歌舞伎座九月秀山祭 『毛谷村』『道行旅路の嫁入』『幡随長兵衛』

彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち) 毛谷村』は、仇討浄瑠璃狂言のなかでも、コミカルさを含んだ楽しい狂言ですが、ただかえってこのコミカルさを型で観せなくてはならないので、人物が薄ぺらくならないように気を付けなくてはならないとも言えましょう。柔らかさと大きさというのは、歌舞伎にとっては厄介な難所でもあります。

百姓でありながら剣術の達人は達人ゆえのおおらかさがあり、お召しかかえの剣術の試合に母のためという相手にワザと負けてやります。そんなところへ、母になってやろうかという老女があらわれたり、ニセ虚無僧があらわれたりします。

実は、老女は六助の剣術の師の妻・お幸(吉弥)であり、虚無僧は娘のお園でした。さらに試合にわざと負けた相手は剣術の師・吉岡一味斎を闇討ちにした京極内匠(きょうごくたくみ・又五郎)であることが判明します。

芝居が進むうちに謎がどんどん解かれていくという展開に合わせて、登場人物の設定が面白く、お園は虚無僧に化けた女武芸者(女武道)で力持ちなのです。(『逆櫓』のお筆も女武道です)虚無僧の花道の出は、男としか見えない足取りで、実は女であったというところを菊之助さんがしっかりと表現され、ニセ虚無僧であるということを見抜く六助の染五郎さん、これまでの気の良さだけではないところを、ふたりの立ち合いでぶつけます。

外に子供の着物が干してあります。それを六助が直すところがあり、何かあるなとおもわせますが、この着物に誘われてお幸が来て、お園が来るのです。着物の主はお幸の孫でお園の甥の着物でした。

お園は、その着物から六助を敵と勘違いするのですが、実は、六助はお園の許婚と知り、恥ずかしさに臼を持ち上げて力持ちがわかり、忍びとの立ち廻りをしつつの語りに武道の腕前をみせます。六助も京極が敵と知った怒りで石を踏んで土に押し込めてしまうという力をみせます。

そうしたコミカルな可笑しさが多いところをきっちりと浄瑠璃に乗せてこともなげにやってしまう面白さがあり、染五郎さんの声質の明るさ、菊之助さんの丁寧な浄瑠璃の乗り方に、次の世代へこの作品も繋がっていくのだなあと感じました。わかりやすい作品だけに手堅くしっかり残していってほしいです。

道行旅路の嫁入』は、『仮名手本忠臣蔵』の八段目の塩谷判官刃傷を途中で押さえた加古川本蔵の娘・小浪が義母・戸無瀬と二人で許婚の大星力弥に嫁入りのための旅路を舞踏化したものです。藤十郎さんの戸無瀬は娘に対する気持ちを心でつないで動かれ、壱太郎さんの小浪は、藤十郎さんの背の高さに合わせてひざを折り中腰の辛い姿勢で、力弥にたする想いと寂しい嫁入りを表現しているのには感心しました。顔はあくまでも恋一筋の可愛らしさ。

二人の気持ちを明るくするように登場して踊るのが奴・河内の隼人さん。奴の軽妙さにはまだですが、下半身に安定感があり身体の芯をしっかり保っていましたので、この基本で今後どのような味をだされるか楽しみです。『再桜遇清水』の歌昇さん、種之助さんと隼人さんでこちらは小川家三奴ということになります。

極付 幡随長兵衛 公平法問諍(きんぴらほうもんあらそい)』は河竹黙阿弥さんが書かれているのです。気になって少し調べましたら、黙阿弥さんが亡くなったのが、軽井沢~横川間のアプト式蒸気機関車が走った明治26年(1893年)なんですね。

初演されたときは『湯殿の長兵衛』で明治14年(1881年)、それに「公平法問諍」が弟子によって加筆されて上演したのが明治24年(1891年)です。「公平法問諍」は芝居の中で上演されている演目で、江戸時代に人気のあった公平浄瑠璃で、この芝居にいれることで公平浄瑠璃がこれだけ残ったのだそうですから面白い現象です。舞台の江戸村山座では、この「公平法問諍」を上演しています。

坂田公平が又五郎さん、上人が橘三郎さん、頼義が児太郎さん、柏の前が米吉さんで、いつもよりしっかりこの芝居に注目しました。上演中に水野の家来などが邪魔をしますが、そのやり取りの間どう対応するのか、特に児太郎さんと米吉さんコンビには注目していました。(破戒僧清玄でのコンビですから)面白かったです。困ったわね。お止めよ。親分が来てくれてひと安心。ここはひとまず平伏してなどの気持ちであろうと楽しませてもらいました。

ここで幡随長兵衛のお客の気分を和らげつつ侍をあしらう見せ所です。それに声をかけるのが水野十郎左衛門。一歩も引かぬ幡随長兵衛。こういう侠客はすでに居なかったわけで当時の観客は喜んだことでしょう。今でもあり得ない粋さです。

さて、水野から幡随長兵衛への招待があり、意気込む子分たち。松江さん、亀鶴さん、歌昇さん、種之助さんらのいきり立つ瞬時の動きが良い空気で緊張感を増させます。形にならなかった時期の若手さんを思い出します。代わりに行くという兄弟分の権兵衛の歌六さんらを押さえ、早桶を清兵衛の又五郎さんに耳打ちします。

行かないで欲しいと願いつつも侠客の女房として着替えの手伝いをするお時の魁春さん。天秤棒担いでも、侠客にはなるなと遺言をしての長松との子別れ。喧嘩になってはどれだけの血が流れることか。引くわけにはいかない。

旗本が侠客に辱められて黙っていられようか。水野十郎左衛門の染五郎さんと友人の近藤登之助の錦之助さんら侍たちの謀のため幡随長兵衛は湯殿で水野の槍に突かれ落命するのです。『湯殿の長兵衛』はここからきているのでしょう。

どの場をとっても吉右衛門さんの幡随長兵衛の名台詞です。今回どうして「公平法問諍」の場があるのかわかるようなきがしました。客席から舞台に上がる役者さんを見せる趣向ということもありますが、庶民に支持され愛された幡随長兵衛の姿をより観客にちかづけて見せるためだったのではないでしょうか。ここはどんな幡随長兵衛を役者が作っているかが試される場でもあります。

江戸の芝居小屋にいる雰囲気を観客にも味わせることによって、明治によって押しやられた江戸の空気を、待ってました!と声がかかり、江戸の幡随長兵衛に皆の喜びのざわめきが聞こえてくるようでした。

 

歌舞伎座九月秀山祭 『逆櫓』『再桜遇清水』

夜の部『ひらかな盛衰記 逆櫓(さかろ)』は、吉右衛門さんの船頭松右衛門から樋口次郎への変化の妙味と、思いもかけない人生の荒波を乗りきる歌六さんの漁師権四郎とのやり取りの面白さを味わえる好舞台です。台詞まわしが絶品です。

樋口次郎は漁師権四郎の娘・およし(東蔵)のむこに入っています。名前が亡き夫と同じ松右衛門です。亡き夫の残した子・槌松(つちまつ)は西国巡礼の際、捕り物騒ぎでよその子と取り違えて、今いる子は槌松ではないのです。

