歌舞伎座八月『東海道中膝栗毛』『艶紅曙接拙』

『東海道中膝栗毛』 原作・十返舎一九より/構成・杉原邦夫/脚本・戸部和久/演出・市川猿之助

< 奇想天外!お伊勢参りなのにラスベガス⁈ > とありますがその通りです。そもそも十返舎一九さんの『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛と喜多八、弥次さん喜多さんの旅が、当時では当たり前のことなのでしょうが、今読むとかなり、えげつないのです。

人をだまし、それが自分に反ってくるという笑い。宿では飯盛り女を楽しみにし、さもなくば夜這いしての失敗が主で、このまま上演しても現代の人には忌み嫌われるかもしれません。ちゃぶ台にしろ江戸時代に当り前のことが今は説明しないと通じないということがあります。

『姥ざかり花の旅笠』(田辺聖子著)によりますと、幕末に訪れた外国人は日本全土に梅毒が広がっており、そのことを日本人があまりにも気にしていない楽天ぶりに驚いているとされています。売春防止法が実施されたのは敗戦後の昭和33年ですから、なんとも性の解放に野放図なお国柄といってすますわけにはいかない状況でした。

かの勝海舟さんも妻妾同居を実践したひとで、奥方の民さんは亡くなるとき「勝のそばには埋めてくださるな、息子の小鹿(ころく)のそばがよい」と遺言し実行され、後に海舟さんの墓の隣にうつされました。食えねえ男ともいわれた海舟さん、隣に民さんを迎えて、面目なく「おかげまいりにいきたいなあ・・・」と言ったとか言わなかったとか地下の言葉はわかりません。

弥次さん喜多さんの旅のエピソードでよく出てくるのが、五右エ門風呂に下駄で入って底を抜いてしまったこと、目の不自由な二人の座頭をだましてその背中に乘り川を渡ろうとして川に落とされてしまうこと、取り込まれず物干しに下がっていた襦袢(じゅばん)を幽霊とまちがえるはなしなどでしょう。

座頭の話しと幽霊の話しは歌舞伎座でも披露されます。そこは脚本の盛り込みかたで、一九さんは喜多さんだけを座頭におぶらさせますが、歌舞伎座では、弥次さんと喜多さんふたりがそれぞれの背中に乗っかります。もちろん川に落とされます。原作での幽霊での締めは 「幽霊とおもひのほかに洗濯の襦袢の糊がこはくおぼえた」 の歌となりますが、歌舞伎座のこはくは映画『怪談』以上の幽霊の出現でありんす。

弥次さん喜多さんは最初から芝居のなかの芝居を目茶目茶にして、はてはラスベガスでは、東京の染五郎さんと猿之助さんに似ていると間違えられて、『獅子王』を演じることになってしまいます。このラスベガスの舞台装置、大道具さんたちが乗りにに乗った感じです。役者さんたちも乗っていますが。

旅の路銀はどうしたのかといえば、しっこくの闇のおかげであります。弥次さん喜多さんのハチャメチャな旅の登場人物につきましては、廻り舞台を使って蝋人形で、いえいえ生身で紹介されますのでそれもお楽しみあれ。

きちんと由緒正しきお伊勢参りをするお行儀のよい子供の旅人も出てきますので伝統に関してはこのお二人に任せご安心あれ。

こんな暑い時に東海道中なんてとんでもないというかたには、『ぬけまいる』(朝井まかて著)などもおすすめです。十代のころは<馬喰町(ばくろちょう)の猪鹿蝶>といわれた女三人組が三十路をまえにお伊勢参りにでることとなります。お金の作り方これも読みどころで、八代目團十郎さんの名前を拝借しての情報操作を使っての仕返しに溜飲をさげさせられ、ほんのり恋の香りも暑さしのぎとなります。

歌舞伎座ではラスベガスまでいくため、途中の旅が早回しとなりますので、そのぶんの補てんとしても楽しめます。

『五分でわから日本の名作』によりますと最初は『浮世道中膝栗毛』(1802年)で箱根までだったそうで、評判がよいので書き足し書き足しして8年で完成。その後、金毘羅編、上州草津編なども発表され、1872年には弥次さん喜多さんの孫が横浜からロンドンを旅する『西洋道中膝栗毛』が仮名垣櫓文(かながきろぶん)さんがだしてまして明治5年です。平成の弥次さん喜多さんがラスベガスに行ったとて、驚くことはありません。

<東海道>となりますと長くなりますのでこの辺でおしまいにします。カブキのパロディーの台詞などありますので要注意。それから役と役者さん当てにも要注意。

出演者・染五郎、獅童、右近(市川)、笑也、壱太郎、新悟、廣太郎、金太郎、團子、弘太郎、寿猿、錦吾、春猿、笑三郎、猿弥、亀蔵、門之助、高麗蔵、竹三郎、猿之助

『艶紅曙接拙(いろもみじつぎきのふつつか)』

読みが難しいです。通称『紅勘(べにかん)』。紅勘というのは、幕末から明治にかけて実在した小間物屋の紅屋勘兵衛のことで、幼少より音曲にすぐれ家業を放り出して、人のあつまるところで、芸を披露するようになり今回も、富士山の山開きで賑わう浅草に現れるのです。初演は四代目中村芝翫さんなので、八代目芝翫を襲名される橋之助さんが紅勘ということもあってか『紅翫』となっております。

江戸には様々のものを売って歩く商売のひとがいて、朝顔売り(勘九郎)、蝶々売り(巳之助)、団扇売り(七之助)、虫売り(扇雀)などが出てきます。それに町娘(児太郎)、大工(国生)、角兵衛獅子(宗生、宜生)、庄屋(彌十郎)も加わり、それぞれの商売にあった踊りで涼風を送り、あとはお楽しみの紅翫の芸を楽しみ楽しませる趣向です。

