映画『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』『月給泥棒』 

『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979年) チラシの紹介文を載せておく。

昭和18年に行われた最後の早慶戦と、学徒出陣して特攻隊員となった選手たちのその後を描く。当時の写真やフイルム映像を織り込みながら淡々と描かれる彼らの姿が、心から野球を愛した若者たちの命を奪っていく戦争の惨めさを浮かびあがらせる。英霊たちの鎮魂歌を奏でる佐藤勝のトランペットも心に沁みる。

 

岡本監督の映像の回転は速い。元気で、泣きつつ笑わせられる。理不尽な暴力にも笑いが起こる。何とばかばかしいことが、まかり通ってしまうのか。怒るはずのことを笑いとすることで、こんなことで笑わせるお前らじゃないよな、野球という場で、元気と感動を与えていたお前らだったはずなのにと監督が映像の裏で言っているようである。

大学を卒業するまでの何年かは大丈夫であろうと意識的に野球に没頭する学生たちも、戦争の状況によりそれは許されなくなる。学徒出陣を前に、何とか最後の早慶戦をやりたいと、関係者は動き実現する。映像は昭和59年の早慶戦とオーバーラップされる。映画はさらに特攻隊となった野球を愛した彼らを追う。<〇〇玉砕>の文字の入った当時のフイルム映像が戦局の経過と共に挿入される。その映像の映っている時間は短い。彼らは当時の戦局をどうのこうの言えるような考える時間などないのである。フィイルム映像の挿入とともに、特攻隊の出撃までの練習時間は短縮されて行く。

出撃を前に一人の若者が、ばかになるか気が狂うしかないという。その若者は迷う友人に、お前は何の為に死ぬのかそれを捜せ、母親ではだめなのかと投げかける。母親しか家族のいない友人は、プロ野球選手になって母を幸せにしようと考えていた。彼は、特別休暇をもらい、母のもとへ。母は空襲のため病院で、息子に看取られ息を引き取る。 野球を愛した若者たちは、野球をやっていた時の激を飛ばし合い突っ込んでいく。そこには上官などより、一緒に野球をしてきた者同士の信頼関係だけがある。戦争がなければ、プロとして活躍し、喝采を浴びた若者がもっといたことであろう。

知覧を訪れた時、特攻隊の訓練時の宿舎が残っていて内部に入ることが出来た。ここでまだ少年とも呼べる若者たちが、短い日数で実戦に向かうための厳しい訓練を受け、飛び立っていったと思うと胸が締め付けられた。

監督・岡本喜八/原作・神山圭介/脚本・山田信夫・岡本喜八/撮影・村井博/音楽・佐藤勝/出演・永島敏行、勝野洋、本田博太郎、中村秀和、山田隆夫、竹下景子、大谷直子、水野久美、八千草薫、田中邦衛、岸田森、殿山泰司、仲谷昇、東野英治郎

 

『月給泥棒』(1962年) 高度成長時代のサラリーマン・コメディ。<税金泥棒>と<月給泥棒>に因果関係はあるのか。解りません。

ある会社では、会社に貢献しない者は月給泥棒であると重役からの朝の訓話が放送で流されている。

自分の誇示、出世欲旺盛な一人のサラリーマン(宝田明)が、上役のご機嫌もとり、明朗快活に動き回る。さらなる飛躍は、自分の会社のカメラを石油王国の王様(ジェリー伊藤)に売り込む事。口八丁手八丁でライバル会社と渡り合う。その為に、家が没落したお嬢様育ちの美しいホステス(司葉子)の女性を使うのであるが、王様はこの女性に惚れてしまい、恋仲と思いきや、お互い割り切ってそれぞれの欲の方を選んでしまう・・・・・

サラリーマン喜劇のお色気たっぷりのホステス、芸者、宴会ではなく、至って健康的である。そしてコロッと物事がひっくり返るところが、岡本監督特有のテンポの良さである。美男美女のサラリーマン青春映画と言えそうである。司葉子さんの衣装にハリウッド的夢がある。それでいながら、ちゃぶ台が似合う結果となる。

監督・岡本喜八/原作・庄野潤三/脚本・松木ひろし/撮影・逢沢譲/音楽・佐藤勝/出演・宝田明、司葉子、十朱久雄、中丸忠雄、宮口精二、横山道代、若林英子、原知佐子、ジェリー伊藤

 

 

 

岡本喜八監督映画特集

渋谷の映画館「ユーロスペース」で、ドキュメンタリー映画 映画 『仲代達矢「役者」 を生きる』 を上映しているが、その上の映画館「シネマヴェーラ渋谷」では <岡本喜八監督特集>をやっている。

仲代さんの映画を立て続けに観た4本が、『切腹』『上意討ち 拝領妻始末記』『殺人狂時代』『野獣死すべし』で、『殺人狂時代』は喜劇とあり、岡本監督作品なので選んだのである。喜劇だけあって仲代さん演じる冴えない大学講師が、命を狙われるのであるが、頓馬な偶然が重なって命拾いをしそのうち、頭の冴えが働き悪漢をやつけてしまうというお話である。悪漢の大将が天野英世さんとくれば、多少想像がつくと思う。行動を共にする女性が陽性のお色気の団令子さんである。岡本監督らしく、ドカーン、ドカーンの爆発もある。

