旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(5)

<浄瑠璃寺>について土門拳さんは書かれている。

こんな山の中に美しい大伽藍をつくったのは、どういう考えだったのであろうか。 そして京から奈良から、野越え山越え浄土信者たちは詣でたのであろうか。その道のりの遠さは、彼岸への遠さと似ていたのであろうか。 浄瑠璃境内に雨におもたくぬれるさくらは、ものうく、あまく、人の世のさびしさ、あわれさをいまさらのように考えさせている。

土門さんはタクシーを利用されている。山のなかゆえ歩いては行けない。タクシー料金は相当高いが、それも苦にならないほど通われる。

境内のさくらを雨が音もなくぬらしている春が一番、浄瑠璃寺の浄瑠璃寺らしい季節かもしれない。

初めて行った私は、土門さんの一番良いとする季節と雨という状況の中にいたわけである。そんな好条件でありながら、これは、何回か訪れた土門さんの感性である。こちらは、小雨とは云えども、<岩船寺>から歩いている。<浄瑠璃寺>の彼岸では晴れてお目にかかりたかった。ただ池に落ちる雨の波紋は趣きを加えてくれた。 <浄瑠璃寺>前からバスで奈良に入る。加茂から奈良へ入りたかった旅も成就出来た。これからが欲の深いところで、<道明寺>を目指す。土門さんの感性に逆らい、バタバタしていては、とても、土門さんのような奥深い文章は書けそうにない。酒田での『土門拳記念館』への旅も忘れられない楽しい旅でしたのでお許しを。

<浄瑠璃寺前>バス停からJR奈良駅まではバスで30分弱である。奈良から行くなら、「奈良公園・西の京/1DayPass」(500円)が断然お得である。範囲が浄瑠璃寺までなので、岩船寺までは別料金であるが、岩船寺から浄瑠璃寺まで歩けば片道分で済む。バスの本数が少ないので頭を使うが、お天気なら、浄瑠璃寺から2キロほどのところに<浄瑠璃寺口>バス停があり、そこはバスの本数も多いのでそこまで歩くと、時間を自由に使える。

JR奈良駅で案内のため立たれていた駅員さんに<道明寺>までの行き方を尋ねる。解かったつもりが券売機の前ではてな。二回乗り換えるが、どこまで買えば良いのか、また駅員さんのもとへ。奈良で二回も乗り換えるとなると、時間的ロスが心配になり、またまた、あたふたする。 JR奈良から快速で王寺へ、そこから普通で柏原に行き、道明寺線で道明寺へいくのである。乗ったことのない道明寺線に乘れる。一時間弱で到着するようで、楽勝である。落ち着いて車窓を楽しむ。河内堅上駅の桜が満開であった。河内ということは、大阪なのである。

先ずは駅前の商店街を抜け<道明寺天満宮>を目指す。最初は土師寺があり、そこへ道真公が伯母の覚寿尼さんをたびたび訪ねられ、道真公の亡きあと祟りをおそれ、天満宮が出来、土師寺も道明寺と改名し、天満宮も道明寺天満宮となったようである。立派な天満宮である。桜が多く、梅は無いのかと歩いて行くと、きちんと整備された梅園があった。さらに予想外に、白太夫社があり、「菅公大宰府への途次の道道案内をした従者白太夫を祀る」とあった。歌舞伎の世界と交差する。

この地で、大坂夏の陣で道明寺合戦というのがあったらしく、<大阪夏の陣400年道明寺合戦まつり>の宣伝看板があり、かなり力を入れているようである。

ところで<道明寺>は何処であろうかと近くのかたに尋ねたら、「尼寺さんですね」と関西弁でいわれ、「尼寺さん、良い響きだなあ。」と思う。歌舞伎の道明寺の場面から、こちらは、<道明寺>=道真公と思っているが、地元のかたにとっては、尼寺としての<道明寺>なのである。芝居とは離れた昔からある地元の尼寺さんなのである。地元ならではの響きである。

<道明寺>は尼寺さんらしく静かであった。本尊が、十一面観音菩薩であるが、18日と25日にしか拝観できないのだそうで、お寺のかたが気の毒がってくださる。今回の旅で、<道明寺>まで足を延ばせたのであるから、またご縁のあるときとする。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(4)

<旅籠屋>は、一般の旅人や武士が公用でない時に泊まり、食事がついている。今でいえば、一泊二食つきである。関宿の玉屋さんでは、坪庭と離れ座敷があり、食器も、石川県の輪島から取り寄せた、玉屋のシンボルの宝珠の紋が入っていた。<木賃宿>は、食事がなく、自分で食材を持ち込み自炊し、薪代などとして宿代を払うのである。

旧東海道を歩いていると、<高札場跡>というのを目にするし関宿にもあった。その場所は昔は「札(ふだ)の辻」と呼ばれ、その名前が交差点や町名として残っているところもある。木の板に、ご法度や、掟などを墨で書かれたもので、奈良の「山の辺の道」の旅で、奈良の興福寺の猿沢池方面に下りた三条通りの橋本町で<高札場>を見つけた。修学旅行の生徒さんで賑うお土産屋さんの近くである。現物が見れ、これで今はなくても想像が倍加する。

さて、関西本線の加茂駅からバスで、<岩船寺>に向かう。時間的には15分ほどで着いてしまうが、その短い時間の自然との出会いが楽しい。この辺りは京都府の木津川市で、この地の神社・仏閣を回るのは、車でないと数をこなせないのであるが、その分、行ったと言う満足感も湧く。<岩船寺>の境内は静かで、小雨の中でも赤が美しい色をみせる三重塔が目に入る。ゆっくりと三重塔を目指し、池を巡り歩く。「石室不動明王立像」が、小さいが正面奥の石板に彫られ、石の屋根と左右を石板に囲まれていたのが珍しかった。本尊の阿弥陀如来と四方を守る四天王の力強さとバランスがとれている。白象の上に坐している普賢菩薩がなんとも優美で、象はその優美さを誇って背に乗せ守っているようである。喧騒を離れこの世の平和な静寂を願っておられるような仏様たちであった。

