最古の『忠臣蔵』映画

  • 国立映画アーカイブ(元・東京国立近代美術館フィルムセンター)で現存する一番古い全通しの『忠臣蔵』(1910年、横田商会)の映画特別上映会があった。牧野省三監督で主演は尾上松之助である。三本あったものを、一番映像の綺麗な映像を基本に、無い部分を他の映像で補い、デジタル復元した最長版である。討ち入りの日に特別上映会で昼夜二回で、夜は音楽と弁士つきとなっているが、昼の部の鑑賞である。昼夜どちらも音楽と弁士付きと勘違いしていてややこしいことになったが、とにかく昼の部だけでも鑑賞できてよかった。

 

  • 音が一切無いのでその分、絵に集中できた。歌舞伎の動きである。舞台が映画になっていると思っていい。ただロケもあり、セットも幕に絵を描いただけであったりして、それも屋外で撮っているらしく風で後ろの背景絵が風にゆれているという珍現象もおこるが、最古の『忠臣蔵』としては上出来である。

 

  • 日本初の映画スター尾上松之助さんは、目玉の松ちゃんと言われただけあって眼力がすごい。歌舞伎の見得の眼なのでそうなって当然であるが、小柄な方なので意識的に演じられ印象づけられたのかもしれない。女性役も女方で美しいとはいえない。「南部坂の別れ」で、間者の腰元が連判状を盗み逃げようと応戦するのであるが、それが結構長く、男なみの争い方で笑ってしまったが、やはりチャンバラの場面はお客の要求ということなのであろう。

 

  • 松之助さんは、浅野内匠頭、大石内蔵助、清水一角の三役をやっていて、やはり松之助さんのチャンバラ場面は必要不可欠というところなのであろう清水一角ではたっぷりと立ち廻りをみせる。討ち入りが終わり引き上げる時両国橋を渡るが、役人から江戸市中は通らないでほしいとの要請であろうか引き返す場面がある。その辺は両国橋を見せ色を添えつつ史実に合わせたのであろう。

 

  • 泉岳寺の内匠頭の墓の前に、瑤泉院つきの局が現れ吉良上野介の首実検をするという場面もあり、確かに吉良内上野介に間違いない、でかした!の強調であろうか。映画は匠頭の墓前で終わりということになった。所々にコミカルさをいれつつ約90分の上映で、終了後、担当者のどのように編集しデジタル復元したかの解説があった。こうして最長版が出来上がり観やすくなったのでこれからもこの映画の公開はあるであろう。生の弁士、伴奏つきはなかなか大変と思うので、録音していただいて、録音音声つきで鑑賞させてもらえればありがたいのであるが。

 

  • 日本映画の父・牧野省三監督 Χ 日本最初の映画スター・尾上松之助」の最古の『忠臣蔵』が映像も新たに討ち入りの日に復元上映であった。

 

  • 横田商会の横田永之助さん、牧野省三監督尾上松之助さんの関係について『映画誕生物語』(内藤研著)から少しまとめて紹介する。著者・内藤研さんの母方のひいおじいさんは、活動弁士・駒田好洋さんの巡業隊に加わり好洋さんと交代で弁士をつとめた芹川政一さんで芸名を芹川望洋といわれた。後に東京シネマ商会というニュース・文化映画の制作会社を創立している。

 

  • 横田永之介さんは、23歳のときコロンブス世界大博覧会に京都府出品委員として渡米し、展示されていたX線装置(レントゲン)を持ち帰り見世物の電気ショーをはじめる。自分の骸骨がみたいと評判になる。その後、日本に初めて映画を運んできた稲畑勝太郎さんからシネマトグラフの興行をまかされ、東京で映写技師も活弁士もかね興行をし横田商会を設立して巡業にでる。その後、日露戦争関連のフィルムを購入し大当たりとなる。次に考えたのが映画製作である。お金を出して任せらる人はいないか。紹介されたのが牧野省三さんであった。

 

  • 牧野省三さんの母親は離婚して、大野屋という演芸場を経営し、義太夫の師匠もして三人の子を育て、省三さんは芸能好きの末っ子であった。母親と省三さんは、大野屋を改造し千本座を開き、芝居の上演・興行のすべてにかかわっていた。そこに横田永之助さんがやってきて、映画監督・牧野省三の誕生となった。

 

  • 牧野省三監督は1907年(明治40年)劇映画をつくりはじめる。初めてつくったのが、『本能寺合戦(ほんのうじがっせん)』で、千本座に出演していた一座をつかい、東山の真如堂の境内を本能寺にみたて撮影した。その多くは、歌舞伎の名場面、歴史上の有名場面の映画化であった。牧野省三さんは、熱心な金光教(こんこうきょう)の信者で、岡山の金光教本部に生まれたばかりの長男の名前をもらいにいった。この長男が正唯(まさただ)で芸名がマキノ正博である。このとき、生神さまが、この近所に好い役者さんがいるから探してみなさいとのお告げがあった。近くの芝居小屋にでていたのが尾上松之助一座である。

 

  • 尾上松之助さんは、武士の子として生まれるが踊りや芝居が大好きで役者になりたかった。反対の末、父は守り刀を手渡して許してくれた。旅回りの一座で修業し19才で座長となる。牧野省三監督と会うのはそれから19年目である。しかし、土の上でやる芝居は本当ではないと断る。牧野省三監督は京都西陣の自分の千本座で興行させ、一座全ての生活面の面倒を見た。尾上松之助さんは、西陣周辺の人気者になり、牧野省三監督に恩義を感じ、活動写真への出演を承諾。

 

  • 監督が松之助さんを見込んだのは、身の軽さであった。活動写真なのだからはつらつとして動く役者を求めていたのである。牧野省三監督、尾上松之助主演の最初の映画は『碁盤忠信(ごばんただのぶ)』(1909年)であった。義経の家来佐藤忠信が重い碁盤を振り回して活躍するのである。松之助さんは自分の映画をみて納得し、活動写真に力を入れることにした。牧野省三監督と尾上松之助コンビの映画は13年間で約700本つくられた。一週間に一本の割り合いである。

 

  • 「目玉の松ちゃん!」は、映画『石山軍記』(1910年)で楠七郎を演じた松之助さんが、敵の足利尊氏軍を大きな目玉でギョロリとにらみつける場面に観客が反応して思わず掛け声をかけたのである。『忠臣蔵』は『石山軍記』より同じ年でも後の作品と思われるが、映画を観てその背景設定などから如何に短時間で撮影されていたかが納得できた。人力車に何通りもの衣裳や小道具を積み込み、同じ場所で違う作品もつくっていたのである。

 

  • サイレント(無声)なので子役だったマキノ正博さんが台詞を覚えられないときは、松之助さん相手に「いろはにほへと」とやり松之助さんも「ちりぬるをわか」と答えた。シナリオが間に合わない時は口伝えであった。牧野省三監督と松之助さんコンビがのりにのっている時、東京ではあの「ジゴマ事件」がおこるのである。その同じ年・1912年、横田商会、吉沢商店、M・パテ商会、福宝堂が合併し「日活」となる。横田永之助さんは後に五代目社長となる。東京の撮影所は現代物、京都は時代劇がつくられ、牧野省三監督と尾上松之助さんコンビは看板となり、されに忍術もの『猿飛佐助』『豪傑児雷也』へと進むのである。 『ジゴマ』の大旋風

 

  • 牧野省三監督のお孫さんが、長門裕之さんと津川雅彦さん(合掌)で、お二人から譲り受けた資料なども国立映画アーカイブで保管しているとのことである。この復元『忠臣蔵』を通じて新しい事実がでてくるのかもしれない。周防正行監督最新作『カツベン!』のフライヤーがあった。活動弁士を夢見る青年が主人公だそうである。「フライヤー」。今まで映画や芝居の案内をチラシと記していた。フライヤーという言葉があるのは知っていたが広告案内のためのチラシの感覚でチラシにしていたのであるが、劇団民藝『グレイクリスマス』のパンフレットで、片岡義男さんが「フライヤーにならんでいる言葉を引用して」と書かれていて「フライヤー」のほうがいいなあと思ったのである。そこでこれからは「フライヤー」と記すことにする。

 

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」さらに浅草(4)

  • 宮沢賢治さんが浅草オペラを観ていたという記述をみつけた。『浅草六区はいつもモダンだった』(雑喉潤著)にである。1983年(昭和59年2月4日)、東京の新橋ヤクルトホールで『宮沢賢治没後50年記念のつどい』があった。「賢治へのいざない」の中で関係者から宮沢賢治さんがペラゴロの一人であったことが明らかにされ、1918年(大正7年)の暮れ以来、上京のたびに浅草オペラに通っていたのである。

 

