映画の中の手袋

映画の中には小物が様々の役割を与えたり思いがけない効果をもたらしたりする。

2013年1月22日 新派「お嬢さんに乾杯」で  【映画「お嬢さん乾杯」は昭和24年(松竹)の作品で脚本が新藤兼人さん。新藤さんは昭和22年に映画「安城家の舞踏会」の脚本も書いていて、原節子さんがどちらも没落貴族の娘役であるが、「お嬢さん乾杯」はラブコメディである。「お嬢さん乾杯」で木下監督は原節子さんのあらゆる表情を映してくれた。その原さんに身分違いの朴訥で不器用な佐野周二さんが一目惚れをして楽しませてくれる喜劇である。】と書いたが、その映画で原さんと佐野さんがデートをして原さんの家まで送り届け原さんが佐野さんのところへスーっと戻って来て、佐野さんの皮の手袋の上から口づけをして門の中へ駆け込む場面がある。洋画などでは婦人の手袋の上からキスをする場面はあるが、その反対は見た事が無いしお嬢さんの原さんならではの演出効果でもあった。

日活青春映画に吉永小百合さんと浜田光夫さん共演の「泥だらけの純情」がある。「お嬢さんに乾杯」と多少似ていて、高校生のお嬢さんとチンピラの若者との成就しない悲恋物語である。この映画でも男性はお嬢さんをボクシングの試合に連れて行く。吉永さんのお嬢さんは、可憐さと弾けるような笑顔の素敵なお嬢さんである。吉永さんと浜田さんは、デートの後、駅のホームで別れるのだが、浜田さんがスナック菓子を袋から半分お嬢さんの手に分けようとすると、お嬢さんは布製の手袋の片方を手から外し、その中に入れてもらう。これも予想外の行動である。中平康監督は当然「お嬢さんに乾杯」を見ていると思う。

「北のカナリヤたち」は東映創立60周年記念映画で吉永さんの主演映画である。誤って人を殺してしまい自殺しようとしたした警察官の仲村トオルさんを島の小学校の教師である吉永さんが助け、お互いに心魅かれてゆく。ある事故から吉永さんは島を去ることになり、その別れの時、仲村さんが吉永さんが差し出した手の毛糸の手袋をはずし素手で握手する。仲村さんが吉永さんの手袋を外すところに意味がある。これを見たときも坂本順治監督は両方の映画を見ているなと思った。原さんのは見ていなくても吉永さんの主だった映画は見ていると思う。

すでにあらゆる映画があらゆるワンシーンを映しだしていているが、さらに良いワンシーンを印象づけるとため様々なことを考えだしていく。<手袋>一つにしてもあらゆる見せ方と効果があるのである。見る方も、一つの映画から幾つかの映画のワンシーンをパッパッーと思い出す光の点滅も楽しいものであり、少し得意な気分になるものである。

 

 

 

ドキュメンタリー映画二本

『シュガーマン 奇跡に愛された男』

聞いたこともない<ロドリゲス>という名の歌手のドキュメンタリー映画である。チラシによると 「70年代デトロイト、忽然と姿を消した幻のシンガー、ロドリゲス その歌が国と時代を超え 南アフリカで奇跡を起こしていく 驚くべき人生に胸が震える」

デトロイトの外れの小さなバーで歌っていた若者が見い出されアルバムを出す。全く受け入れられず忘れさられてしまう。失意のうちにコンサートの舞台で自殺したとの話が残されている。その彼の歌が誰が運んだのか海を越え南アフリカで爆発的に支持される。その歌は南アフリカの反アパルトヘイトの若者達のシンボルとなり、その後も20年に渡って広い世代に指示される。ロドリゲスは、デトロイトの町を歩きまわりそこに生活する人々の気持ちを自分の気持ちに同化させ歌にした。その生活からミュージシャンとして飛びたてなくて絶望したのであろうか。

この先は先入観無しに映画で見て欲しい。映画館を出る時その一歩が軽くそれでいて力強く地を踏みしめていることに気づく。

 

『長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ』

長嶺ヤス子さんの名を聞けばフラメンコである。彼女の踊りを実際に観た事が無いのであるが、我の強い方との印象をなぜか持っていてる。それは民族的意味合いの濃いそれもジプシーの踊りの中に日本人が入り込めるのか、そこに挑戦し続ける人というのは余程の我と欲がなければ出来ないと思ったのである。この映画での長嶺さんは猫と犬を愛しフラメンコを踊るおばさんである。そう思われても長嶺さんはその事に頓着する暇も感慨もないであろう。100匹以上の捨て犬や猫と暮らしていて可愛い可愛いではなく<命>と供に生きている。<命>の醜さも愛しさも全てを奢ることなく受け入れている。だからフラメンコに対しても美しさだけを求めてはいない。