お寺の方に、「浄瑠璃寺まで歩きたいのですがこの雨でも大丈夫でしょうか。」と尋ねると「大丈夫ですよ。階段したの道を左に進んでください。」とのこと、安心して歩みをすすめる。山門を下りた左手に神社があり、上ってみる。<春日神社>と、<白山神社>が並び、円成寺の二つ並んだ檜皮葺の社を思い出した。円成寺は<春日堂>と<白山堂>となっている。春日と白山が並ぶにはなにかいわれがあるのかもしれないがここまでとする。

<岩船寺>から<浄瑠璃寺>へ行くには、<岩船寺>を時計周りと反対周りの道があり、反対周りのほうが、距離的に短いのでそちらを教えてくれたようである。これからの道は<当尾(とうお)の石仏>を眺めつつの道なのである。柳生街道に比べると石仏や磨崖仏も小さくて可愛らしさがある。旅人と共に時々姿を表すといった感じである。表示の通り進んで行けばよい。

岩に彫られた不動明王立像も、別名<一願不動>とあり、一つだけ一心にお願すれば、その願いをかなえてくれるらしい。阿弥陀三尊磨崖像は<わらい仏>。本当に笑っておられる。ここの石仏は、庶民のささやかな日常の気持ちに寄り添って祈りを受けられ守られてきたおもむきがある。疲れも感じない程度で、<浄瑠璃寺>に着く。

しおりの説明によると、このお寺の礼拝のしかたがあり、東の三重塔の薬師如来に現実の苦悩の救済を願い、その前で振り返って中にある池越しに、彼岸の西方の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝とある。西方の阿弥陀堂には、九体の阿弥陀如来像があり、往生には九段階あるということのようである。

この「九体阿弥陀如来像」も「九体阿弥陀堂」も今では<浄瑠璃寺>だけにしか残っていない。藤原時代のもので国宝である。

<浄瑠璃寺>には、四秘仏があり、そのうちの「吉祥天女像」を拝観できた。五穀豊穣、天下泰平を授ける幸福の女神である。衣裳の色も想像がつくほど艶やかに残り、正面からの、そのふくよかなお顔とお姿は頼もしくさえあり、まさしく五穀豊穣、天下泰平の女神である。それでいながら、少し横から見ると気品と凛としたところがある。写真家の土門拳さんは、「仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。」とまで言われている。これは好みの問題でもあるが、偶然にも拝観でき幸せであった。

雑誌「太陽」の土門拳さんの特集をながめていたら、画家の堀文子さんが一文を寄せられていて、若い頃、土門拳さんに影響を受けられていたことを知る。土門拳さんのあの激しさと、堀文子さんのあの優しい色とがどこかで繋がっていたとは、意外であったが、嬉しかった。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(3)

<関宿旅籠玉屋歴史資料館>の隣が築120年の古民家のゲストハウスである。お酒屋さんがあるから、地酒もあるし、ここは、歩いてきて関宿に入り泊まって、次の朝草鞋を履くというのもいい。情報提供すれば、仲間が、いくつかのコースを考慮してくれるであろう。旧東海道をかなり飛び越して、先にこの辺りの歩きを提案することにする。

旅籠の会津屋さんが食事処になっていて、そこで食事をとる。お店の前が、国指定重要文化財の<地蔵院>で桜が美しかったが、東追分のほうが満開のようですとお店のかたが教えてくれる。お店の暖簾に「鈴鹿馬子唄」の一節が書かれていた。小万さんが主人公のようである。お店は地元の常連のかたが、飲みつつ歓談しており邪魔をするようで質問は止めた。

先ずは、<西追分>まで行ってもどろうと考えて進むと、観音院というお寺がある。そこで、2番目の案内人に声をかけられる。このお寺は今はほかのお寺の分院なのだそうである。昔は後方に見えている観音山にあり、こちらに移ってからは鐘楼が山にあるため、ご住職さん夫婦は大晦日には、除夜の鐘を鳴らす為に山に登り、年を越されたとか。今は無人で行事のある時、本院からお坊さんが来られるらしい。観音様が御本尊なのであろう。観音山といわれるだけに昔は栄えたお寺だったのであろう。観音山の下に<鈴鹿関>跡がある。

<鈴鹿関>が関宿の名前のもとのようである。この<鈴鹿関>は<不破関>、<愛発関>(その後<逢坂関>に変る)古代日本三関の一つである。<逢坂関>は歌にもでてくるのでどこかに印象づけられているが、鈴鹿といば<鈴鹿サーキット>である。

「関東」という呼び方は、この三関から東にある地域として「関東」となったのだそうで、あの和菓子屋さんの看板を考えられた人は優れた遊び心のあるかたである。こちらも、あのお店の前を通り後ろを振り向き、ニンマリしたいところであったが、残念ながら自力でのそこまでの奥行がなかった。時間的に<西追分>の休憩施設は閉じられていた。ここから、大和、伊賀街道へと続くのである。

ではとばかり、踵を返して東追分に向かう。途中<福蔵院>の門柱に「織田信孝卿菩提所」とある。織田信長の三男で、秀吉によって自害させられるが、その首をここに納め、信孝死後400年忌にお墓を建立したとある。もう一つ<小万の墓>と記念碑もあった。父の仇討を成し遂げた娘さんらしい。なるほど、それが「鈴鹿馬子唄」に残ったのである。信長さんの名前が出てくると、映画『忍びの者』『続・忍びの者』の信長役・城健三郎さんが浮かぶ。城健三郎さんは、若山富三郎さんの大映時代の芸名である。