  • その後花巻農学校の生徒を連れて修学旅行に行った際の函館港を詩にし次のようにうたっている。「あはれマドロス田山力三は  ひとりセビラの床屋を唱ひ  高田正夫はその一党と  紙の服着てタンゴを踊る」(『函館港春夜光景』)このとき浅草オペラはすでに無く、函館港の灯りに懐かしく思い出したのであろう。高田正夫は高田雅夫さんであろう。記念のつどいで田山力三さんは、「浪をけり風を衝く 舟人に海は家」を歌い、「賢治さん、終わりのない銀河鉄道に乗りながら、この歌を聴いて下さいね」と挨拶した。

 

  • 『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎」(矢野賢二著)には宮沢賢治さんの「弧光燈(アークライト)の秋風に、芸を了(おわ)りてチャリネの子、その影小くやすらいぬ。」(「銅鑼と看板 トロンボン」)を紹介している。チャリネというのは、西洋からのサーカス団「チャリネ曲馬団」が人気を博し、日本人による曲馬団が「日本チャリネ一座」と名乗り、チャリネがサーカスを意味していた。

 

  • 宮沢賢治さんは新しい芸能に興味がありそれを実際の演劇にも反映し、詩のなかにも新しい感覚として使っていたようにおもわれる。灯りと芸を演じる人を上手く組み合わせている。農業に関しても新しい方法を探求し胸の内には既成の物事にとらわれない生命が常にふつふつとわき上がっていた。それに肉体がついていけなかったのである。参考まで少し。「チャリネ曲馬団」を歌舞伎で一幕の舞踏劇にしたのが五代目菊五郎さんの『鳴響茶音曲馬』(なりひびくちゃりねのきょくば)』で黙阿弥さん作である。

 

  • 島津保次郎監督『浅草の灯』は古い映画でもありオペゴロやその当時のようすを面白おかしく紹介しているだけのもの思っていた。ところが、この映画はしっかり当時の浅草オペラとその周辺の人間関係などを撮っているということである。原作は浜本浩さんの小説『浅草の灯』でこの原作自体が架空の小説ではなく事実に即した浅草の生態「正義と勇気と友情と純粋な恋愛に生きた浅草の人々」の生活記録としている。金竜館の裏の射的屋や看板娘とペラゴロの様子。給料の前借りをしてドロンして夜逃げ。舞台と観客の様子など実際にあったことを盛り込んでいるのである。

 

  • 『浅草六区はいつもモダンだった』は、大正の浅草オペラ、昭和戦前のレビュー、軽喜劇、その流れからの戦後の六区の芸能のことが詳しく語られている。驚くのは『鉄砲喜久一代記』を書かれた茂在寅男さん(ペンネーム・油棚憲一)、が浜本浩さんに、自分に弟子入りして小説家にならないかと誘われていることである。茂在寅男さんが海洋小説の懸賞に応募し、その作品を選考委員をしていた浜本浩さんが気に入ったのである。茂在寅男さんは迷ったが海洋学者の道を選ぶ。『鉄砲喜久一代記』は、そのおかげでとも言えるような資料を丹念に調べ、読者の気をそらさない作品となっていて大変参考にさせてもらった。浅草六区に魅かれた起爆剤のひとつでもある。 『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(1)

 

  • 五代目菊五郎さんも驚くほどの新しがり屋で、キクゴロがいてもいいくらいである。舞台に浅草公園を登場させている。イギリス人の風船乗りスペンサーが来日して上野公園の博物館まえでも公開し、それを歌舞伎にしたのが五代目菊五郎さんと黙阿弥さんである。『風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)』。「高殿」が凌雲閣で、そこに登って風船乗りを見物していた様々なひとが茶店に集まってそのうわさ「評判」をしているのである。そこに圓朝に扮した五代目菊五郎さんがあらわれるということらしい。もちろんその前半には五代目菊五郎さんが歌舞伎版スペンサーとなって演じている。ここでは浅草公園と十二階が歌舞伎に出てきたということだけにする。こちらはこの芝居と反対にそろそろ浅草公園から上野公園の博物館に誘われているようである。

 

  • 面白いことに浅草で不良だったサトウハチローさんの詩の挿絵をいわさきちひろさんが描かれている。いわさきちひろさんは、ずっーとかわいらしいものが好きだったようである。サトウハチローさんは色々なことにたずさわるが、すぱっと童謡詩人にもどる。かわいらしいものや小さいものがお好きなようだ。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(3)

  • 東京都練馬にある『ちひろ美術館』に行ったとき、あの可愛らしい絵の中の子供たちと同じように生きている子供たちが幸せであるようにという想いが伝わってきた。同時にいわさきちひろさんには過去に非常につらいことがあったのだなということを少し知ることができた。戦争のあった時代を生きてこられたわけであるから誰しも悲しいこと、後悔すること、怒りを感じることなど様々な感情を呼び起こす経験はされている。

 

  • ちひろさんが最初結婚されたかたは、自分で命を絶っていた。ちひろさんは自分の意志をはっきりさせず周りに押し切られて結婚し、そういう結果を招いたことに深い自戒の念があった。そして絵を捨てたことにも。前進座公演『ちひろ ー私、絵と結婚するのー』は、戦後ちひろさんがそこから這い出し、絵で自立する3年半をえがいている。ただ、それと同時も結婚を申し込まれるというところで終わっている。結婚しても絵との結婚を妨げない人からの申し込みであったということになる。

 

  • ちひろさんがどうして絵で自立できたかという過程は知らなかったので芝居を観つつそうであったのかと明らかになる部分がほとんであった。松本から泊るところも決めないで出版社の面接に東京にでてくる。これが自立への第一歩であった。1946年(昭和21年・27歳)のことである。食料難である。泊めてもらえたのが、池袋モンパルナス(芸術家が修練の場所として住んでいた地域)の丸山俊子さんのアトリエであった。丸山俊子さんは丸木俊さんがモデルであるということがわかる。ちひろさんは、出版社にも就職でき、丸山俊子さんの早朝デッサンの会にも参加し、色々な人に絵の批評を受ける。

 

  • ちひろさんは、子供時代お母さんは教師をしており、恵まれた環境で「コドモノクニ」の子供雑誌などにも触れて豊かな感性をはぐくんでいる。絵の仲間たちから『コドモノクニ』とは高価なものを手にしていたんだね。などともいわれる。皆、自分の絵の線を探している。印象的なのは、丸山俊子さんがちひろさんに、人の絵にふらふらしないで自分の絵をめざせという。丸木俊さんは、『原爆の図』を描かれたかたで、いわさきちひろさんの絵とはかけ離れているようにおもえるが、その精神性は一緒であると理解されていたようである。ちひろさんも、自分の意見を主張しないで悲劇が生まれたとの想いから恐らく自分の絵に対する意志は曲げなかったであろう。

 

  • そんな時、紙芝居を制作したいという仕事が舞い込む。その編集者・稲村泰子さんは盛岡出身で宮沢賢治の信奉者でちひろさんも宮沢賢治は大好きであった。意気投合する。紙芝居はアンデルセンの童話で、原作を脚色している『お母さんの話し』である。そのあたりのふたりのやりとりも面白い。ちひろさんに結婚を申し込む人・橋本善明さんは青年活動家で宮沢賢治を知らくて、ちひろさんと稲村さんにずっこけられる。今回この舞台の脚本は、前進座の俳優・朱海青さんでこの作品が脚本家デビューである。よく出来上がっていると思う。下宿のおばさんが庶民の感覚を代弁したりしている。

 

  • ちひろさんは、満州で身体を壊し他の人より早く日本に帰ってくる。そのことも残された人々のその後を考えると苦しいものがった。芝居には出てこないが、お母さんが国のためにした仕事など、その後に見えてきたことに対する贖罪のような感情がたえずあったと思われる。それでも自立し絵に対する気持ちを大切にしようという意思が<私、絵と結婚するの>に現れている。東京での女学生時代、岡田三郎助さんに師事し女性の公募展で入選もしていてその才能は芽を出していたのである。ちひろさんの子供たちには、その芽をつまないでの祈りのようなものさえ感じる。

 

  • 前進座の歌舞伎や時代劇ではない現代物である。役者さんも、現代物でのほうがその演技力を発揮できるかたもおられたのではないだろうか。いわさきちひろ生誕100年に舞台化され新たな前進座の前進となったように思える。ちひろさんの絵の色使いとか線とかも改めて味わってみたくなった。

原案・松本猛/台本・朱海青/演出・鵜山仁/出演・有田佳代、新村宗二郎、松川悠子、益城宏、中嶋宏太郎、浜名実貴、黒河内雅子、西川かずこ、渡会元之、嵐芳三郎、上滝啓太郎、嵐市太郎、松涛喜八郎

 

