隅田川から鎌倉そして築地川(1)

幸田文さんは、「二百十日」に生まれたことについて、幸田露伴さんの『五重塔』から次のように言及する。

「『五重塔』は露伴の代表作だという。それもことにあらしの部分がいいそうだ。なんだかそこにはむずかしいあらしが吹いているが、どういうものか以前から教科書へ載るのはそこにきまっている。」

「いったい父というあの人はどんな眼で、どんな気もちであらしへ対いあったのだろうとおもうのである。そして、私のような子をあらしの日に産んでしまって、いったい私が一生二百十日をどう思えばいいというんだろう。」

五重塔』というのは、谷中感応寺で五重塔を建てることになり、川越の人望もあり腕のある棟梁・源太がえらばれるが、腕はあるが世渡りのへたな<のっそり>の十兵衛が名乗りをあげる。感応寺住職の采配と棟梁・源太の思いやりから<のっそり>が請け負うこととなる。完成式を前に烈しいあらしとなる。しかし、五重塔は微動だにしなかったというあらすじである。

この『五重塔』は、芝居では前進座が得意とする演目で、亡くなられた中村梅之助さんの<のっそり>で観ている。芸の深い役者さんが一人また去られてしまった。舞台上でもこのあらしの迫力と五重塔と人の拮抗が上手く現されていた。

文さんは、作品は作品として置いておき、そのあらしで被害にあった市中の人々に目がいっているのである。そこには、やはり<川>がうねり狂っているのである。そして<水>。二百十日に生まれた文さんは、露伴さんに対する問いかけを自分にむける。そして、めぐりめぐっておとずれた<崩れ>との出会いに立ち向かっていく。それが二百十日うまれの文さんの筋の通しかたとなるのである。

隅田川に対して、露伴さんは文さんの思いも寄らないことを口にする。

「川は生きものだ、ということは、私は実感で知ったとおもう。だが、川が生きものであるからには、病むことも腐ることもある筈だ、とはどうしても考えられなかった。父は、やがて墨田川はくさる、といっていたのだがー。」

隅田川は、荒川放水路もでき暴れが少なくなった。ところが、露伴さんのいっていた通りになる。周囲に工場ができ、人が増え隅田川はくさってしまう。

しかし、1964年(昭和39年)に東京オリンピックが決まるや、よそ様に見苦しいところはおみせできないとばかりに、下水道等の完備がすすみ、顔をしかめなくても散策できる川となったのである。

今年の桜は隅田川にしようか。

さて、ここからは鎌倉にむかう。

鎌倉国宝館。大正の関東大震災で社寺が被害をうけたのを契機に、文化財を守り見学してもらえるようにと設立されたとある。

目的は『肉筆浮世絵の美 ~氏家浮世絵コレクション~』。

 

映画『百日紅』『麒麟の翼』から七福神(2)

日本橋側の墨田川テラスの土手の壁には、ドアのようなものがあったり、レンガが壁の跡のように残っていたりする。小学生の壁画や明治座開場之図などもある。前方には新大橋が見える。

 

明治座開場之図

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0503-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0502-1024x576.jpg

 

上に木々が見えるので、この辺りが浜町公園であろうかと上にあがるとドンピシャリであった。浜町公園には中央区平和都市宣言の碑があった。

 

中央区平和都市宣言の碑

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0504-1024x728.jpg

 

水天宮が改修中で仮宮が明治座の前にある。映画『麒麟の翼』では七福神の最後が水天宮であったが、最初に参拝することになった。映画『麒麟の翼』と七福神の関係は、殺された青柳さんが、<椙森(すぎのもり)神社>に千羽鶴をお賽銭箱に置いて写真を撮っていたことがわかり、そこから青柳さんは七福神めぐりをしていたのではという疑問点が浮かび上がる。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0505-1024x680.jpg

 

私は、 水天宮(弁財天)→笠間稲荷神社(寿老神)→末廣神社(毘沙門天)→椙森神社(恵比寿神)→寶田恵比寿神社小網神社(福禄寿)→茶ノ木神社(布袋尊)→松島神社(大国主) とまわった。

映画『麒麟の翼』では、加賀刑事が 寶田恵比寿神社小網神社茶ノ木神社とまわり、松宮刑事が 松島神社末廣神社笠間稲荷神社 とまわり、二人で改修前の水天宮に向かうのである。

七福神であるから日本橋の七福神巡拝地図も七つの神社で、寶田恵比寿神社が入っていなかった。恵比寿様が重なるからであろうか。詳しいことはわからないが、八つでもいいように思うが。日本橋七福神の特徴はすべて神社で構成されていることだそうである。

 

小網神社茶ノ木神社の途中に兜橋をみつける。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0506-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0507-1024x485.jpg

 

鎧橋案内碑には谷崎潤一郎さんが幼年時代に観た鎧橋周辺の記述がある (鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れをみつめていると、この橋が動いているように見る・・・・・  私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・・・  対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。) 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0508-1024x692.jpg

 

無事七福神めぐりも済ませ日本橋へ向かう。

またまた江戸橋を渡り、地下道をくぐって日本橋に向かう。新しい銀行か証券会社の建物に古い建物だった時の出入り口が一箇所だけ残されていたのがアート的で面白い。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0509-1024x642.jpg

 

日本橋船着き場の船をみると乗船者でいっぱいである。隅田川で途中でみたときは乗船者も少なかったが午後になると人の出も多くなってきたようである。

日本橋の交番では外人の旅行者に「たいめいけんは・・・」と警察官が説明をしていた。外国の旅行者はよく調べて旅をしているように思う。映画『麒麟の翼』でも警察官は最初は外人に何か説明をしていた。