今のところ仲代さんの映画の喜劇としては、『殺人狂時代』も悪くはないが、つかこうへいさんの映画『熱海殺人事件』の二階堂伝兵衛が一番と思っている。この『殺人狂時代』は、現実問題として上映当時映画よりももっと悲喜劇のことがあったのである。仲代さんはニックネームを<モヤ>と呼ばれ、恭子夫人がモヤーとボンヤリしていることから命名したのであるが、仲代さんの地に近い役でと考えられたらしい。ところが、会社からお蔵入りを宣言され、その後上映したところ、東宝始まって以来の不入りで、仲代さんは東宝の人達から挨拶もしてもらえなかっとか。岡本監督は、<オクラ>は映画監督の恥と教わっていたので、そのことがあってゴルフと酒の日々。

『殺人狂時代』より3年前くらいに映された『江分利満氏の優雅な生活』も、会社の上層部は悪い意味でのびっくり仰天だったらしい。この映画を観て、私は、岡本監督の面白さに開眼したのである。原作が山口瞳さんで、自画像的なところもあるが、サラリーマンもの映画をこんな面白さで描く監督がいたのだ、それも、ドカーン、ドカーンのイメージの岡本監督なのであるから、良い意味でびっくり仰天の拍手であった。

ところが、これは観ていないがその後の『ああ爆弾』これがまたまた会社の上層部を刺激して、ついに『殺人狂時代』は<オクラ>となったのである。笑いごとではないが、その話しを読んで笑ってしまった。岡本監督は、何か面白いことはないかと、常に捜しまわって映画にはめ込んでいる感じである。その試写を観て、のけ反って驚いた上層部の姿が映画の一コマになりそうである。

さらに『江分利満氏の優雅な生活』は川島雄三監督の企画で、客として観るのを岡本監督も楽しみにされていたら川島監督は亡くなられてしまい、岡本監督が撮ることとなる。そいう経過があったことを知って、来るべきところに来たんだと納得である。岡本監督に撮ってもらって良かった。あの映画には、川島監督も二ヤリっとされたと思う。

岡本監督映画の音楽担当が佐藤勝さんが多い。これがまたいいのである。なんでここでというような歌謡曲が流れたり、壺を外しているようで外していないような、面白さがある。『ジャズ大名』は原作が筒井康隆さんで、音楽が筒井康隆さんと山下洋輔さんであるから、江戸時代でもジャズがよく似合う。

『野獣死すべし』は、大藪春彦さんのデビュー作の映画化で、監督・須川栄三さん、脚本・白坂衣志夫さん、音楽・黛敏郎さんである。日本映画での初めてのハードボイルド映画と言われている。主人公の仲代さんのニヒルで強靭で冷徹さは、『殺人狂時代』の主人公よりもシャープで歌舞伎でいえば色悪である。若い刑事の小泉博さんが、警察の捜査線上に無い新しいタイプの犯罪者であるとして、仲代さんと対決していくところも面白い。それでいながら、主人公はいつも妖しげな笑いである。

大藪春彦さんの原作『血の罠』から映画『暗黒街の対決』を岡本監督は、三船敏郎さんと鶴田浩二さんで撮られている。脚本・関沢新一さん、音楽・佐藤勝さんであるが、この映画はまだ観ていない。

岡本監督は『殺人狂時代』は、ハードボイルドなんだかそうじゃないのか最後までわからない状態の映画としたらしい。それは、『野獣死すべし』を観てこちらのほうがすっきりしている、あれは(『殺人狂時代』)は何だったのだと思ったので、監督の意図は通じたことになるのか。原作が都筑道夫さんの『飢えた遺産(なめくじに聞いてみろ)』とある。塩をまかれて消えかかったなめくじも、時間を経過して映画館を埋め尽くす日もくるのである。

歌舞伎座 2月 『水天宮利生深川』

『水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)』<筆屋幸兵衛>。通称「筆幸」。河竹黙阿弥の作品で、明治維新による没落武士の話しである。黙阿弥さんが、江戸と明治をどう捉えていたかということを知りたいところであるが、これは、作品群から検証しなければならないので実際のところはわからないが、この作品だけから思ったことがある。

この作品は、今の明治座の場所に明治18年「千歳座」が新築開場した時、初演されたのだそうで、<水天宮>とも関連させ、深川に住む江戸から変わらない庶民の姿をも映し出している作品である。黙阿弥さんは、江戸から明治への風俗の変化と、江戸は無くなっても、庶民の息づいている町は変わらないことを願いつつ書かれたようにおもうのである。

深川浄心寺裏に住む貧しい没落武士の船津幸兵衛(幸四郎)の一家は、妻が亡くなり、乳飲み子幸太郎、眼を患っている姉娘のお雪(児太郎)、妹娘のお霜(金太郎)の4人家族である。幸兵衛は、筆売りをしているが、高利の金も借りどうすることも出来ない有様である。幸兵衛は、同じ武士でありながら剣術に長けていたためしっかり剣術家としてやっている萩原家でもらい乳のうえ、幸太郎の着物と金子をもらい、そのお金で信心している水天宮様の碇の絵の額を買って帰って来る。