<眺関亭>は5時までなので、急ぐ。関の家並みが眺められる場所である。<百六里庭>ともあり、江戸から約百六里の位置にある。さてさて、東追分に向かわなければ。気になることが一つあったが、その前で声をかけられ説明を受けたのである。関宿は、宿場町を残そうと始めて30年たつのだそうで、電信柱も町屋の後ろに移動させ、家を新しく直すにあたり、土台を残して復元させる場合の、柱のその継ぎ目なども教えてくれた。格子も千本格子とか、もっと細かい格子など。

この関には本陣が二つあり、参勤交代の上りと下りの二つの藩が泊っても大丈夫なだけの用意ができる宿であったこと。旅籠と木賃宿の違い。家康の御座所があり、家康は本陣ではなくそこに泊まり、家康の家よりも棟を高くしてはいけなかったこと。「関の山」の語源ともなった<関宿の山車>は、今は4基しかないが、山車全体を人が回すのではなく、山車の中間部分が回るようになっていて、京都から譲り受けたことは確かなのだが、京都のどこからとは記録にないそうである。山車が回るような仕掛けのあるものは初めて聴いた。

こちらがさらに知りたかったのは、家の前に、材木のような丸材を乗せた縮小したような引っ張る車があったのが何かである。伊勢神宮の式年遷宮が20年ごとにあり、そこで使われていた、四か所の鳥居の木が四か所に払下げになり、関宿は、宇治橋の鳥居の旧材をもらいうけるのだそうである。ということは、伊勢神宮の鳥居も木材は、40年間その役割を全うしているわけである。さらにもらいうけるところがあれば、さらに使われることとなる。これは聞いて嬉しかった。いくら伊勢神宮の神々のためとは云えども、選ばれた木が使われるわけであるが、贅沢だなあと思っていたのである。切られた以上は出来るだけ長く使われて欲しい。

そのもらい受けた旧材を東追分にある鳥居の建て替えに使うのである。そのため関宿の住民総出で<お木曳き>がおこなわれ、ミニチュアは、幼稚園生が曳くためのものだったのである。なるほど納得である。その行事が、今年、平成27年5月30日にある。5月23日から6月6日まで鳥居建て替え期間のようである。

東追分の鳥居は、伊勢への入口で「一の鳥居」と呼ばれ、広重の絵にも、この鳥居を潜って伊勢に向かう旅人が描かれていて、その道が階段で急なのである。実際にはどうかなのか、見たかったのである。辺りは、かなり暗くなってきている。熱心に教えて下さった方にお礼を言い東追分に向かう。これくらいの心意気でなければ、和をもって伝統を守っていくということは難しいであろう。

もしかすると江戸時代の関宿の夜のほうが、明るかったと思われるような暗さである。旅をすると、皆がいう。電気の消費をしているのがどこであるかがわかるわよね。駅以外はどこも暗いわよね。

これは寝静まった江戸の関宿と想像して歩く。直した家などは、車も格子戸の中にしまわれる様にしているところもある。どんどん歩いていく。ありました。東追分の「一の鳥居」。そこから伊勢街道は坂になっている。先はかなり深い闇である。

目的達成である。関宿は充分味わったが、仲間たちともう一度来たい場所である。亀山宿から歩いて関宿に入りたいものである。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(2)

関宿は、残りの時間を全てあてようと思って居たので、ゆっくりと表示板などを見ながら見学を試みる。いつもは、荷物は駅のロッカーに預けるが、熊野の旅あたりから、少し鍛えなければとリュックを背負ったままで歩く。旅人と思ってくれたのであろうか、関宿では三人の男性に、関宿についてのありがたいご教授を承った。メモしていないので、かなりのことは忘却のかなたであるが、皆さん関宿を守るための意気込みと継続へのねばり、そして誇りを感じさせてもらった。

驚くほど、宿場町が残っている。関駅から北に向かって真っすぐ進むと東西に伸びる宿場町の中町の町並みにぶつかる。そこから、ゆっくりと西へ向かう。時代劇の町屋のセットと思ってしまうほど、古い町屋形式の家が並ぶ。間口が狭く奥が長い形である。<関まちなみ資料館>で町屋の中の様子と保存の歴史的資料をみる。三人目の方の話しを聞いた後でのほうが良かった内容であるが、その方の説明を聞き終わったのが、夕暮れでもう暗くなっていたのである。

自転車をおされた男性が、ある町屋の瓦屋根を横から見るように勧めてくれる。見上げると瓦屋根が直線ではなく、少し丸みをおびたカーブをしている。さらに「関の戸」という看板のある和菓子屋さんの前で、その看板に注目するように教えてくれる。「関の戸」の看板の字は金で金箔を張られていて眩しいほどである。その文字が江戸側からはかな文字で京都側からは漢字なのである。江戸からの旅人には、京都に向かいますよと知らせ、京都からの旅人には、江戸に向かいますよと知らせているわけで、漢字と仮名で江戸と京を表す感覚が楽しい。そして帰りには、無料で上に上がると町並みが見える場所も教えてくれた。<眺閑亭>である。

せっかくなので和菓子屋さんで「関の戸」の和菓子を購入する。歌舞伎の『関の扉』と関係があるのか尋ねると、三つの<関の戸>があるといわれていると。銘菓の<関の戸>、相撲取りの<関ノ戸>、歌舞伎の<関の扉>である。そして、六代目歌右衛門さんが歌舞伎座で『関の扉』に出られた時に描いて頂いたという桜の色紙が飾られていた。今月の歌舞伎座の『六歌仙姿彩』には、『関の扉』の宗貞は後の僧正遍照で、小野小町、大伴黒主と重なっている。ただ、僧正遍照だけが老けてしまうが。