憎しみ、嫌悪、憎悪、邪悪ら全てを吐き出している。その後に何が残るか。死を目の前にしている犬の不安ややるせなさへの寄り添う心であり<命>である。<命>に対峙していなければ長嶺さんは踊れないのかもしれない。その踊りは(映像)何かに対して抗議しているようでもある。言葉を発せられない弱気もののために。そして<命>に対してはただその存在を愛しく撫で続けるのである。

“でも、ホントのわたしじゃないかもよ” と付け加える。そこに観る者の逃げ場を造ってくれる暖かさがある。ドキュメンタリー映画の痛いところも突いている。重いことを軽く言ってのけるふんわりとした言葉が聞くものを包みニンマリさせる。孤高でありながらこんなおばさんがそばにいてくれたら<命>も曇り時々晴れになるであろう。晴れっ放しではない時々晴れでいい。

 

寺山修司没後30年「寺山修司◎映像詩展」

映画館シネクイント(渋谷パルコ パート3・8F)で寺山修司の映画特集を開催している。

寺山修司没後30年/パルコ劇場開場40周年 ~幻想と詩とエロチシズム~「寺山修司◎映像詩展」

4月11日<意外なところで楽しい発見>で関容子さんの著書「舞台の神に愛される男たち」を紹介したが、そこに出てきた方が寺山修司さん関係の映画の上映に際しトークショーのゲストとして名前があった。「乾いた湖」上映後、篠田正浩さん(映画監督)×九條今日子さん(元寺山修司夫人/プロデューサー)。「無頼漢」上映前、白井晃さん(演出家・俳優)。

関さんの本の中で篠田正浩監督は、山田太一さんと寺山修司さんの大学の先輩で、お二人の様子を 「寺山と山田は仲がよくて、毎日学校で顔を合わせてるのに文通しているんだからね(笑)」 と証言(?)されている。山田さんによると、とにかく幾ら話しても話し足りなくて、別れた後も手紙に書いていたのだそうである。これは楽しい話が聴けそうだ。白井さんは、申し訳ないが舞台も映画もドラマも観ていない。機会があれば観たいと思っていたらお名前が。それも映画「無頼漢」の前。「無頼漢」はDVDで観て非常に面白く、寺山さん脚本で篠田監督なので大きなスクリーンで観れるのは幸せであり、白井さんと寺山さんの関係も興味がある。

篠田監督と九條今日子さんのトークは予想通り楽しかった。寺山さんがSKD時代の九條さんに惚れこみ「乾いた湖」に出てもらうため篠田さんが、寺山さんと一緒にシナリオを書いていた神楽坂の川田旅館に来て貰い、それが寺山さんと九條さんの縁で、九條さんは篠田さんだから行ったので篠田さんからで無ければ行かなかったし、寺山さんとの縁も無かったと言われた。その川田旅館は、川田晴久さんが奥さんにやらせていた旅館で、川田さんが松竹で美空ひばりさんと共演したギャラがそちらに廻ったらしく、松竹関係の人達もよく利用していたらしい。「乾いた湖」のシナリオを篠田監督と寺山さんが書いている隣の部屋で大島渚監督たちは「太陽の墓場」のシナリオを書いていて、寺山さんは大島監督の政治的行動を意識して自分として意見をシナリオの中に書いていた部分もあるようだ。話を聞いているだけで当時の熱さがわかる。

「小津監督の「東京物語」、木下監督の「二十四の瞳」、大庭監督「君の名は」で松竹は年4回のボーナスがあり、その後映画界は斜陽の兆しが見え始め次の監督を作らなければならない。どんな映画であれば良いか会社も判らず、好きにさせてくれたところがあった。」

篠田監督と寺山さん(脚本)は6本の映画を作っている。 「乾いた湖」(寺山さんの映画初脚本) 「拳銃よさらば!『みな殺しの歌』より」 「夕陽に赤い俺の顔」 「わが恋の旅路」  「涙を、獅子のたて髪に」(篠田監督も脚本参加・寺山さん作詞も担当・加賀まりこさんデビュー作)「無頼漢」(河竹黙阿弥の「天衣紛上野初花」を題材にしている。斬新で舞台人も多数出演。)

観客の方の質問「瀬戸内三部作は寺山さんの何かに通じるのか」に対し篠田監督の答えは「小津さんが子供の映画が作れなくては監督としてダメだといわれた。小津さんも「生まれてはみたけれど」、木下さんが「二十四の瞳」、大島渚も「愛と希望の街」「少年」を撮っている。松竹の伝統のようなものです。」