日本橋の<麒麟>も旅行者の写真のモデルとして大忙しであるが、愛想はふりまかず泰然としている。それとも頭上の高速道路が気に入らず不機嫌なのであろうか。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0510-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0511-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 日本橋-1024x576.jpg

 

そこから、東京駅の八重洲中央口のシャングリラホテル東京の前にいく。ホテルに用事があるのではなく、そこの前から日本橋エリアに行く無料バスがでているということなので乘ってみたかったのである。10時から20時まで10分間隔で運行している。(メトロリンク日本橋~無料巡回バス~))

外堀通りから永代通りに曲がり停車したところの左に竹久夢二ゆかりの港屋跡地の碑が見えた。バスは左右どちらに座るかによって見えるものが違う。バスで日本橋を渡るのは初めてである。新日本橋駅の近くから中央通りをUターンしてきて、再び日本橋を渡ったところで降りたが、バスは京橋までいって東京駅の八重洲口にもどるのである。

今年はバスを使って移動して見たいとも思っていて、その先駆けとしての実験体験という形となった。地下鉄は時間が確実であるが、途中の景色が楽しめないのが残念でもあるのだ。

さてさて今年は、どんな街や路地と出逢えるであろうか。

 

映画『百日紅』『麒麟の翼』から七福神(1)

2013年の1月に日本橋の七福神めぐりをと思ってから3年が経ってしまった。( 推理小説映画の中の橋 

映画(アニメ)『百日紅~Miss HOKUSAI~』は、葛飾北斎の娘のお栄を主人公にしている。

お栄さんは北斎さんの三女で、葛飾応為という絵師である。映画は、文化11年 1814年夏とある。お栄さん23歳の時である。

葛飾北斎さんは本所の生まれで1760年に生まれ1849年に亡くなったとされている。この映画の頃は北斎さん54歳あたりということになる。

ということは、勝小吉さんが、1802年生まれで1850年になくなっているから、本所のどこかであるいは両国橋あたりですれ違っていたかもしれない。ただ、北斎さんは10本の手足の指では足りないほど引っ越しをしていたので本所にずっといたのかどうかはわからないので想像上のことである。この時代の本所は、変わり者の逸材が多く交差していたようである。勝海舟さんは、1823年から1846年まで住んで居る。

百日紅(さるすべり)』は両国橋を渡ってのお栄さんの登場である。原作は杉浦日向子さんである。杉浦さんの早すぎる死はなんとも残念である。しかし、お栄さんを描いていたとは、さすが杉浦日向子さんである。脚本は丸尾みなさん。監督は、木下恵介監督を描いた映画『はじまりのみち』の原恵一監督である。

お栄さんの人物の絵といい、しゃべり方といい(声は杏さん)お栄像を満喫させてもらった。周囲の人々の描き方も良い。目の不自由な妹のお猶(なお)との交流も絵師としてのほとばしる感性をそっけなく押さえているところが何んとも心憎い。

はじめに< へんちきなじじいがありまして >と父の北斎を紹介するのも、父を鉄蔵と呼び捨てにするのも、絵師葛飾北斎を一番わかっているのはお栄さんなので、かえってすがすがしい。

その彼女に誘われる様に、そうだ両国橋を渡って浜町まで歩き、日本橋の七福神めぐりをしようと思い立ったのである。

赤穂義士が渡らなかった両国橋を渡ることにする。

それから、葛飾北斎さんの生まれた通りは北斎通りと呼ばれ、今年あたりに<すみだ北斎美術館>として開館されるようで愉しみである。

両国橋を渡る前に隅田川ぞいの隅田川テラスを歩くことにして、隅田川テラス入口と表示のあるところから登ってテラスに下りる。蔵前橋方面の川上に進む。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0488隅田川テラス-1024x576.jpg

 

汐によって川の水面が違い、夜歩いたときよりも水面が高いように思える。伊勢湾台風の時には、潮位が+5.02メートルとある。凄いことになっていたのである。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0490-516x1024.jpg

 

川を遮る手すりには相撲の技が二人の力士により形づくられている。そして、土手側の壁面には北斎さんの絵が描かれている。北斎さんは隅田川両岸の人々の暮らしを多数描いている。

 

 

駒形の夕日栄・多田薬師の行雁

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0492-1024x576.jpg

 

そのほか、赤穂義士が両国橋まえで勢揃いしている絵もある。

両国橋方面に向きを変え両国橋の下から柳橋を見ると、日中は柳橋も灯りがなくおとなしい緑いろの姿である。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0494-1024x576.jpg

 

お天気もよく暖かなお正月で、隅田川テラス散策も快適である。

テラスから上がり両国橋の前に立つ。反対側には、赤穂義士の大高源吾の句碑と日露戦争の慰霊碑が見える。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0495-1024x756.jpg

 

両国橋からスカイツリーが見えたのであろうが、お栄さんの映像が頭にあって渡ることに集中し川をながめたりしていた。対岸に渡って柳橋。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0496-1024x576.jpg

 

そして両国広小路の石碑があった。明暦の大火で橋が無かったために10万余の人が亡くなっている。対岸に行ければ助かったであろうことから武蔵国と下総国の二国をつなぐ橋として両国橋はかけられる。上野、浅草と並ぶ江戸三大広小路で、盛り場であったが今はその面影はない。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0497-729x1024.jpg

 

信号を渡り、<薬研掘不動尊>による。そこから隅田川方面に出たがテラスに下りるところがないので、両国橋のたもとまでもどりテラスに下りる。途中の路地から見えたスカイツリーがすっきりとしていた。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0498-732x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0499-578x1024.jpg

