『更級日記』から「さらしなの里」へ(5)

京の都の自宅についた筆者はまだ落ち着かないのに母に早く物語をさがして下さいとたのみます。三条の宮に仕えていた親戚の人が宮からいただいたものを届けてくれたりします。

そしてついに田舎から来ていたおばを訪ねた時、『源氏物語』の50余巻とその他の物語もいただけたのです。うれしくてうれしくて『源氏物語』をながめる心地は「后の位を得たといっても、その喜びはこれほどではないでしょう。」と記しています。こもりっきりで読みふけります。物語の文章なども空で思い出せるほどです。

17、8歳で仏の道を学び仏へのおつとめをする娘さんたちもいるのに、筆者はそんな気はありません。年に一度でもよいから光源氏のような方に、通っていただき、浮舟の女君のように隠れて暮らし季節の変化に応じて文をいただけたらとひたすらおもっているのです。

そんなおり父が常陸介に任官となり、永久の別れかもとたいそう悲しくてつらい思いをします。父を想うさみしさの中お寺参りをするようになりますが、母が古風な人で怖がり、石山奈良の初瀬など遠くは連れて行ってはくれません。そうこうしているうちに待ちに待った父が無事帰京してくれました。どんなにうれしかったか。

父はそれを機会に退官して隠居し、母は尼となって別の部屋で暮らす生活となりました。筆者は人にすすめられ宮仕えをします。なんとか宮仕えに慣れようとしますが、親がどういうことからか退官させてしまいます。

そして今までの自分をかえりみて反省します。「光源氏ほどの人はこの世においでになったであろうか。薫大将が浮舟を宇治に隠し置かれたことなども、実際にはないのがこの世なのである。なんと気ちがいじみていたことか。」

そして宮からのお召しもあり再び時々客人のように別扱いで出仕するようになります。

そして結婚し、それからは幼い子の成長を願って石山へもでかけます。途中の逢坂の関では、かつての帰京の旅の時も同じ冬であったと思い出したりしています。

大嘗会の御禊(だいじょうえのごけい)があるというので見物のため人々が集まるなか、初瀬に筆者は向かいます。兄弟たちは一代に一度しかないことなのにその日に出かけるとはとあきれます。しかし夫(橘俊通)は「それぞれの考え方で、思うようにしたらいい」と言ってくれるのです。筆者も大変喜んでいますが、きちんと妻の意思を尊重してくれる人だったのにはちょっと意外で驚きです。

宇治では筆者は『源氏物語』のことを思い出し、風情のあるところで浮舟の女君はこういうところにいらしたのかと物語の世界を今は客観的に思い起こしています。それから東大寺石上神社のお詣りし、初瀬寺に籠ります。

その後も鞍馬石山初瀬太秦(うずまさ)に籠ったりしますが、年数もたち病がちになります。そんなとき願っていた夫の任官がきまります。予想していたのとは違い、父が何回も任ぜられた東国よりは近いところですが。(信濃守となるが場所は記していなくて暗示している)任国に長男を連れて一緒に出発しました。夫は8月27日に立ち、翌年の4月に無事帰京し、9月25日からわずらいだして、10月5日にははかなくも亡くなってしまうのです。

「夫を亡くした悲しい気もちというものは、この世にくらべるものがあろうとは思えません。」

そんな辛い日々の中で一つ頼みに思われることがありました。阿弥陀仏が夢にお立ちになられ「それでは、こんどは帰って、あとでお迎えにこよう」といわれたのです。この夢ばかりを後世の頼みとします。

たいそう暗い夜6番目にあたる甥が訪ねて来たのが珍しく思われて次の歌を口ずさみます。

月も出でで闇に暮れたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ (月も出ない闇の姨捨山にどうしてお前は今宵たづねてくれたのであろう)

この歌の姨捨から更級日記としたのではないかという説が有力のようです。信濃守であった夫ももういないということから「も出でで闇に暮れたる姨捨」のさらしなの里である場所と筆者の状況をも重ねているようにおもえます。姨捨さらしな筆者。この関係がくるくる循環してみえてきます。

筆者は物語に没頭し、信心にも熱心になりますが、なんであんなに物語にとらわれてもっと仏の道を学ばなかったのであろうかと後悔します。それが筆者の生き方だったのです。夫はそうした彼女を認めていたのでしょう。なげきつつも、「そうなんです、だから私は夫の死がこんなにも辛いんです」と言っているようにもとれるのです。

宮仕いの時のことで印象的な場面は、親しい友人達と話している時、知らない人がそっと話しかけてきます。月のない暗い夜で風情があるといいます。そして春秋の月の様子を語り合うのである。筆者が心にとめた一場面だったのでしょう。そして筆者はこうした話ををかわせる世界が心地よく感じていたことがわかります。今まで読んだ物語の蓄積した世界と現実が上手く重なった空間でもあります。

更級日記』は物語の読者の一つの形を現わしているともいえるでしょう。ひとりの読者という類型を日記という形式で論じてさえいるようにおもえる。読者という立場を無意識に表現してくれています。そこもこの作品の面白いところです。

更級日記』は藤原定家が書き写したため現在まで残されました。その本は今、天皇家の宝物として宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されています。

追記: 筆者は親戚の反対を押し切っても長谷寺にお詣りに出立します。石上神宮(いそのかみじんぐう)にも寄りますが、荒れ果てていたと記しています。その夜山辺(やまのべ)というところのお寺に宿泊。筆者は山の辺の道を使っていたのですね。山の辺の道を歩いた時を思い出し、筆者との距離がさらに近くなりました。

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追記2: さらしなの里からは健脚の松尾芭蕉さんに『更科紀行』で深川の芭蕉庵にもどってもらいます。

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8月11日に美濃の鵜沼を出立し木曽路を通り、さらしなの月をみるために8月15日には姨捨で宿泊。月を満喫して善光寺に詣り、江戸の深川芭蕉庵に着いたのが8月20日でした。

追記3 芭蕉庵ゆかりの地

芭蕉記念館芭蕉稲荷・芭蕉稲荷の上の青丸は芭蕉庵史跡展望庭園採荼庵跡(さいとあんあと)。翌年の元禄2年3月27日採荼庵から『奥の細道』への旅立ちとなるのです。

『更級日記』にて京の都へ(4)