「夕陽に赤い俺の顔」 は 5月27日(月) NHK・BSプレミアム 13時から 放映される。

白井晃さんは寺山さんの本から衝撃を受け大学受験のとき寺山さんの劇団の「天井桟敷」を目の当りにしてこんな演劇があるのかと驚愕。ただそこに自分が入ろうとは思わなかった。ただ劇団のエキストラ見たいなのには出たことがあり、劇団の稽古を観に来て寺山さんの声が聞こえてきて「ああ!寺山さんだ!」と声だけで感動をおぼえたと。寺山さんの作品の舞台映像は観たことがあるが寺山さんの実際の舞台を観ていないのと、白井さんの舞台も観ていないので、その辺のつながりが判らなくて残念であったが、白井さんが舞台をやりたいと思わせたのは寺山さんの存在であろうことは判ったし、今は無い<怖い舞台>だったそうである。

 

「ヒッチコック」と「舟を編む」

久々の新作映画鑑賞である。と言っても「ヒッチコック」は映画「サイコ」に関連していているので、「サイコ」をまた鑑賞するような雰囲気であるが、様々な舞台裏が出て来て面白かった。まず、アンソニー・ホプキンスのヒッチコックがぴったりである。太り具合はもちろんであるが口の動かし具合からしてしっかり捉えている。「サイコ」を撮ろうとの動機からの奥さんとの会話が何ともお互い機知に富んでおり楽しい。儲からない仕事はどこもそっぽを向くもので、それを内心の動揺をかくしつつも奥さんに吐露しそれを軽くいなす奥さん役のヘレン・ミレンも適役。

色んな問題が山済みでさらには奥さんと男友達との関係も目が離せない。それでいて美人女優でなければ撮りたくない。「サイコ」のモデルである異常殺人者の実物の犯人ともヒッチコックの中で語り合わせ、誰の中にでもある異常心理の狂気としてヒッチコックを追い込んで、それがあのシャワーシーンの成功へと結び付けていくあたりは上手い展開である。ジャネット・リーが雨の中追いかけられるように車を走らせる場面の撮り方など裏が見れてわくわくする。

アンソニー・パーキンスの出は短いが、雰囲気はわかり、彼はやはり「サイコ」の実際の彼を見るのが一番でそれを邪魔しない出し方である。検閲官の厳しい制約が、反って映画の撮り方に工夫する結果となり、そのやり取りから撮影方法が浮かび上がるのもさすがである。宣伝の仕方、公開されてシャワーのシーンにロビーでその音楽に合わせて身体を揺り動かし満足する稚気さら、映画を見ている観客をもどんどん巻き込んでゆく。この音楽を入れることを提案したのは奥さんである。

そして、奥さんをやり込めるつもりが、反対にやり込められ、その時のヘレン・ミレンはさすが「クイーン」女優と思わせる。やり込められて唖然とし、それでいて安心しているアンソニー・ホプキンスの繊細さを判らせない余裕の演技も見事である。最後お決まりのヒッチコックの登場で次のサスペンスへのお誘いで肩にカラスが。でも当然「サイコ」を見直したくなる。

「舟を編む」。2012年の本屋大賞第一位のベストセラーを映画化したものである。本の題名がそこらに転がっていそうもない発想である。内容も、辞書を作る編集部に集う人々の話で、心躍る事件も起こりそうに無いが、そのとおり起こらないで辞書の役目のような役目をする、そこに有ってくれれば、そこに居てくれればいいなあ思わせる人々の話である。

原作を読んでいたので、これを壊されるといやだと思いつつ観たが、なかなか味のある映画になった。松田龍平さんが主人公の馬締光也をだんだん男前にしていってくれた。それもそれに気がつくか気がつかない加減で進んでいく。それを助ける軽薄なオダギリジョーの西岡の役目も上手くはまった。小説もそうであるが、人間関係の暖かさと同時に辞書ともっと仲良くしなくては勿体無い事であると思ってしまう。映像での辞書の言葉たちが本よりも強く印象づけた。沢山の言葉に触れたい人は小説の方がいいと思う。作業などは映画のほうが動きがあって流れが飲み込める。人間関係の下手な馬締くん(まじめの当て漢字が何とも冴えている)を無理に変えようとせず、そのままで上手く周るようにした脚本も芯がある。観ているほうもやはり馬締くんはこう来るのかとこちらも楽しい笑いと先輩達に対する気持ちにほろリとする。舟を辞書「大渡海」のカバーデザインだけで、海の映像に出さなかったのも懸命である。「大渡海」の辞書編集部は嫌々行っても夢中にさせるゆれ具合の舟である。

 

