映画『祇園祭』

京都祇園祭の期間に京都文化博物館のフイルムシアターで上映される『祇園祭』を見ることが出来ました。今年は7月16、17日、24日の三日間で6回の上映があり、24日にしました。この映画を見るという事を第一目的として計画しましたので、実際の祇園祭は調べもせず、24日の山鉾巡行(後祭)を観ようと思えばみれたのでしょうが、計画には入れませんでした。

この暑さ。外に出るのも嫌なので、京都駅から地下鉄で烏丸御池まで直進です。

京都文化博物館のフイルムシアターで出してくれた映画『祇園祭』の解説によりますと、『祇園祭』が制作されるまで紆余曲折がありました。

1950年、立命館大学の林屋辰三郎教授が中心となって紙芝居『祇園祭』を作って巡回公演したのが発端で、当時京大の学生だった大島渚監督、加藤泰監督も参加していました。

伊藤大輔監督が映画化の企画を始め、1961年西口克己さんが紙芝居に基づいて小説『祇園祭』を発表。伊藤監督は、小説を原作として中村錦之助さんを主役で東映に企画を提出しますが製作費の関係から東映は断念。

その後、プロデューサー・竹中労さんが京都府に府政百年記念事業として企画を持ち込み、京都府が全面協力を表明。しかし、意見の違いから製作開始後スタッフの竹中労さん、八尋不二さん、加藤泰監督、伊藤大輔監督の名前が消え、構想・企画段階とは違うロマンスよりの内容となりました。上映が1968年(昭和43年)です。

監督・山内鉄也/原作・西口克己/脚本・鈴木尚之、清水邦夫/撮影・川崎新太郎/音楽・佐藤勝/美術・井川徳道

応仁の乱後の50年は、戦乱に続く戦乱で京都は疲弊し農民は高い納税に土一揆を起こし京の町を襲います。土一揆に加勢するのが農民の悲惨さを見ている米などを運ぶ馬借たちで、京の町衆は町が焼かれたりして土一揆を憎み、侍が自分たちを守ってくれていると思っています。

ところが、侍だけでは土一揆をおさえられず、町衆にも武器を持って、山科の土一揆の拠点を叩きつぶすようお達しがあります。武器を持つことに躊躇する町衆ですが、お上には逆らえず戦うこととなりますが、侍たちは自分の身を守るため町衆を見捨てて逃げてしまいます。

疑問に思うのが役人に母を殺された染物職人の新吉(中村錦之助)です。関所では、新たに人と荷物に税金がかけられます。関所で新吉は見ます。馬借が運ぶお上用のお米なら通行税がかからないのです。しかし運ぶ人に通行税かかるのを知った馬借の熊左(三船敏郎)は、運ぶのはやめたといって米俵を関所前に投げ出して行ってしまいます。新吉と熊左とは、山科で敵として闘った相手でした。

新吉は戦さの時弓を頼んだ弓師(渥美清)に弓を渡される時、弱い者同士が殺し合いをしてどうするんだと言われていました。

新吉は通行税に抵抗し、京都を町衆でおさめられないか考え、町衆をまとめるための方法が何かないかと考え、祇園祭祀を復活させることを思いつきます。

新吉は祇園ばやしの笛の名手の老人が亡くなるときその笛を預かっていました。公家の山科言継卿(下元勉)は途絶えてしまった正調祇園ばやしを作り出すのは新吉の役目であるといい、笛の名手のあやめ(岩下志麻)と会わせす。新吉はあやめの笛の音に魅せられ、二人はすでに会っていて愛し合った仲でした。あやめは河原者の庭師・善阿弥(永井智雄)の娘で、河原者である自分の身の上から、あやめは新吉と会うのを避けていました。

河原者としての立場から世の中を見ていたあやめは新吉と会ったとき、農民と町衆がお互いに血を流すのはおかしい、新吉は物事をきちんと見ていないといさめていたのです。しかし、今は素直に笛を教えることを承諾します。

新吉が体を張って交渉し馬借の熊左は木材を運んでくれ、染め物職人は鉾に使う布を染め、織り師は錦を織ります。土一揆で子供を死なせ、自分も左腕が不自由になり土一揆を憎んでいた桶職人の助松(田村高廣)も、大きな木車を作りあげます。

しかし権力者からの横やりがあり祭祀とは認められません。それでも新吉は町衆たちのただの「祇園祭」でいいと主張し、「祇園祭」を強行し、一番先頭の長刀鉾の音頭取りとして助松と二人で扇をふりかざします。新吉は町衆、馬借、弓師、河原者全ての人々の力が集まった祭りなのだと力が入ります。その前に、侍たちが立ちはだかり矢を放ち祭りの進行をさえぎり、その一本の矢が新吉の胸を射抜きます。新吉は戸板に乗せられながらも扇をかざし、長刀鉾は町衆に見守れながら進むのでした。

超豪華娯楽時代劇に仕上がりました。ゲスト出演が高倉健さん、北大路欣也さん、美空ひばりさんなどがおられます。名前に中村津雄さん、香山武彦さんもありましたが気がつきませんでした。

滝花久子(新吉の母)、佐藤オリエ(新吉の妹)、新吉の染物屋主人(志村喬)、善阿弥の弟子(田中邦衛)、助松の妻(斉藤美和)、大工の源七(藤原鎌足)、松山栄太郎(新吉の職人仲間)、下条正巳(山科甚)、小沢栄太郎(門倉了太夫)、伊藤雄之助(赤松政村)etc

168分という長い上映時間で、少しだれさせるところもありますが、萬屋錦之介さんは主役としての貫禄があり引っ張て行く力があります。藍で染まった新吉の両手を見ていると、『紺屋と高尾』の久造がその手を隠して高尾に会ったことを思い出させました。

あやめの岩下志麻さんは美しく河原者としての屈折を感情の激しさで新吉に対峙させます。三船敏郎さんは三船さんの手慣れた役どころで花を添えます。怒りの方向性を助けた子供を亡き息子の代わりとして育てていくうちに新吉の考えに同調する田村高廣さん。周囲の押さえの俳優さんも揃いました。

稚児さんとして長刀鉾に乗っていたのが現又五郎さんに似ていたのですがそうであったのかどうかはわかりません。米吉さんの名前がクレジットにあったのですが、このあたりは疑問符です。

出来れば、長刀鉾の組み立ての場面ももう少し欲しかったですね。縄だけで縛って組み立てるなどの場面も躍動的に映してほしかったです。これだけの映画は、やはり地元の方たちの協力がなければ撮影は無理だったことでしょう。