 

反対のテラスから振り返って見える構図が、『百日紅』の最期の絵の構図であった。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0501-1024x576.jpg

 

北斎さんが90歳でなくなり、それから8年後お栄さんは姿を消すのである。どこで死んだかも不明である。

 

宇都宮と大谷地底探検

餃子の街宇都宮であるが、自転車の街宇都宮でもあった。『サクリファイス』を読まなければタウン情報誌を見ても気に留めなかったであろう。プロサイクリングロードレースチーム「宇都宮ブリッツエン」は特定の企業に依存せず、地元企業や個人支援者に支えられているチームで、日本初の地域密着型とのこと。

古賀志エリア・森林公園は、ツール・ド・フランスなどの世界トップクラスの選手が一堂に会する「ジャパンカップサイクルロードレース」のコースの一つになっている。

宇都宮は<二荒山(ふたらさん)神社>の門前町として栄えたまちで、この神社は源頼朝や徳川家康などが戦勝祈願したと言われている。JR宇都宮駅から歩いて15分位であろうか、この近くに評判の餃子屋さんがあるが、お客さんが並んでいるためここで食したことはない。

大谷石の採石された大谷地区へは、バスなら最初に行っておいたほうがその後の計画にゆとりをもてる。大谷石は二千万年前に火山の海底爆発でできた凝灰岩(ぎょうかいがん)の一種で、大谷石が有名になったのは、旧帝国ホテルに使われ、関東大震災で耐震と火災に強かったことである。

<大谷公園>、<平和観音>、<大谷寺>と石の自然と人工の芸術郡である。<大谷寺>は弘法大師開基といわれ、古代の横穴に建てられた観音堂の中には平安時代に造られたといわれる「大谷観音」(千手観音立像)があり、その他十体の磨崖仏が並んでいてこれまた大きくて見事である。そこから、<大谷景観公園>へ向かいそれこそ景観を楽しみながら<大谷資料館>へと進む。<大谷資料館>は石を採石した後の地下が石の神殿のような空間となっていて灯りに照らされた内部は神秘的である。

市街地にも大谷石の建物は幾つかあるが大きな建物としては昭和初期のカトリック教会の<松ヶ峰教会>がある。こちらは東武宇都宮駅方面で、JRと私鉄東武は離れているので見るとなるとかなり歩くことになる。タクシーを使うか飛ばすかである。

友人から大谷石の採石した地下をゴムボートで探索する旅があり、なかなか予約出来ないが、キャンセルがあったから行かないかと誘われて即決である。

JR宇都宮駅からバスで<道の駅 ろまんちっく村>へ移動、そこで案内人と他の参加者と合流してマイクロバスに乗り換えて出発である。この企画は地質調査をした個人の私有地へお邪魔するのである。最盛期には200位の採石所があったらしいが、今は数ヶ所である。

途中大谷石の建物があるが、明治時代に建てられていて、一度も水洗いなどしていないのに綺麗である。汚れが目立たない。質の良い大谷石は、汚れにくいらしい。

休日なので作業はしていないが現在も採石している採石場を見学した。そこで、案内の方が、「ここはアニメの『天空の城ラピュタ』の一場面を思い出しますよ。」と言われる。上からみると凄い深さまで採掘されていて、足場から覗く形となり、採掘の機械などもあり、シータが天から降って来て、パズーが受け止める場面設定と似ているのである。「なるほど!」である。

採石していた石工さん達の休憩所も大谷石の小屋であるが、質の落ちる小さな穴があいている石を使っている。最初のころは手掘りでそれから機械化されているわけで、手掘りは手掘りならではの綺麗な線が残っている。縦に掘って行き、良い石の層が見つかると横に掘っていくのである。30年前に採石を止めその後地質調査で入ってみたら水が溜まっていたのである。そこで、地下クルージングを企画したらしい。

用意してくれた長靴、ヘルメット、救命具を身につける。小さな電気にぼんやり照らし出される水面に浮かぶゴムボートに乗る。電気の点いているところもあるが、ライトを照らしての深淵な雰囲気の中を8人づつのゴムボート二隻が静かに進む。天井の低い所は触ると湿気を含んでいてざらざらしている。違う場所に降りたち、さらなる採石跡へ向かう。低い所、階段が出来ている高く掘られたところなど、良い石を求めて掘り進めたのであろう天井の高低差があり急に広い空間に出たりする。

地下クルージングは30分位であるが、<大谷資料館>とは違い、石工さん達の労働の姿が想像出来、さらに、溜まった地下水から生きている自然の力を感じる。

何年か何十年かするとまた違っているのであろうか。この地下の冷気を使って夏イチゴを作ることに成功したようである。再活用の道を模索している大谷地区である。案内してくれた若い方も、新しい楽しみ方のアウトドアを捜している様子が生き生きとしていて楽しかった。

アニメ映画『天空の城ラピュタ』を見直した。こちらは青く光る飛行石である。海賊の女首領ドーラがたくましい。ドーラの息子が、シータがいずれママの様になるの?と心配しているのが可笑しかった。

 

長野~松本~穂高~福島~山形(番外篇)

映画『男はつらいよ』の寅さんが山形の慈恩寺に行っている。16作・葛飾立志篇である。葛飾柴又の「とらや」に修学旅行生の桜田淳子さんが寅さんを訪ねて来る。寒河江(さがえ)町から来て、寅さんが自分のお父さんではないかと確めに来たのである。それは思い過ごしであったが、桜田さんの母親が昨年亡くなったことを知り、寅さんはお墓参りに行くのである。そのお寺がどうやら慈恩寺らしい。そこの住職が大滝秀治さんである。