長屋の住人は、幸兵衛の家族を気遣い、娘達の話し相手に来てくれたりし、人の優しさに少し心和んでいた幸兵衛であったが、金貸しの金兵衛(彦三郎)と散切り頭の代言人安兵衛(権十郎)がやってきて、萩原の妻・おむら(魁春)からもらった幸太郎の着物と、お雪が施しをうけたお金まで利子の代わりにと持っていってしまう。代言人安兵衛も元は武士で、金貸し金兵衛が無筆のため、代わりに証文を書いたりその内訳の説明をしたりする仕事である。

もうこれまでと思い、家族4人で死ぬ決心をする。幸兵衛の大小の刀はすでになく、残しておいた短刀で、まず幸太郎からと思って短刀を向けると幸太郎は笑っているのである。そこから、幸兵衛の心は一気に度を失い狂気へと変貌するのである。隣では、子の誕生を祝いに呼んだ清元連中が浄瑠璃を語っているのである。他の家から聞こえてくるのを <余所事浄瑠璃(よそごとじょうるり)>といい、実際の清元連中が並び、浄瑠璃「風狂川辺の芽柳」を語るのである。これが、幸兵衛の神経を一層狂わせるのである。隣と自分たちの違い。その高音の語り。その語りに合わせて、ほうきをもっての幸兵衛の狂いながらの踊り。今まで、何んとか武士の対面を保ってきたのに一瞬にして崩れて行く様を、浄瑠璃と共に幸四郎さんは一体となって表現された。

ほかの劇では表現できない形である。新劇であれば、セリフで、ミュージカルなら歌で表現するのであろうが、芝居のなかで、音楽と身体で内面を表現することが出来るのが歌舞伎の強みであり技の見せ所である。この清元、江戸庶民には身近な音楽で長屋の住人は久しぶりに浄瑠璃が聞けると楽しみにしている。

幸兵衛が狂い、長屋の住人、大家さん(由次郎)、車夫・三五郎(錦之助)らが駆けつけ押さえるが押さえが効かない。この辺りも長屋住人の情が伝わる。萩原おむらも気がかりで訪ねてきてくれるが、幸兵衛は、水天宮の碇の額と幸太郎を抱え家を飛び出してしまう。隅田川に飛び込んだ幸兵衛は、幸太郎共々、車夫三太郎に助けられる。巡査(友右衛門)が事情聴取をするあたりも明治である。幸兵衛は正気にもどり皆安心とし、水天宮様の碇の額のお蔭と喜ぶのである。幸兵衛一家を支えてくれているのが、長屋の住人であった。

妹娘お露の金太郎さんが家族の一員としての役目を果たそうと健気である。児太郎さんは、ここでは、眼を患っている不自由さを身体を小さくして俯き、同情を誘う。お雪が水天宮様の碇の額を自分にも見せてくださいと言い、幸兵衛が眼の見えないお雪に手で触らせて説明する様子にも、子を思う親と、親を慕う子の想いがよく伝わる。この辺りの様子から、幸兵衛の子を思いつつも世渡りの下手な自分へのもどかしさ、世間に対する恨みから狂ってしまう人間性というものが時代背景とともによく写し出されていた。

『関の扉』の常磐津、『筆幸』の清元、歌舞伎の音楽性をも加えての楽しみ方に気がつかせてくれる。

 

歌舞伎座 2月 『一谷嫩軍記』『神田祭』

『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の<陣門><組打>である。<熊谷陣屋>の前の場で、<熊谷陣屋>とセットで組まれるが、今回は、この二つの場面だけである。ここで、熊谷直実が敦盛の代わりに自分の息子の小次郎を討ってしまうということで、次の<熊谷陣屋>の前哨戦とも受け止められるが、今回のようにそこだけの上演となりながら、<陣門><組打>だけでしっかり心うたれた。

小次郎の菊之助さんは、身体が若武者の形になっていて、足をきちっと揃えられた姿には、決まったと思いつつ、こんな若者の命を戦は容赦なく奪うのだとすでにほろりとしてしまう。さらに、平家の敵陣からは笛の音が聞こえてきて、それを耳にした小次郎は、公達はこんな美しい音色を奏でるのだと感心する。この若者には、美しいものは美しいと感じる時間は残されていないのである。小次郎は初陣の手柄をめざし敵陣に突入していく。

近頃、歌舞伎の被り物の生き物の動きが良くなったように思える。この場も馬が活躍するのであるが、すこぶる動きが良い。熊谷の乗る馬、敦盛の乗る馬、役者さんを引き立ててくれる。熊谷直実の吉右衛門さんは戦場での気迫に満ちた馬上の人として現れる。小次郎の初陣を心配してのことであるが、その辺は胸の内である。それゆえ、負傷した小次郎を助け出した時は、小次郎を隠し足早に立ち去る。