銀座の変化

新しい歌舞伎座の開場で東銀座界隈は地下も地上も開演と終演時は大賑わいである。一幕見も長い列である。歌舞伎に関しては後日として、歌舞伎の二部と三部の間が40分近くあったので三原橋の閉館になった映画館のある地下に食事に行く。三越側はもう地下に通じる下り階段がなく、時計のあった広告塔もなく道路の一部となってしまっている。信号のある歩道を回って反対側へ。まだ、銀座シネパトス1・2・3・と表示がある。地下に入り、開いているお食事処「三原」へ。映画「インターミッション」に出演していたご主人がいるお店である。

「カレーだとすぐ出来ますか」と尋ねる。「カツカレーでもなんでも」と。余り重いと次の観劇で眠りを催すので牡蠣フライカレーとする。カウンター越しにお味噌汁を受け取り、ジュウっとフライを揚げる音を聞きつつお味噌汁を飲んでいたら程好いころに出来上がる。牡蠣フライとカレーが楽しめるというわけである。歌舞伎座から歩いてきて食事しての正味時間25分位。思い立ったのが幸い、この地下のお店に寄ろうと思いつつ映画館のある間は実現しなかったことが実現した。それも映画に出てきたお店に。ご主人は映画と同じ雰囲気である。映画の中のご主人が良かったことを告げ再び歌舞伎座へ向かう。

映画「インターミッション」は映画評論家の樋口尚文さんが銀座シネパトスの閉館になるのを惜しまれこの映画館を舞台にされて撮った初監督の映画である。今だどのような映画評論を書かれているのか読んだことはないので映画監督しての出会いが先になった。その監督に賛同された俳優さんが多数出演している。秋吉久美子さん、染谷将太さん、香川京子さん、小山明子さん、水野久美さん、竹中直人さん、佐野史郎さん等。

閉館が決まった映画館を訪れた客たちの映画の休憩時間に話す会話を主に繰り広げられるオムニバス的展開である。「三原」のご主人は、お店の客の竹中直人さんがくじらのベーコンが美味しかったので四皿追加注文をすると「二皿」と答える。ご主人は美味しくても二皿が適当と思っているようである。竹中さんは「四皿」を主張。ご主人動じず「二皿」を主張。ただそれだけの事なのにこのやり取りが可笑しい。儲け主義でないご主人と客の意志を通そうとする竹中さん。この勝敗は見た人が決めることのようである。私はお店のご主人に軍配をあげる。

もう一つ気に入ったのは映写技師の青年。恋人に原発反対のデモに皆行ってるのにあなたはこんな所でアルバイトなんかしててと言われたとき、こんな時だから大島渚とか吉田喜重のの映画を映し続けていることに意味があると自信なさそうにに言う。どこにでもいそうな若者の雰囲気がいい。古い映画のフイルムなんかをつないで見ているお客に待たせないように頑張っている。それでいながら染谷さんにけりを入れられて。くやしい。蹴り返しなさいよ。奥野瑛太さんという役者さんらしい。風袋が上がらない感じで却って映画人の心を伝えた。この映画が公開前に大島さんも亡くなられた。今、大島監督作品で見返したいのは「愛と希望の街」と「少年」である。香川京子さんのインタビューの三人の巨匠の話も面白かった。竹中さんの映画作りのハチャメチャな話もどこが本当か嘘かわからず面白い。

「インターミッション」は自分の好きな休憩時間を見つければよいようにできている。。映画館のある地下が実際より奇麗な場所に映っていたのには驚いた。もっとレトロである。秋吉さんと染谷さんがそこで言い合う時後ろの映画紹介のビデオモニターの映像が凄い映画ばかり映していてそちらばかり見ていた。あと映画館の中にB級映画の説明文のようなポスターがあったが「八人の侍」「赤い山脈」のようなおちゃらかな映画名でも欲しかった。

そんなわけで、銀座の一部が映画の中にまた一つ押し込められたのである。

 

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (10) 「秋立ちぬ」「ロマンス娘」

映画館「銀座シネパトス」も2013年3月31日、今日で閉館である。ここでの最後の映画が成瀬巳喜男監督の「秋立ちぬ」と、杉江敏男監督の三人娘(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)の「ロマンス娘」となった。

「秋立ちぬ」 (1960年)

監督・成瀬巳喜男/脚本・笠原良三/出演・大澤健三郎、乙羽信子、一木双葉、藤間紫、藤原鎌足、夏木陽介、加東大介、賀原夏子

子どもの世界に大人の世界が微妙に影を落とし、その影ははっきりとした姿を現さないが子ども達は自分達の感じるままに受け入れ、それぞれの旅立ちをひと夏を通して経験する。見たいと思っていた映画なので、最後に銀座シネパトスで観られたことは幸せであった。

