すみだリバーウォークから横十間川岩井橋へ(3)

小名木川クローバー橋を後ろにしての水門橋。その下には横十間川親水公園の水上アスレチックがありました。

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次の三島橋の下を進みます。

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いよいよ岩井橋となります。が、工事中でした。

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南側はまだのようです。

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さてどうしてここらあたりを隠亡堀というのでしょう。

江戸時代火葬は市街地が形成されるにつれ、各寺院の境内の一角に荼毘所(だびしょ)や火屋(ひや)があったようですが江戸の街が大きくなるにつれ火葬場も郊外に移転し火葬専門の施設が生まれました。五つあったので、江戸五三昧(ざんまい)といわれました。(『江戸・東京の「謎」を歩く』より)その場所は諸説あるようです。

下記の葬儀社による江戸時代の火葬場の歴史では、岩井橋近くの砂村新田阿弥陀堂荼毘所が江戸五三昧に入っていたとしています。別名で隠坊堀炮烙(ほうろく)新田ともよばれていたとありその後のことも紹介されています。

設立前の歴史 (tokyohakuzen.co.jp)

江戸・東京の「謎」を歩く』(竹内正浩著)の<第六話 火葬場三百年史>では江戸五三昧は小塚原、千駄木、桐ケ谷、渋谷、炮烙新田とあり、岩井橋の近くに火葬場があったことは確かなようです。南北さんが<隠亡堀>での戸板返しを考えたのは、江戸の人々の共通の認識場所をえらんで仕掛けたのではないでしょうか。さらにきちんと荼毘にふさなかったお岩さんの怨念がここまで流れ着いたとしたのかもしれません。

南北さんは、芝居ファンへのサービスが旺盛で色々な意味を重ねてきます。でも今はそんな場所ということなど想像できない場所に変わっています。南北さんの選んだ場所に立てて、南北さんの頭の中がさらに少し見えたような気分にさせてくれました。

本では、上記葬儀社のことも書かれていて、偶然検索して見つけたところと重なって驚きました。こちらは現実的な火葬の問題から火葬場移転、運営の話にまで触れています。

『江戸・東京の「謎」を歩く』ではスカイツリーの面白いことも紹介しています。それは幕末に活躍した歌川国芳さんが東京スカイツリーを予言した錦絵を描いていたというものです。『東都三ツ股の図』。三ツ股とは隅田川と小名木川との合流地点のことだそうです。

歌川国芳「東都三ツ股の図」

「右手に永代橋と漁船が舫(もや)う佃島を描写し、正面左手には小名木川に深川万年橋が架かる。たぶん箱崎(日本橋箱崎町)あたりから隅田川ごしに深川方面を望んだものであろう。」

左は火の見櫓(やぐら)で右は「実は井戸掘りの櫓と見られている。」としていますが、それにしては高すぎるとしながら、筆者は解けない謎としています。

永代橋の右端に突き出ているものはなんでしょうね。それにしても三ツ股の塔はスカイツリーによく似ています。不思議な塔です。

歌川国芳を最初の師とした川鍋暁斎の娘さんが主人公の『星落ちて、なお』(澤田瞳子著)を読み終わったばかりで、国芳さんの出現にまたまた「来ましたか」と思いうれしくなりました。

さて歩きのほうは、ラストはテレビで時々紹介される砂町銀座へ。道をよくしらべていなかったので人に聞きつつ行き、どの道を進んだのかわかりません。突然商店街の路地があらわれたという感じでした。地下鉄や電車の駅からこんなに離れた商店街は初めてです。

商店街の道幅が狭いので左右のお店の品物が歩きつつ見えて、何の気兼ねもいらない日常が感じられる砂町銀座です。想像していたよりも商店街は長かったです。帰りは地下鉄都営新宿線西大島駅へ。途中で小名木川にかかっている進開橋を渡りました。プチ旅も大いに満足し終わりとなります。

追記: 砂町銀座商店街

追記2: 砂町銀座の映像はないのかなと探したら『孤独のグルメ』がでてきました。きっちり観たことがなかったのですが物語性もあるのですね。主人公は仕事の途中で砂町銀座商店街であさりめしとおでんやお惣菜を購入し、事務所でこれからしなくてはならない仕事前に食すのです。お惣菜などとの出会いと食べたときの感想に引き込まれました。砂町銀座の様子もほんわりです。

 

2021年8月15日(2)

映画『この子を残して』(1983年・木下恵介監督)は、被爆して亡くなられた永井隆さんの著書などから山田太一さんと木下恵介監督が脚色されたものです。永井隆さんが長崎医大で放射線の研究者で多くの肺結核の患者のレントゲン写真を撮り、それにより白血病になっていたのは知りませんでした。永井隆さんは放射線の利用価値とその恐ろしさを体験していたわけです。

奥さんに二人の子供たちを託していたのに奥さんは8月9日に原爆のため先に亡くなってしまうのです。永井さんは自分が死んだ後のことを考えて息子さんには特に自立を心がけて育てられ、映画では義母との意見の相違も生じていたりしました。

著書『この子を残して』と映画では多少違ったところも見受けられ、木下恵介監督は自分なりの反戦映画とされています。永井隆さんの著書は戦争孤児、原爆孤児に対する考え方に自分の子であったならという見方を人々に思い起こさせたと思います。ただ著書『この子を残して』での永井隆さんの原子力に対する考え方には少し疑問を感じた部分もありました。もし永井隆さんが福島の原子力発電所事故を知ったならどう考えられたであろうかとも思いました。

最後までカトリック信者として現実に真摯に向きあわれ、我が子のゆくすえや孤児にとって大切な事は何かを自問自答しつづけられていました。

映画『爆心 長崎の空』(2013年・日向寺太郎監督)。 我が子が具合が悪くなりあっという間に亡くなってしまった母親と、母からの携帯の電話に出なかった娘が帰ったら母が亡くなっていたという喪失感から自分を責める二人が出会います。子を失くした母親は被爆三世でそのことと関係があるのではないかと新たに宿した命をこの世に誕生させることに迷うのです。

出会った二人には、他の人には見えない者が見えていて、自分と同じに感じている人がいることがわかり、救いの一つとなり、周囲の人の考えも受け入れることができるようになるのでした。

映画『夕凪の街 桜の国』(2007年・佐々部清監督)。原作が『この世界の片隅に』のこうの史代さんで、淡々としていながら言いたいことはしっかり台詞で語っています。原爆は「落ちたのではなく落とされたのよ。」被爆した家族と生き残った家族の物語がこれで終わったわけではないと続きます。

自分の祖母と母が被爆していたことを知らされていなかった娘が黙って家を出る父の後をつけます。父は夜行バスで広島に向かいました。娘は友人と偶然再会し一緒にバスに乗り込みます。父は娘の知らない人々と会い、お墓参りをします。その追跡の旅で自分の記憶と照り合わせ、娘は自分の家族や血縁の人々に何が起こっていたかを知るのでした。

ドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』(2007年・スティーヴン・オカザキ監督)。60年前に被爆した子供たち14人がその時の事とその後を語ってくれます。残された映像記録の中に火傷を治療されている映像があり、治療の時にはあまりの痛さに「殺して!」の声が響いたそうですが、そうであろうと本当に思います。

原爆投下に係った4人の元米軍関係者の告白もあり、原爆の威力は誰も知らなかったことなのです。

スティーヴン・オカザキ監督の自身へのインタビューによりますと、この映画を撮るまでに25年の歳月が必要でした。被爆との出会いは、1980年代初めのサンフランシスコでの平和運動の中で友人達が中沢啓治さんの『はだしのゲン』の英訳に取り組んでいて、その作品に感銘を受けたのが最初だったそうです。中沢啓治さんも被爆者の一人として映像の中で当時の惨状を語られています。

その後、スティーヴン・オカザキ監督は「米国原爆被爆者協会」の会合を見学できるか問い合わせたところ、見知らぬ人がいると会員は落ち着かないので、あなたの映画を上映してはと言われ、子供用の短編映画を上映します。その時一人の女性会員から、自分たちの体験を世界に伝えるためにあなたは被爆者の映画を作るべきですとの発言があり、全員が賛成し、そこからやらなければならないと思われたそうです。

スティーヴン・オカザキ監督の短編映画を観た方たちは、この監督なら自分たちの想いを伝えてくれる映像を作ってくれると信頼したのでしょう。

それから10年経ち、スティーヴン・オカザキ監督の作品がアカデミー賞の短編映画賞を受け注目をされ、次は何を摂りたいかと聞かれ「原爆に関するドキュメンタリー」と答えます。

原爆投下から50周年にあたる1995年公開に向けて準備されますが、アメリカのスミソ二ア航空宇宙博物館での広島・長崎の被爆遺品や資料の展示が企画の段階で反発され、それが影響してスティーヴン・オカザキ監督の映画の制作側が手をひいてしまいます。

スティーヴン・オカザキ監督は自主製作で短編『マッシュルーム・クラブ』を撮ります。たとえ見る人がいなくても被爆者たちへのお返しになると思っての事でした。

アメリカの大手ケーブルテレビHBOから広島と長崎を撮らないかという話がきて監督の想い通りに撮って良いということで原爆投下60周年に向けて始動します。映画は完成し本作品は全米ではテレビで放送され、日本では劇場公開となりました。

政治的思惑の無い、体験した人がその事を伝え記憶に残してほしいとの想いが伝わるドキュメンタリーです。映画の始めに日本の若者たちに1945年8月6日と9日は何の日か知っていますかと聞きますが知っている人はいませんでした。

そういう私も2017年にこの映画が劇場で公開された時には観ていないのですから、若い人にとやかくいうことはできません。よくスティーヴン・オカザキ監督はこのドキュメンタリーを撮って残してくれたと思います。

アメリカでは真珠湾攻撃をして戦争を始めたのは日本人なのだから当たり前と思っている人が多いと想像できるなかで、この映像を観て違う目線で考えてくれる人もあるでしょう。忘れ去られてはいけないという信念の力であろうかと思います。

人は楽しい事の方が良いに決まっています。しかしきちんとした記録があればいつかそれを眼にし、立ち止まって振り返る時間を持つことが出来ます。

永井隆さんは『この子を残して』の最期に書かれています。

「この兄妹が大きくなってから、私の考えをどう批判するだろうか? 五十年もたてば、今の私よりずっと年上になるのだから、二人寄ってこの書をひらき、お父さんの考えも若かったのう、などと義歯を鳴らして語り合うかもしれないな。」

自分を批判するほどまでしっかりと生きてほしいということでしょう。映画ではしっかり生きて自分の道を歩まれる二人の兄妹が映されます。

テレビの特集や映画などを観ているとそれが重なってやっとそういうことであったのかと思うことがあります。時代も変わりますし、制作意図の思惑があったりしますので、目にすること聞くことがあれば、それを受け入れ自分の中で新たに知ったり考えるのが必要かと思います。たとえそれが1年に1回でも3年に1回でも。忘れてはいけないことでしょう。どんなときも弱い人たちがさらに苦しい立場に向かわなければならないということは悲しいことに変わらないのでしょうか。

戦争、災害、事故、病気、そして今回のような感染症なども。

仏教関係の映画からお坊さんの映画談義の本へ

仏教シネマ お坊さんが読み説く映画の中の生老病死』。釈徹宗さんと秋田光彦さん、お二人の映画談義です。お二人は住職をされていてさらに色々な活動もされているらしく、さらに映画好きというお坊さんなのです。

この映画は般若心経のこういう言葉の意味とつながりますとか話されるのかとおもっていましたら、そんな説教はありませんでした。読んでいるうちに、えっ!この映画も観ていたのですかと、勝手に親しみを覚えてそうそうあの映画のそういうところが面白かったですよねなどとうなずいたり、これ観なくてはとDVDを借りたりしました。

ただお二人にしますと映画は映画館で観るものでDVDなどは邪道なのです。映画を観たことにはならないのです。すいませんがこの邪道がたまらない魅力なのです。ずーっと気にかかる疑問などを映画館で観れるまで待っていられる忍耐性がなくなっています。近頃は配信なども利用しています。映画関係の本を読んでいて観たいと思い、観れるはずもないという映画を配信で巡り合えたりするのです。溝口健二監督の無声映画『瀧の白糸』もそのひとつです。この誘惑には抵抗し難い魅力があります。

邪道をやらなければ、映画関係の本など読まないでしょう。というわけで邪道者が参入させてもらいます。この本に出てくる映画は110本近くあり、そのうち観たのは50本ほどでした。ゆえに参入どころかチラッとまぜっかえして終わりということになります。

秋田光彦さんは映画製作にもたずさわれていて、秋田さんが原案の『カーテンコール』は観ました。佐々部清監督の映画を観ての『カーテンコール』への流れで、その時は原案がどんな方かなど知りませんでした。

映画館で映画と映画の間を繋ぐ幕間芸人(まくあいげいにん)の家族の話しです。かつて下関市の映画館で幕間芸人をしていた人を取材してほしいという依頼からタウン誌の女性記者が取材するのです。その彼女の過去や、映画産業の衰退、知られざる在日コリアン家族の別れと絆が彼女の取材で明らかになっていくのです。女性記者の粘りづよい取材が過去と現在と未来をつなぐことになるのです。

仏教シネマ お坊さんが読み説く映画の中の生老病死』の映画談義の中に出てくる映画に進みます。<お坊さんが読み説く映画の中の生老病死>とありますように、<生老病死>と一つ一つテーマごとに映画作品が登場します。到底全てに触れるわけにはいきませんので「第4章・死ぬ」で出てきた映画について少し。

死体がテーマの映画について言及があります。『スタンド・バイ・ミー』がそうです。少年たちは死体を探しにいきます。テーマ曲がたまりません。ヒッチコックの『ハリーの災難』は、死体によって生きている人間が翻弄されます。遺体は出てこないのですが誰が殺したのかという『8人の女たち』もオシャレで面白い映画でした。