前に進み、後へもどることを自由にあやつる舟のこぎ方の逆櫓は人の生き方にもいえることで、権四郎は見事に土の上の逆櫓を見せるのです。

松右衛門は権四郎から逆櫓を伝授され、梶原平三から義経の舟の船頭を申し受けます。梶原との対面を権四郎親子に話すし方話の柔らかさが面白く、船頭がドギマギしながらも、権力者に対する庶民の揶揄する気分など、現代でも有名人に会って興奮して話す感じです。それを聞く権四郎親子も高揚します。その後とんでもない悲劇がお筆(雀右衛門)という女性がたずねて来てもたらされます。生きていると信じていた槌松が、実は木曽義仲の若君・駒若丸と間違えられて殺されていたのです。悲嘆にくれお筆のいい様に怒り狂い、駒若丸を殺すという権四郎。

それを止めさせる松右衛門の樋口次郎。樋口は松右衛門にやつしていたのです。障子が開き松右衛門から樋口への様変わりが大きく舞台を引き締め空気がかわります。この大きさと台詞術が、権四郎を一人の孫の祖父から武士の親として納得させたことを観客にもうなずかせます。

逆櫓の練習場面を子役の遠見にして、船頭仲間が実は梶原の手下で、船頭たちと樋口の大きさをみせつけつつの立ち廻りとなります。権四郎が訴人したと聞き、裏切られたと悔しがる樋口。そこへ、畠山重忠(左團次)が樋口を捕えにきます。権四郎は駒若丸を、これは亡き松右衛門の息子の槌松なのだから、この松右衛門とは何の関係もないと言い切り、畠山も駒若丸と知りつつ命を助け、樋口と駒若丸は主従としての別れをかわします。権四郎は武士の親としての務めをはたすのです。権四郎の逆櫓の腕は衰えていませんでした。

さらに、三人の船頭・富蔵(又五郎)、郎作(錦之助)、又六(松江)のそろった声の響きに答える樋口の声の明るさが、梶原の裏をまだ知らぬ樋口の義経を討つ好機の気持ちを表していて、こういう短いところにも歌舞伎の面白さの光があるとおもえました。

松右衛門と樋口次郎の人間味の違いは長い時間をかけての芸の力です。秀山祭は初代吉右衛門さんの芸を讃え継承する公演ですが、初代さんは観ておりませんが、初代で名優になったのですから凄い力のかただったのでしょう。その初代を目指す二代目さんの修業も並みならぬものがあり、今、二代目はこうだという芸力を見せてくれる舞台でした。

再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)桜にまよふ破戒清玄』は、吉右衛門さんが松貫四の名で、『遇曽我中村』をもとに書かれた作品で、<桜にまよふ破戒清玄>とありますように、僧・清玄がこれでもかというほどの破戒僧になるのです。その原因は、清玄という名前が災いします。一人は<きよはる>と読み、一人は<せいげん>と読む同じ名前なのです。<逆櫓>の同じ名・松右衛門とは違う展開なのも面白いです。

「桜の森の満開の下」ならず、「桜の清水の満開の下」は、同じ名前を利用して落とし入れる桜姫(雀右衛門)の腰元・山路(魁春)の主人を想う一途さです。桜姫を演じたことのある魁春さんは桜姫の心の内が手に取るようにわかるのでしょう。さすが手順がいいです。

桜姫と千葉之助清玄(きよはる・錦之助)は恋仲ですが、千葉之助が鎌倉の新清水寺へ頼朝の厄除けのため剣を奉納するというので、桜姫は千葉之助に会いたくて新清水寺にきています。桜姫に横恋慕しているのが荏柄(えがら・桂三)が、桜姫の千葉之助の恋文を拾い、不義であるといいたてます。そこで山路はその相手は<きよはる>ではなく<せいげん>だと言い張ります。そうしなければ桜姫と千葉之助は死なねばならぬとの状況から清玄(染五郎)は、手紙の相手は自分だと認め寺を去るのです。

桜姫はことの成り行きから新清水寺の舞台から傘をさして飛び降り、清玄に助けられ、これが清玄にとって運のつきであります。桜姫に惚れてしまうのです。一度いつわりの破戒も本物になってしまいます。清玄は名僧だったのでしょう。千葉之助がこちらは<きよはる>あちらは<せいげん>と讃える台詞もあり、二人の弟子(児太郎、米吉)が清玄についていくのです。

ところが清玄の破戒は人をも殺してお金を奪うというところまで行き、二人の弟子は恐ろしくなり池に身投げしてしまいます。そこへ、葛籠に入った桜姫が運命のいたずらで運ばれてきます。しかし遂に清玄は殺されてしまいます。執念は女も男も恐ろしいものです。清玄は幽霊になっても、桜姫への想いを断ち切ろうとはしないのでした。

染五郎さんは、奴浪平で桜姫を助ける側と破戒僧清玄の二役です。歌昇さんは桜姫側の奴磯平で種之助さんが荏柄側の奴灘平で三奴の違いもお楽しみどころですしょうか。

桜姫の雀右衛門さんと千葉之助の錦之助さんが、あくまで武家の姫と若君の佇まいを貫いて悪気じゃないが清玄を破戒に落とす軸となって貫き、清玄の破戒を際立たせました。

染五郎さんは歌舞伎ならではの破戒ぶりで、『鳴神』と違って何の力もないわけですから幽霊となって出るしかない悲しさがこれまた可笑しいです。台詞の声質に新しい領域が広がってきているのが今後に期待できます。

児太郎さんの妙寿と米吉さんの妙喜の清玄の破戒ぶりに途方に暮れる様がこれまた若者ゆえの可笑しさを誘います。神妙になって観るよりも、一旦タガが外れると人間可笑しなことまでやってしまい、考えもなく、その場を繕う人の性が、これまた可笑しな状況を生み出すといったようなことでしょうか。

若手が思考錯誤して破戒に振り回されないように頑張っているところがなんとも可笑しくて楽しいです。さらなる芝居の引き締めと支えどころをつかんでいってください。

 

歌舞伎座ギャラリー

歌舞伎座ギャラリーで門之助さんと笑三郎さんのトークショーにおじゃまして、猿之助さんの特別映像『宙乗りができるまで ~新臺猿初翔(しんぶたいごえんのかけぞめ)~』があるのを知りました。さらに<歌舞伎夜話アンコール>ということでトークイベントの短縮の映像もみれるということで、八月末までは隼人さんの映像が見れます。

もう一つ、ドキュメンタリー映画『パリ・オペラ座 ~夢を継ぐ者たち~』も9月1日までですので、これも組み合わせて出かけました。

宙乗りができるまで ~新臺猿初翔(しんぶたいごえんのかけぞめ』は、新しい第五期歌舞伎座2016年6月、『義経千本桜』での初めての宙乗りまでの裏の仕事の様子です。三階席の花道上を取り外し、鳥屋(とや)を作りそこに宙乗りをした役者さんは入り幕が締められ、楽屋にもどるのです。新しい歌舞伎座の座席が軽くなり移動にはその点は楽になったそうです。