二回目も見ました。目的は達成されました。

祇園祭はあの暑さの中ですから、祇園祭だけで計画したほうが良いように思います。京都文化博物館の前の三条通りは、夜の還幸祭の三基の御神輿が通るところであると知りました。御神輿の出発時間が別々で、廻る道順も違いますから通る時間がはっきりしません。二回目の映画を見たあと待ちましたが時間がわからず、三条通りを烏丸通りに向かって歩く途中で白い馬に乗った稚児さんの一行に会い、そろそろなのかなと思いそのまま進み、子供たち中心のお囃子に耳を傾けます。丹波八幡太鼓の場所は人が集まって待っていますが、なかなか始まるようで始まらずあきらめました。

第二の目的は高野山の<丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)>へ行く事でしたのでその夜は大阪宿泊だったのです。

朝から夜まで見学するなら、地図と時間と道順を照らし合わせ、休憩場所を考慮しつつ計画が必要と思いました。暑いですから、観る方も凄い体力が必要のようです。ちょっと再度の「祇園祭」観光計画には興味がそそります。

 

<丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)> →   2017年7月28日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

九度山と映画『娘道成寺 蛇炎の恋』『真田十勇士』(1)

高野山へは南海高野線で終点の極楽橋駅でケーブルカーに乗り換えバスなどで上を目指すのが一般的ですが、南海高野線九度山駅で降りて慈尊院を通り、<高野山町石道>歩き上を目指すという方法もあります。その他、上古沢駅からと紀伊細川駅から歩くというコースもあります。

<高野山町石道>は九度山の<慈尊院>から<根本大塔>までが基本です。赤い<根本大塔>の前で奉納の『娘道成寺』を踊るのが映画『娘道成寺 蛇炎の恋』(2004年)の主人公の福助さんです。こうきますかと思いました。

極楽橋駅からは高野山を一度訪ねています。九度山駅で降りて<慈尊院>を訪れたいとずーっと思っていました。高野山は女人禁制ですから、空海の母は後に<慈尊院>となる庵で息子の空海と逢うのです。空海は母に逢うため月に九度訪れたことから九度山の地名となったともいわれています。<慈尊院>から奥の院へいたる23キロが高野山の表参道でもあるのです。

<慈尊院>は、有吉佐和子さんの『紀ノ川』の冒頭部分に出て来て、映画『紀ノ川』(1966年)の冒頭は、夜紀ノ川を婚礼の舟がゆくとの記憶なのですが、機会を見つけ確かめます。

そしてこの九度山というのは真田幸村が蟄居していた場所でもあります。映画『真田十勇士』(2016年)では、大阪城へ入ってからの戦さが中心ですから、映画では少しだけ一応九度山に居たということで出てきました。

昌幸・幸村父子は最初高野山に蟄居し暮らした場所が<蓮華定院>で、このお寺さんは今宿坊として宿泊することができます。父子はそのあと妻子と一緒に住むことが許されますが高野山は女人禁制ですから、九度山での生活となったわけです。<高野山町石道>を降りてきたのでしょう。<高野山町石道>は、1町ごとに五輪塔形の石塔が180町石立っているのです。

九度山の暮らした屋敷跡が真田庵(善名称院)です。境内には真田宝物資料館があります。その他にも真田ゆかりの場所や真田ミュージアムがありますが、小さな町中の途中真田紐を織っている家がありました。真田紐研究会の工房でまだ新しいのだそうで織っているところを見学できます。紐ですが色取りの組み合わせ美しく日常品として、刀の下げ紐、鎧などの武具に使われ、幸村はこれを家来に全国へ売りに行かせ、生計の糧として、さらに諸国の情報を探ったといわれています。大河ドラマ『真田丸』の出演者の写真もありましたが、すいません大河ドラマ真剣に見ていません。

 

 

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信州上田の真田紬から考案したもので、真田宝物資料館にあったのは地味な巾太なもので、織機も展示されています。

宝物資料館によりますと昌幸はここで11年目で亡くなり、幸村は14年くらしました。映画『真田十勇士』で、その後の即効の流れを把握しました。

九度山には、大石順教尼さんが寄宿した旧萱野(かやの)家が<大石順教尼の記念館>となっています。大石順教尼さんは、1905年(明治38年)大阪の名妓でしたが、舞踊の師でもある養父の狂刀による6人斬りの巻き添えにより両腕を切断されてしまいます。カナリヤがくちばし一つで雛を育てているさまから、口に筆をくわえることに開眼し、国学、和歌、日本画を学び、高野山で得度し、法名順教に改名します。その後6人斬りの犠牲者並びに養父の供養のため京都に<佛光院>を建立しています。

 

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記念館にはボランティアの説明してくれるかたもおられ、ビデオや和歌、絵画、着物に描かれたものなどが展示されています。団体さんと町中で出会いましたが、歴史に興味あるかたが多く訪れるようです。

九度山町自体にも見学するところがあり、さて<高野山町石道>はどこまでいけるであろうかと地元のかたに尋ねました。踏破した友人から地図をもらっていたのですが踏破は健脚コースで、<丹生都比売神社(にうかんしょうぶじんじゃ)>まで<慈尊院>から7キロですが行けたとしてももどって来なければなりません。

お聴きしたかたが、丹生都比売神社近くの生まれで、子供の頃、九度山にお嫁に来たお姉さんのところへ、土曜日に泊りにきて日曜日に帰ったというかたで、今からでは無理と思いますとのことです。神社から高野線の「上古沢駅」に下りる道があるのですが、この道は短いですがかなり急で薦められないとのことでした。

展望台ならどうでしょうとお聴きすると、あそこは景色がいいですから是非といわれ、実行してみて正解でした。まず<慈尊院><丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社><勝利寺>に寄りました。

<慈尊院>は、高野山の事務を統括する政所(まんでころ)で紀ノ川の水運によって必要なものが集められ山へ運ばれました。空海の母・玉依御前(たまよりごぜん)が世を去り空海は弥勒堂を建て、<慈尊院>と称され子授け、安産、子育ての女性の信仰をあつめます。

 

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昭和の終わりに慈尊院の一匹の白い犬・ゴンが現れ、参拝者を高野山の大門まで約19キロの町石道(ちょういしみち)を案内して往復することで知られるようになり愛されます。そのゴンが2002年(平成14年)に6月5日、玉依御前の月命日に亡くなったそうです。境内の弘法大師象の隣に石像が建っています。

空海が修業の道場を探していたとき高野山上へ導いてくれたのも狩人の連れていた2頭の犬でした。

<慈尊院>の南高台に建つのが<丹生官省符神社>で、この<慈尊院>と<丹生官省符神社>を結ぶ石段の途中に180番目の町石が立っています。<丹生官省符神社>では、空海を導いた犬を神の使いとして絵馬に描かれています。社宝の獅子頭の写真もありました。