御前様・笠智衆さんの姪御の樫山文枝さんが大学の考古学の助手をしていて、「とらや」に下宿することになる。やっと、茶の間からの階段を上がる部屋が見れた。寅さんはいつも台所の土間からの階段を上がった部屋であるが、そこを樫山さんが使うことになり、寅さんは二階のいつもとは違う部屋に寝泊りするのである。茶の間からの階段の部屋が気になっていたのでこれで一つ解決。

巡査が米倉斉加年さんと劇団民藝の方が3人出られている。樫山さんの師の大学教授が小林桂樹さんである。ラストは小林桂樹さんは樫山さんにプロポーズして断られ、寅さんは小林さんがだれにふられたかは知らないで二人で一緒に旅をしている。

「七つ長野の善光寺 八つ谷中の奥寺で 竹の林に萱の屋根 手鍋下げてもわしゃいとやせぬ 信州信濃の新そばよりも あたしゃあなたのそばがよい」

市川市文学ミュージアムで『山田洋次☓井上ひさし展』を開催している。( 2015年11月21日 ~ 2016年2月14日まで)

お二人の縁と、笑いと平和に対する想いなどが中心である。その他12月12日に公開される山田監督の映画『母と暮らせば』の小道具や衣装など、さらに『男はつらいよ』の「とらや」の茶の間のセットもある。井上ひさしさんのカード式メモは読みやすく几帳面に記入されていて驚いた。誰が見ても資料になる。そして、『男はつらいよ・葛飾立志篇』のタイトル前の寅さんが馬の引く荷台に乘っている大きな写真があり、出た!

文翔館では映画『るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編』の撮影があったが、この映画の撮影現場として、栃木県宇都宮にある<大谷資料館>でも知らされた。こちらでは、背景が白なので剣を交える場面を撮りそれを合成して映像化したのであろうと思うが。

映画『セーラー服と機関銃』で、薬師丸ひろこさんが捕らえられ十字架に張りつけになる場面がある。その白い巨大な柱郡はセットではないし、どこで撮ったのであろうかと気になっていたが、<大谷資料館>に行って納得であった。ここかと思ったら、ここで撮影されたとの掲示があった。

そんなこんなで『るろうに剣心』『るろうに剣心 京都大火編』『るろうに剣心 伝説の最期編』をレンタルした。『るろうに剣心』は剣心が刀を逆刃刀にして人を斬ることをやめるのであるが、その理由が弱くこちらには伝わらなかった。闘いのスピード感に比して、かおるとのやりとりなどの間の長さのギャップに閉口してしまった。続きを見るかどうか躊躇したがとにかく見ようと『るろうに剣心 京都大火編』を見ると、様々なキャラの人物が出て来て、会話部分の間もよくなり、剣心の佐藤健さんのアニメ的台詞も身につき良くなって面白くなった。ただ『るろうに剣心 伝説の最期編』では、剣心の剣の師が福山雅治さんで福山さん長髪似合わないし、ちょっと違うなと思ってしまった。

剣心の子供時代の事と新婚の侍を斬ってしまう重大な剣心の心の芯の決め所が弱かった。それに対し、藤原竜也さんの志々雄は生き残ってしまったら怨みしかないであろうということは明白。田中泯さんが引き締め、伊勢谷友介さんとの関係を盛り上げ御庭番のその後に色添え、幅が広がった。漫画、アニメの見ない者にとって、青木崇高さんの左之助の単純さが気分を変えてくれる。

漫画には漫画の、アニメにはアニメの、実写には実写の、芝居には芝居の心意気があるのであろう。というよりそれが必要である。

 

長野~松本~穂高~福島~山形(4)

四日目である。<慈恩寺>である。山形からJR佐沢線に乗り羽前高松駅で降り、徒歩20分。昨年ツアーで来た時自力で来れると知り、もう一度と思っていたところ思いのほか早く実現した。 慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡 さて地図を見つつ歩き始めたが、最初から道を間違えた。なにかおかしいなと思いつつ大きい道はあそこかなと思うが、中々近づかない。人の姿もないので友人は余所のお宅を訪ねてくれたがお留守のようである。車に乗る人を見つけた。すいませんがと尋ねたところ、方向がかなり違うらしく、説明しても無理と思われ車で送って下さった。慈悲に預かってしまった。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0390-1024x576.jpg

 

帰りはこの道を下るようにとしっかり教えられる。朝のお仕事の途中申し訳ないことであった。若い女性二人なら幸先よき一日であったろうに。天気も曇りであった。

お陰様で無事大きな山門の前に立てた。友人には申し訳ないが昨年は今世紀初の秘仏御開帳で十数体の秘仏にお会いできたのである。真近で拝観することができたので、時間が短く数は少なくともゆっくり拝観したかった。今回はお寺の方が丁寧に解説してくれた。それで知ったのが、大阪天王寺の楽人林家が慈覚大師に随徒して舞楽を山寺に、そして慈恩寺へと伝えられた。1200年の伝承を持つ慈恩寺舞楽は5月5日の一切経会(いっさいきょうえ)に林家と慈恩寺一山衆によって八つの舞楽を奉奏される。写真もあり衣装も美しい。山門の二層が楽屋となり、本堂に向かって舞台が組まれる。見たいものである。

ここの十二神将は頭に小さな干支が乗っていて、ぐっと睨んでいるのに上の干支が可愛らしくそのアンバランスがユーモアに満ちている。幾体かは、これから海外に出かけられる予定とのこと。平和を広めて欲しいものである。京から仏像は最上川を渡って運ばれたのか尋ねると、最上川は流れも速いし命がけだろうからそうとは言い切れないとのことであった。「五月雨を集めてはやし最上川」と詠んだぐらいだからそうかもしれないとも思う。

