芝居小屋の中で口上をご披露ということで、四代目鴈治郎さん、扇雀さん、壱太郎さん、虎之介さん、藤十郎さんの芝居小屋前とは雰囲気を変え、厳かな襲名口上となるのである。 江戸歌舞伎、上方歌舞伎の二本柱という印象的な襲名披露の一場面となった。これだけの役者さんが、同じ舞台で拝見できるとは想像していなかったので、嬉しい趣向を凝らされた口上までの流れであった。

時代物で、幸四郎さんの梶原の『梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)』に始まり、口上となり、『河庄』へと続く。

これは『心中天網島』の一場面で、紙屋治兵衛と心中の約束までしていながら、治兵衛の奥さんの手紙から、治兵衛に愛想尽しをする遊女小春(芝雀)。信じていたのにと怒り心頭の紙屋治兵衛は、兄(梅玉)に諭されて小春への想いを断ち切る場面である。上方特有の治兵衛の怨みつらみがあり、その繰り返しを飽きさせずにみせるのが、治兵衛の役どころである。治兵衛の鴈治郎さんは、その怒りの様相を笑いをおこさせつつ、事情を知らないのであるから尤もであると納得させるが、そこで幕となるので、観ている方は事情が解ればなあと、気分が晴れない。

その気分をスカッとさせてくれるのが、染五郎さん、壱太郎さん、虎之介さんの三獅子の『石橋』である。江戸、上方と味わったあとで、両花道を生かした若さいっぱいの踏み、毛振りである。 すっきり艶やかな気分で、襲名のお祝いに相応しい心もちでの終演であった。

伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-2)

<伊賀越資料館>に向かうが、途中に、木と瓦屋根の忍者の町ならではの西小学校がある。そして、明治時代の白いモダンな校舎の残る上野高校校門前には、作家の横光利一さんの「 横光利一 若き日の五年をこの校に学ぶ 」の碑があった。

 

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さらに、かつての藩の子弟の学校であろうか、<旧崇廣堂>なるものもあったが、<伊賀超資料館>へ急ぐ。この資料館の前の道に 「みぎいせみち/ひだりならへ」の道しるべがあり、伊勢と奈良を結ぶ道で、かつては人通りの多い道であり、この<鍵屋の辻>で敵討ちがあったということは、多くのひとの口の端にのぼり、三大敵討ちの一つに数えられたのがわかる。しかし、私も歌舞伎で観ていなければ、観光としては行かなかったかもしれない。

 

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資料館には、当時の街道の模型や、敵討ちの錦絵などもある。また、敵の河合又五郎の首を洗ったと言われる小さな池には、今は<河合又五郎首洗供養地蔵池>とあり、小さなお地蔵さんが祀られている。

 

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現藤十郎さんが鴈治郎さんの時の『伊賀越道中双六』上演の際ここを訪れられ、首洗い地蔵池で成功祈願をされていて、我當さん、秀太郎さんとの写真とサイン色紙が残されていた。文楽のほうも、二代目吉田玉男さん桐竹勘十郎さん、吉田和生さんも人形共々祈願に来られている写真があった。

 

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歌舞伎の舞台写真などで、敵討ちの背景に異常に高い石垣の上野城が描かれているが、実際の上野城を強調していたわけである。(当時は実際にここに石垣があったようです。)

数馬の茶屋で一服したかったが、先を急ぎ、上野駅方面へもどり、そこから東に向かい<芭蕉翁生家>へ。<芭蕉翁記念館>に、芭蕉が自ら作ったという献立表があったが、生家の方には、こうであったであろうというレプリカがあった。きちんとした献立なので驚いたのであるが、係りのかたの話によると、芭蕉は、若いころ侍屋敷で料理人として修業したことがあるのだそうで、生家裏に今は跡碑のみであるが、<無名庵>を弟子たちが作ってくれたお礼に自らの手で料理しご馳走したとのこと。これもまた、知らなかった芭蕉さんの一面である。

 

<芭蕉翁生家>内の裏にある釣月軒と無名庵跡

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記念館と生家の係りのかたに、「芭蕉さんは、忍者だったと思いますか」と尋ねたら、お二人とも、忍者ではなかったと答えられた。

私も忍者ではなかったと思う。ただし、忍者のいた地域で生まれ育っているなら、忍者という仕事がどういうものであるかということは解っていたであろう。代表的な「古池や蛙飛びこむ水の音」のように、音を俳句に入れてしまうという感性は、忍者の伊賀出身の人ならではのような気がする。そして、旅に明け暮れたのも、俳諧という技をもった人が、どこかで同郷への人々に寄り添っていたような気がするのである。井上ひさしさんはどんな芭蕉さんを書かれたのか、『芭蕉通夜舟』が読みたくなった。三津五郎さんが再演される予定であり、それを聞いたとき、思い入れが強いのであろうと楽しみにしていたが、今となっては叶わない。生家の係りの方が、上野駅から南側のお城とは反対側の街並みも是非歩いて欲しいのですと言われて地図に赤線を引いてくれたが、残念ながら全部は回れず、<上野天神宮>と寺町だけを通過して駅にもどった。

<上野天神宮>は、菅原道真公が主神である。松尾芭蕉が処女句集「貝おほひ」を奉納したといわれている。大きなお社であった。

 

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五つ庵があったうち一つだけ残っている<蓑虫庵>などは行けなかった。生家裏の<無名庵>が、義仲寺にある<無名庵>と同じ名というのも面白い。係りのかたが、名なぞなくて無いでよいということか、巴御前と関係があるのか、そこは解りませんとのことで、うなずける。旅の日程にも嘘があるし、俳聖芭蕉よりどこ吹く風というところがある芭蕉さんなのが良い。忍者が忍ぶ人であるだけに、芭蕉さんは、縛られない生き方、作風を模索されたような気がする伊賀の旅であった。