 

 

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その西側にあるのが<勝利寺>で、空海が高野山を創開する以前からあり、境内には高野紙を漉ける体験資料館の<紙遊苑>がありますが催し事があり入ることができませんでした。そこからの眺めがいいと書かれてあり、高野紙も見たかったので残念でした。

そこから<高野山町石道>に入りましたが地図的には1キロ先くらいが展望台だと思うのですが、思っていたより遠く登りで、途中で下って来た女性に「展望台」からの景色は良かったですかと尋ねると「良かったですよ」しばらく沈黙があり、「もうひと頑張りした先です。」「ウム」言われたことは正しかったです。さすが高野山です。「展望台」からの景色は紀ノ川が蛇行していて最高でした。

 

 

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その先の<丹生都比売神社>はバスでの計画を立て直しもう少し先のことにします。

 

2017年7月19日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

東松山市の「團十郎稲荷」「吉見百穴」

観光ではなく災害地を調べるために地図を開くのは気持ちがおもくなりますが、やはりあの土砂に埋まった地域や寸断された線路など確認しておかないわけにはいきません。

佐賀県の白石町、福岡県の朝倉市と東峰村、大分県の日田市の被害が大きいようであり、JR久大本線の<てるおか>と<ひた>の線路が寸断され、JR久大本線は湯布院温泉につながる線だったのですね。まだ局地的雨が続くようで、「降るな降るな」と地図を手でなぜてしまいました。これ以上暴れないでください。救助し救助される人のためにも。避難されておられるかたは暑いので御自愛をされてください。

関東も暑さが続きます。その中、「團十郎稲荷」が埼玉県東松山市にあるというので出かけました。いつものようにどこかで手に入れた小冊子に載っていたのをスクラップしておいたのを思い出し取り出してみました。<旅>のスクラップは7冊目で、古いのは時々開いて見ないと忘却の彼方です。

説明によりますと、「箭弓(やきゅう)稲荷神社の境内にある末社。七代目市川團十郎が社に籠り芸道精進をご祈願したところ、江戸の歌舞伎興行で大盛況になる。文政4(1821)年に祠を建てると、技芸向上に励む人々から信仰されるようになった。」とあります。

お守りが、七代目團十郎さんが境内の樫の葉を懐にして新春歌舞伎に臨んだことにちなみ、葉の上に<十八番守>となっています。

東武東上線東松山駅西口徒歩3分で、赤い鳥居の並んだ正式には「宇迦之御神社」で<芸道向上の神様>とあり、通称「穴宮稲荷・團十郎稲荷」とあります。解説板には、「箭弓(やきゅう)稲荷神社」を信仰しておられ、新春歌舞伎興行において『葛の葉』『狐忠信』等の段が素晴らしく演じられ毎日札止めの大盛況で、石祠を建立したとあります。

 

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拝殿の両脇には狐が飾られ左側は親子の狐が戯れていて親狐は何か口にくわえていまして、先が鍵型に曲がっていて、筆ではないんです。成田屋の三升紋を暗示しているのか、神社の巫女さんにお聞きしましたが判りませんでした。

 

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箭弓稲荷神社」の本社殿の外周囲の彫刻が素晴らしいです。ぐるっと回りましたが、6か所ほどだったと思いますが彫り物の説明板がありました。オペラグラスでも持って行き眺めたいような彫刻群でした。

 

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<やきゅう>だからでしょうか、野球部の方がたもお詣りにこられるようです。

もう一箇所訪れたのが「吉見百穴」で、東松山駅前からバスがありますし、歩いて25分位とのこと。いつもなら歩く距離ですが暑いのでバスにしました。古墳時代の後期~終末期に造られた横穴墓で、大森貝塚を発見したモースさんも訪れています。明治には発掘の中に玉や金属器や土器などがあったため住居と発表されましたが、大正に入ってお墓であると訂正されました。

 

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戦中には地下の軍需工場として掘られますが、生産活動まえに終戦となります。この地下軍需工場跡地のトンネルに一部に入ることが出来ます。凄い涼しさで、外に出たくない気分でした。

 

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そして最低部の横穴にはヒカリゴケをみることができます。緑色の発光塗料をぬったように光っていました。レンズ状の細胞が外から入ってくるわずかな光を反射して黄緑色に淡く輝いて見えるとのことです。生息できる環境が限られている原始的コケ植物です。

 

 

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正岡子規さんも明治24年11月に訪れていて「神の代は かくやありけん 冬籠」の句を詠まれ、句碑がありました。

 

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吉見横穴の近くには、弘法大師が岩窟を選び観世音を彫刻して収めたといわれる岩室観音堂がありますが、御堂は江戸時代に造営され清水寺のような懸造りですがかなり老朽化しており階段で上がれますが色々な個所を支えて補強しています。

 

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その御堂の山の分部が比企丘陵(ひくきゅうりょう)で松山城跡があります。このお城も小田原の北条氏に攻められ、その後、秀吉の北条征伐の際、攻め落とされます。吉見横穴へ行く途中で市野川を渡るのですが、市野川が外堀の役割をする形になっています。

 

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松山城とあるようにこのあたりは比企郡松山町だったのですが、合併で市となり、松山市としたかったのですが、愛媛に松山市があるのでそれに対する東ということで東松山市となり、それでも自分たちは今でも松山と呼ぶと地元のかたが教えてくれました。

東村山市じゃないのと間違われそうですが、武蔵松山城があった東松山市です。

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(3)

満福寺>から海に向かって歩いていきますと小動の信号がありましてそこを渡って見渡しますと、七里ケ浜、稲村ケ崎、由比ケ浜、材木座海岸などがカーブして目にはいります。この信号から海に突き出ているのが小動岬で、その一番高い所に<小動神社>があり、展望台があります。

 

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小動神社>の説明板によりますと、<小動(こゆるぎ)>の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬にあったということに由来し、弘法大師がこの松の命名したともあります。文治年中(1185年)源頼朝に仕えた佐々木盛綱の創建と伝えられて八王子宮を勧進したが明治に入って<小動神社>と改名しています。新田義貞が鎌倉攻めの時には、ここで戦勝祈願したともあります。

7月第一日曜日から第二日曜日にかけておこなわれる天王祭は、江の島の八坂神社と共同で、この時は、御神輿やお囃子と江ノ電が路面で仲良くすれ違うようです。

展望台のところには、「幕末相模湾の忘備を固めた腰越八王子山遠見番所」とあり、おもに異国船渡来の通報拠点としての役割を担っていました。歴史的重要人物の名が飛び交う<腰越>でした。

 