日本映画では、『おくりびと』があります。アメリカでは、遺体に対し「日本人は、こんなに敬意を払うのか」と驚嘆されたのだそうです。私などは遺体を扱う人の仕事の大変さのほうをみていましたが、そういう見方もできるのだと気づかされました。

フラットライナーズ』は、医学生の一人ネルソンが人為的に死を経験して蘇生するという実験をするため4人の仲間(レイチェル、ダヴィッド、ジョー、ランディ)を集めます。臨死体験の実験なのです。かつて映画好きの知人から、若い頃のスターたちが出ているとの紹介で観たのです。5人の仲間の俳優は、キーファー・サザーランド、ジュリア・ロバーツ、ケヴィン・ベーコン、ウィリアム・ボールドウィン、オリヴァー・プラットです。

ネルソンは無事蘇生します。ところがそれから彼は少年に襲われるようになります。それは子供の頃いじめて亡くなった少年だったのです。そのことをネルソンは仲間に言わなかったので、ジョー、ダヴィッド、レイチェルと実験はつづきます。ダヴィッドは自分が過去の罪をよみがえらせて持ち帰ったことに気づき、その相手に謝り許しを得ます。

ネルソンは自分が死んで死後の世界でその子に謝るしかないと一人で死を選びます。それを察した仲間はネルソンを蘇生させようとします。ダヴィッドは、神の領域を犯した自分たちを許して下さいと祈ります。ネルソンは少年の許しを得て蘇生します。あきらめかけていた仲間たちは安堵します。この映画を観なおし死後の世界は神の領域というのが印象的なセリフでした。

お二人のこの映画に対する考え方が、臨死体験といっても深層心理のフタが開くだけで別に死をのぞいたわけでもなんでもないという描き方とされています。さらに、まじめに罪と向き合って告白することによって赦されるという典型的なキリスト教文化の図式とされます。

最初に観た時は、サイコ映画のようにただドキドキして観ていて、今回はダヴィッドが救いの道を見つけたのかと流れが捉えられたので、お二人の観方にも素直に納得できました。

一番興味深く納得できるというかそうすれば落ち着くと思わされたのが、釈徹宗さんが今思いつきましたと言われたことです。小津安二郎の超ローアングルは、死者のまなざしじゃないですかという考えです。『東京物語』を例にとられているのですが、私が気になっていたのは誰もいなくなった家の廊下などからの長い静止の映像です。なんでこんなに長く映しているのかと思うのです。

飛躍しすぎますが、いつかは誰もいなくなるという死者のまなざしだとすればあのくらいの長さがあっても当然と思えます。上手く言えませんが淋しさとかも静かに超えて無心になっていく時間のようにも思えてきました。何かを語りたいという死者のまなざしが静かに引いて行く何とも言えない時間空間の感覚。

もう少し時間を置いてから小津安二郎監督の映画は観なおしてみます。全然的外れでしたということにもなりかねませんが。

というわけで、お二人の映画談義からいただいた自分勝手な搾取のほんの一部分だけの紹介でした。

邪道でも半分しか観ていませんからね。これだけの、いえもっと観られているのでしょうが、映画館で観られていたというのはどういう時間の使い方をされておられたのでしょうか。摩訶不思議です。『人生、ここにあり!』のやればできるの精神でしょうか。

追記: 登場人物があの世からこの世へ姿を現すのが多いのが今月の新橋演舞場の『おあきと春団治~お姉ちゃんにまかしとき~』です。伝説的になっている春団治をバックアップしていたのが姉のおあきであったという視点です。そのお姉ちゃんが春団治の娘にお父ちゃんのお見舞いに行ってあげてと頼みます。藤山直美さん、これといった演技をしているようには見えないのです。それでいながらじ~んと胸にきます。なんやろ、これ死人技(しびとわざ)? 芸の極み?

ドキュメンタリー『ようこそ映画音響の世界へ』から映画『近松物語』(2)

映画『近松物語』は、歌舞伎の下座音楽を主体でもちいています。音楽担当は早坂文雄さんです。早坂さんは黒澤明監督映画の音楽も多く担当し溝口健二監督とは『雪夫人絵図』『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』『楊貴妃』『新・平家物語』を担当しています。

タイトルで邦楽の伝統楽器での音楽が流れます。物語が始まるとしばらく音楽がありません。不義のために刑場へ行く男女二人の馬上の行列が映されて初めて音楽が流れます。それは不吉な感情を呼び起こさせます。映画的もその計算で挿入されています。この登場人物たちに、これだけ栄えている家にも起こるかもしれないという。

そして、おさんと茂兵衛が会話する場面からまた音楽が入ります。音楽と言っても盛り立てるような旋律とは違います。秋山邦晴さんは、「「近松物語」の一音の論理」で、下座音楽で「現代劇でみられるような人間の心のうごきをの表現として使っている。」としています。

観ているほうは、登場人物たちは気がついていないであろうが事態が悪い方へ悪い方へと引っ張られていくのを感じます。音楽もその方向へ静かに運んで行きます。観ているほうの気分と音が共鳴していくように感じます。

邦楽楽器としては、横笛、締め太鼓、大太鼓、三味線、附け打ちなどが使われています。これらの楽器の「一音」に秋山さんは注目しています。

「太棹三味線の一撥(いちばち)、横笛の一吹き、大太鼓の一打による一音は、その一音だけの存在そのものが複雑であり、それ自体ですでに完結しているともいえる。いくつかの音の関係で旋律や和声という組織によって意味をうちだす西洋音楽とは対比的に、一音の存在それ自体によって意味をもつのである。」

歌舞伎ではこの一音で、風、雨、雪、波などの自然現象を表す効果音がすでに出来上がっていました。それは生で聞く音です。秋山さんは映画音楽の録音という特色から早坂さんが、マイクロフォンを通してその増幅を普段聞いたことのない人にも下座音楽や日本の伝統楽器をの力をつきつけたというのです。

私が興味ひかれたのは、茂兵衛とおさんが茂兵衛の実家に隠れているところを捕まってしまい、茂兵衛とおさんは引き離されてしまう場面です。そのとき附け打ちの音が激しくなります。その後この付け打ちが要所要所で用いられ、観ている者の不安感を増幅させます。

行き先きはハリツケという映像がすでにインプットされていますからそうはさせたくないという願望がわいてくるわけですが、無情にも附け打ちがもう行き先きは決まっているといっているように思わせるのです。

秋山さんは、音楽による心理描写といわれましたが、私には、もっと全体を包む大きな力として感じました。

恋愛は認められないという観念です。さらに身分違いの恋愛は認められず、男性は浮気はいいが女性はならぬということです。おさんも茂兵衛も決まりの枠に収まっていたのです。大経師の主人にとっては、不義密通が家没落となるためとんでもないことなわけです。ただし事が大きくなる原因は主人が作っているのです。おさんの説明をきちんと認めればよかったのです。

おさんは実家のために結婚をし、実家のためにお金をなんとかしようとして茂兵衛に相談します。おさんの衣装はモノクロの映像で美しい光沢を出します。美しく着飾っていてもそれは形式美で満たされてはいないのです。