平安時代に書かれた『更級日記』の筆者は、菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)とされています。お父さんの菅原孝標は貴族の役人で、地方を治めるために任を受けて上総介(かずさのすけ)として赴任していました。娘も一緒についてきていてその任期が終わり京にもどることになります。任地は今の千葉県市原市付近とされ、娘は13才です。

任期が何年だったのかはわかりませんが、筆者は、あづま路のはてよりももっと奥で自分は世間しらずの田舎者と思っています。そんな娘心をなぐさめてくれたのが物語です。

特に都で流行っているという『源氏物語』に心ひかれています。周囲からその物語の一部を聞き知って、早く都に帰れて全部読めますように薬師仏にお祈りまでしています。光源氏にあこがれ、現代にも通じるような娘さんだったのです。

出立は9月3日で京都に入ったのが12月2日ですから約3ヶ月の旅です。長い旅です。

上総の国 *ふりかえると薬師様が見え人知れず泣く 

下総の国(いかた、ままの長者跡、くろとの浜、太井川のまつさとの渡し)*お産をした乳母と分れる

→ 武蔵の国(竹芝の坂、あすだ川の渡し)*筆者はあすだ川を業平が「いざこと問はむみやこどり」と詠んだすみだ川と勘違いしている 

→ 相模の国(にしとみ、唐土が原、足柄山)*やっとの思いで足柄山を越える 

→ 駿河の国(関山、横走の関、富士山、清見が関、田子の浦、大井川の渡し、富士川、ぬまじり)*ぬまじりをでてから筆者は患う 

→ 遠江の国(さやの中山、天竜川、浜名の橋、いのはな坂)*天竜川を渡る前数日滞在し筆者の病いおさまる 

→ 三河の国(高師の浜、八つ橋、二むらの山、宮地山、しかすがのわたり)*八つ橋は名ばかりで橋もなく見どころもないが宮地山は10月末で紅葉が残っていて美しかった

→ 尾張の国(鳴海の浦、墨俣の渡し)*鳴海の浦では潮が満ちないうちにと走る 

→ 美濃の国(野がみ、不破の関、あつみの山)*のがみでは雪がふる 

→ 近江の国(みつさかの山、犬上、神崎、野洲、くるもと、湖上になでしまと竹生島、勢多の橋、粟津)*勢多の橋は全部くずれていて渡るのに難渋 

→ 京の都に入る(逢坂の関)その夜、三条の宮(一条天皇の皇女修子内親王)のお邸の西にある家に到着。*家はあれていて深山の木のような樹木があり都の中とは思えない有様

平安時代と江戸時代の東海道の道筋はやはりちがっています。三カ月ですから病がおこることもありました。武蔵の国は今の東京をふくんでいますが「葦や萩のみが高く生えて、馬に乗って持った弓の上端部が見えぬまで、高く生い茂っていて、そんな中を分けていく」とあります。

富士山については次のように表現しています。

「普通の山とはすっかりちがった山の姿が、紺青(こんじょう)を塗ったようですのに、頂には消えるときもない雪が降り積もっておりますので、色の濃い衣に白い相(あこめ)を着たように見えており、山頂の少し平らになっている部分からは煙が立ちのぼっております。夕暮れには、火の燃え立っているのも見られます。」

たくさんの国々を通り過ぎてきたが、駿河の清見が関(きよみがせき)と逢坂の関(おうさかのせき)ほどいいところはないとも記しています。

美しい風景も通過しますが、江戸時代のように宿場があって宿屋に泊まるという状態ではなく仮小屋のときもあるようで、時には仮小屋が浮いてしまうくらい雨が降ったりもします。大変な旅であったのが想像出来ます。のちに父親が再び常陸介(ひたちのすけ)として任官しますが、その別れにもう逢えないのではないかと泣き崩れます。よくわかります。

追記: 清見が関は現在の清見寺(せいけんじ)あたりであったようです。江戸時代の興津宿(おきつじゅく)です。残念ながら更級日記の筆者が素晴らしいと言った風景ではありません。清見寺の総門先に東海道線が走りそれを渡って境内に入ります。見どころの多い寺院です。

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追記2: 逢坂の関の風景も史跡のみです。

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逢坂の関源氏物語関屋では空蝉(うつせみ)との再会の場でもある。常陸介となった夫と共に下った空蝉が戻る途中、光源氏石山寺に参詣に向かう途中、この逢坂の関で出会うのである。まだ筆者はその場面を知らないなら、源氏物語を手にして読んだとき、あの美しいところだと思ったことであろう。女性達が夢中になるだけのしかけは物語としてきちんと計算されている。

追記3: 誰が出会って逢坂と名前がついたのか気にかかります。写真を整理していて見つかりました。

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日本書紀』 親功皇后の将軍・武内宿禰(たけうちのすくね)がこの地で忍熊王(おしくまのみこ)とばったり出会ったことに由来とあります。筆者が京に戻った時はまだ関寺は建設途中でした。次に石山寺に向かうときには立派にでき上っていました。

映画『わが母の記』から『更級日記』(3)

映画『わが母の記』から井上靖さんの『姥捨』にたどり着いたがそこからどこへ行ったのか。

姥捨』の<私>は場所的に姥捨駅もその附近も知らなかった。母の言葉がきっかけで信州を旅する時は車窓から姥捨の風景をとらえるようになった。

「丘陵の中腹にある姥捨という小駅を通過する度に、そこから一望のもとに見降ろせる善光寺平(ぜんこうじだいら)や、その平原を蛇の腹のような冷たい光を見せながらその名の如く曲がりくねって流れている千曲川(ちくまがわ)を、他の場所の風景のように無心には眺めることができなかった。」

実際にはここに書かれている通りの風景であるが当時棚田が今のような姿であったかどうかはわからない。<私>が無心になれないのは、その場所には老いた母が座っていて、ある時には「自分が母を背負い、その附近をさまよい歩いている情景を眼に浮かべた。」ここは観月の場所でもあるが、<私>はそのことには殆ど関心をもたなかった。