見ていますとスタッフのかたは大変だなあと思いました。猿之助さんも宙乗りは死と隣り合わせですからといわれていましたが、その安全の点検も神経が張りつめることでしょう。一度、吉右衛門さんが、石川五右衛門の葛抜け(つづらぬけ)の時、宙で葛が開かず下におろして葛から出て、葛を背負い、花道を飛び六法で引っ込むということがありました。何ごともなく安心しましたが、やはりあたりまえが常にとは限りません。

猿之助さんは正確には、スタッフやお弟子さんが先に宙乗りをしましたが、新しい歌舞伎座でお客さまの前で宙乗りをしたのは自分が初めてなわけで、大変嬉しいですといわれ、さらなる宙乗りの工夫に努めたいと意欲をみせます。

そして出て来ました弥次喜多コンビ。花火の打ち上げの宙乗り。二人を吊るしているワイヤーが絡まらないようにその間隔と速さの調節や、染五郎さんが猿之助さんの足をつかむタイミングとか、空中回転などを試します。下で金太郎さんと團子さんが「ウオッー!」と声を発します。慎重にスタッフ、弥次喜多コンビの息を合わせていきます。

染五郎さんは高所恐怖症なのだそうです。アドバイスをと言われて猿之助さん真面目な顔で「危ないことはしないことです。」には笑いました。それでもやってしまうのが弥次さん気質でしょうか。

この映像のあとに、なんというタイミングの良さでしょうか。『歌舞伎を演じる馬』の映像が映りました。歌舞伎に登場する馬の名場面を集めていました。『一谷嫩軍記 陣門・組討』『近江のお兼』『実盛物語』『馬盗人』『矢の根』『當世流小栗判官』。役者さんに合わせてとその場の空気をつくったり、役者さんを乗せ花道を走ったり、碁盤の上に乗ったりと、大きな映像でみると脚などもしっかり見え、その動きの絶妙さはあっぱれです。映画『旅役者』の表六、仙太コンビに見せてあげたいところです。闘志を燃やすことでしょう。

その他常時放映されている『歌舞伎の華 傾城たち』『白波五人男 稲瀬川勢揃い』の映像もあり見どころ多数ありでした。重い鬘と衣装の出で立ちで、身体をどう動かしているかがわかります。そばには、傾城の衣装も展示され、白波五人男での傘は実際に使うことができ、形をきめての写真もオッケーです。一人でも係りのかたがシャッターを押してくれます。

隼人さんのお話は、浅草歌舞伎六年目で電車通勤にも慣れた事、忠臣蔵の力弥を田之助さんに教えを受けたときにあわてた事、『ワンピース』で大きなお役をもらった事、ラスベガス公演の事など爽やかに話されていました。

歌舞伎ギャラリーに一度行ってみようかなとおもわれるかたは、この映像も予定に入れるとより楽しいものになるかとおもいます。9月の特別映像は染五郎さんの『大物浦』の舞台裏をみせられるようで、「歌舞伎夜話アンコール」は前半は巳之助さんで、後半は米吉さんです。二つを見るためには、それぞれの上映時間を調べて組み合わせて下さい。

帰り際には、しっかり大道具の馬にも乗りました。これをかぶると言いますか、背負うといいますか、そして二人の息を合わせ、さらに役者さんを乗せるのですから、あらためて馬役者さんの技には拍手です。

ドキュメンタリー映画『パリ・オペラ座 ~夢を継ぐ者たち~』については、他のドキュメンタリーバレエ映画と合わせて書ければその時に。

新橋演舞場でOSKの『レビュー 夏のおどり』を観ました。歌舞伎と反対に男役の方の動きが気になり観ていましたが素敵でした。第一部は『桜鏡~夢幻義経譚(ゆめまぼろしよしつねものがたり)』で、高世麻央さんの義経と桐生麻耶さんの弁慶コンビが光っていました。桐生さんに弁慶の大きさがあり、女性でこれだけの弁慶はいないのではと思いました。初めてなので実際のところ比べられないのですが。レビューもこれだけ見せれるのだと感心しました。

出演のかたがたが、舞台装置の移動もして、その動き方が男性的できびきびしていて気持ちよかったです。今回は、高世麻央さんと桐生麻耶さんを中心に観させてもらいましたが、ラインダンスも超元気いっぱいで楽しく、スカッとしました。大人の男性も多かったです。秋めいた夏のおわりのような輝きでした。

 

 

歌舞伎座八月『野田版 桜の森の満開の下』

野田版 桜の森の満開の下』は、観劇するのが楽しみであると同時に解るであろうかの疑念がありました。

<野田版>とあるように、下敷きの坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』です。その二作品は読み、篠田正浩監督の映画『桜の森の満開の下』も見ておきました。

坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』は、山の中に住む男が、桜が満開の森の中に入ると気が変になってしまうことを知り怖れていますが、美しい女を手に入れ、その女の欲望のままに動き、女の望み通り山から京に出ます。美しい女のために生首を集めてきますが、男にとっては何の意味もありません。次第にあの桜の下の魔力が思い出され男は山へ帰ると言います。思いがけず、女はそれじゃ私も一緒にいくといい、男は喜んで女を背負って満開の桜の下に入っていきます。女がいれば桜の下も怖くないと。しかし、背中の女が自分の首を絞め、鬼になっていました。思わず男は女を絞め殺します。そこには美しい女の顔がありました。

篠田監督の映画『桜の森の満開の下』は原作に少し京での男の行動を膨らませていますが、基本的に原作を映像化しています。

野田版では、女がもてあそぶ生首の場面などは無く、そこに『夜長姫と耳男』を挿入しています。

『夜長姫と耳男』は、<耳男><小釜><青笠>の三人が夜長の長者に仏像を彫るように命ぜられます。夜長の長者には美しい娘の夜長姫がおります。耳男と夜長姫が会ってからは、この二人の物語となります。夜長姫はとてつもない理解しがたい美意識と感性の持ち主で、耳男は名前の通り大きな耳を持っていますが、その耳を女奴隷のエナコに斬り落とさせるのです。

足かけ三年、耳男は姫の笑顔に魅かれる自分に対抗するようにモノノケの像を彫ることにします。自分の意識を覚醒させ、蛇の生き血を飲み、残りはバケモノの像にしたたらせ姫の笑顔と闘います。この像が姫に大層気に入られます。姫はバケモノの像の力を試し、その力が無くなると姫は耳男に命じ蛇を捕まえさせ、自分がその生き血を飲み、人々がきりきり舞いをして全て死すことを祈り眺めていたのです。

耳男は姫の無邪気な笑顔とミロクとを重ねて彫っていましたが、そんなものが何の意味も無い様に思え、姫を殺す以外に人間世界は維持できないことを知り、耳男は姫をキリで刺し殺してしまうのです。

刺された姫の最後に残した言葉は・・・・。

さて、『野田版 桜の森の満開の下』では、どうなるのでしょうか。『桜の森の満開の下』に挿入された『夜長姫と耳男』は、登場人物が多くさらに鬼が加わります。仏像を彫る男三人は、耳男(勘九郎)、マナコ(猿弥)、オオアマ(染五郎)の三人で、耳男はわかります。オオアマも鬼を使って国盗りをするという人物です。