直実は敦盛を呼び止め引き戻し、小次郎と同じ若武者と知って逃がそうとする。しかし周囲にさとられ、敦盛も覚悟のうえのことなので討たれることを所望する。ここで、敦盛が実は小次郎で、入れ替わったことに気がつき直実は動揺する。観ていると、菊之助さんは敦盛に成りきっていて、この場では、むしろ観る方も敦盛と騙されてもよいのだと思えた。熊谷は、自分の息子と重ねてこの場に臨んでいる。そう思わせる。菊之助さんと吉右衛門さんの演技は二人だけが真実を抱え込んだ戦場の親子の姿であった。ここで真実が解らなくても<熊谷陣屋>を観たときそうであったのかと思えれば芝居の物語性は壊れはしないのである。

吉右衛門さんはその後の悲しみも深く押さえられ、静かに亡き人の鎧、兜などをかたずけられる姿に運命をかみしめる無常観が感じられた。敦盛の許嫁である玉織姫がめも見えなくなった死の淵にありながら、敦盛の顔が見たいと言い、見て安心して亡くなる姿も物語の悲哀を一層深くした。<陣門><組打>だけの場で、敦盛であっても、小次郎であっても、戦の空しさは変わりようがないと思わせてくれる。菊之助さんは、東の若武者と公達の若武者をきちっと演じわけられた。

『神田祭』は、明るく賑やかに菊五郎さんの粋な鳶頭と、それぞれの味を見せてくれる芸者五人衆の時蔵さん、芝雀さん、高麗蔵さん、梅枝さん、児太郎さんの踊りである。

手古舞もあり、ナマズの山車が出てきて、鳶頭がナマズを押さえつけてしまう。舞台の神田祭りで威勢よく地震を鎮めてしまおうとの趣向であろうか。お祭りは、やはり晴やかな気分にしてくれる。

 

歌舞伎座 2月 『積恋雪関扉』

『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』。常磐津の大曲である。様々な錯綜があり、桜の精が現れるなど、物語性の強い作品である。それを舞踊で見せると言う難解でありながら、ここはどういうことなのかと分け入りたくなる世界である。あらすじを押さえて観たほうがより深く味わえる演目である。

登場人物は、良峯宗貞、関守の関兵衛、小野小町姫、傾城墨染(小町桜の精)である。場所は雪の逢坂の関である。雪が積もっているのに、この関に満開の桜が一本ある。この桜は、仁命天皇崩御に伴い薄墨桜となったのが、小野小町の和歌の徳によって色を増したとされ、小町桜と呼ばれている。

良峯宗貞は、天皇陵を守りつつのわび住いで、そのそばにある逢坂の関には関兵衛が関を守っている。そこへ宗貞の恋人・小野小町姫が現れる。当然、関守・関兵衛と小町姫との問答となり、その後、宗貞と小町姫の馴れ初めの二人の恋話の踊りとなる。ところがここで、二人の仲を取り持つ関兵衛の懐から割符が落とされ、三人は探り合いとなるが関兵衛は引っ込む。

鷹が、血で<二子乗舟(にしじょうしゅう)>と書かれた片袖を足に結びつけて飛来する。それは、宗貞の弟・安貞が兄の身代わりとなって死んだことを意味し、その袖の落ちた石から、大伴家の宝鏡が見つかり、割符は小野篁(おのたかむら)が奪われた割符と判明。関兵衛を怪しみ宗貞は、ことの次第を篁に知らせるべく、小町姫を送り出すのである。

小町姫の化粧蓑をつけた赤姫の菊之助さんの花道の出が、何んとも愛いらしい。薄墨色の桜が、赤姫の赤を受けて、元の桜色に戻ったと思えるほど、赤が映える。無骨な関守・関兵衛の幸四郎さんとの問答も対照的で面白い。ここでの関兵衛の振りは、初代中村仲蔵が工夫したところで、「天明振り」あるいは「仲蔵振り」と言われるのだそうである。見どころである。宗貞の錦之助さんと菊之助さんの踊りも二枚目と赤姫の踊りとして息が合っている。鷹の出現は、中国の故事に因むんでいて、関兵衛の素性を探る引き金となっているが、幸四郎さんは、朴訥な愛嬌も見せ、素性は現さない。

酔って現れた関兵衛は、さらに一人大杯を飲み干そうとすると、大杯に北斗七星が写り、それが、謀反の時と、小町桜を祈りのための護摩木として切り倒すため斧を研ぐ。桜の木を切ろうとするが、何かによってそれが遮られてしまう。桜のウロには、宗貞の弟の安貞と契を交わした、傾城墨染が写る。そして、墨染が姿を現し、関兵衛との問答がある。墨染は関兵衛に会いに来たと告げ、二人で廓話の踊りとなる。墨染が血文字の肩袖を見て涙するのを見て関兵衛は怪しむが、墨染は、これは関兵衛が女から貰った起請であろうと焼きもちを焼く振りをしてごまかす。

ラストは、関兵衛は実は、大悪党の大伴黒主であり、傾城墨染は小町桜の精が人間の墨染となって現れたのである。桜の精の力を借り現れた薄墨は、安貞の仇をとるべく、黒主と激しく争い、二人それぞれの形がきまり幕となる。