<私>はその心持ちのまま、その後、志賀高原に行った帰りに戸倉温泉に泊まり、車で姥捨駅にむかいそこで降りて運転手に案内されて長楽寺にむかうのである。眼にする山々は紅葉していた。

道は自然に巨大な岩石の上に出た。捨てられた老婆が石になったとされる姥石の頂上である。そこで善光寺平の美しい秋の眺望を見下ろしている。そこから降りて長楽寺の庫裡(くり)の前にで声をかけるが返事がないので、観月堂で休む。運転手の「月より紅葉の方がよさそうですね」との言葉に、<私>は同意するのである。

道筋をいえばこんな感じなのである。私は暑い時期に姨捨駅(篠ノ井線)から長楽寺に歩いていったのであるが、そんな感じであったと思い出させてもらった。

姥捨駅の名前にひきつけられ、車窓から見たその風景の棚田を歩いてみたいと実行したのである。暑くて棚田を散策するのは風流とは言えなかった。その旅の時に手に入れた本があったのを思い出した。『地名遺産 さらしな ~都人のあこがれ、そして今』(大谷善邦著)である。長楽寺の後に行った「おばすて観光会館」で購入したのであろう。

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きちんと読んでいなかったのである。大変わかりやすくまとめられている本で奈良、平安のころから<さらしな>の地名が知られていてそのさらしの里(更級郡)の一部が<姨捨>なのだそうである。地元では冠着山(かむきりやま)と呼んでいる山が都人には姨捨山として知られていたらしいのです。

井上靖さんも棄老伝説は各地にあったがそれが一つに集約され、古代は小長谷山、中世は冠着山が姨捨山となったとしている。映画『わが母の記』の八重さんが月の名称なら捨てられてもいいといったように、美しい月の光に包まれた場所というのが棄老伝説の重要な要素であったのかもしれない。さらに雪に包まれて静かに眠る場所であることも。

地名遺産 さらしな ~都人のあこがれ、そして今』では<さらしな>についていろいろな角度から書かれていて『更級日記(さらしなにっき)』にも触れられていた。

「最初の約5分の1は、父親の任が解けて都に戻るまでの、今の東海道をたどる旅でのエピソードなどが紹介されています。」

東海道の旅。平安時代の東海道の旅を垣間見れるのである。即反応しました。手もとにある『更級日記』の現代語訳の本を開いたらその訳者が井上靖さんでした。ここまでひっぱてくれたのは井上靖さんのあやつりの糸だったのでしょうか。素敵なあやつり糸でした。

追記: 千曲市が昨年日本遺産になっていました。

「月の都 千曲」が令和2年度文化庁日本遺産に認定されました | 千曲市 (chikuma.lg.jp)

 追記2:

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水上バス・浜離宮恩賜庭園~浅草

歌舞伎座観劇の後、ランチをして浜離宮恩賜庭園へ。飲食店を応援しようとのおもいがあるが、友人たちとの食事はやめている。一人で席を独占するのも気が引けるが初めてのお店に入ってみると、検温、消毒あり。広くて四人席にひとりでも気にならない。後から年輩の男性がひとり入店しビールを飲みながら次々とメニューを注文していく。テーブルの料理の写真を写している。お一人様に慣れているのかも。

お店を出ようとすると年輩のご婦人が入ろうかどうしようかと迷っておられる。お店のかたが声をかけられていた。お一人様いいとおもう。人数多い方が儲けがあるかもしれないが、お一人様は滞在時間が短い。

久しぶりの浜離宮恩賜庭園。入口から少し斜め後方をながめると中銀カプセルタワービルがみえる。

黒川紀章さんが設計したカプセル型の集合住宅である。どこかの美術館で紹介されていて面白いと思ったのであるが、街歩きをしていて突然この建物がみえた。ここにあったのかと嬉しくなったが、今回も確かこの辺かなと振り向いたらあった。

庭園の中に水上バス乗り場あったのを思い出しチケット売り場でたずねると、浅草行きが40分後にあり、左手に10分ほど歩くと乗り場とのこと。庭園は紅葉にはまだ早く、お花畑のコスモスを眺めつつ散策して10分前に水上バスの乗り場へ。自動販売機で乗船券を購入。ほどなく水上バスが到着。パンフレットは品切れとのこと。

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水上バスは、浅草に向かうが、日の出桟橋に寄ってから浅草に向かう。途中竹芝桟橋の案内があり、伊豆大島へ行く時利用したので懐かしい。レインボーブリッジがみえる。日の出桟橋で乗車客を乗せUターンして浅草へ。

フジテレビ。パレットタウンの観覧車。左手東京タワーで正面にスカイツリーが見える。築地大橋勝鬨橋。昨年の5月に隅田川水辺テラスを歩いた時、この勝鬨橋から始めたのである。佃大橋。右手が佃島で住吉神社の赤い鳥居が頭を出している。中央大橋。スカイツリーが近くなってくる。永代橋。左手に日本橋川。ここも日本橋から神田川コースで舟での橋めぐりにいきました。隅田川大橋清洲橋。右手に小名木川で見える橋が萬年橋。

左右の隅田水辺テラスの風景が歩いた時を思い出させる。色々な案内板があった。なるほど、ふ~ん、ほうー、などと楽しみつつ歩いたのである。塗り替え作業の橋が幾つかあり被いがしてあったりしたが全て塗り替えが完了されていた。

新大橋両国橋。左手神田川。蔵前橋厩橋(うまやばし)。駒形橋吾妻橋。終点浅草である。

浜離宮から浅草は所要時間60分ですが日の出桟橋で10分ほど停まっていました。残念だったのが船の上のテラスがなかったこと。船尾は開放されていますが、橋を前からみて通り抜けたいので船室に。窓は開放されていて川風が気持ちよかった。パンフレットが無かったので案内放送で橋を確認。

浅草で行きたいところがあったが欲を出さずに帰路に着く。

映画『ある映画監督の生涯』で溝口健二監督が少年時代みていた風景が今戸橋付近で、石浜小学校では川口松太郎さんと一緒だったのである。そして白髭橋の近くにはかつての日活向島撮影所があり今はその案内板がありそうなのである。昨年歩いたときはその情報を忘れていて気にかけなかった。