  • 宮沢賢治さんが自作の戯曲の上演をしたのが、勤務していた農学校が岩手県立花巻農学校となり新校舎落成・県立校昇格の記念式典である。上演したのは『植物医師』『飢餓陣営』である。(1923年・大正12年)『飢餓陣営』は浅草オペラの影響があり、宮沢賢治さんは浅草オペラを見たとされている。まだいつ賢治さんが浅草オペラに接したのか、実証される文献にはお目にかかっていない。あのガチガチに固まってみえる宮沢賢治さんが浅草でオペラを観たと想像するのは楽しいし、それを岩手で実行しようとしていたなら先進をいっている。

 

  • 春と阿修羅』を自費出版したのが1924年(大正13年)で、それを激賞したのが、辻潤さんの『惰眠洞妄語』(読売新聞)と佐藤惣之助さんの『十三年度の詩集』(日本詩人)である。このお二人、浅草の「ペラゴロ」で「ゴロ」はゴロツキではなくフランス語のジゴロ(地回り)からきていて辻潤さんが命名したとの話もある。その「ペラゴロ」が宮沢賢治さんの『春と阿修羅』を一番に押したのであるから浮き浮きしてしまう。宮沢賢治さんの心の中は弾力豊かに跳ねていたとおもえる。

 

  • ちひろ ー私、絵と結婚するのー』のチラシの絵が「窓ガラスに絵をかく少女」で『あめのひのおるすばん』に入っているらしい。早く帰って来ないかなとひとり窓から外を見ているうちに窓ガラスの水滴に気が付きそれに人差し指で絵を画いているのだろう。パンフレットの中にも「指遊びをする女の子」という右手の人差し指を動かして遊んでいるらしい絵。その人差し指が強調されていて少し長い。「絵をかく女の子」は親指と人差し指でクレヨンを持ち絵を画いている。高畑勲監督(合掌)の『火垂るの墓』の節子ちゃんが親指と人差し指にドロップをはさみ口に入れるのを思い出す。

 

  • 映画『アンデルセン物語』(1952年)はダニ―・ケイがアンデルセンを演じるミュージカル映画である。デンマークのオーデンスに住むアンデルセンは靴屋の仕事もせずに、お話を作っては子供たちに聞かせるのである。弟子のピーターは気が気ではない。子供たちが話に夢中になり学校へ行かないのである。町の偉い人達はオーデンスの町から追放すると決める。ピーターは追放をアンデルセンに気づかせないようににコペンハーゲンに行こうと誘いだしコペンハーゲンに着く。ところが、国王の像の台座に登ってしまいけしからんと牢屋にいれられてしまう。アンデルセンは窓から外をのぞくと女の子が寂しそうにしている。友達がほしいのかいといって、左手にハンカチをかぶせ、親指に目鼻を画いて小さくたってくじけないと楽しく歌って聞かせる。そして右手の親指と仲良くなる。女の子は自分の親指をみつめる。女の子は寂しいときは親指姫と遊ぶのかな。

 

  • この映画は、アンデルセンの失恋も描いてもいる。バレリーナに恋をして、『人魚姫』の話しを捧げる。そのお話はバレエの台本につかわれ、恋するバレリーナによって人形姫は踊られるのである。ところが、アンデルセンの勘違いで恋は破れてしまう。病気で頭の毛がない男の子に『みにくいアヒルの子』を聞かせその子は納得して元気になる。その子のお父さんが出版業をしていてアンデルセンのお話しを新聞に乗せる。作家アンデルセンの誕生である。アンデルセンはピーターと故郷へもどるのであった。

 

  • 『人魚姫』のバレエ舞台の振り付けが時代的に考えると新しく誰の振り付けかと思ったらローラン・プティであった。なるほど。アンデルセンの恋するバレリーナはパリ・バレエ団のジジ・ジャンメイルが演じている。ちひろさんのお陰でほったらかしの映画『アンデルセン物語』のDVDの封も切ることができた。ちひろさんのアンデルセンのお話の挿絵はどんな絵であろうか。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(2)

  • 木馬館』浅草でここへ何回も来るとは思っていなかった。浅草そのものが観光ガイド的な場所であった。毎月一回は大衆演劇を楽しむため『木馬館』を訪れる。予定はたてずその時の気分だったり、友人に声をかけて決まったりする。今回は浅草公会堂での前進座『ちひろ ー私、絵と結婚するのー』の夜の部の観劇を入れていたので昼は『木馬館』と決まった。

 

  • 大衆演劇の芝居小屋によって違うこともあるが、整理券を出すところもあり『木馬館』も出している。その時によって入場者の波があるのを知る。友人を誘い私は予定がありぎりぎりにいくので先に入っていてと言ったところ彼女らしい見やすい席に座っていたので安心した。こちらもほど良い席に座れた。一度など友人と時間を潰してから行ったら整理券がでていて並んでいる。座れたのは一番後ろの丸椅子であった。どこでも観やすいのでそうこだわらないが、先に覗いて整理券のあるときはそれを受け取ってから散策にでかける。要領がよくなってきた。

 

  • サトウハチローさん自身の<木馬館の恋>がある。当時の『木馬館』はジンタが流れ乗り物の木馬が回る小さなメリーゴーランドであった。今もその木馬が建物の外から見えるように展示されている。ハチローさんはこの木馬に乗り続けた。身体の大きなかたであるからあの小さな木馬に乗った姿は想像しても恰好よいものではないが、木馬館の女の子に恋をしてしまったのである。お金は父・紅緑さんに「乗馬をやっている」といってお金をもらっている。おしィちゃんには全然通じていない。告白などできない。

 

  • 以前、今戸の渡し場で船頭の手伝いをしたことがあった。渡しの船で向島から浅草を決まった時間に往復する美しい娘さんに恋をしてしまう。ある日、向島から後をつけると浅草金魚飼育所の看板の家に入った。数日後ハチローさんは意を決し娘さんをお嫁さんにしたいと申し込みことにいく。金魚屋を訪れ兄貴らしい人に、いつも渡しで浅草に行くあの娘さんをお貰いしたいと申し出る。兄貴が言った。あの娘ですか。あいつは俺の女房なのですが。

 

  • そのことがあり今度は木馬館でラムネを売っているお婆さんに仲介を頼むことにした。木馬に乗り過ぎてズボンの内股はすり切れ、両方の手のは手綱のタコが出来ている。喉が渇くのでラムネを日に何本も飲むためラムネ売りのお婆さんとも顔みしりである。お婆さんは、毎日木馬に乗っている人に嫁はこないだろうとあっさり拒否する。このお婆さんはあの女の娘の母親であった。コントになりそうな実体験である。

 

  • 木馬館』の大衆演劇も楽しく大笑いの場面もあった。大衆演劇には笑いのセンスの良い役者さんが多い。何が飛び出すか分からないところがお化け屋敷さながらで、突然変な人が現れる。初めての人は、皆の笑いについていけず何事かと思い、もしかしてあの美しい役者さんがこの人なのかと3歩ぐらいおくれて気が付く。そのうち芝居の笑いに吸い込まれる。ただこの変な人は、恰好良い人に居場所をとられてしまう。そして形が決まって幕となる。まあこれは一つの例で、様々のバージョンがあるので何とも出たとこ勝負である。珍しく、昼夜同じ演目で役者さんが代わるという。残念ながら夜は<ちひろ>さんである。

 

  • 歌舞伎座12月夜の部はAプロ、Bプロとややこしい組み合わせになっているがどうせなら『あんまと泥棒』の松緑さん(泥棒権太郎)と中車さん(あんま秀の市)も入れ替えて演じて欲しかった。それぞれの色があって面白かったと思うが残念である。

 

  • 大衆演劇、舞踊ショーも含めて、またまた楽しませてもらった。東北の友人が、お得な電車の切符のときにそちらに行きたいから計画してほしいと言ってきた。こちらの旅に合わせるというが大きな病気もしているしそうもいかない。温泉かなと思っていたが、そうだ大衆演劇に行こう!というわけで大衆演劇付き宿泊と決めた。よろぴ~!と返信がくる。こちらも手続き簡単で助かった。喜んでもらえるかどうかは出たとこ勝負である。まあおしゃべりだけでもいいわけであるから楽しもう。そしてもう一つ浅草で実行できた。

 

  • 人力車。ついに乗った。大したことではないがなかなか予定もあったりで好い状態でつかまえられなかった。『木馬館』の送り出しは混んでいるであろうと裏から抜けて路地を出たら車屋さんがいた。ラッキーである。乗り心地と目線の高さを知りたかった。そして人の少ないところを。こちらの要求をわかってくれた。車輪はタイヤで座席のクッションもよく乘り心地が良い。観光はいらないと思っていたが、さすがプロである。知らない事を教えてくれる。

 