茂兵衛はおさんを想う心から何とかしようとして主人に見放される。それを助けようとする茂兵衛を想う女中のお玉。お玉は主人に口説かれていたのです。

強欲な人は別として登場人物は良い方向へともがくのですがそれが悪い方向へと転がってしまう力。それに音楽が添っているように思えるのです。

茂兵衛は貧しい家の出です。雇い主のもとで認められ出世するのが夢でしたが、おさんに恋心を抱き、それがかなえられる。それでも、何とかおさんだけは生かそうと考えますが、おさんのほうが自分のいままでの犠牲に成り立っていた生き方に我慢ならなくなり、さらに愛を得るのです。おさんの気持ちの強さに茂兵衛は引っ張られていきます。

ところが強い愛をあざ笑うように観ている者をも不安にさせていく音楽。特に後半の附け打ちの音には効果がありました。

言ってみれば、秋山さんとは違う音楽の感じ方をしていたように思います。

そしてやはり溝口監督はスター長谷川一夫を弱めることはできなかったと再認識です。長谷川一夫さんが大写しになるとやはりスターのオーラを発してしまうのです。立ち振る舞いが美しいですからカメラが引いていても美し映像となります。それがアップになるとやはりスターなのです。

最初に観た印象は簡単には払しょくされないようです。

色々な見方が発見できるのは楽しいことですし、新たなる視点をもらえます。そして、それを陰で工夫している映画にたずさわる人々の想いも素敵です。

ようこそ映画音響の世界へ』の音響スタッフが、こんな楽しいことはないしお金ももらえてとのコメントがいいですね。

近松物語』に劇化・川口松太郎さんの名前があります。川口松太郎さんの戯曲『おさん茂兵衛』が下敷きともなっているのです。川口さんと溝口さんは浅草の石浜小学校で同級生だったのです。お二人とも小学校しか出ていません。お二人の対談で川口さんはそのころの様子を、「『たけくらべ』だね。まるっきり・・・。」といわれています。さすがぱっと情景が浮かぶコトバです。

追記: アンハッピーな映画が続いた後は録画しているBS時代劇『大富豪同心2』を観ます。相変わらずほわーんの卯之吉のそっくりさんの幸千代登場。性格が違うので卯之吉の性格の良さがくっきり。いいぞ!中町隼人! 間違いました  中村隼人!

ドキュメンタリー『ようこそ映画音響の世界へ』から映画『近松物語』(1)

ドキュメンタリー『ようこそ映画音響の世界へ』(2020年・ミッジ・コスティン監督)は、音響が映像に隠れていた位置を前面に押し出してくれて、映画の歴史をも教えてくれるドキュメンタリー映画でした。出てくる映画を観なおさなくてはと思わせてくれ、何といってもわかりやすいのです。無声映画からトーキーとなり音響の効果と工夫が、マニアックに収集していた人の起用により発展をとげるのです。

一時、ハリウッドは映画を量産し、効果音もスタジオが所有しているものを使いまわしで、拳銃の音も爆発音も同じ音という状態でした。会社は映像ありきで、音は何の力もないとしていたのです。

ところが、そのうち映画はテレビに変わり衰退します。そこから新たな世代の監督たちの音への重要性と工夫がはじまるのです。映像よりも音のほうが観客の感情を引き付けるとしたのです。

スターウォーズ』はシンセサイザーの電子音とおもっていました。ところが、一年間生の音を探し録音し新たな音を作り出していたのです。人間の声と動物の声を重ねたりと観ていて楽しくなってしまいます。

ヒッチコック映画の恐怖を呼び起こす効果音や音楽についてはほかの映像で観ていましたので理解はしていましたが、この世に存在しない登場者やロボットなどの言葉をどうするかなど、こう作られたのかとその手腕に感嘆します。

監督が音響デザイナーとして活躍された方なので、やはり説得力があります。

さてそこから近松映画へというのはどういうことかといいますと、興味深い文章からなのです。

溝口健二集成』(キネマ旬報等からの記事を集めたもの)中に 「「近松物語」の一音の論理」(秋山邦晴)の一文がありました。

日本に映画音楽に邦楽器が早くから使われていて、その前の無声映画時代にも、弁士とともに伴奏音楽として洋楽器とともに参加していたというのです。これは映画『カツベン!』(2019年・周防正行監督)を観れば洋画も時代劇も和洋楽器の合奏で弁士の語りを違和感なく耳にすることができます。

カツベン!』のラストにクレジットがでます。

「 かつて映画はサイレントの時代があった しかし日本には 真のサイレントの時代はなかった なぜなら「活動弁士」と呼ばれる人々がいたから 映画監督 稲垣浩 」

洋画のサイレントの字幕が外国語ですから、それを伝えるために活弁が始まったのかもしれません。そうなると上手、下手が生じ、映像の説明も朗々と伝える芸に代わっていったのでしょう。それが洋画」だけではなく邦画でも続いたのであろうとの個人的予想です。

ハリウッドでは、楽団が音楽を演奏し、台詞はスクリーンの裏でしゃべったようです。そのため効果音の演奏者も映画と共に旅をしたようです。

1877年にト―マス・エジソンが蓄音機を発明します。目的は映画で映像と音の同時再生だったようですが失敗してしまいます。エジソンの志は高かったのです。

1926年、ワーナー社が『ドン・ファン』で音声トラックとして機械で映写機に接続し、映像と音楽が合体するのです。

ハリウッドの話しではなく溝口健二監督の『近松物語』の一音の話しでした。

音の前に、佐藤忠男さんが『溝口健二の世界』で、『近松物語』を「西欧的なラブ・ロマンス」としていますのでその事を少し。

私は 市川雷蔵・小説『金閣寺』・映画『炎上』(2) で、<『近松物語』は長谷川一夫さんに色気と貫禄があり過ぎて長谷川一夫さんは溝口作品向きではないとおもいました。>と書きました。

佐藤忠男さんは、溝口監督がヒロインたちに彼女たちにふさわしい美しい男性と素晴らしいラブシーンを展開する映画はあまりつくっていないとし、日本的な恋愛映画として『滝の白糸』『残菊物語』『お遊さま』をあげています。これは納得です。

そして「西欧的なラブ・ロマンスを彼が創造したのは、あるいは最晩年の1954年作品である「近松物語」だけであるかもしれない。」としているのです。

私が違和感をもったのは、それまでの溝口作品とは違って愛のためにと駆り立てられひたすら引き離されても会うために行動する激しさだったのです。それともうひとつは、おさんと茂兵衛が琵琶湖で死のうとする場面が美しいのです。ここで終わってほしいという願望でもありました。なぜなら、不義のため刑場に送られる馬上の二人をおさんは実際にみていて、あさましい、主人に殺された方がいいのにとまで言っているのです。

ところが溝口監督は、近松の道徳的解釈から、西鶴の好色さも加えて西洋的ラブ・ロマンスにしたと佐藤忠男さんはいうのです。近松の『大経師昔暦』と西鶴の『好色五人女』巻三をひもといて解説しているのです。ここは二つの作品を丁寧に比較しなかったので参考になりました。