隅田川水辺テラスは勝鬨橋から千住大橋まで歩いた。

橋は歩いて渡り、渡った方のテラスを歩いたり、場所によってはまた橋を渡りもどって歩くという感じで進んだ。

桜橋の近くでは「長命寺桜もち」で休憩。「正岡子規仮寓の地」の案内板があった。「大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階を3カ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在。そこで次の句を詠んでいる。 桜の香を 若葉にこめて かぐわしき 桜の餅 家つとにせよ 」 

こんな具合でなかなか多種多様の惹きつけどころがある散策でした。 

映画『箱根風雲録』

映画『箱根風雲録』は、箱根用水の完成までを描いた作品である。箱根の西側の三島は水がないため稲作ができなかった。そのため箱根の芦ノ湖から湖尻峠を掘り進め芦ノ湖の水を三島に通すことを考える。これが箱根用水である。箱根用水が出来上がるまでの農民や民衆そしてそれを請け負った浅草の商人・友野与右衛門と村の名主・大庭源之丞を中心とした人々の苦難の道のりが時代劇として描かれている。

前進座が新星映画社と提携して1952年に山本薩夫監督(原作・タカクラテル『ハコネ用水』)で制作している。

時は徳川四代将軍家綱の時代である。友野与右衛門は、商人でもあるのでこれが成功すれば新田開発にもなると考えていた。芦ノ湖側と三島側の両方から掘り進めて、貫通するようにした。よく江戸時代にこれだけの土木事業ができたものである。

ところが幕府としては民間人が成し遂げては幕府の失墜とばかりに色々邪魔をする。与右衛門にいわれなき罪をかぶせて捕えようとする。その時助けてくれたのが、野盗の蒲生玄藩である。玄藩は与右衛門の土木の腕と農民たちをまとめる力を見込んで幕府を倒すため仲間にならないかと誘う。与右衛門は断り自分の仕事に没頭する。

しかし、工事は難航し資金の援助も絶たれる。賃金をもらえない農民や民衆たちの気持ちが土木工事から離れ始める。与右衛門の妻・リツは江戸へ金策にでかける。リツは浅草の家屋敷を全て売って帰って来る。そして自分たちの家はここである。ここが自分たちの骨をうずめる場所であると皆に伝える。与右衛門も始めた時お金儲けも考えていた自分を恥じた。再び皆工事に励んでくれる。

今の箱根神社は箱根権現といわれそこの快長僧正も与右衛門を応援してくれ力となってくれた。かつては芦ノ湖の水利権は箱根権現社が所有していたわけでそこのトップである快長僧正の協力を得て後ろ盾となってくれたことはありがたい事であった。しかし快長僧正は京都のお寺に左遷されてしまう。トンネルは水が出たり難題ばかりである。トンネルの中では与右衛門の闘う姿に動かされた玄藩がそっと隠れて工事を手伝っていた。

三年の月日がたちそろそろ両方のトンネルが合わさるときが近くなった。そんな時にまたまた与右衛門は役人に捕えられてしまう。牢から与右衛門はトンネルが貫通した知らせの狼煙を待っていた。玄藩は一味を従え役人たちと一戦交え討死してしまう。

トンネルが貫通する。農民たちは大喜びである。狼煙が上がった。感無量で狼煙を眺める与右衛門。背後から悪の刃が。与右衛門は無念の最後を遂げる。何も知らずに農民たちは流れる用水の後を追う者、用水の中に入いる者等喜びをかみしめていた。

与右衛門がどんな商売をやっていたのかわからないのであるが、新田開発を考える人であるから測量などの出来る人である。映画の中でもひたすら図面を広げ資料を調べて熟慮している。両方から掘り進んでそれを合体するなど思いもよらないことを与右衛門は自信をもって進めている。そのトンネルの合体が1メートルの違いということであるから驚くべきことである。

実際には、芦ノ湖の水を静岡県の深良川に合流させ、正式には深良用水(ふからようすい)とされる。大庭源之丞も深良村の名主である。三島は富士山の水がきていた。「メモ帳 5」でも三島の「楽寿園の庭園の池はかつてはたっぷりと富士山からの水で満たされていた」とある。ところが富士山に近い麓は表層部が火山灰を含む地質で水もちが悪かったということである。(深良村は現在、静岡県裾野市)なるほどである。

前進座の役者さん総出演である。友野与右衛門(河原崎長十郎)、蒲生玄藩(中村翫右衛門)、快長僧正(川原崎國太郎)、大庭源之丞(瀬川菊之丞)で、その他、女優陣には友野与右衛門の妻・リク(山田五十鈴)、蒲生玄藩の情婦・サヨ(轟夕起子)、トラ(飯田蝶子)らのベテランがそれぞれの立場を演じている。

DVDには中村梅之助さんのインタビューもあり、トンネルのセットは前進座の庭に設置され撮影は寒い時期で水が冷たかったらしい。梅之助さんは体調を崩しそれでも現場に行こうとしたが、病気を治すのが一番だと翫右衛門さんに止められたとか。梅之助さん、座員一同頑張っているので自分が歯がゆかったのであろう。

時代劇としてスペクタルな面も加えた映画になっている。色々検索して位置的な関係もはっきりし、映画からは江戸時代に機械もなく手で成し遂げた凄さを見せてもらった。また一つ整理できました。

テレビ『英雄たちの選択』

ハードディスクの録画容量が満杯になってしまい整理した。その中に『英雄たちの選択 ~水害と闘った男たち 治水三傑の叡智』(NHKBSプレミアム)があった。この番組は興味ありそうと思った時に録画していて3月である。おそらく治水三傑に魅かれたと思う。水害に立ち向かった人はたくさんいたわけで、治水三傑はどんなことを成したのであろうか。今回は海水温度の上昇に伴い被害増大で痛ましく心折れる状態である。

これは映像で見てもらわねば文章で説明できないが、傍若無人に試みる。三傑にあげたのは、武田信玄(山梨県)、津田永忠(岡山県)、金原明善(静岡県)である。

武田信玄の戦国時代には、川は縦横無尽に甲府盆地に流れ込んでいた。特に御勅使川(みだいがわ)と釜無川(かまなしがわ)の合流点で氾濫が起るため、その合流点を堤(信玄堤等)などで一箇所に集めるようにした。根元を抑える。