  • 実際に走って乗るなら樋口一葉さんの『十三夜』や『無法松の一生』の時代の人力車よりも現代の人力車である。特に時間が長いと快適さが違うであろう。車屋さんは説明しつつ、こちらの質問に答えつつスイスイ進んでくれる。路地の四つ辻なども人をよけ上手く回ってくれる。今日は人が少ないということである。江戸通りも停っている車をよけつつ走行車の横を走る。人に対しては邪魔かなと思うが車に対してはなぜか優越感である。高いせいもある。家並みもいつもより高い目線なので古い家並みとして映る。桜の時期の墨田川沿いがお薦めという。いいだろうな。その時は人力車の日として考えなければ。

 

  • 人力車のあとは、車屋さんに聞いた沢山の芸能人などのサイン色紙が飾ってある洋食屋さんへ。壁全面に飾ってある。たまたま座ったところに大杉漣さんのサイン色紙が目に入った。(合掌)浅草でというのが心ならずもうれしかった。さてまだ少し時間があるので駒形橋を渡り吾妻橋からもどることにする。駒形橋の真ん中でカメラを据えている若い男性がいる。気になってずーっとここで撮っているのか尋ねると朝から20分置きにシャッターをきっているという。一つの風景の時間の経過を追っているらしい。別の場所で映して一枚に編集したのをみせてくれた。編集が大変らしい。この風景なら時間の経過がはっきりして素敵な作品になるであろう。写真関係の学生さんだった。吾妻橋に近づくと尾形船の灯りもあって浅草と隅田川の相性のよい風景となる。ではこれからちひろさんに会いに行く。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(1)

  • 浅草の浅草寺境内も確かめることが多い。先ず、「ひょうたん池に噴水があったが、もう一つ浅草寺の本堂の後ろにも噴水があってその真ん中に立っていたのが、高村光雲作の龍神像で、今はお参り前に清める手水舎に立っているのだそうで、よく見ていないので今度いったときは見つめることにする。」からである。 『浅草文芸、戻る場所』(日本近代文学館) ありました。想像していたよりも小ぶりでしたが、お参りするまえにこの龍神像に逢えるというのもいいものである。高村光太郎さんより光雲さんのほうが身近になりそうだ。
  • 嵐山光三郎さんの『東京旅行記』の中に当然浅草がある。この旅は1990年頃で他二名の三人で回っている。「一人だと本当に蒸発しかねないから、三人でお互いに見張っていた。」とあり、飲んだり食べたり、好きかってな感想がハチャメチャで、吹き出してしまう。日の出桟橋から船で浅草に向かうのであるがそのハスキーなガイド嬢の声に対する反応。「ガイド嬢の低音鼻声は、掛布団かぶって布団のなかで女から秘密をを打ちあけられたような気分で、くすぐったくなる。」こちらはその反応にいぶかしくなる。
  • 吾妻橋に到着し、すぐ浅草寺方向には向かわない。反対側のアサヒビールで黒ビールである。どうにかこうにかやっと浅草寺に御到着である。「本殿の天井を見上げると堂本印象作の飛天が描かれている。この飛天に会いたかった。」一人は好きなタイプだといって目をうるませ、一人は気に入らないようである。著者は、観察しつつ好き勝手なことをいっているが落ちが「どちらかというと好きなタイプです。」とくる。というわけでこちらも飛天様をながめる。三人の印象がのり移っていて可笑しさがこみあげる。現代風の美女であらせられる。遠い平安時代の飛天様ではない。そこがまた気取らない浅草の飛天様ともいえる。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3058-2-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3057-1-1024x838.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3059-1024x667.jpg

 

  • 本堂の後ろの噴水の場所には、平成中村座があって2018年11月の浅草の風景である。浅草は懐かしがりつつも今を楽しむ場所である。
  • 沢山の碑があり解説板もある。今回結構真面目に読んだりながめたりした。『天水桶(てんすいおけ)』 太平洋戦争が激しくなりご本尊の観音さまを天水桶に納め地中深く埋めて戦火から守った天水桶である。『胎内くぐりの灯籠』 江戸時代からこの灯籠の下をくぐると子供の虫封じや疱瘡のおまじないになるという。灯籠自体は新しい。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3061-1024x680.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3062-1024x576.jpg

 

  • 活動弁士の碑』活弁の創始者・駒田好洋さんの名前がなかった。生駒雷遊さんは、サトウハチロウーさんが浅草でオペラファンの「ペラゴロ」のころ弁士として大変人気のあったかたである。ハチローさんは帝国座の弁士部屋に古川緑波さんに連れて行ってもらう。詩人仲間でもありえない弁士同士の会話の言語表現に感心する。「海坊主の親類」(ハチローさんはあだ名をつけるのが得意であった)と近づきになった。海坊主の親類は大辻司郎さんのことである。司郎さんは、ハチローさんのお金のないのを知って生駒雷遊さんのところに連れて行く。この男は朝からノーチャブらしくカラケツ詩人なのでハイ両ばかりやって下さいませんかと頼む。雷遊さんは、一円札を司郎さんに渡す。細かくしてあげると外で両替をしてハチローさんの手に50銭玉を一つ乗せ、相互扶助の精神で生きようとのたまった。ハチローさん、感激から感嘆の溜め息にかわった。(『ぼくは浅草の不良少年』玉川しんめい著)

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3064-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3063-632x1024.jpg

 

  • 獅子文六さんなどは、染井三郎さんを最高としている。低い声で抑揚なしで説明するが人の心を捉えたとしている。喜劇では杉浦がクスグリをやらずセンスがよかったが途中できえたようだとあり碑にも名前がない。花井秀雄さんに関しては、八字ヒゲの顔や説明文句まで思い出している。獅子文六さんはオペラよりも活動写真派で外国映画のイプセンの『ノラ』や『幽霊』に感動している。(『ちんちん電車』)
  • 喜劇人の碑』横に名前があり、喜劇人ではない人の名も。それらは世話人の方の名で喜劇人の名は碑の裏にありました。さすが裏技。榎本健一(エノケン)さんの名前もあり、サトウ・ハチローさんとの関係は菊田一夫さんともつながる。エノケンさんは、カジノ・フォーリーから観音劇場で「新カジノ・フォーリー」を旗揚げ、さらに玉木座にうつって「プぺ・ダンサント(踊る人形)」を結成。ハチローさんは、このプぺ・ダンサントの文芸部長になる。しかし流行歌の作詞家としての仕事も加わり忙しく脚本を書く時間がない。あらすじとギャグを提供し5歳年下の菊田一夫(22歳)さんが脚本にしてサトウハチロー作で発表。さらにエノケンさんは浅草松竹座でエノケン劇団を旗揚げする。
  • サトウハチローさんと菊田一夫さんは、古川ロッパさん、徳川夢声さん、大辻司郎さんが常盤座で旗揚げした「笑いの王国」に加わる。古川緑波さんはハチローさんとは早稲田中学での同級生で優等生であった。生駒雷遊さんのところに連れて行ってくれた時にはすでに映画の紹介や批評の仕事をしていたのである。今度は喜劇俳優となり、さらに「声帯模写」というジャンルを作り出す。菊田一夫さんもこうした経験からのちに人気作家として活躍し、ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』『君の名は』につながっていく。これらは『ジュニア・ノンフィクション サトウハチロー物語』(楠木しげお著)から参考にさせてもらった。簡潔でサトウハチローさんを通じてエノケンさんの流れも童謡の流れもよくわかった。
  • 中学生の頃、サトウハチローさんは、父の佐藤紅緑さんから何回も勘当されるが、親の七光りも当然ある。田端では室生犀星さんにお金を借りる。役者は大入りが出ると財布の紐もゆるむので新派の大矢市次郎さんなどにもおこづかいをねだっている。新国劇の澤田正二郎さんも劇団でハチローさんを預かったりしているが長くは続かなかった。
  • オペラの演し物のプログラムの第一が新劇、第二が少女歌劇、第三がオペレッタ、第四がグランドオペラとなっている。ペラゴロ組は金龍館党と日本館党に分れひょうたん池の藤棚でたむろしてお互い対向して歌い出す。それを黙っていられないのが中之島の芝生を陣取る活動写真組。ヤジったり喧嘩となったりする。ところが夜の八時になると半額となりその知らせのベルがなると取っ組み合いをしていてもそれぞれの劇場めざしかけだすのだそうである。皆、若さはあってもお金がなかったのである。ハチローさんなどは次第にすべての劇場が顔パスとなる。
  • 石井漠記念碑』谷崎潤一郎さんの筆により「山を登る」とある。獅子文六さんは、石井漠さんが「牧神の午後」を踊ったのを日本館あたりで見ている。ヨーロッパで「牧神の午後」が発表されてそう間のない頃だと思うとし浅草がいかに先端をいっていたかがわかる。獅子文六さんはカジノフォーリーの頃は外国に行っていて日本にはいない。サトウハチローさんは獅子文六さんより10歳年下で、石井漠さんの日本館の楽屋にもたむろしていた時期がある。サトウハチローさんの交友関係は広く様々な分野の卵たちでもあった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3066-1024x450.jpg