父の死 により少年(大澤健三郎)は母(乙羽信子)と二人で信州から東京の銀座の地下鉄駅の地上に立つ。母の兄(藤原鎌足)を頼り、新富町あたりの叔父の八百屋へ落ち着く。途中新富橋で少年は日本舞踊のお稽古帰りの少女に出会う。少年にとって昼間から着物を着ている少女は物珍しく印象を強くする。八百屋を生活空間(茶の間)からお店を映す手法はよく使われるが、成瀬監督はその狭い空間から市井の人々の生活や町の変化を捉えるのが非常に上手い方である。少年の母はすでに自分の住み込む仕事場を見つけていて少年は一人叔父の八百屋に取り残される。叔父の息子(夏木陽介)が少年の心を引き立ててくれるが、偶然にも橋の上で会った少女が母の働き先の旅館の娘であり、彼女が彼の満たされぬ感情と共鳴する相手となる。少女の母(藤間紫)は二号さんで、父にお嫁さんが二人いることを知っている。知ってはいるがはっきりした事実関係は解からない。そのため自分の境遇を少年に話す。少年も聞きつつ実態は解からない。少年の母が旅館のお客と駆け落ちしていなくなる。少女は<中年女が男に狂うと子どもを捨てるほど怖い>と大人が話していたことを伝える。少年は次々起こる事態になすすべも無い。ただ少女の言葉は少年に棘となっては刺さってこない。

少年は山の中で育っているので海が見たいという。少女は松坂屋デパートの屋上へ連れて行きあれが海だと教える。少年はがっかりする。少女は父が帰ってきて楽しいはずが本宅の子と会う事となる。少女は次第に自分の居る場所の不確かさを感じ始める。少女は本当の海を見に行こうと少年を誘いタクシーで晴海埠頭に行く。少女にとっても少年にとっても本物の海を見る事によって何かが変わるような、気持ちの空白を埋めてくれるような気持ちなのかもしれない。しかし海は埋め立てられ少年の想像していた海ではない。少女はここでも現実的なことをいう。ここは埋め立てられてアパートが立つのよ。少女のほうが確かではないが現実が見えている。このことは少女が旅館を去る上で悲しいが、この現実感で乗りきって欲しいと微かに期待するところである。

少年は信州からカブト虫をつれてきた。少女がカブト虫を夏休みの宿題として学校に持っていくためデパートで買うと言う。少年は自分のカブト虫を貸すから買うなという。ところが少年のカブト虫は逃げてしまう。従兄弟が2回目のカブト虫探しを止めにして遊びにいってしまう。そこへ少年の田舎のおばあちゃんからりんごが届く。その中からカブト虫が飛び出す。この展開は素晴らしい。少年は喜び勇んで少女の家に向かう。しかし、少女は引越をしてしまっていた。少女の父が旅館を売ってしまったのである。少年は少女と会った橋の欄干にカブト虫を乗せる。

沢山の複雑な気持ちを子どもを通して感じることになる。少女の正直な疑問の言葉が時には可笑しさを誘うのは、大人の複雑さがもっと単純な欲からきていることの証であろうか。そんな大人の影を受けつつ二人は影を逃れ自分達の世界を夏休みに作り上げたのである。

「ロマンス娘」 (1956年)

監督・杉江敏男/脚本・井出敏郎・長谷川公之/出演・美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ

三人娘の娯楽歌謡映画である。カラーであるが非常に映像が変色していてDVDで観ているので帰ろうかと思ったが音の迫力が違うので最後まで観てしまった。三人が宝塚劇場で三人のショーを観る場面がある。そのショーの映像はこの三人娘がその後には現れることのないエンターテイナーであることがよく解かる。特に美空ひばりさんの「やくざ若衆祭り唄」は歌も動きもこのリズム感は何処から来るのであろうかと見惚れてしまう。江利チエミさんのミュージカルも観たかったなあと思う。

多種多様の映画を上映してくれ本当に有難うございました。

<銀座シネパトスに乾杯!>

追記:  成瀬巳喜男監督作品を好んだ大瀧詠一さんは、「秋立ちぬ」と「銀座化粧」のロケ地をしっかり調べたようである。(「成瀬巳喜男 映画の面影」川本三郎著)

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (9) 「如何なる星の下に」「銀座の恋人たち」

「如何なる星の下に」(1962年)