橋之助さんの身体に柔らかさが加わりその変化に面白さがでてきて、江戸の夏の風物詩の写し絵となって息を抜かせてくれました。

そうそう朝顔は『ぬけまいる』で重要な役目をする花として出てきます。朝顔の水やりなどは涼しさを連想させてくれいいですね。

 

「芸人たちの芸能史」(永六輔著)

黒柳徹子さんのエッセイをもとにした『トットてれび』(NHK)という番組を楽しみにして見ていた。途中から見はじめたのではあるが、『夢であいましょう』の生の収録の様子などはみることができた。

リアルタイムで『夢であいましょう』を見ていたころはタイトルの出だしから、今日はどんな工夫なのであろうかと毎回楽しみであった。今日は渥美清さんの名前があるから中島弘子さん絶対笑わせられるななどと終わりに期待し、坂本スミ子さんが出てくると大人の女性を感じ、黒柳さんの変身に笑い、ジャニーズの踊りを楽しみにし、気に入った今月の歌が終わるのが残念であったり、時には今日は退屈だったと気乗りしないときもあったりの30分であった。

その番組の裏の様子がテンポよく伝えられ、黒柳さんと向田邦子さん、渥美清さん、森繁久弥さん等とのあいだがらも、ほどよい距離感で伝えてくれた。

そのテレビの創成期に欠かせないかたである、永六輔さんが亡くなられた。病気でありながら仕事を続けられラジオをやめられたときは、身体的にかなり負担な状態になられたのであろうかと残念であった。

放送作家であり、作詞家であり、様々な芸能を紹介し、旅で出会った人々の生活の様子を伝えたり、本もたくさん出されていたりと、自分の想いを様々なエッセンスを加味して伝えられたかたである。

本の一冊に『芸人たちの芸能史 河原乞食から人間国宝まで』がある。大宅壮一さん監修の<ドキュメント=近代の顔2>となっている。47年ほど前に書かれたものである。

この本での芸能史は、永さんならではの構成である。芸能史の研究家ではないので独断と偏見にみちているが、芸能を差別することはしないし、区別もしたくないとしている。

「第19回NHK紅白歌合戦」の進行状態を軸に、あらゆる芸の話がでてくる。相撲、野球、プロレスのスポーツからバレエ、落語、漫才、奇術、ボードビリアン、浪曲、活弁、新派、新劇、新国劇、宝塚、前進座、歌舞伎、色物、民謡、歌謡曲ら、出演歌手の流れにそって色々な芸や芸人さんの話に飛んでいく。歌詞の関係からだったり、歌い手の歌い方の根底にある他の芸との関係からの流れなどたしかに独断ではあるが、それだけに面白い。

この紅白の行われたのが東京宝塚劇場である。そこから掛け小屋、日本最初の様式舞台新富座の話になり唐十郎さんの状況劇場のことへと流れていく。

ダンサーが出て踊れば、新舞踏家の石井漠さんが出てき、桂小南さんの電気踊りの話となり、桂文楽さんが前座時代師匠の着物に電球を仕込む手伝いをしたという話となる。

江利チエミさんが八木節をうたう。そこから東京音頭の話となり、ロサンゼルスでチャプリンが先頭で踊っている写真を見たとあり、チャプリンさんの好奇心におどろく。

興行師との関係、戦争時代の芸人等あふれる知を、紅白歌合戦の現場と合体させ、言いたいことはきちんと主張する。

襲名というのは珍奇な行事であるが、芸人が変身してしまうという事実がある限りあらゆる批判を耐え抜いていくであろうとしていている。こちらも襲名の多さにまたかと思ってしまうが、そのあとの変身、化けるという楽しみがあるから許せるのである。そして、若くして大きな名前を襲名すると、その重みに悪戦苦闘する芸人さんの姿も観させてもらうこととなる。それはそれで芸人さんたちにとっては苦しい息切れするような道である。

永さんはさらに、「僕たちは芸の血筋を楽しむと共にそれに挑戦する芸人達を大切にしていきたいものである。」と血筋をもたない芸人を拒否したり差別してはならないとする。

芸能史を通じて、伝統芸能のほかにも素晴らしい芸能はあるわけで、自分が観なければならないもの、受けつがなければいけないものは自分で訪ねていって観て伝えるというポリシーを表明され、その通り実行され続けた。

ご自分自身をも差別したり区別されたりしなかった。病気になられ、動くこともしゃべることも不自由になられたが、それをさらけだし、現場に執着され自分の目で観ることを貫き通されたのである。そして、苦しいときこそ笑いが必要であるとした。これは難しいことである。映像の映し方によっては、そんなに大変な状況ではないじゃないと感じられてしまい誤解されたりもする。じっくり伝えたいということでテレビではなくラジオを大切にされたともいえる。

この本のあとがきに次ぎの文がある。

「僕が観なければいけないもの、受けつがなければいけないものを訪ねて歩きたい。そうすれば、この次にこうした本を書くにも浅い知識の上の独断と偏見に頼らずにすむ。」

これが<浅い知識>なら、それこそ<浅い知識>にたいする独断と偏見である。

 

合掌。

 

「第十九回紅白歌合戦」(1968年)

紅組司会・水前寺清子/白組司会・坂本九/総合司会・宮田輝

(紅組) 都はるみ、佐良直美、ペギー葉山、小川知子、ピンキーとキラーズ、ザ・ピーナツ、三沢あけみ、伊東ゆかり、西田佐知子、九重祐三子、中尾ミエ、島倉千代子、江利チエミ、青江三奈、中村晃子、園まり、岸洋子、梓みちよ、扇ひろ子、越路吹雪、水前寺清子、黛ジュン、美空ひばり