死を覚悟したのでもう言葉にしてもいいだろうと茂兵衛は前からおさんをお慕い申し上げていましたと心の内を伝えるのです。ここで何もかもが変わります。おさんは死にたくないというのです。愛にめざめてしまったのです。

そして、佐藤忠男さんはここから「伝統的な二枚目を型どおりに演じている長谷川一夫が、後半、積極的に恋に生きる決意をしてから、恋人のために決然として運命と闘う西欧的ロマンスのヒーローになるのである。」とし、さらに溝口監督が「その晩年の円熟の絶頂期ともいえるこの作品において、はじめて、二枚目にヒーローとしての力強さを加えることができたのだった。」と活動弁士並みの力の入れようです。

そう捉えるのですか。

今度は、秋山邦晴さんの「「近松物語」の一音の論理」を参考にして再度見直してみることにします。

『更級日記』にて京の都へ(4)

平安時代に書かれた『更級日記』の筆者は、菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)とされています。お父さんの菅原孝標は貴族の役人で、地方を治めるために任を受けて上総介(かずさのすけ)として赴任していました。娘も一緒についてきていてその任期が終わり京にもどることになります。任地は今の千葉県市原市付近とされ、娘は13才です。

任期が何年だったのかはわかりませんが、筆者は、あづま路のはてよりももっと奥で自分は世間しらずの田舎者と思っています。そんな娘心をなぐさめてくれたのが物語です。

特に都で流行っているという『源氏物語』に心ひかれています。周囲からその物語の一部を聞き知って、早く都に帰れて全部読めますように薬師仏にお祈りまでしています。光源氏にあこがれ、現代にも通じるような娘さんだったのです。

出立は9月3日で京都に入ったのが12月2日ですから約3ヶ月の旅です。長い旅です。

上総の国 *ふりかえると薬師様が見え人知れず泣く 

下総の国(いかた、ままの長者跡、くろとの浜、太井川のまつさとの渡し)*お産をした乳母と分れる

→ 武蔵の国(竹芝の坂、あすだ川の渡し)*筆者はあすだ川を業平が「いざこと問はむみやこどり」と詠んだすみだ川と勘違いしている 

→ 相模の国(にしとみ、唐土が原、足柄山)*やっとの思いで足柄山を越える 

→ 駿河の国(関山、横走の関、富士山、清見が関、田子の浦、大井川の渡し、富士川、ぬまじり)*ぬまじりをでてから筆者は患う 

→ 遠江の国(さやの中山、天竜川、浜名の橋、いのはな坂)*天竜川を渡る前数日滞在し筆者の病いおさまる 

→ 三河の国(高師の浜、八つ橋、二むらの山、宮地山、しかすがのわたり)*八つ橋は名ばかりで橋もなく見どころもないが宮地山は10月末で紅葉が残っていて美しかった

→ 尾張の国(鳴海の浦、墨俣の渡し)*鳴海の浦では潮が満ちないうちにと走る 

→ 美濃の国(野がみ、不破の関、あつみの山)*のがみでは雪がふる 

→ 近江の国(みつさかの山、犬上、神崎、野洲、くるもと、湖上になでしまと竹生島、勢多の橋、粟津)*勢多の橋は全部くずれていて渡るのに難渋 

→ 京の都に入る(逢坂の関)その夜、三条の宮(一条天皇の皇女修子内親王)のお邸の西にある家に到着。*家はあれていて深山の木のような樹木があり都の中とは思えない有様

平安時代と江戸時代の東海道の道筋はやはりちがっています。三カ月ですから病がおこることもありました。武蔵の国は今の東京をふくんでいますが「葦や萩のみが高く生えて、馬に乗って持った弓の上端部が見えぬまで、高く生い茂っていて、そんな中を分けていく」とあります。

富士山については次のように表現しています。

「普通の山とはすっかりちがった山の姿が、紺青(こんじょう)を塗ったようですのに、頂には消えるときもない雪が降り積もっておりますので、色の濃い衣に白い相(あこめ)を着たように見えており、山頂の少し平らになっている部分からは煙が立ちのぼっております。夕暮れには、火の燃え立っているのも見られます。」

たくさんの国々を通り過ぎてきたが、駿河の清見が関(きよみがせき)と逢坂の関(おうさかのせき)ほどいいところはないとも記しています。

美しい風景も通過しますが、江戸時代のように宿場があって宿屋に泊まるという状態ではなく仮小屋のときもあるようで、時には仮小屋が浮いてしまうくらい雨が降ったりもします。大変な旅であったのが想像出来ます。のちに父親が再び常陸介(ひたちのすけ)として任官しますが、その別れにもう逢えないのではないかと泣き崩れます。よくわかります。

追記: 清見が関は現在の清見寺(せいけんじ)あたりであったようです。江戸時代の興津宿(おきつじゅく)です。残念ながら更級日記の筆者が素晴らしいと言った風景ではありません。清見寺の総門先に東海道線が走りそれを渡って境内に入ります。見どころの多い寺院です。

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追記2: 逢坂の関の風景も史跡のみです。

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逢坂の関源氏物語関屋では空蝉(うつせみ)との再会の場でもある。常陸介となった夫と共に下った空蝉が戻る途中、光源氏石山寺に参詣に向かう途中、この逢坂の関で出会うのである。まだ筆者はその場面を知らないなら、源氏物語を手にして読んだとき、あの美しいところだと思ったことであろう。女性達が夢中になるだけのしかけは物語としてきちんと計算されている。

追記3: 誰が出会って逢坂と名前がついたのか気にかかります。写真を整理していて見つかりました。

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日本書紀』 親功皇后の将軍・武内宿禰(たけうちのすくね)がこの地で忍熊王(おしくまのみこ)とばったり出会ったことに由来とあります。筆者が京に戻った時はまだ関寺は建設途中でした。次に石山寺に向かうときには立派にでき上っていました。

映画『わが母の記』から『更級日記』(3)

映画『わが母の記』から井上靖さんの『姥捨』にたどり着いたがそこからどこへ行ったのか。

姥捨』の<私>は場所的に姥捨駅もその附近も知らなかった。母の言葉がきっかけで信州を旅する時は車窓から姥捨の風景をとらえるようになった。

「丘陵の中腹にある姥捨という小駅を通過する度に、そこから一望のもとに見降ろせる善光寺平(ぜんこうじだいら)や、その平原を蛇の腹のような冷たい光を見せながらその名の如く曲がりくねって流れている千曲川(ちくまがわ)を、他の場所の風景のように無心には眺めることができなかった。」

実際にはここに書かれている通りの風景であるが当時棚田が今のような姿であったかどうかはわからない。<私>が無心になれないのは、その場所には老いた母が座っていて、ある時には「自分が母を背負い、その附近をさまよい歩いている情景を眼に浮かべた。」ここは観月の場所でもあるが、<私>はそのことには殆ど関心をもたなかった。