赤姫から今度は、桜の精でもある傾城の怪しい色香で菊之助さんは出現し、廓話はひょうきんさも加わった関兵衛の幸四郎さんと艶っぽさも加えて踊られる。とにかく常磐津の詞と語りとあいまって、そこのところもう一度聴き直したいと何度も思ってしまった。

流れとしてはまだ捉えられないが、部分部分の踊りや駆け引きが、ぽんぽんと思い出される。ぶっかえりの黒主になってからの幸四郎さんに悪の大きさがあり、『関の扉』は今までより好きな演目さを増した。

もう少ししっかり、常磐津と踊りを見直したいと、DVDを購入した。幸四郎さん、菊之助さん、錦之助さんの『関の扉』を思い起こしてから、観ようと思っていたので、これでDVDを観ることができる。

さらに、京都東山の六道珍皇寺での、<小野篁>の名前が出てきて、やっと篁さんが少し身近になった。

 

 

歌舞伎座 2月 『吉例寿曽我』『彦山権現誓助剱』

『吉例寿曽我(きちれいことぶきそが)』。曽我物はよく解らなくて好きではなかったこともあり、この演目を観た記憶がない。今回は奴が二人出てきて、どうやら敵対しているらしく、巻物一巻で争っている。上に続く石段は鎌倉の鶴ケ岡八幡宮への石段らしい。次第に曽我物の対面に近ずくのかと思ったら、その石段の前で奴たちの主人の近江小藤太(又五郎)と八幡三郎(錦之助)が一巻を奪い合う立ち回りとなる。そしてその石段が<がんどう返し>で、二人を乗せたまま、後ろに回転する。対面は富士山をバックにした、大磯の廓外ということになる。

工藤祐経(歌六)、秦野四郎国郷(国生)、化粧坂少将(梅枝)、大磯の虎(芝雀)、喜瀬川亀鶴(児太郎)、茶道珍斎(橘三郎)、朝比奈三郎(巳之助)が並び、曽我五郎(歌昇)、曽我十郎(萬太郎)が花道から出てくる。萬太郎さんの十郎が役に合っている。歌昇さんは、一瞬、種之助さんでは無いはずだがと思わせるような若い五郎に成りきっている。なるほど、まだ若い歌昇さんではあるが、もっと若い元気な五郎をめざしたのであろう。国生さんは行儀よく、巳之助さんは、長い手足を使いひょうきんさを現し呼吸もよい。梅枝さんは、傾城の大きさが加わって来た。驚いたのが児太郎さん。浅草では無かった色気がある。襟もとから首の線に今まで感じなかった色気が出た。『神田祭り』の芸者役も、やはり、先月の浅草とは違っていた。女形の歌舞伎役者が、歌舞伎役者としての身体が出来て行く過程を観させてもらっているようで嬉しい驚きである。

歌六さんと芝雀さんは、役どころの貫禄である。

『彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち)』<毛谷村>。剣の達人などの役はされていない菊五郎さんなので、その辺りをどう緩急つけられるか興味があったが、剣の達人と思わせるものが欠けていた。

毛谷村の六助(菊五郎)は、今は百姓であるが、吉岡一味斎の弟子で剣豪である。ところが、一味斎は闇討ちにされ家族は仇討に旅立つが、その一人お園(時蔵)が、甥の着物を見つけ六助を敵と間違う。さらに、六助はお園の許婚であった。お園は、六助が甥を助け、母のお幸(東蔵)も来ているのを知る。六助は、ある男に老いた母のために仕官したいと頼まれ、その為の試合でわざと負けてやっている。その負けてやった男こそ、師の敵の京極内匠(團蔵)であり、老母のためというのは真っ赤なウソで、百姓の右衛門(左團次)の母を自分の母に思わせ、用済みとなり殺してしまっていたのである。六助とお園は、敵討ちへと向かうのである。

京極に騙され、試合に負けてやるあたりは、人情味に溢れた人柄を鷹揚に明るく演じられているが、その後のお園とのやり取りや事の次第が判明していく段階は、剣豪としての味が欲しかった。剣に長け、人の情けがあり、実直である。その人物が、お園の男勝りの力持ちに驚き、師の娘であるお園が許嫁で畏まったり照れてしまったりと、そのあたり変化が期待より弱かった。裃を着るあたりは、恐縮しつつも、六助とお園に恥じらいと敵への覚悟の見せ所でもある。お園も、虚無僧の出の足さばきは男で、敵への気概が感じられたが、その後の大力を見せ、六助が許嫁と知った喜びや恥じらいがこれまた、薄味である。

菊五郎さんと時蔵さんお二人には、<剣豪、大力>、<許婚><男、女>、<敵討ち>への変化のプロセスの妙を見せていただきたかった。

 

映画 『上意討ち 拝領妻始末』 歌舞伎 『上意討ち』

映画『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)は、原作は『切腹』の滝口康彦さんの『拝領妻始末』、監督・小林正樹、脚本・橋本忍、音楽・武満徹と同じメンバーである。撮影・山田一夫、出演・三船敏郎、司葉子、加藤剛、仲代達矢となり、制作は三船プロである。