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国道134号線を挟んで<小動神社>の向かいにある<浄泉寺>は、空海開山といわれ、寺子屋が開かれていて、明治に入ってから一時は腰越小学校としての役目も果たしていました。134号線を江の島方面に向かいますと<腰越漁港>がありました。整備されていて、静かな小さな漁港です。

手前の漁業組合の販売所に、「朝とれフライあり」というのが目につきまして入ってみました。そこで食べる人、お持ち帰りの人ありで、アジとサバのフライが一枚から受け付けていて、名前と枚数を書いて「食べていきます」とアジ一枚を注文しました。新鮮な出来立てのアジフライ、中の身は柔らかく外はカリカリで美味しかったです。映画の撮影場所で美味しいものまで食べれて満足でした。

そこから海岸沿いを歩いて鵠沼(くげぬま)海岸まで行きたかったのですが、暑いので江の島の弁天橋を渡り、小田急江ノ島線の片瀬江の島駅から電車に乗りました。小田急江ノ島線は初乗りです。JR、江ノ電に比べると小田急の走る音が一番静かなような気がしました。江ノ電は細かくカーブするので音がでるようで、それがまた魅力なのでしょう。

そんな江ノ電も映画『天国と地獄』公開のころは、江ノ電廃止の検討もされていました。マイカーブームに押されてしまったのです。東京オリンピックの時は江の島が競技会場となり、選手輸送の貸し切りバスでバス部門は追い風でした。しかし残すことを選び、交通渋滞やオイルショックから乗客がもどり今に至っているわけです。

まだ乗っていない<大船>からの湘南モノレールというのが江の島まで走っていますので、こちらも次の機会には乗ってみたいですね。

一応<鵠沼海岸駅>で降りて海岸方向に向かったのですが、行って戻ってくるのもしんどい気分でこれまた次に伸ばしました。<鵠沼海岸>は、小津安二郎監督の映画にでてくるのです。

映画『天国と地獄』の題名ですが、犯人の竹内銀次郎が横浜の自分の住んでいるところは地獄で、権藤金吾が住んでいる高台の冷暖房完備の大きな家を天国だと言ったのです。その天国から権藤は引きずり降ろされたわけです。

しかし、権藤は誘拐されたのが自分の子供ではなかったのに身代金を払い、子供の命を守った行為に対しては世間から称賛を得ました。そして彼には、見習工からたたき上げた靴職人の技があり、良い靴を作りたいという信念がありました。ほぼ戻って来た身代金で権藤は自分の小さな靴製造会社を始めていました。竹内は医者という立派な人命を助ける技を磨く機会がありながら彼はそれを間違った使いかたで天国を目指し、さらなる地獄へと落ちていくことになってしまいました。

結果的には、権藤は竹内によって天国でもない地獄でもない本来の進むべき道へと修正してもらったことになるのかもしれません。

その天国と地獄の実態を知っているのが、戸倉警部たちです。かれらは足を使って地図上の天国と地獄を立体化して見せてくれたのです。

<腰越>という旅の場所が風光明媚なだけではなく、海と山に挟まった地域の生活があり、そして歴史と共存しているところで、日帰りで滞在時間も短かったのですが厚みのある旅になりました。

何かまだあったようなと帰ってから気になり調べましたら、腰越駅の次の鎌倉高校前駅は、ホームから前面が海、海、海の湘南の海で、映画『男はつらいよ』の第47作<拝啓 車寅次郎様>で寅さんが甥の満男に失恋の哲学を語るシーンがこの駅のホームだったのです。江ノ電さん、親しみやすくて、なかなか深いです。

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(2)

映画『天国と地獄』では、無事もどった進一少年の思い出して描いた絵から、監禁されていた場所が藤沢から鎌倉の間と限定し、犯人の電話の中に電車の走る音を発見します。走る電車は国鉄、小田急線、江の島電鉄です。鉄道関係者により録音された電車の走行音が江ノ電であることがわかります。

誘拐した時に使った車が発見され、その車に魚を洗ったような水たまりを走ったようなものが付着しているというのです。漁港があるのは<腰越>だけということになり捜査の手は<腰越>まで進みます。

漁港から江の島が見えます。しかし、進一少年の絵には島ではなく陸続きになっています。漁港の人が、後ろの小動岬(こゆるぎみさき)と江の島が、もう少し後方の高い所から見ると重なって陸とつながってみえるというのです。

刑事たちが車で進んで行くと、権藤家の車が見つかります。運転手は息子を乗せて息子の記憶から監禁場所を探していたのです。危険なことはするなと刑事は注意しますが、進一少年は監禁された場所を探しあてます。しかし共犯者は殺されていました。そこから見ると、江の島と小動岬が重なり江の島は陸続きになっていました。

姿を出さなかった犯人である竹内銀次郎の山﨑努さんも登場し、逮捕し身代金を取り戻すべき捜査陣の包囲網が次第にせばまってきます。

さて江ノ電は藤沢、石上、柳小路、鵠沼、湘南海岸公園、江の島、腰越となり、<江の島>と<腰越>間は道路中央を走る路面電車となるところでもあります。腰越駅はホームが短く一両目はドアが開かないとの放送があり、途中の駅でホームを降りて二両目に乗り替えました。混んでいて車内の移動は無理です。土曜日に行ったのが間違いでした。外の景色も乗客で見えません。

江ノ電には何回か乗っていますが、今回は特に外の景色に注目でしたが、またの機会にします。

無事、腰越駅に降りられました。<生シラスあります>の表示に、やはり生シラス丼でしょうと食事をしてから、<満福寺>へ。このお寺のすぐそばを江ノ電が走っていまして、お寺に上がる石段から江ノ電の通る姿を見ることができます。今までの旅の中でお寺と走る電車の近いのはここが一番と思います。

 

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東海道本線の興津にある清見寺は、敷地内を線路が通っていて階段の途中に踏切があるというお寺でしたが、線路から本堂までは距離がありました。

平家物語』で義経は壇の浦で捕えた平宗盛父子を連れて鎌倉にやってくるのですが、頼朝は会ってくれず<腰越>にとどめられる鎌倉には入れてもらえません。そこで、義経は自分の胸の内を書状にしたため大江広元へ送ります。これが「腰越状」といわれるものです。

しかし、兄頼朝の勘気は解けず逢う事叶わず、平宗盛父子を連れて再び京を目指すのです。

満福寺>の案内によりますと、このお寺は、天平16年(744年)に聖武天皇の勅命で行基が建立したと伝えられ、義経がここを宿とし、「腰越状」は義経の心を汲んで弁慶が下書きされたとしています。この「腰越状」は、『吾妻鑑』『義経記』『平家物語』など文字に表される前から語られていたようです。