 

  • 嵐山光三郎さんの浅草散策のころの六区の常盤座の演し物は、ミュージカル『浅草バーボン・ストリート』で、出演は小坂一也、佐々木功、演出・滝大作、監修・柳澤慎一とある。次回は麿赤児の大駱駝艦の公演で、音楽・坂本龍一、美術・横尾忠則。光三郎さんらは、麿さんが近くのソバ屋にいたから、「やあ」と五秒あいさつして手焼きせんべい屋をのぞき新仲見世通りから浅草寺へと向かうのである。では奥山の碑巡りもこの辺にしておくこととしよう。

 

追記: 黒澤明監督はお兄さんから勧められた映画をたくさん見ていた。お兄さんは映画弁士となり、トーキーの時代となり弁士の生活がおびやかされ組合の委員長もされるが自ら命を閉じてしまわれた。後に映画『綴方教室』で徳川夢声さんが「君は、兄さんとそっくりだな。でも、兄さんはネガで君はポジだね。」といわれたそうである。(「蝦蟇の油」)

 

『満映とわたし』に登場する映画『無法松の一生』(3)

  • 岸富美子さんと内田吐夢監督は中国の人々に映画の編集理論と技術を教えることになる。富美子さんにとっては内田吐夢監督と一緒に教壇にたてることは夢のようなことであった。富美子さんは、編集におけるモンタージュを教えるために映画『無法松の一生』(1943年・昭和18年)を選んだ。阪妻さんの無法松である。あの映画の終盤の盛り上げかたを編集によってどう工夫しているか。モンタージュとは何かを語りたいとしている。この映画の撮影は宮川一夫さんで、彼の出世作となった。富美子さんもそれを喜んでいる。宮川一夫さんは、アメリカで亡くなった兄・聡さん(次男)の一年後輩にあたり兄と大変親しかった。家庭の事情もしっていたので日活時代は富美子さんを慰めてもくれた。

 

  • 「映画のクライマックスは、カッティングに次ぐカッティングで、すばらしい臨場感をだしている。坂東妻三郎の演じる車引きの無法松が櫓太鼓を叩くカット、海で波しぶきが上がるカット、祭りに集まる群衆のカットが、打ち鳴らされる太鼓のリズムに合わせて、目まぐるしくモンタージュ(編集)されているのだ。」編集は西田重雄さんでもの静かなかたであったので富美子さんは、そのギャップに驚いたようである。内田監督も賛成され、リズムと音の必要性とそれと画をどうやって組み合わせるかを講義されたらしい。聞く方の真剣さも想像できる。

 

  • かつてテレビで映画と音についての番組があって、ヒッチコック監督の映画『サイコ』で女性が車で逃げる場面を音ありとなしでやっていて、音楽が加わることによる緊迫感とスリリングさが増すことについて解説していた。無しと有りでは全然臨場感が違っていた。反対に音がなくて不気味なのが映画『鳥』である。何事もないように電線だった思うがそこにとまったカラスが映される。ベンチに座っている女性が映され、再びカラスを映す。それが映されるたびにカラスの数がふえているという怖さ。『鳥』についてはちょっと記憶があいまいなのであるが見つかれば観直したい。

 

  • 映画『無法松の一生』は稲垣浩監督で、吉岡大尉未亡人に対し車夫の松五郎が未亡人に対する気持ちを打ち明けた部分が内務省の検閲で削除されてしまう。戦意高揚にふさわしくないということである。そして戦後は、戦勝の提灯行列の場面がGHQに削除される。稲垣浩監督は、完全版として1958年(昭和33年)三船敏郎さんでリメイクしている。小倉祇園太鼓を叩く松五郎は、無学の自分がボン(敏雄)の高等学校の先生の役にたち、さらにボンの役にたったと自信に満ち高揚した場面である。リメイク版から想像するにその高揚感と吉岡未亡人がお化粧したのをみて、高等学校の教師の出現にも少なからず動揺し、秘めていた気持ちをおさえられなくなった。そのあとは、お酒の力のみで生き、死をむかえるのである。

 

  • 1943年のほうは、言ってみればズタズタに削除されているが、白黒で風景が明治に近い感じがする。阪妻さんの松五郎に対し吉岡未亡人を演じているのは広島の原爆で亡くなられた園井恵子さんで、松五郎だけではなく支えてあげたくなるタイプである。リメイク版は高峰秀子さんで、もしかすると一人でも頑張っていけそうかなと思わせるが、カラーでもあるし三船敏郎さんの強烈さに対するには好い組み合わせである。脚本は伊丹万作さんで、リメイク版には伊丹万作さんの脚本を守るぞというように稲垣浩監督の名前も脚本に加えてある。この時すでに伊丹万作監督は亡くなられている。

 

  • 1943年版は、松五郎が、かえり打ち、流れ打ち、勇み駒、暴れ打ちと打っていき、そこからモンタージュが使われ、そのまま思い出の場面へとつながり、回っていた人力車の車輪が止まる。そして雪景色が映る。そのあとに松五郎の遺品を整理する場面となるので、松五郎が吉岡未亡人に自分の気持ちを伝える場面は完全に削除されているわけである。松五郎が自分は汚れていると苦悩する場面がなく、竹を割ったようなさっぱりとした人間として締めくくられているのである。吉岡未亡人からもらったお金には手を付けず、さらに少しずつ未亡人とボンの名義で貯金していたのである。無学ながらも自分の生き方を貫いたヒーローとして当時の観客は涙したことであろう。本来の映画は、人間松五郎にも踏み込んでいたわけである。

 

  • GHQに削除された部分は宮川一夫キャメラマンが所有していて、DVDでは、その部分を挿入した映像も観ることができる。ただ音は無しである。なぜ宮川一夫さんが持っていたのか。それは映像の確認用として所有していたのである。提灯行列と花火を重ねて写っているが、それは編集機器が発達していなかったため、キャメラで合成しつつ撮影していたのである。その他、フイルムの感度やキャメラの性能が低いため、夜の撮影は夕景撮影で、そのあとで処理して夜景としたようである。そのため、宮川さんはその撮影具合を自分の目で確認したかったのであろう。当時のスタッフの力量と苦労のあとがかえってわかることとなった。だからこそ満映の映画人は映画機器を守るべく奔走したのである。映画人の想いは、日本にいても、満州にいても変わらなかったのである。

 

  • 『大アンケートによる 日本映画ベスト150』という本がある。初版が1989年であるから昭和から平成に変わった年にだされている。この本を参考に映画を選んだ時期もあったがずーっとご無沙汰であった。久しぶりで観ていない映画を数えてみたら120本は観ていることになる。この本から離れて違う繋がりで観ていた映画もその後たくさんある。『無法松の一生』は8位で観た人の観た時の感想が載っている。

 

  • 「小学生の頃お使いに行く時、阪妻の車夫のかけ足にホレて、あのガニ股的歩きをマネてよく転んだ。」「戦中の中学生に、庶民の男の美しさを教えてくれた。」とあり、広く子供たちにも松五郎は印象に残ったようである。さらに、「学徒出陣でもう映画をみることもあるまいと思いながら見た忘れがたい作品。」「産業戦士慰問映画として感激しながら見たのを覚えている。」当時の人々は、削除されたことなどには関係なく自分の想いを映画の中にぶつけていたのであろう。

 

  • 伊丹万作監督が岩下俊作さんの小説『冨島松五郎伝』を映画化しようとしたが病臥中のため稲垣浩監督が撮ることになったとある。そうであったのか。稲垣浩監督はリメイクして完全版を残し伊丹万作監督に代わって作品を守り通したわけである。松五郎が継母に辛くあたられ4里離れた父の仕事場へ一人行く田んぼの風景は、こんな美しい風景があったのかと見惚れてしまう。そのあと、木々の中をお化けに追いかけられているような怖さを味わう場面などは映像的工夫を凝らしている。リメイク版は削除もないだけに、人力車の車輪の回転場面の映像が松五郎の気持ちを代弁するように何回も登場する。一度止まった車輪がよっしゃ!もう一回走るぞと生き込んでいるようであった。

 

『満映とわたし』に登場する映画『丹下左膳餘話 百萬両の壺』(2)

  • 山中貞雄監督の映画『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)には、富美子さんの兄・福島威さん(五男)が山中監督に指名されるようになり大喜びで参加、福島宏さん(四男)もチーフキャメラマンとして参加している。この映画のユーモアさが好きである。まだ映像にお二人の名前はないが参加したことを知ってさらに裏で頑張る映画人の息を感じる。音楽にも気をつけながら観る。「とうりゃんせ」が色々なバージョンでながれていた。丹下左膳の一作目が大河内傅次郎さんだそうで、それまでの丹下左膳像を見事に変えてコミカルにしている。殺陣も少ない。(古いので完全版なのかどうかはわからない。GHQなどによってもカットされたりしてもいるので。)