津田永忠(つだながただ)は江戸前期時代の岡山藩士である。岡山城は旭川を堀として利用していたため川があふれ出し大洪水となった。旭川から城下と領民を守るために百間川を作った。分流部にしかけがあり巻石といわれている。花崗岩でかたい巻石を通って旭川の水は流れ、百間川は放水路となるのである。さらに新田開発もした。

金原明善(きんぱらめいぜん)は明治時代前期の人で浜松の実業家である。「暴れ天竜」といわれた天竜川を治めるため私財をなげうって堤防工事を計画。天竜川で生活している人々もいて反対もあり頓挫。乱伐の山に目が行き、これでは堤防も決壊すると考えた。治水から治山へ。森を守り川を守る。さらに林業で人々の雇用を生み出していった。天竜美林。

時代時代によって、さらに地形によってさらなる考え方が変化していくのが興味深い。水は越えるかもしれないが壊れない堤防(床下浸水まで)。現代に問われているようだ。

15日、今日の午前8時からNHKBSプレミアム『英雄たちの選択  鬼か?仏か?その後の新撰組土方歳三~宇都宮城攻防戦の真実』の放送がある。再放送である。気がつくのがおそかった。

宇都宮城址に行った時、土方歳三さんが宇都宮城を攻めたジオラマがあった。どんな攻め方をしたのかわかりやすい解説を期待したいが、どう展開されるのか楽しみである。そして鬼か?仏か?

メモ帳 5 ← に宇都宮城のことがメモされていた。

追記

宇都宮城の攻防戦よくわかりました。北側を厳重に警護していたのは、伊逹藩への守りであったということ。南東からなら侵入しやすかった。そして、宇都宮二荒山神社から大砲で攻めれば北側も打ち破れた。確かに神社は高いです。地形をよく偵察していたわけである。満足であり、一つ整理がついた。歳三さんの組織論はかわらないと思う。自ら先頭に立って戦うからそこは揺るがなかったであろう。

治水から映画『箱根風雲録』に続く予定であったが、歳三さんの宇都宮攻防戦の番組があることを知って急きょ変更した。「メモ帳 5」をみたら、箱根神社と三島の旅も宇都宮城址の旅と並んで書かれてあった。忘れていたので驚いた。道筋は出来上がっていたようである。

茅ヶ崎からの歩かない旅

テレビの『英雄たちの選択』(名優誕生!九代目市川團十郎新時代に挑む)から、かつて歩いた茅ヶ崎を思い出してその旅を読み直した。

茅ヶ崎散策(1)  茅ヶ崎散策(2)

http://www.chigasaki-kankou.org/pamphlet/images/walking_map2019_a.pdf (茅ヶ崎の散策地図)

随分時間が経ってしまったものである。その時もイサム・ノグチさんの名前が出ているが、どういうわけかそれ以上にイサム・ノグチさんに興味が深まらなかった。今回はとても惹かれてしまった。イサム・ノグチさんのお母さんを主人公した映画『レオニー』(2010年・松井久子監督)も知っていたが今回は観るのがたのしみであった。

何が原因なのか。やはり新型コロナの影響なのであろうか。人種差別の問題と関係するのかもしれない。イサム・ノグチさんは、日本人の父とアイルランド系アメリカ人の母との子としてアメリカで誕生(1904年)する。その時、父の野口米次郎さん(詩人)は日本へ帰ってしまっていた。イサム・ノグチさんは芸術家となるが、その仕事は二つの祖国で揺れ動きながら、最終的には国を越えて自分の目指すものを表現する広さを獲得した。それは、お母さんのレオニーさんの生き方も大いに影響していたであろう。

ドキュメンタリー『イサム・ノグチ  紙と石』では、イサム・ノグチさんの作品がそれを取り巻く空間やそこに位置する人を包んでもっともっと広がっていくのが伝わってくる。そこに国境はない。イサム・ノグチさんは、父と母の国のどちらからも疎外されている孤独感を味わっている。そのことがかえって広がりを作ったようにおもえる。

ドキュメンタリー『イサム・ノグチ 紙と石』と映画『レオニー』からまとめてみる。

イサム・ノグチは、3歳の時母と日本へ来る。父が親子を日本へ呼んだのである。ところが米次郎は日本人の妻を持ち、レオニーは妻としては認められなかった。レオニーは米次郎から自立するため茅ヶ崎に移り住んだ。そうなのである。茅ヶ崎はレオニーさんが選んだ町なのである。

レオニーは茅ヶ崎で英語教師などをし、妹のアイリスを出産する。誰の子であるかは最後まで口を閉ざした。家も建てるのである。(映画ではアメリカの友人からお金を借りている)その時、10歳のイサムに設計を手伝わせる。

イサム13歳の時、母の意向でアメリカでの教育を受けるため単身旅立つ。入った学校は間もなく閉校となるが、助けてくれる人がいてコロンビア大学の医学部に進みことができた。母とアイリスもやっとアメリカのイサムのもとに来る。イサムは夜は美術学校の彫刻科に通い、その3か月後には初の個展を開いている。そのとき、イサム・ノグチと名乗る。幼少の頃は、野口勇とし、それからイサム・ギルモアと名乗ったようである。その後26歳の時、父からノグチの名前を名乗ることを禁じられたりもしていて、イサムと父の関係はずーっとギクシャクしたものであった。

父は父でアメリカで疎外感を味わい、レオニーと恋愛関係があっても日本女性の古さを求める男性でもあった。彼にとって、レオニーという女性は手こずる相手であった。アメリカであってもこれだけの自己を保持する強さをもった人はまれであったろう。レオニーは60歳で肺炎で亡くなっている。

第二次世界大戦でイサムは、ニューヨークに住んでいたため対象とはならなかったのであるが、アリゾナ州の日系人の収容所に志願して入所する。そこで、芸術的なことで日本とアメリカのつながりを持ちたいとするが思うようにいかず収容所から出ることとなる。

ニューヨークに戻ったイサムは、工事現場から薄い石の壁材を集めそれを磨いて組み立て、石の彫刻をはじめ、世間の注目を集めるようになる。これが石とイサム・ノグチとの作品としての出会いといえる。