これも、簡単なあらすじは知っていたので、気になりつつも後回しであったが、見始めると一気であった。三船敏郎さんが、家付きの養子ということで、20数年間養子として肩身の狭い思いをしている、馬廻り役である。その笹原伊三郎の長男・与五郎(加藤剛)に会津松平藩主(松村達雄)の側室お市の方(司葉子)がお役御免で、嫁として払い下げられる。お市の方は、菊千代という男子まで産まれたかたである。与五郎はこの話を受け、嫁に迎えてみればよくできた嫁で、夫婦中もよく、孫もでき伊三郎は隠居して安堵した。

ところが、先に生まれた若君が急死し、菊千代が世継ぎとなる。お世継ぎの実母が、藩士の妻では困ると、今度は返上を申しつけられる。伊三郎は、仲の良い夫婦であり納得できない。与五郎もお市も、このまま添い遂げたいと希望しているが受け入れられず、お市は略奪の形で城に連れ去られてしまう。伊三郎はお市の返上願いの代わりに、息子の嫁を戻されたいと嘆願書を出すが、上意に逆らう一藩士として、咎人扱いとなる。

伊三郎の友である国廻り役の浅野帯刀(仲代達也)は、お市拝領の時、「押せば下がる、さらに押せば下がる。進退窮まったと思った瞬間、鮮やかに身を開き構えの位置が逆になっておる」と伊三郎の剣に例えて意見をいう。

お市を略奪されすべもないと伊三郎が思ったとき、帯刀は「押されれば引く、さらに押されれば引く。だが、それでも勝負をあきらめないのがおぬし。」と語る。このことが、江戸幕府に知られれば松平家にとっては大失態なのである。

伊三郎は、養子の身から初めて自分が生きていると感じるのである。

与五郎とお市と悲憤の最後をとげ、伊三郎と帯刀は剣を交えることとなる。帯刀は藩の一の木戸を守る国廻り役として、藩から無断で出国するものは、放っておくわけにはいかない役目である。三船さんと仲代さんの立ち合いである。三船さんのほうが、僅かに剣の扱いが早いように思える。帯刀を倒した伊三郎は、孫のとみと江戸に向かおうとするが、藩の追ってに阻まれ、ついに伊三郎も無念の死を遂げるのである。

剣豪でありながら太平の世では役にたたず、養子として家を守るあきらめにも似た穏やかさを見せる三船さん。しかし、追い手を切り倒していく時は棲さまじい迫力である。本当に刀が相手に当たっているように見える。仲代さんは上役に気を遣う武士の生き方を冷やかに見つめ、最後は、与五郎、お市、とみの三人の力が伊三郎に加担しているからと言いつつ伊三郎の剣に敗れる。

三船さんの伊三郎も、お市のような女になり、与五郎のような夫を持てととみに思いを託す。

歌舞伎のほうの『上意討ち』は、録画で脚本・演出が榎本滋民さんである。

笹原伊三郎(二代目尾上松緑)、妻すが(三代目河原崎権十郎)、嫡男・笹原与五郎(初代尾上辰之助)、次男(現坂東三津五郎)、お市(現尾上菊五郎)、浅野帯刀(十七代目市村羽左衛門)、嫡男・浅野篤之進(十二代目市川團十郎)、笹原家娘・たき(大谷友右衛門)、許婚・溝口新助(六代目尾上松助)、側用人・高橋外記(九代目坂東三津五郎)、笹原監物(現市川左團次)

こちらは、舞台で実際に観る事の出来なかった方々や、若き日の演者ぶりが楽しめ、映画とは違う登場人物配置で、映画とはまた違った味わいがあった。

伊三郎の友の帯刀にも息子・篤之進がいて、与五郎と篤之進の関係が加わるのである。舞台ゆえに場面転換しかできないが、芝居の流れはよく出来ている。伊三郎と帯刀の剣を通じてのつながり、与五郎と篤之進の若い者同士の関係とつながりそこが先ず判るようになっていて、このつながりが貫かれるのかなと想像できる。養子である松緑さんと妻の権十郎さんとの関係に笑いを入れ、悲劇が起こるという雰囲気ではないが、お市のことから、養子であっても保たれていた笹原家に大きな動きが生じ始める。

映画と違って、お市がお役御免となった経緯は、菊五郎さんがセリフで語られるので、映像より弱い。その為、生き方の全てを貫き通す意地の強いお市ではなくどこか儚さがある。最後は、他の者に殺させるより自分たちの手でと、帯刀と篤之進が、それぞれ、伊三郎と与五郎と対決する形となる。帯刀は、伊三郎に「会津一の武芸者だ」と言って果てる。それを受けて伊三郎は「会津一の武芸者がなんになる」と槍に身体を支えつつ幕となる。

歌舞伎役者さんの層の厚さをも堪能させてもらった。皆さん役にはまっている。

映画、歌舞伎、それぞれの分野でのさらなる楽しみ方の糸口をもらったような気がする。映画のほうは、和太鼓のリズミカルな音とともに、下から俯瞰したお城が写され、その写し方がいい。どこのお城であろう。古い時の会津若松城なのであろうか。