 

  • 丹下左膳の大河内傅次郎さんは矢場の用心棒でその経営者の女主人が歌手の喜代三さんで、ふたりのやり取りがいい。大河内さんのコミカルさと歌手の喜代三さんのさらりとした伝法さを上手く引き出しぶっつけている。喜代三さんも三味線を弾きながら『櫛巻きお藤の唄』を歌われていてさりげない粋さをだしている。ただ丹下左膳はお藤の歌を嫌い、熱が出るといって置物の猫を後ろ向きにして抵抗し座をはずす。「お酒がまずくなるなら量が減って結構な事よ」と即、お藤にやり込められる左膳。

 

  • 矢場の客がゴロツキに殺されてしまい、その子を引き取ることになる。お藤は孤児になった子を「こんな汚い子はいやだよ」といいつつ、ぱっと画面が変わるとご飯を食べさせている。「なんでわたしが」といいつつ、パッと画面が変わると一緒に暮らしている。その軽快な転換が上手い。山中監督流で、編集するひとは驚かれながらなるほどとおもったであろう。このテンポがからっとした空気とクスッの可笑しさをさそう。

 

  • 百萬両の壺とは、柳生家の「こけざるの壺」が百萬両のありかを隠している壺と判明する。ところが、この壺は兄が江戸に養子に行った弟に祝いとしてやってしまっていて、それを取り戻そうと家来が江戸におもむく。しかし、あまりにも汚い壺なので弟は屑屋に売ってしまい、屑屋は長屋の子供の金魚入れにやってしまったのである。この子が孤児となり矢場で暮らすことになった安である。この矢場に養子の侍が遊びに来てすったもんだのすえ、壺は安が持ってきた金魚の壺とわかり、養子の手もとに百萬両の壺はもどるのである。しかし呑気なもので養子は壺を探すと言って盛り場で遊んでいられるため、手に入れたことは隠して左膳にしばらく壺を預かってくれといってエンドである。

 

  • 途中、左膳がどうしてもお金が入用になって道場破りにいった先の道場主がこの養子でお互い驚く。左膳は養子に頼まれて負けてやりお金を受け取りお金を作ることができるのである。これも安のためであった。そして道場の弟子たちとの試合が唯一立ち廻りといえる。一歩を大きく飛んで勝負がついているという殺陣である。痛快時代劇としては立ち廻りが少い。左膳とお藤と安の偶然に出来上がったホームコメディーともいえる。教育方針でも二人は対立し、相手の様子をうかがいつつ安のことを心配するのである。左膳は暴漢に襲われるとき安に目をつぶって10数えろといって一刀のもと斬ってしまい二人が通りすぎてから暴漢は倒れる。左膳は自分の腕を見せるのではなく、安に人を殺すところをみせないのである。

 

  • 大河内傅次郎さんの丹下左膳の映画に出演した高峰秀子さんの『わたしの渡世日記』によると、大河内傳次郎さんは強度の近眼で、それでいながら本身の刀を使うので切られ役の俳優さんは大変だったようである。ご本人がチャンバラの最中に縁側を踏み外して庭へ転落したり、石燈籠にぶつかったりするのでまわりの人間はハラハラしながら左膳を目で追っていたという。高峰秀子さんはさらに、大河内さんはセリフおぼえも悪く、運動神経もあまり優れているとは思えない。しかし、「近眼だからこそ、思慮深く見え、セリフを思い出し、思い出ししながらする芝居の「間」が、なんともいわれぬ「味」になっていた。」と書かれている。

 

  • 高峰秀子さんは女人禁制の嵯峨小倉山の「大河内山荘」に招待され、そこで並んでの写真撮影の許可がおりている。それまで「大河内山荘」の内部の撮影は禁止されていた。秀子さん16歳の乙女の時である。気に入られたのであろう。大河内さんの左膳に秀子さんが出演した映画は、『新篇 丹下左膳 隻眼の巻』(1939年・川口松太郎作・中川信夫監督)である。高峰秀子さんは、この前篇は、千葉周作に片腕を斬り落とされた左膳が土手を突っ走って逃げる長いカットは息をのむ名演であったという。前篇とありここがよくわからないのであるが観たいものである。一作目の左膳も観たいがフイルム残っているかどうか。こういう仕事のお金は「大河内山荘」を作り上げるためにつぎ込まれたらしい。

 

  • 高峰秀子さんがいう「間」は、『丹下左膳余話 百萬両の壺』では喜代三さんに「どうしてよ」とさらさらっと言われると口ごもってしまうあたりがなんともいいのである。左膳がすぐセリフがでないほうが二人のやり取りを面白くさせるのである。大河内さんの不器用さを山中監督は計算に入れて撮っていたであろう。そこがおもしろいのだと。福島威さんは富美子さんにも山中貞雄監督のことは、はすばらしい才能であると話していて喜び勇んで仕事をしていたようである。しかし、その他の仕事も引き受け本人の想いとは反対に身体の方がついていけず肺を患い命とりとなるのである。家族のためと同時に仕事にのめり込んでいった若き映画人の名前が残されたことにより映画や、山中貞雄監督への献花ともなっている。
  • 構成・監督・山中貞雄・(小文字)萩原遼/撮影・安本淳/録音・中村敏夫/音楽・西梧郎/編輯・福田理三郎/出演・大河内傅次郎、喜代三、宗春太郎、沢村国太郎、花井蘭子、深水藤子

 

  • 丹下左膳が映画に登場するのは『新版 大岡政談』(1929年)である。DVD『阪妻 坂東妻三郎』の中にほん少し『新派 大岡政談』の大河内さんの左膳の立ち廻りが映っていた。講談などで大岡越前守の名お裁きが題材とされた話しが多数できあがり、林不忘さんが小説として『新版 大岡政談 鈴木源十郎の巻』のなかに丹下左膳を登場させた。映画『新版 大岡政談』の映画も幾つかつくられ丹下左膳がヒーロー化していって「丹下左膳」が独立したようである。『新版 大岡政談』のなかでも伊藤大輔監督と大河内傅次郎さんの丹下左膳が人気を博した。本来の丹下左膳は斬りまくる。手もとにある『続・丹下左膳』(マキノ雅弘監督)では、大河内さんは大岡越前守と左膳の二役である。

 

  • 続・丹下左膳』(1953年・マキノ雅弘監督)は、続であるので前の続きの映像がスタッフや出演者の字幕のバックに映っている。二人の侍が橋の上で切り合いをしていて回りを捕り方が囲んで御用と叫んでいる。「妖刀乾雲、坤龍の二刀を求めて死を賭して闘う者」と字幕が入る。その一人が川におちる。橋の上の侍は「坤龍」と叫ぶ。これが丹下左膳である。丹下左膳は饗庭藩の武士で藩主に妖刀乾雲、坤龍の二刀を手に入れるよう命じられた。ところが、世を騒がせていると大岡越前守に正された藩主は左膳など知らないと言い切られ左膳は復讐にもえる。最後は大岡越前守に守られながら藩主を倒し妖刀乾雲、坤龍の二刀を投げ出し高笑いする。

 

  • 前篇がないので細かいところはわからないが、この妖刀は別々になると呼び合いその刀を持っている者はその呼び合う力によって人を斬りたくなるようである。その刀に左膳も翻弄される。マキノ雅弘監督は、戦前の丹下左膳の姿を踏襲したらしい。脚本は伊藤大輔・柳川眞一とあり、録音が『丹下左膳余話 百萬両の壺』と同じ中村敏夫とあった。『続 丹下左膳』では、録音助手、撮影助手などの名前もクレジットに記載されている。本来の左膳は悲壮感に満ちた立ち廻りのようである。その中でまったく原作の左膳とは違うパロディ化した左膳なのに、やはり『丹下左膳余話 百萬両の壺』の左膳が魅力的である。どちらの左膳も創り出した大河内傅次郎さんと山中貞雄監督の引き出しかたの上手さに乾杯。

 

『満映とわたし』に登場する映画『会議は踊る』(1)

  • 満映とわたし』には岸富美子さんやその家族が係った映画のことが出てくる。新たな見る視点をもらった。映画『会議は踊る』は、音楽が好きで録音関係の担当になった兄・福島威(五男)が自分も歌い、富美子さんにも教えてくれた主題歌である。威(たけし)さんがドイツ語をカタカナで覚えて教えてくれたのである。このことが後に会うドイツ人の女性編集者・アリスさんと富美子さんとの交流に役立つこととなる。

 