 

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判官びいきは、この「腰越状」の文も大きな役割を担っているのかも知れません。

お寺には弁慶ゆかりのものもあり、鎌倉彫の襖絵もあります。江ノ電の紹介記事がおいてあり、それによりますと<腰越駅>は4両編成の電車だと鎌倉方面の一両がホームからはみ出してしまい、こういう駅を電車愛好家は「はみ電」の駅と呼ぶそうです。駅名板が鎌倉彫だそうですが見落としました。

そしてなんと、太宰治さんが1930年(昭和5年)に心中を図り、彼だけ命を取り留めた場所が小動岬と書いてあり驚いてしまいました。漠然と鎌倉の海岸でと思っていて詳しく探索もしませんでしたが、ここだったのです。思いがけないことをしりました。

満福寺>には「義経庵」という茶房があってしらす料理が食べられるようです。残念食べたあとでした。お寺脇のトンネルを抜け、そこからお墓のある高台へあがっていくと、テラスのようになったところがあり、そこから見ると、江の島とすぐ近くの小動岬が重なるのがわかります。しかし、江の島は島に見えますから、もっと鎌倉寄りの高台だと進一少年の観た風景になるのでしょう。

映画『天国と地獄』の脚本は黒澤明さん、菊島隆三さん、久板栄二郎さん、小国英雄さんの四人の名前があり、凄いことを組み合わされて書かれたものだとおもいます。

こちらは『平家物語』から太宰治さんまでも繋がってしまいました。さてつぎは、小動岬です。岬といっても樹木に覆われた小さな岬です。

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(1)

腰越>は、『平家物語』にも出てきまして、歌舞伎にも『義経腰越状』という作品があり気になっている場所ではあったのですが、<腰越>一箇所ではと思い組み合わせ場所を探さなければと考えていたのです。ただ歌舞伎の場合、現在上演されている部分は<腰越状>とはあまり関係ないのです。

ところが、黒澤明監督の映画『天国と地獄』を見直していましたら、<腰越>が出てきました。それではと、観光も兼ねて江ノ電腰越駅へと出かけることにしました。

映画『天国と地獄』は、誘拐犯と警察の攻防で、誘拐された子供が会社重役の子供ではなくそこの家のお抱え運転手の子供で、身代金を要求された重役は、苦悩のすえ身代金を払うのです。重役は、靴職人の見習工からのし上がった靴製造メーカーの常務である権藤金吾で、お金をかき集め自分が会社のトップになれるという時に身代金3000万円を要求されるのです。

犯人の要求通り、身代金の入っている鞄を特急の「第二こだま」から酒匂川(さかわがわ)の土手へ投げ落とし無事、子供は取り返すことができました。この場面までが、権藤の人生が大きく変わる起点でもあり、ここからが警察の捜査陣と犯人との闘いとなるのです。

身代金を投げ落とす場所が酒匂川に架かる鉄橋からで、この場面に関して新聞の映画記事になったこともあり興味深い場所でもありました。旧東海道を歩いた時に国道1号線の酒匂橋を渡り歩きました。鉄橋の位置からする東海道は駿河湾に近い位置にあり、権藤が警察の車で誘拐された進一のもとに訪れる時後方に映っているのが酒匂橋です。今は酒匂橋と東海道本線との間に小田原大橋ができています。そして、東海道本線の横には東海道新幹線が走っているのです。

映画『天国と地獄』は、1963年公開で、初の電車特急「こだま」が運行したのが1958年、東海道新幹線が開業したのが1964年ですから、特急こだまの前面部分と内部を見れる貴重な映画ともいえます。

黒澤監督の助手であった野上照代さんの話しによると、本物の「こだま」を編成ごと借り切っての撮影で、犯人からの電話が「こだま」の電話室にかかります。電車は国府津駅を通過したところで、次の鴨宮駅が左にカーブした土手に進一がいるから顔を確かめて鉄橋を渡ったらお金の入った鞄を洗面所の窓から投げろとの指示なのです。

同乗して車内を警戒していた警察もその時点で初めて知るわけで、それぞれが、映写のため車内を走り位置につきます。犯人があと2、3分で鉄橋にさしかかると言っていまして、その間に行動するわけです。映画ですから、台詞をいいつつきちんと演じなければなりません。車内場面だけでも、3カ月リハーサルをしたそうです。

進一の顔を確かめて鞄を投げる権藤の姿は、戸倉警部が権藤という人物を全面的に信頼する場面でもあるとおもいます。そして犯人に憎悪を燃やします。権藤はお金がなくなり、これで、会社から追い出される人間になったのです。権藤金吾が三船敏郎さんで戸倉警部が仲代達矢さんです。三船さんの鞄を投げたあとの緊張感のゆるみが、演じ切ったというところでしょうが、そのまま権藤が進一の姿を確認でき犯人の言う通りに出来たという安堵感と重なって観ているほうの臨場感もたかまります。

警察役が映写していると同時にその姿を映画スタッフも撮影しているわけですから、その時の動く外の風景そのままなのです。橋を渡る時間は1分位です。

先ず東海道線の在来線で酒匂川の確認です。鴨宮駅から小田原駅まで車中のドアから見ましたが、ガラス部分の丁度顔あたりに広告が貼ってあり、変な格好で酒匂川をみることとなり、小田原から鴨宮にもどるときは、対向電車とすれ違いよくわからず、再度、鴨宮から小田原へ向かいもどり二往復しましたが、風景が変わっていてよくわかりませんでした。ただ、在来線の電車でも短い時間ですから、「こだま」の速さにすると、本当に緊張するとおもいます。今の在来線で鴨宮から小田原まで3分です。前の1分が川を渡る時間と考えていいでしょう。

土手に進一と共犯者が立っている場面は、実際にはその前に二階建ての家があり二人の姿が「こだま」から見えないため二階部分を壊してもらい、その日の内に大工さんを連れて行き元にもどしたそうです。映画で、屋根の部分の木材が格子のように見える家がありますが、それのような気がします。

権藤と警察は横浜から「こだま2号」に乗ったでしょうが、横浜15時41分に出発して小田原を通過して熱海到着が16時37分です。熱海まで警察は動けません。「はと」ですと横浜を13時22分に出て、小田原に14時01分に着き、熱海に停まらず沼津までいきます。小田原で停まられては逃走する時間ががないので都合が悪いのです。なぜ「こだま」に乗るように指示したかがわかります。20分位は時間稼ぎができます。

いかに頭の働く犯人かということがわかります。ここから警察と犯人の攻防戦となるわけです。

さてこちらの旅は、藤沢駅にて江ノ電に乗り換え腰越駅へと向かったのです。

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

木のまち鹿沼(2)