この和菓子は、380年間作り続けられている。阿波の和算盆をまぶしてある小さな甘さひかえめの和菓子である。その和菓子の説明書きに関宿の繁栄の様子が書かれていた。

東海道五十三次の内、四十七番目の関宿は、大和街道と参宮街道(伊勢別街道)の三つの街道が交わる宿場で、参勤交代やお伊勢参りの人々で賑わい、一日の往来客は一万人を超えていました。

 

看板の文字は、新しくしたばかりで、外に晒されているので金文字もくすんできてしまうため定期的に直しているそうで、光り輝く時にぶつかったわけである。

次は、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と歌われた旅籠玉屋の見学である。ここも、時代劇のセットにして人物を配置して想像してしまう楽しさである。驚いたのが、階段が急である。とてもではないが、「はい、はい」などといって駈け上がったり、下りたり出来る物ではない。江戸時代の人は小柄で足も小さかったので、出来たのであろうか。係りの方も今ではできませんよねと言われる。そして、藁ではなく、竹の火縄があった。時代小説に出て来たのである。藁よりも火持ちがよいそうで、竹の節から節まで薄く削ってそれを材料にして作るが、今はそれを作る人が一人しかいないとのことである。可笑しかったのは、旅籠でののみ除けの方法が書いてあり、その一つに、「からたちの実を一つ持って抱いて寝る事」とあった。効くのであろうか。「からたちの実」と「のみ」。

関宿については、もう少し滞在である。

 

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(1)

仲間たちが旧東海道歩きを始める前から、観光や、歴史の残っている町、大磯、小田原、三島などは行っていたのであるが、今回、加茂から岩船寺を経て浄瑠璃寺に行けることを知り、その途中の<亀山宿><関宿>を訪ねてから奈良に入る事とした。

名古屋からは、東海道新幹線か東海道本線で琵琶湖周辺を回っての旅が主で、関西本線は眼中になかったのである。これも、忍者の妖術のお蔭であろうか。仲間たちは、人数の揃わない時は単独でそれぞれが旧東海道を歩いているようである。私も単独で宿場巡りはすると伝えてあるので、情報を宜しくと言われている。

<亀山宿>で観光案内所に飛び込み、観光時間をはかる。次の電車の時間と町の様子から一時間半を取る。案内の方も<関宿>に比べると残っている町並みは少ないとのことである。

亀山宿と関宿のイラスト案内図と、亀山駅ぶらりマップをもらう。イラスト案内図に、<志賀直哉と亀山>とある。志賀さんの母が亀山の生まれで、志賀さんは若くして亡くなった母の面影を探し求め、この亀山に来ている。その時のことを、『暗夜行路』に描いているという。その場ではどうすることも出来ないので、先ず、亀山城跡を目指す。亀山城は、蝶の舞う姿にたとえられ<粉蝶城>とも呼ばれたそうであるが、今は多門櫓、堀、土居の一部が残るだけである。今の多門櫓は平成23・24年に修理されたわけで、志賀さんが訪ねたころはかなり朽ちていたのであろう。

彼は、亀山に降り、次の列車までの一時間半ばかりを俥で一通り町を見て廻った。亀山は彼の亡き母の郷里だった。それは高台の至って見すぼらしい町で、町見物は直ぐ済み、それから神社の建っている城跡の方へ行って見た。広重の五十三次にある大きい斜面の亀山を想っている謙作は、その景色でも見て行きたいと考えたが、よく場所が分らなかった。

 

その後、俥を鳥居の前に待たしてあるが、これは、多門櫓の下にあった亀山神社のことであろうか。謙作は、高台に上がり、掃除をしている婦人に母の実家の名前を言い尋ねるが、母のことは分らなかった。小説の中の主人公にとって、この部分はかなり重要であるが、そのことに触れると長くなるので止める。

主人公は、伊勢参りのあと亀山に寄っている。そして伊勢では古市に行き、「芝居で馴染みの油屋という宿屋に泊り」「伊勢音頭を見に行き」「古市の伊勢音頭も面白く思った」とある。芝居とは『伊勢音頭恋寝刃』である。今は古市には油屋もなく、大林寺に遊女お紺と孫福斎の比翼塚のお墓があるだけであるが、志賀さんの頃にはまだ油屋は残っていたわけである。

亀山の町は、志賀さんが訪ねた頃よりも整備され、古い物を残そうと頑張っておられる。亀山城は関氏の城下として発展し、東海道の江戸から数えて46番目の宿場町である。お城があるだけに明治に入って、廃城令により取り壊されているので、志賀さんが訪れたころは、見すぼらしく見えたのであろう。そして、母の昔の消息も分らなかっただけに、町の印象が主人公にとっては、良いものとして残らなかったのである。

宿の一部分の旧東海道も歩け、突然、46番目まで飛んでしまったが、江戸の旅人だけではなく、志賀直哉さんも訪れていたというので、記憶に残る宿場町になった。これを書くにあたり『暗夜行路』をパラパラめくってその部分を探し出したが、暗い。若さで読んでいたのであろうか。理解していたとは思えない。もう一回読み返したくもある。暗夜の路をもう一度。

亀山市歴史博物館が、駅から40分と遠いため、残念ながら詳しい歴史的なことは分らなかった。関宿に比べると、宿の道が、かなりジグザグである。地形的なものであろうか。関宿が1.8キロで亀山宿は2.5キロと長いが、本陣、脇本陣が各一軒で、紀行文にも「さびしき城下」と書かれているようである。今は広い道路が出来ているが、広重の絵のような地形だったのかもしれない。

伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-2)

<伊賀越資料館>に向かうが、途中に、木と瓦屋根の忍者の町ならではの西小学校がある。そして、明治時代の白いモダンな校舎の残る上野高校校門前には、作家の横光利一さんの「 横光利一 若き日の五年をこの校に学ぶ 」の碑があった。