マナコがわからなかったですね。カニになったりもするのです。野田芝居特有の言葉あそび、パロディが散りばめられていますから、わからないなりに笑わせてもらいます。その笑いの多いマナコがよくわからなかったわけです。カニ軍団のカニ、カニ、カニの動きも意味もわからず可笑しいのです。

鬼も人間になりたいと人間になったりもします。人間に利用されているだけなのか、鬼そのものの力があるのかあたりもわかりません。鬼の中心はエンマ(彌十郎)そして赤名人(片岡亀蔵)、青名人(吉之丞)、ハンニャ(巳之助)。

これまたよくわからない人で作る遊園地はお見事でジェットコースターなど動きも抜群です。ところどころにこうした流動的躍動感が舞台一面に広がるのですから細部はまあいいかと楽しませられます。

夜長姫(七之助)だけではなく、早寝姫(梅枝)もでてくるのです。たしかに夜長姫があれば、早寝姫があってもいいわけで、この名前を見ているだけでも可笑しいです。二人の娘に翻弄される親のヒダの王(扇雀)。早寝姫は、歌舞伎ならではの国盗りに手を貸し、ここは歌舞伎を意識しての挿入でしょうか。それだけではない地図の広さを感じます。

その上には空があり、空が下がってきてしまうという恐怖感もあります。おそらく野田さんは世界を意識されているのでしょう。

夜長姫は人々がきりきり舞いをするところで、「いやまいった。まいったなあ。」といい、その軽さにもっていくのが印象的だったのですが、最後の耳男のせりふが、「いやまいった。まいったなあ。」でしたので、やはりここにくるのかとおもったのですが、今の世界を表しているのでは。自然界も人間界もその根の深さがむくむく首をもたげ異常な噴出を始めているようです。

『桜の森の満開の下』だけのことならいいのですが。その上の青い空がおりてきたら・・・・。

いやまいった。まいったなあ。

まいっている暇のない、野田ワールドの沢山の笑いと役者さんの動きも愉しまれてください。

 

神保町シアターで、三代目猿之助さんが襲名のときの映画『残菊物語』を上映しています。溝口健二監督の花柳章太郎主演の映画はDVDにもなっており見ることができますが、大庭秀雄監督の三代目猿之助さんの映画はつかまえられず、やっと見ることができました。舞台場面も多く若い猿之助さんと岡田茉莉子さんが一見です。(23日19時15分~、24日16時40分~、25日12時~)

 

 

歌舞伎座八月『修禅寺物語』『東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帳』

修禅寺物語』は彌十郎さんのお父さんである初代坂東好太郎さんとお兄さんの二代目吉弥さんの追善公演でもあります。

吉弥さんは観ていまして、独特の声質で頭の中にその響きが残っております。好太郎さんは、溝口健二監督の映画に出ておられて、『歌麿をめぐる五人の女』はビデオテープを持っていまして今回見直しました。歌麿が六代目蓑助さんで、その歌麿に反感を持ちますが、歌麿の絵の力に敬服し、武士を捨て絵師になるのが好太郎さんの役です。一途に女の愛を貫き愛人をも殺してしまう田中絹代さんもからんで描きたい女をも畳み込む溝口監督ならではの相関図が展開されます。

見たい作品は溝口監督の『浪花女』で、好太郎さんが主役ですが残念ながら残っていないようなんです。

修禅寺物語』は、伊豆の修禅寺に住む面(おもて)作り師夜叉王(彌十郎)が時の将軍源頼家(勘九郎)から頼家自身の面を頼まれますが、納得のいく面が打てません。それは、似てはいるのですが面に生がこもらず死んでいるのです。こんなものは後の世に残せないと自分の腕に苦悩しますが、後にこれは、頼家の死を暗示していたのだとわかり、自分の腕に自信をとりもどし瀕死の姉娘・桂(猿之助)の顔を描くのでした。

些細な幸せを願う妹娘・楓(新悟)と許嫁・春彦(巳之助)の対極に、田舎に埋もれることをきらい頼家に見初められ、頼家の面を付け頼家の身代わりとなる桂。頼家に付き添う修禅寺の僧(秀調)など所縁の方々を配しての上演です。

夜叉王という芸術至上主義者を通して、鎌倉源氏の権力の危うさを映し出した岡本綺堂さんの作品で、彌十郎さんは信念を動かない腹を示めされました。勘九郎さんの声が勘三郎さんそのもので、もてあそばれる運命にあがなう気品をだされ、猿之助さんと新悟さんが性格の違いをはっきりさせ良い彫りの舞台でした。

東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帳(こびきちょうなぞときばなし)』。宙乗り下りで、あの弥次喜多が木挽町歌舞伎座に帰ってきました。再び歌舞伎座での黒子のアルバイト。この二人がいる場所には、かならず何かが起こり、またまた舞台はとんだことになりますが、今度は殺人事件勃発です。

それが『義経千本桜』の<四の切り>の練習場面で起こるのです。座元、その女房、役者、その家族、弟子、大道具、女医、同心、若君と家来、そして、竹本の少掾と三味線などなどなど・・・なぞなぞなぞ・・・

弥次さん喜多さんのドジぶりは相変わらずですが、役者さんこの舞台で実舞台のうっぷん晴らしかもと思わせる熱演もあったりで可笑しいのなんの週刊誌よりも歌舞伎界のスクープ性ありかも。もちろん瓦版の取材もあります。

<四の切り>の舞台装置が、謎解きの展開で公開され、舞台装置の断面図の実際の作りも出てくるのですから大道具さんも大変です。三代目猿之助(現猿翁)さんの舞台から、本の写真でその仕掛けを知った者としては、嬉しいサプライズでもあります。役柄上は大道具・伊兵衛の勘九郎さんが造ったことになります。

<四の切り>で舞台正面の三階段から狐忠信が現れますが、染五郎さんの弥次さんが吹っ飛んで飛び出してきて大爆笑です。大丈夫です。知っていても笑えますから。ところが、これが笑わせるだけではないんです。この時の役者がどう出てくるかが、重要な謎解きのひとつでもあり、さすが狐忠信役者猿之助さんならではの手が混んだ脚本です。

大詰めで、謎ときのバージョンが観客によって決めます。座元の女房児太郎さんと隼人さんの芳沢綾人の弟子・小歌の弘太郎さんバージョンからの二者択一でした。

書きたいことは沢山ありますが、観てのお楽しみで控えますが、歌舞伎ギャラリーでのトークショーで門之助さんと笑三郎さんのお話を聞きましたのでそこから少し。

門之助さんは竹本の鷲鼻少掾(わしばなしょうじょう)で、笑三郎さんは三味線の若竹緑左衛門の役でして、実際に床に座し語り、弾かれるのです。門之助さんと笑三郎さんの不満なところは、最初はお客さんが観てくれるのですがどうしてもお客さんの目が舞台の正面にもどってしまうことだそうで、わかります。お二人を観ていたいのですが、舞台上ではそう簡単には観れない場面をやっているわけで、どうしても舞台に目がいきます。ただ耳はそばだてていまして、時々、本当にお二人がやっておられるのか確かめはするのです。そんな観客の想いもわかってくださり、実際に語り、弾いてくださいました。見台にはカマキリの紋が入っています。