 

 

 

映画 『切腹』

『切腹』(1962年)は、浪人が武家屋敷にて、武士の志を貫くため切腹をしたいので場所をお借りしたいと頼み、その浪人が差していた竹光で、切腹させたというような内容で、監督は小林正樹さんである。リアルで重いと思い観ていなかったのであるが、今回は観たくなった。原作は滝口康彦さんの『異聞浪人記』よりである。

武田神社で、懐剣を見て、実際のところは判らないが、この懐剣なら死に向かう人の苦しみは少ないかもしれないと思ったが、竹光で切腹させるとは何たることか。

確かに重いが、セリフ劇でもあった。井伊家の江戸上屋敷に一人の浪人が、武士として潔く切腹したいので庭先をお貸し頂きたいと現れる。ここから、仲代達矢さんの浪人・津雲半四郎と家老斎藤勘解由・三國連太郎さんとの演技上の火花が散るのが楽しみになる。徳川家の時代となり、浪人が切腹する気がないのに、施しを受けるためにこうした行動を出る者が多くなる。家老はそれを絶つために、一人の浪人を望み通り切腹させ、その浪人の刀が竹光だったことから、藩士は竹光で切腹させるのである。ここに、閉鎖された中での組織の陰湿さと集団的心理の恐ろしさがある。その残虐さは、理不尽な<武士道>の勝手な解釈のお仕着せである。

この義憤がじわじわと立ち起こってくるのは、半四郎がその話しを聞いても動じず、用意された切腹の場にての語りからである。半四郎は介錯人を指名するが、指名した三人ともが病気届を出している。この辺から、何かあるなと思わせる。半四郎は、一同もいつ自分と同じ境遇になるかもしれないので、後学のためにと浪人に至った経過とその後を話し始める。ここからが、仲代さんのセリフ劇である。

次第に事が明らかになり、竹光で切腹させられた浪人・千々岩求女(石浜朗)が半四郎の娘婿であることが明らかになっていく。さらに、三つの髷が半四郎の懐から投げ出される。半四郎の穏やかに静かに語るゆとり感が次第に勘解由を動揺させていく。それは、浪人と譜代の対決となり、さらに幕府との対決に持って行きたい半四郎の<武士道>にたいする<人間道>である。

求女の死体が戻ってきて、求女が生活のために刀を売っていたことを知った時、自分の刀を投げ出す。何のための刀だったのか。自分の刀を竹光にしていたら、孫を医者に診せることが出来こういう結果にはならなかっったのではないか。その刀で大きな矛盾した体制に挑むのである。しかし、その行為は、勘解由によって偽装され、井伊家は幕府から褒められるのである。

この老い役を演じたとき、仲代さんは29歳である。カンヌでも、その若さから求女役の役者と勘違いされたようである。半四郎のセリフから、「関ヶ原から16年」とあるから、半四郎は実戦の経験があるのである。

半四郎の静な穏やかな、笑みさえ浮かべた何をも恐れない毅然たる態度は、激して語るよりも、半四郎の心の底のマグマのような義憤が伝わるのである。

それにしても、さらなる藩士の犠牲を命じ、家を守る三國さんの家老の狡猾さも見事である。役者による映画の面白かった時代の作品でもある。

音楽は武満徹さんで、琵琶が中心で、介錯人・丹波哲郎さんと仲代さんの対決の場面の風の音が効果的である。

予告篇には、『人間の条件』の監督 小林正樹、撮影 宮島義勇、主演 仲代達矢の組み合わせが強調されている。

監督・小林正樹/脚本・橋本忍/原作・滝口康彦/音楽・武満徹/撮影・宮島義勇

出演・仲代達矢、三國連太郎、石浜朗、丹波哲郎、三島雅夫、中谷一郎、佐藤慶、井川比佐志、松村達雄、岩下志麻

 

 

森鴎外と『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』

森鴎外の小説『青年』は、田舎から出て来た文学青年が主人公である。

小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行きの電車に乗った。

 

この<東京方眼図>は、鴎外が考案したものである。 『永井荷風展』 (1) 『青年』には、夏目漱石や森鴎外自身をモデルとした作家も出てくる。文学青年たちは、拊石(漱石)と鴎村(鴎外)を比較して、拊石が教員をやめただけでも、鴎村のように役人をしているのに比べると、よほど芸術家らしいかもしれないなどと論じている。

純一は拊石の物などは、多少興味を持ってよんだことがあるが、鴎村の物では、アンデルセンの翻訳だけ見て、こんなつまらない作を、よくも暇つぶしに訳したものだと思ったきり、この人に対してなんの興味も持っていない・・・

 

この青年たちは、拊石のイプセンの講演を聞きに来ているのである。拊石はイプセンについて話し、最後は、イプセンは「求める人であり、現代人であり、新しい人である」と締めくくる。純一は、この<新しい人>について考え仲間と論じ合う。当時の青年たちが、イプセンに強く惹きつけられていたということだけにして、これ以上深入りするのは止める。その後、純一は有楽座に『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を、観に行くのである。