 

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さらに、かつての藩の子弟の学校であろうか、<旧崇廣堂>なるものもあったが、<伊賀超資料館>へ急ぐ。この資料館の前の道に 「みぎいせみち/ひだりならへ」の道しるべがあり、伊勢と奈良を結ぶ道で、かつては人通りの多い道であり、この<鍵屋の辻>で敵討ちがあったということは、多くのひとの口の端にのぼり、三大敵討ちの一つに数えられたのがわかる。しかし、私も歌舞伎で観ていなければ、観光としては行かなかったかもしれない。

 

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資料館には、当時の街道の模型や、敵討ちの錦絵などもある。また、敵の河合又五郎の首を洗ったと言われる小さな池には、今は<河合又五郎首洗供養地蔵池>とあり、小さなお地蔵さんが祀られている。

 

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現藤十郎さんが鴈治郎さんの時の『伊賀越道中双六』上演の際ここを訪れられ、首洗い地蔵池で成功祈願をされていて、我當さん、秀太郎さんとの写真とサイン色紙が残されていた。文楽のほうも、二代目吉田玉男さん桐竹勘十郎さん、吉田和生さんも人形共々祈願に来られている写真があった。

 

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歌舞伎の舞台写真などで、敵討ちの背景に異常に高い石垣の上野城が描かれているが、実際の上野城を強調していたわけである。(当時は実際にここに石垣があったようです。)

数馬の茶屋で一服したかったが、先を急ぎ、上野駅方面へもどり、そこから東に向かい<芭蕉翁生家>へ。<芭蕉翁記念館>に、芭蕉が自ら作ったという献立表があったが、生家の方には、こうであったであろうというレプリカがあった。きちんとした献立なので驚いたのであるが、係りのかたの話によると、芭蕉は、若いころ侍屋敷で料理人として修業したことがあるのだそうで、生家裏に今は跡碑のみであるが、<無名庵>を弟子たちが作ってくれたお礼に自らの手で料理しご馳走したとのこと。これもまた、知らなかった芭蕉さんの一面である。

 

<芭蕉翁生家>内の裏にある釣月軒と無名庵跡

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記念館と生家の係りのかたに、「芭蕉さんは、忍者だったと思いますか」と尋ねたら、お二人とも、忍者ではなかったと答えられた。

私も忍者ではなかったと思う。ただし、忍者のいた地域で生まれ育っているなら、忍者という仕事がどういうものであるかということは解っていたであろう。代表的な「古池や蛙飛びこむ水の音」のように、音を俳句に入れてしまうという感性は、忍者の伊賀出身の人ならではのような気がする。そして、旅に明け暮れたのも、俳諧という技をもった人が、どこかで同郷への人々に寄り添っていたような気がするのである。井上ひさしさんはどんな芭蕉さんを書かれたのか、『芭蕉通夜舟』が読みたくなった。三津五郎さんが再演される予定であり、それを聞いたとき、思い入れが強いのであろうと楽しみにしていたが、今となっては叶わない。生家の係りの方が、上野駅から南側のお城とは反対側の街並みも是非歩いて欲しいのですと言われて地図に赤線を引いてくれたが、残念ながら全部は回れず、<上野天神宮>と寺町だけを通過して駅にもどった。

<上野天神宮>は、菅原道真公が主神である。松尾芭蕉が処女句集「貝おほひ」を奉納したといわれている。大きなお社であった。

 

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五つ庵があったうち一つだけ残っている<蓑虫庵>などは行けなかった。生家裏の<無名庵>が、義仲寺にある<無名庵>と同じ名というのも面白い。係りのかたが、名なぞなくて無いでよいということか、巴御前と関係があるのか、そこは解りませんとのことで、うなずける。旅の日程にも嘘があるし、俳聖芭蕉よりどこ吹く風というところがある芭蕉さんなのが良い。忍者が忍ぶ人であるだけに、芭蕉さんは、縛られない生き方、作風を模索されたような気がする伊賀の旅であった。

伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-1)

道成寺・紀三井寺~阪和線~関西本線~伊賀上野 で、加茂からの岩船寺~浄瑠璃寺への道程を見つけて、まずいと書いたが、その二日後には歩いていた。そうなるであろうと、まずいと思ったのであるが、旅は良好であった。その旅は置いておいて伊賀である。

そもそも<忍者>に引きずられたのは、 熊野古道の話題増殖 『RDG レッドデータガール』からである。次に来たのが、作者は植物について書きたかったと思われる忍者の小説があるという誘いで、借りてしまった『忍びの森』(武内涼著)。自分では選ばない本である。妖術はきらいなのであるが、妖怪、妖術が出てくる。確かに、植物が出てくる。忍者の存在する時代は、全て自然を利用しての生活である。手裏剣も、原料は自分たちで見つけ出し、忍者の集合体によってその使い勝手で制作して工夫したであろう。薬も保存食料も、その保存方法も考えだしていったのである。そういう点を踏まえると、植物にこだわるというのは納得できるが、こちらがその知識がないから読むのに苦労した。

先ずは、そもそも忍者とか、その歴史が解っていない。伊賀は、信長の伊賀攻めによって大打撃を被ったという事も知らなかった。小説の展開も、仲間なのか敵なのか、どんな妖術を使うのか、どいう戦いとなるのか、誰がやられてしまうのか、頭の中はフル回転である。仏教や仏像の解釈も出てくる。人としての情も出てくる。そいう意味では、頭の中の使わない部分を動かされた感じで面白くはあった。