座元の中車さんが釜桐座衛門でして、昆虫の解説をされるのですが、それが毎日違う解説をされているそうです。洒落かなと思っていまして真面目に聴講していませんで不覚を取りました。

義経と静なら明日やれと言われればできますが、まさかこんなお役がくるとは思わなかったと言われるお二人。しかし、猿之助さんの役の振りあてお見事で、やると聞くとでは大違いと言われつつ、お二人のプロ根性はさすがです。猿翁さん、猿之助さん、巳之助さん、それぞれの狐忠信の間の違いも感じられておられました。

皆さんと一緒にでているのに仲間はずれのようでさみしいとのことでしたので、役者としても観てあげて下さい。

歌舞伎ギャラリーでのトークショー、30分という時間でしたが、中身の濃い充実した楽しい時間でした。

とにかく目と耳を使い切る訓練の必要な演目で、日頃表立って出られない役者さんたちもいてもっと注目したいのですが、残念ながらとらえきれません。シネマ歌舞伎を期待することにしましょう。

こちらも弥次さん喜多さんに刺激を受け、旧東海道歩きのその後を見てきました。三島スカイウォーク・日本一のつり橋です。歩いていた時、何か工事があり旧東海道は歩けず国道一号を迂回することになった場所です。巨大なコンクリートの土台がありなんであろうとぶつぶつ文句を言いつつ歩いたのです。友人と三島スカイウォークの入っているツアーでリベンジです。文句言っていないで、じっくり橋の無かった風景を脳裏に残しておけばよかったと反省。

テレビで紹介されたとかで、添乗員さんも驚く混みよう。一列になっての橋上ウォークは少し興ざめでしたが、よくこういう場所につり橋を作ることを考えて観光にするものだと、その思考と技術に驚きを感じます。この時期は富士山は無理です。見えれば絶景だと思います。

弥次さん喜多さんより高いスカイウォークだと思いましたが、あの二人は花火で打ち上げられてもどってきたのでした。負けです。

 

歌舞伎座八月『刺青奇偶』『玉兎』『団子売』

刺青奇偶(いれずみちょうはん)』は長谷川伸さんの作品で、勘三郎(18代目)さんの半太郎、、玉三郎さんのお仲で観ていますが、今回は玉三郎さんが演出のほうで、七之助さんが玉三郎さんのお仲そっくりで驚いてしまいました。

声の調子、身体の線、しどころなどよくここまで受け継がれるものだと思って観させてもらっていましたが、勘三郎&玉三郎コンビでは無かった涙が、中車&七之助コンビでは、出てしまいました。

七之助さんのお仲には捨て鉢ながらも儚なさがあり、飛び込んだ川から半太郎に助けられ、行くところもなく半太郎という男に賭けてみようという最後にすがるよりどころを見つけた必死さがありました。同じに見えてもそこから出てくるそれぞれの役者さんの色というものがあるのを改めて感じました。

中車さんは、棒杭にもたれて江戸の灯を見るしどころがよく、ゆっくりではあるが一つ一つ身体に叩きこんでおられるなというのがうかがえました。他の歌舞伎役者さん達が小さい頃から見て教えられてきた時間の違いがあるわけで、そのしどころの数は中車さんにとっては大きな山が目の前にそびえているのです。ところが、他の役者さんはさらに先へ進むのですからたまりません。自分の中に少しづつ収めたものを大切にされ進まれてほしいです。

博打しか頭にない半太郎は、死ぬしか先がなかったお仲を助けます。自分の体しか用のない男たちを見て来たお仲にとって半太郎の無償の行為は、かすかな光でもありました。そんな二人が夫婦になりますが、半太郎の博打好きはなおりません。

病身で自分が助からないと悟ったお仲は、半次郎の右腕に刺青をさせてくれと頼むのでした。この場面思いがけず涙でした。お仲は、自分の亡きあと、半次郎が身を滅ぼさないことを願ったのです。ここまでは許すがここからは許さないよというお仲の戒めでした。その間、きっと目を見開いている半太郎。

場面変わって半太郎。ここは勘三郎さんのときは、やはり半太郎にはお仲の想いは通じなかったのかと思わせました。そう思わせてこそのその後の展開となります。あらすじがわっかているためか、中車さんはそう思わせてくれる雰囲気がありませんでした。政五郎親分(染五郎)がでてからの半太郎の台詞は聴かせます。どう語ろうかと工夫に工夫を重ねたであろうという語りで心の内を聴かせます。政五郎にぽっーんと紙入れを投げさせる力がありました。

この雰囲気が魔物でして、勘三郎さんの絵は頭に残っていますし、天切り松の松蔵を見たあとですので中車さんには不利ですが、『吹雪峠』のときよりもずーっと前に進まれています。政五郎の染五郎さんも声の出し方、雰囲気が大きさを見せてくれ、半太郎をしっかり受けておられ、中車さんも幕切れはしっかりきめられました。

玉兎』の勘太郎さん、勘太郎の名前を背負っての一人踊りです。「可愛い!」で終わらせることを拒否しての踊りに挑戦していました。観ていますと、<腕が伸びていない><真っ直ぐ><足がちがう><早い><音をよく聴いて>など、誰かさんの叱咤激励が聞こえてきそうです。でもこうした歌舞伎ならではの五線譜ではない間と流れをつかんでいかなければならないのが歌舞伎役者さんの修業ですから、可愛いらしさを返上しての第一歩、真摯に受け止めさせてもらいました。

団子売』。勘九郎さんと猿之助さんの団子売りの夫婦の仲の良さを見せつけられて、こんなに短かったかしらと思わせられるほどの速さで終わってしまいました。

もっと短いのが『野田版 桜の森の満開の下』の感想です。

いやまいった。まいったなあ。

<『野田版 桜の森の満開の下』贋感想>が書けるかどうか。その前に第二部があります。

 

歌舞伎座七月歌舞伎(2)

駄右衛門花御所異聞(だえもんはなのごしょいぶん)』の日本駄右衛門は単なる盗賊ではなく天下取りまでねらいます。それを押さえるために<秋葉権現>の怨霊が現れ、その秋葉大権現の使わしめである白孤が 勸玄さんの役です。

海老蔵さんは、日本駄右衛門、玉島幸兵衛、秋葉大権現の三役です。駄右衛門は天下取りのための足がかりとしてねらうのが遠州月本家で、その月本家の家老・玉島逸当の弟が玉島幸兵衛です。この幸兵衛は女のためにお家のお金に手を出し月本家を出ています。

この幸兵衛が駄右衛門に傷を負わせます。これが重要なポイントで、その場面が駄衛門と幸兵衛二役の海老蔵さんの早変わりなのですが、早変わりの回数が多すぎと思いました。その傷が悪化して駄右衛門はピンチとなり、そのピンチを救うために二幕目で大きな展開があります。ですので、海老蔵さんが二役だなということと駄右衛門が傷を負ったというところを強調すればよいと思います。