(白組) 三田明、布施明、千昌夫、ロス・プリモス、ブルー・コメッツ、西郷輝彦、フランク・永井、東京ロマンチカ、水原弘、菅原洋一、ダーク・ダックス、三波春夫、北島三郎、アイ・ジョージ、美川憲一、舟木一夫、春日八郎、デューク・エイセス、村田英雄、バーブ・佐竹、坂本九、森進一、橋幸夫

 

でこぼこ東北の旅(4)『伊勢物語』

鹽竈神社(しおがまじんじゃ)。自筆では書けないような難しい漢字である。志波彦神社(しはひこじんじゃ)もならんでいる。裏のほうから入ったが、帰りは表参道の階段をおりる。段数が多いだけに下からながめる参道はすっとのびて美しい。

 

 

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鹽竈神社で、昔の塩を作っていたころの参考になるものはありませんかとたずね、御釜神社(おかまじんじゃ)を教えてもらう。

 

 

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御釜神社は鹽竈神社の末寺で、塩の作り方を教えた塩土老翁神(しおつちおじのかみ)が用いたといわれる四つの釜が残っているとのこと。この御釜神社では、「藻塩焼神事」が今もおこなわれている。このとき使う釜は鹽竈神社から運ばれる。

<藻刈神事>7月4日 ホンダワラといわれる海藻をかりとる。<水替神事>7月5日 神釜の海水をとりかえる。<藻塩焼神事>7月6日 製塩用釜の上に竹の棚をおき、その上にホンダワラをのせ、そこに海水を注ぎ、煮詰める。できあがった塩は見学者にもくばられるそうである。

社務所に申し出ると、100円で説明付き神釜をみせてもらえる。柵があるが野天である。四つの釜の水は干上がることもなければ、あふれることもなく、さらに地震の前には水がもっと澄んだ色になるそうである。塩釜の名の由来でもあり不可思議な世界にタイムスリップした感がある。

御釜神社に行く途中で、歩道に設置された碑を写真にとる外人さんにあう。日本語でかかれているのに読めるのであろうかと碑をみると、『伊勢物語』の一部である。不思議に思ってたずねると、オランダの方で、『伊勢物語』を研究されているとのことでさすが日本語もしっかりされている。このかたと会わなければ『伊勢物語』に遭遇せず素通りするところであった。

伊勢物語』の八十一段に、源融(みなもとのとおる)の屋敷の宴で身分の低い老人が  「塩竃にいつか来にけん朝なぎに釣りする舟はここによらなむ」 (いつのまに塩竃の浦にきたのであろうか、朝なぎの海に釣りする舟はみなここに寄ってきて趣を添えてほしいものだ。) と詠んだ。この老人は陸奥の国にいったことがあり、この邸の趣が素晴らしい塩釜とよく似ていることをたたえている。

源融さんは、『伊勢物語』の一段で<しのぶもじずり>の彼の詠んだ歌が登場する。ある男が奈良の春日の里で美しい姉妹に会い心みだれて歌を詠む。その男はしのぶずりの狩衣のすそを切ってそこに歌を書いた。 「かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知らず」 (春日野の若紫で染めたこのすり衣の模様の乱れには、限りがないのです。) 筆者はこの歌は源融の 「みちのくの忍ぶもぢずりだれゆえにみだれそめにし我ならなくに」 がもとにあると説明している。昨年の福島の旅とつながってしまった。 長野~松本~穂高~福島~山形(3) 

忘れないためにもうひとつ『伊勢物語』について加える。旧東海道歩の39番目の宿・知立(ちりゅう)からすこしはずれたところに、無量寿寺というかきつばたのお寺がある。朝雨なので歩きをやめ、そのお寺のかきつばたをめでることにしようと思っていたが、駅までの間に雨が止みやはり歩くことを優先した。少し残念でもあった。この時期に再び訪れられるかどうか。

三河八橋は、古くからのかきつばたの名勝地で、『伊勢物語』の九段にもでてきて、ある男(在原業平)が、<かきつばた>の五文字を入れて歌を詠んでいる。「ら衣もつつなれにしましあればるばる来ぬるびをしぞ思ふ」 (長年慣れ親しんできた妻が都にいるので、はるばるやって来たこの旅が身にしみて感じられることだ。)

根津美術館の国宝・尾形光琳<燕子花図(かきつばたず)>の原点である。

ある男は、都を出て東国に旅をするのであるが、どこへ行きつくかというとこの九段で、武蔵の国と下総の国の境の大きな川である隅田川にたどりつくのである。そして詠んだのが次の句である。 「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(都鳥よ、お前がその名にそむかないならば、さあ尋ねよう、都にいる私の想う人は無事でいるだろうか、どうだろうかと、、、)

今回の『伊勢物語』へのつながりは驚くべき展開になった。オランダのかたのお蔭である。(歌の訳・中村真一郎)

松島は、瑞巌寺の本堂が平成21年から修復に入り、今年の4月から再拝観できるようになったということもあってか観光客が多かった。瑞巌寺は、真っ黒の甲冑に兜の三日月のお洒落さに見合う伊逹政宗さんらしい艶やかさである。宝物館の説明映像で、瑞巌寺の耐震のために、壁の中にプラステックのようなものが入れられていたのが印象的であった。比較的小さな会社が開発したようである。

円通院の厨子にはバラやトランプの模様がある。支倉常長さんが持ち帰った西洋文化を図案化したもので、西洋バラの絵としては日本最古のものというのが新情報であった。

 

 

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松島湾の風景は、人のいない雄島で静かに堪能させてもらった。暑くなるのを覚悟していたが幸いすごしやすく助かった。平安時代の人々の陸奥の国へのあこがれを実地体験できる旅ともなり、そうした展開は思いがけないところで出会うものである。

 

 

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映画『日本誕生』と『ハワイ・マレー沖海戦』(2)