監督・豊田四郎/原作・高見順/脚本・八住利雄/撮影・岡崎宏三/美術・伊藤熹朔

出演・山本富士子、池部良、加東大介、三益愛子、乙羽信子、植木等、池内淳子、大空真弓、森繁久彌

スタッフの字幕に撮影の岡崎宏三さんと美術の伊藤熹朔さんの名前を見つける。見る目が違ってくる。伊藤さんは新劇や映画の舞台で活躍していた方で、 腕に抱え込んだ継続 (2013年1月1日)に出てくる小村雪岱さんが古典的仕事をしていた頃、伊藤さんは現代的仕事をされていた。演劇人の千田是也さんのお兄さんで幅広く活動されていた。<寅さん記念館>で美術という仕事はセットの全体図を把握して描き、それに基づいて大道具さん小道具さんが作り上げていくのだそうである。

タイトル字幕の川面の映像から目が離せなくなり、山本富士子さんが切り盛りしているおでん屋のセットの隅々までが気になってしまった。少し開いていた襖が閉められると、すうーっと閉められた襖を右にした部屋の映像となったり、お店のカウンターをお客側から映していたのが調理場の入り口から縄暖簾越しに映したりと手が込んでいる。

山本さんが池部さんをお店から上がれる部屋に、お店の入り口ではない調理場を右手にした入り口から入らせる。その時はお客としてではない特別の意味合いがあるわけで上手く使っている。そして、その部屋の隣には、右半身不随の父親(加東大介)と酒乱の母親(三益愛子)がいる。その前からこの両親と家族に縛られていた主人公・山本は一層負担が大きくなり、池部に微かな期待をするのであるが、池部はその現実を受け入れることが出来ず、涙の横顔を見せるだけである。その時の山本さんが凄い。「あんた帰んなさい。」それまで嬉しそうに浮き立っていた彼女の変化。お見事である。役としても役者としても。山本富士子さんは単なる美人女優ではない。身体の中を流れている血のその時その時の流れの状態を表現できる役者さんである。

汚れた川の前に立っていても、綺麗な川の前に立っていてもその現実から目をそらさずみつめられるヒロインである。それゆえに美しさも際立つのである。ラスト雪がうっすらと積もり、池部さんは黙って肩を落とし立ち去る。こういうダメ男でも池部さんの場合はどういうわけか絵になるのである。芸人崩れの父親。その場を調子よく乗り換える男(植木等)。手の込んだ騙しかたを見せる山本さんの元夫・森繁久彌さん。役者も揃っている。

佃の渡し、佃島、日劇、銀座の喫茶店、夜の三吉橋周辺、その近くのホテル等監督が残して置きたかった当時の街の様子もしっかり捉えている。この映画は銀座シネパトスで2回見た事になる。

「銀座の恋人たち」(1961年)

監督・千葉泰樹/脚本・井手俊郎/出演・団令子、草笛光子、原知佐子、宝田明、三橋達也、小泉博、加山雄三、水原弘

銀座の洋品店、喫茶店、小料理屋の二代目世代の恋愛劇である。上手く収まっていたと思ったら、一つ壊れると次々崩壊して行き、別々の結びつきが出来上がり、目出度しめでたしのハッピーエンドである。銀座っ子らしく皆お洒落な大人である。店が閉まると住居は別で車に乗り合わせてアパートや自宅へ帰る。小料理屋さんなどの使用人さんはお店に泊まるところがあるのか、夜遅くまでお店の前の道路でキャッチボールなどを楽しんでいる。キャッチボールのごとく軽い明朗映画である。

柴又・寅さんの旅

「寅さん記念館」が出来てから一度も訪れていなかったので柴又へ寅さんに会いに行く。京成高砂駅で京成金町行きに乗り換え一駅で京成柴又駅である。駅前で寅さん像に迎えられ帝釈天参堂のお団子屋さんなどお店を眺めて歩くとすぐ帝釈天願経寺に到達する。

今回驚いたのはお寺(帝釈堂)の建物に彫られている彫刻一群がさらなる透明ガラスの建物で蔽われ、雨風に晒されること無くそばで見れるようになっていたのである。彫刻の高さまで階段ができ近くから細かい部分まで鑑賞できるのである。「彫刻ギャラリー」と銘打ち有料であるが面白い試みである。一周見終わると回廊を渡りお庭拝見となる。暖かいので黄色の小さな蝶々が楽しそうに遊んでいる。

お寺を抜け山本亭へ。地元ゆかりの山本工場(カメラ部品製造)の創立者が建てられた書院造と洋風建築の和洋折衷の建物であるがそこを通り過ぎ、江戸川の土手に向かう。途中、さくらさんの住んでいそうな場所を通る。たんぽぽや芝桜がちらちら目に映る。長閑である。遠くに鉄橋が見え電車が気持ち良さそうにすうーっと動いていく。矢切の渡しは一度舟で渡ったことがある。向こう岸から「野菊の墓」の舞台を歩いたのである。1955年木下恵介監督の映画「野菊の如き君なりき」(回想シーンを楕円型にトリミングしてあった)を思い起こす。