実は列車を一本乗り過ごしたのである。タクシーで寒河江駅まで行く方がいて友人がどうすると言うのを、慌ただし過ぎるからもう少し居ようよと引き留めたのである。しかし次の列車は2時間半先となる。

境内を散策し上の公園までと思ったが足元も天気も芳しくないので、休憩所でからしこんにゃくなぞを食べながら、さて、タクシーを呼んで寒河江駅で昼食とすることにしようかと何気なく取った慈恩寺の地図にお蕎麦屋さんがある。そこにいた方にこのお蕎麦屋さんは近くですかと聞くと近いとのこと。そして、親切にも電話で休みでないかどうかを確かめてくれた。

ここでお蕎麦も挽回である。土地の季節の野菜の煮物なども付いてゆっくりできた。これで羽前高松駅まで歩ける。歩くとそこまでの風景が残るので歩いておきたかったのである。そして、羽前高松駅に無事到着できたのである。

この時間のロスで、東京までの帰りの新幹線を遅くして山形駅から近い二か所だけ周る。明治に建てられた旧県庁の<文翔館>と霞城(かじょう)公園の中にある明治に県立病院として建てられた<旧済生館本館>である。<文翔館>には歴代の県令の名と出身地があり、なるほど、初代県令は薩摩藩出身である。明治政府の縮図が日本のいたるところに残っているようだ。ここで、映画『るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編』の撮影があったらしく写真があった。重厚な部屋の雰囲気が上を見上げると全く違う様相を呈している。天井の漆喰の白い花の飾りが手作業なのであろうが繊細で美しかった。

バスで<文翔館>へ、そこから歩いて<旧済生館本館>へ周ったが途中に山形城主最上義光歴史館があったがパスである。二ノ丸東大手門から入り山形市郷土館にもなっている<旧済生館本館>へ。三層の中庭を囲む円形の擬洋風建築である。中庭が石を配した純日本庭園である。疲れていたので資料のほうの見学はパスである。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0393-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0394-1024x576.jpg

 

受付の方に一番近い駅に向かう道を尋ねる。お城の場合は入るところと出るところで目的地までの移動に差が出てしまう。南門からと言われる。山形駅は山形城の外堀の中にあり、山形城内の広さがわかる。人に聞くのが一番と、再び駅方向を尋ねたら、あの高い建物を目指してと言われる。なるほど、解からなければそこでまた誰かに尋ねてということであるらしい。そうなのである。教え方が機能的である。道を教えるのは難しいのである。その高い建物と駅が繋がっているようなのであるが、どこからが近いのか判らない。また尋ねる。教える人はいつもビルの中を通って駅へ行っているらしいが、説明が難しいと思ったのか駅名の見えるところを教えてくれる。駅名が見えた。駅名が見えればそれを目指せばよいが階段を使うのが一番の早道であった。

それにしても、山形駅の西口と東口では雰囲気が全然違った。開発の違いであろう。

とにもかくにも無事終了であった。これからが番外篇である。

 

長野~松本~穂高~福島~山形(3)

三日目、松本を立ち福島へ向かう。一人の友人とは、大宮でお別れである。もっと北へ向かうので福島まで同道できると思ったら、友人は福島には停まらない新幹線であった。さて福島に着いたら、東口からバスである。<文知摺観音>へのバスの本数が少なく平日と土日休日ではよく判らないが停車位置が違うようで、とにかく運転手さんに尋ね、たどり着くことができた。小雨が降っていたが、<文知摺観音>境内の紅葉が最高潮であった。

平安時代、文知摺の絹物が評判になった時期がある。乱れ線のある石の上で絹織物に草を摺りつけ模様としたものである。その石があるのが福島の信夫の地なのである。

しのぶもぢずり」は歌枕となり、光源氏のモデルとも言われている源融(みなもとのとおる)が読んだのが 「みちのくの しのぶもちずりだれゆえに みだれそめにしわれならなくに」(奥州のしのぶの里でつくらる、あのしのぶずりの乱れた模様のように、私の心が乱れはじめたのは、あなたのほかの誰のせいだというのですか) で歌碑も出来ていた。この<文知摺石>は石というより岩と思えるような大きさであった。別名<鏡石>とも言われている。

受付に居た方が説明に来てくれた。源融が巡察官として訪れた時、長者の娘虎女と恋仲となるが、融はまたもどって来ると都へ帰ってしまう。娘は待ちこがれ悲嘆にくれ石に融の姿が映って見えたといわれる。娘が病に臥せったとき、融の歌が都から届く。それが、「みちのくの・・・・」である。のちに麦の穂でこの石を摺ると想う人の姿が見えるとの言い伝えで人々がきて、畑が荒らされるので百姓が怒ってこの石を投げ捨てたところ埋まってしまって芭蕉が訪れたときは、こんな大きな姿ではなく、その後掘り起こしたのだそうである。

芭蕉の句。  「早苗とる 手もとや昔 しのぶずり」

正岡子規の句。  「涼しさの 昔をかたれ 忍ぶずり」

<文知摺石>の下に<綾形石>があり、綾形らしき模様が見えた。

小川芋銭さんが明治、大正と二回も訪れていて、人肌石と名付けた石の歌碑があった。 「若緑 志のぶの丘に 上り見れば 人肌石は 雨にぬれいつ」

友人に「誰?」と聞かれる「茨城の牛久沼の近くに住んで居た日本画家で、河童の絵を沢山描いた人。どちらかというと、奥さんが農業をして支えていて、野口雨情なども訪ねている。河童の絵は私にはよくわからない。」