そんなこんなから、今回の旅の最終は伊賀上野の上野市を訪れることとなったわけである。観光を調べたら、何んと<伊賀越資料館>というのが出て来た。昨年12月に観た国立劇場『伊賀越道中双六』のラストの現場である。「伊賀上野の仇討ち」であるから当然であるが、鍵屋ノ辻にある茶屋萬屋で待ち受け仇を討ったのである。<鍵屋の辻>にこの<伊賀越資料館>がある。茶屋萬屋の代わりに今は<数馬の茶屋>となっている。全然頭になかった。上野市駅から歩いて20分である。

さてどう回るか。開館時間を考慮して、上野城は中に入らず外からその姿を楽しみ、日本一とも言われる石垣の高さを上から下へと見下ろし、横からも眺める。確かに凄い。お城も美しい。

 

上野城

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そこから、芭蕉を讃える<俳聖殿>へ進み、外から眺める。檜皮葺の茸のような屋根は笠を表し、建物自体を芭蕉の姿に見立てて作られている。

その後、一番開館時間の早い<芭蕉翁記念館>へと移動。旅行地のどこへいっても芭蕉の歌碑があり、食傷気味であったが、「企画展 俳諧と絵画ー見て愉しむ俳句の世界ー」を見、係りのかたとお話ししたら、違う面の芭蕉が見えてくる。芭蕉は弟子の許六に絵を習ったとある。弟子に絵を習ったというところが気に入る。俳聖と言われているのに、身体を風が通っていく感じいい。死んだら自分の亡骸は義仲寺にと遺言を残し義仲の隣に眠っている。義仲寺に行ったときから疑問であった。木曽義仲のことが好きだったのであろうか。係りのかたは、木曽義仲なのか、義仲寺の周囲の自然だったのか、両方だったのか、解かりませんと。そう、芭蕉さんには二面性というか、こうであるという規制できないところがある。今回はそこが気に入った。

<忍者博物館>。忍者がどうやって城内に忍び込むかとか、道具などをどう使うかなどがわかる。基本的に情報を収集するのが仕事である。忍者は普段は、農民として働いていて仕事の依頼があれば忍者として働くのである。『忍者の教科書』というのがあったので購入してきた。伊賀・甲賀に伝わる忍術書『萬川集海(まんせんしゅうかい)』なるものを、解かりやすく伝えてくれている。一回読んだだけでは、無理だが、疑問に思ったとき読み返せば手助けしてくれそうである。司馬遼太郎さんの短編小説『芦雪を殺す』は、短編集『最後の伊賀忍者』の中に入っていて、司馬さんの忍者物に触れるきっかけともなった。

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上忍と下忍があるのは知っていたが、司馬さんは、上忍は下忍を仕事先に派遣する派遣業とし、下忍が、過酷な修業によって身につけた技であるにも関わらず、報われない仕事と客観視されている。現代に通ずる組織論と、忍者の技の見せ所の二律背反が面白い。

こういう剣術であったというのとは違い、その技は、風の如く伝えられている。表には出ない忍者らしいところであり、想像過多で創作できるのも忍者物ならではである。こうなると、山田風太郎さんも読まねばならないか。友人に、「風太郎さんまだ読んで無いの?」と軽く聞かれた。読んでません。忍者なんてと思っていたのであるから。忍者を<草の者>という言い方があるが、この呼び方のほうが、儚さを感じさせる。しかし、過酷な仕事である。

 

2015年4月6日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

道成寺・紀三井寺~阪和線~関西本線~伊賀上野(4)

<道成寺><安珍清姫鐘巻縁起>で話は終わらない。この後この鐘はどうなったのか。二代目の鐘が再興されるが、これが戦国時代を経て流浪の旅となり、今は京都の妙満寺蔵となっているのである。

鐘が再興され、その鐘供養の日に、美しい白拍子が現れる。実はそれは、清姫の亡霊であったという、能、歌舞伎などの芸能で、さらに鐘は注目の対象となる。この<道成寺>ものが数多く創作され、今現在、観るものを楽しませてくれている。 <絵解き説法>の部屋は縁起堂といわれ、様々の道成寺ものの演者の写真などが奉納されている。

その中で、<福島県白河市歌念仏安珍踊根田保存会>の写真がある。安珍は奥州白河の出身で、そこに安珍を供養する念仏踊りが残っているのである。さらに、沖縄の組踊にも、『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』というのがある。熊野権現を信望する山伏修験者によって、語り伝えられ、沖縄の物語りと重なって作りあげられていったのである。この辺は、どなたかが道成寺もの演られるとき、もう一度しっかり探ることとする。

<安珍清姫鐘巻縁起>の前から<道成寺>はあったわけで、では、開設由来はないのかといえば、これまた、<宮子姫髪長譚>というのがある。しかし書くのはやめる。一つくらいは、行ったときに知るのも楽しいではないか。和歌山と大阪が近いと解ったし、関西空港って、和歌山と大阪の間? 奈良へ来るときは、京都経由だったが、関西本線使えば、連絡悪いが、忍者に近いではないか。今、忍者にはまっている。市川雷蔵さんの映画に近づいているともいえる。

<紀三井寺>。西国観音霊場第二番札所である。

 

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結縁坂(けちえんざか)

 

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今回の旅では4人ほど御朱印帳を持参していた。梵字もあったりして、墨と朱印が似合っていなかなかいいものである。ただ自分ではやろうとは思わない。楼門、鐘楼、多宝塔の朱色が鮮やかである。紀州の湧き出る三つの霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)から<紀三井寺>と親しまれているとのこと。新仏殿の御本尊は、日本最大の木像で、金色が眩しい大千手十一面観音菩薩である。ここを開基された僧は、はるばる唐から渡られた為光上人とのことである。桜もまだであった。

 

三つの井戸の一つ清浄水

 