「寅さん記念館」は美術・大道具・小道具さんやメイク、衣裳さんの仕事の小さな映像もあり参考になった。くるまやの撮影スタジオでは、お店と皆が食事をする部屋の間に階段があり寅さんの二階の部屋の隣にもう一部屋ある。この階段は映画では解からなかった。台所から寅さんが上がる階段だけだと思っていた。映像など見ていたら結構時間がかかる。寅さんのグッズ売り場で、雑誌を発見。「旅と鉄道」(寅さんの鉄道旅)鉄道好きの山田監督と川本三郎さんの対談あり。ゲット! 「山田洋次ミュージアム」では寅さん以外の山田監督の世界が。

時間切れで山本亭はパス。観光地で写真を撮っている人がいるとちょっと避けてしまう。一番良い位置で撮りたいのはわかるが、占領されてしまうと周囲が興ざめする事もある。せっかくの旅の風景の流れが悪くなるときがある。ツアーの時などは、目の付くカップルやグループは避ける。そうでない時は親切気取りでさっさと写してあげるのである。お寺の庭などではボーっとしていたいのに動きまわられるとガクッとなる。時間差でなるべく避けるのであるが。

 

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (8) 「暁の追跡」

「暁の追跡」(1950年)

監督・市川崑/脚本・新藤兼人/出演・池部良、杉葉子、水島道太郎、伊藤雄之助、田崎潤

新橋駅前に勤務する警察官・巡査(池部良)を主人公にしている。警察関係も協力している。(字幕案内が消えるのが早く記憶していられない。)戦後の混乱を乗じての犯罪も多かったのであろう。警察官の指揮を高める意味合いもあるのかもしれない。警察官も危険を伴いながら薄給。皆が戦争の傷跡を抱えている。

予想外の面白さ新米銭形平次 の視点と似ている。格好良い取締り役ではない。悩み、辞めようかと思ったりする。恋人役が同じ杉葉子。伊藤雄之助が拳銃暴発の事故で後輩を怪我させ警察官をやめキャバレーのトランペッターとなる先輩警官で出ている。気楽と言いつつ彼もお金がない。

非番明けで寮に帰って寝ようとした池部は、子どもが熱を出している他の警官のために無許可で勤務を代わってやる。それを見て先輩の警官(水島道太郎)は甘いと忠告する。池部は反発する。一人不審な男が連行されてくるがその男が逃走し池部はその男を追跡し、男は線路に上がり列車に轢かれて死亡する。(この列車は大宮行きの京浜東北線だそうで、さすが鉄道好きの川本さんである)その事で勤務を代わったこともばれ、自分のせいで不審な男をも殺してしまったと自責の念に駆られ勝鬨橋を渡り男の家を訪ねる。男の妹が貧しい者達がどうやって生きて行けというのかと、池部をなじる。男は麻薬組織に関係していたことが解かり、男の妹もその仲間に利用され殺されてしまう。池部は恋人から転職を勧められているが、男の妹の死から悪と戦う事に使命を見い出し始める。トラックで麻薬組織の一斉捕縛に向かうとき渡るのが清洲橋である。やはり格好良い橋である。

その撃ち合いで先輩の水島が殺されてしまう。その水島を抱きかかえる時の池部の表情が虚無的と言おうか、南方帰りのためか、表現できないような表情をする。ここで初めて死に行く同志を抱きかかえ悲嘆に暮れる表情ではない。言われぬ何かを含んでいる。

静かな道を納豆売りの少年の声が響き、帰る警察のトラックを見つけた納豆売りの少年は、そのトラックを見るため駆け出す。その少年が大きく成るまでこの街は大丈夫であるとの暗示であろうか。

【池部良の世界展】 (早稲田大学演劇博物館) の写真チラシが、この「暁の追跡」の写真で交番の入り口に暑そうにして立っている。その頭上に<SHINBASHIEKI‐MAE POLICE BOX>とある。映画では判らなかったが時代を表している。

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (7) 「セクシー地帯」

セクシー地帯(ライン)」(1961年)

監督・脚本・石井輝男/出演・吉田輝雄、三原葉子、三条魔子、池内淳子、細川俊夫

映画名と映画の面白さのギャップに可笑しさを感じてしまう。川本三郎さんは「ニューヨーク・ロケで作られた犯罪映画の秀作、ジュールス・ダッシン監督の『裸の町』(1948年)を思いださせる。」と書かれているが、その映画は見ていないので何ともいえないが、フランスのサスペンス映画と言っても良いような隠し撮りの楽しさがある。服部時計店の時計塔の時間表示を映しつつ、銀座の夜の中を動く俳優さん達と一般人の動き、街の明かり、ショウウインドウの光など白黒のよさも含め見所満載である。サスペンスなので捜したり、逃げたりの場面が、通行している人達が不思議に振り返ったり、立ち止まったりしてドキュメント風で臨場感があり、当時の銀座の雰囲気がよく解かる。