『鹿沼市立川上澄生美術館』の係りのかたから、すぐ前の建物<文化活動交流館>で屋台を無料で見れますので是非どうぞと薦められました。

中央公園に屋台展示館があるのでそこで見ればよいかなと思っていたのですが、せっかく薦められたのでのぞかせてもらいました。お祭りで引っ張るお囃子の屋台よね、ぐらいの感覚でした。

三台の屋台がありましたが、精巧な彫り物で囲われたものでした。見くびりすぎていました。色彩あざやかなものもあります。係りのひとが説明してくれました。鹿沼には27台の屋台があり、秋祭りにはそれが今宮神社に集まるのだそうです。

説明してくれた方の町内には屋台がないので詳しくはないのだそうですが、この展示している三台の町内のかたが見に来て色々教えてくれるのだそうです。自慢のおらが町の屋台ですから自慢したいところがそれぞれにあるようで、聴いていてもその語った人の様子が伝わってきます。

彩色のあるものとないものは、江戸時代のものであれば、八代将軍吉宗さんの時の倹約令の影響ではとのことでした。昭和に創作されたものは白木のままです。

屋台を方向転換させるのに現在ではネジ式ジャッキや油圧式ジャッキを使いますが、昔からの<テコ廻し>という方法も行われます。ウマというテコ台にテコ棒を乗せ屋台の前方を持ち上げ、ウシという回転台を屋台の下に入れ回転させますが、このテコで屋台が大きく傾いたところも見どころなのだそうです。

屋台の正面の屋根の唐破風が見事です。唐獅子、鳳凰、龍、魔除けの霊獣などがあり、花や鳥、波しぶきなど一つ一つ眺めていたら時間がいくらあっても足りませんので、中央公園の展示館に向かいます。<屋台のまち中央公園>とあり、この公園に<掬翠園(きくすいえん)>という日本庭園がありその入口に芭蕉さんの像がありました。芭蕉さん、『奥の細道』の途上この日光街道の鹿沼宿で一泊していてその時の句が「入あひのかねもきこへすはるのくれ 風羅坊」だそうです。<風羅坊>は芭蕉さんの別号とか、知りませんだした。

屋台展示館>は映像などもあり有料ですが、こちらの三台の屋台も立派で、ここの係りの方の町の屋台もあり、その彫刻の素晴らしさを解説してくださいました。日光東照宮にたずさわっていた彫刻の職人さんが冬の仕事にならない時に、屋台の仕事をしたのではないかということで、そのもととなる<木>が鹿沼にはあったということです。

良い木があったので職人さんも腕を振るえたわけで、休まずに腕を磨く訓練にもなっことでしょう。動かぬ建物の彫刻と近くで見れる動く祭り屋台の彫刻という事に対する職人としての腕の見せどころもあったかもしれません。

今は組み立てて展示していますが、10年くらい前は、毎年秋祭りに組み立てていたのだそうです。鹿沼の屋台を祭り以外の日でも観れるようになったのは10年前くらいからなのです。係りのかたは、この歳になって、こうして皆さんと屋台のことをお話しできるのも、ご先祖さんのお陰ですと言われていました。

10月の第2土曜・日曜の秋祭りには来てくださいといわれ、この彫刻の屋台が動くのを観たくなりました。お祭りでこの彫刻が欠けたり壊れたりすることはないのか聞きましたら、動かしては壊れないが、触る人がいて、つけたくはないが今は世話役の人が四方についてそいうことのないようにしているそうです。

数年まえから見物のお客さんが増えたそうで、一時は、屋台を出さない町内もあったのですが、今は27台が<今宮神社>に集合するそうで、古峰神社へのバス停とそこからすぐの<今宮神社>を通りまで出て教えてくださいました。バスの時間まで10分位ありましたので、急いで今宮神社へ行き、ここに27台が集まるのかと想像しました。これで今宮神社の場所もわかりました。

古峯神社>へのバス停が近くにあり助かりました。本数が少なく一時間ほどかかりますので行けるかどうかが問題でした。もどってくるバスも問題だったのですが、古峯神社のそばにある庭園<古峯園>が閉まっていましたので、帰りの30分後のバスに乘りました。それでなければ1時間半ここにいなければならないのです。お参りして、中を見させてもらいました。赤と黒の大きな天狗が飾られていました。御朱印のことも書かれていて種類が多いです。今日はどの御朱印なのでしょうか。友人が来れなかったのは残念です。私がもらって渡すわけにもいきませんし、帰ってから10月の秋祭りに行くことを告げてはおきましたので、その時にでも再度訪れることにしましょう。

<古峯神社>のまでの途中に<金剛山瑞峰寺>というお寺もありました。帰りなら下りなので次の機会には寄れるかもしれません。信仰の山奥といった趣きです。

さて、JR鹿沼駅までバスで直行ですが、バスの中で<屋台展示館>で手に入れました鹿沼秋祭りのパンフレットを取り出しますと英語版でした。このパンフレットの内容が良いので観光案内でもあれば日本語版をもらおうと思いましたが、それらしきところがありません。駅員のかたが、駅前を掃除されていましたので尋ねましたが観光案内は無いという事で、パンフレットをみてこれはいいですね、駅にも置きたいですといわれます。

屋台会館に電話してみますと中に入られました。ここで、電話されてもどうにもならないしと思っていましたら、出てこられて「住所を書いてください。」「え!」「送ってくれるそうですから。」と思いがけない展開でした。後日早々と届きました。

パンフレットを見つつ、「鹿沼秋まつり」の屋台に会えるのを愉しみにしていますが、頭の中で鹿沼の地図は出来上がっていますので秋祭りまえにもう一度訪れる可能性が大きいです。

「木のまち鹿沼」から「屋台のまち鹿沼」のほうが強いかもしれませんが、もとはといえば<木>があったからという想いが強いので「木のまち鹿沼」としておきます。

     掬翠園

     今宮神社 

     古峯神社

木のまち鹿沼(1)

栃木県鹿沼市も「木のまち」といえるということを行ってしりました。この町は、版画家の川上澄生(かわかみすみお)さんの市立美術館があることを知っていたのでピンポイントとして押さえていました。

川上澄生さんの作品「初夏の風」は、棟方志功さんが油絵から版画に変更するきっかけとなったという話しもあり興味あるかたでした。さて、調べてみますと、鹿沼市は祭りの<屋台>が展示されている場所があり、かなり山奥らしいですが、天狗で有名らしい<古峯神社>もあるらしく、この三か所を起点に計画しました。