多宝塔が修理中で、覆われていて観れなかったが、すき間から見ると、彫り物の色が時間を経た、良い感じの色となっており、全体が観れないのが残念であった。

もぢずり美術資料館を見てバスの時間に丁度良い頃、芭蕉像とお別れする。

バス停がすぐ前でこのバス停は土日休日だけらしい。

ここから駅に向かう途中の岩谷下バス停で降りる。この近くに<岩谷観音磨崖仏>がある。以前、福島駅からそう遠くないところに磨崖仏があると聞いていた。調べてみると、文知摺と福島駅の途中にあった。

バス停を下りたがどうもそんな表示も見当たらず、近くの自動車販売店で尋ねたがわからない。お店の人がパソコンで調べてくれる。「確かにこの近くにある。」と言って道を教えてくれた。大きな道路の十字路を反対に渡り、細い道を少し進むと階段が見えた。ここである。良かった。雨なので、足元に気を付けながら歩幅の高い石段を登る。見えた。数が多い。60数体あるとか。見られて良かった。降りる道が別にあって助かった。あの階段を降りるのが心配だった。この磨崖仏のある山の名が信夫山である。

ここからはバスの本数が多いので、無理なく駅に着けた。大満足の福島であった。そこから山形に向かう。山形では、ホテルに紹介してもらったお食事処でほっと一息。それにしても混んでいるお店で、予約客がどんどん入ってくる。カウンターの端で年配の板前さん二人の手際よい動きを友人と二人で気持ちよく感じつつの一杯であった。

   源融・河原左大臣歌碑

   文知摺石

         芭蕉句碑

      岩谷観音磨崖仏

長野~松本~穂高~福島~山形(2)

二日目は、時間短縮を目指しタクシーで、県内最古でブルーの外壁が美しい<松本市旧司教館>と重要文化財<旧開智学校>へ。

<旧開智学校>は日本最古の擬洋風学校建築の一つで白い外壁に二階のバルコニーの屋根は唐風で所々ブルーの色を使いなんとも明治にあって新しと思わせた学校である。ここに通った子供達は誇らしく思ったのではなかろうか。通うのが楽しかったであろうと想像できる。町民がお金を出し合って建てている。中には教育関係の資料もあり、松本の教育に対する取り組みの歴史もわかる。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 松本市旧開智学校校舎-576x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 旧開智学校校舎-1024x576.jpg

 

 

次は歩いて松本城へ。前に来たときは雪が降ったり止んだりであったが、雪の松本城のほうが黒が強調されて美しかった。五重の天守閣で登る階段が急で狭く、外国の方も多く登り降りが少々大変であった。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0363-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0364-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SBSH0007-768x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SBSH0006-1024x768.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SBSH0008-768x1024.jpg

 

 

江戸の泰平の世に徳川家光が来るというので、月見櫓を建て増ししていて、そこだけ、戦の城とは趣の違う外に開け放された空間である。

この松本城が映る映画に日活の吉永さん・浜田さんコンビの『美しい暦』がある。他の場面もこの地でロケをしていれば、登山やサイクリング場面があるので、松本周辺の自然の映像ということになるが。

松本の観光はここまでで、タクシーを呼んで駅へ向かう。これから大糸線の穂高に向かうのである。乗りたい列車まで時間があるので昼食をとる。蕎麦はいやとばかりにカレーうどんにする。満足。

穂高に着くとレンタルの自転車を借りる。そこで地図を調達し、順序を変えて<碌山美術館>を最初に目指す。時間は大丈夫と思うが、最後にして閉館ぎりぎりだと落ち着かない。<碌山美術館>は彫刻家・荻原守衛さんの美術館で本館は教会風のレンガ造りで美しい建築物である。この美術館は、穂高町民と南安曇野(あずみの)教育委員会が協力し合って多くの人々の寄付を得てできあがったものである。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG08742-1024x757.jpg

 

 

 

彼はパリでロダンの教えを受け、帰国後西新宿にアトリエをもつ。次兄が惜しみない後押しをしてくれていた。新宿中村屋サロンの中心的役割を果たし、中村彝さんや中原悌二朗さんも強い影響を受けている。中村屋の主人・相馬愛蔵とは同郷である。第一展示場、第二展示場もあり、ゆかりある芸術家の作品も展示している。

そこから駅にもどり、大王わさび農園を目指す。穂高も山々に雪が残っている早春が良い。信州は雪が似合う。大王わさび農園は、黒沢明監督の映画『夢』の水車小屋で知られている。わさびアイスクリームを食べてみたいが、それには季節的に涼しすぎた。わさび畑の水の流れにこの水はどこから来るのであろうかと思ったら、わさび畑の中から湧き出す北アルプスの雪解け水で、通年一定の13℃で一日12万トン湧き出しているとのこと。さらに、万水川と合流し、犀川、千曲川、信濃川となって270km先の日本海に入るのだそうでやはり自然は凄い。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0366-1024x576.jpg

 

 

碌山さんは、日本に帰るとき、これから先の助言をロダンに求めるとロダンは「何よりも自然を師としなさい」といわれた。

資料館もあったので、覗いたが、へー、ほー、ふーんと感心した割には何も覚えていない。はひふへほ。

一度来た事がある友人は車だったので、自転車で周れて良かったと言ってくれた。ここは雨でなくて良かった。食べたことがないが、わさび丼とやらが美味しいそうである。わさびだけなのだそうである。あのツーンではないらしい。