  • 映画『会議は踊る』は、オペレッタ映画の最高峰と言われ、当時の映画人やその後の映画人たちも注目している。大ヒットしたのが主題歌の『ただ一度だけ』で、ウイーンの手袋屋の売り子がひょんなことからロシア皇帝に見染められ酒場で逢瀬を愉しむ。皇帝からの迎えの馬車が来てお城に向かうまでのシーンがワンカットの移動撮影で、その間歓喜の娘がこの歌を歌い続ける。やはり観直さなくてはならない。

 

  • ナポレオンが敗れ囚われ戦争が終わる。ドイツの宰相はヨーロッパの首脳をウィーンによんでウィーン会議を開こうとしている。ドイツの宰相が、寝室の寝床から様々な部屋の盗聴ができるというところで笑ったことを思い出したが、そのあとおふざけすぎた映画だとおもったように思う。今回、時代の技術的なことを考えて見返していると、オペレッタであるが虚々実々の皮肉も効いていて面白い。

 

  • ドイツの宰相はロシア皇帝に色仕掛けで会議を欠席させようと一生懸命である。ところが、ロシア皇帝の部下は、皇帝の身の危険を守るため影武者を用意する。その入れ替わりがさらに娯楽性を増幅させる。さらにロシア皇帝をダンスパーティーに釘付けにするため貴族の婦人が、ロシア皇帝がウィーンの貧しい人々救済のため、チャリティーキスをすると勝手に宣言する。ところがこのことによってロシア皇帝は忘れていた娘と再会できるのである。

 

  • 会議のほうは各首脳はダンスの音楽に誘われて退席してしまう。座っていた椅子だけがゆれている。まさしく <会議は踊る> である。宰相一人で思い通りに決議することができるのであるが、すでに遅し、ナポレオンは脱出しフランスに上陸したとの知らせが入る。各国首脳はあたふたと帰国の途に就くため人々は去り一人取り残されるドイツの宰相。

 

  • 娘とロシア皇帝は酒場でたのしんでいた。ナポレオン脱出の知らせにまた会える日までと娘に告げ帰っていく。娘はもう会えないことを知っている。娘を元気づけるように酒場の人々は『ただ一度だけ』を合唱する。音楽に乗ってロマンスも描かれ、政治を漫画チックに風刺して明るく終わっている。やはり移動撮影は長かった。ロシア皇帝が現れ驚くドイツ宰相。コップに注ぐ水があふれ、それをもう一つのコップが水を受ける。その手はロシア皇帝であったというようなアップの挿入などは、人の感情を代弁していて面白い。ロシアバレェなどもでてきて音楽性もゆたかである。

 

  • 淀川長治さんが、「それまで音楽映画はアメリカのタップが主であった。ドイツのデーットリヒの『嘆きの天使』は音楽はいかにもドイツ的である。ところがこの『会議は踊る』の音楽はヨーロッパ的で驚いてしまった。素晴らしい。」と解説している。映画音楽の流れとしてはそういうことらしいのである。そして日本でも主題歌が大流行するわけである。制作は1931年で、日本公開は1934年(昭和9年である。撮影や編集の面での音楽の豊富さに日本の映画人が感嘆したのがよくわかった。

 

  • アリス・ルートヴィッヒさんは、ドイツ映画『制服の処女』シリーズの一篇『黒衣の処女』の編集をされた方だそうだが残念ながら『黒衣の処女』は観ていない。『制服の処女』は手もとにあった。この映画は、職場の先輩がお姉さんのデートの時監視役でついて行き、お姉さんと彼氏の間に座ってみたという映画で、この話を聞いた時は皆笑ってしまった。先輩は兄弟が多く一番下で、一番上のお姉さんは母親がわりであった。観たのが小学校へあがる前で、字幕の字はよめなかった。それで内容はわかったんですかと聞くと、「観ていればだいたいわかるわよ。」という。そのことがあり有名な作品でもあるので店頭で安いのを見つけた時に購入していたのであろう。まだ観ていなかった。まさかこんな機会があるとは。

 

  • 制服の処女』は、母を亡くし感情の起伏の激しい少女が、叔母に連れられて寄宿舎つきの学校に入学する。その学校での少女の体験が描かれている。規律と清貧がモットーの学校で学生たちはお腹を空かせている。少女はお世話係の生徒に学校を案内される。案内されるバックには生徒たちの合唱の歌が聞こえる。そしてぱっとアップの歌う生徒が映される。その口と歌詞が合っている。なるほどこれが編集かとおもった。できあがったものを勝手に編集されたらそれは困る。もしかすると、この口の動きと歌が合わなくなる。そうするとまた編集し直すわけであるが、事前に言われていれば意見交換ができ仕事もスムーズにいくであろう。

 

  • アップされる歌う生徒は、その歌詞をお腹が空いたと替え歌にして歌っているのである。主人公は皆があこがれる女教師に特別の感情を抱き、そのことが校長に知られ厳しい指導を受け自殺を試み未遂となる。校長は皆の批判の目にうなだれて歩いていく。たしかに字幕がわからなくても内容は何んとなくわかりそうである。場所は学校と寄宿舎で、登場人物の厳格そうな校長、感情の激しい主人公、優しくも凛とした女教師などである。あの少女は今喜んでいる、泣いている、あの校長はやっつけられたのだと。なるほど。

 

  • 黒衣の処女』は『制服の処女』で助監督だったかたが監督され、女生徒と教師役の役者さんが二人そのまま主演されている。アリスさんの編集の能力は、富美子さんが生涯の編集の恩師と思うほど編集能力が高かったと想像できる。編集の目で観ていると細かいところまで目がいく。『黒衣の処女』は、1933年に公開されている。富美子さんがルイスさんと一緒に仕事をした『新しき土』は1937年公開である。『制服の処女』は1931年公開である。

 

『満映とわたし』の嵯峨野時代

  • 満映とわたし』(岸富美子・石井妙子共著)は、劇団民藝『時を接ぐ』の原作である。岸富美子さんが15歳で映画の編集助手として働き始め、そこで出会った映画関係の人々との交流で今まで知り得なかったこともかかれてある。富美子さんは、原節子さんと李香蘭さんと同じ年で、二人の作品の仕事もしている。岸さんの姿勢はおそらく色々な噂も耳にしていたのであろうが、自分で眼にしたことのみ書いている。そして仕事柄、自分と大スターとは違うというところをきちんと踏まえられている。

 

  • 活動写真『ジゴマ』を見た少年に後の伊丹万作監督が紹介されていた。(『怪盗ジゴマと活動写真の時代』永嶺重敏著) 伊丹万作少年は、『ジゴマ』の内容よりも弁士駒田好洋の説明ぶりやポーラン探偵のしぐさのほうが印象に残る映画だったといわれている。その伊丹万作監督が『満映とわたし』にも登場した。

 

  • 伊藤大輔監督伊丹万作監督と松山中学で同窓で親友だったらしい。三十代後半の伊藤大輔監督は兄たちが次々病気で倒れ、15歳の少女が一家を支えなければならない事情もわかっていたのであろう。富美子さんに優しく接してくれた。家が近いため夜遅く帰宅する時は歩いて送ってくれたりもした。その時の様子が映画の名シーンのようである。

 

  • 伊藤監督は蝙蝠傘をいつも持っていてその蝙蝠傘で蛍をつかまえ、チリ紙に包んで持たせてくれた。富美子さんはその蛍を仏壇の花のところにはなすと父や兄の位牌をほの白く照らしてくれた。富美子さんには5人のお兄さんがいて長男はアメリカで一歳半で亡くなり、三男は満州にいる時伯母の養子となっている。富美子さんは満州で生まれている。同じくして父を失う。母と四人の子は日本にもどってくる。次男は映画の仕事でアメリカに行き家族の星であったが肺結核で亡くなってしまう。五男も映画の音楽担当であったが結核で療養中で母が付き添い、四男は徴兵検査に合格して入隊してしまうのである。(『時を接ぐ』では次男、四男、五男の三人の兄が出てくる)

 

  • 伊藤大輔監督はある日近道があるからと細い路地を入って行った。田んぼの中のある家の前で立ち止まり、伊丹万作監督の家で、今彼は病気なんだと教えてくれる。伊藤大輔監督は声はかけずじっと見つめて帰るだけであった。富美子さんは、その後、その道を通って家の様子をそっとのぞきながら仕事に通った。大好きな伊藤監督が心配している伊丹監督の様子を知っておきたかったとある。元気なようすであればお元気そうでしたよと伊藤監督に伝えたかったのでしょう。

 

  • 富美子さんは、勤めていた第一映画社が倒産し、日独合作映画『新しき土』の編集助手となる。この映画の日本側の共同監督が伊丹万作監督であった。共同監督とは名ばかりでアーノルド・ファンク監督の助監督のような立場で伊丹監督は降りるというのを周囲が伊丹監督にも編集権を与え伊丹版も作るということになった。これは知りませんでした。私が観たのはどちらだったのでしょうか。感じとしてはファンク監督版のような気がするのですが。比べて観てみたいものです。