『ハワイ・マレー沖海戦』は、1941年の真珠湾攻撃を題材とした国策映画で1942年に制作されている。

この映画は戦後GHQの検閲にひっかかる。

<新聞の写真だけで真珠湾を想像した>(円谷英二の言葉>

新聞に載った一枚の写真の民家からアメリカの軍艦の大きさを割り出して、軍港の大きさを推測したのである。

<どっから撮ったんだって、言われたんだ>(円谷英二の言葉)

戦闘シーンが特撮なのに記録映像とGHQはおもったらしい。実際は東宝撮影所のプールで撮ったのであるがなかなか信じてもらえなかったようである。

今観ても戦争や軍の厳しい規制があったとは思えないほど自由に撮ったようにみえる。日本軍がいかに真珠湾攻撃を秘密裡に、果敢に戦ったかをアピールしてはいるが、一人の少年・義一(伊東薫)が海軍少年飛行兵を志願し、真珠湾攻撃に参加することが軸となって戦闘場面につながる。

義一の姉・きく子が原節子さんである。義一は志願するとき、母の許可をもらう。そのあたりも山本嘉次郎監督らしく義一のはやる気持ちをおさえる大人を配置し、予科練に入ってからも、彼らを育てる指揮官にも情をふくませている。

土浦の海軍航空隊の建物などが映っているが、これは本物なのかどうかはわからないが、ここから最終的には特攻隊も飛び立ったのだと思うと、映像を見つつ複雑な気持ちになる。

義一たちは空母艦からの出撃であるから、空母艦から飛び立ち、空母艦に着陸する訓練をする。そのため寝る場所はハンモックである。

空母艦に戻るときいつも海が静かだとは限らず、暴れ馬の尻に着陸すると思えといわれるが、まだこのころは帰ることが許されていたのである。

義一が休暇で帰ってきたり、義一の手紙が届いたりすると原節子さんが画面に登場する。このような時も原節子さんの笑顔には透明感がある。まだ庶民は先になにがあるのかわからない状態である。

行先を教えられないまま、大編成の飛行隊が出撃する。ハワイとマレー沖での戦の始まりであった。

戦闘の事実関係がよくわからないのでるが、雲の間から真珠湾が現れたり、マレー沖に英国の戦艦が見えたりしてそこに攻撃する様子でそういうことかと流れをつかむ。このあたりが円谷英二特撮監督の力量となるのであるが、苦労のほどがわからないほどスムーズな映像である。『日本誕生』は、特撮とわかる部分が多いのであるが、『ハワイ・マレー沖海戦』は、ここが特撮だといわれるからそうなのだと思うほど映像にひずみがない流れの良さがある。

受けた仕事の手は抜かぬという仕事ぶりである。隅っこに押しやられていた特撮がやっと日の目をみるのが国策の戦争映画であった。そのことにより、円谷英二さんは公職を追放された時期もある。

脚本・山本嘉次郎、山崎健太/撮影・三村明/出演・大河内傅次郎、藤田進、河野秋武、花澤徳衛、進藤英太郎、清水将夫、中村彰、英百合子、加藤照子

しかしまた円谷英二さんは立ち上がり『ゴジラ』や『ウルトラマン』を作り出していき、多くの人材をもそだてていくのである。

<この男にシナリオを教えてやってくれ>(円谷英二の言葉)

名前がかかれてないがこれは、金城哲夫さんと関沢新一さんのことではないかと思われる。「大御所のシナリオライターに、のちに円谷プロを背負って立つことになる、若き脚本家志望の青年を託した時の言葉。」とある。

『円谷英二の言葉ーゴジラとウルトラマンを作った男の173の金言』(右田昌万著)は、本だけでも楽しかったが、円谷英二さんの映画と仕事と人物像を知るうえで様々な変化球を投げてくれた。まだ受けそこなっている球もあるが、円谷さんの関係した映像は沢山あるのでその都度拾いあつめることにする。

特撮も今観ると手作りの縫い目のあらい部分もあったりするが、狙いがわっかていないよと言われそうである。

観ていない『怪獣大戦争』のゴジラのおそ松くんの「シェー」を真似て消えることとする。

 

映画『日本誕生』と『ハワイ・マレー沖海戦』(1)

この二つの映画は亡くなられた原節子さんが出られていて、特撮監督が円谷英二さんであるという共通点である。

『日本誕生』は、スパー歌舞伎『ヤマトタケル』を観ていれば流れがわかる。ヤマトタケルを主軸にしている。そこに、アマテラスオオミカミの天の岩戸に隠れられた話と、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治したとき、オロチの尾から取り出したのがクサナギノ剣であるという事が挿入されている。

アマテラスオオミカミが原節子さんで、その出現はすんなりとアマテラスと認めてしまうことができ、大らかな美しい笑顔なのである。

踊るアマノウズメノミコトが乙羽信子さんで岩を空けるのが朝汐太郎さん。この場面、名役者さんたちが万の神として、もったいないほどの脇役に徹している。腕の振るいどころがないのが気の毒なくらい。(有島一郎、榎本健一、加東大介、小林桂樹、左卜全、三木のり平、柳家金語楼)

景行天皇(二代目中村鴈治郎)の時代、兄を追放した弟のオウスノミコト(三船敏郎)は、父の天皇に命ぜられクマソ征伐に向かう。見事クマソの兄弟を倒す。クマソの弟のタケル(鶴田浩二)は、オウスにヤマトタケルと名乗って平和にしてくれと遺言をのこす。ヤマトタケルの誕生である。

しかし今度は、父・天皇から東国征伐を命じられてしまう。伊勢神宮の宮司を務める叔母(田中絹代)は、天皇からだとクサナギノ剣をタケルに渡す。クサナギノ剣は、スサノウノミコトがヤマタノオロチ退治の際、その尾から取り出した剣である。