戦後は、インテリアの作成にもたずさわり、彫刻などもただ眺められるものではなく、その空間に眺める人をも包みこむ広さを求めていく。そこは自分の作品が生み出す空間であった。

岐阜提灯から竹と紙が創る新しい人を包む灯りを作り出す。「紙の提灯は壊れてもまた新しい物に替えられる。私はこの概念を日本に教わった。過ぎ行くものをいつくしむ心。いずれ人生は終わり桜の花は散る。そこに残るのは芸術と命なのだ。」

イサムが創る庭園や公園、そしてそこにある彫刻はひとの命を現わしているのだろう。「庭園は彫刻のあるべき姿を表現したものだと思う。美術館に並んでいるものだけが彫刻ではない。実際に生きる人々が生活の中で経験するものだ。その空間を共有し体感するのだ。」

1986年、高松の牟礼で「黒い太陽」の制作に入る。「石と向かい合う私は決して一人ではない。彫刻の歴史、現代までの彫刻の歴史と一緒に作業しているのだ。自然、風や星、私達が生まれそして帰っていくところ。」一緒に仕事をされた和泉正敏さんはイサム・ノグチさんがこういわれていたという。「石を割り過ぎて失敗したと思っても、一年か二年するとそれが良い味わいになってくる。人間の体と同じように手とかに傷してもそれが回復する。色など美しいところもでてくるものだ。」そして「もうこの石の中に入ってもいいだろう。」と言われて少したってから亡くなられたそうである。

牟礼のアトリエと住まいは今はイサム・ノグチ庭園美術館となっている。

映画『レオニー』のエンドロールには札幌のモエレ沼公園で遊ぶ子供たちが映される。札幌の大通公園には、「ブラック・スライド・マントラ」と名付けられた黒御影石の滑り台があるという。札幌の大通公園近くに住む友人に尋ねたら、この滑り台は東京のお孫ちゃんのお気に入りだそうである。イサム・ノグチさんの想いはつながっていたのである。

映画『レオニー』は、主人公のレオニー・ギルモアを演じたのが、映画『マイ・ブックショップ』のエミリー・モーティマーだったので、観始めた時から彼女ならと落ち着いてみていられた。気丈さが過剰に誇張されずに描かれていて満足であった。野口米次郎の中村獅童さんも根底にある古い日本男子をコントロールして苦悩を抑え気味にし、レオニーとのぶつかり合いを上手く出していて、レオニーの人格を浮き彫りにした。

実際にレオニーがこれほど日本語を覚えなかったとは思えないが、下手な日本語で演技するより伝わり方が直接的であり、レオニーに対する非難も一つ一つ捉えていたら話しがそれてしまいがちなところを上手く筋道を通してくれていた。そして小泉八雲の奥さんの竹下景子さんがこれまた通訳としての良い位置にあった。レオニーさんは女として母として硬い石をコツコツと削ったり、時には割り過ぎたりしながら生きられた方である。

イサム・ノグチさんも晩年は硬い石に惹かれて玄武岩や花崗岩など削るのに時間がかかり彫刻に困難なものを選んだそうである。この母にしてこの子ありであるが、レオニーさんはイサム・ノグチの母でもあるが、レオニー・ギルモア個人として想像できないほどの意思を通した方である。

東京都美術館で『イサム・ノグチ 発見の道』2020年10月3日(土)~12月28日(月)が開催予定である。

その時には興味ひかないものが、ある日発見することもある。ドキュメンタリー『わが心の歌舞伎座』(2010年)もそれである。勘三郎さんが舞台で、いつまでやってんだろうね「さよなら歌舞伎座公演」と冗談を言われていたが、正直本当と思ったくらいである。2009年1月から2010年4月まで行われていたのである。そのため『わが心の歌舞伎座』も申し訳ないが観ようとは思わなかった。

ところがである。今回観ると惹きつけられて集中して観てしまった。役者さん達の芸に対する考え方とその芸の技の一致にまず魅了される。そして舞台裏の技の世界がこれまた知られざる積み重ねの世界なのである。もしかすると、歌舞伎舞台のできない今だからこそ、魅入ってしまったのかもしれない。好い時に観ました。

イサム・ノグチさんの言葉を勝手にあてはめてみた。「舞台と向かい合う私は決して一人ではない。先人の歴史、現代までの舞台の歴史と一緒に作業しているのだ。舞台装置、音楽や語り、私達が生まれそして帰っていくところ。」

映画『シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』 『人生タクシー』からの継続(3)

〔 謹賀新年 〕 新しい年を迎えたが、内容は昨年の続きである。

東京国立博物館で『御即位記念特別展 正倉院の世界 ー皇室がまもり伝えた美ー』が開催されていた。シルクロードの一つの終着点が奈良正倉院と言われるが、イランがペルシャ帝国と言われていたころの文化が日本に到着し正倉院に保存されていた。

ペルシャ系人とおもわれる「伎楽面 酔胡王(すいこおう)」、聖武天皇が愛用されペルシャで流行っていた水差し「漆胡瓶(しっこへい)」、胴にペルシャの天馬(ペガサス)が描かれた「竜首水瓶」、80もの円形切子のあるガラス器「白瑠璃椀」、紺色の中にかすかに残る白濁色が残る「ガラス皿」、草原の狩猟を描いた四絃琵琶「紫檀木画槽琵琶(したんもくがのそうのびわ)などペルシャから伝わった展示品をわくわくしながら鑑賞した。

五絃の「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」も展示されていて、四絃はペルシャで五弦はインドで多く使われ、「螺鈿紫檀五絃琵琶」は新たに復元したものも展示されていた。この復元の琵琶の糸は絹糸で、美智子上皇后が育てられている蚕からの絹糸が使用されていた。この蚕は日本の在来種小石丸といい、奈良時代からのものだそうである。このお仕事は、雅子皇后に受けつがれるのである。

イラン関係の本によると、『続日本紀』には736年の記録には当時中国姓を名乗ったらしいペルシャ人も渡来しているということであり、日本に現存する最古のペルシャ文書は1217年に渡来したペルシャ語の詩句とある。