<古峯(こみね)神社>のご朱印は種類が多いらしいのです。その時の書き手によって変わるらしいのです。この日に行きますが行かれますかと誘った友人は予定があり同伴できず残念でした。

鹿沼の町は、JR日光線鹿沼駅と東武日光線新鹿沼駅に挟まれていて、ちょうど中間あたりに見たい場所が集まっています。

JR鹿沼駅から歩いて20分のところに<鹿沼市立川上澄生美術館>があり、明治時代の洋館のような建物で、今回の「身近に楽しむ木版画 ー川上澄生・頒布会とその時代ー」は、洋風の小物などを題材としている作品も多かったのでの入場するのに雰囲気が合っていました。戦後、コレクターや愛好家に版画頒布会を開催した作品が中心です。

洋灯(らんぷ)、グラス、硝子瓶や明治時代の人々をモデルとする作品などが多く、色使いが明かるく、淡さとはっきりした色の調和が好もしい感じです。複雑な彫りを感じさせない単純化されて見えるのも川上さんの作風でもあります。

川上澄生さんは、宇都宮中学校の英語教師になってから本格的に木版画制作を始めています。戦争が始まると軍国主義の風潮を嫌って学校を退職、木の活字を彫ったり、絵本の製作などをします。1994年(昭和19年)の『明治少年懐古』を刊行し、少年時代の思い出を木版の挿絵と文で表現しています。その後、一時は、奥さんの実家の北海道苫小牧中学の教師となり、戦後宇都宮にもどり宇都宮女子高等学校の講師となり、宇都宮を終焉の地としています。

戦後、教え子さんたちが中心となり版画頒布会を組織されたようです。

『明治少年懐古』の文庫本を美術館で見つけました。作家の永井龍男さんが川上澄生さんが自分のことを<へっぽこ先生>と称したの受けて書かれた『へっぽこ先生』のエッセーが最後に載っていました。その中で「私は私を喜ばせ、また楽します絵を作っている」の川上さんの言葉を引用し、<短いが、川上澄生の作品の根本を語るに、これ以上適確な言葉はあるまい。>としていて、まさしくその通りで、少年・川上澄生の感性が素直に楽しめ、その当時の少年を身近に共有でき、ほっとさせてくれる作品です。

「俥屋さん」(人力車に乗る様子)、「へっつい直し」(煮炊きするかまどをなおす人)、「でいでい屋」(雪駄をなおす人)

桶屋さんの仕事、米屋のお米をつく仕事、九段坂の車を後ろから押すため立ちんぼをしている人、銀座で十二カ月分の種類があるお汁粉さん。

郵便屋さんが縁先で一服して一日5里は歩くというはなし。当時家の郵便箱は黒い四角いもので上に三角形の帽子がついていて、流行っていた『ふいとさ節』に「四角四面の郵便箱はね(ふいとさ)恋の取持ち丸くする(よいとふいとさ、おーさ、よいとふいとさ、ふいとさ)というのがあったと書かれています。子供が大人の流行り歌を自然に覚えてしまった時代です。

羽織り袴の小学生が、羽織の紐の先を前で結びくるりと後ろへまわし首にかけたり、袴の下から股引きがみえないようにたくしあげたりと、どんなときにもおしゃれを見つけ出す子供の姿も書かれていて微笑ましいかぎりです。

進む先に暗い時代があろうことなど考えもしない、明るい光を目指す子供の純真な観察眼にもどって書かれた短文は名文で、立、横、斜めの彫刻刀の彫りが心地よい音を伴って木版画を眺めてしまいます。

書き終わって思い出しました。澄生少年は写真屋で写真を撮った記憶で嫌になったのが、「立たされて居る時後から鉄のやっとこのようなもので頭を動かしたり曲げないやうにはさまれることだった。」と書いています。この<鉄のやっとこのようなもの>は、六本木のミッドタウンウエストにある、「フジフィルムスクェア」の写真歴史博物館で展示されていました。博物館といってもフォトサロンと同居した小さな場所ですが、写真をとるためにはかなり長い時間を要したらしく、下から伸びた棒に首をささえる丸い部分がついていました。

これを見ていたので、澄生少年の気持ちがよくわかりました。坂本龍馬さんの立ち姿は、木の台によりかかっている写真で龍馬さんらしく格好つけているなと思いましたが、もしかすると、長時間立ったままでは大変なのでこの姿になったのかもしれないと思った次第です。記憶がよみがえりました。

   鹿沼市立川上澄生美術館

  

木のまち鹿沼(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

<相模湖>は神奈川

JR中央線高尾駅の次の駅、<相模湖駅>が気になっていました。駅から相模湖が近いらしいのです。一度行きたいと思っていました。湖の名前がついている駅名で、その湖へ歩いて行ける場所はそうないでしょう。

旅は行っての出会いと、<相模湖駅>に降り立ちます。山登りのいで立ちで駅を降りた人がみうけられました。駅に着替え場所があります。どうやら山登りやハイキングの場所の多いところらしいです。チラシをゲットしなるほどです。隣駅の<高尾>は東京です。<相模湖駅>、<藤野駅>が神奈川県で次の<上野原駅>が山梨県です。感覚として、神奈川は東海道と思ってしまいますので<相模湖駅>も山梨と思ってしまいます。

観光案内があったので寄りました。相模湖と相模湖交流センターの行き方を聞いて、ふと見ると<小原宿本陣>。出ました。そこへは駅から歩いて20分くらいとのこと。できあがりました。行けます。<小原宿>は、甲州街道の宿場まちです。

相模湖は相模ダムによってできた人造湖で、駅から歩いて10分位で公園となった場所に着き、遊覧船や貸しボートなどがあり、食事処などこじんまりとしています。桜はまだでした。

そこから、相模湖大橋へ。相模湖ダムの全貌がみえます。橋の真ん中から引き返し<県立相模湖交流センター>へ。ここで、相模ダムなどの役割が体験型で学べます。面白かったのが、手で触ってボタンを押すと、音が流れ、三つのボタンがあり違う種類の音が聞こえます。人の体温によって、それぞれの人の音が聞けるのですが、一人しかいなかったので比較が出来ず残念でした。

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そこで、<小原宿本陣>への道を聞き、歩きはじめます。国道をすすむので途中は趣きはありません。本当に残っているのかなと思っていましたら、大きな屋根の破風がみえました。高くて大きいです。立派な本陣でした。本陣だけが国道にそって残ったという感じで、いえいえよく残ったとおもいます。持ち主のかたが長く住まわれていたからでしょう。

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神奈川県下の東海道と甲州街道で合わせて26の本陣があったそうですが、現在残っているのは、この一軒だけです。この清水家は、名主・問屋を努めていました。造りが中二階、二階、三階と四層になっていました。中二階から上はお蚕さんのための造りなのです。本陣でこんな建物は珍しいです。この土地も畑作が出来ない地形であったゆえの営みです。