ヤマタノオロチ退治の場面も挿入され、三船敏郎さんは二役でスサノウノミコトもつとめる。ただこのとき、オロチとの闘いは合成であるから、三船さんはこれまた気の毒なくらいオロチに向かって両腕を上げたりするだけであったりする。尾に乘って斬りつけクサナギノ剣を出す時にやっとリアルな演技ができる。しかし、虚しい動きを力一杯表現する三船さんを観ていると、その一生懸命さにいい人だなあと感心してしまった。現場の大変さを受けて立っているようであった。この場面は特撮の見せ場でもある。

クサナギノ剣も叔母がタケルへの同情の噓であったことがわかりタケルは大和に引き返す。その途中で、タケルを邪魔者とする大伴一族の兵に敗れ、ヤマトタケルは死と同時に白い鳥となって飛び回る。天地の自然を動かし、火山の爆発、洪水などを起こし大伴一族を滅ぼしてしまうのである。

ここが特撮の力の入れどころである。地割れのシーンがあり人がそこに落ちて行くがその撮影について『円谷英二の言葉』(右田昌万・みぎたまさかず著)で触れている。

<人形では面白くないので、本当の人間に落ちてもらいます>(円谷英二の言葉)

大きな地面を三つ作り、それを合わせておいて、群衆が走ってきたらそこでトラック5台くらいでそれぞれの地面を別方向に引っ張って地割れをつくり、そこに落ちていくという特撮だったとある。

この場面は、明らかに合成しているというものではなかったので、リアルで不思議であったが納得である。

とにかく特撮のあらゆる技術が網羅されていて、東宝の俳優さんが総出演といった豪華映画である。神話でもあり、特撮も多いので物語の楽しみが覚めさせられる箇所も多いが、ああやろうかこうやろうか、どうしたら演技者と特撮が一体となれるかなど考えかつ工夫していた姿がにじみ出る映画でもある。

監督・稲垣浩/脚本・八住利雄、田中友幸/撮影・山田一夫/音楽・伊福部昭/美術・伊藤熹朔、植田寛

出演・志村喬、平田昭彦、宝田明、久保明、東野英治郎、田崎潤、藤木悠、天本英世、杉村春子、司葉子、香川京子、水野久美、上原美佐

 

隅田川から鎌倉そして築地川(2)

鎌倉国宝館には、鎌倉時代を代表する仏像が、数は少ないが至近距離で対峙させてもらえる。十二神将立像などは、初めまして!じっーと見つめますが恋心が生じるかどうかは疑問で、作者の運慶さんに傾くかもしれませんとお声かけできる距離である。

薬師三尊の周りを守る十二神将の間には、木像の五輪塔があって実朝の墓らしく秦野の畑の中にあったそうだ。

鎌倉国宝館の前には実朝歌碑があった。「山はさけうみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも」 実朝の死で頼朝の血は途絶えてしまう。

 

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鶴岡八幡宮の参道の両側に源平池がある。頼朝夫人政子が平家滅亡を願い作らせたといわれる。東の池が源氏池で三島を配し、西の池平氏池には四島を配した。三は<産>、四は<死>である。

<肉筆浮世絵>のほうは、「当流遊色絵巻」(奥村政信)で、禿がのぞきからくりをのぞいている姿がありおかしかった。それは、小津安二郎監督の映画『長屋紳士録』を思い出したからである。

絵師・懐月堂安度の解説に江島生島事件に連座とあり、どういう関係であったのかと気になる。作品は「美人立姿図」である。

やはり圧巻なのは葛飾北斎さんである。「桜に鷲図」の鷲の威風堂々たる姿には圧倒された。その足の爪がしっかり桜の枝を掴んでいる。どこかの国で試験的に、飛んでいる違法のドローンを鷲がそれこそわしづかみにし、部屋の角にたたきつける方法をやっていた。鷲の爪はドローンのプロペラなど全然平気だそうだが、北斎さんの絵の鷲が誇張でないのがわかった。それだけ威力ある爪なのである。

「雪中張飛図」、三国志の張飛が雪の中で右手には槍を、左手には編み笠を高くかかげ顔は空を見上げ、足はひいた左足に45度の角度で右足。三度笠のきまった形である。ところが、お腹は前にせりだし、衣服は異国風のあざやかな模様である。形の決まった大きな役者張飛である。

黒い三味線箱に酔って物思いのていでよりかかる「酔余美人」。大黒さんが大きな大根になにか書きつけている「大黒に大根図」。

あの汚なくて暗い長屋で描いたとは思えない。やはり天才ゆえか。しかし、お得意さんに頼まれて、その立派な部屋で画いてこともあったであろうなどと想像する。

歌川広重の「高輪の雪」「両国の月」「御殿山の花図」の3幅もよかった。

満足して、『川喜多映画記念館』へ。ここでは「映画が恋した世界の文学」がテーマで、関連の映画ポスターがびっしり展示されていた。予告編映像もあり、「汚れなき悪戯」のマルセリーナ坊やが相変わらず天使の笑顔。映画関連の本を虫食い状態であれこれ読む。

時計の針のまわりが早いので重い腰をあげ、『鏑木清方記念美術館』。「清方芸術の起源」

 

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明治時代の庶民の暮らしを描いたっ作品《朝夕安居》が中心である。巻き絵になっていて、芸人さんの玄関さきから裏の長屋の人々の生活へと移って行くが、玄関の軒灯の紋で芸人の家とわかるらしい。

井戸の水を木おけで運ぶ女性の姿は、その重さがわかる描き方である。戸板を二枚横に十字に立てて行水をつかう女性。永井荷風さんの『すみだ川』にも出てくる。「それらの家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見えることもあった。」「大概はぞっとしない女房ばかりなので、落胆したようにそのまま歩調を早める。」お気の毒に、清方さんの絵の女性は美しい。

 

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ランプのそうじをする女性。百日紅の木の下で煙管をくわえる風鈴屋。麦湯の屋台を取り囲む縁台に夕涼みの人々。なんとも古きよき時代の風情である。