駄右衛門は、月本家の家宝で将軍家へ献上の古今集を盗みます。これが月本家のお家騒動の原因となりますが、さらに月本家の内部に協力者である月本祐明を手なずけています。月本家当主・月本円秋は古今集紛失の責任をとり切腹をして責任をとる覚悟ですが、そこで遅かりし由良之助と同じような場面を入れたのには驚きでした。そこへ駆けつけた家老・玉島逸当のとった行動が重要でこのことこそ丁寧に描いたほうが重みがでたと思いますが、いとも簡単に終わってしまいました。ただ家老が妻の松ヶ枝に弟・幸兵衛へと託した秋葉権現の御影のことがはっきりわかったのはよかったです。二幕目でこの御影が重要な役割をしますから。あれだったのかとわかりこの謎ときも、二幕目の面白さになります。

余計なパロディみたいな場面よりも駄衛門と月本家の対峙に厚みを加えてほしかったです。それによって駄右衛門の大きさがでます。駄右衛門は策略家で、利用していた月本祐明も用済みと消してしまいます。さらに駄右衛門は、月本家伝来の秋葉権現の功力を宿す三尺棒も盗んでいたのです。

二幕目は、駄右衛門の子分であるお才の開いているお茶屋が舞台となり、ここで幸兵衛、月本家を追いだされた円秋の弟・始之助と元傾城花月、松ヶ枝、駄右衛門の子分の早飛、お才の兄貴で駄右衛門の子分になろうとしている長六、長六を慕う寺小姓采女が上手く繋がりをもって動き、面白い展開となります。そして二幕めの最後が、秋葉大権現が登場し使わしめの白狐を呼び出し、駄右衛門を降伏させるため飛び立つのです。

「はーい」といって花道からでた白狐は七三で「御前に」といったのかな。拍手でよく聞き取れませんでした。そのあと天狗にひょい、ひょい、と移動させられ秋葉大権現の横に並び消えます。天狗のバク転などを見せ時間調整をして宙乗りの準備です。時間は充分とられています。そして海老蔵さんに 勸玄さんは抱きかかえられる感じで宙乗りとなり海老蔵さんのにらみがあります。ゆっくり静かに同じペースで上がっていきます。このペースが無事維持されますように。 勸玄さんは慣れてきたのでしょう。観客に両手を振っています。二幕目ラストを盛り上げます。

白狐はこのペースが保たれれば体調良好なら千穐楽まで飛ばれることでしょう。お客様のためにも頑張ってくださいな。

三幕目では、題名に<花御所>とあるように、天下人東山義政のもとに駄右衛門が現れ、天下を手中に入れようとしていることがわかります。ここで三尺棒の功力が発揮されます。駄右衛門が天下取りのために月本家をまずねらった理由もわかります。

よく話としては出来ています。もう少し整理して、役者さんの表現力が加わればもっと面白くなるとおもいます。亀鶴さんは出場は一瞬ですが、奴の形になっています。児太郎さんは上方で修業したのでしょうか。どこをとっても形がよく、駄右衛門の手下であるというところを明かすところは、福助さんなら濃く演じるところですが、児太郎さんは味は薄くてもさらっと粋にし、幸兵衛との絡みにも情をだしました。

映画『娘道成寺 蛇炎の恋』がやっとレンタルできましたのでこれから見ます。楽しみです。

新作に等しい作品を上演する場合は、歌舞伎であっても練習時間がもっと必要なのではないでしょうか。数日で仕上げるられる歌舞伎の凄さは演目によっては変えていかなければならない時期にきているのではという想いを近頃感じている次第です。

 

月本円秋(右團次)、月本祐明(男女蔵)、奴浪平(亀鶴)、月本始之助(巳之助)、傾城花月(新悟)、寺小姓采女(廣松)、奴のお才・三津姫(児太郎)、駄右衛門子分早飛(弘太郎)長八(九團次)、逸当妻松ヶ枝(笑三郎)、馬淵十太夫(市蔵)、東山義政(斎入)、玉島逸当・細川勝元(中車)

 

旧東海道の見付宿の見性寺に日本左衛門のお墓があります。東海道五十三次どまん中<袋井宿>から<浜松宿>

静岡県には東海道53宿のうち22宿があり、静岡を抜けるのが長かったです。別の東海道歩きの仲間がやっと静岡を抜けれたと言っていました。わかります、実感です。

追記: 七月歌舞伎も無事千穐楽を迎えたようです。 勸玄さん、立派に舞台を勤めあげられ小さくて大きな一歩にあらためて拍手です。ずーっと先のことでしょうが、海老蔵さんとお子さん二人がこの時のことを語り合う日が来ることでしょう。それまでまだ沢山の涙が必要でしょうが。その親子だけの語らいは成田屋海老蔵夫人の麻央さんが残された宝物の一つでもあると思います。誰も手に入れることの出来ない宝物。(合掌)

 

歌舞伎座七月歌舞伎(1)

昼の部と夜の部両方に出られているかたが多いのですが、その中で、昼の部は良いのだが夜の部はちょっと賛同できないという方もあって、演目で書こうか役者さんで書こうか迷う所です。

今月は海老蔵さんが大奮闘されているので、海老蔵さんのことから始めて何とか収拾することにしてみます。海老蔵さんの一押しは『連獅子』です。狂言師右近と左近が出て来て舞台正面になり、左足の白い足袋の先がすっと前に出て足が伸び、右手に手獅子を携えてのきまりまでの間の良さと姿は例えようもない美しさでした。好い形です。

この連獅子は亡き海老蔵夫人と三津五郎さんに観て貰いたかったです。もちろん海老蔵夫人には親子の宙乗りが一番でしょうが、役者海老蔵さんの今の美しさの極みではないかと思える出来でした。そして左近の巳之助さんに対しては三津五郎さんがどこをどう駄目だしするのか聞きたかったです。子獅子を崖下へ落としたあとの親獅子の心持ちが、憂愁さを含ませながらの静かさが心に響きました。

僧蓮念の男女蔵さんと僧遍念さんの市蔵さんコンビもそこはかとない笑いをさそい、観ている者の心持を緩めてくれる度合いが良い具合でした。ところが夜の部での悪役の男女蔵さんはよくなかったです。

右團次さんは、『矢の根』の曽我五郎をされましたが、動きは決まっていたのですが、曽我五郎、春木町巳之助、月本円秋と全て台詞回しが同じでそれぞれの役が生きず残念でした。曽我十郎の笑也さんが女形のときの声と言い回しを捨てて十郎にしていたので出は少なくても夢の中の十郎しっかり印象づけました。弘太郎さんが荒事のなかでユーモアを加味し、馬の動きが上手です。

加賀鳶』の花道でのツラネは、若手から市蔵さん、権十郎さん、秀調さん、團蔵さん、左團次さんと続くとやはり味わいが違い、修業者から熟練者への違いが出ていて聴いていて面白かったです。先輩の役者さん達はこれだけの出演のかたもいてもったいなかったです。