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甲州道は、大名としては高島藩、高遠藩、飯田藩の三つの藩だけが通るように指定されていたのです。これも初めてしりました。どこの道を通るか指定されていたのです。

問屋として人馬の継立てに要した人と馬の数と通行大名数が書かれてありました。

(文政4年)

  • 東海道  人足100人  馬100疋  大名数146
  • 中山道     50人    50疋      30
  • 奥州道中    25人    25疋      37
  • 日光道中    25人    25疋       4
  • 甲州道中    25人    25疋       3

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先に難所の小仏峠があり、片継ぎの宿場とあります。小仏宿からの人や荷物は与瀬宿を越して吉野宿まで継ぎたて、与瀬宿からは小田宿を通り越して小仏宿に継ぎたてをしたのです。

小仏峠には、美女谷伝説があり、歌舞伎『小栗判官』でお馴染みのあの照手姫が小仏峠の麓で生まれていて、その美貌から地名が<美女谷>となったといわれています。両親が亡くなって照手姫は<美女谷>から消えてしまいます。その後、相州藤沢宿で小栗判官と運命的出会いとなるわけです。案内板の古いのが残念です

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こういう流れがあるとは、やはり神奈川ですか。小栗判官と照手姫のゆかりの遊行寺の桜の開花状況はどうでしょうかね。

相模湖の半日旅に満足しまして、東京の新宿を通って目黒に向かいます。<東京都庭園美術館>での『並河靖之 七宝 一明治七宝の誘惑・透明な黒の感性一』鑑賞のためです。これでもかという細かい多数の花々や鳥などが描かれ、職人の極致といえます。

七宝の造る過程が解らなかったのですが、映像があり良く理解できましたが、益々その職人わざに驚きで人間というのは凄いですね。七宝というのは近年忘れられているところがあります。アクセサリーとして、あるいは自分で創作できるとして七宝焼きなどとして流行った時期もありました。

色の多種多様の美しさに嘆息しました。

ここでの桜は数本でしたが、緑の中にあってこれまた淡さがいいです。

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目黒川の桜が気になって行人坂から太鼓橋に出てみました。満開でした。地下鉄の中目黒方面のほうが桜並木が長いのでしょうが、船に乗った五反田方面に向かいました。地上からですと、桜は亀の甲橋までです。<荏原調節池>の入口が見えました。地上からこんなによく見えるとは思っていませんでした。しっかりお役目はたしてくださいな。

というわけで、執念深くも目黒川の桜のリベンジも終わらせました。リベンジしなくても、電車から見える風景は至る所が桜、桜でした。川といえば柳もありましたが、桜に押されて消えていってますね。夏は柳なども涼しげですが。

追記: 相模湖プレジャーフォレスト でイルミネーションをやっていることを知り数日後に相模湖を再訪。もう少し早く知っていれば小原宿とイルミネーションと一日コースでもよかったのですね。

夕暮れが迫り次第にイルミネーションが始まりだしました。

 

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桜さがし

数年前、友人たちが目黒川を船で桜見物をしたというのを思い出し申し込みました。ただ3月末は寒い日が続いたため、残念ながら亀の甲橋から太鼓橋までの桜メインストリートの花の開き具合はまだ早しで三分咲き、ピンク色には染まっていませんでした。

五反田駅ちかくのふれあい水辺広場からの乗船で、広場ではお花見をする人々が思い思いの楽しみ方をしています。船は10人ほどが乗船のエレクトリックボートで、幌もあるので全天候型といえます。電気なので静かでスピードが出ずゆったりとした進み具合です。

昨年あたりの目黒川は、他の地域からの船や水上バイクなどの行儀悪さが目立ち、今年からは規制して静かでスムーズになったとのことです。水上バイクなどもかもめの水兵さんのようなゆらりゆらりと流れて行く感じです。カヌーの人もいます。

角度の違う散策は、町の見え方も違い楽しいです。森永橋というのがあり、森永の会社があったときに会社が架けた橋で、今ではこうした個人的な橋は簡単には架けられないでしょう。目黒川は50幾つ橋があるらしいです。

 

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目黒川もかつては汚れていて、今も定期的に真水をかけて、海水、真水、その下にヘドロと浄化に努めているようで、雨の降ったあとは濁るようです。

地上から見てもここの桜は川面も向かって枝が伸びていますが、川に写る光に誘われて伸びるのでしょうとのこと。品川にも開花基準桜がこの目黒川にあって、満開でした。基準桜は早く咲く桜を基準にしているわけで、遅くては役目を果たしませんよね。

やはり植物は光に強く反応するらしく、満開となっている桜は近くのビルの窓ガラスに受ける光に反応するのではということでした。白い大島桜もありました。

 

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荏原(えばら)調節池と表示のある空間の入口がありました。この口から川の水位が上がった時一時的に地下に水をためる場所です。平成元年に目黒川が豪雨で氾濫して舟で往来するほどの被害だったのですが、この調整池ができてからそうした被害は一度もないそうです。目黒川も平成元年までは暴れていたわけです。地下鉄に溜まった水が流れる出る場所もありました。行きには流れていて帰りには止っていました溜まり具合によるのでしょう。

 

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桜が咲きほこると地上からはそんな川での様子はうかがい知れませんが、見えないところにも様々な役目が隠れているわけです。45分間の目黒川の船旅でした。

地上にあがり、日本橋の高島屋横にも桜ありとの情報を得ましたので寄ってみました。日本橋と桜はつながりがなかったのですが、ありました。高島屋の京橋側から東京駅八重洲口方面の通りが<さくら通り>となっていて桜が咲いていました。

日本橋船着場からもお花見船が出ています。

コレド室町1、2の間の小路の奥に新しくて小さな社殿があり<福徳神社>とあります。このあたりは福徳村といわれていたのです。

今日のテレビ情報で知りましたが、日本橋三越隣の<貨幣博物館>では桜の錦絵展を9日まで開催しています。この通りが<江戸桜通り>だそうです。貨幣のことなどの展示もありますからちょっと寄ってみるのもよいでしょう。無料ですのでツーと通過するだけでもいいでしょう。(通貨)とかけたのですが。余計なことでした。

今まで行けなかった場所からと知らなかった場所の桜さがしでした。このあとは、どこの桜でも咲いているところがお花見です。

通過して見つけた桜がありました。映画『麒麟の翼』の重要な日本橋の交番のそばに枝垂れ桜ともう一本はソメイヨシノでしょうか。これまた嬉しい発見です。現場にもどれですね。