清方さんは、16歳のころ挿絵画家として出発する。そして、会場芸術、床の間芸術に対し、卓上芸術を唱える。卓上にて愉しむ芸術である。《朝夕安居》もその一つである。

清方さんは幼少から挿絵画家時代築地川流域ですごしている。そのころの人々の様子を描いたのが「築地川」の画集である。その一部も展示され、展示ケースの下の引き出しを開けるとさらに作品を鑑賞できる。

外国人居留地であった明石町であそぶ外国人のこどもたち。築地川にかかる橋で夕涼みする浴衣の女性。佃島からいわしを担いで船に乗るいわしうり。船で生活する少女が河岸から船に渡した板の上を渡る。築地橋そばの新富座。

鎌倉で築地川に会うとは思っていなかった。ほとんど埋められてしまった川である。

記念館のかたに作品「築地川」の資料がないかたずねたところ、収蔵品図録があった。「卓上芸術編(一)明治・大正期」「卓上芸術品(二)昭和期」

二冊で超お買い得であった。文がまた興味深い。葛飾北斎さんの「隅田川両岸一覧」にふれ、自分もこの両岸を写して見たいとも書かれている。描かれたのかどうかは調べていない。

清方さんの絵が、幸田文さんの『ふるさと隅田川』や永井荷風さんの『すみだ川』に書かれている市井の人々の姿とも重なり楽しかった。

書いていたらきりがないので終わりにするが、面白い事に、小津安二郎監督の映画『長屋紳士録』は築地川そばの長屋が舞台である。そこにもつながるとは、鎌倉がとりもつ縁であろうか。

 

隅田川から鎌倉そして築地川(1)

幸田文さんは、「二百十日」に生まれたことについて、幸田露伴さんの『五重塔』から次のように言及する。

「『五重塔』は露伴の代表作だという。それもことにあらしの部分がいいそうだ。なんだかそこにはむずかしいあらしが吹いているが、どういうものか以前から教科書へ載るのはそこにきまっている。」

「いったい父というあの人はどんな眼で、どんな気もちであらしへ対いあったのだろうとおもうのである。そして、私のような子をあらしの日に産んでしまって、いったい私が一生二百十日をどう思えばいいというんだろう。」

五重塔』というのは、谷中感応寺で五重塔を建てることになり、川越の人望もあり腕のある棟梁・源太がえらばれるが、腕はあるが世渡りのへたな<のっそり>の十兵衛が名乗りをあげる。感応寺住職の采配と棟梁・源太の思いやりから<のっそり>が請け負うこととなる。完成式を前に烈しいあらしとなる。しかし、五重塔は微動だにしなかったというあらすじである。

この『五重塔』は、芝居では前進座が得意とする演目で、亡くなられた中村梅之助さんの<のっそり>で観ている。芸の深い役者さんが一人また去られてしまった。舞台上でもこのあらしの迫力と五重塔と人の拮抗が上手く現されていた。

文さんは、作品は作品として置いておき、そのあらしで被害にあった市中の人々に目がいっているのである。そこには、やはり<川>がうねり狂っているのである。そして<水>。二百十日に生まれた文さんは、露伴さんに対する問いかけを自分にむける。そして、めぐりめぐっておとずれた<崩れ>との出会いに立ち向かっていく。それが二百十日うまれの文さんの筋の通しかたとなるのである。

隅田川に対して、露伴さんは文さんの思いも寄らないことを口にする。

「川は生きものだ、ということは、私は実感で知ったとおもう。だが、川が生きものであるからには、病むことも腐ることもある筈だ、とはどうしても考えられなかった。父は、やがて墨田川はくさる、といっていたのだがー。」

隅田川は、荒川放水路もでき暴れが少なくなった。ところが、露伴さんのいっていた通りになる。周囲に工場ができ、人が増え隅田川はくさってしまう。

しかし、1964年(昭和39年)に東京オリンピックが決まるや、よそ様に見苦しいところはおみせできないとばかりに、下水道等の完備がすすみ、顔をしかめなくても散策できる川となったのである。

今年の桜は隅田川にしようか。

さて、ここからは鎌倉にむかう。

鎌倉国宝館。大正の関東大震災で社寺が被害をうけたのを契機に、文化財を守り見学してもらえるようにと設立されたとある。

目的は『肉筆浮世絵の美 ~氏家浮世絵コレクション~』。

 

『ふるさと隅田川』幸田文著

「たばこと塩の博物館」で隅田川の文学作品として永井荷風さんの『すみだ川』と小山内薫さんの『大川端』を紹介していたが、私が押したいのは、幸田文さんの『ふるさと隅田川』である。

幸田さんは、明治37年に現在の墨田区東向島で生まれ、関東大震災のあった大正12年の19歳まで、かつては南葛飾郡寺島村という隅田川近くの農村で生活している。病身の義母に代わって、主婦代行をしている。代行どころか、父露伴の厳しい生活教訓をしっかり受け、それを人並み以上に体現したかたである。

家事全般を受け持ちつつ、川そばの人々の生活、川に対する係り方などの観察眼は並大抵ではない。今回『ふるさと隅田川』を読み直して、両国界隈から本所を散策したこともあって、一層、幸田文さんの眼と生活感と文章に惚れ直したのである。

春の雪の日の露伴さんへの酒のしたくの一節である。

「雪の日にあたたかい鍋のものをしたくするのは人情だし、また実際たべてもうまいに相違ないが、わたしはそれをわざとしたくなかった。雪が降るからこそ湯気鍋よりむしろ潔く青い野菜などが膳へつけたかった。」 「鍋ものは雪より多分こがらしのほうがいいかとおもうのだ。」 「ちょうどこんな春の雪の日に私は蕗の薹をえらんだ。」