<私>はその心持ちのまま、その後、志賀高原に行った帰りに戸倉温泉に泊まり、車で姥捨駅にむかいそこで降りて運転手に案内されて長楽寺にむかうのである。眼にする山々は紅葉していた。

道は自然に巨大な岩石の上に出た。捨てられた老婆が石になったとされる姥石の頂上である。そこで善光寺平の美しい秋の眺望を見下ろしている。そこから降りて長楽寺の庫裡(くり)の前にで声をかけるが返事がないので、観月堂で休む。運転手の「月より紅葉の方がよさそうですね」との言葉に、<私>は同意するのである。

道筋をいえばこんな感じなのである。私は暑い時期に姨捨駅(篠ノ井線)から長楽寺に歩いていったのであるが、そんな感じであったと思い出させてもらった。

姥捨駅の名前にひきつけられ、車窓から見たその風景の棚田を歩いてみたいと実行したのである。暑くて棚田を散策するのは風流とは言えなかった。その旅の時に手に入れた本があったのを思い出した。『地名遺産 さらしな ~都人のあこがれ、そして今』(大谷善邦著)である。長楽寺の後に行った「おばすて観光会館」で購入したのであろう。

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きちんと読んでいなかったのである。大変わかりやすくまとめられている本で奈良、平安のころから<さらしな>の地名が知られていてそのさらしの里(更級郡)の一部が<姨捨>なのだそうである。地元では冠着山(かむきりやま)と呼んでいる山が都人には姨捨山として知られていたらしいのです。

井上靖さんも棄老伝説は各地にあったがそれが一つに集約され、古代は小長谷山、中世は冠着山が姨捨山となったとしている。映画『わが母の記』の八重さんが月の名称なら捨てられてもいいといったように、美しい月の光に包まれた場所というのが棄老伝説の重要な要素であったのかもしれない。さらに雪に包まれて静かに眠る場所であることも。

地名遺産 さらしな ~都人のあこがれ、そして今』では<さらしな>についていろいろな角度から書かれていて『更級日記(さらしなにっき)』にも触れられていた。

「最初の約5分の1は、父親の任が解けて都に戻るまでの、今の東海道をたどる旅でのエピソードなどが紹介されています。」

東海道の旅。平安時代の東海道の旅を垣間見れるのである。即反応しました。手もとにある『更級日記』の現代語訳の本を開いたらその訳者が井上靖さんでした。ここまでひっぱてくれたのは井上靖さんのあやつりの糸だったのでしょうか。素敵なあやつり糸でした。

追記: 千曲市が昨年日本遺産になっていました。

「月の都 千曲」が令和2年度文化庁日本遺産に認定されました | 千曲市 (chikuma.lg.jp)

 追記2:

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映画『あすなろ物語』『わが母の記』(2)

映画『わが母の記』は、映画『あすなろ物語』の主人公が小説家になっているというつなぎで鑑賞しなおした。それぞれが独立した映画ではあるが。そこに井上靖さんの小説なども加えてみた。

映画『わが母の記』(2012年・原田眞人監督)も原作は井上靖さんである。小説家の伊上洪作(役所広司)が母・八重(樹木希林)に幼い頃捨てられたという想いの強さから逃れられないでいた。そのことを確かめたいがはっきりさせることができないでいた。そのうち母が認知症となり母にきちんと通じているかどうかわからないが、それとなく聞き出そうとする。おもいがけず母がそばにいない息子と心の中で交流していたことを知るのである。

映画『あすなろ物語』で鮎太が蔵で一緒に暮らすお婆さんが、映画『わが母の記』では、<土蔵のばあちゃん>とよばれていて、彼女が洪作の曾祖父のお妾さんであったことがあかされる。母・八重の戸籍を独立させ分家とし、八重の母とされたのである。戸籍上<土蔵のばあちゃん>は洪作の祖母となるわけである。<土蔵のばあちゃん>の立場は守られたのである。さらにその彼女のものとに八重の子供が預けられたのであるから彼女にとって洪作はかけがえのない存在であったと思われる。

母の八重は、洪作を迎えに行くがその時は洪作は<土蔵のばあちゃん>のおぬいばあさんとの生活に慣れ親しんでいたのであろう。八重は息子をおぬいに盗られたと思っている。洪作は迎えに来なかったとしている。八重と洪作のづれがそこにある。

洪作少年はおぬいさんのわけありの立場が子供心に何んとなくわかっていたであろう。本家には裏から入りその板の間で挨拶しそこから先へは絶対入らなかったそうである。洪作少年がおぬいさんと一緒に暮らすことで彼女の立場は実質的にも守られていたのである。

グウドル氏の手袋』(井上靖著)によると、作家が湯ヶ島の郷里で6歳から11歳まで一緒に暮らしていた女性はかいといい、60歳の声をきいていたとされる。彼女が曾祖父・潔と出会ったのは18、9歳の時東京で芸者に出ていた時である。潔が40歳で郷里に引っ込んで開業することになり曾祖父の第二夫人として姿をあらわした。その時彼女は26歳であった。それから30数年後、母屋は人に貸し小さな土蔵の二回で少年とおばあさんは住んだのである。

世間のかのさんに対する受けの悪さに反して少年はかのさんに毎晩抱かれて眠る生活に何も不満はなかった。ただ一つ自分の成績が悪いと小学校の教員室へ文句をつけに行くことをのぞけば。

映画『わが母の記』のなかで、八重が口ずさむ。「姥捨山(おばすてやま)は月の名称だってね。そんなところなら捨てられた老人も案外喜んでもいたかもしれない。」今そのおふれがあったら自分も喜んで行くという。洪作の妹たちは嫌味であると憤慨する。

洪作は姥捨山の絵本を伊豆に行く時母に貰ったのを思い出す。母を捨てるなんてと涙を流したのである。この姥捨山もこの映画の流れの中では大事な押さえどころでもある。この絵本は母と洪作の誰も探したことのない行くべき海峡をみつける道筋となる。

ここでは『姥捨』(井上靖著)に触れる。作者が母を捨てるという話を聴いて涙したのは五つか六つのときであった。その後、姥捨山説話の絵本「おばすて山」を叔母からもらったのが10か11歳の時である。

昔信濃の国に老人嫌いの国主がいて70歳になったら山に捨てるようにとおふれをだす。ある息子はどしても母を捨てることが出来ず床下に隠すのである。隣国から国主に使いが来る。次の三つの問題が解けなければ国を攻め亡ぼすと。この難問を解いたのが床下の老母であった。老母の知恵の大切さを知った国主は老人を尊ぶようになるのである。

後年大学生となり郷里の土蔵でその絵本をみつける。そこに描かれている月に照らされた母を背負う息子の姿は子供心にも強烈な印象を与えたことがわかるのである。母が70歳になったとき、映画の八重と同じようなこという。それから作者は信濃への旅の途中で姥捨駅を通過するときこの絵本の母子を母と自分に置き換えて想像の世界に入っていく。