帰りは違う道で駅に向かう。途中「水色の時」道祖神があり、連続テレビドラマ『水色の時』を記念して置かれたらしいが、誰もそのドラマを見ていなかった。

「早春賦の碑」。どんな歌だったかなというので、こんな感じかなと口ずさみつつ自分の音程に不安になる。友人がスマフォで検索して美しい歌を聞かせてくれて一安心。本当はボタンを押すと聞こえるはずだったのに故障していたのである。直るなら直しておいて欲しいものである。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0368-1024x576.jpg

 

 

時間は考えず一応一般コースで穂高を周ったが、駅に着いたら適当な待ち時間で列車が来た。私は爆睡し目覚めたら、どこまで行くの起こすの悪くてと遠慮がちに聞かれる。「えっ!終点よ。松本。」「終点なの。だったら安心ね。」言葉が足りなかったかと思いつつ私はまた爆睡。

松本の二日目の夜。そこはお互い抜かりなく松本に着いたらすぐ直行のお店をみつけておいた。しかし、今日は大きいお風呂に入るからと適当に引き揚げ、お風呂のあと、友人の部屋に集合であった。

長野~松本~穂高~福島~山形(1)

友人達の希望で信州へ。長野、松本、穂高は行っているので、時間的配分も何とか頭の中に浮かぶ。問題は福島と山形であった。こちらは、私の希望である。福島は以前から見たいと思っていた、<文知摺石(もちづりいし)>が目当てで、山形は昨年行った<慈恩寺>をもう一度訪れたかった。どちらも、バスと電車の本数が少なく苦慮したが、アクシデントを助けられて希望通りにクリアできた。

初日は友人と二人で長野へ向かい、お昼にもう一人の友人と長野駅で合流である。合流するまで時間があるので、長野からバスで<川中島古戦場>へ行く。以前、長野から松代へバスで移動したときバス停があり、ここが川中島合戦のあったところなのだと思って通過していた。バスで25分で本数もあるから丁度良い。

武田と上杉の戦いは5回あって、4回目が有名な「川中島の合戦」だそうで、実のところ武田と上杉のことはよく判っていないのである。今は八幡原史跡公園になっている。<八幡社>があり、その他<執念の石><逆槐の木><三太刀七太刀の碑><信玄・謙信一騎討ちの像>などがある。

映画『風林火山』で山本勘助が三船敏郎さん、武田信玄が中村(萬屋)錦之助さん、上杉謙信が石原裕次郎さんで、武田信玄の周りを馬で上杉謙信がぐるぐる回り謙信がそのまま去って行ったので何なのであろうかと思ったが、信玄・謙信の一騎打ちを印象づけた映像だったわけである。勘三郎(十八代目)さんが勘九郎さんの子役時代で武田勝頼になって出られていた。

野外彫刻に中原悌二郎さんの『若きカフカス人』があった。劇団民藝の『大正の肖像画』にも出て来た彫刻家で新宿中村屋のアトリエに集った一人である。友人は中村屋サロン美術館に一緒に行ったことがあるのでその事を伝える。芥川龍之介の言葉があった。〔 誰かこの中原悌二郎氏のブロンズの「若者」に惚れるものはゐないのか?この「若者」は未だ生きてゐるぞ。 〕

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0359-576x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0358-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0360-1024x576.jpg

 

 

 

土手を上がると広かった。目の前に長野市立博物館がありながら、違う話に花が咲き入らなかったのである。長野駅で、後から来た友人と合流し「川中島どうだった?」と聞かれ「広かった。」の一言である。

善光寺前までバスで移動。昼食をと思って何となく脇道に入ったらどうも酒蔵風である。誘われるともなく入ったところ、お酒の試飲である。なかなか、飲ませていく順番が上手い。次はお味噌である。気持ちよく乗せられ送ることとなる。美味しかったのでそれは良いが、そこで教えて貰ったお蕎麦屋さんが納得できなかった。私たちがおばかだったのか、天丼とお蕎麦のセットにしたら、お蕎麦がはずれ。お蕎麦は後からきたのに蕎麦がくっついている。友人があとで、お蕎麦だけの人とお蕎麦が違っていたよと。それを知っていたらセットにしなかったのに。

善光寺さんでの<お戒段めぐり>では、皆、極楽の錠前を探り当てられた。

そこから歩いて<東山魁夷館>へ。友人達は東山魁夷さんの絵は初めてで、ゆったりした気分にさせられたと満足してもらえた。すぐ前のバス停から駅までのバスも待たずに来てくれた。

今日の宿泊は松本なのである。長野と別れ篠ノ井線で松本に向かう。途中に夏に来た姨捨駅がある。棚田は車窓からは見えなかった。見えても教えられないほど友人たちは爆睡していた。篠ノ井線の秋の風景もよかった。

松本観光は明日半日の予定なので、ホテルに荷物を置き松本の町を散策に。蔵の街の中町通りと縄のように細長いナワテ通りをぶらぶらと歩く。夜で暗いが松本の町を少し感じてもらう。

一日目の散策は終了。飲めて食べれてと探したが適当なところがなく、知らない土地では、チェーン店が安心よということになる。安心しすぎて大きなお風呂に入れなかった。松本で二泊なので、二泊目は私だけ入った。友人たちはお風呂の大きさはこだわらないようだ。

追記: 大河ドラマ『風林火山』のⅮⅤⅮをレンタルして観た。川中島での信玄と謙信の対峙がなんで回数が多かったのかがわかった。武田、北条、今川の同盟もその策略も生き残りをかけた裏を読む戦いであった。面白かった。

 