鍋ではなくふっとした苦味ふきのとうをえらんでいる。それに対し露伴さんは、「ああ酒うすきこと水のごときものだ。」という。その言葉に対して文さんは、「蕗の薹に酒の味を奪われたのを歎じて云ったのではなく、その逆である。その日その晩、ただなんということもなく蕗の薹を噛んで、水のごとき酒をふくんだことに興じてゐる父なのである。」と書く。

隅田川のそばの農村での露伴さんと文さんのいってみれば生活感性の贅沢なさや当てである。しかし、文さんは露伴さんから見れば自分は出来損ないの娘であると思っている。

作家の堀江敏幸さんは、作家の森まゆみさんとの対談で「幸田文は、父親が怖かったとか、「嫌いだ」とか、「疎まれていた」とか散々書いていますけれど、彼女の一番のファンはお父さんだったんじゃないか。」と言われているが、私もそう思いはじめている。

そうした日々の暮らしのなかで水に対しては、じーっと視つづける。

幸田文さんは、二百十日、9月1日の生まれである。文さんは、自然界の荒れる日に生まれたことにこだわられる。水に係る職業の人の話しに耳をそばだて、あらしの動きを肌で感じ取っていく。

そして濁流とともに流される家具などを目にすると次のような思いを書く。「平和とだんらんを流して行きやがった!というくやしさが来る。害された、という思いが濃い。家具よ!」「川は美しくばかりない。恐ろしい川を見たおかげで、私は家具を違った角度から見る。」

主婦代わりの文さんは、周囲の大人たちとの接触も多かったであろう。そして、自分の住んでいるところよりももっと湿地の人々の生き方から「その低い湿った土地に我慢して住んでいる人たちが持つ強さと脆さ」をきっちり受け止めるのである。

その湿地での夫婦のありようも、いい条件の場所で住む夫婦とは違う強さとバランスを浮き彫りにする。

隅田川のそばに住むことに寄って見聞きした19歳までの「ふるさと隅田川」の人々の暮らしが、潔い文章でおもねることなく書き表されている。

開いてどこから読んでも、その場が以前読んだときよりもはっきりと頭の中に映像が結びつき広がっていく。人々も動きまわる。

しばらくは、『ふるさと隅田川』の文章にとりつかれていた。

映画の『おとうと』や『流れる』を観返し、原作ももう一回読み直し新たな味わいを堪能したいものである。

映画『流れる』は、川本三郎さん著『銀幕の東京』の「流れる」を参考にすると当時の柳橋からの風景が映像の中でピンアップできる。それがなくても、今はいない女優さんたちの演技力を堪能できる。

 

『谷崎潤一郎  文豪の聴いた音曲』

国立小劇場での邦楽公演である。

谷崎潤一郎没後50年。<文豪の聴いた音曲>

国立劇場でこのチラシを見たときは、こうい企画ができるのだと嬉しくなった。さて企画が良くても、構成と実際の公演は見て聴いてみなくては判らない。実際の公演は、谷崎さんが味わったよりも贅沢な音曲だったかもしれないと思わせるものであった。

谷崎さんの小説の中で、文字で表された音が実際の音になる。ただ音だけではなく、その文章を損なわずその文章を高める音でなければ意味がない。この条件を完全にクリアしていた。

一部が東京での音曲、清元節『北州(ほくしゅう)』、長唄『秋の色種(いろくさ)』。二部が地唄『茶音頭』、地唄舞『雪』、地唄『残月』。

谷崎さんは日本橋区蠣殻町生まれである。人形町と言ったほうがわかりやすい。明治座から甘酒横丁を通り、人形町通りを渡って「玉ひで」の前を通り「小春軒」の隣のビルの空間に<谷崎潤一郎生家跡>の碑が壁にある。幼いころから明治座で歌舞伎を観ていたわけである。

かつての日本橋や大阪の写真、歌舞伎『吉野山』や文楽『心中天網島』の映像などを使い、進行は梅若紀彰さんの朗読である。梅若紀彰さんの声と間が、自分で谷崎作品を黙読するよりも数段も高尚になって響く。

そこから音曲の実演である。清元の『北州』は詞は追っているが、その声に聞き惚れてしまう。高音がさらに高い音になる。語る太夫さんが扇子を持つので、この太夫さんとこの太夫さんが共に語ったらどんなハーモニーになるわけと耳が立つ。そして三味線。どうしてこういう節が出来上がったのであろう。言葉遊びのようなところもありただ不可思議な高音の世界。(小説『異端者の悲しみ』より)

長唄『秋の色種』は、三味線の虫の合方が谷崎さんは気に入っていた。詞も唄い方も秋の自然界に分け入れそうな身近さがある。その中で現実の虫の音よりも人が求めてしまう美しい技巧の虫の音が聞こえてくるのである。たっぷりと。(随筆『雪』より)

関西に行って小説『春琴抄』より地唄『茶音頭』である。ここが趣向を凝らし、演奏者のかたが、春琴と佐助になって、春琴が厳しく佐助に『茶音頭』を教える場面を再現された。梅若紀彰さんがそっと覗いたりして、みなさんご存知の場面ですよと誘いをかけられているようである。本を開くと立体画が出てくるような楽しさが加わった。そしてそれが終わり正式の『茶音頭』となる。お琴の音色が入ると三味線が打楽器のような感じに聞こえる。茶の湯に関連する詞が出てくる。

お琴と三味線の時はどうしてもお琴の音の多さに惹かれてしまう。三味線はどういう働きをしているのかよくわからないのである。『春琴抄』では口三味線で春琴は佐助に教えるわけで、お琴と合わせるにはそれではダメだということなのであろうか。とにかく難しい曲なのであろう。聞く方は棚からぼたもちである。

小説『細雪』で妙子が舞う地唄舞の『雪』である。これは、山村光さんが舞われた。二本の蝋燭の炎に照らされ和傘から透ける姿は上村松園さんの絵の世界であった。『雪』は好きな舞いなのでひたすらその無駄のない地唄舞の動きに目を凝らしている内に終わってしまった。