その後作者は実際に戸倉温泉から車で姥捨駅にむかい姥捨の地に立つのである。

映画『あすなろ物語』は、会社からにらまれるほど撮影場所を吟味し時間をかけただけあって特に鮎太の小学生時代の自然がいい。映画『わが母の記』も伊豆の家の周辺が郷愁をさそう風景で八重が東京を嫌うので軽井沢の別荘に連れて行くという設定も丁寧である。

人間の心情と自然が上手く相乗効果を与えあって観る者をひきつけ良質の流れにのせてくれる作品である。

伊藤若冲(2)

若冲』(澤田瞳子著)。小説を読みつつ若冲さんの絵を眺め、旅の思い出などもフル回転しつつ刺激的な新たな旅をさせてもらった。チラッ、チラッとテレビドラマも浮かぶ。『若冲』も史実では書かれていないことを大胆に話の中心に持ってきていて、どうしてこの絵が描かれたのかというところに物語性があって若冲さんの絵の強烈さからくる発想であった。そのことによってより若冲さんの絵に視線がいく。

若冲』ではその絵に描かれている鳥、魚、動物の視線にも注目している。仲の好い鴛鴦(おしどり)が視線を合わせることがない。それも、雌のほうは水に上半身を沈めているのである。雄の方は陸で雌を無視したようにはるか先に視線がいっている。小説は若冲さんが妻をめとったことがあるという設定となっているのである。非常に大胆である。そして雄鳥の視線にも関係してくるのである。

次々と若冲さんの一つ一つの作画の動機が明らかにされていく。推理小説の動機は何かの探求とも類似していてそれが若冲さんの40歳から始まって、若冲さんが亡くなって四十九日の法要まで書かれているのである。そこまで若冲さんの絵は関係者の心の中で渦を巻き続けるのである。語り手は母の異なる妹である。ぐんぐん引っ張ってくれる。

若冲さんの家族は、法名しかわかっていないため異母妹なのかどうかはわからない。ただこの妹さんは後家となって子供一人と共に石峰寺で晩年の若冲さんと暮らしていたようである。若冲さんは、自分の生まれた錦高倉市場から離れた、深草の石峰寺に移ってそこで亡くなっている。

若冲さんは、相国寺の大典さんとの交流から黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山萬福寺の僧とも交流があり、萬福寺の住持から道号を与えられている。在家ということであろうか。そして石峰寺に五百羅漢の石仏を造像するのである。相国寺に生前墓を建てているが明和の大火で錦町内と相国寺との永代供養の契約を反故にしている。そのため、相国寺と石峰寺の両方にお墓がある。

京都を旅した時、石峰寺で若冲さんの五百羅漢に出会った。すぐそばで眺められたが肩透かしをうけたような感覚であった。あまりにも近くに無防備にそこにあり、石像は素朴な表情なのである。それは伏見人形の影響のようにおもわれる。萬福寺は満腹の様子の布袋像と僧たちが食事をする建物の前に掲げられていた大きな木魚が記憶に残っている。黄檗宗のお寺は中国的な雰囲気のお寺である。

若冲』には、円山応挙、池大雅そして与謝野蕪村、谷文晁(たにぶんちょう)も登場し、さらに応挙の息子・応瑞(おうずい)も登場する。テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』で、大典との淀川下りの時に大典さんが『上方萬番付(かみがたよろづばんづけ)』に載っている絵師の番づけを紹介する。実際には『平安人物志』と思うが応挙、若冲、大雅の順番はもっとあとに発表された番づけで、若冲さんが60歳の時のものである。4番に蕪村さんの名前がある。応挙、若冲、大雅、蕪村の順番は若冲さんが67歳の時も同じであった。

応挙さんが一番というのは、犬の絵を観ればわかる。応挙さんの描く犬は、観る人が可愛いと思う犬なのである。人が見て可愛いと思わせる犬を描いている。ところが、若冲さんの描く犬は、仲よくじゃれ合っているのだが視線が微妙にずれていて、何か考えているのと聴きたくなるのである。一匹一匹が自己主張しているようなのである。題名は「百犬図」で60匹ほどいるが、主人公がいないというより、一匹一匹全部が主人公なのである。

観る者にシリアスにも見え、見方によってはユーモアとも受け取れるのである。一つの観方で満足するような絵ではないのである。

小説『若冲』もテレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』もそんな絵から派生し、動機づけを模索したくなる力がある絵ということである。

小説『等伯』(安部龍太郎著)もあると知った。これまた惹きつけられる。

テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』 16日(土)BSプレミアム 夜9時~10時30分「完全版」 放送あり

追記: テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』の放送を紹介した友人たちの評判がよかった。七之助さんを久しぶりでみた歌舞伎ファンは上手くなったと絶賛。絵を描く姿がきたえられた女形の美しさだと。

追記2: 若冲大好きなひとは。久々にドラマたのしんだ。脚色してあるのだろうが良い意味で面白かった。キャストもあっていた。時間内によく収まってもっと見たかったがあれでちょうどよいのかも。コロナでなければランチしながら若冲の事話したい。

追記3: ある人は。なかなか深い。芸術家ならではの心の純な処が(若冲と僧)いっそう前に進ませる物があり~同じ志の者が自然に集まり、より良い絵を作りだしていく。凄いなぁ~日本人にも、こんな絵を描く人がいたんだなぁ~と感心して見ていました。色彩が鮮やかで、どこが創作で、どこが史実かは、私にはわかりませんですが、そのまま心にはまりました。

追記4: 身体的表現者の方々の体調不良のお知らせを目にします。この時期ですので経験以上の精神的負担が大きい事でしょう。過剰なプロ意識は避けて充分に休養されることをお願いします。

『類』(朝井まかて著)迷走編(5)

終わるつもりがどんどん深入りして道に迷い始めている。楽しいので横路があれば曲り、行き止まりになってもどったりとなかなかの味わいある迷走路である。

荷風追想』。荷風さんを追想する59人のかたの文章が集められている。

その中に於菟さんの『永井荷風さんと父』、小堀杏奴さんの『戦時中の荷風先生』、茉莉さんの『「フジキチン」ー 荷風の霧』がのっている。類さんの文章はのっていないが、茉莉さんの文章に登場している。それも不律(ふりつ)という名前にしていて、不律さんは亡くなった茉莉さんの弟であり、杏奴さん、類さんのお兄さんである。『荷風追想』に鷗外さんの5人の子供たちが登場したことになる。

於菟さんは、『荷風全集』の附録に書かれたもので、荷風さんの『日和下駄』の「崖」の章の一節に書かれている観潮楼の内部の様子が「情緒を最もよく表している」とし、「時を同じゅうし齢を異にし、しかも心と心とのぴったり合った二文人の出会いを描いた『日和下駄』」をしみじみ読み直してもらいたいとしている。

小堀杏奴さんはご夫婦で荷風さんを訪ねられ、交流があり、戦時中ゆえ品物を届けられたりした様子などが書かれている。これほど親しくされていたというのは初めて知り驚きであった。戦後も市川の菅野の住まいまで訪ねられたようである。