中車さんの松蔵は、お店での海老蔵さんの道玄とのやり取りが貫録もあり、余裕をもって道玄を締めあげてゆき、歌舞伎の台詞術でここまでこられたかと面白く観させてもらいいました。しかし、玉島逸当、細川勝元となりますと、歌舞伎に入られての時間の短さを感じさせられてしまします。

海老蔵さんの道玄は御茶ノ水ので癪を起こす百姓の辰緑さんと出逢いが最初から悪役になっているのが気になりました。百姓がお金持っていると気がついてから悪を見せるほうが観客には面白いです。道玄と手を結んで悪巧みを手伝う按摩のお兼の右之助さんは二代目齋入を襲名されました。小柄な方で押し出しが優しいかたですが、道玄の悪事の共謀者として丁寧に演じられておられました。海老蔵さんも初役だそうですがかなりスムーズな芝居運びで、非情なところと、悪事がばれると下手にでる狡さを可笑しさまで持って行かれてました。

捕手との立ち廻りも首の動かしかた、腰の使い方が柔軟で道玄の人物像を見せつつ愉しませてさせてくれます。

お朝の児太郎さんが、身体を小さくして哀れさがよく出ていました。児太郎さんはお才といい今月は大躍進です。笑三郎さんは役者さんとして場を持つ役者さんとして信頼している方の一人ですので、道玄の女房と逸当妻松ヶ枝と押さえてくれました。

昼の部の満足度が高く、夜の部の『駄右衛門花御所異聞』での、一幕目が退屈で締まりがなく、どうなるのであろうかと二幕目に突入してやっと面白くなり助かりました。

6月国立劇場にて

時間があれば映画を見ていて、腰痛になりそうで、さらに、題名を見てもどんな内容だったかすぐに全体像が浮かばない状態でもあります。そんな中記録しておかなくてはと、6月の国立劇場での鑑賞をダイジェスト版で。書く前から残念だったのは、6月民俗芸能公演「高千穂の夜神楽」のチケットを取り忘れたことです。気がついた時には遅かりし由良之助でした。

気を治して『日本音楽の流れⅠ 箏 koto』は敷居が高いかなと身構えたのですが、というより二列目で睡魔がおそったらどうしようと心配だったのですが、解説があり奏者の手をバックのスクリーンで大きくして見せてくれましたので、音は変化に富み美しく、手は優雅であったり激しかったりで堪能させてもらいました。

お箏の音をこんなに沢山楽しんだのは初めてでした。お箏の歴史から、「御神楽」「雅楽」そして近世初期の<筑紫箏曲><八橋流箏曲><琉球箏曲>の三つの箏曲の紹介があり、お箏の形態の違い、奏法の特色などをスクリーンの手を見つつ音を追い駈けました。<生田流><山田流>の演奏、さらに、<京極流箏曲>(明治末)<十七絃>(大正)三十絃(戦後)の紹介、最後は現代曲「過現反射音形調子(かげんはんしゃおんけいちょうし)」の演奏でした。

この現代曲は、箏の楽器の流れ、瑟(しつ・二十五絃)、唐箏(からごと・十三絃)、箏(こと・十三絃)、二十五絃箏(二十五絃)のための曲で、その流れの音は頭の中から消えてしまいましたが、奏者の姿が残っています。

解説は、野川美穂子(東京藝術大学講師)さんで、納得できる解説で箏初心者には大変楽しく興味をもって聞くことが出来ました。眠るどころではなく、この音が消えていくのが悲しいと思いました。

たらららら、ばんばん、ひゅーなどと、曲を作られた方は色々試してその組み合わせを考えたのでしょう。今度どこかでお箏に出会ったときは、前より親しみをもって聞くことができるでしょう。良い企画でした。

今度は三味線のほうで、清元節の名手で人間国宝であられた清元栄寿郎さんが亡くなられてできた清栄会が解散されるため、『清栄会のさよなら公演』でした。全くの部外者ですが、出演される方の中に実際にお聴きした方々の名前が複数ありましたので聴かせていただき見させていただきました。

栄寿郎さんが作曲した曲、「雪月花」「たけくらべ」「月」、そのほか、清元「北州」、地歌「曲ねずみ」、宮薗節「鳥辺山」、新内節「明烏夢泡雪」、女流義太夫「道行旅路の嫁入」、常磐津節「釣女」とそれぞれの分野のそうそうたる方々の演奏と声を聴かせていただき舞いも見させいただきました。

三味線のほうが、箏より歌舞伎などでも聴きなれていますが、演奏だけとなりますと、歌舞伎と違ってやはり音、声、詞に集中しますので時にはこうした中に自分を置いてみて味わうのもいいものであるとあらためて感じました。(司会・平野啓子、演目解説・竹内道敬)

最後は歌舞伎で、『歌舞伎鑑賞教室 毛抜』です。例によりまして「歌舞伎のみかた」の解説がありました。今回は中村隼人さんでした。この観劇前に東劇でシネマ歌舞伎『東海道中膝栗毛』を見ていましたので、黒子さんが出てくると、何かしでかすのではないかとのトラウマに囚われているせいか、いつ弥次さん喜多さんになるのかと思ったりして心の中で苦笑いしていました。

隼人さん、爽やかに解説され、立ち廻りりと毛振りもされました。一部分携帯、スマホからの写真O・Kで舞台から降りられて写真どうぞでしたので、女学生の黄色い悲鳴があがり、ここは国立劇場なのであろうかと弥次さん喜多さんも真っ青状態となる場面もありました。

『歌舞伎十八番のうち 毛抜』となっていまして歌舞伎十八番は市川宗家のお家芸として選定したもので荒事ですがとの説明もされていましたが、学生さん達にわかったかどうか。歌舞伎は『ワンピース』もやりますのでの言葉には速攻の凄い反響でした。何とかして若い人に歌舞伎に興味を持って貰いたいとの想いが素直にでていました。解説パンフも配られていますので、黄色いお声の若い方も隼人さんを思い出しつつ帰宅後読んでくれるといいのですが。

歌舞伎十八番を選定したのは七代目團十郎さんで、今回の粂寺弾正(くめでらだんじょう)は錦之助さんが演じられ、愛嬌のある、今でいえば結構オタク的な弾正を思い起こしました。もしかすると、ちょっと変わったタイプの人物で、周りがあいつちょっと変っているから、もしかすると上手く解決するかもしれないから、あいつに行かせようと言ったのではないかと想像してしまいました。

お家のためにと悲壮感をもってというタイプでは全然なく、若衆や腰元によろよろっとして困った御人ですが、突然疑問があると考えるんですね。錦之助さんの弾正、現代人の感覚をタイムスリップさせたような弾正で面白いなとおもって観ました。

橘三郎さん、秀調さん、友右衛門さんが脇を固められ、その他が若い面々ですが、皆さん歌舞伎の動きが身についてこられ、隼人さんなど、やはり大星力弥を勤めた経験が大きいと実感します。

孝太郎さんの止めには、秀太郎さんのような気迫が映って見え中堅どころを着々と修業されています。悪役の廣太郎さんはまだもう少しかなと思えましたが、父・玄蕃の彦三郎さんがきっちりした悪役なので悪役親子として引き立ちました。