十一月二十七日に有楽座でイプセンのジョン・ガブリエル・ボルクマンが興行せられた。これは時代思潮の上からみれば、重大なる出来事であると、純一は信じているので、自由劇場の発表があるのを待ちかねていたように、さっそく会員になって置いた。

 

ここからは、純一が観劇した様子の描写となるが、この芝居の対する感想なり批評はない。観劇にきた女性達の様子と、青年の眼に映る舞台の様子が書かれているだけである。ただ、イプセンとシェイクスピアやゲーテと比較している部分がある。

しかしシェエクスピイアやギョオテは、たといどんなにうまく演ぜられたところで、結構には相違ないが、今の青年に痛切な感じを与えることはむずかしかろう。

 

このあたりに、『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の翻訳者としての森鴎外さんの気負いが感じられる。

芝居としては、『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』より、『ソルネス』のほうが面白かった。

 

無名塾『ソルネス』

録画1995年上演の無名塾舞台『ソルネス』のテレビ録画があった。無名塾20周年記念公演でイプセン原作である。どうも気が乗らずかなりの放置である。仲代さんのドキュメント映画を観て、『ソルネス』を観たくなった。面白い。

ソルネス(仲代達矢)は、建築家として社会的地位を築き名声もて得ている。建築家といっても独学のため、棟梁と呼ばれるに相応しい。成功までには、人を踏みつけ踏み倒してもきている。自分の進むべき人生に疑いは持っていないが、若い才能ある人には脅威も感じている。そんな時、十年前にソルネスに会ったという女性が現れる。その女性ヒルデ(若村真由美)は自分が少女時代に見たソルネスは凄く恰好良かったという。

ヒルデ(若村麻由美)は、天使なのか。小悪魔なのか。観客にはどちらとも取れる。しかし、ソルネスの最後の花道へと導く彼女は天使である。ソルネスは十年前の彼女の憧れたソルネスに返り、彼女はソルネス本来の姿に戻したのである。

観終って、ヒルデは隆巴(宮崎恭子)さんだと思った。1995年の『ソルネス』は、隆巴さんの最期の演出作品である。仲代恭子さんは亡くなられてからも、天使として現れておられるように思われる。時には、宮崎恭子さんとして、あるいは、隆巴さんとして、仲代逹也さんの役者道を照らされている。<無名塾>という場所は、役者は死ぬまで修業が続くのだから、そのためにはプロとなった卒業生も、時には塾に帰ってきて芝居の勉強をし直おせる場所としての意味もある<無名>塾である。

『ソルネス』は、仲代さんが俳優座を退団されて<無名塾>で初めて飛ばれた演目でもある。ソルネスは、飛び立つ原点にもどるのである。そこからまた出発するのである。それは、亡くなられた隆巴さんが演出する、<役者・仲代達矢>でもある。隆巴さんの、力はそれほど大きなものである。時々、天使となって現れ、飛ぶ位置までもどされる。舞台『授業』もその一つだったように思われる。80歳になられて、なぜ苦しい<道楽>に挑まれるのか。それは、お二人が演じたいと思ったときの羽ばたきの実現である。そう思わせる『ソルネス』であった。

イプセンは、仲代さんにとって縁のある戯曲作家で、イプセンの『幽霊』オスワル役で俳優座の新人は注目される。『幽霊』は『人形の家』のノラが家に残ったらどうなっていたかということでイプセンが書いたらしい。仲代さんは、その婦人の息子役で、破滅的人生を送る。その青年の屈折感が話題となったようである。

2010年には『ジョン・ガブリエルと呼ばれた男』でガブリエルを演じ、米倉斉加年さん、大空真弓さん、十朱幸代さんと共演されている。ガブリエルは、周囲を不幸に落としつつ自分も勝負に負けても夢を追い続ける男である。

イプセンは通じ合えない人間関係を描く作家なのであろうか。物事を上手く収めようとはしない。どちらかが欲がでればそれはそうなることである。それが、それぞれの夢となればなおさらである。そしてそこで犠牲となった人物との確執が生ずるのである。それに対して、ヒルデは、自分の建てたい塔を建て、そこに花輪をかけてというのである。10年前格好良かったように。花輪をかけれるかどうかはその人の力である。ヒルデは、そこに行くまでの荒涼とした気持ちに、燃え滾る炎を灯すのである。

『ソルネス』(大西多摩恵、内田勝康、赤羽秀之、中山研、秋野悠美)

友人と神楽坂から早稲田まで散歩を付き合わせ、『人形の家』のノラを演じた新劇女優松井須磨子さんのお墓を、多聞院で見つけることができた。本堂前には須磨子さんを悼んで建てられた「芸術比翼塚」もあった。

『ジョン・ガブリエルと呼ばれた男』は、森鴎外さん訳で『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』として、小山内薫さんと二代目市川左團次さん等が押し進めた革新的演劇運動の自由劇場の第1回目の公演で、ガブリエルは左團次さんが演じられている。

録画のまま、奥に潜んでいる新劇の映像を少しづつ観なくては。と言いつつ、仲代さんの映画のDVDを4本観てしまった。

 

 

 

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