 

  • 最初、富美子さんはファンク監督の映画の編集助手であったが、伊丹監督の編集助手にまわされる。伊丹監督の編集現場は仕事が過酷で次々と編集助手が倒れてしまうのである。一緒に仕事をして親切に教えてくれたドイツ人のアリスさんも困ると反対してくれたがどうにもならなかった。伊丹監督は病気が治ったのであろうかと顔をみるとやはり病人にしかみえなかった。編集助手と口をきく様なかたではなかった。そしてついに富美子さんも倒れてしまうのである。伊丹版で倒れた編集助手の5人目だった。伊藤監督のところではウルウルしたのに、映画監督の絶対的権力に唖然としてしまった。

 

  • それが当たり前だったのであろう。この過酷さを乗り越えなければ良いものは作れないとの想いが映画人にはあって、あの監督の映画のためならと思う映画人も沢山いたであろう。しかし末端の仕事をする者には過酷であった。幸いお兄さんが除隊となり富美子さんはほっとする。しかし、富美子さんも映画人気質が身についていて、元気になると、兄にどこの会社が良いであろうかと相談している。富美子さんはお兄さんと同じ日活の京都撮影所に入社する。

 

  • 『満映とわたし』であるからこれからが本題でもあるのだが、富美子さんが一人の映画人となっていく過程も魅力的である。人との出会いによってどんどん仕事にのめりこんで行くのである。若さの輝きとでもいうのであろうか。ここでは嵯峨野時代を少し紹介するにとどめる。

 

  • 満映のあった南新京についた町の様子が書かれていて、新京神社があり、西本願寺があったと書かれてあり、そうか神職に仕えるひとやお坊さんも行っていたのだと愛知県一宮の妙興寺の歌碑を思い出した。歌碑には「親のなき 子等をともない荒海於 渡里帰らん この荒海を」 妙興寺の十八世老師は旧満州の新京の妙心寺別院に布教のためにいかれ終戦をむかえられた。多くの孤児がさ迷っているので禅堂を改造して孤児を収容するため慈眼堂を開園。この歌は孤児三百名と共に帰国乗船の折り詠まれたとあった。岸富美子さんの家族もよく生きて帰られたと思われるような状況がこのあとやってくるのである。映画人の貴重な資料ともなっている。
  • 劇団民藝『時を接ぐ』

 

  • 少しつけ加えると、満映から日本にもっどた映画人の受け皿が東映であったとくくられるのはこの本を読んで違うなと思った。最後まで中国に残った内田吐夢監督が復員後東映に入り活躍するが、それは特例で岸富美子さん等は門戸を閉ざされ独立プロなどに入る。そのあたりは、この本を読んでもらうほうがよい。内田吐夢監督の苦悩とその後の映画作品にどう反映したかなども考察できるかもしれない。民藝『時を接ぐ』でも最後は岸富美子(日色ともゑ)の長いエピローグで締めくくるという形でなんとかおさめた。

 

『ジゴマ』の大旋風

  • 浅草六区の映画関係をさぐると、活動写真『ジゴマ』のことがでてくる。もう少し知りたいと思っていたら良い本にめぐりあえた。『怪盗ジゴマと活動写真の時代』(永嶺重敏著)である。読みやすくよく調べられている。活動写真の『ジゴマ』が、活動写真だけではなく小説本としても出版され、映画、出版の力で『ジゴマ』人気は爆発的となる。

 

  • 活動写真のほうは弁士というものがつき、それがまたまた『ジゴマ』に魅力を加えたようである。さらに『ジゴマ』は子供たちにも人気でそのことから、教育上好ましくなく、犯罪を誘発するということで、上映禁止となる。さらに映画の検閲というものがそれまでいい加減であったものが『ジゴマ』によって確立されていくのである。それらの流れが順序だてられながら明らかにされている。

 

  • 活動写真『ジゴマ』は明治44年11月に浅草公園「金龍館」で公開される。フランス映画で、凶悪な盗賊ジゴマと探偵ポーランの活劇探偵映画であるが、この悪い方のジゴマが主人公となって暴れまわるようである。それが弁士によってさらに色を加えて語られ観客は惹きつけられる。驚くのは、明治天皇が崩御され明治45年7月30日に明治から大正と改元される。地方映画館では、明治天皇の『御大葬実況』の映像と『ジゴマ』が併映されてもいたのである。

 

  • この本で面白いのは、弁士の活躍も書かれている。活弁の創始者・駒田好洋さんは、巡業隊を組んで『ジゴマ』を持って地方都市をまわっている。それを、江戸川乱歩さんは名古屋の「御園座」でみている。その体験が乱歩さんの作品に影響を与えるのである。後に映画監督となった伊丹万作さんも松山でみている。

 

  • 駒田好洋巡業隊はブラスバンドつきで駒田好洋が燕尾服にシルクハット、白手袋で指揮をとっての行進である。そのパフォーマンスにも人気があった。想像しただけでも人々のどよめきが聞こえる。幕間の休憩には、長唄の『勧進帳』『吾妻八景』を駒田好洋さん自ら他の弁士と演奏したとある。これが三味線演奏なのかどうかはわからない。京都では「歌舞伎座」(新京極にあった歌舞伎座であろう)、南座でも上映している。

 

  • 活動写真は配給だけだったのが次第に映画製作→配給→専属映画館での封切などと変わってくる。活動写真のほうは特に小学生に人気があった。出版界は活動写真の『ジゴマ』を忠実に文字にしていたが、小説版の新しい『ジゴマ』作品に乗り出しこれが中学生に人気を博す。さらに日本版の『ジゴマ』の活動写真も制作され、その内容が俗悪化していく。そこで、東京朝日新聞が『ジゴマ』映画が犯罪を招くと記事を連載。このことがきっかけで大正元年10月9日に」『ジゴマ』上映が禁止される。そしてこの処分の混乱から映画検閲方法が一本化されていくのである。

 

  • 『ジゴマ』のまえから、活動写真館の館内が子供の健康に悪いという事は問題視されていたようだ。窓を開けてのわずかな換気での空気の悪さ。ほこり、タバコの煙、人の吐く息、さらにフイルムの劣化による映像の悪さによる視覚に対する悪影響など。そこにきて『ジゴマ』の犯罪者が逃げのびてしまうのである。その旋風は子供たちをも巻き込みながら、ジゴマブームは一年間で終わってしまうという呆気ないようなみじかさであった。

 

  • 映像と活字メディアは、『ジゴマ』から集客ということでは、その方法論を学んだことであろう。活動写真は映画と言われるようになるのが大正中期だそうで、添え物の映像が自立する過程でもある。『ジゴマ』は流行りものは浅草から始まるという一つの象徴でもある。『ジゴマ』の三文字が、なかなか実体として思い描けなかったが、その実態を浮き彫りにしてくれたのが『怪盗ジゴマと活動写真の時代』である。状態のよいフィイルムで見せて貰った気分である。

 

  • 『ジゴマ』時代にも問題視された浅草の不良少年。大正時代の中期頃からエンコ(浅草)の不良として登場するのが、サトウ・ハチローさんである。とにかくすったもんだの問題児であった。『実録 ぼくは浅草の不良少年 サトウ・ハチロー伝』(玉川しんめい著)によると不良でも女性ぬきの硬派だったとしている。映画館で男女がイチャイチャしていると、警察の者だがちょっと外へと連れ出し、後で調べるからちょっと待って居なさいといって男女を置き去りにし、存分に映画をたのしんだとある。

 

  • 『怪盗ジゴマと活動写真の時代』によると大正6年(1917年)に「活動写真興行取締規則」ができ、男女客席が区別されるので、サトウ・ハチローさんが男女を映画館から追い出したのはその規則ができるまえであろう。さらに、『サトウ・ハチロー伝』では当時の変わり者警視総督で、文人である丸山鶴吉に宛てた訴えの中に、映画館の男女席の撤廃は風紀を乱されるとして反対したとある。これは、昭和6年(1931年)に規則が撤廃され、男女席が同じになった時のことであろう。

 

  • サトウ・ハチローさんは、浅草公園の興行師・根岸吉之助さんにビール代をもらい事務所でごろごろしている時期があった。「金龍館」の表事務所に用があり行くと以前よく顔を合わせて苦笑いをした刑事としばらくぶりで合った。話しを聞くと根岸の三館共通館に刑事をやめて勤めていたというような話も書かれている。『サトウ・ハチロ―伝』のほうは、ハチローさんをとりまく不可思議な知り合いがチラホラと多数でてきて噴き出してしまう。その後よく知られるようになった人の名もある。浅草にはあだ名だけの有名人も存在していた。不良だからこそ接することができた世界がそこにはある。