最後は、小説『瘋癲老人日記』の中で、自分の告別式には誰か一人富山清琴のような人に『残月』を弾いて貰うと書かれている地唄『残月』である。指名された息子さんの富山清琴さんである。

「磯辺の松に葉隠れて 沖の方へと入る月の 光や夢の世を早う 覚めて真如の明らけき 月の都に住むやらん  今は伝だに朧夜の 月日ばかりはめぐり来て」

谷崎文学の中に、音曲だけでもこれだけの厚さのものが凝縮されているということである。あなたに解ったのと言われれば、すいません、私は小説家ではなく読者ですので、自分の能力に応じて愉しませてもらうだけですと答えるしかない。

企画、構成、上演までの力関係が増殖して深いところまで誘われた感がある。構成演出は、倉迫康史さん。

今更ながら、耽美な世界に潜り込める小説家という分野があったからこそ、谷崎さんは、文豪としてどうどうと生きられたことを讃えたい。

『北州』(浄瑠璃・清元梅寿太夫、清美太夫、成美太夫/三味線・清元栄吉、美三郎、美十郎) 『秋の色種』(唄・杵屋勝四郎、巳之助、今藤政貫/三味線・稀音家祐介、杵屋弥宏次、彌四郎) 『茶音頭』(唄・三絃・菊重精峰/筝・菊萌文子) 『雪』(歌・三絃・菊原光治/胡弓・菊萌文子)

『サクリファイス』(近藤史恵著)からの連鎖

旧東海道歩きのとき、本とか映画とかの話しが出るが、ふんふんと聞いていると次の時には手渡される。読みたい本が積んであるのだがと思うが、受け取る形となり、借りた本は横眼でみているが、そろそろと思い読み始める。

『サクリファイス』。読みやすく、自転車ロードレースの世界の話しで全く知らない分野なのであるが引力が強い。始めに誰かの死があり、その死の解明でもあるが、自転車ロードレースというスポーツの想像を超える展開に文字が飛んでいく。

自転車ロードレースはチームで参加し、そのチームにエースのために働くアシストという役目の選手がいる。エースの勝利のために走るのである。そのアシストが主人公で、アシストとしての眼が、自分に、エースに、チームメートに、試合の展開にと、心理の動きも追って行き、さらに過去との交差もある。アシストの自転車に乗っているようなスピード感で、周りの風景も動いているような気分にさせられる。思いがけない展開に終盤はウルウルさせられる。スポーツ小説であり、ミステリー小説であり、心理小説でもある。

貸してくれた友人に「面白かった」とメールしたところ、続きの『エデン』と外伝の『サヴァイブ』がきた。そして、断ったはずの有川浩さんの『図書館戦争』4冊と『レインツリーの国』が。

『レインツリーの国』は、『図書館戦争シリーズ②』の『図書館内乱』に出てくる小説作品名であるらしい。難聴者の少女に聴覚障害者を主人公にした本を勧めたということが人権侵害に当るとして、図書隊員がメディア良化委員会の査問を受ける。人権侵害を受けたとされる少女が、反対に、障害があると恋愛小説の主人公になってはいけないのかと反論するらしい。そのことは友人から聞いていた。『レインツリーの国』は後で、別に一つの作品として書かれたもので、友人は『図書館内乱』から読んでから、『レインツリーの国』を読んだほうが良いとのことであるが、内乱で『レインツリーの国』を先に読もうと思う。

近藤史恵さんの本は読みやすく、『エデン』『サヴァイヴ』と単行本なので早く読みすすめられた。レースの駆け引き。ただ走っていたいのにそれだけでは済まされぬ現実。思わぬ妨害。思いがけない人との繋がり。しかしやはり『サクリファイス』が一番面白い。

近藤史恵さんは歌舞伎も好きで、歌舞伎に関連した作品も書かれている。歌舞伎界の内実を題材とした本は読みたいと思わなかったのであるが、読みやすいので『二人道成寺』を見つけて読む。歌舞伎の『摂州合邦辻』に絡め、歌舞伎役者さんの奥さんが火事で意識不明となる事件から謎解きが始まり、役者同士の確執の影や愛の炎が垣間見えてくる。ところが、歌舞伎の演目の<愛>は唐突で始め表面には出なくても実は濃厚な構成であるため、小説の世界の<愛>が意外と水彩画のように映る。改めて歌舞伎芝居の内容の濃密さを感じてしまった。

借りた本の時間稼ぎに、適当に本を選んで押し付ける。その中に旧東海道関連として、阪妻さんの大井川の金谷を舞台とした川越え人足と拾った赤ん坊の人情話し『狐の呉れた赤ん坊』のDVDと、勝小吉の『夢酔独言』の出奔の部分だけ付箋を張り、歩いたところの参考にと加える。

それにしても、『図書館戦争』文庫本4冊。きつい。文庫本ロードレースの山岳コース。単行本に化けて欲しい。

知りませんでした。『レインツリーの国』が映画になったのである。

『図書館戦争』がアニメ化されたが『図書館内乱』の中の「恋の障害」のエピソードはDVDの三巻で、TVでは放映されなかったらしい。<アニメ化の大前提として聴覚障害者の毬江のエピソードはTVでは放映できないということがあった>とする有川浩さんの文を、文庫の解説(作家・山本弘)で紹介されている。

フィクションの世界であっても、それは現実と違いすぎるという障害者の方々から意見があるのは自然のことである。そのことが面倒だからと、フィクションの世界から閉ざしてしまうのは反って不自然のように思える。テレビというメディアの大きさがそうさせるのであろうか。そういう現実があるということを知った。単に売り上げをあげるためにことさら歪曲して宣伝的に書いたのか、何かおかしくないかと問題点として書いたかは、作品を読む読者の読み取る側に託されてもいる。