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ついに阪和線である。そして、天王寺駅から加茂駅までは大和路線である。奈良駅で降りず通過してしまうのが不思議な気持ちである。木津駅から加茂駅への風景が山の中に入って行く感じである。加茂駅で乗り換えるとき、浄瑠璃寺と岩船寺の写真があり、加茂から行けるようである。奈良からばかりと思って居た。改札で、行き方のパンフを聞く。あった。まずい。また見つけてしまった。加茂から、岩船寺、浄瑠璃寺とたどり、奈良へ出ればいいのである。

外は暗くなっていく。山の中にどんどん分け入っていく感じである。石川五右衛門が伊賀の生まれで、忍者であったという説もある。知らなかった。

観光的には、伊賀上野から、伊賀鉄道で上野市駅までいかなければならないのである。そこは、芭蕉の生まれたところでもある。伊賀鉄道の電車の網棚には、伊賀忍者の人形が目立って隠れていた。色がショッキングピンクや黄色なのである。難しい。隠れていなくてはいけないが、見つけてもらわないと面白がってもらえない。手裏剣シュシュシュ。

 

つづき→   2015年4月3日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

神倉神社・道成寺・紀三井寺~阪和線~関西本線~伊賀上野(3)

昨年の旅では登れなかった<神倉神社>に登ることが出来た。美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮) で書いた明治大学での1月11日に行われた『第8回 熊野学フォーラム」にも参加した。<「がま蛙神」はなぜ熊野に出現したのか!> 山折哲夫さん、加賀見幸子さん、林雅彦さん、山本殖生(しげお)さんの4人の方が講演をされ、そのあと4人の方が自由に意見交換されたのであるが、なぜ<がま蛙神>なのかという結論は出なかった。カエルは顔や姿から好かれない面があるが、月には、うさぎではなくカエルが住んで居るというおとぎ話の残る国もあるらしい。

朝、小雨が降っていて、石段の滑るのが心配なので時間的ゆとりをとって予定より早く神社に向かった。三大社派は、本宮の熊野古道を歩くかどうかで時間配分が違うので、昨夜から別行動と決めていた。一度歩いているので道は解っているため今回も歩いて神倉神社下までスムーズに行ける。さて石段である。手すりがなく、不揃い石なので、ゆっくり慎重に登る。途中から石段の幅が広くなる。すると、カエルの綺麗な声が聞こえる。早朝で湿り気があり、石段と大きな<ゴトビキ岩>が反響効果を作ってくれているのか、私にとっては、<ゴトビキ岩>は俺様たちの守り神、ケロ、ケロ、ケロと聞こえる。自然界の調和した象徴のようにとれた。

 

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<神倉神社>に到達すると、眼下には、新宮の町があり、先には、熊野灘が霞んでいる。ここから、松明を持った人々が駆け降りる火祭りは、市内からは、火山が爆発したかのようにも見えるという。自然界の持つ威力を認識し、祈り鎮める。

<ゴトビキ岩>に静かな平和をと思いを込めて手を触れる。帰りの石段で、再びカエルの鳴き声で送ってくれた。神倉神社といえば、カエルしかない。

無事お詣りもでき、荷物を取りにもどり、次の目的地へ向かう。当地の新聞記事に、東くめさんの童謡『はとぽっぽ』が、4月からお昼のチャイムとしてながされるとあった。これで、歌碑の童謡もよみがえるわけである。三重県の亀山駅から和歌山駅までを紀勢本線、途中の新宮駅から和歌山駅までを<きのくに線>と愛称があるらしい。車中の路線案内に<きのくに線>とあり帰ってきてから調べたら、そういう事であった。頭の体操と考えればよいが、ややこしい。二つ名のある路線ということだ。ただあまりブツブツ切って欲しくない。ブツブツ。

電車からの海側の景色がいい。橋杭岩を眺めるのは三度目である。山もいいが、海もいい。山には桜の木が飛び飛びに満開で春の色を添えてくれる。旅の友が多いのも楽しいが、どういうわけか風景が残らないのである。目よりも、口と耳の活躍であるから。紀伊田辺駅前に武蔵坊弁慶の像があるというので降りる。

『義経記』に、熊野別当家の嫡子で幼名を鬼若といったと記述があることから、田辺が出生地とされているとのこと。紀伊田辺駅周辺は賑やかである。この辺りで、一日とってもいいのかもしれない。<まちナビ音声ガイド>なるものも、レンタルしているとある。

 

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田辺から南部(みなべ)、岩代、切目、印南(いなみ)、名田、上野、塩屋をへて日高川河口までを<清姫海岸>というとのこと。<道成寺>の『道成寺絵とき本』に載っていた。紀州路の最も風光明美な路線とある。清姫が裾乱し素足となり安珍を追った場所で、風光明美のなか、清姫の形相は次第に変っていったことになる。その場所であったかどうかは定かではないが、座席のない広い窓からしばし窓外の風景を楽しんだ箇所もあった。ただ、日高川を渡るところを注意していたのであるが、渡った所は想像していた日高川よりずっと細い川であった。

<道成寺>の宝仏殿で、<絵解き説法>を聞くことができた。時間が決まっているのですかとお聞きしたら、ご本尊を拝観したあとで始めますよとのこと。よかった。ここでどの位時間がかかるのかが心配だったのであるが、予定通り進めそうである。奈良時代の初代本尊千手観音菩薩は本堂におられ、平安時代の現本尊千手観音菩薩(国宝)は間近で拝観できる。明るいので、手に持たれている物の一つ一つがよくわかる。身の中心には両手で薬を持たれている。一番下の右手は、何も持たず優雅に優しく手を広げておられる。このお寺の説明をされ、自由に他の仏像もゆっくり拝観したころに声がかかり、別室で<絵解き説法>が始まる。