恋人(三条魔子)が殺され、その殺人犯に仕立て上げられた男(吉田輝雄)が、女スリ(三原葉子)の助けを借りて、コールガールの組織を捜し出し、警察に捕らえさせるのである。女スリの三原葉子さんが演技してるかどうか判らない自然体の明るい小悪魔さんで、後に時代が要求する作られた小悪魔的個性の女優さんが出てきたが、三原さんのような女優さんがいた事を知ったのは収穫である。彼女はちゃかりどんどん掏って、事件の糸口を掴んでゆく。彼女がそもそも男が上司から預かった物を掏り、それがコールガール組織の会員証だったことが発端なのである。彼女は偶然にも、組織のボスのお金を掏り、組織のアジトに潜入することになる。男もそのアジトを捜し出し二人の素性がばれてしまい、いよいよ殺されるという時、彼女は、いくら地下室といっても音は響くからもっと人のいない時間にしたほうが良いと殺されるほうが提案し、それもそうだと納得させてしまう。ばかばかしいようだが三原さんのテンポに皆、見る側も納得させられてしまう。その時、ボスのポッケトから爪切りを失敬し、それに付いている小さなナイフで縛られた紐を切るのである。制限時間は午前1時半。服部時計店の時計が刻々時間を知らせる。

サスペンスであるから何かが起こるわけで、その爪切りを吉田さんは受け取りそこねて落としてしまう。三原さんは、不器用ねとなじりつつもそれを解決する。さて脱出しようとするとドアには錠前が。彼女は、父が錠前空け屋だったと髪にさしたピンで挑戦し始める。男はもしここで死んでも君のような人と一緒で悔いは無いという。石井監督の脚本のスピーディーさでもあるが、三原さんのキャラは男にそう言わせる吸引力がある。無事逃げ出したところが工事現場。川本三郎さんの力を借りれば「ビルから出ると、目の前は、銀座と新橋のあいだを流れていた汐留川。ちょうど高速道路を作るために工事中で、二人は工事現場のあいだを逃げる。」とある。見そこねたが西洋の古城のような形の映画館「全線座」も映ったらしい。吉田さんと三条さんが築地川をボートに乗りデートする場面ではこの映画館キャッチできた。

「全線座」。おしゃれな名前ではないなと思ったら、昭和6年に公開されたソ連映画、エイゼンシュテイン監督の農村改革を描いた「全線」から付けられたそうである。(「銀幕の東京」川本三郎著) なるほど。

コールガールとして若き池内淳子さんも出てくる。やはり美しい。会社員である男・吉田さんは三原さんにも池内さんにも知られざる世界を案内してもらう事となる。

三原さんが、アジトから飛ばしたSOSの紙飛行機が、彼女を知っている刑事(細川俊夫)に偶然発見され二人は助かるのである。偶然過ぎるが、それが気にならないテンポと洒落と当時の風景がある。サスペンスに引きつけられながら当時の銀座にタイムスリップしているような魅力ある映画である。

追記: 川本三郎さんの本から銀座を探していたが、浅草も出てくるのである。まだ調べていない。

追記2: 『セクシー地帯(ライン)』観直すことができた。「全線座」確認できた。建物に「ホール全線座」とあり、屋上に「ZENSENZA」とある。(現在・銀座国際ホテル)

浅草の場面は、池内さんがエンコは私の古巣として吉田さんを案内する。六区で、夜なので二人の後ろに新世界の五重塔を模した塔が明々と映る。そして浅草日活の前を進む。広告には『大草原の渡り鳥』が。『堂堂たる人生』も同年である。

『昭和浅草映画地図』(中村実男著)には、セキネ(洋菓子)とあるが看板の「ネ」だけが映り洋菓子屋さんらしい。現在はと調べたら、同じ位置のようにおもえるが、セキネはシュウマイと肉まんのお店になっており確定できない。その他、すしや通り、新仲見世が映る。

銀座で、三原さんが吉田さんを追いかける場面で、路地の飲食店に「お多幸」の提灯が映る。日本橋のお多幸さんには行ったことがあるので調べたら、日本橋の前は銀座5丁目にあったということであり、その時のお店であろう。ただ、のれん分けもしていて違う経営のお多幸さんもあることを知る。

映画のタイトルが斬新で、外国雑誌の写真を切り張りして、間にキャストや出演者の名前を出している。夜の銀座、浅草の様子など、やはり魅了される映像の多い映画である。(撮影・須藤登)