笠間と益子へ

藤の咲くころ、友人に茨城の美味しいお蕎麦屋さんへ連れて行くと声をかけられ、美味しいと聞くと執念を燃やす友人も加わり連れて行ってもらう。

笠間なのだそうで、『笠間稲荷神社』、『笠間日動美術館』、魯山人の『春風萬里荘(しゅんぷうばんりそう)』、『茨城県陶芸美術館』など、見どころの多い所で三回ほど訪れている。彼女は、日常に疲れると笠間、益子を訪れ、時には車を近くに置いて半日の登山などもするらしい。全くのお任せコースである。日動美術館と春風萬里荘は入っている。

お蕎麦屋さんは、こんなところにお蕎麦屋さんが本当にあるのという一本道を入って行く。途中に営業中の小さな木の板が出ていて、ここで営業中かどうかを知るらしい。営業時間が短いので、電話で聴くのを忘れてしまうが、今回は私たちを連れていくので営業していると確かめてくれた。家があった。普通の別荘風の家でお蕎麦屋をしようと思っての建物ではない。のれんもなく、中はレストラン風であるが、お蕎麦屋さんである。リピーターがいて、次第に席が埋まっていく。友人が薦めるだけあって美味しかった。

次に、早めにいかなければ売り切れる時もあるからと、お豆腐屋さんへ。小さなお店である。お豆腐、がんも、あげ、厚揚げなどが取りやすいように何個か紙袋に入れられたりしていて、効率よく並べられている。おからの冷凍したのが保冷材として10円で売られていて、解ければそのまま調理すれば良いわけである。このアイデアは素晴らしい。狭いながら、豆腐ソフトクリーム座って食べているお客さんもいる。私たちは外の日蔭で食する。

笠間稲荷では、見せたいのは後ろと、後ろにまわる。見事な彫刻である。ただこのままでの野ざらしで大丈夫であろうかと保存状態が気にかかる。ここも来ているが後ろまでは気がつかなかった。日動美術館。春風萬里荘へとまわる。この江戸時代の日本家屋は北鎌倉で北大路魯山人さんが30年間住んで居た旧宅を移築したのである。驚いたことに春風萬里荘は以前きたときは、だれも見学者がいなくて係りの人も一人であったが、今回は外人さんが多く訪れていて、係りの人も二人いた。ぼんやりと庭を眺めつつ抹茶を口にするところであるが、賑やか過ぎ時間もないのであきらめる。

最期は、友人のお気に入りの喫茶店で、ギター制作のお店と小さなギャラリーと喫茶室のある建物である。彼女も何があるのだろうと入って知ったのだそうであるが、その作家さんの変わるギャラリーも喫茶も彼女のお気に入りとなったようである。その日は古布を洋服や小物に作り変えている方の展示であった。入ったらミシンの前にいた作家さんがいなくなってあれっと思ったが狭いので勝手に見て下さいと席をはずされたのかもしれない。

それからお茶をして、帰るときもう一度のぞくと居たので、気に入った藍染めのマフラーの布は何かと尋ねると紬だという。肌触りが良かったが値段から考えると信じられない。友人にこれ買いなさいと薦める。友人が「えっ、いいの!」という。「譲る!お金は出さないけど連れて来てくれたんだから、いい買い物してよ。」オーナーで喫茶室のママさんが「売れなかったら私が買うつもりだったのよ。」といわれる。皆、目をつけていたのだ。友人は自分の快適と思う解放の場所を時間をかけて見つけていた。

その友人から再び、お蕎麦食べに行くと声がかかる。メンバーは同じである。日動美術館に鴨居玲さんの部屋が出来たとの情報を知っていたので、行きたいと思っていた。調べると企画展が<孤高の画家 熊谷守一と朝井閑右衛門>である。願ったりである。お蕎麦のあと、美術館へ。鴨居玲さんも激しい魂の慟哭と闘った絵描きさんである。何回か自殺未遂をされ、「司馬先生くるい候え」と赤ペンでかいた原稿用紙への遺書的文もあった。あごから頭にかけタオルを巻き、自分の自画像を描いている写真があったが、まるでゴッホが耳を切り落とした時のような姿で自分を描いていて、その闇ははかりしれない。教会が空を飛んでいる青い絵。

朝井閑右衛門さんは初めてである。ルオーのような画風の時期もあり、絵の具との葛藤も見受けられる。熊谷守一さんは好きなのでただ色と空間と形を愉しむ。どうしてあらゆる可能性のある無数の線の中から一本確定し簡単そうに決めれるのであろうか。

友人が書が気にいったという。私が最初に熊谷守一さんを知ったのは、白洲正子さんの旧白洲邸『武相荘(ぶあいそう)』の日本間に掛っていた「ほとけさま」と書かれた書の掛け軸からである。文字でありながらそこに仏さまがいるような不思議な温かさがあった。大きすぎてはいけないバランスのよさがある。それを書いた人が熊谷守一さんで画家であった。仙人のような方である。

それから、水戸の茨城県近代美術館へ 中村 彝さんの絵を見に行こうかという話しになったが、時間的に慌ただしいから、益子にしようということになり、益子の友人のお気に入りのお店を案内してもらう。藍染めの作業場のあるお店はお休みであったが、少し見せてもらう。藍の入ったかめの多さに驚いた。

益子には沢山の陶器のお店があるので、彼女の行くままに覗いて楽しませてもらった。帰りに寄ったお店のビーフカレーも美味しかった。まろやかでありながらきちんと辛さもある。ピザも味見をさせてもらったが美味しい。彼女がお勧めのお店はお値段もリーズナブルなのが嬉しい。そして、土地柄、器も楽しませてくれる。かなり通い気に入ったところを案内してもらうのであるから、こちらは、全身が、栄養満点の旅であった。