美しい修業僧・安珍が、熊野詣での途中で泊まった屋敷の娘に惚れられ、帰りに必ず寄ります。想いはその時にと約束するが、寄らずに帰ってしまったので、清姫は蛇に変身して日高川を渡り、安珍が逃げ込んだ道成寺では同情して鐘の中に隠れさせたが、蛇になった清姫は、鐘に巻き付き焼き殺してしまう。今も安珍塚と、鐘巻の跡が残っている。あの世で安珍は清姫と夫婦にされ蛇の姿で、道成寺の住職の夢枕に現れる。住職が弔って二人を邪道から解脱させ、目出度く二人は、天上界で結ばれるのである。説法として、妻を家の宝とすれば家も繁栄し、家庭は妻方極楽の浄土となるという教えである。

昔は、<絵解き説法>をするお寺が多々あったようであるが、今はこの、<道成寺>だけである。絵巻をくるくる回して、解かりやすく楽しい説法の一つの形である。

 

「道成寺絵とき本」

 

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串本・無量寺~紀勢本線~阪和線~関西本線~伊賀上野(2) 

2日目の朝、なばなの里派と別れる。

新宮駅で熊野三大社派は那智へと向かい、フリー孤独派は、串本の<無量寺>に向かうがその前の空き時間に<徐福公園>にダッシュ。

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<無量寺>を訪ねようと思ったのは、前回の熊野の旅の時、「佐藤春夫記念館」で手にしたチラシである。大きな虎の半身図の墨絵の横に<芦雪寺>とある。正確には<無量寺>でそこに<応挙芦雪館>があり、そこでこの虎図に会えるらしい。龍図もあり、筆は長沢芦雪である。チラシは虎の大きな顔の前に大きな爪を立てた前足があり目は獲物を狙う睨みがある。ところが、なぜかその顔は「何やってるのよ」と、頭をポンと叩きたくなるような雰囲気なのである。長沢芦雪も記憶にない名前である。いつか行けたらと思っていたら、早くに実現した。

串本は、本州の最南端であった。<無量寺>は紀勢本線串本駅から徒歩10分であるが、人に道を尋ねる。原画は収蔵庫に保管してあり、雨の日は見せてもらえない。雨が降りそうなので、先に収蔵庫の原画を見せてもらう。

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<無量寺>は、富士爆発の直前、南紀に大津波があり、この無量寺も流されてしまい、40年後に愚海和尚が本堂を再建し、友人である円山応挙に襖絵を頼む。多忙の応挙は自分の作品を持たせ、弟子の芦雪を代わりに行かせるのである。芦雪が本堂の中の間の左右のふすまに描いたのが、虎図と龍図である。龍図も龍の顔と爪を伸ばした大きな前足だけ描かれ、身体の部分は墨をふすまを立てて流し、激しい風を巻き起こしているような感じである。

絵葉書入れの龍と虎

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虎図の裏側に猫が何匹か描かれ、その一匹が池の魚を狙っているような、ちょっと脅かしてやろうかというような襖絵になっていて「薔薇図」としている。そう言われれば左上に薔薇が描かれている。しかし猫に目がいく。何か芦雪に遊ばれているような気がする。師匠である円山応挙の緻密な絵と比べると、明らかに長沢芦雪の絵には、応挙には無い枠を超えた自由さがある。

収蔵庫のあと、<応挙芦雪館>を見せてもらう。そこで芦雪を取り上げたテレビ番組のビデオを見ていると、虎図は、裏側の襖絵の魚を狙っていた猫を、魚側から見た図であると解説していた。<見た目>の手法である。<見た目>は岡本喜八監督の映画の撮り方でも出て来たので納得できた。たとえば、引き出しを開けるのを、引き出しの中から撮るという手法である。そうなのである。あの虎の構図は狙われたものから見たと思えば納得できるのである。

この館でもう一つ楽しませてもらったものがある。それは、熊谷守一さんからの前住職さんへの年賀はがきが展示されていたのである。

このあと本堂で、デジタル再生画の虎図龍図の襖絵を見せてもらうのである。良い状態で長く保存するために、色々なことを考慮しなくてはならない訳である。

芦雪さんは、南紀ではこの<無量寺>だけではなく、幾つかのお寺にも襖絵を描いている。南紀での画作は師匠の応挙さんの名代として、それでいながら芦雪さん自身の絵を見つける旅であったように思える。円山応挙さんの虎図『遊虎図』が、四国の金刀比羅宮で見れるが、芦雪さんのほうが面白さがある。

この芦雪さん司馬遼太郎さんの小説になっていた。『芦雪を殺す』。今回実際に芦雪さんの絵を見て、遊び心があり、これは苦しんで苦しんで到達したという絵ではなく、どこかゆとりがあり、才に任せるところがあると思えた。芦雪さんは、旅先の大阪で急死しており、殺されたという説もある。司馬さんは、小説で芦雪さんの死を手の込んだ形で死の原因を作っていて想像していない設定でそうくるのかと感心する。そして、最後は、芦雪の女房のつもりのお里の<見た目>で結んでいる。

<無量寺>のあと、串本駅から歩いて25分位の海に突き立つ<橋杭岩>(はしくいいわ)を見に行こうと思ったが、雨が降り始めたので止めて電車の中からの見学とした。新宮へもどるので、車中から2回見れたわけで良しとする。<橋杭岩>まで行けば新宮へは遅く着くから、こちらのことは気にせずそちらだけで夕食はどうぞと伝えておいたが、新宮駅に着くと、見慣れた人達が前を行く。どうやら那智から同じ電車だったようだ。那智の滝を下りたところで雨となったようで、なんとか雨を避けて歩けたようである。

食事をしつつ、次の日の雨の場合の予定を検討している。こちらは、神倉神社に行くために新宮までもどる予定にしたので、早朝に<神倉神社>に行き、<道成寺>に向かうこととし、そこで別れを告げる。

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