さらに太宰治さんが『人間失格』の中に挿入しているルバイヤットの詩句が、ペルシャのオマル・ハイヤーマの詩集『ルバイヤート』からなのだそうで、11篇も挿入している。この詩句のことなど頭になく、それがペルシャの詩集からなどということも当然知らなかった。さらに『人間失格』の作品の中でどう関連しているのかも。『人間失格』を開いたら確かに挿入されている。読み返してみる必要がありそうである。

さらに、松本清張さんが『火の路(みち)』の中で、自説の古代史の仮説を提示しているという。奈良の飛鳥の石造遺物が、ゾロアスター教(古代ペルシャで生まれた世界最古の炎を崇拝する拝火教)の拝火壇で、日本に渡来したペルシャ人が造ったのではないかという仮説である。推理小説なので殺人もでてくるようだ。興味がそそられる。松本清張さんの著作に『ペルセポリスから飛鳥へ』もある。

迎賓館赤坂離宮に行きたいと思いつつ実行していなかったので、和風別館「遊心亭」のガイド付きで申し込む。映像での紹介の場所があり先に予習をした。見どころいっぱいである。その中にイスラム風の「東の間」があり、意外なつながりに嬉しくなってしまった。世界のあらゆるものを取り入れていたのである。パンフレットにも写真が載っているが、残念ながら公開はされていない。

独特の美しさを持つイスラム風を味わいたい。モスク(イスラム教寺院)である東京ジャーミィ(トルコ文化センター)が公開しているのを知る。曜日によっては案内ガイドつきである。その時間に合わせる。自由にお茶を飲みつつ待つことができる。ガイドのかたの話しが、こちらは知識ゼロのため面白い。チューリップの原産はオランダではなくトルコであった。チューリップバブルというのがおこっていたのである。

礼拝の様子も見せてくれた。生のコーランを耳にする。途中でガイドされたかたも礼拝に参加された。ガイド終了後はゆっくり静かに内部の模様や色使いを楽しませてもらう。美しい。

というわけでトルコ映画へとなったのである。鑑賞したのは『海難1890』(日本・トルコ合作)・『少女へジャル』・『裸足の季節』の3本だけである。

もう一つ長期間、ハマっていた映画の分野がある。ダンス映画である。それもストリートダンスである。30数本観た。なかでも多いのがブレイクダンスである。身体表現は映像であってもやはり魅力的である。その他のダンス映画も観ていたのでダンス系は50本は観たと思う。それと並行しての鑑賞なので、トルコ映画は観れるリストは作ったのでこれからとなる。

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(4)

北総線矢切駅から「野菊の墓文学碑」までは10分くらいである。矢切駅をはさんでの反対側には「式場病院」があるはずである。 『炎の人 式場隆三郎 -医学と芸術のはざまで-』 さて『野菊の墓』散策の方向に進むが、途中に「矢切神社」があり向かい側に「矢喰村庚申塚」がある。

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矢喰村庚申塚由来>の碑がある。温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地にひとが住んだのは約五千年前で、平和な生活を営んでいたが、国府が国府台にに置かれ千三百年ほど前から武士たちの政争の場となり、北条氏と里見氏の合戦では、矢切が主戦場となった。この戦さで村人は塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、親から子、子から孫に言い伝えられ江戸時代中期に二度と戦乱のないよう安らぎと健康を願い、庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻みお祈りをしてきた。先人たちの苦難と生きる力強さを知り四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため平和としあわせを祈り、この塚をつくったとある。(昭和61年10月吉日)

石像群の中央に位置する庚申塔は、青面金剛を主尊としており、中央上部には、阿弥陀三尊種子と日月、青面金剛像の足元には三猿が刻まれているとある。なるほど納得である。(造立年は1668年) そして、政夫と民子が並んで彫られている「やすらぎの像」もある。

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庚申塚を左手にして5分ほど進んで行くと左手に西蓮寺がある。向かいの右手に階段がありそこを登って行くと野菊苑と称する小さな公園がある。階段のそばに<永禄古戦場跡>と記された木柱がある。国府台合戦は二回あり、その二回目の始まった場所ということである。今回の散策で、矢切りは古戦場の歴史の場であったことが印象づけられた。上の苑からは矢切りの畑地が見下ろせる。橋があり歩道橋であり、それを渡ると西蓮寺の境内に出ることになりそこに「野菊の墓文学碑」がある。西蓮寺からはここには出られないようになっているので野菊苑からである。

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野菊の墓文学碑」は土屋文明さんの筆により『野菊の墓』の冒頭部分と、茄子を採りに行ったとき見た風景部分と、綿を採りに行った時に別々に行き政夫が民子を待つ場面が一つつなぎで書かれている。

「野菊について」という説明板もあり、「野菊」という名の花は無く、山野に咲く数種の菊の総称とある。関東近辺で一般に「野菊」と呼ばれる花は、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどで白か淡青紫色で、民子が好きだった「野菊」とはどのような花だったのでしょうかと書かれていた。

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白という感じがします。詳しく図鑑的にこれをというのではなく、野に咲いていて目に留まったキクであれば皆好きだったのではないでしょうか。つんでいれば青系も入っていたかもしれません。映画では白を使うと思います。

ここから「野菊のこみち」を通って江戸川にぶつかる予定であったが、一本道がちがっていたようである。よくわからなかったので江戸川の土手を目指す。「かいかば通り」という解説碑があった。このあたりの細流はしじみ貝のとれる貝かい場であったことから「かいかば通り」といわれていたとあり五千年前の畑の作物、貝類などを採って平安に暮らしていた人々にまで想像が広がる。憎むべきは戦さである。坂川の矢切橋を渡る。「野菊のような人」の碑がある。政夫と民子が野菊を手にしている。そして江戸川の土手をのぼる。

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途中で道を教えてくれた人の言葉に従って、土手下のゴルフ場の間をつききって松戸側の「矢切の渡し」へ到着。舟がこちらに向かってきていて待つ時間も短く乗ることができた。こちらに渡った人がすぐ並んで戻られる人がほとんどである。舟は往復で川下と川上と方向を変え少し遠まわりをして渡ってくれるのである。エンジンつきなので滑らかに川面を進んでくれる。