尾上右近さんの若殿は平安時代風の少しなよっとしていて、梅丸さんは可愛いさいっぱいでした。

今月も歌舞伎鑑賞教室があり、先月の学生さんの中で、もう一回歌舞伎観て観ようかなと来てくれるといいですね。お若いの、お安い席もありますから国立劇場へ涼みにいかれてはいかがでしょうか。

 

音楽劇『マリウス』と前進座『裏長屋騒動記』

3月日生劇場での音楽劇『マリウス』は、映画監督山田洋次さんが脚本・演出で、5月国立劇場での前進座『裏長屋騒動記』は、脚本が山田洋次監督で演出が小野文隆さんでした。

『マリウス』(「マリウス」「ファニー」より)は原作がフランスのマルセル・パニョルで、日本映画としては日本を舞台として山本嘉次郎監督の『春の戯れ』、山田洋次監督の『愛の讃歌』があります。

あらすじとしては、フランスの港町のマルセーユで恋仲のマリウス(今井翼)とファーニー(瀧本美織)が将来を約束しますが、マリウスは船乗りになる夢が捨てがたく、マリウスの気持ちを尊重してファニーは彼を後押しして海に出してしまうのです。ファーニーはマリウスの子どもを身ごもっていて、マリウスが数年してもどったときにその事実を知りますが、ファニーは、お金持ちの商人・パニス(林家正蔵)と結婚していました。

マリウスは自分の子どもであると主張しますが、その時マリウスの父・セザール(柄本明)がマリウスにいう言葉が心に沁みます。「あの赤ん坊は生まれたときは4キロだった。今、9キロもある。その5キロがなんだかお前にわかるか。情愛ってやつだ。その5きろのうち情愛を一番たくさんやってるのがパニスだ。」

ここにきて、セザールの柄本明さんが、この台詞で全部持って行かれた感じでした。それに負けじと最後は今井翼さんが、『男はつらいよ』のテーマソングから始まるフラメンコを披露してくれました。新橋演舞場での『GOEMON 石川五右衛門』のときよりもフラメンコの腕が上がっていました。

フラメンコは盛り上がりましたが、音楽劇のためか、港町の様子の人物設定などはよく作られたと思いますが、セザールが経営しているカフェでの人々の動きに物足りなさを感じさせられ、そのあたりが残念でした。

映画『春の戯れ』(1949年)は、高峰秀子さんと宇野重吉さんの共演とあって数年前に観たので記憶が薄れていますが、場所は明治の始めの品川で、初めのほうの、宇野重吉さんのマドロスには違和感があり、後半は高峰さんがしっかりした奥さんになっており、二人が再会しての高峰さんと宇野さんの台詞のやり取りにはさすが聞かせてくれますという場面でした。その程度の記憶でしたので、『マリウス』と『春の戯れ』が同じ原作と知り、あの違和感は日本の設定にしたということのように思えました。

映画『愛の讃歌』(1967年)のほうは、舞台と違いカメラが動いてくれますから、設定場所も自在に動いてくれます。場所は瀬戸内海の港町で伴淳三郎さんの食堂を手伝いながら小さい妹を育てるのが親のいない倍償千恵子さんで、恋人役が中山仁さんです。この食堂に集まるのが、個性派の千秋実さん、太宰久雄さん、渡辺篤さん、左卜全さんと医者の有島一郎さんたちです。

海からもどってきた息子は事実を知って父の伴淳さんと対立して飛び出し、その後父親は亡くなってしまいます。倍償さん親子と妹を預かっていた有島さんは、倍賞さんに居場所のわかった中山さんのところへ行くように勧め、見守っていた食堂の仲間たちは、港から倍償さんと子供を見送ります。亡き伴淳さんの親心に対し有島さんがこれでいいだろうというところが、この映画の心でもあります。

港の人々の生活感や心情などからしますと、映画『愛の讃歌』が一番若い二人を支える心情がしっくりくる作品となりました。

前進座と山田洋次監督のコラボ『裏長屋騒動記』は、落語の「らくだ」と「井戸の茶碗」を合わせての喜劇そのものとなりました。裏長屋に嫌われ者の<らくだの馬>と「井戸の茶碗」の<浪人朴斎とお文の父娘>を隣同士に住まわせるという設定がよかったですね。突然らくだが朴斎の家にフグを料理するために庖丁を借りに来たのには驚きと笑いでした。別の噺の登場人物がお隣さん同士なのです。考えてみればありえますよね。

この噺とお隣さん同士をつなぐのが、くず屋の久六です。自然に行き来できる人物で大活躍です。

それを取り巻く長屋の住人。井戸端と共同便所。これで、裏長屋で二つの噺が展開できます。落語では、らくだは嫌われものであったということですが、芝居では嫌われ者のらくだの馬が登場して、亡くなっても長屋の人々はホッとするのがよくわかります。

馬の兄貴分の緋鯉の半次がこれまた強面のごり押しの人物ですから長屋の人もさっさと帰ってしまい、そこからは半次とくず屋と大家と死人の馬とのやり取りですが、これはよく知られているのではぶきます。

朴斎は元武士ですから考えが硬いのです。くず屋は朴斎から買った仏像を高木作左衛門に売りますが、その仏像から50両でてきます。作左衛門はお金は受け取れないとし、朴斎も受け取れないとくず屋は行ったり来たりあたふたです。生真面目な売り手買い手と、とんでもないキャラの作左衛門の藩主赤井剛正が登場したりしますが、お文は作左衛門とめでたく結ばれ、長屋から木遣りのなか嫁入りとなります。

笑い満載の『裏長屋騒動記』でした。お芝居の基本がしっかりしていて、それを膨らます役者さんの芸もそろい、気持ちのよい笑いを楽しむことができました。前進座の大喜劇作品が一つ加わりました。

くず屋久六(嵐芳三郎)、緋鯉の半次(藤川矢之助)、らくだの馬(清雁寺繁盛)、朴斎(武井茂)、お文(今井鞠子)、高木作左衛門(忠村臣弥)、赤井綱正(河原崎國太郎)

先代の國太郎さんが出演している『男はつらいよ』12作「私の寅さん」は、旅に明け暮れる寅さんが、おいちゃん夫婦と博・さくら一家が九州に旅行に行ったため留守番をするという逆パターンの作品で、寅さんは自分が心配しているのに電話をしてこないと怒ります。そこから自分がいつも心配されていることには一向に気がつかないという寅さんらしさが可笑しいのです。

マドンナの岸恵子さんが売れない絵描きで、その恩師が國太郎さんで、出は少ないですが、岸さんが想いを寄せていた人が他の人と結婚することをさりげなく告げるという重要な役どころです。岸さんのコートの裏があざやかな緋色なのも印象的な作品です。

前進座が創立80周年記念作品として上演された『秋葉権現廻船噺』は観ていないのですが、日本駄右衛門が主人公で七世市川團十郎も演じています。7月歌舞伎座は海老蔵さんが通し狂言『駄衛門花御所異聞』で演じられます。楽しみですが、海老蔵さん飛ばし過ぎのときがありますから、しっかりとした作品に仕上げられることを期待しております。