茉莉さんのは、小説となっている。主人公の私は弟の不律と浅草で映画を見たあとにレストラン「フジキチン」に入る。この店は新聞記者が永井荷風を見つけたという場所であった。店の内部の様子から荷風は「欧羅巴(ヨーロッパ)を思い出すんで、くるんだね。」と不律はいう。姉と弟は自分たちの世界に入り込み荷風の話をする。ここでの弟は不律の名をかぶせられた類さんである。

茉莉さんの弟であり類さんの兄である不律さんは1907年8月に生まれ次の年の2月には亡くなっているのである。半年という短い命であった。不律さんと茉莉さんは百日咳にかかり、この可愛い弟が亡くなった時彼女の容態も風前の灯状態であった。もしかすると茉莉さんも駄目かもしれないと一緒に弔うことになるかもという状況であったが奇跡的に茉莉さんは回復するのである。

不律という名前を登場させたのは、あの弟が生きていればこのように語り合ったかもしれないし、もっと違う話をしていただろうかとの想いがあったのかもしれない。他の兄弟とは違う特別の想いが時々生じていたような気がする。

類さん(不律)の状況を姉はみつめる。「不律は頭蓋を締めつけている、コンプレックスという鉱鉄(かね)の輪を、決して脱いではならない冠のように、頭に嵌(は)めていた。途って遣ろうと思う人があっても、除って遣ることが出来ない、それは神が嵌めた輪のように、みえた。自分自身だけの狭い、固い考えの中に縮んまっている為に不律は、人間に馴れない鳥のような眼をした、純朴な男のように、見えるのである。」的確に表現されている。

杏奴さんは、『晩年の父』を荷風さんに贈ったとき「鷗外を語るもののうち、大一等の書と存ぜられ候」との言葉をもらっている。そして対面するのである。

茉莉さんは終戦後、市川真間の荷風さんを訪ねている。自分の原稿を読んでもらうためである。原稿を差し出すや荷風さんの「笑顔は忽ち消えた。」市川真間時代の荷風さんは「他人への心持ちも、変っていたようだ。」茉莉さんは鴎外の子という特権を利用したわけではない。純粋に文学者荷風の眼で文章をみてもらいたかったのである。

真間時代の荷風は杏奴さんが接したころの荷風とは違う人であった。しかし茉莉さんは「荷風の文学が、鷗外なぞは遠く及ばぬ情緒の文学であることは、それらの欠点を帳消しにして、尚余るものであることも、私は知っている。」と荷風文学の魅力に対し変わることはなかった。これは茉莉さんの『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』に書かれているがこの著書が鷗外周辺を離れての上級の迷走路の糧でもある。

類さんの『鴎外の子供たち』(ちくま文庫)も手にすることができた。『森家の人びと 鷗外の末子の眼から』に載っていない文章があり、写真もあり、観潮楼の図面があってこれによって飛躍的に森家の人々の行動の立体化の助けとなってくれた。

写真の中に志げ夫人の写真があり、ちょっと衣装に不思議な気がした。この疑問は杏奴さんが編さんしている森鴎外『妻への手紙』でわかったのである。鷗外さんは妻に写真を送るようにと手紙に何回か書いている。志げ夫人は、花嫁衣裳を着て写したのを送ったことがありその写真であった。結婚の時写真を撮っておかなかったのでこの時撮ったのである。花嫁さんらしくないとして杏奴さんには結婚記念写真は当日撮っておきなさいと告げている。

妻への手紙』は鴎外さんが細やかに志げ夫人を気づかっている様子がうかがえる。志げ夫人の正直なところそこがいいのだと書いている。そのことで暴発しないことを気づかっている。詩や文学に興味が行くようにそれとなく誘いかけてもいるが、志げ夫人はそれには答えていないようである。すでに自分の実家の貸し家に暮らしていて、鷗外さんは茉莉さんの冬の洋服が千駄木から届くだろうとか、お金のことなど心配しないように気を使っている。鷗外さんの母が財布を握っているので、志げさんの苦労も想像出来る。

鷗外さんんを中心に回るいくつかの惑星はそれぞれの回転で様々な表情をみせてくれる。そこにはまり込むとこちらは迷走するしかないが、驚きと発見に楽しさも与えてもらうことになる。気が向けばそこから抜け出しまた入り込むのである。

』を読んで類さんの妻である美穂さんの生きる力に敬服し、あの茉莉さんを疎開先で面倒をみたということに驚愕したが、茉莉さんが『贅沢貧乏』のなかで志穂さんの様子を書かれていた。「弟の家内になった娘は八人家族の家で、母親の代理をやっていた娘である。家族八人だが、三日にあげず客があるから、食事は大抵十五六人前である。母親の方は専ら社交の方面を受持っていた。娘の方も社交に敏腕で、彼女は客があると、台所と客間とを往復し、台所では料理の腕を振るい、客間に入ると、社交の言葉と笑いの花を、ふりこぼした。」「弟の家内という人は自由学園の羽仁もと子式で薫育された、才媛(さいえん)である。」

疎開先ではこうなる。「百姓が舌を巻く位の畑仕事の腕を見せ、薄く柔らかな眉のある眉宇(びう)の間に、負けず嫌いの気性を青み走らせながら、遣(や)ったことのない和服の裁縫を、数学の計算のように割出して遣りおおせた。月が空の中でかちかちに凍っている夜、一人で何百個かの馬鈴薯(ばれいしょ)を土に埋めた。通りがかった知合いの工員が涙を催して手をかしたという、逸話の持主である。」やはりなあと思わせる。

茉莉さんは回転の加速をあげて、どこに飛んで行くかわからないかたである。『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』などは、ベットの上でずーっとテレビを見ていただけあってその感想というべきものはかなり鋭い針のような感触すらある。

ただ多種多様の範囲で見ているのには脱帽である。テレビでみた内容が説明され、あれっ、これは家城巳代治監督の青春映画ではないか。こちらも正確な題名を探す。『恋は緑の風の中』である。原田美枝子さんのデビュー作で原田さんがダントツに光っていたが、その少年少女たちの事ではなく、周囲のおっ嚊あ(おっかあ)たちのことなのである。母親たちのことである。大変立腹していてその一つの例にされたのである。

個人的にはどうして家城監督はこういう青春映画を撮られたのかわからなかったが、茉莉さんが見るとそこを突くのかとこちらの見どころの甘さを感じないでもないがそう立腹するほどの描き方でもないような気がする。

春琴抄』の山口百恵さんの春琴はほめている。笑わないからである。百恵さんが白い歯をだして笑うのは彼女を嫌う最大の原因としている。茉莉さんの基準は難しいのである。ほめていても、谷崎の小説の中の春琴ではなく、山口百恵の春琴である。それはわかる。

そんなわけで、突然の茉莉流の標識出現に右往左往されつつ笑い、いぶかしがり、喝采しつつ嬉々として迷走させてもらうのである。

そうそうヒッチコック映画に対しても興味深かったのですが、書いていたら際限がなくなりますので、一人密かに楽しみつつ2020年とお別れすることといたします。新しき善き年がむかってきてくれていることを祈って。