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船頭さんの話しだと鮎が上がってくるのだそうで、網が仕掛けられていた。稚鮎を獲っていて出荷しているようだ。小さな亀が甲羅干しをしている。一作目の『男はつらいよ』で寅さんは、千葉(松戸)側から東京(葛飾)に渡っているという。「川甚」は、その頃はもっと川べりにあったそうで、映画を観なおしてみた。なるほどであった。さくらと博の結婚式で、印刷所の社長が手形のことで遅れて「川甚」の玄関に飛び込んでくる。その時、江戸川が見えていた。

舟は葛飾の矢切の渡しに到着。徒歩、電車、舟で江戸川を渡ることができた。『寅さん記念館』がリニューアルオープンしたようであるが、行く元気がなく、「川甚」「柴又帝釈天」のそばを通り、柴又の商店街に向かう。連休中だったので人々でにぎわっていた。

『男はつらいよ』にも、マドンナ役で出演されていた京マチ子さんが亡くなられた。角川シネマ有楽町での「京マチ子映画祭」の時、映画の終わりに「京マチ子。ありがとう!」と声をかけられた男性観客がおられた。 ドリス・デイさんも亡くなられた。 まだ観ていないお二人の映画などを、これからも楽しませていただきます。(合掌)

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(3)

伊藤佐千夫さんの小説『野菊の墓』は映画や舞台にもなっている純愛悲恋物語である。今回読み返してみた。政夫という主人公が、十数年前のことを思い出しているという形になっていて、それは小学を卒業した十五才の時のことである。思い出している政夫は35歳以上ということになる。

「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡しを東に渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れがニ、三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤というのだと祖父から聞いている。」とあり、里見家ゆかりの家ということになる。

母は、戦国時代の遺物的古家を自慢に想っている人で、病弱のため、市川の親戚の子で、政夫とは従妹にあたる民子を手伝いのために呼ぶのである。政夫と民子は赤ん坊のころから、政夫の母が分け隔てなく姉弟のようにして可愛がられたのであった。

政夫は小学校を卒業し千葉の中学校にいくことになっていった。そんなおり二人は生活を共にすることになり、幼い頃からとても気が合っていて、二人で一緒にいて話しをするのが幸せであった。そして、恋心へと変化していくのである。民子は政夫より歳が二つ上で、二人が仲よくしていると周囲の者たちは結婚のことを想像し、二つ上の娘などを嫁にするのかと噂し合う。兄嫁も快く思わず、母もついに政夫の学業のためにも民子と離す決心をする。そして民子は他家に嫁ぎ、流産の産後が思わしくなく亡くなってしまうのである。

電車のないころであるから、江戸川の矢切の渡しがよく使われている。松戸へ母の薬を貰いにいくのも舟で、政夫の家は下矢切で松戸の中心の上矢切にも舟が行っていたようである。さらに矢切の渡し場から市川の渡し場(市川と小岩)までも舟がいっており、小岩か市川から汽車に乗ったのであろう。

政夫と民子が最後の別れとなったのも矢切の渡しであった。雨の中民子は、お手伝いのお増とともに政夫を見送るのである。政夫は千葉の中学校へ行くため、舟で市川にでて汽車に乗ることにした。

民子が市川の実家にもどり、政夫は千葉の中学校へ行く時、市川まで歩いて民子の家の近くを通るが民子が困るだろうと会わずに通り過ぎている。そして、民子のお墓参りの時、「未だほの闇いのに家を出る。夢のように二里の路を走って、太陽がようやく地平線に現れた時分に戸村の家の門前まで来た。」とあり、民子の家まで8キロほどであったことがわかる。

二人は畑にナスを採りに行き、そこから見える風景とその中にいる二人を描写している。利根川はむろん中川もかすかに見え、秩父から足柄箱根の山々、そして富士山も見え、東京の上野の森というのもそれらしく見えている。「水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。あたり一体にシンとしてまた如何にもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。」

離れた山畑に綿を採りにいったとき野菊を見つける。民子は言う。「私ほんとうに野菊が好き。」「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分で思う位。」政夫は、民子を野菊のような人だといい、民子は竜胆(りんどう)を見つけて、政夫さんは竜胆のような人だと言うのである。そして政夫は、野菊が好きだといい、民子は竜胆が好きだと言う。

採り残した綿なので一面が綿という風景ではないようであるが、「点々として畑中白くなっているその棉に朝日がさしていると目ぶしい様に綺麗だ。」と美しい情景である。

この綿採りで帰りがおそくなり、二人が離されてしまうきっかけとなってしまう。

小説『野菊の墓』には、木の葉、木の実、草花などが政夫と民子の歩く道に登場する。紫苑、銀杏の葉、タウコギ、水蕎麦蓼、都草、野菊、あけび、野葡萄、もくさ、竜胆、春蘭、桐の葉、尾花、蕎麦の花。

政夫は、庭から小田巻草、千日草、天竺牡丹などめいめいに手にとる戸村の女達とともに民子の墓参りに行く。民子のお墓に行った政夫は、野菊が繁っていることに気が付く。「民さんは野菊の中へ葬られたのだ。僕はようやく少し落ち着いて人々と共に墓場を辞した。」

読み返して、木下恵介監督の映画『野菊の墓』を観返した。情感のこもったモノクロの映像である。政夫の笠智衆さんが老齢になって、舟を特別に頼み、矢切りの民子の墓を尋ねる場面からはじまる。

小説からすると、色彩もほしくなった。後日、その後リメイクされた映画もみることにする。

伊藤佐千夫さんは、政治家を志すほど正義感の強い青年であったが、眼病を患い学業を断念、26歳で牛乳搾取業をはじめ、毎日18時間労働し、30歳にして生活にゆとりができ、茶の湯や和歌の手ほどきをうけるようになる。そして短歌と出会い、37歳で正岡子規さんの弟子になる。『野菊の墓』は、43歳のとき発表し、夏目漱石さんらの賞賛を受け小説家としても名を残すこととなるのである。

伊藤佐千夫さんが牧場を開いたのは総武線錦糸町駅前で、今では想像できないほどである。錦糸町駅前には牧場跡と旧居跡の石碑と史跡説明版があるらしい。